★「Iターンの島」~5
島根県海士町は隠岐諸島で水が豊富に湧き出ることで知られる。日本の名水百選にも選ばれた「天川の水」は鉱物臭さを感じさせない口当たりのよい水だった。また、湧水を利用した田んぼがところどころに広がる=写真・上=。ここで獲れた米は隠岐の他の島に「輸出」をしている。
歴史は長く、懐深い島
今回この町を訪れてみようと思い立った理由の一つは、かつて新聞記者時代に取材した「輪島市海士町」との歴史的な関連性についての興味だった。輪島の海士町のルーツは360年余り前にさかのぼる。北九州の筑前鐘ヶ崎(玄海町)の海女漁の一族は日本海の磯にアワビ漁に出かけていた。そのうちの一門が加賀藩に土地の拝領を願い出て輪島に定住したのは慶安2年(1649)だった。輪島の海士町の人々が言葉は九州っぽい感じがする。では、隠岐の海士町はどうかと考え、山内道雄町長にちょっとしたインタビューを試みた。
戦後、金沢大学の言語学者が玄海町鐘ヶ崎と輪島市海士町の言葉を聞き取り、共通するものをピックアップしている。代表的なものは、「ネズム(つねる)」「クルブク(うつむく)、「フトイ(大きい)」「ヨタキ(夜の漁)」「ワドモ(あなたたち)」「エゲ(魚の小骨)」などだ。この7つの単語を筆者が発音して、74歳の山内町長に聴いてもらった。反応したのはフトイとヨタキの2つだけだった。また、町長や視察に応対してくれた町職員、民宿のおばさんたちの言葉を聞いた限りでは、イントネーションなど輪島市海士町に比べ随分と表現が柔らかく類似性は感じられなかった。また、漁労の歴史の中で女性が潜る海女漁も「大昔はあったかもしれないが、親たちからも聞いたことはない」という。
海士町のホームページによると、隠岐諸島は「隠岐国海部(あま)郡三郷」と呼ばれ、平城京跡から「干しアワビ」等が献上されていたことを示す木簡が発掘されるなど、古くから海産物の宝庫として「御食(みけ)つ國」として知られていた。1221年には承久の乱を起こし幕府に完敗した後鳥羽上皇は隠岐・海部郡に流刑となり、亡くなるまで17年間暮らした。江戸時代は松江藩の支配下となり、海士村、豊田村、崎村、宇津賀村、知々井村、福井村、太井村に分かれていたが、1904年に合併して海士郡海士村となった。こうして見ると、「海士」の地名はもともと「海部」
から起きていて、歴史性がある。輪島の海士町は江戸時代の漁労集団がそのまま地名になった感がある。歴史の尺度に違いがあり、ルーツを云々するということには無理があると気がついた。
山内町長の講演の後、午後からは同町産業創出課の大江和彦課長のガイドで島めぐりをした。印象的だったのはカズラ島=写真・下=。同町の大部分を占める中ノ島の200㍍沖にある無人島(10㌃)だが、「散骨の島」として知られる。10年ほど前、東京の葬祭会社の社員旅行がきっかけで、話が進んだ。隠岐諸島にある180の無人島のうち、所有権がはっきりしていて、地主と連絡が取れる島は少ない。カズラ島は所有者がいて、葬儀会社は島を購入できた。風評被害を恐れる町議会などに対して事前説明を行うなどして散骨事業を始めた。散骨を行うのは、一年のうち5月と9月の2回。それ以外は上陸せず、弔いに訪れた遺族は中ノ島の慰霊所から、島を眺めて合掌するのだという。葬送のスタイルは変化している。当時反対論もあったが、山内町長は「これも島に来てくれた人との親戚づきあい」と町議会を説得した(大江課長)。Iターン者も亡き人も弔い人も受け入れる島、それが海士町なのだ。
⇒20日(水)夜・金沢の天気 はれ
(「Iターンの島」~3からの続き、山内道雄・海士町長の講演から) ブランド化はユーザーや消費者の評価を通しての言葉だ。日本で一番きびしい評価を通りくぐらなければブランドにならない。それは東京の市場だ。隠岐牛を平成18年3月に初めて3頭を出荷した。このとき全て高品位のA5に格付けされ、肉質は松阪牛並の評価を受けた。ことし3月までに742頭を東京に出荷したが、A5の格付率は52%だ。リーマン・ショック(2008年9月)以降は、高級牛の価格は下がったが、それでもこれまで枝肉最高値1㌔当たり4205円、これは店頭値で3万円もする。枝肉の平均価格でも2169円。これを一頭当りで換算すると91万円となる。
