⇒ランダム書評

☆文明論としての里山17

☆文明論としての里山17

 アメリカの農業というと、大規模経営による「農業の工業化」や、除草剤や病害虫に抵抗性を持つ遺伝子組換え農作物(トウモロコシや大豆など)といったイメージが強い。そのアメリカで地産地消(Buy Local)運動が盛り上がっている。このシリーズ15回目でも述べたCSA(Community Supported Agriculture)と呼ばれる取り組みである。『食料危機とアメリカ農業の選択』(食糧の生産と消費者を結ぶ研究会編・家の光協会・2009)から引用するかたちで紹介する。

           今アメリカで起きている地域と農業のうねり

  まず、この本を手にした経緯から。今月4日と5日、金沢大学が能登半島で展開して「能登里山マイスター」養成プログラムなどを見学させてほしいと、愛媛大学社会連携推進機構から村田武特命教授ら3人が訪れた。村田氏は欧米の農業政策などが専門で、CSAやスローフードなど生産者と消費者を結ぶ動きにも詳しい。そこで、能登に足を運ばれたついでに、新年度の同プログラムの授業をお願いしたところ、快く引き受けていただいた。講義は「世界の農業と家族農業経営~アメリカの『コミュニティが支える農業』(CSA)運動~」と題して。その講義の参考文献としてリストアップして頂いたのが、村田氏が執筆に加わった上記の本である。ちなみに、講義は4月23日(金)午後6時20分から、能登空港ターミナルビルで。一般公開型の授業なので誰でも自由に聴講できる。

   『食料危機とアメリカ農業の選択』の要点を抜き出してみる。金融資本主義など経済のグローバリゼーションの恩恵を受けたアメリカでも、富は一部の産業と階層に集中し、経済格差が拡大して、市民や農業者は「貧困化」しつつある。こうした格差に加え、アメリカの食料をめぐる問題は、貧困層ほど良質な生鮮食料品を入手できず、その食事が、カロリーは高いが栄養的にはバランスの悪い「ジャンクフード」と呼ばれる食品に偏っている。さらに日本でもヨーロッパでも忌避されているのがアメリカの遺伝子組み換え(GM)作物だ。アメリカでは、害虫抵抗性や除草剤耐性などの形質を2つ以上保有する「スタック(Stack)」と呼ばれる新たなGM作物が台頭し、作付面積が拡大している。2008年に農業法が「食料・保全・エネルギー法」と改正され、GMトウモロコシを使ったバイオエタノール増産が加速した。どのような害虫抵抗性がGMトウモロコシにあるのかというと、これまで茎の内部に入り込んでトウモロコシを食べてしまうアワノメイガを駆除するため農薬散布を行ってきた。が、アワノメイガは茎や実の中に入り込んでしまうため外からの殺虫剤散布は効果が少ないとされてきた。そこで、遺伝子組み換えが施されたアワノメイガ耐性のBtコーンでは、Btたんぱく質を食べたコブノメイガ幼虫が消化管にダメージを受けることによって駆除される。このことで、農薬散布の手間が省け、作業労力の軽減、燃料コスト削減などのメリットがあるとして、Btコーンが飛躍的に拡大したのである。

  しかし、生産者はそれでよいかもしれない、あるいはエタノールの生産だったらそれでよいかもしれないが、そうしたGM作物が普及すればするほど、違和感を感じる人々が本場アメリカでも増えていて、有機農法で栽培された農作物を求める動きが高まっている。これが、今アメリカで起きているCSA運動のバックグラウンドとしてある。アメリカのCSAは日本語で「地域が支える農業」とも呼ばれ、1970年に公害問題を背景に広がった日本の有機農業運動の「産消提携」と似た仕組みを持っている。有機農家と消費者グループが契約を結び、農家は可能な限りの多種多様な農産物(主に野菜)を生産し、農産物の詰め合わせセットをつくり、毎週消費者グループへ配給する。

  アメリカのCSAの特徴は次のようにまとめられる。第1に、農業経験のない新規の就農者によって農場が経営される場合が多い。異業種から若者がCSA農家に弟子入りしてノウハウを学び、独立するケースが多い。第2に、消費者や都市住民からの働きかけでCSA農場を開設するケース。消費者が農場を確保して、そこでSCA向けの野菜をつくってくれる農業体験者を探して来てもらう。第3に、農場の運営組織はNPO法人や協同組合が多く、農作従事者と農場経営者が分離されている。つまり、組織運営や投資は消費者側が行っているいる。第4は、第3とリンクするが、経営継承は親から子へではなく、CSA農場にふさわしいと認められた人である。第5は、農場の所有形態。都市に住む消費者が主導なので、都市近郊の農場のケースが多い。

