⇒メディア時評

☆地デジ化の扉・中

☆地デジ化の扉・中

 珠洲市が総務省が募集した地デジへのリハーサル候補地に手を挙げ、先行モデル地区に採択された理由に一つに能登半島の地形をうまくアピールしたという点がある。それは、三方を海に囲まれ、実験的にアナログを停波しても近隣の市町には影響がほどんどないということ。もう一つはエリアが8800世帯(珠洲市6600世帯と能登町の一部2200世帯)という、実験としては適切な規模であり、また、少子高齢化の過疎地として全国の「地デジ化モデル」となりうることだった。もちろん、切実感を持って取り組んだ首長の意欲もあり、総務省とすると実験地としては最適だったに違いない。もう一つ上げるなら、国の事業として、能登空港があることで、東京からのアクセスが良かったということだろう。

      「珠洲モデル」といわれた町の電器店の働き

  地デジ化ほぼ100%にこぎつけたもっとも大きな理由は2つある。一つは、ケーブルテレビ加入率が高いこと。珠洲市の場合は65%、能登町は94%に達している。珠洲市のケーブルテレビは「デジアナ変換」をで、加入世帯は現行のままの状態で視聴できる。そのコストは工事費3万9900円、年間の利用料1万2100円が少なくともかかる。二つの理由は、チューナーの無料貸与があげられる。これは、デジタル波を直接受信する世帯(約3000世帯)を対象に無料で貸与されるもので、1世帯当たり4台を限度に貸し出される。チューナーはデジタル波をアナログ変換するので、従来のアナログテレビで取り付けて視聴する。3000世帯の中にはデジタル専用テレビに買い換えた世帯もあるが、家庭内の2台目や3台目にまで手が届かない場合はチューナーでとなる。希望があったホテルや事業所、民宿などにも対応した。その総計が4200台にも及んだ。

  では、テレビ電波の直接受信世帯にチューナーを貸与さえすれば、人々は上手に取り付けて、それでOKなのだろうか。能登は少子高齢化のモデルのような地域なのだ。珠洲同市では6600世帯のうち40%が高齢者のみの世帯で、さらにその半分に当たる1000世帯余りが独居である。問題はここから始まる。高齢者世帯を町の電器屋が一軒一軒訪問し、チューナーの取り付けからリモコンの操作を丁寧に教える。このリモコンにはチューナーとテレビの2つの電源がある。一つだけ押して、お年寄りからは「テレビが映らないと」とSOSの電話が入る。このような調子で、「4回訪ねたお宅もある」(電器店経営・沢谷信一氏)という。おそらくこれからもフォローが続くだろう。

  24日の記念セレモニーの中で、泉谷満寿裕市長は「高齢者世帯を一軒一軒回っていただき、電器店のみなさんには本当に感謝したい」とあいさつの中で2度も述べた。今回地デジに対応に一肌脱いだ町の電器屋は珠洲が11軒、能登町が4件の15軒。もちろんボランティアではない。ただ、ボランティア以上に「お年寄りのお宅は何度も何度も、丁寧に丁寧に」対応した。

  地元をよく知る電器店だから動くことができたといえる。この働きは予期せぬ効果を上げたことから、「珠洲モデル」と評価されている。記念セレモニーのステージで、デジタル放送推進協議会の木村政孝理事が一人ひとり電器店の店主の名前を読み上げ感謝状を贈った=写真=。泉谷市長が2度も「感謝したい」と述べた理由がここにある。

  地デジ受信機の世帯普及率は83%(ことし3月、総務省調べ)であり、地デジに対応していない世帯数は1000万近く残っている。全国的には、大型家電店の進出で町の電器屋は減っているという。「珠洲モデル」が果たして、全国のお手本となるのか、どうか。