の出荷をこれまでの25万個から50万個に、また岩ガキだけでなく、旬感凍結「活いか」といった加工商品など続々と誕生している。
この高校には町の職員4人を派遣している。実践的なまちづくりや商品開発などを通して地域づくりを担うリーダー育成を目指す「地域創造コース」と、少人数指導で難関大学にも進学できる「特別進学コース」がある。生徒が企画した地域活性に向けた観光プラン「ヒトツナキ」が観光甲子園でグランブリを受賞した。学校連携型の公営塾「隠岐国学習センター」を平成22年に創設し、従来の塾の枠を超えた高校との連携により、学習意欲を高め、学力に加え社会人基礎力も鍛える独自のプログラムも展開している。特徴的なのは、全国から意欲ある生徒の募集に向け、寮費食費の補助などの「島留学」制度を平成22年から新設し、意欲ある高校生が集まることで、小規模校の課題である固定化された人間関係と価値観の同質化を打破したい、これによって刺激と切嵯琢磨を生み出すことを目指した。この財源には、町職員の給与カット(縮減)分を充てている。この取り組みで平成20年度27人だった入学者は、関東や関西などから応募者があり、今年度は59人となった。
それまでの「地縁血縁の選挙」だった島の町長選挙に、町議2期をつとめた山内道雄氏が大胆な行政改革を訴えて当選した。山内氏は元NTT社員。電電公社からNTTに変革したときの経験を活かし、「役場は住民のためのサービス総合株式社である」と町職員の意識改革を迫った。意識を変えるために年功序列を廃止して適材適所、組織を現場主義へと再編していく。その延長線上に「Iターンの島」がある。視察3日目(6月10日)、その山内町長が「離島発!地域再生への挑戦~最後尾から最先端へ~」と題して講演した。74歳、話す言葉が理詰めで聞きやすい。以下、講演を要約する。
9日朝、ときおり小雨が降る梅雨空。七類(しちるい)港を午前9時30分発のフェリー「くにが」(2375㌧)に乗り込んだ。フェリー乗り場は釣り客などでにぎわっていた。壁には「『竹島』かえれ島と海」と書かれた看板が掲げられていた。「竹島の領土権の確立と漁業の安全操業の確保を」と記された島根県の看板だ。
視察の目的の本論に入る。なぜ海士町が注目されているのか。2300人の小さな島にこの7年間で310人も移住者(Iターン)が来ているのだ。この島は水が湧き、米が採れ、魚介類も豊富で暮らしやすい。でも、そのような地域は日本でほかにもある。なぜ海士町なのか、それを考えるワークショップが午後2時から海士町中央公民館で開かれた。参加者は今回の視察ツアーを企画した島根大学名誉教授の保母武彦氏、一橋大学教授の寺西俊一氏、国連大学高等研究所、静岡大学、大阪大学、自治体など40人余り。町側は山内道雄町長ほか若き移住者ら5人が集った。事例報告したのはその移住者の一人で、ソニーで人材育成事業に携わった経験がある岩本悠氏。「学校魅力化による地域魅力化への挑戦」と題して、少子化の影響を受け、統廃合の危機が迫る地域の県立島前(どうぜん)高校をテコに、「子育ての島・人づくりの島」へと教育ブランドへと盛り上げてきたプロセスを詳細に語った。「ピンチは変革と飛躍のチャンス」ととらえ、県立高校に町がかかわり、ときに対立しながらも一体となって高校改革を進めていく。そのコンセプトを地域創造に。生徒たちは、地域を元気にする観光プランを競う「観光甲子園」にエントリーしてグランプリを獲得した。この島では、農水産物だけでなく教育まで魅力あるもに発信する。そして全国から高校生が集まり、島の生徒と合わせ60人、2クラスになった。その「島前高校魅力化プロデューサー」が岩本氏だ。
島根県松江市に来ている。初めて山陰地方に足を運んだ。一度訪ねたいと思っていた地域だった。8日夜は、金沢から京都駅、新幹線で岡山駅と乗り継いで、松江駅に到着したのは夜11時ごろだった。きょうから梅雨入りで、どんよりと曇っている。なぜ、北陸から山陰にやってきたのか。視察である。「場の学び」にやってきたのは松江ではない。松江は通過地点で、さらにこれから船で隠岐島・海士町(あまちょう)=写真・上=を目指す。
人ほどだったが、今ではその3分の1ほどまで減少した典型的な過疎地域だ。この島の小さな町が全国から地域おこしの町として注目されているのだ。