  著書では、ワシントン州シアトルにある「CSAルート・コネクション」という農場の例が挙げられている。経営面積は6.4ヘクタール。栽培のための労働者はフルタイム8人、パートタイム2人、ボランティアが15~20人。ボランティアはすべて女性で、毎日2人がローテーションを組み、1週間に5時間以上働くとレギュラーの詰め合わせセットの野菜がもらえる。農場では豆、ニンジン、トウモロコシ、レタスなど17種を作付けしている。農場を支える会員は560世帯。会費は2009年度で623ドル、前払いである。この前払い制度が生産者の安定した雇用と収入を保証している。会員はシアトル市内など3ヵ所に設けられた「ドロップ・オフ・サイト」と呼ばれる配布所に野菜セットを毎週取りに行く。また、会員が野菜を直接収穫することができる畑「ユーピック」もある。会員に配布した後に余った野菜は福祉団体に寄付される。また、長期間メンバーだった会員で世帯主が死亡した会員には無料で配布するという扶助的な活動も行われる。持続可能な運営を目指し、毎週ニュースレターを出すほか、料理のレシピを配布して料理教室を開催するなど会員拡大の活動も併せて行っている。

  このようなCSA農場は2006年に全米で1308ヵ所だったが、2008年には2236ヵ所に急増、さらに増えているという。一つのムーブメントになっているのだ。また、オーガニック農産物を専門に扱うスーパーマーケットも出現しており、「ホールフーズ・マーケット」という店は地域の農産物にこだわって販売し、「ローカルを買う10の理由」というパンフレットを店で配布している。その「理由」とは、1)季節と連結して暮らす、2)農場から食卓までの距離を短くする、3)新鮮な生産物を得ることができる、4)生産物をもっと楽しむ、5)生産者の顔が見える、6)地域の仕事を支援する、7)地域のコミュニケーションを支援する、8)自立した農家を支援する、9)生活できる賃金を農家に払う、10)責任ある土地開発を支持する・・・である。

  資本主義の総本山といわれるアメリカで、今起きている地域の新しいうねりを『食料危機とアメリカ農業の選択』を通じて紹介した。

 ⇒7日(日)朝・金沢の天気 はれ 

★文明論としての里山8

★文明論としての里山8

 能登半島の先端、珠洲市三崎町に「へんざいもん」という言葉がある。自家で栽培した野菜などを知人や近所におすそ分けするときに使う。「へんざいのもんやど食べてくだし」と言って、ダイコンや菜っ葉を手渡す。「へんざいもん」を漢字で当てると「辺採物」、「この辺で採れた物」である。「手作りのもので、立派な商品ではありませんが、どうぞ食べてやってください」と少々へりくだった言い回しの贈り物である。誤解されがちだが、これは単なる物々交換ではない、隣人愛に満ちた贈与なのである。

            失われた価値を求めて

  この「へんざいもん」という言葉を数年前に知って、中沢新一著『愛と経済のロゴス』(講談社・2003)を想起した。グローバル経済を突き動かしているのは欲望だ。しかし、愛もまた欲望に根ざしている。となれば、愛と経済は深いところでつながっている。そんなところからいまの資本主義の有り様を批判したのが『愛と経済のロゴス』である。以下、著書を自分なり解釈しながら、経済とは何かを考えてみる。

  いまの商品経済を支えているのは交換原理だ。近代資本主義は、この交換原理を全世界にゆき渡らせた。このグローバル経済で、かつてないほど豊かなはずなのに、なぜ幸福感も豊かさも感じられないのか。それは、資本主義という商品経済だけが発達し、何かのバランスが崩れているからだ。そのバランスとは、近代資本主義以前にあった、「贈与」「純粋贈与」という経済の要素である。著者が、例としてあげるのはバレンタインデーのチョコレートだ。もともとチョコレートには値札が付いていたが、贈るときには外され、「商品」としての痕跡が消される。同じチョコレートでも買うのと、贈られるでは価値が違う。そこには贈与とう愛がある。

  贈り物にはそれ以外にも特性がある。例えば、朝市での物々交換ならば、モノはその場で交換しなければ、交渉が成立しなくなってしまう。だが、贈与の場合は違う。その場でお返しをするのではなく、時間をあけてからお礼をした方が隣人愛や信頼関係が持続している証(あかし)とされる。交換はマネーによって価値を決めることで可能となるが、贈与の方は、贈るモノの価値を極力排除することからスタートする。つまり、値札を付けて贈り物をする人はいない。前述の「純粋贈与」は、贈り物と返礼の関係ではなく、一切の見返りを持たない贈与、贈られたことの記憶も見返りも求めない贈与を「純粋贈与」と著者は表現している。

  本来あった経済の「贈与」「純粋贈与」の部分を徹底的にそぎ落とし、「交換」に集約して近代資本主義は完成する。そして、幸福感も豊かさも感じられない経済に突き当たったのが現在である。著者は、最近の自然農法や有機農業、里山保全活動に共通するのは、数万年の時空を超えて、失われた贈与理論を復活させようとする試みではないか、と指摘している。重農主義とも言う。人間は農地に対して労働を注ぐ。重要なのは、贈与において相手を思いやる繊細な心が何よりも大切なのと同じように、耕す人々が細心の心遣いを農地に対して払うことだ。これによって、農地の価値が発生する。つまり、労働は農地に対する一種の贈与なのである。

