⇒メディア時評

☆メディアのこと‐下‐

☆メディアのこと‐下‐

 そのアナログ中継局群は丘陵地に広がる葉タバコ畑の中に忽然と現れた=写真=。中にはUFOを感じさせる丸型の中継局もあり、壮観だ。石川県能登町明野(あけの)。珠洲市街に向けて建てられた大型の中継局で、能登半島の情報インフラを支えている。ここを訪れたのは、2011年7月24日のアナログ停波のちょうど2年前に当たる7月24日のこと。

       能登半島の先端で「アナログ停波」リハーサル

  この日、珠洲(すず)市では全国に先駆けてアナログ停波のリハーサルが行われた。同市は能登半島の先端にある人口1万7000人の過疎化が進む地域である。戦後間もなく4万もいた人口が高度成長期を境に人口流出が起きた。揚げ浜塩田や珠洲焼、能登杜氏が有名であるほか、農業や漁業、そして街を取り巻く山々には30基の風力発電が建設され、新しいエネルギー発電に取り組んでいる。市内の電力需要を賄うには10基で足り、あと20基分は電力会社に売っている。三方を海に囲まれ、アナログ放送の停波リハーサルが行うのに、他の自治体に迷惑かからないというのが地デジ移行の国のモデル実験地に選ばれた理由だ。

  同日は10時から11時の1時間、くだんの葉タバコ畑に林立する珠洲中継局のアナログ放送電波が停止された。実際にアナログ停波の対象になったのは7500世帯だ。うちデジタル未対応は1300世帯。デジサポ珠洲では5回線10の電話を用意して、問い合わせに対応したが、この間に寄せられた電話は全部で12件だった。「リハーサルの停波は本当に1時間で終わるのか」「どうすれば地デジが見られるのか」など。そのうち1件はなんと沖縄の宮古島からの問い合わせだった。当日、NHKが特別番組を編成し、その画面にデジサポ珠洲の電話番号が大写しなった。その電話の内容は、「テレビをデジタル対応に買い替えたのに、アナログの表示が出るのなぜか」との問い合わせだった。また、「高校野球石川大会の生番組が見られないのは困る、孫が出る試合を見ることができない」と、地域ならではの苦情電話もあった。

  問い合わせ件数12では、アナログ停波と地デジ対応の課題を浮き彫りにする点で、十分に検証できたとは言えないのではなかったか。市民の戸惑いがどこにあり、もっと長い時間の停波リハーサルが必要となる。これは来年1月に数日の長さでアナログ停波が行われる。  ところで、日本より一足お先にことし6月に完全デジタル化に移行したアメリカでは、今なお150万世帯がデジタル未対応という。アメリカの調査会社ニールセンによると、デジタル未対応世帯のうち、60%以上はカナダ、あるいはメキシコからのアナログ放送を視聴していて、テレビがまったく見られないわけではない。アメリカとカナダ、アメリカとメキシコの国境沿いはお互いの放送が見える。メキシコとの国境近くのヒスパニック系移民の場合は、もともと英語放送は見ていなかったのである。

  四方海に囲まれた日本の場合、そのような「クッション」はない。今回の珠洲中継局のアナログ停止1時間で12件の電話をベースに、全国一斉(5000万世帯)として計算すると少なくとも8万件の電話が予想される。現時点で、沖縄、岩手、長崎、秋田、青森の5県はデジタル受信機の世帯普及率が50%に届いていない。2011年7月24日正午にアナログ波は停止し、地デジへ完全移行する。が、このときどれだけの「テレビ難民」が発生するのか、想像はつかない。

 ⇒12日(水)夜・金沢の天気  くもり

☆メディアのこと‐上‐

☆メディアのこと‐上‐

 前回、アメリカのレイチェル・カーソンの名著「サイレント・スプリング(沈黙の春)」(1962年)を取り上げた。「春になっても鳥は鳴かず、生きものが静かにいなくなってしまった」の一文は、環境以外にもいろいろな解釈ができる。たとえば、テレビメディアだ。画面は華やかだけれども、現場のプライドは薄れ、制作者はいなくなった・・・と。07年1月に捏造問題が発覚した番組「発掘!あるある大辞典」の調査報告書を読み返してみて、ふとそんなことを考えた。

      制作の矛盾が番組に曝露するとき

  組織には何がしかの光と影がある。テレビ局の場合、どれだけ視聴率を取って、スポットライトを浴びた番組であっても、影の部分を残したまま増幅させてしまうと、その矛盾がいつかは番組に曝露してしまうものだ。520回余り続き、平均視聴率15%も取った「発掘!あるある大辞典」が問題発覚からわずか6日で番組打ち切りが宣言された。その影とは下請け問題だった。調査報告書によると、関西テレビから元請け会社(テレワーク)に渡った制作費は1本当たり3162万円だったが、孫請け会社(アジトなど9社)へは887万円だった。テレワークの粗利益率は18.6%あったという。しかし、孫請け会社は過酷な条件下に置かれた。

