☆ニュージーランド記
夏休みを利用して家族でニュージーランドを旅行した。日本は真夏だが、ニュージーランドは冬だ。暑い日本からの寒い南半球への旅行は後に体が疲れるとか、ニュージーランドは紫外線が強いのでご用心などと諸氏からいろいろと忠告を聞かされ、5泊7日の旅に出た。
追憶の街・クライストチャーチ
関空からのフライト。セーターや厚手のズボンやコート、靴を持参したので大きいほうのトランクは34㌔にもなった。10時間半でニュージーランド南島のクライストチャーチ国際空港に着いた。現地の時間は午後0時30分、到着を告げるアナウンスでは日中気温は7度。金沢だと2月下旬ぐらいの気温だ。機内でさっそく上着を羽織った。
さっそく予約してあったツアーバスに乗り込んだ。クライストチャーチ、語感に古きイギリスのにおいがする。1850年、イギリスから4隻の船で800人が移民したのが始まり。それが現在では35万人の南島最大の都市へと成長した。しかし、150年余りでそれだけ人口は増えるものなのか。日本人ガイドのアリタ・ヤスエさんの説明だと、ニュージーランドへの移民が始まって間もなく、サザン・アルプスの各地で金鉱脈が発見され、1860年代からゴールドラッシュが沸き起こる。これで、ヨーロッパやアジアからもどっと人が押し寄せた。さらに、1870年代からはヨーロッパでウール、つまり羊毛の人気が高まり、ニュージーランドはその原料の主力供給基地へと力をつけていった。
中には成功物語も数多くあったのだろう。街は活気あふれ、1886年から40年もかけて、街の中心部にイギリスのゴシック様式による大聖堂が建設された。奥行き60㍍、1000人は収容できる。そして望郷の思いもあったのか、オックスフォード通り、ケンブリッジ通りなど大聖堂の周辺には母国イギリスをしのぶ地名もつけられた。そして人々は「イギリス以外で最もイギリスらしい町」と呼ばれるほどに本国のイミテーション都市をつくり上げた。
その真骨頂は気品のある住宅街である。エイボン川沿いの瀟洒な住宅群、あるいは前庭は草花、後庭は芝生のイングリッシュガーデンの住宅が建ち並ぶ。そしてクライストチャーチは「ガーデンシティ(庭園の街)」と称されるまでになった。 確かに、クライストチャーチは豊かだ。サザン・アルプスを背景にカンタベリー平野に展開する牧羊などの酪農、そしてカイコウラ漁港を中心とした水産業も盛んだ。ただ、実際に街を歩くと、歴史が止まっているかのように感じるのは自分だけだろうか。若者の姿が少ないのである。ことし1月訪れたイタリアのミラノは古い街並みを若者がかっ歩するという歴史の連続性を感じた。が、クライストチャーチには人々のみずみずしさが感じられないのである。
聞けば、ニュージーランドに7つある大学の一つ、カンタベリー大学がクライストチャーチの中心街から郊外に移転したのだという。学生数は1万3千人もいるというから、その学生が抜けた分だけ、街にぽっかりと穴が開いた状態なのかもしれない。 果たしてそれだけか。
宿泊したホテル「クラウン・プラザ」の1階のレストランはクライストチャーチの市民も多く利用していた。しかし、そこでも若者が少ないように思えた。そこで別の日本人ガイドに、この印象について尋ねると、「若者は仕事を求めてオークランドに流れている」との返事だった。オ-クランドは北島にある人口110万人を数えるニュージランド最大の経済都市である。いうならば一極集中の構造になっているこの国では、2番目の規模を誇る都市・クライストチャーチであっても「ストロー現象」で若者が吸い上げられているのでは。そして、クライストチャーチがイギリスの追憶の街に終わるのでないか。自ら住む金沢の街と比較しつつそう思った。 (写真は、大聖堂の広場で大型のチェスを楽しむ市民ら)
⇒21日(月)夜・金沢の天気 はれ