☆再訪・琉球考-下-
那覇市の国際通りで、昼食を取るためレストランに入った。首里城正殿をイジージした構えの店で1階が土産品、2階がレストランになっている。メニューでお勧めとして大きく写真入りで出ていたタコライスを注文した。タコライスは、もともとメシキコ料理だが、アメリカ版タコスの具(挽肉、チーズ、レタス、トマト)を米飯の上に載せた沖縄料理と説明書きがあった。辛みをつけたサルサ(ソース)を乗せて食べる。このタコライスのメニューは名護市のドライブインにもあった。アメリカの影響を受け、沖縄流にアレンジした料理として定着しているようだ。
琉球=沖縄の気分
戦後長らくアメリカの占領下にあり、1950年に朝鮮戦争が、1959年にはベトナム戦争が起き、戦時の緊張感を沖縄の人たちも同時に余儀なくされ、日本への復帰は1972年(昭和47年)5月15日である。しかも県内各地にアメリカ軍基地があり、沖縄県の総面積に10%余りを占める(沖縄県基地対策課「平成19年版沖縄の米軍及び自衛隊基地」)。時折、新聞で掲載される沖縄の反戦や反基地の気運は、北陸や東京に住む者にはリアリティとして伝わりにくい。沖縄は今でも闘っている。
2007年11月に完成した沖縄県立博物館・美術館を訪れた。美術館を見れば、その土地の文化が理解できる。琉球=沖縄は日本の最南ではあるものの、沖縄の人たちの地理感覚では日本、韓国、台湾、中国に隣接する東アジアの真ん中に位置する。歴史的にも交流があり、外交的にも気遣ってきたのだろう。その一端が美術館コレクションギャラリー「ベトナム現代絵画展~漆絵の可能性~」から伝わってきた。パンフレットに開催趣旨が記されている。「中国の影響を受けながら自らの文化を築いてきたベトナムは、同様の背景を持つ沖縄と共通するものが多く見られ、私たちにとって最も身近な国のひとつです。しかしながら、多くの米軍基地を抱える沖縄は、ベトナム戦争では米軍の後方支援基地となる時期もありました。その不幸な歴史を乗り越え・・・」。ベトナム戦争における「米軍の後方支援基地」は沖縄の人々の責任ではない。それでも、あえて文言に入れて、ベトナムと沖縄の友好関係を求める。パンフとはいえ、これをそのまま政府間文書にしてもよいくらいに外交感覚にあふれる。そしてベトナムの暮らしぶりを描いた数々の漆絵の中に、さりげなくホー・チミンが読書をする姿を描いた作品(1982年制作)を1点入れているところは、すこぶる政治的でもある。
沖縄県立博物館・美術館のメインの展示は「アトミックサンシャインの中へin沖縄~日本国平和憲法第九条下における戦後美術」(4月11日-5月17日)。ニューヨーク、東京での巡回展の作品に加え、沖縄現地のアーチストの作品を含めて展示している。「第九条と戦後美術」というテーマ。作品の展示に当たっては、当初、昭和天皇の写真をコラージュにした版画作品がリストにあり、美術館・県教委側とプロモーター側との事前交渉で展示から外すという経緯があった、と琉球新報インターネット版が伝えている。さまざまな経緯はあるものの、美術館側が主催者となって、「第九条と戦後美術」を開催するというところに今の「沖縄の気分」が見て取れる。
那覇市内をドライブすると、道路沿いに、青地に「琉球独立」と書かれた何本もの旗が目についた。ホテルに帰ってインターネットで調べると、旗の主は2006年の県知事選、2008年の県議選にそれぞれぞ立候補して惨敗している男性だった。供託金も没収されるほどの負け方で、「琉球独立」は沖縄の民意とほど遠い。ただ、道州制論議が注目される日本にあって、「独立」を政治スローガンに掲げる候補者がいるのも、また沖縄=琉球の気分ではある。
※写真・上は、沖縄県立博物館・美術館の中庭。日差しの陰影もアートに組み込んでいる。
※写真・下は、国際通りのレストランで見かけた絵画。糸満の漁師を描いていて、眼光が鋭い。
⇒10日(日)午後・金沢の転機 はれ
ミミガーやピーナツ豆腐、チャンプルーがどんどんと出てくるのかと思ったら、そうではない。食前酒(泡盛カクテル)、先付け(ミミガー、苦瓜の香味浸し、ピーナツ豆腐)、前菜(豆腐よう和え、塩豚、島ラッキョ、昆布巻き)、造り(イラブチャー=白身魚)、蓋物(ラフティー=豚の角煮)などと、確かに金沢の料理屋で味わうのと同じように少量の盛り付けで、しかも粋な器は見る楽しみがあった。日本料理のスタイルで味わう琉球料理なのだ。
6年ぶりに沖縄を入り、このチャンプル文化にある種のイノベーションを感じた。イノベーションとは、発明や技術革新だけではない、既存のモノに創意工夫を加えることで生み出す新たな価値でもある。先のレストランでの琉球会席でも、和食を主張しているのではなく、和のスタイルに見事にアレンジした琉球料理なのである。その斬新さが「おいしい」という価値を生んでいる。沖縄の場合、独自の文化資源を主体にスタイルを日本、中国、東南アジアに変幻自在に変えて見せるその器用さである。これは沖縄の観光産業における「チャンプル・イノベーション」と言えるかもしれない。
パンフレットなどによると、戦前の首里城は正殿などが国宝だった。戦時中、日本軍が首里城の下に地下壕を築いて、司令部を置いたこともあり、1945年(昭和20年)、アメリカの軍艦から砲撃された。さらに戦後に大学施設の建設が進み、当時をしのぶ城壁や建物の基礎がわずかに残った。大学の移転とともに1980年代から復元工事が進み、1989年には正殿が復元された。2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。
全体の弁柄はこの二本の柱の文様を強調するために塗られたのではないかと想像してしまう。さらに内部の塗装や色彩も中国建築の影響を随分と受けているのであろう、鮮やかな朱塗りである。国王の御座所の上の額木(がくぎ)には泳ぐ竜=写真・下=が彫刻され金色に耀いている。