  その第一は、納品された放送制作物の委託料の支払いが、納期日からではなく、放送日の月末締めで翌々月の10日だった。捏造が問題となった納豆ダイエットをテーマにした番組は07年1月7日放送だったので、委託料の支払いは3月10日となり、納期日からなんと75日後ということになる。改正下請代金遅延等防止法では、元請けに対し、納品から60日以内、しかもできるだけ速やかな支払い求めているので、これだけでも違法であり、不当である。財務余力がある大企業ならいざ知らず、番組制作会社には零細企業が多く、資金繰りは相当苦しかったに違いない。

  さらに、孫請け会社が元請け会社に「専従義務」を負い、にもかかわらず、死亡や負傷、疾病には、元請けは一切責任を負わないこことになっていた。ことほどさように、元請けは孫請けに対して優越的地位を濫用したのである。  調査報告書は「下請け条件を課されながら仕事をしなければならないという環境が、末端の制作現場で番組制作に携わる制作者からプライドを失わせ…」「期日どおりにやり抜かなければならないという点にのみ神経が集中してしまう傾向を醸し出した」と断じている。そして、制作責任があるキー局側に番組の内容をしっかりと見回す人がいない状態が生じたとき、捏造が起きた。つまり、矛盾が曝露したのである。別の表現をすれば、番組制作上の膿(うみ)が一気に噴出し、最終的に番組そのものが消えてしまった。

  最近、TBS番組「サンデー・ジャポン」の捏造シーン問題など、放送倫理・番組向上機構(BPO)による勧告が相次いでいる。「発掘!あるある大辞典」と同根の問題がテレビ業界全体に横たわっているのではないかと睨んでいる。

 ⇒10日(月)夜・金沢の天気  くもり 

☆日経新聞と農業

☆日経新聞と農業

  最近、日本経済新聞を読むと、一瞬、日本農業新聞と錯覚しそうなくらいに農業に関する記事が多い。7月18日付もそうだった。一面トップの見出しは、「企業の農業参入加速」だった。イオンなど小売や、外食・食品、それにJRなどの交通分野の企業までもが農業参入を目指している。ある大手の外食産業は現在480㌶のファームを今後600㌶に広げる計画だと報じていた。

   その日の日経新聞の別刷り面では、「夏休みに行きたい農園レストラン」のランキングが掲載されていた。1位の山形県鶴岡市の農家レストランは「農村の隠れ家」と紹介され、農業のサービス産業化を強調するような内容だった。農業参入にしても、農家レストランにしても何も珍しいことではないが、日経がこのように農業関連の記事を正面から取り上げること自体に何か新鮮さを感じる。

  農業関連の記事を日経新聞が取り上げるのにはいくつか背景があるようだ。一つは、食の安全を巡る問題が連日のように報じられ、企業が生産履歴のはっきりをしていないものを扱わないようになっている。むしろ、「自社ブランド」とPRする絶好に機会になっている。二つめに、食料自給が40%を割り、耕作放棄地が増える中、国民は国の農業政策にば漠然とした不安を持っている。21世紀に生きる企業として、農業への新規参入は消費者に「たくましい企業」のように思える。三つめに、国が農地法を改正し、企業が農地を賃借する際の規制を緩和したことだろう。今後、企業の農業分野への参入はトレンドになるだろう。

  そして、日経の記者にとってみれば、取材先の企業と同様に農業は新規分野であり、すべてのものが可能性に満ちている、そんな視線ではないか。メディアが新たな取材フィールドを得たという意義は大きい。というのも、日経の記事を丹念に読むと、その視点は、プロダクツ(商品・サービス)、プライス(価格・ロット)、プレイス(販路・流通)のビジネスモデルを今後、企業がいかにして農業分野で事業設計していくかという点である。

   取材を受けるが側の企業も新規分野だけに真剣である。昨年、金沢大学の「地域づくり講座」で、農業参入を果たした水産物加工会社の社長に、農業参入をテーマに講義をお願いしたことがある。すると、「事業的には黒字になっていないので・・・」と謝絶された。この企業は能登半島で25㌶規模の計画に着手している。綿密な計画で3年がかりでここまで持ってきた。社長の断りの言葉に、農業参入への「本気度」を感じたものだ。

