⇒ランダム書評

★続「災害は進化する」

★続「災害は進化する」

 『日本災害史』(2006、北原糸子編・吉川弘文館)を読んで、ふと思った。なぜ日本人は災害が来ることを忘れるのか。地震情報はこれまで新聞メディアなどに取り上げられ、注意喚起されても、その時代の雰囲気の中でかき消されていつの間にか遠ざかっていく。そして、震災や津波がある日、突然起きて「天災は忘れたころにやってくる」(寺田寅彦の言葉とされる)という状態が繰り返される。

 著書の中で興味深い下りがある。「地震情報が、いわゆる『予言』に近い情報から、純粋科学情報に移行しつつあった時代だったのだが、行政も企業も『予言時代』そのままの対応をしたのであった」「市民は、家具の固定といった、きわめて狭い範囲の防衛策であったとはいえ、生活レベルでの対応を始める兆しがみえるが、行政、企業は、そうした具体的防御策への想像力を全く欠いていた」。これは阪神・大震災(1995年1月17日)が起きる10日前に神戸新聞の一面で報じていた、当時兵庫県猪名川町で続発していた群発地震に触れ「いつM7級の大地震が起きても不思議ではない」との専門家の見方を警告として発していたものだ。しかし、パブル経済の崩壊で行政も企業も内需拡大策、開発に神経を集中していた。むしろ、この記事に反応していたのは市民だったという。

 それにしても人々は忘れっぽい。災害が起きると世界中の人達が同情し、一時的に自らのこととしてとらえるが、「こうした人道的感情がひとたび麗しくも語られてしまうと、あたかもこんな出来事がぜんぜん突発しなかったかのごとく、以前と同様の気楽さで、人々は自分自身の仕事なり娯楽なりを続け、休息し、気晴らしをやる。彼自身に関して起こる最もささいな災禍のほうがはるかに彼の心を乱すものとなるのである」(経済学者アダム・スミス『道徳感情論』)。この忘れっぽさは、日本人だけではなく、しかもいつの世でも同じなのだ。

 では、忘れっぽい我々は次に、ひょっとして明日にもやって来る災害にどのような心構えを持たねばならないのか。それは、著書に述べられているように「減災の思想」だろう。「一人でも多くの命を助け、一戸でも多くの家・建物を守り、一ヵ所でも多くの都市装置の破壊を防ぎ、一円でも多くの経済損失を軽減する」、そのためにどうすればよいのか常日頃、四六時中考えるということだ。このような言葉を述べると、「では昔の非文明社会に戻れということか」との反論もあろう。そうではない、たとえば一極集中型の都市構造を改造する、高速道路を都市のど真ん中に通さないなど、人間生活が機能不全に陥ることを避ける方策を常に考えるということだ。都市を巨大なコンクリート防波堤で囲って、これで津波は大丈夫だ安全という発想ではない。

※写真は、能登半島地震の被災現場(2007年3月25日、輪島市門前町)

⇒25日(土)夜・金沢の天気  くもり 

☆「災害は進化する」

☆「災害は進化する」

 けさ(17日)は金沢の自宅周辺でも30㌢の積雪となった。2月2日以来、2週間ぶりの銀世界だ。ただ寒気が少々緩く、雪が融け始めている。屋根から雨だれがパラパラと落ちる。早朝から「雪すかし」(除雪のこと)だ。この季節、スコップで道路を除雪すると響く、ザッ、ザッッという音を耳にすると北陸の人は居ても立ってもいられなくなる。「お隣さんが雪すかしを始めた。我が家もしなければ」と、寝ていても目覚めるのだ。そして誰かが始めて30分もすると、近所中で雪すかしをしている光景が見られるようになる。簡単に近所同士で挨拶はするが、皆黙々と除雪を進める。雪すかしには、決まりや町の会則というものがあるわけではない。あたかも、DNAが目覚めるがごとくその行動は始まるのだ。

 この本の出だしがまずショッキングだ。「災害は進化する」とある。続けて「という」とあるから科学に裏打ちされた法則のようなものではなく、言葉のたとえとして紹介している。確かに、江戸時代では「地震と火災」はセットだったが、それにも増して現代は「地震と原発」など、被害を受ける社会の構造そのものが変化し、放射能汚染など被害が高度に拡大(進化)している。地震をコントロールできない上に、文明の逆襲にでも遭ったかのごとく、この「災害は進化する」という言葉はパラドックス(逆説)として脳に響く。

 原発だけでなく、高層ビルもまた進化する災害(=文明のパラドックス的逆襲)になりうる。2月13日放送のNHK「クローズアップ現代」でも紹介されたように、東日本大震災では、震源から遠い場所(大阪など)にある高層ビルが大きく揺れたり、同じ敷地にありながら特定の建物だけに被害が出たりするなどの不可解な現象が起きたのだ。原因は、建物と地盤の「固有周期」が一致することで起きた「共振現象」と見られている。事例として紹介されていた、震源から770㌔離れた大阪府の咲州庁舎(地上55階地下3階、高さ256㍍)の揺れ幅は3㍍にも。そのとき大阪府は震度3だった。1995年の阪神淡路大震災では、街中を走る阪神高速道路の高架橋が橋脚ごと横倒しとなった。