  話は「へんざいもん」に戻る。大地の恵みを得て、人は感謝すると同時に物質的な豊かさではなく、「隣人との関係価値」を求めて贈与を行う。人と人が結びつくことでより豊かになれると考えるからである。富の独占ではなく配分だ。収奪型のマネーゲームとは対極の構図である。私は何も昔に戻れと言っているのではない。人々は失われた経済の贈与価値を再び求めて始めているのではないかと思っている。

 ⇒18日(月)金沢の天気   ゆき

☆文明論としての里山5

☆文明論としての里山5

  「文明の繁栄には崩壊の芽が内包されている」。こんなキャッチフレーズが目に留まって、『文明崩壊』(ジャレド・ダイアモンド著、草思社)=写真=を手にした。上下巻で800㌻余りに及ぶ。イースター島、マヤ文明、現代中国など文明の繁栄は環境に負荷を与え、それが跳ね返って崩壊が始まる。一方で、環境危機を巧みに乗り越えて続く文明もある。文明の盛衰のサイクルの謎に、臨地的な調査(フィールドワーク)で迫った労作である。

            危機は見えているのか           

  本文を引用しながら、いまから1千年以上前にメキシコ・ユカタン半島とその周辺で崩壊したマヤ文明の謎解きをしてみる。その崩壊のプロセスはこうだ。マヤ民族は少なくとも500万人はいた。「入手可能な資源の量が人口増加の速度に追いつけなくなった」ことで人口と資源の不均衡が始まる。「森林破壊と丘陵地の侵食」が農地の総面積を減らす。減少する食料資源をめぐって、人間が争いあうようになり「戦闘行為が増加」した。小国同士がつばぜり合いを演じた。統一帝国ができなかったのは、マヤにはウマやロバといった運送に利用できる家畜がいなく、陸路の運搬は人の背に載せて行われたからだ。つまり、長距離の戦闘はできなかった。しかも、主食であるトウモロコシを兵士も荷役も食べるので、長期間の戦闘でできなかった。マヤの軍事行動は「期間も距離も大きく制限されていた」のである。そして、マヤを気候変動が襲う。旱魃(かんばつ)だ。

  こうした目に見える危機に対しても、小国の王たちは、「よりみごとな神殿をより分厚い漆喰で塗り固め、互いに負けまいと懸命になった」。結局、現実の重大な脅威を前にしながら、支配者たちはなんら能動的な打開策を講じなかった。

  著者は文明の崩壊だけを論じているのではない。危機に対応した例として徳川幕府を挙げている。首都・江戸の明暦の大火(1657年)、火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大だったとされる。江戸再建のために膨大な木材を必要とした。森林を切り出した後、幕府は直轄山林に管理者(勘定奉行)を置き、さらに各藩の大名もそれにならって森林の管理者(山回り役)を設けた。また、村々の森林についても、村人全員が利用できる共有財産、いわゆる入会(いりあい)地として管理させた。このように、トップダウンで山の管理を徹底させることで、日本の森林の乱伐は防がれた、と述べている。

  現在、自然環境を守る主役は国家権力や支配者ではない。国民や市民である。著者は、「神は大地を創ったが、オランダ人はオランダを創った」とのことわざを引き合いに出して、海抜がマイナスの干拓地(ポルダー)に肩を寄せ合って住むオランダ人の環境問題(地球温暖化など)に対する機敏な対応や、人々の連帯感を高く評価している。対照的に、アメリカの風潮を「裕福な階層はどんどん、ほかの階層から隔絶を図り、自分たちだけの仮想ポルダーを築き上げて、個人の安全と快適さを金で買い…」と痛烈に批判している。アメリカの仮想ポルダーとは塀で囲まれ、富裕層が住むゲート・コミュニティのことを指す。「そういう別格化の底には、エリートは一般社会の問題とは関わらずにいられるという誤った信念がある」とさえ。マヤの小国の王たちは危機に瀕してもひたすら神殿をつくり続けた。いまのアメリカのエリートたちはそれと同根だと著者は下巻の最終章で述べている。

  以下、感じたことを述べる。このマヤの小国の王やアメリカの富裕な階層は、そのまま今の日本人に当てはまるのではないか、と。「豊かなニッポン」という仮想ポルダーをつくり、安全保障を他国に任せ、自国の農地や森林を放棄して食料や森林資源を海外から買いあさる。どこに日本人の危機感があるのだろうか。