   東京・丸の内の企業などが農村に本格的に目を向けるようになれば、日本の農業の風景は劇的に変わるに違いない。そんな視点で時折、日経新聞を読んでいる。

 ⇒20日(祝)夜・金沢の天気   くもり

★ワンセグとNHK

★ワンセグとNHK

  金沢大学で「マスメディアと現代を読み解く」というメディア論の講義を担当している。先日の授業で、「地上デジタル放送の問題点」をテーマに2011年7月24日のアナログ波停止、それに伴う「地デジ難民」の発生、ワンセグ放送などメリットとデメリットを織り交ぜて話し、最後に学生に感想文を書いてもらった。この日の出席は145人だったが、10人余りがNHKのワンセグ放送の受信契約について記していた。その内容に驚いた。「NHKの集金人(※NHKと業務委託契約を結んだ「地域スタッフ」)がアパートにやってきて、テレビはないと応えると、パソコンのTV線は、ケータイのワンセグはとしつこく聞かれました」(理系の1年女子)、「一人暮らしは受信料を払うべきでしょうか。実家の自分の部屋にテレビを持つのとの同じことだから払う必要はないのでは」(理系の1年男子)と、NHKの受信契約のストームに学生たちが戸惑っている様子が浮かび上がってきた。

  ワンセグの受信契約についてNHKのホームページで確認すると、「ワンセグ受信機も受信契約の対象です。ただし、ご家庭ですでに受信契約をいただいている場合には、新たにワンセグの受信機を購入されたとしても、改めて受信契約をしていただく必要はありません」と記載されている。問題は、一人暮らしの学生の場合である。そこで、視聴者コールセンターに電話(5月11日)をして、①学生は勉強をするために大学にきているので、受信料契約は親元がしていれば、親と同一生計である学生は契約する必要がないのではないか②携帯電話(ワンセグ付き)の購入の際、受信契約の説明が何もないのもおかしい、携帯所持後に受信契約を云々するのでは誰も納得しないーとの2点を、学生たちの声を代弁するつもりで問うてみた。すると、電話口の男性氏は「ワンセグの受信契約の対象になります。いろいろご事情はあるかと思いますが、別居の学生さんの場合は家族割引(2ヵ月で1345円)がありますのでご利用ください」と、要約すればこのような言葉を繰り返した。

  放送法第32条では、「受信設備を設置した者は、(日本放送)協会とその放送の受信についての契約をしなければならない」とあり、地域スタッフはこの部分を全面的に押し出して、一人暮らしの学生に契約を迫っているようだ。中には、「受信機の設置と携帯は違う、納得できない」と拒み、地域スッタフを追い返したという猛者もいるが、年上の大人が法律をかさに着て迫れば、新入生などは渋々と契約に応じる。電話の翌日(5月12日)の授業で、地域スタッフの訪問を受け、ワンセグの受信契約に応じた学生に挙手してもらったところ、20人ほどの手が上がった。「学生が狙いうちされている」と私は直感した。NHK資料(平成19年6月)によれば、契約対象4704万件のうち、契約しているものの不払いと、未契約が計1384万件にも上り、契約対象の29%を占める。つまり3件に1件が払っていない計算だ。一般家庭の未契約と不払いはそれぞれに「払えない」「払わない」「契約しない」の主張がはっきりしているので、地域スタッフにとってはここを説得してもなかなか成績が上がらない。ところが、学生ならば攻めやすいということだろう。

  私は学生たちに不払いを奨励しているのではない。契約は納得して応じるべきで、決してうやむやのうちにハンコを押してはならない、後悔する契約はしてはならないと説明しているのである。地域スタッフから「経営の安定がNHKの放送の自由度を高める」といった本来されるべき説明は受けていないようだ。いきなり「ワンセグ付いたケータイ持っているか」では、学生は納得しない。それより何より、親元と同一生計にある一人暮らしの学生に関しては、ワンセグ、一般受信機を含めて受信料を取るべきではないと考える。

★福沢諭吉とメディア-下-

★福沢諭吉とメディア-下-

 「福沢諭吉とメディア」のタイトルで連載しているが、福沢のもう一つのメディアが出版だった。明治2年(1869)に「福沢屋諭吉」名義で出版業組合に加入し、「西洋事情」を初出版。アメリカ、イギリスなど当時の先進国の社会や政治経済を紹介した。これが当時、人口3000万人といわれた日本で25万部売れた。明治5年(1872)の「学問のすすめ」もベストセラーとなった。鎖国から文明開花に急転した時代、人々は活字情報に目覚めていたに違いない。福沢のメディア戦略はこの時代の雰囲気を十分に読み取って展開していく。その延長線上で、新聞事業である時事新報が合資会社「慶応義塾出版社」を母体に立ち上がった(明治15年、1882)。

