★続・追想クライストチャーチ
ニュージーランド南島の中心都市クライストチャーチ付近で22日に発生した大地震。救出された富山外国語専門学校の男子学生(19)の被災体験が朝日新聞の24日付紙面で掲載されていた。学生はビルの4階にいた。昼食をとっていて、大きな揺れを感じた。いきなり、足元の床ごと、体が落ちた。周りの学生も「痛い」などと言いながら、一緒に落下していった。気づいたら、周囲は暗闇だった。右足が動かない。何かに、挟まれていた。奈落の底に落ちるような恐怖だったに違いない。学生は右足を切断し、救助された。
2006年8月、家族旅行で訪れたクライストチャーチの街は、ビジネス街もあるものの、歴史が止まっているかのように感じられた。その理由は、若者の姿が少なからだった。同じ年の1月に訪れたイタリアのミラノは古い街並みを若者がかっ歩するという歴史の連続性を感じた。が、クライストチャーチには人々のみずみずしさが感じられなかった。
若者の姿が見えない理由の一つが、学生がいないことだった。ニュージーランドに7つある大学の一つ、学生数1万3千人のカンタベリー大学がクライストチャーチの中心街から郊外に移転した。金沢の街の事情と少々似たところがある。もう一つの理由が、若者が仕事を求めてオークランドに流れていた。オ-クランドは北島にある人口110万人を数えるニュージランド最大の経済都市である。いうならば一極集中の構造になっているこの国では、2番目の都市規模を誇る35万人のクライストチャーチであっても「ストロー現象」で若者が吸い上げられていたのだ。
そこにきて今回の震災である。この街のシンボルであり、観光名所でもある大聖堂も崩れた。そして、「ガーデンシティ(庭園の街)」と称されるまでに美しい街であったクライストチャーチは一瞬にしてがれきの街と化した。あの美しい、古都のような街が早く復興していほしいと願う。ただ、この街の復興は前途多難であろうことは、想像に難くない。
写真は、街路でチェスを楽しむ市民たち(上)、イングリッシュガーデンが見事なクライストチャーチの住宅のたたずまい(下)。2006年8月15日撮影。
⇒24日(木)朝・金沢の天気 はれ
クライストチャーチは思い出深い街だ。夏休みを利用して家族でニュージーランドを旅行したのは2006年8月15日のこと。当時のメモを見ながら、被災した街を追想してみる。関空からのフライトで、10時間半でニュージーランド南島のクライストチャーチ国際空港に着いた。現地の時間は午後0時30分、到着を告げるアナウンスでは日中気温は7度。金沢だと2月下旬ぐらいの気温だった。
柳生氏が35年前に八ヶ岳に移り住んで森林再生を始めたきっかけや、いまの環境問題に関する人々の意識の高まりについて、生活者目線で語った。印象に残ったのが「確かな未来は、懐かしい風景の中にある」という言葉だった。人が生き物として正常な環境は「懐かしい風景」だ。田んぼの上を風が吹き抜けていく様子を見た時、あるいは雑木林を歩いた時、そんな時は懐かしい気持ちになる。超高層ビルが立ち並び、電子的な情報が行き交う都会の風景を懐かしい風景とは言わない。「懐かしい風景」こそ、我われの「確かな未来」と見据えて、自然環境を守っていこうという柳生氏のメッセージなのだ。
すでに観光名所になっているスカイツリー本来の役割はテレビ塔としての機能である。問題は、「本家テレビ塔」の東京タワーとの電波の切り替えだ。ことし2011年7月24日正午にアナログが停波された後は、東京タワーから地デジの電波が発射されるが、来年2012年春にスカイツリーがオ-プンすれば、試験放送期間を経て、地デジの電波は東京タワーからスカイツリーにスイッチされる。つまり、武蔵の国では地デジは2度切り替わる。