 「文明の繁栄には崩壊の芽が内包されている」と冒頭に紹介した。いまその崩壊の芽が膨らんでいる。

 ⇒2日(土)夜・金沢の天気 あめ  

☆「多対1」のメディア

☆「多対1」のメディア

 戦後日本の民主主義を機能として支えてきたのは紛れもなくマスメディア(新聞やテレビなど)である。権力のチェック、世論調査による民意の反映など国民の知る権利に応えてきた。ところが、マスメディアを取り巻く環境は大きく変わりつつある。インターネットの普及で、誰でも情報を発信できる時代となり、社会の情報化が沸騰している。「情報の過剰」の時代なのである。

 その氾濫する情報の中にあって、逆にマスメディアの果たす役割が重要になっている。というのは、新聞やテレビのニュースや情報はある程度、品質が保証されるからである。情報源からたどり、客観的な判断を加え、あるいは情報の価値を見いだして文字表現や映像表現をする。そのようなプロセスを踏んでいるので信頼性が担保されている。では、マスメディアはどのように品質保証をしているのだろうか。端的に言えば、ニュースや情報の価値を見抜き、文字や映像で伝える専門家(記者、ディレクター)を養成しているからである。記者やディレクターの養成には実に手間隙がかかり、もちろんコストもかかる。逆ピラミッドの記事構成、形容詞を使わない文体、記事を書くスピード、記事用語の習得に時間と労力がかかる。新人記者がこなれた記事を書くまでには4、5年はかかるだろう。

 なにも記事を書くことや情報を発信するためには、記者やディレクターという専門家であらねばならいと言っている訳ではない。情報を発信することこそ表現の自由であり、万人の権利でもある。

 問題は、情報の過剰の時代に果たしてマスメディアは生き残ることができるのかという点である。『2030年 メディアのかたち』(坪田知己、講談社)は「マスメディアがデジタル化をすることで生き延びようとしていますが、デジタル化によっとビジネスモデルが構築できた、という実例はまだない…」と断言する。そして、既存のマスメディアとデジタルメディアは逆転する、と。

 著者は、その理由としてメディアは万人に向けた「1対多」から「多対多」へ、そして「多対1」へと進化と遂げ、その過程で「多対多」のマスメディアはその使命を終えると説く。従来、メディアのパワーは購読部数や視聴率で示され、不特定多数に情報を送るのがメディアと考えられてきた。これからは特定の個人に、そのニーズに応じた情報を「適時・適量で送れるかどうかがポイント」と指摘する。近未来に「マイメディア時代がやってくる」とも。そうした究極のメディアが生み出されるのが2030年ごろ、と。おそらくその時代になると、不特定多数を意識して記事を書く記者はいなくなり、ターゲットを絞り込んだ記事をデジタルメディアを通じて「個」に送る、そんな時代の「予言の書」のような本である。

⇒15日(火)朝・金沢の天気  くもり

 

★メディアのこと‐中‐

★メディアのこと‐中‐

 最近、新聞広告を読んでいると「崩壊」「消滅」という雑誌の見出しや本のタイトルが目につく。「2011年新聞・テレビ消滅」(佐々木俊尚著)という本のタイトが目に止まり、文春新書を購入した。ビジネスモデルとしての新聞やテレビはこれまでは成功したが、ユーザー側にパラダムシフト(発想の転換)が起きていて、それについていけないマスメディアは自ずと滅びる、そして「マス」という概念はもうない…。著者はそんな鋭い切り口で、新聞とテレビの行く末を畳み込んでいく。

      「マス」という概念はもうない…

  著書では、アメリカの事例が豊富だ。メディアの世界では、アメリカで起きている事象が3年後には日本で起きる傾向がある。その事例のいくつかを。アメリカの新聞社は経営危機にあえいでいる。その主な原因はインターネットで記事を読むようになり、新聞を購読しなくなったからだ。さらに、ネットは新聞から広告収入も奪っている。中でも、クラシファイド広告が顕著だ。日本で言えば、「売ります」「買います」「従業員募集」といった三行広告のこと。アメリカでは300億ドル(およそ3兆円)のマーケットになっていて、その半分以上を新聞が占めていた。この三行広告をインターネットで無料化したのが「クレイグズリスト」。サンフランシスコを本拠地にいまでは全米に広がり、職探し、部屋探し、ルームメイトの募集などさまざま日常で必要な情報を網羅している。月80億ページビューもある。

  2004年ごろから、アメリカではクラシファイド広告が急減する。これまで新聞や雑誌の独壇場だったクラシファイド広告が無料で掲載できるようになったのだから、ひとたまりもない。著書では、クレイグズリストが本拠地のサンフランシスコの各新聞社から6500万ドル(およそ65億円)もの求人広告を奪ったとのリサーチ企業のリポートを紹介している。