        コンテンツビジネスの元祖

  福沢は新聞事業と出版事業を巧みにメディアミックスしている。時事新報の社説で自らの論説を一つのテーマで連続的に掲載していく。そのテーマの中から読者から手応えがあったものを、今度は出版するという手法だ。「時事大勢論」「帝室論」などのヒット作品が次々生まれた。いまの手法で言えば、コンテンツの二次利用。テレビの連続ドラマの中で視聴率が高かったものを映画化して劇場公開、その後にDVD化、BC放送やCS放送で放送し、最後に「地上波初放送」とPRして自社の映画番組で放送する。一粒で二度も三度もおいしい(利益が出る)コンテンツビジネスの先駆けである。

  ビジネスと順風満帆でスタートした新聞事業だったが、創刊して3ヵ月後の6月8日付が突然、発行停止となる。当時、新聞は「新聞紙条例」(明治8年)で規制されていた。「国安の妨害」の理由に内務大臣が発行禁止あるいは停止にできた。5月1日にスタートさせた連載社説「藩閥寡人政府論」を時の政府は咎(とが)めた。薩摩と長州で主要閣僚が占められるのでは、日本が今後国会を開設する際の妨げになるとの論調だったといわれる。4日後の12日に停止処分は解かれるが、権力側からの警告メッセージだったのだろう。「次は発禁(=廃刊)」との。

  もともと福沢の政府への論調は敵対ではなく、調和である。政府の参議であった大隈重信、伊藤博文、井上馨からイギリス流の議会を開設するので、国民を啓蒙するような新聞をつくってほしいと請われ、議会開設論者だった福沢は3参議に協力を約束し、準備に入る。ところが、大隈、伊藤、井上の不和が表面化し、議会開設のプロモーターだった大隈が明治14年(1881年)10月に突然辞任する。議会開設プランが事実上、頓挫してしまう。機材、人材を用意し新聞発行の準備を整えていた福沢は引くに引けない状態に陥るものの、中上川彦次郎(後に「三井中興の祖」と呼ばれる)の協力を得て、時事新報の創刊に踏み切る。だから、もともと政府権力と敵対する目的で新聞事業を始めたわけではない。議会開設を先導するこそが自らの信念の具現化だった。「藩閥寡人政府論」も議会開設に向けた正論を押し出したものだった。その議会が開設するのは大隈辞任の9年後の明治24年(1891)のことである。

  「独立自尊迎新世紀」の揮毫を最後に一つの時代を駆け抜けた福沢は明治34年(1901)2月3日に脳溢血で亡くなる。時事新報はその後、昭和10年(1935)11月、大阪進出が裏目に出て経営が傾き廃刊に追い込まれる。昭和21年(1946)元旦に復刊するものの、昭和25年(1950)に産経新聞と時事新報が統合するかたちで「産経時事」の題字として再スタート。が、昭和33年(1958)7月にその題字は産経新聞に戻る。新聞としての時事新報はなくなったが、株式会社としての時事新報社はまだ産経新聞社が引き継ぐかたち存続しているという。※写真は、慶応義塾大学三田キャンパスの福澤諭吉像

 <参考文献>「新聞人福澤諭吉に学ぶ」(鈴木隆敏著・産経新聞の本)

⇒10日(火)朝・金沢の天気  くもり

☆福沢諭吉とメディア-中-

☆福沢諭吉とメディア-中-

 東京国立博物館の「福沢諭吉展」を見終え、売店で絵葉書を5枚買い求めた。葉書の裏の絵は「文明論之概略」の表紙、「慶応義塾之目的」書幅、「学問のすすめ」(初版)、慶応義塾図書館ステンドグラス原画(和田英作)、福沢諭吉ウェーランド経済書講述図(安田靫彦)。絵葉書の裏絵とは言え、それぞれに歴史的あるいは文化的な価値があり、少々重い。ちなみに値段は一枚50円だった。

       政府の提灯は持たぬ  

  「政府の提灯は持たぬが、国家の提灯は持つ」。そう言い切って、福沢は明治15年(1882)3月1日に「時事新報」を発刊した。いまから127年のことだ。紙名もイギリスのタイムズにちなんだといわれる。

  当時、新聞はすでに相次ぎ創刊されていて、2つの系統に分かれていた。自由民権運動のさなかで、「自由新聞」は板垣退助の自由党の機関紙、「郵便報知新聞」は大隈重信がつくった立憲改進党の機関紙だった。これら政党色の強い新聞を当時、大(おお)新聞と呼んだ。一方、娯楽性を強調した大衆紙を小(こ)新聞と呼んで区別した。読売新聞(1874年発刊)、朝日新聞(1879年発刊)のスタートはこの小新聞だった。大新聞は政府の弾圧を受けたりと消長が激しかった。小新聞は徐々に大新聞の要素を吸収して「中新聞」として生き残った。

