⇒メディア時評

☆避難住民を難民と見る視線

☆避難住民を難民と見る視線

 新潟県中越沖地震の被災地、柏崎市で奇妙な「事件」が起きた。産経新聞のインターネット版などによると、同市側は日本テレビ系列の中京テレビ(名古屋市)のスタッフが避難所のテントに「隠しマイクを仕掛けた」と公表した。中京テレビ側は市に「中継で背景の音を拾うためのワイヤレスの集音マイクで、隠す意図はなかった」と説明したという。

  事実関係を記事で拾うと、マイクが設置されていたのは学校の屋外に張られた炊き出し用のテントで、21日午後4時ごろ、スタッフが支柱にマイクを張り付けているのを職員が見つけて注意した。スタッフはすぐに取り外した。住民からの要望で、市側が一時的に報道各社に避難所(学校)での取材の自粛を要請。中京テレビは市に同日午後6時からのニュースで中継するつもりだったと説明したが、設置は各社が屋内での取材を自粛していた最中だった。中京テレビの現地担当デスクは、「隠しマイクという発表があったようだが、誤解だったということを理解していただいた。現場の説明不足で誤解を受けたことは遺憾だ。反省している」と話しているという。

  どんな説明があったとして、無断で仕掛けたのであれ、「隠しマイク」ではないか。要は、取材の自粛要請があったので、中京テレビ側はテント周辺での中継は無理と判断し、その代わり、離れた位置から望遠のカメラで現場を撮影し、中継することにした。しかし、遠く離れると現場音が取れないので、マイクを現場のテントの柱に仕掛けた、ということなのだろう。

  被災者からの要望での取材の自粛要請はある意味で当然のことなのである。16日の震災発生から5日たって、避難住民にとっては避難所はすでに「生活の場」となっていて、いわば、お互いが顔見知り同士の共同生活の場なのである。見知らぬ顔は、メディアの記者たちなのである。その記者たちが避難所に入ってきて、炊き出しの中身まで取材していく。これは避難住民にとって、とても違和感があるに違いない。事実、私が「震災とメディア」というテーマで調査した能登半島地震(ことし3月25日)でも、同様に避難住民からの苦情で取材自粛の要望があった。

  避難所を運営しているのは地区の自治体であり、炊き出しを行っているのはボランティアではなくその地区の住民のはずである。炊き出しの野外テントは共同の炊事場、つまり生活の場である。そこにマイクを仕掛ける(設置する)というのはどんな感覚だろうか。あたかも、被災地から逃れてきた不特定多数の難民がボランティアに支えられ、食事をするというイメージを描いての取材だとすれば、それは勘違いの視線ではないのだろうか。

  取材の自粛を要請する住民の気持ちを理解せず、しかも、「生活の場」である避難所のテントにマイクを断りなく仕掛ければ、これはどう見ても「隠しマイク」ではないのか。少なくても避難住民はそう理解するだろう。雑踏の集音マイクとはわけが違う。22日午前8時現在、中京テレビのホームページを閲覧しても、この一件についての説明がないのでテレビ局側のスタンスがよく理解できない。

 ⇒22日(日)午前・金沢の天気  くもり

☆メディアのツボ-57-

☆メディアのツボ-57-

 裁判における弁護のあり方はこれでよいのだろうか、と思ってしまう。今月9日、大阪高裁で行われた元NHK記者(26)の連続放火控訴審で、弁護側が改めて「犯行当時、心神喪失状態にあり、建物を延焼させる意図もなかった」と改めて無罪を主張したとの記事のことである。

       意識なきままにつくられる偏見

  元NHK記者は大津市などで2005年4月から6月にかけて、JR大津駅付近の住宅を全焼させるなど大津市や大阪府岸和田市で8件の放火や放火未遂を繰り返した(1審判決)。大津地裁で懲役7年の実刑判決を受け、9日に控訴審の初公判。上記の無罪を主張し、この日、結審した。判決は9月と4日に言い渡されるという。

  事件発生当時の記事を読み返すと、この記者は火災現場近くで警察から任意で事情聴取を受けた際、本人は酒に酔っていた、と報じられている。また、別の紙面では、「休みがほとんどなく、泊まり勤務も大変だ」などと他社の記者に愚痴をこぼしていたらしい。つまり、プレッシャーに弱い当時24歳の記者が酒の勢いで放火に及んだという割と単純な構図だった。

