☆日米野球文化のアーチに-下
松井だからなれる「日米野球文化の懸け橋」に
岩城は2006年6月13日に亡くなる前、当時の松井に手紙を出していた。松井はその時、故障で休場を余儀なくされていた。
「今回あなたの闘志あふれる守備のため、負傷したことは、誠に残念です。しかしながら、これからの活躍のための一時の休養であると考えていただき、(中略)一番都合の良い夢を見てすごしてください。(中略)私も30回に及ぶ手術を受けましたが、次のコンサートのポスターをはって、あのステージにたつんだと、気持ちを奮い立たせました。(中略)お互い、仕事の世界は違いますが、世界を相手に、そして観客の前でプレーすることには変わりはありません。私も頑張ってステージに戻ります。」(岩城から松井への手紙)
岩城と松井の直接の接点はない。ただ、岩城は松井の故郷である石川県に拠点を置くオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督をしていた。そして常々、「このオーケストラを世界のプレイヤーにしたい」と語っていた。岩城さらも、20代後半にクラシックの本場ヨーロッパに渡り、武者修行をした経験がある。その後、NHK交響楽団(N響)などを率いてヨーロッパを回り、武満作品を精力的に演奏し、日本の現代曲がヨーロッパで評価される素地をつくった。
岩城は挑戦者の気概を忘れなかった。2004年春、自らが指揮するOEKがベルリンやウイーンといった総本山のステージを飾ったときの気持ちを、「松井選手が初めてヤンキー・スタジアムにたったときのような喜び」と番組のインタビューに答えていた。クラシックのマエストロは、野球の本場ニューヨークで奮闘する松井の姿と同じ心境だったのだろう。
もし、岩城が生きていたら、今の松井にこんな手紙を送ったかもしれない。「これからの活躍のための一時の休養であると考えていただき、一番都合の良い夢を見てすごしてください。あたなたは日本とアメリカの野球のことをすでに熟知された。これからはニューヨークに在住しながら、できればアメリカの大学に入って野球の歴史と文化を学び、そして日米野球文化のアーチ(懸け橋)になっていただきたい。あなただからそれができます。」
⇒31日(水)朝・金沢の天気 はれ
ホームタウンは石川県能美市にある。私は金沢のテレビ局時代に何度か自宅を取材に訪れた。松井が星稜高校時代、「夏の甲子園」石川大会の中継、本大会での取材と夏は松井一色だった。強打者ぶりは伝説にもなった。1992年夏の全国高校野球選手権2回戦の明徳義塾(高知)戦で、5打席連続敬遠されて論議を呼んだ。話のついでだが、母校・星稜高校は28日に開かれたことしの全国高校野球選手権石川大会の決勝で、6年ぶり16度目の夏の甲子園出場を決めている。
日本では選挙期間中、有権者の家を訪ねて投票を依頼する戸別訪問は公職選挙法で禁止されている。これは、候補者が戸別訪問し、有権者に金を渡し「買収」をするのを防ぐためだ。ことほど左様に、かつて「選挙と金」の生々しい時代の記憶があるからだ。今日では、戸別訪問もできないようでは民主主義と言えないと叫んでもよいくらいだ。言いたかったのは、アメリカでは逆に、ネットでの政治献金を通じて、人々が政治への参加意識を高めている、ということだ。しかも、アメリカでは、インターネットでのキャンペーンを空中戦でたとえるならば、戸別訪問を地上戦と位置づけ、運動員が実績を訴えるパンフレット持参して個別訪問する。まるで、デジタルとアナログの選挙運動が両輪で回っている感じだ。
開票作業はまだなのにもう「選挙は終わり大勢は決した。次はこうなる」などとまくしたてられても、有権者や視聴者にはピンと来ない。新聞社やテレビ局が世論調査などデータを積み上げ、「投票行動の流れ」を予め分析しているの知ってはいるが、いつもの当打ち速報と特番合戦には違和感を感じると思っている人も多い。
先の授業で選挙公示以降の新聞・テレビのメディアの公平性をテーマに講義をした。候補者を紹介する写真と記事の量・スペースの平等性など、新聞・テレビとも結構気を使っている、との講義内容だった。学生から質問があった。公平・平等とは言え、4日の公示の各陣営の模様を伝える5日付の新聞紙面で、自民の党首(安倍氏)の写真が他党の党首の顔写真より6倍もサイズが大きな写真だった。学生から「これは政権与党だからの配慮ですか」と問われ、これをどう説明しようか迷った。
今回の旅程で個人的に楽しみにしているは、25日に訪れる「海女博物館」だ。自分自身も新聞記者時代に輪島市舳倉島(へぐらじま)の海女さんたちをルポールタージュ形式で取材した。1983年ごろ、今から30年も前の話になる。いまでも、輪島市では200人余りがいる。ウエットスーツを着用して、素潜りである。そのころ、18㍍の水深を潜ってアワビ漁をしていた海女さんたちがいた。このように深く潜る海女さんたちは「ジョウアマ」あるいは「オオアマ」と呼ばれていた。重りを身に付けているので、これだけ深く潜ると自力で浮上できない。そこで、夫が船上で、命綱からクイクイと引きの合図があるのを待って、妻でもある海女を引き上げるのだ。こうして夫婦2人でアワビ漁をすることを「夫婦船(めおとぶね)」と今でも呼ばれている。輪島の海女、済州島の海女の潜り方、使っている道具、漁の仕方などを済州島の海女博物館で見学したいと思っている。共通性と違いはどこにあるのか、比較もしてみたい。