  もう一つ、著書から事例を引用する。紙が売れなくなったアメリカの各新聞社はインターネットでの有料記事に乗り出すが、同じような内容の記事が他紙のホームページで無料で読めるインターネットの世界ではビジネスにはなりにくい。唯一、有料モデルで成功しているのは高級紙ウォール・ストリ-ト・ジャーナル。それでも会員を獲得するために、コラムなどを無料にしたりしている。そこで登場したのがアマゾンが発売した電子ブック「キンドル」。携帯電話の無線データ通信機能が搭載されていて、文字情報ダイレクトにダウンロードできる。09年夏の新モデル「キンドルDX」は画面サイズが2.5倍と大きくなり、ニューヨーク・タイムズ=写真=やワシントン・ポスト、ボストン・グローブが参入する予定だ。3社は宅配の代替としてDXを活用する戦略で、新規購読の契約者にDXを値引き価格で提供する販促策をとっている。

  著書によると、ニューヨーク・タイムズの月額配信料は14ドルに設定していて、読者104万人全員がDXにシフトしたとして1億7500万ドル(14ドル×104万人×12ヵ月)となる。同紙の編集コスト(取材から印刷、宅配)は年間2億ドルとされているものの、DXでの配信で製造と流通コストを削減できるので採算ベースに乗ることができる。ところが、電子ブックというプラットフォーラムでは、テナントのオーナーはアマゾンである。ニューヨーク・タイムズといえども店子(たなこ)にすぎない。アマゾンはテナント料(マージン)を70%も取る。すると年間売上は5200万ドルとなり、編集コスト2億ドルとはほど遠い。購読者を3・5倍にしないと採算ベースに乗ってこないのである。しかし、これが可能だとニューヨーク・タイムズ経営陣が踏んだからキンドルへとシフトしたのだろうけれども…。

  問題はさらに根深い。紙面という独自のプラットフォームを失った新聞社が世論形成への影響力を保てるかどうか。人々に訴求する新聞のチカラは、紙面から湧き上がってくる見出しや記事、写真なのである。訴求力を失った新聞は単なる記事のプロバイダーにすぎない。※記事引用:佐々木俊尚著「2011年新聞・テレビ消滅」(文春新書)

⇒11日(火)夜・金沢の天気  はれ

★テレビは進化するのか

★テレビは進化するのか

 先日、TBS系列のテレビ局の知人と会食した。話題になったのが、来年春の番組改編で始まるゴールデンタイムでの大型ニュース番組(平日午後5時50分-7時50分)について。ゴールデンタイムにニュース番組を持ってくる試みは他系列でもプランはあったが実現していない。ある種の賭けだ。が、知人は「いや、時代の流れだ」と改編のポイントを3つ紹介してくれた。一つには、ゴールデンタイムにお笑いタレントを動員して視聴率を稼ごうとするするテレビ局の意図に少なからぬ反発が視聴者にある。二つめのとして、ニュース番組は50代以上の世代に視聴されており、高齢者化社会に対応した番組づくりとなる。三つ目の要素は、番組制作費の上でVTRの使い回しがきくなどニュース番組はバラエティ番組をつくるよりコストダウンになるということだ。経済リセッションが、「番組の構造改革」ともいえる大胆な編成に背中を押した、ともいえる。

  金沢大学でメディア論を講義していて、私自身よく使う言葉は「テレビにあすはあるか」である。国の免許事業で成り立つビジネスモデルは「最後の護送船団」であり、同じメディアでも新聞などと比べると経営の足腰が「ひ弱」に思える。経済不況の荒波を乗り越え、次世代に進む秘策はあるのか。このヒントとなるのが、「テレビ進化論~映像ビジネス覇権のゆくえ~」(境真良著・講談社現代新書・2008)である。著者は経済産業省メディアコンテンツ課などを経て、早稲田大学で教鞭を執る。コンテンツ流通のプロである。

  著者は挑発的だ。「メディア・コンテンツ産業の本質は娯楽産業」だと言い切り、しかし、「『娯楽の価値』を認められない官僚の心理傾向が、問題の奥底に潜んでいる」と。単純に読み込めば、護送船団の枠の中でいる限り(監督官庁の顔色を伺っていると)、コンテンツの本流である娯楽に徹した産業にはなり得ない、と。挑発がもう一つ。「コンテンツ産業にとってパソコンと付き合うことは、常にビジネスが海賊版によって壊滅的な打撃を受ける可能性に晒されることと同義なのである」と。マイクロソフトなどはパソコン(PC)を「テレビを呑み込む商品」と見定めて戦略を練り、PC上で動画が自由に動く仕組みを構築してきた。そのおかげで、ユーチューブやGyaoとったサービスが始まった。ところが、テレビはPCとの連携を標榜しながらも、心の奥底に「放送と通信の融合」を避けている。実は前述のようにテレビがPCが呑み込まれることを恐れている。もう一つ、家電メーカーもPCがテレビに置き換わることを恐れている。PCは利益率が低いからだ。それでも著者は「情報と通信の融合」を恐れるな、恐れていては「次のテレビ」はないとぞと、ギョーカイ(テレビ業界)を叱咤しているように感じる。

