★祖母、母から聞いた話
私の祖母はとても「朝鮮漬け」が上手だった。ユズなども入れていて、いま思えば売り物になるレベルではなかったかと思う。尋ねたことがある、どこでキムチをつくることを教わったのか、と。戦前、祖先は能登半島でトンネル工事の請負をしていた。作業員の中には朝鮮半島からきた出稼ぎ者たちがいて、その日の作業が終ると毎晩のように宴会があり、キムチを所望された。祖母の若いときで、作業員からつくり方を聞いてつくった。工夫を重ねて何とか朝鮮の人に食べてもらえるようになったと話していたことを覚えている。
先月30日、朝鮮半島から内地に動員された元「徴用工」といわれる人たちが、日本企業を相手取って損害賠償を求めていた裁判で、韓国の最高裁は賠償を命じる判決を言い渡した。これに対して、日本政府は1965年の日韓請求権ならびに経済協力協定で、請求権問題の「完全かつ最終的な解決」を定めているので、韓国の最高裁が日本企業に対する個人の請求権行使を可能としたことは、「国際法に照らしてありえない判断」(安倍総理)と強く批判している。
「徴用工」は強制的に労働をさせられたいう意味合いでくくられているが、果たして実態はどうだったのか。冒頭で述べたが、出稼ぎで日本にやって来た人たちなのか、本人の意思に反して強制的に連れて来られたのか。いまのままでは、戦前に日本で働いた朝鮮半島からの労働者はすべて「徴用工」であり、受け入れ企業すべてが賠償請求の対象になる。安倍総理は今月1日の衆院予算委員会で、韓国の裁判の原告となった元工員4人について、「徴用工」という表現ではなく「旧朝鮮半島出身の労働者」で、4人はいずれも「募集」に応じたものだと述べている。素直に解釈すれば「出稼ぎ」である。国会で総理がそう述べたのはエビデンス(証拠、根拠、証言など)があってのことだろう。
だったらそのエビデンスを日本国民の前に開示してほしい、と思う。国家総動員法に基づく朝鮮半島での戦時労働動員は、1939-41年は企業が朝鮮に渡り、実施した「募集」、1942-44年9月までは朝鮮総督府が各市・郡などに動員数を割り当て、行政の責任で企業に引き渡した「斡旋」、1939年の国民徴用令に基づき、1944年9月-45年3月ごろまで発動した「徴用」の3つがあった。いずれにしても、賃金が支払われていたのであれば出稼ぎだろう。言葉の乱用は避けてほしい。
私の母親は戦時中、女子挺身隊として三重県鈴鹿市の軍需工場で働いていたことを話してくれたことがある。仕事の内容は覚えていないが、給料も出て、帰省時には金沢のデパートで買い物をして能登に帰ったと聞いた。女子挺身隊と聞けば、無給の労働をイメージするが、そうではなかった。戦時下、おそらくささやかな給与だったと想像する。日本での労働がすべて強制的であり、賃金はなかったという韓国の判決が正しいとすれば、日本人と朝鮮人に差別待遇があったと解釈すべきなのだろうか。雇いと強制労働はまったく違う。そのことを、政府は日本国民に開示してほしい。
⇒10日(土)午後・金沢の天気 くもり時々はれ、一時あめ