★能登の旋風(かぜ)-7-
2005年4月にスタートした「自在コラム」はきょうで500回を数える。簡単な統計を算出してみる。月換算(42ヵ月)で平均11.9回を掲載。ざっと3日に1回という計算。スタート当初は毎日書いていたが、ここ1年はサボリが多くなっている。アクセス数は昨日(29日)は98、ページビューは385だった。42ヵ月の平均値はデータがないので出せないが、毎日平均アクセスはざっと80ほどか。意外な人から突然に「先日のコラムで書かれていた○○さんの話の中で…」と質問され面食らうこともある。いろいろな方に読んでいただいている、というのが実感だ。
次なるステップへ
さて、シリーズ「能登の旋風(かぜ)」は里山里海国際交流フォーラム「能登エコ・スタジアム2008」のイベントで拾った話題を紹介している。9月13日から17日にかけての「能登エコ・スタジアム2008」は3つのフォーラム、6つのプログラム、1つのツアーから構成されていたが、17日にシニアコース(シニア短期留学)の修了式をもって、すべてのメニューを完了した。また、同日は生物多様性条約のムハマド・ジョグラフ事務局長の能登視察も終了した。一連のイベントメニューの中でのVIP視察だった。
今回のイベントは、キックオフシンポ(13日)であいさつに立った中村信一金沢大学学長も谷本正憲石川県知事も強調したように、2010年の国際生物多様性年に向けての予行演習の意味合いもあった。ひとまずはホップ、ステップ、ジャンプのホップを踏んだわけだが、もう次なるステップへ向けて動き出している。2009年の能登エコ・スタジアムの持ち方、それを2010年の生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)の関連イベント「金沢セッション」「能登エクスカーション」に結びつけるかについての方向性だ。無から有を生じさせる、前例なき模索でもある。
今回のイベントで印象に残った2枚の写真。持続可能なこと、それは地下に封じ込められた化石燃料を掘り出して、燃焼させ、二酸化炭素を排出することではない。二酸化炭素を吸収し、光合成によって成長した植物をエネルギー化すること。里の生えるススキ、カヤ類を燃料化する試みが始まっている。それらをペレット化して燃料、あるいは家畜の飼料にする。奥能登では戦後、1800haもの畑地造成が行われたが、そのうち1000haが耕作放棄されススキ、カヤが生い茂っている。それをなんとかしたいとの発想でバイオマス研究から実用化の段階に向けて試行が続いている。能登エコ・スタジアムのコース「バイオエコツーリズム」ではその試みに興味を持った若者たちが大勢集まってきた。そして実際にススキを刈り取り、ペレット化を体験したのである。上の写真はその刈り入れの様子だ。地域エネルギーの可能性を感じさせる光景に見えた。
もう一枚は生物多様性条約事務局長のアハメド・ジョグラフ氏。COP10の能登エクスカーションの視察で輪島市金蔵地区を訪れた=写真・下=。里山に広がる棚田、そして律儀に働く人々の姿を見たジョグラフ氏は「日本の里山の精神がここに生きている」と痛く感動したのだった。精神論ではなく、この里山に多様な生物が生息しており、自然と共生し生きる人々の姿にジョグラフ氏は感動したのだ。このジョグラフ氏の感動をそのまま2010年の国際生物多様性年への取り組みとして具体化させることになる。
⇒30日(火)夜・金沢の天気 くもり
能登半島地震の発生翌日、被害がもっとも大きいとされた門前地区に入った。住民のうち65歳以上が47%を占める。金沢大学の地域連携コーディネーターとして、学生によるボランティア支援をどのようなかたちで進めたらよいかを調査するのが当初の目的だった。そこで見たある光景をきっかけに、「震災とメディア」をテーマに調査研究を実施することになる。震災当日からテレビ系列が大挙して同町に陣取っていた。現場中継のため、倒壊家屋に横付けされた民放テレビ局のSNG(Satellite News Gathering)車をいぶかしげに見ている被災者の姿があった。この惨事は全国中継されるが、被災地の人たちは視聴できないのではないか。また、半壊の家屋の前で茫然(ぼうぜん)と立ちつくすお年寄り、そしてその半壊の家屋が壊れるシーンを撮影しようと、ひたすら余震を待って身構えるカメラマンのグループがそこにあった=写真・上=。こうしたメディアの行動は、果たして被災者に理解されているのだろうか。それより何より、メディアはこの震災で何か役立っているのだろうか、という素朴な疑問があったからだ。 当時、カメラマンたちが狙っていた半壊の家はいまどうなっているのか確認したかった。その家はカメラマンたちが期待したようにはならなかった。つまり、余震での倒壊は免れた。しかし、住めるような状態ではなかったので、そのままになっているのか、取り壊して更地なっているのか、再建されているのか…。何かの折に再び訪ねてみたいと思っていた。