  明治初期にあって、現在の新聞のポリシーに最も近かったのは時事新報だった。福沢は、大新聞とは違って、財政的な独立なくして言論の独立はないと考え、広告を重視して経営基盤を固めた。どの政党にも属さずに、言論の独立性を高め、タイムズのような高級紙を目指すにはまず経営基盤を高めるというのは自明の理と言える。そして、福沢は門弟たちに、広告の取次業として起業することをすすめる。いわば、明治のニュービジネスである。もちろん、当時の新聞はニューメディアだ。福沢にはこうしたビジネス感覚があったのだ。

  もう一つ、福沢のメディア的な感覚が見て取れるのは「漫画」である。文字ばかりの紙面では当然読みづらい。そこで、視覚的な要素を紙面に取り込んだ。アメリカ帰りの挿し絵作家、今泉秀太郎を時事新報に迎え、腕を振るわせた。今泉の代表作に「北京夢枕」がある。四書五経を枕にアヘンを吸いながら横たわる中国人(ガリバー)の足元で、欧州勢(小人の国の兵隊)が勝手なことをしでかしている錦絵だ。こうなると、現在の漫画のイメージをはるかに超えて、「漫画ジャーナリズム」というタッチである。

  明治29年に、アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)で鉄道工学を学んだ二男の捨次郎が時事新報の社長に就く。時事新報は発刊から海外ニュースを売りにしていたが、明治30年4月、イギリスのロイターと記事配信の独占契約を結ぶ。他紙は時事新報より一日遅れで海外ニュースを掲載せざるを得なかった。福沢は当時62歳。時事新報は大新聞や小新聞ではなく、高級紙としての地位を次第に確立していく。

※写真は、福沢が明治8年(1875)に創設した三田演説館。英語のスピーチを「演説」、デベートを「討論」と訳したのは福沢だった。社会活動として一般市民向けに演説が行われた。自身は236回、熱弁を振るったといわれる。 

⇒8日(日)夜・金沢の天気 はれ

★福沢諭吉とメディア-上-

★福沢諭吉とメディア-上-

 東京・上野の東京国立博物館で開催されている「未来をひらく 福沢諭吉展」を鑑賞する機会に恵まれた。訪れた日の関東地方は肌寒く、桜の名所・上野で咲いていたのは早咲きのオオカンザクラ一本だけ。それでも、人々は足を止め、桜に見入っていた。

      「独立自尊迎新世紀」      

  福沢諭吉展のテーマは「異端と先導~文明の進歩は異端から生まれる」。1万円札に描かれている人のどこが異端なのかというと、明治維新後、蘭学を修めたような知識人たちはこぞって官職を求めたが、福沢は生涯を無位無官、一人の民間人で通した。「独立自尊」を身上とし、政党に属さず、民間人の立場から演説をし、言論というものを追求していった。請われても、権力に属さなかった。幕府を打倒し新たな権力構造をつくり上げていった薩摩や長州の「藩閥の群像」とは明らかに異なる。「際立つ個」、明治という時代にあってこれは異端だった。

  このエピソードは有名だ。明治4年(1868)5月15日、上野の彰義隊が寛永寺で新政府軍と衝突した。砲音が響き、火炎が立ち上る中、すでに慶応義塾を主宰していた福沢は時間割通り、塾生たちに経済学の講義(フランシス・ウェーランドの経済学綱要)を行った。福沢は「この慶応義塾は、日本の洋学のためには和蘭の出島と同様、世の中に如何なる騒動があつても変乱があつても、未だ曾て洋学の命脈を絶やしたことはないぞよ」と、当時の文明であった洋学の吸収と普及に毅然とした。彰義隊を粉砕した新政府軍の指揮官は西郷隆盛だった。

  では、福沢はいわゆる「西洋かぶれ」だったのか。福沢諭吉展で紹介された諭吉の写真のほとんどは和服姿である。「身体」を人間活動の基盤と考え、居合刀を日に千回抜き、杵(きね)と臼(うす)で自ら米かちをした。身を律して、4男5女の子供を育て、家族の団欒(だんらん)という当時新しいライフスタイルを追求した。公費の接待酒を浴びるほど飲んで市中を暴れまわった新政府の官員(役人)たちを横目に、「官尊民卑」と「男尊女卑」に異議を唱えた。明治33年に夫妻そろって撮影した記念写真が会場に展示されている。夫婦ツーショットはひょっとして日本初ではなかったか。