  では、「次のテレビ」とは何か。著者は2004年にネット上で話題になった「グーグルゾン(Googlezon)」をイメージして説明している。要約する。マイクロソフトと戦ってきたグーグルとアマゾンが合併し、その情報サービスの開発競争の中で、ネット上にある新聞ニュースを始めとする様々なデータから新聞記事のような意味ある情報に再編集する技術を開発してしまう。つまり、ネット上で公開された情報がすべてグーグルゾンに利用されてしまうことになった。憤慨したニューヨーク・タイムズ社がグーグルゾンを相手に著作権訴訟を起こすが、敗訴する。ニューヨーク・タイムズ社はネット上から退場し、単なる紙媒体の企業となる。一方のグーグルゾンは世界中のネット上の情報とPC利用者の個人情報を管理する巨大企業へと成長するというストーリーだ。

  「次のテレビ」の要は、視聴者が欲しがる番組をネット上で取り出せる仕組みをつくることだ。グーグルゾンは極端な話ではあるが、使ってよい番組コンテンツを限定し、ユーザーが「マイ・チャンネル」をつくれるような巨大なハードディスクレコーダをネット上で構築することである。著者は、「つまり、『次のテレビ』とは、ニューヨーク・タイムズとケンカをしないような、穏健型の映像版『グーグルゾン』なのである」と説明している。

  著者が紹介する「次なるテレビ」のくだりから、「10年後、新聞とテレビはこうなる」(藤原治著・朝日新聞社・2007)で紹介されている「eプラットフォーム」を連想した。冒頭に述べたように、いまテレビ業界では編成上での「番組の構造改革」が起きようとしている。おそらく次の改革は経営改革(系列の持ち株会社)、そして2011年の完全デジタル化にともなうメディアとネットの融合・再編へと進むシナリオだろう。そのときに「次のテレビ」あるいは「eプラットフォーム」が熱く論じられることに期待したい。

 ⇒21日(日)朝・金沢の天気   くもり

☆ペーパーナイフ付の月尾本

☆ペーパーナイフ付の月尾本

 東大名誉教授で「ITの伝道者」、そして文明批評家でもある月尾嘉男氏が一風変わった本を出版した。限定1000冊、私が人を介していただいた本は520番のナンバリングがされている。著書名は「鄙には稀なる」(117頁)。読み仮名はふられていないが、「鄙(ひな)には稀(まれ)なる」と読むのだろう。地方には優れた人、モノが…と言った意味合いだろうか。
 
 国内外の広告業界の動きや広告活動を紹介する週刊の専門紙「電通報」に平成18年4月から1年間連載された文をまとめたもの。主に月尾氏が全国18ヵ所で主宰する月尾塾での講演旅行などで出会った地域の愉快な人々が稀人(まれびと)として紹介されている。ちなみに、「加賀の稀人」は白波の立つ日本海をクルーザーで出航する豪快な上場企業の会長の話。この会長は創業者だけあって、物怖じしないのだが、暗雲の方向へ向かっていくので、さすがに地元の案内役が止め入った。「途中で日本海で行方不明」となっていたかもしれないと。そんな豪快さの持ち主は今日では稀人なのだろう。

 地方の疲弊が新聞メディアなどで取り沙汰されている。しかし、「鄙には稀なる」という一見、都を中心にした発想は文面からは感じられない。全国を歩く月尾氏にとって、都市とは全く違う斬新な発想が生まれる場が鄙だといわんばかりに、地域の人々に秘める力強さや情熱、心意気が行間からにじみ出ている。

 月尾氏とは遠巻きながら2度、宴席でご相伴させていただいたことがある。酔うほどに笑顔で、講演でのシャープな語りとは違って寡黙になる。おそらく翌朝、趣味のスポーツであるカヤックをこぐためのエネルギーを蓄えておられるのだと察した。

 そして、この著書の最大の特徴はカヤックのパドル型のペーパーナイフがついることだ=写真=。ページの上部をナイフで切ってページを開く。木製のペーパーナイフなので切り開くときに少々力が要る。ところで、パドルとオールはどう違うのか。調べてみると、パドルはシートに座って前向きに進む船を漕ぐ場合にパドルを使用します。後ろ向きに進む船を漕ぐときにはオールを使うのだという。大学の職場で、私はこのペーパーナイフを「逸品だろう」と見せびらかしたところ、女性スタッフが横目で「バターナイフにいいかも」とさりげなく…。

 挿画は日本画家の平松礼二氏画伯。平松氏とは高校時代の同級生にして、カヤックの弟子だとか。ナンバー付きの限定本、超有名な画伯による挿絵画、パドル型ペーパーナイフ…。おそらく2度手にすることはない稀本である。

