☆「3・11」漁業の町・気仙沼 あれから12年
2011年の「3・11」の日には、この被災地で見た光景を思い出してしまう。2ヵ月後の5月11日に宮城県気仙沼市を調査に訪れた。当時、街には海水の饐(す)えたような、腐海の匂いが立ち込めていた。ガレキは路肩に整理されていたので歩くことはできた。市役所にほど近い公園では、数多くの大漁旗を掲げた慰霊祭が営まれていた=写真・上=。
気仙沼は漁師町。津波で漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていた。その大漁旗を市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭で掲げた。この日は曇天だったが、色とりどりの大漁旗は大空に映えていた。その旗には「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものが数枚あった。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。「14時46分」に黙とうが始まり、一瞬の静けさの中で、祈る人々、すすり泣く人々の姿は今でも忘れられない。
岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船(330㌧)があった=写真・下=。津波のすさまじさを思い知らされた。2015年2月10日、気仙沼を再び訪れた。4年前に訪れた市内の同じ場所に立ってみた。巻き網漁船はすでに解体されていた。が、震災から2ヵ月後に見た街並みの記憶とそう違わなかった。当時でも街のあちこちでガレキの処理が行われていた。テレビを視聴していて復興が随分と進んでいるとのイメージを抱いていたが、現地を眺めて愕然としたことを覚えている。
では、震災から11年の漁業の町・気仙沼の現状はどうか。水産庁の2021年統計によると、水揚げ数量は7.5万㌧と、全国ランクでは鳥取県境港に次いで7位となっている。カツオの水揚げは日本一を誇る。ただ、震災直前、7万4千人だった気仙沼市。死者・行方不明者は1433人を数え、人口は現在5万8千人に減った。人口減少は日本全体の課題でもある。気仙沼で行政や漁業関係者、NPO法人の方たちと話をして感じたことは、漁業を中心に地域の一体感がある町との印象だった。ネットニュースをチェックすると、気仙沼では廃棄された漁網のリサイクルが進んでいる。「持続可能な漁業の町づくり」を実現してほしい。あの大漁旗を思い出して願う。
⇒11日(土)午前・金沢の天気 はれ