  先のエピソードで紹介した西郷と、福沢は面識がなかった。が、晩年の福沢は西南戦争で没した西郷を称えた。新政府で天下をとり栄華に浸る者たちと一線を画し、下野した西郷の「無私」に共感した。そして、政府官員が西郷を「賊」と決めつけたことに怒りを感じたのだった。  福沢は維新とは一体何だったのかと問うた社説を、自ら興した新聞「時事新報」に「明治十年丁丑公論」のタイトルで連載していく。明治十年は西郷が自刃した年である。記事の連載中だった明治34年2月3日に脳溢血で亡くなる。享年66歳。当時、「24年にも経ってなぜ福沢が西郷をほめるのだ。時代がずれている・・・」といぶかった読者もいたであろうことは想像に難くない。明治34年は1901年。福沢はその年の元旦に「独立自尊迎新世紀」と揮毫した。「明治十年丁丑公論」を連載したのも、20世紀を迎え、維新という時代を自ら総括しておきたいという意図があったに違いない。

  むしろ評価すべきは、この明治の時代に「新世紀」という発想をもった福沢の大局観だろう。世界観をもって在野を貫き、権力を批判する。これは、ジャーナリストの素養でもある。東京都港区元麻布の善福寺に葬られており、法名は「大観院独立自尊居士」。

 ⇒6日(月)夜・金沢の天気  くもり

☆時代の先端に立て

☆時代の先端に立て

 元旦に届いた年賀状。パソコンで加工できるようになり、さまざまに工夫が凝らされカラフルに、そしてメッセージ性にあふれたものが多くなったように感じる。動物写真家F氏からもらったものは、寝そべったニホンカモシカがじっとこちらを睨んでいる凄みのある画像が印刷されていた。国際ジャーナリストのK氏からは中国・四川大地震の取材で最も震源地に近い映秀の被災現場をバックに撮影した自身の姿がプリントしたものをもらった。そして、「今年も《この国の行方》と共に、中国、朝鮮半島の《現場》を取材したいと思っています」と抱負が記されてあった。それぞれが体を張って現場に、あるいは最先端に立っているのだ。

  さまざまなジャンルの職業の方々から年賀状が届いた。が、グチがこぼれていた業界もあった。新年のあいさつなので、新年早々から「グチはこぼさない」のが通り相場なのだが、どうやらテレビ業界は「グチをこぼさないとやっていられない」といった感じだ。旧知のあるローカル局の幹部からは「閉塞感漂うTV業界です。ローカルの役割が見直されて欲しい時代です」と、また、別の局の若手からは「厳冬のTV業界で寒さがひとしおです」とそれぞれ添え書きがしてあった。また、これはグチではないが、他の局の若手からは「テレビの世界も激動の時代に入りました。地方局として存在感を持ちたいと思います」と覚悟のほどが伺えた。ため息が漏れるのも、過日の「株価に見るテレビ業界」で述べたように、キー局、準キー局ですら中間決算が赤字となっていて、ローカル局も相当厳しい数字になっているからだろう。

  気持ちは理解できる。むしろ、閉塞感、厳冬、激動の時代だからこそテレビ業界は時代の先端に立ってほしいと思うのである。たとえば環境問題。テレビ局は「装置産業」といわれるほど編集、CM送出、送信などのために巨大な装置(システム)を構築し、電気を使っている。環境のためにカーボン・ニュートラルの発想で、二酸化炭素(カーボン)を相殺(ニュートラル)するための植林活動を率先して行ったらどうだろうか。テレビ局は環境問題に対し「啓発番組」をつくればそれで事足りるという傾向がある。テレビ局の社会的責任(CSR)というのはそれだけに留まらない。番組を放送すると同時に率先垂範しなければ、視聴者は「本気」とみなさないのである。つまり、信用を得ることにはならない。

  デジタル化にしても、放送画面はハイビジョンでクリアにはなったが、ワンセグ放送やデータ放送による視聴者との双方向性はどうなったのだろうか。コンテンツに革新性がなく、視聴者からはすでに飽きられているのではないか。もし、こんなことのために2011年7月24日にデジタル波へ完全移行するとなると、視聴者から「割に合わない」と大ブーイングが起きそうな気がする。デジタル放送が実感できるような放送イノベーションを起こしてほしいと願う。

  もう一つ。地域の放送局は地域のためのメディアであることを前提に国から放送免許をもらっている。ところが、地域に根ざした自社制作番組はどうだろうか。すべての局とはいわないが、各局とも自社制作番組の本数、あるいは自社制作比率が減っているのではないだろうか。そして、この経営状態が厳しい中では、「番組をもっとつくろう」という制作サイドの意欲さえ削がれているのではないか。最先端のメディアであるテレビ局が時代の先端に立たず、「内こもり」になることを危惧する。

  試しに、コストをかけずに番組をつくり、環境保護活動に全社員が参加する。そんなキャンペーンを張ってみたらどうだろうか。まず一点突破で実践してみる。そこから拓かれる知恵もある。