 『日本災害史』(北原糸子編・吉川弘文館)の執筆陣は歴史学だけでなく、理学や工学の研究者やジャーナリストらで構成されている。テーマは地震だけでなく噴火、洪水などにわたる。この本を読んで、むなしくなる。日本では災害はいつでもどこでも起きる。たとえば近畿を揺るがした地震だけでも1498年・明応地震、1586年・天正大地震、1596年・慶長伏見地震、1605年・慶長大地震、1662年・近江山城地震など、震災は繰り返しやってくる。さらに、津波も。こうした災害と復興を繰り返すことで、日本人の人生観や倫理観、生命観、宗教観などがカタチづくられてきたのではないかと思ったりもする。この本で述べられているように、被災者の救済を第一とする為政者の意識は形成されていて、「お救い小屋」や「お救い米」など避難所や食糧支援の救済マニュアルは江戸幕府にもあった。

 民のレベルでも、相互扶助という意識があり、「施行(せぎょう)」と呼ばれる義援金を力のある商人たちが拠出した。冒頭で述べた「雪すかしのDNA」というのはひょっとすると、過去から現在まで連綿と伝わる、雪国独特の雪害に対処する無意識の連帯行動なのかもしれない。

⇒17日(金)朝・金沢の天気  くもり

★「見える」の意味

★「見える」の意味

 能登半島はにその地形からいろいろな伝説がある。『妖怪・神様に出会える異界(ところ)』(水木しげる著・PHP研究所)にも掲載されている「猿鬼伝説」はその一例だ。能登羽咋(はくい)の気多大社の祭神、気多大明神を将軍として、能登の神々が協力し猿鬼(さるおに)の一軍を退治する物語だ。この猿鬼には矢が当たらない。その理由として、猿鬼が自分の体毛に漆を塗りつけていて、矢を跳ね返す。そこで、矢に毒を塗り、漆を塗っていない猿鬼の目を狙う。毒矢を携え、神々は猿鬼の住む奥能登の岩井戸へ出陣するという話だ。伝説からは、大陸と向き合う能登半島に入ってきた「毛むくじゃら」の異民族との戦いをほうふつさせる。

 さらに、能登にはUFO伝説がある。羽咋市に伝わる昔話の中にある「そうちぼん伝説」がそれ。そうちぼんとは、仏教で使われる仏具のことで、楽器のシンバルのような形をしている。伝説は、そうちぼんが同市の北部にある眉丈山(びじょうざん)の中腹を夜に怪火を発して飛んでいたというのだ。この眉丈山の辺りには、「ナベが空から降ってきて人をさらう」神隠し伝説も残っているという。同市の正覚院という寺の『気多古縁起』という巻物にも、神力自在に飛ぶ物体が登場する(宇宙科学博物館「コスモアイル羽咋」のホームページより)。

 作家の田口ランディさんはこのUFO伝説に満ちた羽咋に滞在して、小説『マアジナル』(角川書店)=写真=を書き上げた。マアジナルは、「marginal 【形容詞】 辺境の、周辺部の、縁にある、末端の、ぎりぎりの。二つの社会・文化に属するが、どちらにも十分には同化していない、境界的な」という意味を持つ(『リーダーズ英和辞典』)。物語は、「こっくりさん」が流行した1980年代、UFOを目たという少年が中心になって少年少女6人がある日、手を取り合って輪を作り、夏の夜空にUFOが現るのを祈った。その直後、そのうちの1人の女子生徒が消息不明となる。この夜をきっかけに、彼らの運命の歯車は少しずつ狂い始める。UFOや宇宙人を内容とする雑誌「マアジナル」編集部にたまたま入った羽咋出身の編集者がこの運命の糸をたぐり始める。すると、残りの5人の人生が再び交錯し始める…。小説の400ページは出張中の新幹線、飛行機の中で読んだのである意味「臨場感」を持って読めた。

 この物語で意外な実在の人物が登場する。アメリカの天文学者パーシバル・ローエルだ。ローエルは冥王星の存在を予測したことで天文学史上で名前を残したが、ほかにも火星に運河が張り巡らされていると主張し、火星人説も打ち立て論争を起こした。アメリカ人を宇宙開発に傾斜させるきっかけをつくった一人でもある。明治時代、そのローエルが東京滞在中に地図を眺めていて、日本海沿岸に突き出た能登半島の形に関心を抱き、そしてNOTOの語感に揺さぶられて、1889年5月に能登を訪れた。後にローエルは随筆本『NOTO: An Unexplored Corner of Japan』(NOTO―能登・人に知られぬ日本の辺境)を1891年に出版する。能登を英文で世界に紹介した初めての人物だ。そして、そのころに能登を辺境=マアジナルと感じた最初の人なのだ。

