2006年 10月 3日の投稿一覧

★メディアのツボ-21-

★メディアのツボ-21-

 総理の「ぶら下がり」会見を1日2回から1回にするとした官邸サイドに内閣記者会が反発している問題を連続で取り上げた。すると、何人かの方から意欲的なコメントの書き込みをいただいた。

     「ぶら下がり」問題の深層

 「いつも見ています」さんから以下の書き込みを。「結局は情報リテラシー(技術)の問題です。ネットという新しいリテラシーが登場し、TVがそれを敵視したところに始まります。TVジャーナリズムはそれを習得しようとせず、反対に政治は、政府インターネットテレビのように新しいリテラシーを導入し、TVが得られない成果を上げようとしている。それに対する恐れでしょう。通信とネットの融合を拒否した、つまり時代の流れに逆らった付けが、一番根本のところで回って来たと言うことでしょう。どちもどっちというより、明らかに政府が新しい情報リテラシーの習得に一歩先を行っているこの現実を恐れなければならないと思います。」

 「いつも見てます」さんの論評の切り口は、情報リテラシーへの思い入れの差が政府とTVメディアを分けているという主張に読み取れる。即時性や広範囲性、ローコスト配信などネットが持つ価値や凄みを知っているのは政府の方だ、と。「いつも見てます」さん自身がITの相当の使い手とお見受けした。

  それはともあれ、既存のメディアというのはニューメディアを疎んじるものだ。1950年後半にテレビが普及し始めたとき、活字メディアのテレビに対するバッシングが沸き起こった。社会評論家の大宅壮一が述べた「一億総白痴化」は流行語になったほど。テレビというメディアは非常に低俗な物であり、人間の想像力や思考力を低下させると酷評した。大宅だけではなく、作家の松本清張も「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない」と初期のテレビに違和感を露にした。

  時代はめぐり90年代のインターネットの勃興期、テレビがメディアの主流であって、インターネットは有象無象、寄せ集めぐらいの認識だった。ネットがブロードバンド化して映像が流れるようになり、テレビの対抗メディアとしてようやく認識されるようになった。それでも、既存のメディアはいまだに「ネットは裏付けのない情報をまき散らかし、メディアには値しない」と十把一からげで考えているようだ。

  しかし、今回の官邸と内閣記者会の押し問答は既存メディアとニューメディアの相克の構図ではなく、別次元のような気がする。

  花形である官邸の記者はテレビも新聞も比較的若い記者が多い。なぜならどんな人物が総理と会うのか見張り番をしなければならず、これは体力勝負である。そんな記者たちの出番が「ぶら下がり」会見での質問なのだ。その出番が減らされたのでは記者の存在意義にかかわる…。頑なに「1日2回」を主張する記者の本音は案外ここらあたりではないか、と私は睨んでいる。

  ところがそれを「国民の知る権利」云々と理屈づけするからややこしい。また、「記者の取材に、広報である政府のテレビカメラを入れてネット配信するのは筋違い」と言い張るから会見情報を記者クラブが独占する気かとネットユーザーから批判されもする。素直に「出番が減るから何とかしてくれ」と言ったほうが反感を買わずに済む。

⇒4日(水)午後・金沢の天気   くもり