  事情聴取を受けた翌日から傷病休暇をとって、入院した。うがった見方をすれば、警察にマークされたのに気づき、あわてて病院に逃げ込んだのだろう。ところが、尾行がついているとも知らずに、後日、性懲りもなく放火を繰り返した。この時は尾行していた捜査員が火を消したのだから動かぬ証拠となった。それが現行犯逮捕ではなかったのは、入院という状態だったからだ。警察は、本人が退院したのを見届けて、主治医と相談しながら本人の責任能力が問えると判断し、逮捕に踏み切ったのだ。

  罪を軽くするために、「心神喪失状態」を声高に叫び、量刑の駆け引きに使っているが、結果として、罪を「心神」の問題にあえてすることで、心の障害を背負った多くの人たちを巻き添えにしていることにならないか。心の障害を持った人たちへの偏見というのはこうした弁護手法から生み出されることも一因であると思えてならない。

  もちろん、弁護側は「法廷で述べただけであって、メディアがそのことを大きく取り上げているにすぎない」「もし、偏見を助長しているというのであれば、それはメディアの方だ」と主張するだろう。そして、メディア側は「法廷で述べられたことを事実として取り上げたにすぎない」との立場だろう。こうして、意識なきままに偏見はつくられていく。

 ⇒9日(月)夜・金沢の天気   はれ

★メディアのツボ-56-

★メディアのツボ-56-

 3月25日の能登半島地震で「震災とメディア」をテーマに被災者アンケートなどの調査を行った。総じて、メディアの記者やカメラマンを見つめる被災者の目線は厳しいものがあることは前述した(6月24日付「震災とメディア・その3」)。今回の「震災とメディア・その4」では私自身の体験を紹介したい。

          震災とメディア・その4 

 震災の翌日(26日)に輪島市門前町の被災地に入った。能登有料道路は一部を除いて通行止めとなった。「下路(したみち)」と呼ぶ県道や市道など車で走って3時間50分かかった。金沢大学から目的地は本来1時間50分ほどの距離だ。被災地をひと回りして、夕方になり、コンビニの看板が見えたので夕食を買いに入った。ところが、弁当の棚、惣菜の棚は売り切れ。ポテトチップスなどスナック類の菓子もない。店員に聞いた。「おそらくテレビ局の方だと思うのですが、まとめて買っていかれましてね」との返事だった。

  震災の当日からテレビ系列が続々と入ってきた。記者とカメラマンだけではない。中継スタッフや撮影した映像を伝送するスタッフ。さらに、新聞社、雑誌社なども入り込み、おそらく何百人という数だったろう。このコンビニは門前地区で唯一のコンビニだ。震災当日は商品が落下したため、片付けのため閉店したが、翌日は再開した。メディアの記者たちも「人の子」、腹が減る。生存権を否定するつもりはない。ただ、「買い占めはなかったのか」と問いたいのである。実は、新潟県中越地震(04年10月)でも同じような現象が起き、住民のひんしゅくを買っているのだ。

  28日に被災者宅の救援ボランティアに入った。学生たちと倒れた家具などの後片付けを手伝った=写真=。割れたガラス片などが散乱していたので、家人の了解を得て、靴のまま上がって作業をしていた。すると、何人かのカメラマンが続いて入ってきて、作業の様子を撮影した。われわれと同じように靴を脱がず取材をしていった。が、「共同通信」の腕章をしたカメラマンが靴を脱いで上がってきたので、「危ないですよ」と声をかけた。すると、「大丈夫、気をつけますから」と脱ごうとしなかった。そして帰り際に、「ボランティアお疲れさまです」と声をかけて、去っていった。それまでのカメラマンとは物腰が異なるので印象に残った。