※【写真説明】トキ、ニホンカモシカ、タヌキと今年の年賀状にネイチャー志向が見える。

 ⇒2日(金)午後・金沢の天気   くもり

★株価に見るテレビ業界

★株価に見るテレビ業界

 株価が市場のバロメーターなら間違いなく「恐慌」ではないか。きょう(30日)の東京株式市場で日経平均株価の終値は8859円となり、前年の終値と比べて42%安となった。年間の下げ幅としては、バブル経済が崩壊した1990年のマイナス38%だった。ことし9月のアメリカのリーマン・ブラザーズの破綻以降、株価は日本でも大きく売られる展開となり、10月27日には1982年10月7日以来、26年ぶりの安値となる7162円まで下落した。しかし、メディアは「国民の不安心理を煽る」として「恐慌」の文字を使わないようにしている。が、数字は強烈に物語っているではないか。

  それではメディアの株価を見てみよう。テレビ朝日を例に見てみる。1年前は18万円台。きょうの取引値は12万500円。ここ3ヵ月で見れば10万円台もある。TBSも2500円台が1364円。視聴率が5年連続して3冠王(ゴールデン、プライム、全日)のフジにしても、1年前18万円台だった株価がきょうは12万8100円だ。軒並み落ち込んでいる。

  では、来年の展望はどうか。正直言って、明るい材料はない。先月、民放キー局は中間連結決算を発表したが、テレビCM(スポット、タイム)が落ち込んでおり、日本テレビは37年ぶりに純損失(12億円)を計上した。とくにスポットCM収入は化粧品、飲料、自動車の分野が落ち込み、日本テレビの場合は前年同期比49億円の減の470億円。ざっと10%のマイナスである。下半期期はもっと厳しい数字だろう。

  テレビ業界全体ではテレビCM収入は減ってはいるが、番組外収入を伸ばしているところもある。先に述べたテレビ朝日の場合、スポット収入は10%減の440億円だが、映画「相棒~劇場版~」のヒットや「ケツメイシ」などの音楽出版事業で落ち込み分をカバーしたかっこうだ。異色なのはTBSだ。売上高を2ケタ増の12%余り伸ばし1784億円だった。実はスポット収入は16%も減っている。では何でカバーしているのか。不動産収入が寄与している。輸入生活雑貨店「プラザ」などを傘下に持つスタイリングライフ・ホールディングスの株式を取得、連結子会社化したことがプラスとなったほか、「赤坂サカス」関連の不動産事業が寄与し、増収を確保した。不動産収入で足場を固めるTBSは通期の売上高を前年比17%増の3700億円と見込んでいる。

  話はTBSに偏るが、売上高を通期で17%増やすのなら株価はこのご時勢だから上がってもよいはず。そこで株価チャートを読んでみると、中間決算の発表は11月5日。TBSの「売上増」の発表を見込んで、その10日ほど前から株価は値上がりし、中間決算発表の翌日6日には1800円台をつけた。ところが、7日からは再び続落し、一時1200円にまで落ちた。なぜか、業績はそれほどよくはならないという市場の読みだろう。

 11月12日、テレビ業界にさざ波が立った。トヨタ自動車の奥田碩相談役が政府の有識者会議「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」で、年金記録問題などで厚労省に対する批判的な報道が相次いでいることについて、「朝から晩まで厚労省を批判している。あれだけ厚労省がたたかれるのはちょっと異常。何か報復でもしてやろうか。例えばスポンサーにならないとかね」とメディアへの不満をあらわにしたのだ。会合の最後になっても「個人的な意見だが、本当に腹が立っている」と厚労省に関する報道への不満を切り出し、こうした番組などからのスポンサー離れが「現実に起こっている」と述べた(産経新聞インターネット版)。

  企業首脳のテレビ批判はよくある話だ。ところが、テレビ業界ではこれが現実になるかも知れないと危機感を募らせる向きもある。12月22日、トヨタが通期の営業損益予想を6000億円の黒字から1500億円の赤字に大幅修正する発表をしたからだ。今後、トヨタは「黒字」に転換する方法を必死に模索するだろう。そこで取り沙汰されているのが、広告宣伝費の大胆な削減。現在トヨタ単体の広告宣伝費は1000億円余り。どのテレビ局を見ても最大の広告主=スポンサーはトヨタだ。これだけメジャーな企業になると、「1年間の広告宣伝費をゼロ」にしても、トヨタの名声に傷がつくことはない。ユーザーのトヨタに対する認知が下がることもない。「かつてない緊急事態」。渡辺捷昭社長がコメントしたように、相当思い切った手を打ってくるに違いない。ホンダも1900億円の赤字見通し。奥田氏の言葉が現実になるかもしれないのだ。テレビ業界の広告費は年間2兆円ほど。これが急速にしぼみ始める。

