★メディアのツボ-56-
3月25日の能登半島地震で「震災とメディア」をテーマに被災者アンケートなどの調査を行った。総じて、メディアの記者やカメラマンを見つめる被災者の目線は厳しいものがあることは前述した(6月24日付「震災とメディア・その3」)。今回の「震災とメディア・その4」では私自身の体験を紹介したい。
震災とメディア・その4
震災の翌日(26日)に輪島市門前町の被災地に入った。能登有料道路は一部を除いて通行止めとなった。「下路(したみち)」と呼ぶ県道や市道など車で走って3時間50分かかった。金沢大学から目的地は本来1時間50分ほどの距離だ。被災地をひと回りして、夕方になり、コンビニの看板が見えたので夕食を買いに入った。ところが、弁当の棚、惣菜の棚は売り切れ。ポテトチップスなどスナック類の菓子もない。店員に聞いた。「おそらくテレビ局の方だと思うのですが、まとめて買っていかれましてね」との返事だった。
震災の当日からテレビ系列が続々と入ってきた。記者とカメラマンだけではない。中継スタッフや撮影した映像を伝送するスタッフ。さらに、新聞社、雑誌社なども入り込み、おそらく何百人という数だったろう。このコンビニは門前地区で唯一のコンビニだ。震災当日は商品が落下したため、片付けのため閉店したが、翌日は再開した。メディアの記者たちも「人の子」、腹が減る。生存権を否定するつもりはない。ただ、「買い占めはなかったのか」と問いたいのである。実は、新潟県中越地震(04年10月)でも同じような現象が起き、住民のひんしゅくを買っているのだ。
28日に被災者宅の救援ボランティアに入った。学生たちと倒れた家具などの後片付けを手伝った=写真=。割れたガラス片などが散乱していたので、家人の了解を得て、靴のまま上がって作業をしていた。すると、何人かのカメラマンが続いて入ってきて、作業の様子を撮影した。われわれと同じように靴を脱がず取材をしていった。が、「共同通信」の腕章をしたカメラマンが靴を脱いで上がってきたので、「危ないですよ」と声をかけた。すると、「大丈夫、気をつけますから」と脱ごうとしなかった。そして帰り際に、「ボランティアお疲れさまです」と声をかけて、去っていった。それまでのカメラマンとは物腰が異なるので印象に残った。
後日、共同通信金沢支局のN支局長とある会合で話をする機会があり、この話をすると、さっそく調べてくれて、Iカメラマンと分かった。Iカメラマンに興味がわき、教えてもらった先に後日電話をした。突然の電話の事情を話すと、I氏もわれわれのことを覚えていてくれていた。「あす(6月27日)からアメリカ・大リーグに取材に行く」という。被災地でのボランティア経験があるのかと尋ねると、「ない」といい、ただ、これまで阪神淡路大震災、新潟県中越地震、スリランカの大洪水など災害現場で取材した経験があり、「被災者の気持ちに立った取材を心がけている」という。「私はふてぶてしくないれないタイプかもしれない」と淡々と。
プロは場数を踏んで「ふてぶてしくなる」のではなく、経験を積んで「謙虚になる」のだ。受話器を置いた後で、そんなことを思った。
※写真:金沢大学の学生ボランティアによる被災住宅の後片付け=輪島市門前町道下・3月28日
⇒30日(土)午後・金沢の天気 くもり
聞き取り調査の中で、輪島市門前町在住の災害ボランティアコーディネーター、岡本紀雄さん(52)の提案は具体的だった。「新聞社は協力して避難住民向けのタブロイド判をつくったらどうだろう。決して広くない避難所でタブロイド判は理にかなっている」と。岡本さんは、新潟県中越地震でのボランティア経験が買われ、今回の震災では避難所の「広報担当」としてメディアとかかわってきた一人である。メディア同士はよきライバルであるべきだと思うが、被災地ではよき協力者として共同作業があってもよいと思うが、どうだろう。
タブロイド判の裏表1枚紙で、文字が大きく行間がゆったりしている。住民が「役に立った」というのは、災害が最も大きかった被災地・輪島のライフライン情報に特化した「ミニコミ紙」だったからだ。
に及んだ。多くの住民は避難所でテレビやラジオのメディアと接触することになる。ここで、注目すべきことは、門前町を含める45ヵ所のすべての避難所にテレビが完備されていたことだ。地震で屋根のテレビアンテナは傾き、壊れたテレビもあったはず。一体誰が。
の分割払いで貸付けられた。つまりリースされたのである。
鍋(なべ)を枚数でカウントするということを知らなかった。これまで、一つ、二つ数えていたのではないだろうか。先日、ぶらりと訪れた石川県穴水(あなみず)町の「能登中居鋳物館」でそんな小さな発見をした。
生産が盛んで40軒ほどの鋳物師(いもじ)がいたとされる。この周囲には真言宗など寺など9ヵ寺もあり、それだけの寺社を維持する経済力があった。2003年7月に開港した能登空港の事前調査でおびただしい炭焼き窯の跡が周辺にあったことが確認され、当時、ニュースになったことを思い出した。つまり、鋳造に使う炭の生産拠点が近場で形成されていた。そして原料となる砂鉄や褐鉄鉱などが能登一円から産出され、中居に運ばれた。その技術は14世紀、朝廷が南朝(吉野)と北朝(京都)に分かれて対立し南北朝の動乱に巻き込まれた河内鋳物師が移住したともいわれるが定かではない。
なかったのに、今年は異常に花が多かったということか。
最近、岩城さんが指揮したベートーベンの交響曲3番「エロイカ(英雄)」を聴いている。2005年12月31日にベートーベンの1番から9番までを演奏したチクルス(連続演奏)をCS放送「スカイ・A」が生放送したものを私的録音で時折、視聴している。番組の合間に岩城さんが曲を解説するコーナーがある。「ベートーベンはナポレオンの革命的行為を礼賛して、この曲をつくった。しかし、ナポレオンが皇帝になって、いやけがさして曲名を差し替えた」のがエロイカだと。当初の曲名は「ボナバルト」だったといわれる。