⇒メディア時評

☆メディアのツボ-28-

☆メディアのツボ-28-

 師走に近い。この時期になると、大晦日に向けて忙しかった。ところが今年はそれも思い出になってしまった。指揮者の岩城宏之さんのことである。

  ベートーベンのネット配信はいかにして成立したか

 04年と05年の大晦日、岩城さんが東京でベートーベンの交響曲1番から9番までを指揮するというので放送メディアの一員として付き合いをさせていただき、東京で年越しをした。で、何をしていたのかというと、大晦日の午後3時半から年越しの深夜1時を回る9時間40分ほどを、04年はCS放送「スカイ・A」で生放送、そして05年はスカイ・Aでの生放送と同時にインターネットでライブ配信した。

  04年は北陸朝日放送のプロデューサーとしてかかわり、05年は同社を退職して、フリーのメディア・プロデューサーとして経済産業省が放送コンテンツをインターネット配信する実証事業にかかわった。立場を変えて2度もクラシックの一大イベントのかかわることができたのである。

  そこで、記録として05年の大晦日にこの番組が成立した背景などを書き留めておくことにする。経済産業省から事業委託を受けた石川県映像事業協同組合は、04年で放送実績があった北陸朝日放送(HAB)にインターネット配信のコンテンツ制作を委託。HABはスカイ・A(大阪)と共同制作するという枠組みで05年のベートーベンチクルス(連続演奏)を番組化した。スカイ・AはCS放送で番組に、一方で、HABはインターネット用のコンテンツ配信を行った。

  本来、著作権に関してはベートーベンの死後50年以上も経ているので発生しないが、指揮者や演奏者らが有する「隣接権」がある。これに関しては、岩城さんは「国の事業であるならば協力する」との意向を示し、CS放送に関しては著作権料は課せられたが、ネット配信に関しては著作権料の有無を問わないと明言された。また、演奏を企画した三枝成彰事務所とNHK交響楽団のメンバーを中心とする演奏者も岩城さんに意向に従った。

   煩雑さが予想されたネット配信の著作権処理は岩城さんの意向でクリアされたものの、次なる問題は9時間40分にも及ぶライブ配信。ましてや12月31日の大晦日はただでさえインターネットの回線容量が確保できないという状態にあり、安定したネット環境で配信ができるのかという懸念があった。そこで、動画サーバと映像のオーサリングを日本テレコムの東京の拠点に置くことで解決をはかった。日本で一番の大容量の回線が担保された場所にサーバを設置したのである。

  配信に当たってはテレビ局サイドと協議を重ねたが、今回の回線の構成そのものが芸術的かもしれない。まず、コンサートが開かれた池袋の東京芸術劇場で中継した映像データをマイクロ波に乗せてサンシャインシティの上にあるテレビ朝日のマイクロ施設を経由して六本木のテレビ朝日本社に送る。ここでマイクロ波のデータを今度はデジタルデータに変換し、光ケーブルに乗せて大阪のスカイ・Aに送る途中で分岐して日本テレコムのデータセンターに持ってくるという方法である。これはマイクロ施設など伝送路を確保しているテレビ局の協力を得た「大技」であった。

  今回はCS放送とネット配信の2元ライブだったが、インターネットでは途中でデータを変換するオーサリングが伴うため、CS放送より時間にして40秒余り画像と音が遅れることが分かった。また、9時間40分のネット配信でのIPアクセス(訪問者数)は2234となった。クラシック音楽のファンは国民の数%と言われおり、スポーツ映像やドラマと比べれば格段に少ないIPアクセスかも知れないが、ログ解析をする上では十分可能だった。

  その後判明したことだが、2234のログをつぶさに解析をした結果、訪問者のうちウイーンから17アクセスがあった。テレコム・オーストリアのサーバードメインだった。クラシックの本場から、日本の一大イベントはモニターされていたのである。このことは私自身の怠慢で、岩城さんに報告するチャンスを逸してしまった。その岩城さんは手術のために入院、そしてことし6月に逝去された。もしこのウイーンからのアクセスを報告していれば、岩城さんはニヤリと笑って、「ニホンのイワキはとんでもないことをやってくれたと世界の連中は言っているだろう。それで本望だ」と言葉を返してくれたに違いない。