  不動産収入など放送外事業でテコ入れしても、広告収入の減少を補うのは難しいのではないか。ちなみに、不況感が強まっている関西地区の朝日放送、毎日放送、関西テレビ、読売テレビの4社の中間決算は営業損益、純損益ともに赤字に転落した。「発掘!あるある大辞典」で捏造問題を引き起こした関西テレビは落ち込んだ広告収入が回復せず、売上高は前年比15%のマイナス。通期も営業赤字の見込みという。

  こうなるとテレビ局も守りの態勢に入る。つまり大幅に番組制作費を減らすのである。中間決算で純利益を45%も減らしたフジは上半期で番組制作費を前期比で60億円削減。今後3年間で設備投資額を100億円減らすという。先日、TBSは来年春の番組改編で、ゴールデンタイムでの大型ニュース番組(平日午後5時50分-7時50分)を制作すると発表した。ゴールデンタイムにニュース番組を持ってくる試みは他系列でもプランはあったが実現していない。それを大胆に編成替えする理由はコストダウンだ。番組制作費の上でVTRの使い回しがきくなどニュース番組はバラエティ番組をつくるよりはるかにコストカットできる。その他のキー局もおそらく追随して、ニュースの時間を増やしてくるだろう。すると、先述の奥田氏が言ったように「朝から晩まで厚労省を批判する」現象がさらに増長されるかもしれない…。

  テレビメディアが順風満帆であった時代はすでに過ぎ去った。景気の失速に加え、テレビ業界には次なる難題が待ち受ける。地上デジタル放送への完全移行(2011年7月24日)だ。果たしてスムーズに地デジへ移行できるのか。あと936日。

 ⇒30日(火)夕方・金沢の天気   風雨

☆科学に「常識」はない

☆科学に「常識」はない

 科学記事がメディアに登場しておおむね50年が経つという。では、科学記事がメディアの中でどんな役割を果たしてきたのだろうか。金沢大学で私が担当している朝日新聞特別講義「ジャーナリズム論」(後期・毎週火曜3限)の第11回目(12月16日)は、尾関章氏(論説副主幹)に登壇していただき、冒頭の内容で講義していただいた。題して「理系シフト時代への社説」。以下、講義のまとめを試みる。

  教育界では子供たちの理科離れが進んでいるとよくいわれるが、メディアの世界では科学記事の割合が広がり、たとえば朝日新聞社では30年前に20人ほどだった科学担当記者は現在では50人ほどに増えている。戦後は60年安保、70年安保と大学キャンパスでも政治闘争の嵐が吹き荒れた。が、高度成長に伴ってハイテク、ロボット、宇宙、IT、新型感染症、医療・生命倫理、食の安全と危機管理、そして環境へと、メディアの記事テーマは政治・社会から科学への「理系シフト」が起きている。それが極まったのが、ことし8月の洞爺湖サミットだ。地球温暖化についての科学的な研究の収集、整理のための政府間機構であるIPCCの科学者たちが動いて、地球環境問題をサミットの主議題に押し上げたといわれる。少なくとも、政治家が地球環境問題を無視できないような状態になった。科学者のメッセージで世界が動く時代に入ったともいえる。

  メディアにおける科学記事の役割というのは尾関氏の表現だと、70年前途までは「啓蒙の時代」、公害問題が噴出した70年前後以降は「批判の時代」、そしていまは「批評の時代」に入っているという。この批評の時代というのは、たとえば04年のアメリカ大統領選挙で、中絶反対の立場に基づいて「ES細胞(受精卵から作る万能細胞)を使った再生医療の研究」に反対を表明したブッシュと、賛成だったケリーが激しく争った。生命倫理のハイテク化なのだが、これ一つをとっても早急に決を出せるテーマではない。むしろ評論や批評というスタンスで臨まないと、世論をミスリードする可能性があり、「メディアが厳に戒めなけらばならなことである」(尾関氏)。

  科学記者に必要な素養、それは10年先、20年先を読むイマジネーションなのだろう。そして、決して結論を急がない。たとえば、低炭素社会や医療の未来図をいま性急につくり上げることはできない。先に述べたアメリカ大統領選におけるES細胞をめぐる議論は発端にすぎない。議論はこれからなのである。この議論を科学記者はどうタイムリーに提供していくか、ということなのだ。

  「科学には『常識』がない」。尾関氏が講義の最後に強調した言葉である。遺伝子、代理母、クローン、原子力、捕鯨などの問題は社会通念で推し量れない。推し量れないから議論を尽くさなければならない。一方で科学のマーケットはどんどんと広がっている。それを支える公的な研究費は膨らむばかりだ。だから納税者の理解や提案、研究者との意見調整が必要だ。「科学はみんなで考える」。そんなスタンスが双方に必要になってこよう。その間に立ち、的確な記事を発信していく。科学記者が心得なければならない科学ジャーナリズムの原点ではある。

 ⇒18日(木)朝・金沢の天気    あめ