★「1・17」から28年 地震被災地を訪ね何思う
ちょうど28年前の1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災は震度7だった。金沢の自宅で睡眠中だったが、グラグラと揺れたので飛び起きた。テレビをつけると大変なことになっていた。当時民放テレビ局の報道デスクだったので、着の身着のまま急いで出勤した。系列局のABC朝日放送(大阪)に記者とカメラマンの2人を応援に出すことを決め、応援チームは社有車で現地にかけつけた。取材チームの無事を祈り見送ったものの、日本の安全神話が崩壊したと無念さを感じたことを覚えている。金沢は震度3だった。
そのことが身近で現実になったのは12年後、2007年3月25日午前9時41分に起きた能登半島地震だった。マグニチュード6.9、震度6強の揺れで、輪島市や七尾市、輪島市、穴水町で家屋2400棟余りが全半壊し、死者1人、重軽傷者は330人だった。当時は金沢大学に転職していたので、大学の有志と被災調査に入り、その後、学生たちを連れて被害が大きかった輪島市門前地区=写真・上=を中心に高齢者世帯を訪れ、散乱する家屋内の片づけのボランティアに入った。
この能登半島地震がきっかけで全国の被災地を訪れ、取材をするようなった。同じ年の7月16日、新潟県中越沖地震(震度6強)が発生した。取材の目的は、柏崎市のコミュニティー放送「FMピッカラ」のスタッフに話を聞くことだった。通常のピッカラの生放送は平日およそ9時間だが、災害発生時から24時間の生放送に切り替え、41日間続けた。同市では75ヵ所、およそ6000人が避難所生活を余儀なくされた。このため、被災者が当面最も必要とする炊き出し時刻、物資の支給先、仮設の風呂の場所、開店店舗の情報などライフライン情報を中心に4人のパーソナリティーが交代で流し続けた。そして、「聞き慣れた声が被災者に安心感を与える」とのコンセンプトで続けた。被災地で地域メディアの果たす役割について考えさせられた。
2011年3月11日の東日本大震災の後、気仙沼市を調査取材に訪れた。当時、気仙沼の街には海水の饐(す)えたような、腐海の匂いが立ち込めていた。ガレキは路肩に整理されていたので歩くことはできた。岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船(330㌧)があった。津波のすさまじさを思い知らされた。
気仙沼は漁師町。市役所にほど近い公園では、数多くの大漁旗を掲げた慰霊祭が営まれていた。津波で漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていた。その大漁旗を市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭で掲げた。その旗には「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものが数枚あった=写真・中=。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。「午後2時46分」に黙とうが始まり、一瞬の静けさの中で祈る人々、すすり泣く人々の姿は今も忘れられない。
2016年4月16日の熊本地震。震度7の揺れに2度も見舞われ、震度4以上の余震が115回も起きた。震災から半年後に熊本市と隣接の益城町の被災現場を訪ねた。かろうじて「一本足の石垣」で支えられた熊本城の「飯田丸五階櫓(やぐら)」を見に行った。ところが、石垣が崩れるなどの恐れから城の大部分は立ち入り禁止区域になってい
て、見学することはできなかった。櫓の重さは35㌧で、震災後しばらくはその半分の重量を一本足の石垣が支えていた=写真・下、熊本市役所公式ホームページより=。まさに「奇跡の一本石垣」だった。熊本城の周囲をぐるりと一周したが、飯田丸五階櫓だけでなく、あちこちの石垣が崩れ、櫓がいまにも崩れそうになっていた。
崩れた10万個にもおよぶ石垣を元に戻す作業は時間がかかる。飯田丸五階櫓もようやく石垣部分の積み直しが終わったものの、復旧工事は2037年度まで続く(熊本市役所公式ホームページ)。名城の復旧には時間がかかる。
⇒17日(火)夜・金沢の天気 くもり時々あめ
客席の気分がさらに盛り上がるものだが、確かにブラボーを叫べば前方につばが飛ぶだろう。今後、コロナ禍が沈静化しても、ブラボーは復活しないかもしれない。