  岩城さんは2度目の演奏を終えた打ち上げパーティーの席上=写真=で、3度目の挑戦を宣言していた。それが叶わなくなった今、その後も「岩城さんの後を引き継いで06年の大晦日はオレがやる」という指揮者は現れていない。放送コンテンツとしての「ベートーベンの1番から9番を振るマラソン」は、次なる挑戦者を待たねばならない。

 ⇒18日(土)夜・金沢の天気  くもり

★メディアのツボ-27-

★メディアのツボ-27-

 韓国や中国の新聞社のインターネット日本版を最近よく読む。これらの新聞メディアが日本をどう見ているの興味があるからだ。それにしても目に付くのは、かつて日本のバブル時代のような記事である。面白そうな記事があったので紹介する。

       海外メディアの裏読み

  韓国・中央日報の11月17日付のインターネット版だ。景気がよい中国の外資系製薬会社の一行が大挙して韓国・済州島を訪れたという記事。以下は抜粋。

  「…済州道(チェジュド)の中文観光団地は中国人であふれかえった。12日から17日まで済州道で開かれる2006バイエル・チャイナ・コンファレンスに参加するため、なんと1600人余の中国人が一斉に訪れたのだ。 世界的な製薬会社バイエルの中国法人に勤務する職員らだ。 バイエルの職員らは数機のチャーター便で済州に来ることもできたが、万一の事故に備えて航空機には分散して搭乗しなければならないという内部規定に基づき、11日から3日間にわたり50-100人ずつ50便余に分かれて済州入りした。 行事期間の費用は計50億ウォン余(約6億円)。」

  「…16日の行事では営業社員1200人に現代(ヒョンデ)車ラヴィータを1台ずつ支給するという内容を発表した。 もともとアバンテに決まっていたが、北京タクシーがアバンテという理由でラヴィータに変更された。 李社長は、中国人職員らが写真撮影のために列をつくるほど人気者だ。」

 ようするに、中国の製薬会社の経営者(韓国人)が済州島で社員旅行をやって、1200人の営業社員に韓国車を与えたという話だ。記事では、韓国人経営者はなんと太っ腹かと賞賛する内容だ。記事のポイントは、1200人の営業社員に車を与えたとうところにありそうだ。当初は中国車である北京現代のアバンテXD(現地名エラントラ、中国警察の公式車)を支給することを考えていたが、韓国産の現代ラヴィータに変更したら大変喜ばれたとの記述である。

  この記事には2つの読み方がある。一つは必要経費としての営業車の問題だ。営業マンなのだから、当然、営業車があってしかるべきで、それを会社所有とせずに個人名義で与えるということだろう。当然、個人所有は会社から贈与されたことなるので社員は喜ぶ。ところが冷静に読めば、交通インフラが遅れている中国では交通事故が頻繁に起きる。なので、営業車を会社名義より個人名義にしておた方が会社としてのリスクは回避できる、と読んだ方がよさそうだ。

  もう一つのポイントは、中国車から韓国車に変更したという点。これは単なる性能の問題だろう。中国のタクシーが国産のアバンテなので、そこらじゅうに走っている車は欲しくないと従業員が進言して、ちょっとグレードが高い韓国産の現代車に変更したと意味と解釈した方がよさそうだ。中央日報は祖国愛にあふれた経営者というふうに表現したかったのだろうが、きちんと読むと、むしろこの韓国人経営者の企業防衛に配慮した深謀遠慮が伺える内容だ。

  もちろん日本にいる我々の基準で判断すると海外現地の事情を見誤ることが多いだろう。言いたかったことは、海外の新聞の場合、日本語に訳された記事の額面どおりに読むことは難しいということだ。新聞記事はどこの国も注意深く客観的に書いてあるとは限らない。日本の場合は海外に比べて分析も豊富でそれなりにバランス感覚を保っているが、海外のメディアも同じだと思ったら大間違いだ。あのメディア大国、アメリカでも、テレビ局の公平中立を旨としたフェアネス・ドクトリンをとっくの昔(1987年)に廃止し、政党色を強くしている。海外メディアは裏読みが必要なのだ。