⇒15日(木)午後・金沢の天気  くもり 

★「不都合な真実」という授業

★「不都合な真実」という授業

 トヨタの株が2月末に3000円の大台に乗り、いまは調整局面に入っているものの、再び上昇するだろう。何しろ、アル・ゴア氏が主演するドキュメンタリー映画「不都合な真実」=写真は映画パンフ=では、トヨタが排気ガス規制車のトップをいっていると図表で説明し、最後のロール字幕では「車の燃費を良くすれば、無駄なエネルギー消費を防げます」と呼びかけている。このところトヨタがじりじりとアメリカでの自動車シェアを伸ばしているのも、おそらくこの映画のおかげだ。

  ゴア氏ほど有能なコピーライターはいないだろう。映画の冒頭で自らを紹介するのに「一日だけ大統領になったゴアです」と。2000年に大統領に立候補。全国一般投票では共和党候補、ブッシュ氏より得票数で上回ったが、フロリダ州での開票手続きについての問題の後、落選が決定した。そのアメリカの選挙史上の前代未聞の出来事をこのワンフレーズで言い切るのである。

 クリントン政権の副大統領を1993年から2001年まで務めた間、ゴア氏が企画した「情報スーパーハイウェイ構想」が呼び水となって、インターネットが爆発的に普及した。当時、日本のどのローカルにあっても、「○○情報スーパーハイウェイ構想」があった。その元祖である。  さらに、クリントン政権末期にナノテクノロジー研究に対して資金投下をした。これが、ナノテクノロジーという研究分野が世界的に注目されるきっかけになった。この意味で、彼は世界で有数の「トレンドメーカー」とも言えるかもしれない。そして、次なるトレンドが「不都合な真実」となる。

  そのゴア氏が世界を飛び回って、「地球は人類にとって、ただ一つの故郷。その地球がいま、最大の危機に瀕している。キリマンジャロの雪は溶け、北極の氷は薄くなり、各地にハリケーンや台風などの災害がもたらさえる」と訴えている。地球温暖化の環境問題を切り口にしたスライド講演。そのままを映画化した。だからドキュメンタリー映画であり、教育映画であり、科学映画といった、従来の映画の域を超えて、映画メディアを使った「ゴアの授業」と言える。

  この映画の凄みは、環境の危機を訴えているだけではなく、政治家らしい透徹した眼で「戦争の危機」をも訴えている。オイルの争奪戦ではない。水飢饉による、「水戦争」である。「ヒマラヤの氷が解ければアジアの水不足は深刻になる」とゴア氏は淡々と説明する。以下は映画では言及されていないが、上流の中国と、下流のインドで起こりうる「貯水ダムをめぐる戦争」といった事態を予感をさせるのに十分なのである。そして、中国でスライド講演をした折に、中国の大学生に「(思想ではなく)科学で論じよう」と訴えるシーンがある。この言葉の意味は中国においては実に政治的である。

  この映画のまとめは、「地球温暖化に対する議論の時代は終わった。唯一残された議論は、どれだけ早く行動に移るかということ」。 そして誰に対して不都合かというと、石油メジャーや米国の自動車産業界をかばって、京都議定書(Kyoto Protocol)の批准を拒否している共和党の現政権ということになる。(3月15日、「金沢フォーラス」イオンシネマで鑑賞)

⇒17日(土)午前・金沢の天気  くもり

☆「報道被害」と「報道不信」

☆「報道被害」と「報道不信」

 マスメディアの記者もベテランの域に達してくると「取引」というものを心得るようになる。一つの情報材料を相手につかませ、さらに別の情報を得るのである。もちろんこれは闇のトレードなので上手にやらないと自分の首を絞めることになる。

  土地取引に関して国会で質問した衆院議員(国民新党)が脅迫された事件にからみ、議員を取材した録音データが漏洩し、インターネット上のブログに掲載された問題で、毎日新聞社は3月12日付でデータを外部に漏らした41歳の記者を諭旨解雇とした。記者が取材した録音データが入ったICレコーダーを議員の了解なしに第三者の取材協力者に渡したのである。その取材協力者とは元暴力団組長だったので背景の根深さと波紋を広げた。

  取材協力者とはいえ、記者より25歳も年上、しかも、その世界の修羅場をくぐってきた相手との取引である。相手の貫禄勝ちだったかもしれない。ともあれ、記者は取引に失敗した。

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 きょうの本題は書評である。梓澤和幸氏の「報道被害」(岩波新書)は実に読みやすい本だった。ベテランの弁護士だけに、論点の組み立てがしっかりしていて、贅肉のないの文章はまさに立て板に水を流すように整然としている。

  内容のポイントは2点。「警察情報に過度に依存したマスメディアの取材のあり方の見直し」と「ルーティーンワーク化した取材のあり方の見直し」である。この2点をメディア自身が改革しないと、いつまでたっても松本サリン事件や桶川ストーカー殺人事件にみられたステレオタイプの取材が横行し、メディア・スクラム(集団過熱取材)といった報道被害はなくならない、と著者は問題提起をする。