 ⇒25日(日)夜・金沢の天気  はれ   

★地デジ化の扉・上

★地デジ化の扉・上

 アジアで初めて、放送の地上アナログ波が停波した。こう表現すると、少々おおげさに聞こえるかも知れないが、実際にはそのくらいのインパクトはある。きょう7月24日正午で能登半島・能登町明野地区にある珠洲中継局から発信されていたテレビのアナログ放送を終了し、デジタル放送へ移行した。珠洲市の「ラポルトすず」で開催された記念セレモニー(午前11時30分開始)に出席した。

            扉を開いた人のリスク・マネジメント

  停波に向けたカウントダウンの声が上がったのは、正午より30秒ほど前だ。地元の民放テレビ局の社長らが「スイッチオンセレモニー」に立ち会い、定刻にステージ上に並べた民放とNHKのアナログ放送のモニター放送が一斉に砂の嵐状態になった。すかさず、北陸総合通信局長の吉武洋一郎氏による「珠洲地区デジタル化完了宣言」があった。つまり、ここにアジアでの地デジの第一歩を記したと宣言したのだ。

  きょうは「日本全国地デジカ大作戦」と題して各地で広報イベントが繰り広げられたが、東京の帝国ホテルでは「~地上・BS 完全デジタル移行まったなし1年前の集い~」(主催:デジタル放送推進協会)が開催され、珠洲会場と東京会場が双方向の中継で結ばれた。原口一博総務大臣から「珠洲市は全国に先駆けて完全デジタル化の扉を開いた。今後の発展に期待したい」と珠洲市に向けてお祝いのメッセージが送られた。  新しい構想が打ち上げられた。珠洲市での記念セレモニーであいさつに立った総務省官房審議官の久保田誠之氏が、珠洲で停波で空いた周波数帯(ホワイト・スペース)で、観光目的などに利用する「エリア・ワンセグ放送」の実証実験を行うと述べたのだ。アナログ放送の停波に伴うエリア・ワンセグの実験は全国初ということになる。ホワイト・スペースに関しては、マルチメディア放送や携帯電話、道路交通システムなどへの電波割り当てが検討されている。当初は珠洲市役所周辺の数百㍍、徐々にエリア拡大して地域振興を目的としたエリア・ワンセグにする構想という。ホワイト・スペースの活用によって、地デジの意義付けが実感できるものとなるに違いない。

  ところで、完全デジタル化の扉を開いた珠洲市だが、その旗振り役は同市の泉谷満寿裕市長だった=写真=。総務省のアナログ停波リハーサル事業(2009年度)の候補地に名乗りを上げた。2007年3月25日の能登半島地震では、多くの家庭で屋根のアンテナが落下あるいは向きがずれ、またテレビ本体が棚から床に落ちてテレビ視聴ができなくなった。家電量販店の進出で数少なくなった地元の電器店が右往左往する光景を目の当たりにしてきた。さらに同市では過疎・高齢化が進む。6600世帯のうち40%が高齢者のみの世帯で、さらにその半分に当たる1000世帯余りが独居である。

 泉谷市長には、「地デジに高齢者世帯は対応できるのか。地震のときのように市民がうろたえるのではないか」と、予想されるこの事態をどう乗り切るか常に問題意識としてあったという。「2011年7月24日」は、表現は適切でないかもしれないが、「予定された災害」である。こうした首長の切実感が停波リハ-サルにいち早く名乗りを上げ、着実に地デジ化100%の道をつけた。これはリスク管理といった方が分かりやすいかも知れない。

⇒24日(土)夜・金沢の天気  はれ

★選挙のテレビ関係者

★選挙のテレビ関係者

 参院の新議員51人の顔ぶれを見ると、その党が選挙ポリシーが理解できる。まず目に付くのは、民主はテレビ関係者が多いことだ。TVリポーター(北海道)、テレビ局記者(滋賀)、蓮舫氏も元テレビ局のキャスターだった。落選したが、大阪ABCの人気番組「探偵…」の女性司会者や、富山の元テレビ局アナウンサーなどかなりの数でテレビとかかわった人たちが今回、選挙を戦った。その点、自民は県議、市議ら地域で基盤を築いてきた、いわゆる「叩き上げ」が多い。ざっと数えただけで県議出身が7人も。