  後日、共同通信金沢支局のN支局長とある会合で話をする機会があり、この話をすると、さっそく調べてくれて、Iカメラマンと分かった。Iカメラマンに興味がわき、教えてもらった先に後日電話をした。突然の電話の事情を話すと、I氏もわれわれのことを覚えていてくれていた。「あす(6月27日)からアメリカ・大リーグに取材に行く」という。被災地でのボランティア経験があるのかと尋ねると、「ない」といい、ただ、これまで阪神淡路大震災、新潟県中越地震、スリランカの大洪水など災害現場で取材した経験があり、「被災者の気持ちに立った取材を心がけている」という。「私はふてぶてしくないれないタイプかもしれない」と淡々と。

  プロは場数を踏んで「ふてぶてしくなる」のではなく、経験を積んで「謙虚になる」のだ。受話器を置いた後で、そんなことを思った。

※写真:金沢大学の学生ボランティアによる被災住宅の後片付け=輪島市門前町道下・3月28日 

⇒30日(土)午後・金沢の天気  くもり

☆メディアのツボ-55-

☆メディアのツボ-55-

 あす25日で能登半島地震から丸3ヵ月である。被災地での調査を終えて思うことは、高齢者だけでなく、誰しもが一瞬にして「情報弱者」になるのが震災である。問題はそうした被災者にどう情報をフィードバックしていく仕組みをつくるか、だ。その中心的な役割をメディアが果たすべきと考えるのだが、実行しているメディアはこれまで述べたようにごく一部である。メディア関係者の中には、「メディアはもともと『社会の公器』だから、日々の業務そのものが社会貢献である。だから特別なことをする必要はない」と考えている人も多いのではないだろうか。

             震災とメディア・その3

  聞き取り調査の中で、輪島市門前町在住の災害ボランティアコーディネーター、岡本紀雄さん(52)の提案は具体的だった。「新聞社は協力して避難住民向けのタブロイド判をつくったらどうだろう。決して広くない避難所でタブロイド判は理にかなっている」と。岡本さんは、新潟県中越地震でのボランティア経験が買われ、今回の震災では避難所の「広報担当」としてメディアとかかわってきた一人である。メディア同士はよきライバルであるべきだと思うが、被災地ではよき協力者として共同作業があってもよいと思うが、どうだろう。

  もちろん、報道の使命は被災者への情報のフィードバックだけではないことは承知しているし、災害状況を全国の視聴者に向けて放送することで国や行政を動かし、復興を後押しする意味があることも否定しない。  今回のアンケート調査で最後に「メディアに対する問題点や要望」を聞いているが、いくつかの声を紹介しておきたい。「朝から夕方までヘリコプターが飛び、地震の音と重なり、屋根に上っていて恐怖感を感じた」(54歳・男性)、「震災報道をドラマチックに演出するようなことはやめてほしい」(30歳・男性)、「特にひどい被災状況ばかりを報道し、かえってまわりを心配させている」(32歳・女性)。

  ある意味の「メディアスクラム」(集団的過熱取材)を経験した人もいる。同町の区長である星野正光さん(64)は名刹の総持寺祖院近くで10数席のそば屋を営む。4月5日に営業再開にこぎつけた。昼の開店と同時にドッと入ってきたのは客ではなく、テレビメディアの取材クルーたちだった。1クルーはリポーター、カメラマン、アシスタントら3、4人になる。3クルーもやって来たから、それだけで店内はいっぱいになり、客が入れない。そこで1クルーごとに時間を区切って、順番にしてもらったという。「取材はありがたかったが、商売にならないのではどうしようもない」と当時を振り返って苦笑した。

  こうした被災者の声は誇張ではなく、感じたままを吐露したものだ。そして、阪神淡路大震災や新潟県中越地震など震災のたびに繰り返されてきた被災者の意見だろうと想像する。最後に、「被災地に取材に入ったら、帰り際の一日ぐらい休暇を取って、救援ボランティアとして被災者と同じ目線で現場で汗を流したらいい」と若い記者やカメラマンのみなさんに勧めたい。被災者の目線はこれまで見えなかった報道の視点として生かされるはずである。

 ※写真:心の和みになればと被災地の子供たちに切り花をプレゼントする金沢の市民ボランティアのメンバーたち=輪島市門前町・3月28日

 ⇒24日(日)夜・金沢の天気  あめ

★メディアのツボ-54-

★メディアのツボ-54-

 震災の翌日(3月26日)から避難所の入り口には新聞各紙がドッサリと積んであった。新聞社の厚意で届けられたものだが、私が訪れた避難所(公民館)では、避難住民が肩を寄せ合うような状態であり、新聞をゆっくり広げるスペースがあるようには見受けられなかった。そんな中で、聞き取り調査をした住民から「かわら版が役に立った」との声を多く聞いた。そのかわら版とは、朝日新聞社が避難住民向けに発行した「能登半島地震救援号外」だった。