⇒17日(金)午後・金沢の天気  はれ  

☆メディアのツボ-26-

☆メディアのツボ-26-

 テレビメディアの話をしていて、最近よく問われることは「ワイドショーなどでよく顔にモザイクがかかったインタビュー映像が出てくるけど、あれって本当にモザイクが条件でしゃべっているのか」である。

     インタビューとモザイク

  確かに、CNNなど海外のニュース番組では顔にモザイクがかかったり、機械音に変換された音声というのはお目にかかったことがない。これは日本独特なのかと思ったりもする。おそらく制作する立場では、「とにかく後に問題が残らないようにインタビューにモザイクをかけろ、音声に変換をかけとけ」とディレクターが編集マンやカメラマンに指示しているはず。

  事件や問題の核心に触れて、その微妙な内容のインタビューが後に法廷で証拠提出として提出を求めらる、あるいは取材源の提示を求められるといった内容であるならば、モザイク映像や変換音は一定理解できる気もする。ところが、いかにも近所のおばさんが「(犠牲になった)あの子は明るい、いい子でしたよ」といった内容の、さして匿名性が必要でもないような場合でもモザイクがかかることに問題があるように思える。

  先日、金沢大学で自主的にマスコミを勉強する学生たちと「新聞記事と匿名」をテーマで論議した。学生たちが取材したロースクールの学生たちが、「個人情報を守るという立場から実名掲載は避けてほしい」と言い出し、学生記者と論議になった。学生記者は「報道の信頼を確保するためにもぜひ実名で」と要望した。そこで実名で了承してくれた何人かのロースクールの学生たちのインタビューを採用した。司法試験の合格を目指す学生たちで、実名インタビューを控えたいと思う学生もいるだろう。そこで、粘り腰で取材相手に対し報道の信頼性の確保について説明し、理解を得て実名報道をするということになった。これは実に正当な論議であり、取材手法なのである。

  では、テレビの取材現場では報道の信頼性を確保ということを相手に説明する努力をしているだろうか。あるいは、「音が取れている」(インタビューができている)ということを持ってして、信頼性は担保されている、つくりごとではない。だから、モザイクや変換音(匿名)でも構わないと安易に考えてはいないだろうか。これは邪推だが、「むしろモザイクがかかっていたほうが、それとなく信頼性がある」と演出上の効果を狙ったりはしていないだろうか。

  事件や事故現場の映像ニュースの場合、単独でインビューした場合はモザイクで、複数社でぶら下がった(共同インタビュー)はモザイクがかからない場合が多いという傾向はないだろうか。とすると、インタビューされた側がクレームをつけた場合のリスク分散をテレビ局が考えているに違いない、と視聴者は思ってしまう。「みんなで渡れば怖くない」の発想だ。これは取材の独自を貫くべき報道現場の姿勢ではないだろう。

  言葉の内容もさることながら、事件について語る人々の表情こそが映像ジャーナリズムの原点だと考える。顔の表情、音声にもっとこだわってほしい。

⇒14日(火)夜・金沢の天気  雨    

☆メディアのツボ-25-

☆メディアのツボ-25-

 最近気になっているニュースが「いじめ自殺」を文部科学省の大臣に予告する匿名の手紙が相次いでいることだ。マスメディアの報道の仕方が自殺予告を増長しているのではないか、との懸念である。

    自殺報道のパラドックス

   文科省に最初に届いたのは今月7日。差出人は不明だが、大臣、教育委員会、校長など宛てた合計7通の手紙が入っていた。それを新聞やテレビのメディアは写真つきでその手紙で紹介した。すると、後日さらに5通の匿名のテレビが大臣宛てに届いた。

  いじめに耐えかねている子どもにすれば、遺書を読んでもらえれば、あるいは遺書を写真で出してもらえれば、いじめている側に一発逆転の復讐ができる、という思いがあるだろう。つまりテレビや新聞が遺書を紹介するなど丹念に取り上げれば、あるいはセンセーショナルに扱えばそれだけ自殺を増長することになるのではないか。