 民主党は、知名度が抜群なテレビ局関係者をイメージ戦略として利用したのだろう。国政選挙にあるいは、政界に打って出たいというテレビ関係者はいくらでもいる。ちょっとした人脈を得て、候補者として起用されたであろうことは想像に難くない。また、こう述べると、「テレビ局関係者はタレントとは違うので、軽々に選挙に出るべきはない」と言っているのではない。自らのポリシーを持って、国政に出ればよい。

 ただ、言いたいのは有権者の多くは、テレビ関係者とタレントを同列視する傾向がある。視聴者からすれば、司会者であっても、キャスターであっても、テレビのモニターに映る人はみんな同じタレントに見えるのである。テレビ局側もその司会者やキャスターのキャラ(個性)を生かして、番組を構成している。そのキャラとは話し方や仕草など番組のコンセプトに違和感のない人物を登用しているのだから、いわばタレントである。視聴者がそう思うのも当然である。

 昨日(12日)のテレビ朝日「報道ステーション」で、有権者がこのような趣旨のことをインタビューに応えて述べていた。「大阪は、横山ノックさんでタレント候補はもういらんと思っている」と。2000年に強制わいせつ罪で在宅起訴され、知事を辞職した横山ノック(山田勇)大阪府知事のこと。大阪人の「タレント候補アレルギー」は相当なものだと日ごろ思っていた。07年1月にそのまんま東(東国原秀夫)氏が宮崎県知事が当選したとき、朝日新聞大阪本社は大阪の世論に配慮して、一面トップとはせず、準トップとして扱った。同じ朝日新聞東京本社や各紙は一面トップだった。

 これは大阪だけの傾向なのだろうか。民意や世論は必ずしも有名人を欲してはいない。有名人は票が取れなくなっているのではないか。むしろ、県議や市議といった、有名ではないが、基盤を持っている候補者は信頼感がある。無党派層の取り込みを狙ったタレント候補時代、あるいはテレビ関係者候補の時代は終わったように思う。政党はワンパターン化したイメージ戦略を見直すべきなのだ。

⇒13日(火)朝・金沢の天気  あめ

☆当確打ちの舞台裏

☆当確打ちの舞台裏

 11日の第22回参院選の選挙特番は各局、チカラが入っていた。テレビ朝日の「選挙ステーション2010」(午後7時57分スタート)は、投票が締め切られた午後8時で出口予想として、「民主47-自民50」とした。結果は、民主党は2004年の50議席に及ばない44議席にとどまり、自民党の51議席を下回る大敗となった。自民党は「改選第1党」に復調。みんなの党も改選第3党となる10議席に躍進し、民主党は国民新党との連立与党で過半数を割り込んだ。続々と出てくる当確に、テレビ各局の当確(当選確実)打ちの技術はスキルアップされたと印象を受けた。

 昨日は家族といっしょに投票場に出かけた。ここ数年、市議選から国政選挙まで欠かしたことがない。政権交代など流動化している政治が面白いし、当落予想は楽しみだ。その実感をつかむには投票行動を起こすことが何よりと考えているからだ。投票場の出入り口には、NHKと地元新聞社の調査員が待機していた。出口調査のためだ。新聞社の調査員が寄ってきて、「ご協力をお願いします」と依頼され応じた。今回の選挙区では誰に、比例ではどの政党にのほかに結構細かな質問がある。「石川県知事を評価するか」などといった、今回の参院選に直接関連しない項目もある。地元新聞社なので、県内の動向をつかんでおきたいのだろうと、むしろその姿勢に好感が持てた。この出口調査の結果は新聞社系列のローカルテレビ局にもデータが共有され、当確打ちの判断材料となっているはずだ。