 小説の中で、6人の少年少女の中で精神科医になった男性が交通事故に遭い、幽体離脱してローエルと対面し問答する下りがある。ローエルは「人間とは、ここがあれば、ここ以外の何かが存在すると考える存在なのです」と述べる。デカルトの「我思うゆえに我あり」を引き合いに出して語るシーンである。そして男性は望遠鏡を覗き込みながら、「あの雲がUFOの出入り口なのですか」と尋ねる。でも、ローエルは「さて、どうでしょうかね。私はそれを見たことがないのでわかりません」と肩をすくめて淋しそうに笑う。この小説は、UFOが見えるか見えないか、我思うゆえに我あり、哲学書にも似た大いなる問答集なのである。

⇒15日(水)朝・金沢の天気   くもり

★内陸地震、秀吉の時代と今

★内陸地震、秀吉の時代と今

 怖い本を読んでしまった、率直な読後感である。『秀吉を襲った大地震~地震考古学で戦国史を読む』(寒川旭著、平凡社新書)。著者は地震考古学という新しい研究分野を拓いた人である。だから過去の被災地をどんどんと遡り研究を掘り進める。そこから、「私たちは、秀吉の時代と同じような『内陸地震の時代』を生きており、その背後には、海底のプレート境界からの巨大地震が迫っている」と導き、本書に記した。発行日は2010年1月。翌年3月11日に東日本大震災が起きた。地震は過去のトピック的な出来事ではなく連続するものだと実感せざるを得ない。

 羽柴秀吉の時代の地震が中心に書かれている。秀吉は2度、度胆を抜かれる地震を経験している。1度目は1586年1月18日、中部地方から近畿東部が激しく揺れた天正地震。越中の佐々成政を攻めて、大阪城への帰路、琵琶湖南西岸の坂本城にいた。揺れは4日間も続き、その後、秀吉は馬を乗り継いで大阪に逃げるようにして帰った。この坂本城はもともと明智光秀が築いた城だった。光秀は、本能寺の変を起こし、秀吉に敗れて近江に逃れる途中で殺された(1582年7月)。著者も「明智光秀ゆかりの城にいて、大地の怒りに触れた瞬間、どのような思いが胸をよぎっただろうか」と書いているように、秀吉には因縁めいて居心地が悪くなったに違いない。この地震では、岐阜県白川郷にあったとされる帰雲城(かえりくもじょう)が山崩れで埋まり、城主の内ヶ島氏理ら一族が一瞬にして絶えた。

 秀吉が2度目に大震災に遭ったのは10年後の1596年9月5日。太閤となった秀吉は中国・明からの使節を迎えるため豪華絢爛に伏見城を改装・修築し準備をしていた。その伏見城の天守閣が揺れで落ち、城も崩れた。それほど激しい地震だった。秀吉は無事だったが、その崩れた伏見城に駆け参じたのが加藤清正だった。当時清正は、石田三成と諍(いさか)いを起こし、秀吉の勘気を受け伏見城下の屋敷に謹慎中だったが、数百人の足軽をともなって駆けつけた忠誠心が秀吉を感動させ、その後謹慎処分が解かれた。このエピソードが明治に入り歌舞伎「地震加藤」として広まった。ほかにも、伏見地震にまつわる秀吉の伝説がある。誰かが混乱に紛れて刺殺に来るのではないかと、秀吉は女装束で城内の一郭に隠れていたとか、建立間もない方広寺の大仏殿は無事だったが、本尊の大仏が大破したことに、秀吉は「国家安泰のために建てたのに、自分の身さえ守れぬのならば衆生済度はならず」と怒りを大仏にぶつけ、解体してしまったという話まで。災難を通して秀吉という天下人の人格が浮かび上がる。

 問題は、この伏見地震の4日前には愛媛県を震源とする伊予地震が、また前日には大分・別府湾口付近を震源とする豊後地震が発生しており、活断層が連鎖した誘発地震だったということだ。日本列島は起伏に富んで風光明美、気候も温暖だが、この島は地震によって形成された島々でもある。したがって、「私たちは、大地の激しい揺れから逃れることはできない」と筆者は強調する。秀吉の時代と違っているのは、現代のわれわれは文明の産物に囲まれていることだ。高層ビルや高速道路、電柱や電車、自動車、そして原子力発電所まで、その文明の産物が凶器なりかねないのだ。「私たちの国土を破滅に向かわせてはならない」。筆者のメッセージは重い。