MさんとNさんをお誘いして門前入りした9月16日午前、車を降りて、問題のシーンと遭遇した場所に再び立ってみた。その民家は再建途中だった=写真・下=。まもなく完成するだろう。おそらくこの家の家族はまだ避難所生活と想像するが、まもなく新居での生活が始まるだろう。そう考えると、正直にうれしかった。震災から1年6ヵ月余り。それにしても、被災者とメディア側の溝は深い。メディア側で被災者の目線というものを体験しなければこの溝は埋まらない。そこで、「震災とメディア」の調査報告書には下記の一文をつけた。
た。9月16日午前のプログラム自由時間を利用して、MさんとNさんを誘って門前地区を訪ねた。
次に訪れた総持寺もまた被災し再興途中だった。僧堂の再建工事は屋根の部分まで進んでいた。MさんとNさんはここで「瓦寄進」をした。瓦に祈願の文字を書き、お布施をする。亡き父親が当地出身というMさんは「先祖供養」と書いていた。鶴見の総持寺と縁があるNさんは「一家繁栄」を祈願した。Nさんはさらに総持寺と縁を感じることになる。僧堂の建築現場に近づいてみると、長男が勤める建築事務所(東京都)がこの僧堂の設計・管理に携わっていたのだ。「大変名誉な仕事をさせてもらっている。親として素直にうれしい」と目を輝かせた。
とき腫瘍を患って他界しました。それから12年経ちます…」と語り始めた。約束を果たさぬまま先立った息子への思いも募ったのか、Mさんの顔は曇りがちだった。
参加者の構成は東京都3人、兵庫県3人、大阪府2人、滋賀県1人、京都府1人、神奈川県1人である。年齢は60歳から84歳。男女比は女性7人、男性4人の構成。11日に開講式があり、懇親会があった。さっそく「シニア短期留学を研究する協議会をつくってはどうか」「金沢人、不親切論」なども飛び出して、侃侃諤諤(かんかんがくがく)の状態となった。「論客が多すぎる」。これが第一印象だった。反省もあった。参加者には予めパンフレットで講義内容を簡単に説明してあったが、金沢大学がどのような学習サービスを提供してくれるのか、イメージとしてはインプットされていなかったのだろう。要は、説明不足。だから、懇親会での話が講義内容に集中するのではなく、ベクトルがバラバラな方向に展開したのだった。出だしはこんなふうだった。
というのも、田の神は目が不自由とされ、迎え入れる主人は想像力をたくましくしながら、「田の神さま、廊下の段差がありますのでお気をつけください」「料理は向かって左がお頭つきのタイでございます」などとリテールにこだわった丁寧な案内と説明をすることになる。これはある意味で高度なホスピタリティ(もてなし)である。招き入れる家の構造、料理の内容はその家によって異なり、自ら目が不自由だと仮定して、どのように案内すれば田の神が転ばずに済むか、居心地がよいか(満足か)とイマジネーションを膨らませトレーニングする。これがホスピタリティ(もてなし)の原点となる。万人に通用するように工夫された外食産業の店員対応マニュアルとは対極にある。
実は今回のイベント「能登エコ・スタジアム2008」もその関連会議のシュミレーションとしての意味合いで金沢セッション、能登エクスカーションが構成された。ジョグラフ氏の能登訪問は2010年の能登エクスカーションの「下見」との意義付けもある。もし、ジョグラフ氏がここで「能登で見るべきもの、学ぶべきものはない」と感じれば、2010年の能登エクスカーションは沙汰やみになる。迎えるスタッフもプラン段階から気を遣った。では、ジョグラフ氏の反応はどうだったのか。
まず、「能登エコ・スタジアム2008」の概要を説明しよう。金沢大学などが企画し,地域自治体と連携して開催した初めての大型イベント。4日間で3つのシンポジウム、6つのイベント、1つのツアーを実施した。生物多様性などの環境問題を理解するとともに、海や山を活用した地域振興策を探ろうという内容。13日に開催したキックオフシポジウム「里山里海から地球へ」=写真=には市民ら280人が参加し、国連大学の武内和彦副学長(東京大学教授)や生物多様性ASEANセンターのG.W.ロザリアストコ部長、女子美術大学の北川フラム教授が講演した。
辞任の理由をメディアの記事から拾うと。福田氏は「国民生活を考えた場合、態勢を整えた上で国会に臨むべきだと考えた。新しい布陣で政策実現を図っていかなければいけない」と強調し、参院で野党が多数を占める「ねじれ国会」を念頭に「私が首相を続けて国会が順調にいけばいいが、私の場合には内閣支持率の問題もある」などと言及。辞任を決めた経緯に関しては8月29日の総合経済対策の取りまとめを踏まえ、「先週末に最終的に決断した」と明かした、という(日経)。