  情緒的で一方的ないじめ自殺の報道は、「自殺するならいまだ」と考えている自殺予備軍の子どもたちの感情を煽ることになる、というのが自論である。 自殺は連鎖するのである。

⇒12日(日)夜・金沢の天気 くもり 

☆メディアのツボ-24-

☆メディアのツボ-24-

 電波メディアの老舗と言えばラジオである。あまり知られてはいないが、3月22日の放送記念日は1925年のこの日、東京放送局(現在のNHK東京放送局)が芝浦の仮送信所でラジオ放送を開始した日にちなむ。

      政治オンチのラジオ

  ラジオが誕生した背景には、1923年に起きた関東大震災での情報混乱の経験があったようだ。そして、戦時はラジオの絶頂期と重なる。先の戦争は、「臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス・・・」で始まりを、「堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ・・・」の玉音放送で終わりをラジオを通じて、国民に知らされた。

  だから、お年寄りの中には、ラジオと言うと「何だ大本営か」といまだに揶揄(やゆ)する人もいる。それだけ戦時における情報統制とラジオの使命は重なった印象がある。もちろんかつて深夜族と言われた我々の世代には前述のような印象はない。

  ところで、今回のテーマは「政治オンチのラジオ」である。オンチは漢字表記で音痴だが、漢字にするとストレートに意味づけされるので、少しクッションを置いた。というのも、けさのFMラジオでアナウンサーのコメント内容がいかにも稚拙に聴こえ、その理由を考えてみたからである。

  その男性アナは今回の北朝鮮の核実験をめぐってコメントしていた。前段で識者のインタビューを受けてのことである。「核実験の狙いは、北朝鮮がアメリカとの2国間での協議を望んでのこととの(識者の)分析があるようです。それだったらアメリカも話し合いに応じてあげればよいと思います。そして、6ヵ国協議での話し合いにも出てもらって、とにかく話し合いを続けることが大切ですね」と言った内容なのだ。

 アメリカは前回のクリントン政権での2国間協議は失敗だったとして、6ヵ国協議の枠組みをつくったのである。つまり、男性アナのコメントは入り口と出口が逆なのである。

  この男性アナは時折りニュースを読んでいる。上記のアドリブのコメントにはこれまでの時事・外交からの視点があればこのような解にはならない。おそらくニュースは読んでいるものの、政治が絡まった討論番組などに身を置いたことはないのだろう。あるいはまったく外交や政治にこれまで無関心だったのかもしれない。突然、プロデューサーから何かコメントするように突然指示されたのかもしれない。その程度の内容だったのである。しかし、この男性アナがこのようなコメントをするようになったのは果たして彼の責任だろうか。

  実は、ラジオは戦争に加担したとの反省から、戦後一転して政治と無関係を装う。情報トーク番組、音楽番組、深夜番組では独自のジャンルを築いた。しかし、報道、とりわけ政治はニュースとして淡々と伝える。速報性という強みがありながらも、政治ネタには頓着しない。そんなメディアになった。

  一方、1953年、戦後生まれのテレビはスタートは娯楽だったが、72年の連合赤軍による浅間山荘事件などをきっかけにニュース番組、硬派のドキュメンタリーなど報道へとジャンルを広げた。政治討論なども番組化し、たとえば升添要一氏ら多くの論客を誕生させた。その勢いが強い余り、1993年の細川内閣誕生のころ、「非自民政権が生まれるよう報道せよ、と指示した」とするテレビ朝日の椿貞良報道局長の発言が新聞メディアから叩かれもした。

  ラジオが権力者のプロパガンダのツールとして時代を逆戻りすることはもうあるまい。ラジオを「大本営」と称する人も稀有だろう。むしろ、その男性アナを政治の雰囲気に引っぱり張り出してトレーニングさせてやってほしい…。いや、ラジオはもっとリアルの政治を伝えるメディアであるべきだと思ってもいる。

 ⇒13日(金)午後・金沢の天気   はれ  

★メディアのツボ-23-

★メディアのツボ-23-

 前回の「メディアのツボ」でNHKが東京都内の48の世帯・事業所について今月中に支払いがない場合、11月に簡易裁判所に支払い督促を申し立てることについて関連して述べた。で、また不祥事である。