⇒3日(火)朝・金沢の天気   くもり

★死は理解されているか

★死は理解されているか

 先日、自宅に配達を依頼した本が届き、目にした家人がいぶかった。「なんでこんな本を買ったの。気味が悪い」「50も半ばを過ぎると、こんなことに興味を持つようになるのか」。さんざんだった。その本の名前は『死体入門』(藤井司著、メディアファクトリー新書)。著者は法医学者だ。この本を購入したきっけは特別な趣味でも、年齢のせいでもない。ちょっとした背景がある。

 金沢大学の共通教育授業でマスメディア論を教えている。その中で、学生たちに問いかけるテーマの一つが、「マスメディアはなぜ遺体、あるいは死体の写真や映像を掲載・放送しないのか」という論点である。東日本大震災での遺体写真の掲載については、新聞各社は原則、死体の写真を掲載していない。被災地の死者(死体)の尊厳を貶めることにもなりかねないとの各社の判断があり、あえて掲載していない。リアルな現場というのは、遺体(死体)の写真をストレートに見せることはしなくても、なんらかの見せ方によって、犠牲者の多さや無念の死というものを表現することは可能との意見が多い。そのような話を周囲の研究者にすると、「では、これを読んでみてください」と薦められたのがこの本だった。マスメディアで掲載・放送するしないの論議以前の話として、日常生活で遺体(死体)と接することがめったになく、遺体(死体)そのものについて我々は無知である。これでは何も語れない、イメージと感情だけで論じることに等しいと思い、向学のために本を注文した。

 衝撃的な記述が次々と目に飛び込んでくる。アメリカのテネシー大学には「ボディ・ファーム(死体牧場)」がある。1㌶ほどの土地に、20体ほどの死体が地面に放置され、半ば埋められ、ゴミ袋に詰められたものもある。そして死体がどのような条件下でそのように腐敗していくかの実験が進めらている。これまで主観的や経験と勘で判断されていた死亡推定時刻を、科学的なデータの蓄積で解析していこうという研究なのだ。1981年に施設が設立された。同じ大学関係者や学生たちからの苦情やストライキなど難問が立ちふさがったが、それを乗り越え、いまやテネシー大学は死体の腐敗研究では最高権威となった、という。さらに驚くことに、この腐敗実験に用いられる死体は、生前に自身が登録して献体するボランティアなのだ。

 日本の大学での解剖学の献体のシステムについても語られている。献体登録した方が亡くなると、病院から解剖学教室に連絡が入る。教室員が遺体を引き取りにやってきて、遺族を意思も確認される。大学では遺体を清潔にし、髪も切る。血管に保存液を注入し防腐処置をする。その後、アルコール溶液に漬ける作業が行われ、遺体は一体一体丁寧に包まれ保管される。献体は「ホルマリンのプール漬けになっている」や「死体洗いのアルバイトがある」などは私自身も学生時代に噂として聞いたが、真実と嘘が混じっているようだ。ただ、この献体は解剖学教室員の以外の人は関与しないので、医学部の中でも知られていないは事実のようだ。

 日本人は死をどのように見つめてきたのか。写実的な観察した記録もある。九州国立博物館に所蔵されている『九相詩絵巻』(14世紀)はその最古の絵巻といわれる。女性の「生前相」「新死相」「肪脹相」「血塗相」など腐敗の過程が骨がバラバラになるまで9つのプロセスで描かれている。絵に描かれるほど、死体は古くから一般的でなく、謎だった。

 意外だったのはこんな数字。人間に限らずすべての動物には体の中に細菌が棲みつく。成人した人間の体内では約500種、100兆個の細菌が体内に同居して酵素を分泌している。その細菌の重量を合計すると、1㌔㌘にもなると考えられるという。人が死ぬと、これら体内の細菌は酵素を分泌してたんぱく質を分解し始める。これが腐敗、「自己融解」である。くだんの『九相詩絵巻』はその体の腐敗の過程を色の変化で見事にとらえている。

 終わりに、著者はこう訴えている。「不必要に死体をおそれ、死体への興味を育まない社会も問題ではないだろうか。死体に関心を持つことさえ許さない風潮がある」「誰もが最終的にたどり着く姿であり、ありふれた存在であるはずの死体が徹底的に隠される現状のほうが異常ではないですか?」と。そして、無縁社会と称される現在、たった一人で亡くなり、ミイラ化した死体が日本では約5日に1件発見されているという事実。孤独をまぎらわすために犬やネコを飼う独居老人も多い。飼い主が死亡した場合、その犬やネコはどのような行動をとるのだろうか…。
 