             震災とメディア・その2

  タブロイド判の裏表1枚紙で、文字が大きく行間がゆったりしている。住民が「役に立った」というのは、災害が最も大きかった被災地・輪島のライフライン情報に特化した「ミニコミ紙」だったからだ。

  救援号外の編集長だった記者から発行にいたったいきさつなどについて聞いた。救援号外は、2004年10月の新潟県中越地震で初めて発行したが、当時は文字ばかりの紙面で「無機質で読み難い」との意見もあり、今回はカラー写真を入れた。だが、1号(3月26日付)で掲載された、給水車から水を運ぶおばあさんの顔が下向きで暗かった。「これでは被災者のモチベーションが下がると思い、2号からは笑顔にこだわり、『毎号1笑顔』を編集方針に掲げた」という。さらに、長引く避難所生活では、血行不良で血が固まり、肺の血管に詰まるエコノミークラス症候群に罹りやすいので「生活不活発病」の特集を5号(3月30日付)で組んだ。義援金の芳名などは掲載せず、被災地の現場感覚でつくる新聞を心がけ、ごみ処理や入浴、医療診断の案内など生活情報を掲載した。

 念のため、「本紙県版の焼き直しを掲載しただけではなかったのか」と質問をしたところ、「その日発表された情報の中から号外編集班(専従2人)が生活情報を集めて、その日の夕方に配った。本紙県版の生活情報は号外の返しだった」という。

  カラーコピー機を搭載した車両を輪島市内に置き、金沢総局で編集したデータを送って「現地印刷」をした。ピーク時には2000部を発行し、7人から8人の印刷・配達スタッフが手分けして避難所に配った。夕方の作業だった。

  地震直後、同市内では5500戸で断水した。救援号外は震災翌日の3月26日から毎日夕方に避難所に届けられ、給水のライフラインが回復した4月7日をもって終わる。13号まで続いた「避難所新聞」だった。

※写真:避難所の入り口には新聞が積まれてあったが、被災者が新聞を広げるだけのスペースはあったのだろうか=輪島市門前町の避難所・3月26日

 ⇒23日(土)午前・金沢の天気   はれ

☆メディアのツボ-53-

☆メディアのツボ-53-

 ことし3月25日の能登半島地震は死者1人、300人以上の重軽傷者を出す惨事となった。入梅したものの、今でもまだ青いビニールシートで覆われた屋根が能登のあちこちに見える。被災地の大きな特徴は、メディアとの接触機会が少なく「情報弱者」とされる高齢者が多い過疎地域ということだった。被災者はいかに情報を入手し、情報は的確に到達したのだろうか・・・。そんな思いから金沢大学震災学術調査に加わり、「震災とメディア」をテーマに調査活動を進めてきた。中間報告であるものの、調査から浮かび上がってきたことを述べたい。

           震災とメディア・その1

   震度6強に見舞われ、能登半島全体で避難住民は2100人余りに及んだ。多くの住民は避難所でテレビやラジオのメディアと接触することになる。ここで、注目すべきことは、門前町を含める45ヵ所のすべての避難所にテレビが完備されていたことだ。地震で屋根のテレビアンテナは傾き、壊れたテレビもあったはず。一体誰が。

  この「テレビインフラ」を2日間で整えたのはNHK金沢放送局だった。翌日26日から能登の全避難所45カ所を3班に別れて巡回し、アンテナなどの受信状態を修復し、さらにテレビのない避難所や人数が多い避難所には台数を増やし、合計12台のテレビを設置した。用意周到だったのは、昨年5月に金沢放送局では災害時に指定される予定の避難所にテレビが設置されているかどうか各自治体に対し予備調査を行っていた。このデータをもとにいち早く対応したのである。