          作り手の人格と番組

  6日、NHK富山放送局の54歳の局長が富山市内で万引をしていたことが明らかになった。事実関係を詳しく読む。局長はことし5月20日(土)午後5時ごろ、富山市内のホームセンターで、ボールペンやひげそり、木工用のキリなど7点、5000円相当を万引し、上着のポケットや袖に隠して店外に出たのをホームセンターの保安係に発見された。駆け付けた警察官に万引の事実を認めた。警察は被害額が少なかったことから送検しなかった。おそらく素直に事情聴取に応じて、費用を弁済。示談で済んだのだろう。が、万引きは窃盗罪である。万引をした日は休みで、木彫り教室へ行った帰りだった。

  そのことを局長は隠していた。最近になってその事実を嗅ぎつけた地元のメディアから取材を受けた局長が慌てて、本局に報告した。局長は去年6月から富山に赴任していた。予断は禁物だが、54歳の万引きは手癖が悪い。初犯なのか。NHK本局ではニュース番組「おはよう日本」などのプロデューサーだったという。

  これは私の経験則での解釈であるが、番組は作り手の人格そのものである。取材が甘ければ番組の構成も甘くなる。心に欺瞞性があれば、「やらせ」を生む。つまり詐術が含まれる。作り手の人格と番組は表裏一体なのだ。だから、この局長が名プロデューサーであって、今回のことを「出来心だった」あるいは「魔が差した」と弁明しても、私はその人が過去に制作してきた番組そのものを疑ってしまう。過去にその心の緩みや欺瞞が含まれる番組をつくってきたはずと解釈するからである。

  NHKが簡易裁判所に支払い督促を申し立てると言っているが、そんなことより信頼の回復が先だろう。業務上横領、放火、万引き(窃盗)…NHKの番組プロデューサーや記者の犯罪は枚挙にいとまがない。NHKの局内には危機感とか倫理性を重んじる雰囲気が欠けているのではないか。どこか組織のタガが緩んでいるに違いない。

  NHKは局長職を解いて停職3ヵ月の懲戒処分にしたが、局長は6日のうちに退職願を提出し、受理された。局の名誉を著しく傷つける行為であり、報告義務違反でもある。本来なら懲戒免職に相当するのだろうが、懲戒処分にした。その代わり辞表を提出させたとも取れる。退職金のことを考えた「温情」と言えなくもない。

 ⇒7日(土)午前・金沢の天気  くもり  

☆メディアのツボ-22-

☆メディアのツボ-22-

 これはTVメディアの奇観である。時代にあえぐメディアの吐息が聞こえる。
        テレビの奇観3題

 10月3日、この日のニュースは画期的だった。「メディアの日」として日本新聞協会や民間放送連盟はどこかの機関に記念日の申請してもよいのではないか。なにしろ、最高裁が「事実報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21条の保障の下にあることはいうまでもない」(最高裁決定の全文から)とし、取材・報道の自由の価値を重く見る司法判断を初めて示したのである。

  アメリカ企業の日本法人が所得隠しをしたとする報道に絡み、NHK記者が嘱託承認尋問で取材源にかかわる証言を拒んだことの当否が争われた裁判の決定である。このところ、人権擁護の名目で個人情報保護法などに押され、メディアの取材は萎縮でもしたかのように窮屈さをかこっていた。それが、今回の最高裁のお墨付きでメディアは「錦の御旗」を得たといえる。

  奇観というのは、新聞メディアなどは一面でトップ扱いだったが、テレビ各社は「NHKが裁判に勝った」程度の扱いで、まるで他人事なのである。メディアがこの最高裁の決定をしっかり噛み締めないと、自分が拠って立つところの論拠を失うではないか。

  TBS系の報道番組「筑紫哲也 NEWS23」の山本モナキャスターが番組をしばらく休むことになった。今月2日夜の放送で「体調不良のため」と発表された。山本キャスターは、民主党の細野豪志衆院議員との不倫を先週発売の写真週刊誌で報じられていた。「NEWS23」は先月25日にリニューアルされ、山本キャスターは起用されたばかりなのだ。