 この本を読んで、死を見つめるバリエーションはかくも多いと気づく。そして、死体について我々は知らぬことばかりだ。

⇒16日(金)夜・金沢の天気   ゆき 

★6枚の壁新聞

★6枚の壁新聞

 2011年3月11日、東日本大震災が起こり、東北地方を大津波が襲った。「メディアも被災者」という言葉をこれまで何度かメディアの授業で使ってきた。そのたとえで宮城県の地域紙「石巻日日新聞」を取り上げた。そのとき記者たちはどのような行動をとったのか。そのドキュメンタリーが新書本とした出版された。本のタイトルは『6枚の壁新聞』(角川SSC新書)。同社の輪転機の一部が水に浸かり、新聞発行ができなくなった。そのときとっさに思い立ったのが本のタイトルにある「壁新聞」をつくることだった。おそらく、大手紙やブロック紙と呼ばれる新聞社だったら思いもつかなかったことだろう。地元密着、「伝える」執念を描いたドキュメンタリーだ。

 石巻日日新聞。イシノマキヒビシンブンと読む。ニチニチではない。夕刊紙が専門で、宮城県東部の石巻市や東松島市、女川町などをエリアに震災前は1万4000部を発行していた。従業員は6人の記者を含め28人。典型的な地域紙と言ってよいだろう。この日(3月11日)は夕方から雪の予報が出ていて、夕刊は午後2時半ごろ早めに配達が始まっていた。地震の発生は午後2時46分、その3分後に大津波警報が発令、さらにその50分後の3時40分に石巻市内の同社に津波が到達した。社屋の倒壊を免れたものの、1階にある輪転機の一部が水に浸かり、さらに電気が止まった。来年には創刊100周年を迎える歴史ある新聞を発行できないという危機に陥る。社長の近江弘一は決断する。「今、伝えなければ地域の新聞社なんか存在する意味がない」「紙とペンさえあれば」「休刊はしたくない。手書きでいこうや」と。そして、3月12日付=写真=から6回にわたって壁新聞づくりが始まり、避難所などに貼り出された。

 記者も被災した。津波に飲み込まれながら、浮流物につかまり一晩漂流した後にヘリコプターで救出された33歳の記者、津波に後ろから追われながら山の上に逃げて生き延びた記者もいた。生死と向き合う壮絶な経験をしたからこそ、被災者はどのような情報を必要としているのか的確に把握できたのだろう。伝える使命感が手書きの壁新聞へと記者たちを走らせる。ただ、記者にたちとって忸怩(じくじ)たる思いがなかったわけではない。壁新聞は量産できないので、貼り出した場所(避難所など)でしか読まれない。手書きの壁新聞では字数が限られ、取材した情報のほとんどは掲載されない。さらに、電気も輪転機も無事な大手紙が避難所に無料で新聞を配れば、「石巻日日新聞離れ」が生じるのではないか、そのような思いが交錯した。若い記者たちの歯がゆい思いは別として、水に浸からなかった新聞用ロール紙、そしてフェルトペン、そして紙を切るカッターナイフしかなかった。

 電気が来て、パソコン入力でA4版のコピー新聞ができたのは17日の夜だった。そのコピー新聞を手にした記者デスクは「サイズは小さくとも、活字で情報を伝えられることに喜びがあふれた。早くいつもの新聞を作りたい」と記している。

 被災直後、多くの人は携帯電話のワンセグ放送やメールで情報を得た。しかし、充電できずバッテリ-切れとなって初めて、情報から隔絶された孤独感に追い込まれた。そんな状況の中で、壁新聞は「情報のともしび」だったに違いない。3月20日付から水没を逃れた古い輪転機を使い1枚(2頁)刷りの紙面での発行が再開された。ただ現実として、「家がなくなったから新聞を止めてほしい」「日日新聞を楽しみにしていた肉親が亡くなったので」との理由から新聞離れは始まっている。次に来る経営という問題に…。

⇒29日(火)夜・金沢の天気  くもり

☆佐渡とグアムの島旅2

☆佐渡とグアムの島旅2

 佐渡市から新潟市に戻り、16日にJR特急「北越」で夕方、いったん金沢に帰った。今度はグアムに行くための支度をして、その日の深夜(17日)、金沢駅3時10分発の急行「きたぐに」に家人と共に乗り込んだ。新大阪駅で特急「はるか」に乗り換え、8時前に関西空港に着いた。列車に乗っている時間がたっぷり8時間余りあったので、2冊の本を読むことができた。

        ~森と海の壮大なサイエンスの物語と絶望を見守る大いなる愛~

 一冊目は畠山重篤氏の『鉄は魔法使い』(小学館)。この本は畠山さんのサイン入りだ。ちょっとした経緯があった。先のコラム(9月3日付)で書いた「地域再生人材大学サミットin能登」(9月1日~3日・輪島市)で畠山さんから依頼を受けた。公開シンポジウム(2日)が始まる30分前の9時半ごろだった。「宇野さん、20冊ほど持ってきたのですが、販売していただけませんか」(畠山)、「急な話でどれだけ売れるか分かりませんが、畠山さんの基調講演が終わった後の昼休みにロビーで販売しましょう。せっかくですからサイン会ということにして、畠山さんもその場に来ていただけませんか」(宇野)、「わかりました。急なお願いですみません」(畠山)。ということで急きょ、畠山氏のサイン会をしつらえた。聴衆はホール満員の入りだったので売り切る自信はあった。私が購入第1号となり、サイン本を掲げ、運営スタッフの女性が「ただいま、畠山さんの本のサイン会を行っています」と呼び込み、畠山氏がサインと握手を。列ができ、7分間で残り19冊は完売となった。「もう本はないのか」と苦情も出た。