  NHKは報道機関では唯一「災害対策基本法」が定める国の指定公共機関であり、災害報道と併せハード面のバックアップは両輪である。が、それだけではない。金沢放送局はこんなアフターフォローも行っている。地震が起きたのは3月の最終週に入る日曜日とあって、被災者から連続テレビ小説「芋たこなんきん」の最終週分を見たいとの要望や、大河ドラマ「風林火山」を見損ねたとの声があり、著作権をクリアにした上で、要望があった13カ所の避難所に収録テープを届け、またビデオの備えがない7カ所にビデオデッキを届けた。こうした被災者のニーズを取り入れた細やかな活動があったことはテレビ画面からは見えにくいが、避難住民を和ませたことは想像に難くない。

  ようやくたどり着いた避難所にテレビがなく、情報が入らなければ余計に不安が増す。この点をNHKがきっちりとカバーしたのである。さまざまな批判がNHKに対してはあるものの、災害対応では評価されてよい。

 ※写真:テレビは避難住民の有力な情報源だった=輪島市門前町の避難所、3月26日

 ⇒22日(金)夕・金沢の天気  あめ

★メディアのツボ-52-

★メディアのツボ-52-

 東京六大学春季リーグ早稲田VS慶応の「早慶戦」(6月2日、3日・神宮球場)が異常な盛り上がりだ。両大学ともすでに2日間の学生チケット1万4千枚が完売したことがニュースとなったほどだ。

       早慶戦と日テレ

  盛り上がりの要因は三つある。一つは、昨夏の甲子園で駒大苫小牧を破り優勝投手となった「ハンカチ王子」こと早稲田のルーキー、斎藤佑樹投手(18)の人気だろう。二つ目が、早稲田はルーキー斎藤の活躍もあり現在、8勝0敗の勝ち点4で首位を走っているので、今週末の早慶戦で1勝すれば2季連続の優勝が決まる。三つ目がこれまで東京六大学野球はNHKが中継してきたが、今季から日本テレビが参入し、早稲田戦を中心にBSなどで放送するなどブームを煽っている。

  ちなみに、試合開始時間は2日、3日とも午後1時からで、地上波ではNHKが教育で2日の早慶1回戦を午後1時から、3日の2回戦を午後2時から放送。日本テレビも2回戦を午後2時55分から3時20分までスペシャル番組として生中継する。25分の生中継というのは短い番組枠だが、試合終盤のよいとこ取りを狙っているようだ。斎藤投手の胴上げを期待しているのかもしれない。

  ところで、早慶戦と日テレにはちょっとした因果関係がある。もう50年以上も前のことだ。1953年8月、民放テレビの開局の一番乗りを果たした日テレは最初のバラエティ番組「ほろにがショー 何でもやりまショー」を始めた。タイトルの「ほろにがショー」のネーミングは、朝日麦酒(現・アサヒビール)がスポンサーだったため。

  番組は視聴者参加型で、ゲームに挑戦し優勝者には賞金が渡された。放送開始2ヶ月で1年先まで出演予約があったほどの人気だったが、「事件」が起きた。56年11月3日放送分の番組で、「今度の早慶戦に、早稲田側の応援席で慶応の大旗を振って応援した人に5000円(当時)を進呈」(要約)というお題を出し、これに乗った視聴者の1人が実際にお題を実行、番組ではこの内容を放送し、授与式を行った。ところが、放送終了後に批判や抗議が相次ぎ、六大学野球連盟は日テレでの中継を拒否した。思わぬ展開に日テレは番組内で謝罪し、六大学野球連盟とは和解した。

  しかし、これだけでは済まなかった。辛口のジャーナリストで知られた大宅荘一がこの番組を視聴していて、翌年2月の週刊誌で「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い」とテレビ批判の大論陣を張るのである。

  この一億総白痴化論は、テレビによって受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけだと、人間の想像力や思考力が低下し、愚民化するという論理である。その後、作家の松本清張らも主張し、現代でも鋭い文明批評で知られる月尾嘉男氏は「古代ローマ帝国を滅ぼしたのはパンとサーカス、現代日本のテレビはサーカスである」と同論理でテレビ批判を展開している。