  奇観に思うのは、写真週刊誌で報じられたくらいでなぜ休むのか。視聴者はキャスターに潔癖性を求めてはいない。不倫の相手が民主党の代議士であり、政治的に中立性を失っているではないかと糾弾する自民党寄りの視聴者もなかにはいるかもしれない。しかし、問題はキャスターの発言内容が中立性を保っているかどうかであり、不倫は大人の世界の別次元である。「キャスターが不倫をして何が悪い」くらいの小悪魔的なキャラクターがあった方がむしろ信頼がおける。

  「みなさまのNHK」から「取り立てのNHK」に変身した。不祥事をきっかけに急増した受信料不払い問題で、NHKは5日、再三の説得にも支払いに応じない東京都内の48の世帯・事業所について今月中に支払いがない場合、11月に簡易裁判所に支払い督促を申し立てると表明した。不払い者が簡裁からの督促を放置すれば、財産を差し押さえることも可能だ。

  奇観はNHKが相手を見誤っていることだ。受信料不払いが112万件となっているが、NHKも説明しているように、その理由のほとんどは番組プロデューサーによる業務上横領、記者の放火事件など一連の不祥事に拒否反応を示した「確信犯」だ。実際、私の周囲にいる不払い者は正義感が強い。つまり、レジスタンスなのである。

  この人たちを納得させるには、地上波とBS波の6波に肥大化した組織を徹底的にリストラし、災害と報道に強いNHKに蘇生するしかない。その上で受信料を下げて、なおかつ「今後、不祥事が起きた場合は1件につき月100円下げる覚悟」くらいの厳しさを自ら課さなければ、不払い者は納得しないだろう。さらに未契約者989万件をどうするのかの指針も示すべきだ。

⇒05日(木)夜・金沢の天気   くもり 

★メディアのツボ-21-

★メディアのツボ-21-

 総理の「ぶら下がり」会見を1日2回から1回にするとした官邸サイドに内閣記者会が反発している問題を連続で取り上げた。すると、何人かの方から意欲的なコメントの書き込みをいただいた。

     「ぶら下がり」問題の深層

 「いつも見ています」さんから以下の書き込みを。「結局は情報リテラシー(技術)の問題です。ネットという新しいリテラシーが登場し、TVがそれを敵視したところに始まります。TVジャーナリズムはそれを習得しようとせず、反対に政治は、政府インターネットテレビのように新しいリテラシーを導入し、TVが得られない成果を上げようとしている。それに対する恐れでしょう。通信とネットの融合を拒否した、つまり時代の流れに逆らった付けが、一番根本のところで回って来たと言うことでしょう。どちもどっちというより、明らかに政府が新しい情報リテラシーの習得に一歩先を行っているこの現実を恐れなければならないと思います。」

 「いつも見てます」さんの論評の切り口は、情報リテラシーへの思い入れの差が政府とTVメディアを分けているという主張に読み取れる。即時性や広範囲性、ローコスト配信などネットが持つ価値や凄みを知っているのは政府の方だ、と。「いつも見てます」さん自身がITの相当の使い手とお見受けした。

  それはともあれ、既存のメディアというのはニューメディアを疎んじるものだ。1950年後半にテレビが普及し始めたとき、活字メディアのテレビに対するバッシングが沸き起こった。社会評論家の大宅壮一が述べた「一億総白痴化」は流行語になったほど。テレビというメディアは非常に低俗な物であり、人間の想像力や思考力を低下させると酷評した。大宅だけではなく、作家の松本清張も「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない」と初期のテレビに違和感を露にした。

  時代はめぐり90年代のインターネットの勃興期、テレビがメディアの主流であって、インターネットは有象無象、寄せ集めぐらいの認識だった。ネットがブロードバンド化して映像が流れるようになり、テレビの対抗メディアとしてようやく認識されるようになった。それでも、既存のメディアはいまだに「ネットは裏付けのない情報をまき散らかし、メディアには値しない」と十把一からげで考えているようだ。