「礼拝ではサタンや天国地獄を使って脅す教育を受けます。私は18歳の頃、統一教会の公職者からセクハラを受け、その理由はあなたに悪霊がついているからだと言われて韓国の清平に除霊をしに行きますが、そこで精神崩壊する信者さんたちを複数見て自分も精神が崩壊して精神疾患を負い、精神病棟に入院しました。退院後も、うつ症状とパニックを起こして救急車で複数回運ばれました。またもう一度入院もしました。そんな中、両親は協会活動を平然と続け、当時体調を崩し引きこもっていた私のことを家にお金も入れないでいつになったら働いてくれるのかと、お金のアテにしか思われていなかったことを知り、限界を感じ、家を出た後に脱会しました」
奈良市の大和西大寺駅前の交差点で安倍氏は候補者とともに立っていた。この場所はガードレールに囲まれていて、警視庁のSP1人を含む4人の警察官が警備にあたっていた。SPは安倍氏を見ながら、前方の大勢の聴衆を警戒していた。2人の警察官は安倍氏の目線と同じ方向にいる聴衆を警戒していた。つまり、傍らにいた3人が会場前方を中心に警備していたことになる。そしてもう1人の警察官は主に安倍氏の後方の警戒にあたっていた。
寒々しいニュースが続く中、「雪中四友」のような心がほんわかとするニュースもある。大阪・ミナミを流れる道頓堀川に絶滅危惧種のニホンウナギが生息していることがわかった。府立環境農林水産総合研究所などが去年11月、はえ縄などウナギを捕まえるための仕掛けを設置し、体長30㌢から60㌢ほどの11匹を見つけた。ニホンウナギは肉食で、ミミズやザリガニなど様々なものを食べるので、水質が改善されてニホンウナギが生きていける生態系が道頓堀川の中で成り立っているということになる。同川での学術調査による正式な捕獲記録としては初めてという(今月10日付・朝日新聞Web版)。道頓堀のニホンウナギ。新たな観光名所に。
共同通信Web版(12日付)によると、インターネットの動画投稿サイトで複数の著名人を中傷、脅迫するなどしたとして、警視庁は11日、暴力行為法違反(常習的脅迫)や名誉毀損、威力業務妨害などの疑いで、NHK党のガーシー(本名・東谷義和)参院議員の関係先を家宅捜索した。ガーシー氏は去年7月10日の参院選でNHK党から全国比例区で立候補して初当選したが、アラブ首長国連邦のドバイなどに滞在して国会に登院していない。(※写真は参院本会議場)
カレーは能登牛を入れた能登牛カレー。牛の食味を引き立てるため、辛さは普通で控えめ。ごはんは加賀産コシヒカリで、その上に能登牛カレーをかけた。能登と加賀の郷土料理のような雰囲気だ。さらに、トッピングで乗せたのは『そらなっとう』だ=写真・上=。
く、豆の風味もあり好評だった。その後、『そらなっとう』として商品化された=写真・中=。JALの機内食にも採用されたことで一躍知られるようになった。
ついでに食感の話題をもう一つ。金沢のイタリンア料理の店に入って初めて、「香箱がにパスタ」というメニューを見た。通常のパスタに比べ1200円も高い。思い切って注文する。クリームパスタに北陸の海などで獲れる香箱ガニ(ズワイガニの雌)の身をトッピングしたものだ。とくに、香箱ガニの外子(卵)と甲羅の中にある内子(未熟成卵)、そしてカニみそ(内臓)がパスタ全体の食感を高める。それに白ワインを注文する。深く趣きのある味わいだった。
その火様を今でも守っているお宅があることを聞いたのは10年前のこと。2014年8月、教えていただいた方に連れられてお宅を訪れた。能登半島の中ほどにある七尾市中島町河内の集落。かつて林業が盛んだった集落で、里山の風景が広がる。訪れたお宅の居間の大きな囲炉裏には、300年余り受け継がれてきたという火様があった。囲炉裏の真ん中に炭火があり、その一部が赤く燃えていた=写真=。訪れたのは夕方だったので、これから灰を被せるところだった。この集落でも火様を守っているのはこの一軒だけになったとのことだった。このお宅の火様を守っているのは、一人暮らしのお年寄りだった。
アルツハイマー病は、脳内に異常なタンパク質「アミロイドβ 」が蓄積することで神経細胞が傷つき、記憶力や判断力などが低下するとされる。これまでの治療薬は症状の一時的な改善を促すものだが、レカネマブは脳内のアミロイドβ そのものを除去することで病気の進行を長期的に遅らせる。治療薬の効果が表れるのは軽度認知障害の段階での投薬で、早期または後期段階での治療開始に関する安全性と有効性に関するデータは取っていない。2週間に1回、体重に応じた点滴を施すことになる。価格は、体重75㌔の患者に換算して1人当たり年間2万6500㌦ (1㌦132円換算で350万円)と設定している(エーザイ公式サイト)。
以下は日本海側に住む一人としての希望だ。対岸国の不法投棄をどう解決すればよいか、そうした条約の枠組みも併せてつくってほしい。たとえば、「地中海の汚染対策条約」とも呼ばれるバルセロナ条約は21ヵ国とEUが締約国として1978年に発効している。日本海にも沿岸各国との汚染対策条約が必要ではないだろうか。
った。沿岸に流れ着くのはポリタンクだけではない。