  テレビ批判を招いた元祖がこの51年前の早慶戦と日テレ番組だったとうわけだ。時代はその後どう変わったか、果たして大宅の主張は正しかったのか、別の機会で検証したい。

 ⇒31日(木)朝・金沢の天気  あめ

★メディアのツボ‐51-

★メディアのツボ‐51-

 能登半島地震(3月25日)をさまざま視点で検証する金沢大学の震災学術調査に参加している。テーマは「震災とメディア」である。これまで3回にわたり、被害が大きかった輪島市門前町に入り、110人余りの被災者にアンケートを実施した。「震災直後、最初に使ったメディアはなんですか」と。

       ユウセンの威力

   現在、集計中なので気がついた点だけを述べる。実は「最初に使ったメディア」はテレビでもラジオでもなく、「ユウセン」なのだ。カラオケなどの音楽配信サービスのユウセンではない。門前町地区の人たちがユウセンと呼ぶのは防災無線と連動した有線放送のこと。街頭のスピーカーと、家庭で特別に敷設したスピーカー内臓の有線放送電話が同時に音声を発する。門前町地区オリジナルの防災情報システムだ。

  震災当日、発生5分後の午前9時47分に津波情報を発し、「沿岸の人は高台に逃げてください」と呼びかけた。「天地がひっくり返るほど」の揺れで、自失茫然としていた住民を我に戻させ、高台へと誘導にしたのはユウセンだった。

  普段は朝、昼、夜の定時配信で門前町地区のお知らせを有線放送電話室から録音で流している。ところが、いざ火災など緊急連絡となると、輪島消防署門前分署の署員が生で放送する。電話の利用料は月額1000円で同地区の8割が加入し、加入者同士ならば、かけ放題となる。さらにこの有線放送電話の優れた点は、同地区のさらに小単位の各公民館エリアでの放送も可能であること。震災後、診療時間のお知らせや、避難所での行事の案内などきめ細かく放送している。

  地震の際、テレビは吹っ飛び、配線はちぎれ、しかも停電した。ところが、震度6強の地震にもかかわらず、縦揺れだったために電信柱の倒伏が少なく、火災も発生しなかったので、市街地の電話ケーブルは切れなかった(門前分署)。つまり、有線放送電話は生きていたのである。これに加え、同地区の人たちが一斉に高台に避難できたのは、去年10月にユウセンを利用して津波と地震を想定した防災訓練を実施していたということも起因している。

  この防災無線と連動した有線放送電話システムば、30年以上もたったアナログ技術である。でも、その威力は大きかった。

 ⇒30日(月)夜・金沢の天気   くもり

☆メディアのツボ‐50-

☆メディアのツボ‐50-

 能登半島地震(3月25日)の被災地・輪島市門前町を訪ねて、被災者から話を聞いている。中には何度かマスメディアから取材された人もいる。被災者から語られるメディアを紹介する。

         報道の二面性

  現在は無職の32歳の男性の話だ。震災では自宅が全壊した。9時41分、母親はたまたま愛犬をシャンプーするため、風呂場に入っていて被災した。家は全壊したものの、ユニットバスというある意味で「シェルター」に守られ、九死に一生を得た。男性は、全壊した自宅や地域の惨状をなんとかしてほしいと思い、取材に来た新聞記者に惨状を訴えるつもりで上記の話をした。

  ところが、数日して大阪から匿名で現金封筒に入った1万円の見舞金が送られてきた。「愛犬に好物を食べさせてあげてください」と手紙が添えられていた。文面を読むと、どうやら惨状を訴えたつもりが、愛犬の世話をしていて命拾いをしたという「美談」として新聞記事に紹介されていたことが分かった。

  男性は苦笑する。「美談に仕立てられたという複雑な思いです。記事を読んで、見舞金として気持ちを寄せてくれる人もいるので、うれしいのですが・・・」

  メディアの取り上げ方には二面性があり、問題提起と話題性に分類される。一物二価ともいえるかもしれない。震災が起き、マスメディアがリアリティを持って被災地の様子を取り上げれば、その映像なり記事が行政や国を動かし、復興作業の大きな原動力になる。事実、能登半島地震では、4月13日に安倍総理が来訪し、その1週間後の20日には局地激甚災害に指定された。復興に国の大きな支援を得ることになったのである。