  しかし、今回の官邸と内閣記者会の押し問答は既存メディアとニューメディアの相克の構図ではなく、別次元のような気がする。

  花形である官邸の記者はテレビも新聞も比較的若い記者が多い。なぜならどんな人物が総理と会うのか見張り番をしなければならず、これは体力勝負である。そんな記者たちの出番が「ぶら下がり」会見での質問なのだ。その出番が減らされたのでは記者の存在意義にかかわる…。頑なに「1日2回」を主張する記者の本音は案外ここらあたりではないか、と私は睨んでいる。

  ところがそれを「国民の知る権利」云々と理屈づけするからややこしい。また、「記者の取材に、広報である政府のテレビカメラを入れてネット配信するのは筋違い」と言い張るから会見情報を記者クラブが独占する気かとネットユーザーから批判されもする。素直に「出番が減るから何とかしてくれ」と言ったほうが反感を買わずに済む。

⇒4日(水)午後・金沢の天気   くもり

☆メディアのツボ-20-

☆メディアのツボ-20-

 ついに記者たちはゲリラ戦法に打って出ることにしたらしい。でも、それは見苦しい。

       記者たちのゲリラ戦

 懸案となっている「ぶら下がり」会見の回数について、世耕弘成総理補佐官(広報担当)は2日、内閣記者会からの「ぶら下がりは1日2回」との申し入れに対し、「1日1回しか応じられない」との回答をした。これを受けて記者会側は世耕補佐官に対し、総理が1日2回のぶら下がりに応じなければ、十分な取材機会を確保する観点から官邸や国会内などで「歩きながら」の取材に踏み切ると口頭で通告した、と各紙のインターネット版が報じている。

 「ぶら下がり」は総理が立ち止まっての会見だが、「歩きながら」は記者がざっと総理に近づいて、ぞろぞろそと併行しながら質問を投げかける、という取材手法だ。

  総理へのぶら下がりは今年7月、小泉前総理がこれまで原則1日2回から1回にしたのを安倍総理も踏襲するとしたのに対し、記者会側は先月29日、1日2回の取材機会確保など5項目の要望を申し入れていたものだ。記者会側は「ゼロ回答」だっとして、「2回の原則を破ったのは官邸サイドだ。だから、ぶら下がりこだわらずに歩きながらでも質問をする」と、食い下がりのゲリラ戦に出ると宣言したわけだ。

  でも、ゲリラ戦法を実施しても、おそらく安倍総理は口をつぐんだまま答えないだろうし、ヘタをするとSPに遮られてしまう。それでも記者会側は「国民の知る権利に応えるため」と意を決して突撃するのだろうか…。見方によっては、そのくらいの意気込みを記者は持って当然との評価もあるだろう。が、一方でどこかの国の自爆テロを想像しておぞましくもある。

  前回の「メディアのツボ」でも指摘したように、われわれ読者や視聴者は別に「ぶら下がり」の回数にはこだわってはいない。むしろ、どのような総理と記者のやり取りがあったのか全容を知りたい。どこの記者がどんな質問をして、それに対して総理がどう答えたのか、ノーカット編集のものを見たい。それゆえ、記者には質問の回数ではなく、質問の鋭さで勝負してほしい。

  仮にメディアの側が2回にこだわっている本音が夕刊と朝刊、あるいは昼ニュースと夜のニュースという紙面や時間枠に間に合わせるためにあるとすれば、それは「国民の知る権利」に名を借りたメディア側のご都合主義といわれても仕方がない。

 ⇒2日(月)夜・金沢の天気  くもり 

★メディアのツボ-19-

★メディアのツボ-19-

  総理官邸と内閣記者会がもめている。その発端は、世耕弘成首相補佐官(広報担当)が9月27日、安倍総理の「ぶら下がり」会見を1日1回とするよう、内閣記者会に申し入れたことに始まる。

      「ぶら下がり」会見問題の実相

 この「ぶら下がり」会見とは、総理が立ちながら記者の質問に答えるもの。小泉総理のときは、政権発足当初は1日2回行っていたが、ことし7月から1回に半減した。安倍内閣では1回を踏襲したいとしたが、記者会側は「本来2回、一方的な通告は認められない」と申し入れを拒んでいる。

