2007年 12月 11日の投稿一覧

☆メモる2007年-1-

☆メモる2007年-1-

 2007年も余すところ20日となった。振り返れば、さまざまな出来事に遭遇した。その折、自分なりに取材し、調査をしてきたことを記す。題して「メモる2007」。

      「FMピッカラ」のメディア魂

  ことし3月25日の能登半島地震で「震災とメディア」の調査をした。その中で、「誰しもが一瞬にして情報弱者になるのが震災であり、電波メディアは被災者に向けてメッセージを送ったのだろうか」「被災地から情報を吸い上げて全国へ発信しているが、被災地に向けたフィードバックがない」と問題提起をした。その後、7月16日に新潟県中越沖地震が起きた。そこには、「情報こそライフライン」と被災者向け情報に徹底し、24時間の生放送を41日間続けた放送メディアがあった。

  中越沖地震でもっとも被害が大きかった新潟県柏崎市を取材に訪れたのは震災から3ヵ月余りたった10月下旬だった。住宅街には倒壊したままの家屋が散見され、駅前の商店街の歩道はあちこちでひずみが残っていて歩きにくい。復旧半ばという印象だった。コミュニティー放送「FMピッカラ」はそうした商店街の一角にある。祝日の午前の静けさを破る震度6強の揺れがあったのは午前10時13分ごろ。その1分45秒後には、「お聞きの放送は76.3メガヘルツ。ただいま大きな揺れを感じましたが、皆さんは大丈夫ですか」と緊急編成に入った。午前11時から始まるレギュラーの生番組の準備していたタイミングだったので立ち上がりは速かった。

  通常のピッカラの生放送は平日およそ9時間だが、緊急編成は24時間の生放送。柏崎市では75ヵ所、およそ6000人が避難所生活を余儀なくされた。このため、市の災害対策本部にスタッフを常駐させ、被災者が当面最も必要とする避難所や炊き出し、仮設の風呂の場所などライフライン情報を中心に4人のパーソナリティーが交代で流し続けた。  コミュニティー局であるがゆえに「被災者のための情報」に徹することができたといえるかもしれない。パーソナリティーで放送部長の船崎幸子さんは「放送は双方向でより深まった」と話す。ピッカラは一方的に行政からの情報を流すのではなく、市民からの声を吸い上げることでより被災者にとって価値のある内容として伝えた。たとえば、水道やガスの復旧が遅れ、夏場だけに洗髪に不自由さを感じた人も多かった。「水を使わないシャンプーはどこに行けばありますか」という被災者からの質問を放送で紹介。すると、リスナーから「○○のお店に行けばあります」などの情報が寄せられた。行政から得られない細やかな情報である。

 また、知人の消息を知りたいと「尋ね人」の電話やメールも寄せられた。放送を通して安否情報や生活情報をリスナー同士がキャッチボールした。市民からの問い合わせや情報はNHKや民放では内容の信憑性などの点から扱いにくいものだ。しかし、船崎さんは「地震発生直後の電話やメールに関しては情報を探す人の切実な気持ちが伝わってきた。それを切り捨てるわけにはいかない」と話す。

  7月24日にはカバーエリアを広げるために臨時災害放送局を申請したため、緊急編成をさらに1ヵ月間延長し8月25日午後6時までとした。応援スタッフのオファーも他のFM局からあったが、4人のパーソナリティーは交代しなかった。「聞き慣れた声が被災者に安心感を与える」(船崎さん)という理由だった。このため、リスナーから「疲れはないの、大丈夫ですか」と気遣うメールが届いたほどだ。

  ピッカラの放送は情報を送るだけに止まらなかった。夜になると、「元気が出る曲」をテーマにリクエストを募集した。その中でリクエストが多かったのが、女性シンガー・ソングライターのKOKIAの「私にできること」だった。実は、東京在住のKOKIAが柏崎在住の女性ファンから届いたメールに応え、震災を乗り越えてほしいとのメッセージを込めて作った曲だった。KOKIAからのメールで音声ファイルを受け取った女性はそれをFMピッカラに持ち込んだ。「つらい時こそ誰かと支えあって…」とやさしく励ますKOKIAの歌は、不安で眠れぬ夜を過ごす多くの被災者を和ませた。そして、ピッカラが放送を通じて呼びかけた、KOKIAによる復興記念コンサート(8月6日)には3千人もの市民が集まった。人々の連携が放送局を介して被災地を勇気づけたのだった。

  ピッカラの災害放送対応を他のコミュニティー放送が真似ようとしても、その時、その場所、その状況が違えば難しい。災害放送はケースバイケースである。ただ、「情報こそライフライン」に徹して、コミュニティー放送の役割を見事に果たした事例としてピッカラは評価されるのである。

 ⇒11日(火)午後・金沢の天気   くもり