  その解決策として、新人記者の教育に「警察まわり」があるように、「弁護士まわり」も組み込んだらどうかと提案は具体的であり実行可能である。また、ユニークな改革案として、あえて警察情報とは別の視点で事件を取材する記者を配置してはどうかという点。警察情報を得て、被害者宅を取り巻くメディア包囲網とはまった別の角度から取材する記者を配置すべしというのだ。これに関しては、伝統的に社会部の遊軍が担当してきたジャンルではあるが、編集局内の制度として試みるのであれば斬新な改革ともなりうる。

  こうした具体案の以前に、取材そのもの、たとえば編集権は一体どこにあるのか、記者たちにあるのか経営者なのかというところをきっちりと内部論議をしないと、改革論議が進まないのは言うまでもない。

  ことしに入り、冒頭に記した毎日記者の不祥事のほか、関西テレビ「発掘!あるある大事典Ⅱ」のデータ捏造問題や朝日新聞カメラマンの記事盗用などマスメディアをめぐる問題が噴出している。著者は弁護士なので「報道被害」をタイトルにして「メディアの改革を急げ」と述べているが、裏腹に「報道不信」も深刻なのだと指摘している。ここでメディアが自ら対策を講じないと、国民のメディア不信を背景に権力がメディアの首を絞めにくる。そう警告を発している。

⇒13日(火)午後・金沢の天気  はれ 

☆「自然産業の世紀」

☆「自然産業の世紀」

 この正月に読んだ「自然産業の世紀」(創森社、編集・アミタ持続可能経済研究所)には考えさせられた。なにしろ、京都にあるこの民間の研究所は自らをシンクタンクと呼ばない。現場主義を貫き行動するシンクタンクだとして、「ドゥタンク」と称している。

  「人類はどこから来て、どこに行くのだろうか」という壮大なテーマを掲げて、持続可能な社会とは何かを徹底して論理的に実践的に追求する、そんなドゥタンクなのだ。設立は2005年7月、京都市上京区室町道にある築150年の京町屋に研究所を構えている。

  本の中身を紹介する。琵琶湖ではブラックバスが幅を利かせている。ルアーでのバス釣りファン(バサー)に分け入って、市民らで構成する「外来魚バスターズ」がスズキのエビまき釣りを応用してブラックバスの大物をどんどんと釣り上げる。バサーたちは釣りの魚信を楽しんでまた湖に放す(C&R=キャッチ・アンド・リリース)。バスターズたちの楽しみは駆除だ。バスの大物が駆除され、その制圧力が失われると、在来魚のフナを中心とするコイ科の中型魚が勢力を取り戻し、ブルーギルや小型のバスを駆逐する。だから、湖の生態系を守るためには大物バスをまず釣り上げ駆除する必要があるのだ。

  バスを湖に放流したのは誰か。琵琶湖と言わず、日本中の湖沼にバスが放たれた。バス釣りブームが起き、儲けた者たちがいる。そして2005年6月に外来生物法が施行され、バスはその一次指定種となる。なぜ法律までつくらなければならなかったのか。これは「密放流の上に成立したブラックバス釣り産業の問題だ」と断じる。そして話は駆除のためのエコマネーへと展開していく。実は、2003年から3年計画で行政が予算をつけ、実際にエコマネーが実施される。すると、ホームレスの人々が琵琶湖に来て、簡単な釣り竿とミミズをエサに外来魚を釣りまくるという「意外な活躍を見せた」とエピソードを紹介している。

  内容は生態系にまつわる事例から、衣料にも及ぶ。京都のある「裁縫カフェ」を話の切り口に、オーガニックコットンの話が展開される。コットン(綿)は栽培に大量の農薬と化学肥料を使い、さらに製品加工に蛍光増白剤などの化学薬品を使用する。この量が半端ではない。しかし、少々コストはかかるが、農薬を使わない栽培方法が進んでいる。スポーツ衣料の最大手・ナイキもこのオーガニックコットンを採用し、2010年までにすべての綿製品を切り替えるという。もう綿衣料の国際的なトレンドは決まっているのだ。

  ところで、タイトルにある「自然産業」とは何か。いまの日本の自然資源を長く継続的に利用して発展させるさまざまな経済活動を定義する。アジア・モンースの恵まれた気象環境の中で、農薬を散布しない安心で安全な米作りを我々の先祖は何千年にもわたってしてきたではないか、そんな風にこの本は読者に語りかける。

  研究所が出版した本というと「机上の物語」の印象が強く、すぐ飽きがくる。しかし、ドゥタンクをめざすだけあって、この本の記述は現場目線に徹していて具体的、かつ面白い。話の切り出しはローカルのネタながら、論理の展開はグローバルに広がっていく。

 ⇒3日(水)夜・金沢の天気  くもり