 その本はイラストで解説し、自伝風に書かれとても読みやすい。漢字にはルビが打たれ、子供たちにも読んでほしいという意図が込められている。畠山氏は先の講演でも「森は海の恋人運動は、子供たちの心に木を植えたい」と語っていた。そして、読んでいるうちに、森と海のサイエンスの壮大なドラマが描かれていることに気が付いた。

 畠山氏らカキの養殖業者が気仙沼湾に注ぐ大川の上流で大漁旗を掲げて植林する「森は海の恋人運動」はスタート当時、科学的な裏付けはなかった。畠山氏に協力して、北海道大学の松永勝彦教授(当時)が魚介類と上流の山のかかわりを物質循環から調査し、同湾における栄養塩(窒素、リン、ケイ素などの塩)の約90%は大川が供給していることや、植物プランクトンや海藻の生育に欠かせないフルボ酸鉄(腐葉土にある鉄イオンがフルボ酸と結合した物質)が大川を通じて湾内に注ぎ込まれていることが明らかとなった。この調査結果はダムの建設計画を止めるほどに威力があった。畠山氏は多くの科学者と交わりながら、魚介類と鉄の科学的な関わりにのめり込んでいく。地球と鉄の起源を知るために、オーストラリア・シャーク湾近くのハマースレー鉱山を見に行く。ジュゴンが1万頭も生息する海藻の森は、はやり鉄との関わりからからだと確信する。そして、最終章で、オホーツク海に注ぐアムール川が運ぶ鉄が三陸沖まで運ばれ豊かな漁場を形成しているとの総合地球環境学研究所のプロジェクト調査を紹介している。20数年前、気仙沼で問いかけた魔法の謎解きが、地球サイズの話へと小気味よく展開するのである。

 本人は3月11日に被災した。津波でカキの養殖施設は流され、母親も亡くした。が、1ヵ月ほどして、海が少しずつ澄んできた。ハゼのような小魚など日を追うごとに魚の種類も海藻も増えてきた。つまり大津波によって海が壊れたわけではない。生き物を育む海はそのままで、カキの養殖も再開できる、「漁師は海で生きる」と自らを奮い立たせている。

 もう一冊の本が、あのノーベル作家のパール・バックの『つなみ ◆THE BIG WAVE◆』(径書房)。日本で滞在した折に取材し、アメリカで1947年に出版された。漁師の息子ジヤと友達の農家の息子キノの2人の少年。ある日突然に村を襲った大津波で、家も家族も失ったジヤをキノの両親が息子同様に育てる。ジアは周囲の愛情に包まれて成長し、やがて生まれ育った漁村に戻り、漁師と生きる決意をする。日本人の自然観や生活観、生死観を巧み取り込み、パール・バックはまるで自らの子のように少年たちを厳しくも優しく眼差しで描く。

 パール・バックには、重度の知的障害を持つ娘がいた。母親としての苦悩の日々ながら、娘の存在を創作の原点として文章を描いたという。ノーベル賞の賞金や著書の印税など収入のほとんどを養護施設に投じ、娘のほかに7人の戦争孤児を養育した。優しい眼差しの原点と、その生涯がだぶる。

⇒17日(土)夜・グアムの天気   あめ

☆猛暑は読書に限る

☆猛暑は読書に限る

 連日気温30度を超える。こんな日は、あちこちと動き回るより、じっと読書していた方がしのぎやすい。最近読んだ本の中から、2冊を取り上げる。

【『働かないアリに意義がある』(長谷川英祐著、メディアファクトリー新書)】

 幼いころ読んだイソップ寓話に「アリとキリギリス」がある。夏の間、アリたちは冬の間の食料をためるために働き続け、キリギリスは歌を歌って遊び、働かない。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、アリたちに頼んで、食べ物を分けてもらおうとする。しかし、アリたちは「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだ」と皮肉を込めて断る下りをいまでも覚えている。ことほどさように、アリは働き者というイメージが世界で共有されている。

 ところが、この本のタイトルにあるように、「働かないアリ」がいる。その実態は、働きアリの7割はボーっとしており、1割は一生働かないというのだ。働き者で知られるアリに共感する我々人間にとって意外だ。しかも、働かないアリがいるからこそ、アリの組織は存続できるという。これも意外だ。以下、著書の中からその理由を引用する。

