☆追想クライストチャーチ
ニュージーランド南部のクライストチャーチ付近で発生したマグニチュード6.3の地震。23日現在の死者は75人、行方不明者は約300人。うち、不明とされる日本人は27人となっている。現地で語学研修中だった金沢市の男性(39)や富山外国語専門学校の学生らの安否が気遣われる。新聞報道では、余震が続き、建物がさらに倒壊する危険性がある。被災地での救出活動も難航している。国家非常事態宣言が出され、クライストチャーチは夜間外出禁止となった。
クライストチャーチは思い出深い街だ。夏休みを利用して家族でニュージーランドを旅行したのは2006年8月15日のこと。当時のメモを見ながら、被災した街を追想してみる。関空からのフライトで、10時間半でニュージーランド南島のクライストチャーチ国際空港に着いた。現地の時間は午後0時30分、到着を告げるアナウンスでは日中気温は7度。金沢だと2月下旬ぐらいの気温だった。
クライストチャーチ、語感に古きイギリスのにおいがした。1850年、イギリスから4隻の船で800人が移民したのが始まり。それが現在では35万人の南島最大の都市へと成長した。すさまじい人口増の背景には歴史があった。ニュージーランドへの移民が始まって間もなく、サザン・アルプスの各地で金鉱脈が発見され、1860年代からゴールドラッシュが沸き起こる。これで、ヨーロッパやアジアからもどっと人が押し寄せた。さらに、1870年代からはヨーロッパでウール(羊毛)の人気が高まり、ニュージーランドはその原料の主力供給基地へと実力をつけていった。
こうしたサクセスストーリーを背景に、街は活気にあふれた。1864年から40年もかけて、街の中心部にイギリスのゴシック様式による大聖堂が建設された。奥行き60㍍、1000人は収容できる。そして大聖堂の名前がそのまま街の名前になった。母国イギリスへの望郷の思いから、オックスフォード通り、ケンブリッジ通りなど大聖堂の周辺には地名もつけられた。人々は「イギリス以外で最もイギリスらしい町」と呼ばれるほどに本国のイミテーション都市をつくり上げた。
その真骨頂は気品のある住宅街である。エイボン川沿いの瀟洒な住宅群、あるいは前庭は草花、後庭は芝生のイングリッシュガーデンの住宅が建ち並ぶ。クライストチャーチは「ガーデンシティ(庭園の街)」と称されるまでに美しい街となった。そして、クライストチャーチは豊かだ。サザン・アルプスを背景にカンタベリー平野に展開する牧羊などの酪農、そしてカイコウラ漁港を中心とした水産業も盛んだ。そこに住む人々の表情は穏やで、路上でチェスを楽しむ姿があちこちに見受けられた。
しかし、今回の地震でシンボル的存在の大聖堂の塔は崩れ落ちた。
⇒23日(水)夜・金沢の天気 はれ