  広報担当の世耕補佐官の説明では、ぶら下がりは夕方1回のみだが、夜のテレビニュースに間に合う時間帯に実施。1回とする代わりに取材時間には配慮するとし、「より密度を濃くしたメッセージを国民に発信したい」「1日1回でも国際的には非常に多い回数」とした。つまり、今回の内閣では広報担当の総理補佐官が新設されたこともあり、総理の負担を減らしたいとの意向だろう。

  では実際、どのようなかたちで「ぶら下がり」会見が行われているのだろうか。その27日の当日は、午後8時50分から総理執務室での安倍-ブッシュの電話会談があり、午後9時15分ごろから、安倍総理の「ぶら下がり」会見があった。翌日の28日は午後7時過ぎから総理の「ぶら下がり」会見があった。が、この日は午後から総理と新聞各社論説委員との懇談、続いて総理とテレビ解説委員との懇談、さらに総理と内閣記者会各社キャップとの懇談があった。つまり、「ぶら下がり」会見は1回だったが、マスメディアとの対話には官邸サイドは応じているのである。

  記者会側は「ぶら下がり」会見は政府と報道各社の合意に基づいて実施しており、一方的な通告による変更は認められない」と主張し、29日には要請文を広報担当補佐官の世耕氏に提出した。あくまでも小泉政権で合意した1日2回を継続するよう求めたほか▽内閣記者会が緊急取材を求めた場合は応じる▽ぶら下がり取材はインターネットテレビで収録しない▽官邸や国会内で総理が歩行中の取材に応じる▽現在制限されている総理執務室周辺の取材を認める-など合計5項目を要請した。

  この「インターネットテレビで収録しない」との下りは、官邸ホームページの掲載のため政府のカメラも「ぶら下がり」会見の様子を撮影したいと世耕氏が提案したものだ。これに対して、記者会側は、政府のテレビ撮影は「取材の場であり広報ではない」と拒否したわけである。

  記者会側が要請文を提出した29日の安倍総理は所信表明演説の中でこう述べた。「私は、国民との対話を何よりも重視します。メールマガジンやタウンミーティングの充実に加え、国民に対する説明責任を十分に果たすため、新たに政府インターネットテレビを通じて、自らの考えを直接語りかけるライブ・トーク官邸を始めます」と。  この日の夜の会見で、記者が安倍総理に質問した。「国民の知る権利にこたえるためにも2回に応じるべきではないのか」と。これに対し、総理は「必ず1日1回、こうしたかたちで国民の皆様に私の言葉で語りかけて参ります」と述べた。

  27日から始まったもめ事が真相が29日になってようやくはっきりしてきた。つまり、官邸サイドはマスメディアのほかにインターネットテレビやメールマガジン、タウンミーティングなどを通じて国民に直接語りかけたいとの意向。これに対し記者会側は「国民の知る権利」はマスメディアを通じてのみ成立するのであって、官邸が直接インターネットなどで流す情報は「広報」であり、「国民の知る権利」に応えたことにはならない、としているのである。

  突き詰めれば、おそらく官邸サイドは記者のフィルターを通した会見内容より、会見の全容をインターネットで流し、国民が直接内容を判断してくれた方がよいとの考えなのだろう。ところが、記者会側は「広報と取材をいっしょにするな」と会見の政府のカメラ収録を拒否している。マスメディアはどう頑張っても字数や時間枠の制限のためにカットや編集が多くなるのだ。

  本来の「国民の知る権利」とは何かを考えれば、マスメディアによる情報の独占より、会見内容の全容を直接知ることができるインターネットがあった方がよいに決まっている。新聞やテレビを通してでしか一国の総理の言葉が伝わらないというのは合理性を欠く。今回のもめ事の本質は「ぶら下がり」会見の回数の問題ではなく、会見の政府のカメラ収録を記者会側が拒否していることこそ、国民にとっては問題なのではないだろうか。(※総理官邸のシンボルは竹と石)

 ⇒30日(土)夜・金沢の天気  はれ