 昆虫社会には人間社会のように上司というリーダーはいない。その代わり、昆虫に用意されているプログラムが「反応閾値(いきち)」である。昆虫が集団行動を制御する仕組みの一つといわれる。たとえば、ミツバチは口に触れた液体にショ糖が含まれていると舌を伸ばして吸おうとする。しかし、どの程度の濃度の糖が含まれていると反応が始まるかは、個体によって決まっている。この、刺激に対して行動を起こすのに必要な刺激量の限界値が反応閾値である。人間でいえば、「仕事に対する腰の軽さの個体差」である。きれい好きな人は、すぐ片づける。必ずしもそうでない人は散らかりに鈍感だ。働きアリの採餌や子育ても同じで、先に動いたアリが一定の作業量をこなして、動きが鈍くなってくると、今度は「腰の重い」アリたち反応して動き出すことで組織が維持される。人間社会のように、意識的な怠けものがいるわけではない。

 著者の進化生物学者の長谷川氏は北海道大学の准教授で、アリやハチなど社会性昆虫の研究が専門。実験から「働かないアリだけで集団をつくると、やがて働くものが現れる」などの研究成果を導き出している。

【『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』(神坂次郎著、新潮文庫)】

 異常な記憶力、超人的な行動力で知られる、博物学者であり、生物学者(特に菌類学)であり、民俗学者の南方熊楠。明治19年(1886)にアメリカに渡り、粘菌類の採取研究を進める。さらにロンドンの大英博物館に勤務し、中国の革命家、孫文らと親交を結ぶ。著者は、論文や随筆、書簡や日記などたどり、波乱の生涯を浮かびあがらせている。

 面白いのは熊楠の悲憤慷慨(こうがい)ぶりである。頭に血が上ると、止まらない。和歌山県田辺の隣人の材木成金が傍若無人の態度を取るので、鉄砲を持った仲間を呼び寄せ「戦闘態勢」に入った。警察官も入る騒動となり、2年間も隣人争いを続ける。この成金が破産して戦(いくさ)は幕を閉じる。著書を読む限り、熊楠の悲憤慷慨は常勝である。

 その熊楠がクジラの塩干しを炭火であぶって、よく酒を飲んだと著書にあり、この塩干しが食べたくなった。和歌山県太地町から「鯨塩干」を取り寄せた。黒くてフワフワ感がある。これをオーブンで5分間焼く=写真=。「これが熊楠の好物だったクジラの塩干しか」とわくわくしながら口にした。どこか覚えのある味だった。スルメイカの一夜干しのあぶったものと歯触りや味がそっくりなのだ。

⇒3日(水)朝・金沢の天気  はれ

☆武士の家計簿

☆武士の家計簿

 金沢市片町2丁目にかつて老舗の喫茶店があった。朝7時半から営業していて、広い店内には早くから客が入っていた。客の中にはいくつグループがあって、目つきが鋭い人たちがいた。金沢市内の不動産の情報を交わす人たち、あるいは骨董や古美術の会話をするグループもいた。それぞれのプロたちによる朝のミーティングだったのだろう。20年以上も前、「バブル経済」の時代の話だ。その喫茶店の名前は「ぼたん」。2006年の冬だったろうか、創業60年の暦を刻んで店じまいしてしまった。今、その店が営業を続けていれば、おそらく全国から客が訪れていた違いない。幕末、加賀藩の「そろばん侍」といわれた下級武士の暮らしを描いた映画『武士の家計簿』の主人公、猪山直之・成之家が実際にあった場所である。

 原作は磯田道史著『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』(新潮新書)である。2003年に出版された当時読んだ。それこそ今の言葉で表現すれば、政権交代、経済破綻、地価下落、リストラ、教育問題など現代の日本が直面している問題を、140年ほど前に大政奉還後の武士たちや商人が経験していた。江戸時代から明治へと近代日本の姿が一つの家族を通して見えてくる。そんな著書だ。

 ある意味で、そろばん侍の出世物語でもある。参勤交代で加賀藩の2000人もの武士たちが金沢と江戸を往復した。加賀藩の御算用者はその宿泊費、交通費などのロジスティック、軍事用語で「兵站(へいたん)」の会計を担当した。猪山直之の息子・成之はこのロジの緻密な計算力が買われて、海軍主計という職にありついた。薩摩、長州の官軍の武士たちは勇猛で、時代の功績者ではあるものの、それだけでは国家規模の軍隊は動かせない。近代の軍隊へと脱皮するためには、西洋式兵法と並んで、組織を経理面でも動かす実務経験者が必要だったのである。これは時代のニーズだった。