 その一方で、観光地でもある能登は大きな風評被害に見舞われている。震災発生から3日間だけでも、和倉温泉を中心として4万人の宿泊のキャンセルがあったとされる。輪島市のツーリスト会社の代表は、「能登半島地震ではなく、能登門前地震と命名してくれた方がよかった。能登半島全体が被災したイメージだ」とこぼしていた。新聞の見出しやテレビに「能登半島地震」と繰り返されるたびに風評被害が広がる、というのだ。

  このマスメディアの二面性の溝は簡単には埋まらないし、埋める妙手もいまのところない。

⇒25日(木)朝・金沢の天気  はれ 

☆メディアのツボ‐49‐

☆メディアのツボ‐49‐

 3月25日の能登半島地震を受けて、金沢大学震災対策本部に学術調査部会が立ち上がったことは以前、このブログで述べた。今回はその続き。学術調査には自身のテーマとして「震災とメディア」を設定した。今回の震災で被害がもっとも大きかった輪島市門前町は住民の47%が65歳以上、高齢化が進む地域である。この地域で震災がメディアがどのような果たした役割を果たしたのだろうかとの視点で調査に入っている。

         解けた疑問

  被災者へのアンケート調査や、マスメディアへのヒアリングなどを重ね、全体像を浮かび上がればと考えている。しかし、足元がおぼつかない。アンケート調査では、学生の協力を得ようと先日、講義室で100人ほどの学生に「被災者の生の声を聞いてみよう」と呼びかけたが、反応はいまひとつ。19日と20日に開くアンケートの事前説明会では学生が集まるだろうかと不安もよぎる。何しろ新学期で、学生は何かと忙しそうだ。

  ところで、マスメディアへのヒアリングを進める中で、解けた疑問が一つあった。その疑問とは、3月25日の地震の直後、私がとっさにつけたテレビはNHK総合だった。「災害のNHK」が無意識のうちに脳裏に刷り込まれているようだ。画面を見ると、能登半島沖が震源地で、輪島では震度6強というのに、NHK金沢放送局の映像がなかなか出てこない。最初の映像はNHK富山放送局の局内の揺れであったり、天気カメラが撮影した富山市内の様子だったりした。石川県金沢市に住む身とすれば、NHK金沢の映像が出ないので、「さてはNHK金沢に大きな抜かりがあったでは」と思ったりもした。これは「災害のNHK」を刷り込まれ、いち早くNHKにチャンネルを合わせた石川県の視聴者の多くが感じたことに違いない。

  そこで、きのう(17日)NHK金沢をヒアリングで訪ねた折、トップの放送局長に率直に切り出して聞いてみた。「地震情報がカットインしてから、なかなか金沢の映像が出ませんでした。何か理由があったのでしょうか」と。すると、「そのことはよく言われ困惑したことなのですが…」との前置きで、以下の説明をいただいた。地震発生時、震度6強の奥能登の映像を入手するまでにある程度の時間がかかる。すると手早く映像を出せるのは県庁所在地に位置する放送局となる。そうなると石川県の県庁所在地の金沢放送局からとなる。が、金沢市は震度4で、富山市は震度5弱だった。つまり、NHKの本局(東京)では当然、富山放送局の揺れの方が大きいと判断し、「能登の映像が入るまでは富山でつなげ」と指示を出したわけである。

  震度4の金沢放送局より、震度5弱の富山放送局の局内の映像や市内の映像の方が迫力がある。事実、富山県内でも多数の負傷者が出た。能登は石川と連想すると、当然、石川県に住む視聴者は金沢放送局の映像が先に出ると思ってしまう。ところが、地震は広域だ。テレビ局は見せる映像をどこが持っているかで判断するので、まず揺れが大きいほうの富山にとなったの当然だった。その後、NHKの映像にはその倒壊した輪島市の寺社や民家の凄まじい光景が次々と入ってきて、圧倒されることになる。

  近くであるがゆえに見えないこと。遠く離れているからよく見え、判断できることがある。今回は、「近くて見えないから生じた疑問」だったようだ。ぶしつけな質問にもかかわず、丁寧に答えていただいた放送局長に感謝したい。(※写真は、NHK金沢放送局の正面玄関に立つ震災の義援金受付の看板)

⇒18日(水)朝・金沢の天気   くもり