★3・11 あれから7年
「3・11」、私はその時、大学で社会人向けの公開講座で講義をしていた。「東北にでかい地震が起きて、津波も来るらしい」と事務スタッフが講義室に入ってきて、耳打ちしてくれた。講義を中断して、受講生にその旨を伝えると騒然となった。講義を早めに切り上げた。自身も震災のことが気になって仕方がなかったからだ。
その脳裏にあったのは前年(2010年8月)、「能登里山マイスター」養成プログラムの講義に能登に来ていただいた畠山重篤氏(気仙沼市)のことだった。講義のテーマは、「森は海の恋人運動」だった。畠山氏らカキの養殖業者は気仙沼湾に注ぐ大川の上流で植林活動を1989年から20年余り続け、約5万本の広葉樹(40種類)を植えた。この川ではウナギの数が増え、ウナギが産卵する海になり、「豊饒な海が戻ってきた」と畠山氏はうれしそうに話していた。畠山氏らが心血を注いで再生に取り組んだ気仙沼の湾が「火の海」になった。心が痛む。畠山氏らの無事を願っていた。
ちょうど2ヵ月後の5月11日から3日間、宮城県の仙台市と気仙沼市を中心に取材した。震災から2ヵ月にあたりということで、各地で亡くなった人たちを弔う慰霊の行事が営まれていた。気仙沼市役所にほど近い公園では、大漁旗を掲げた慰霊祭があった。大漁旗は港町・気仙沼のシンボルといわれる。震災では漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていたものを市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭に掲げられた。この日は曇天だったが、色とりどりの大漁旗旗は大空に映えた。
その旗をよく見ると、「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものも数枚あった=写真=。おそらく、市民有志がこの大漁旗の持ち主と話し合いの上で「祈 大漁」としたのであろう。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。持ち主のそんな気持ちが伝わってきた。午後2時46分に黙とうが始まった。一瞬の静けさの中で、祈る人々のさまざま思いが交錯したに違いない。被災者ではない自分自身は周囲の様子を眺めそう思いやるしかなかった。
公園から港方向に緩い坂を下り、カーブを曲がると焼野原の光景が広がっていた。気仙沼は震災と津波、そして火災に見舞われた。漁船が焼け、町が燃え、津波に洗われガレキと化した街だった。リアス式海岸の入り江であったため、勢いを増した津波が石油タンクを流し、数百トンものトロール漁船をも陸に押し上げた。以前見た関東大震災の写真とそっくりだ。「天変地異」という言葉が脳裏をよぎった。
畠山氏とアポイントを取らずに出かけ、自宅を訪れると「さきほど東京に向かった」とのこと。行き違いになった。そこでアポをとっていただき、翌日12日朝、仙台駅から新幹線で東京駅に。八重洲ブックセンターで畠山氏と二男の耕氏と会った。畠山氏は津波で母を亡くされた。コーヒーを飲みながら近況を聞かせていただき、9月に開催するシンポジウムでの基調講演をお願いした。その時に、間伐もされないまま放置されている山林の木をどう復興に活用すればよいか、どう住宅材として活かすか、まずはカキ筏(いかだ)に木材を使いたいと、長く伸びたあごひげをなでながら語っておられたのが印象的だった。
あれから7年、この間能登に2度来ていだき講演や講義もしていただいた。先日(3月3日)のNHK-ETV特集「カキと森と長靴と」で畠山氏がモノローグで語るドキュメンタリー番組が放送された。海は自らの力で必ず回復すると信じて養殖再開に挑む姿がそこにあった。津波という災害をもたらした海、生業(なりわい)の再興をかける海。「海との和解」、そんな畠山氏の思いを語りから感じた。
⇒11日(日)午後・金沢の天気 くもり