 著書の中で、新しい時代に適応した猪山家とは対照的に、時代に逆らった不平士族たちがいた。金沢で三光寺派と呼ばれたグループで、リーダー格は元加賀藩士の島田一郎だった。明治11年(1878年)5月、大久保利通を東京・紀尾井坂で暗殺した。島田らは自首し、同年7月に斬首刑に処される。その島田の遺骸を引き取りに赴いたのは成之だった。著書の中で、私が一番注目したのはこの下りだった。明治維新の元勲を殺害した逆賊の遺骸を引き取りにいくだけでも、帝国の軍人としてリスクは伴ったことは想像に難くない。が、誹(そし)りを受けるのを覚悟で、本懐を遂げた島田の最期を、同郷の侍の一人としてと弔った。人生の損得のそろばん勘定を超えた、人間的な眼差しを評価するのである。

⇒13日(月)朝・金沢の天気  くもり

☆文明論としての里山19

☆文明論としての里山19

  「文明論としての里山」のシリーズの中で、「持続可能な社会」や「生物多様性」という言葉をよく使ってきた。長らくあり続け住みよい社会、自然と共生する人間のあり方を当然として論じてきたわけだが、では、人はなぜそのようなあり方が「よい」と思うのだろうか。少々理屈っぽくなるが、考えるヒントとしてある著書で出会ったので紹介を交え考えてみたい。

              ミームは選択を始めた

   『なぜ飼い犬に手をかまれるのか』(日高敏隆著、PHPサイエンス・ワールド新書、09年)はタイトル名で注文してしまった。「飼い犬に手をかまれる」という言葉は、部下の反逆を意味する。それに、「なぜ」と付されると、科学の領域のような感じがして手を伸ばしたくなるものだ。動物行動学者の日高氏については、個人的に一度だけエピソードがあり、この『自在コラム』でも紹介したことがある。

  本論に入る。『なぜ飼い犬に…』の本文は新聞に掲載したコラムを集めて編集したもので、読者に分かりやすいように書かれている。その中の「なぜ老いるのか」では、人間が死後に残せるものが2つあると述べている。一つは遺伝子である。これは生物が子孫に伝えていく生物の「設計図」。もう一つは、人間が伝える文化だという。イギリスの進化生物学者リチャード・ドーキンスが最初に言い始め、遺伝子のgene(ジーン)にならって、meme(ミーム)と名づけたもので、「遺伝子以外にも存在しうる理論上の自己複製子の例として提案した」と「ウィキペディア」では紹介されている。ドーキンスが唱えたミーム=情報伝達における単位としての定義だが、具体的な例として、著書を引用すると「人間は後世に技術や業績、作品、名声を残すことができる。これらがミームである」と。日高氏は、ドーキンスのミーム論を著した『The Selfish Gene(利己的な遺伝子)』の訳者として、ミーム論を支持してきた。

  日高氏は続けてこう述べている。「そのミームが遺伝子と異なるのは、伝わる相手が自分の子孫だけではないことだ。ミームが伝わっていくのは、たとえば教え子であったり、読者であったり、民族であったり、信者であったりする。よくもわるくも、人間という生きものが、地球上で繁栄しているのはミームによって複製され、伝えられる文化によるものなのである」。文化の存在は、人が人へと伝えることで続いていく。人間は多くのミームを残そうとするが、よいミームは広く伝わり文化として継承され、わるいミームはやがて消えてしまう。

  ここからは宇野の勝手な解釈である。自然の支配と改造はヨーロッパ諸国を中心とした人々の願望だった。その願望に沿って、植民地獲得競争や、化石燃料の活用による産業革命が起こり、その成果に乗って近代文明を築こうとすると情熱がさらに膨張し、ついに宇宙にまで到達した。資本主義や社会主義というイデオロギーも、この波を支える力として作動したにすぎない。その反動として、化石燃料の使いすぎによる地球温暖化や、その連鎖される気候変動が起きて、地球環境問題が人類の大きなテーマとしてクローズアップされてきた。「支配と改造の発想はもう限界だ」とアル・ゴアやレスター・ブラウンらが世界中で訴えて回り、それまでも先駆者たちが唱えてきた「持続可能な社会とは何か」「生物多様性をどう守るのか」という問いに、人類が気づき始めた。

  これを日高流に言えば、「次世代に伝えるミームの大転換」が始まったのではないかと考える。再度、著書を引用する。「人間を特徴づけている文化は、ミームによって伝えられ、その拘束は、表面上は生物としの本能よりも強固なものになっている。ミームは複数の文化を生み、それらは反発したり、融合したりして、またミームによって次世代へ伝えられる。その過程で人間は殺し合いをしたり、生物としては死ぬ状態にあったものが延命されたりする」

 地球の支配と改造を続ければ、人類は生物として死ぬ状態にある。延命するためにどのような選択をすればよいのか、ミームがうごめき始めたのではないか。著書からこう読み取った。「人類の英知」などという政治的な表現ではなく、生物学的な表現で捉えたところが斬新でもある。

 ⇒22日(月)金沢の天気   くもり