 このテレビ局の当確打ちの根拠となるデータは出口調査だけではない。投票が締め切られる午後8時以降、調査の舞台は開票場に移る。各投票場から投票箱が続々と開票場に集まってくる。そして9時過ぎごろから実際の開票が始まる。投票箱が開けられ、票がばらまかれる台は「開披台(かいひだい)」と呼ばれる。その票を自治体の職員が候補者ごとに仕分けしていく。その職員の手元を双眼鏡で覗き=写真=、どの候補者が何票得ているかカウントする。この作業は、マスメディアの業界用語で「開披台調査」と称している。開票場は普通、体育館で行われるので、観覧希望者は2階に上げられる。その2階から覗くのである。双眼鏡で覗くので「違法性」があるのではと一般の観覧者は思うのだが、メディア各社は選挙管理委員会に「双眼鏡で調査する」旨を届けており、選管も了解済みだ。

 開披台調査はペアが基本だ。一人が双眼鏡で仕分けされる候補者の名前を読み上げ、もう一人それを数字でチェックしていく。「A候補が100、B候補が59、C候補が10」というように、軸となるA候補が100になるまでカウントして、その他の候補の数字と比較する。こうしたペアが同じ開票場に5組ほど配置され、それぞれ異なった開披台を調査する。A候補が100になった時点で電話でデータ集計本部に連絡される。開披台調査では、A候補が2000になった時点で、実際の開票終了時との集計誤差はプラス、マイナス3%にまで高められるとされる。この開披台調査では大学生らが新聞-テレビの1系列で数千人規模でアルバト動員され、各局が当確打ちの速さを競うことになる。

 選挙特番を視聴していると、その番組のスタジオの裏舞台が見えてくる。どのテレビ局が確実なデータを収集して、それを当確打ちにいち速く反映しているのか…。テレビ局の総力が試されているのが、選挙である。

⇒12日(月)朝・金沢の天気  あめ

☆ただ風が吹いている

☆ただ風が吹いている

 5月3日に沖縄のアメリカ軍海兵隊基地「キャンプ・シュワブ」、そして辺野古の基地反対の座り込みテントを訪れてから1ヵ月余り、日本の政治が凝縮されたようなさまざまな政治局面が展開された。その結果、ついに鳩山総理は退陣して、あす8日には菅直人氏が総理の座に就くことになるのだが、沖縄の問題は何一つ変わってはいないのだ。

  この1ヵ月余りの間、鳩山氏は5月4日と23日2度沖縄を訪れ、仲井真弘多知事らに対し、アメリカ軍普天間基地飛行場を、キャンプ・シュワブ沿岸部のある辺野古崎に移設する方針を表明した。「県外移設」を明言していた鳩山氏が、自ら「公約違反」のデモンストレーションを行ったわけで、訪問先の沖縄県庁や名護市の万国津梁館では、「怒」と書いた紙を持った県民が集まり「裏切りだ」と声を上げる様子がテレビで繰り返し伝えられた。「友愛」を口にする鳩山氏ならば、ここで車を降りて、もみくちゃにされるのを覚悟で県民に直接詫びるべきではなかったか。ところが、鳩山氏が乗った車の列は、その声を無視するように猛スピードで通過したのだった。友愛を行動で示す度胸がなかったのだろう。

  そして、政治局面は急展開する。5月28日。日米外務・防衛閣僚(2プラス2)共同声明に続き、閣議決定でも米軍普天間基地の移設先として「辺野古」を明記した鳩山氏は、閣議決定への署名を拒んだ福島みずほ消費者・少子化担当大臣(社民党党首)を罷免。これを受け、社民党は30日に全国幹事長会議を開き、鳩山連立政権からの離脱を決定した。福島党首は会議のあいさつで「平和と基地の問題は党の1丁目1番地」と述べた。この政権離脱が決議された当たりで、マスメディア各社は一斉に世論調査を実施した。30日付の朝日新聞で内閣支持率は17%、31日付の読売新聞では内閣支持率は19%と伝えた。内閣支持率は20%がデッドラインとされ、それを割り込んだ。

  6月2日、鳩山氏は決断する。民主党の衆参両院議員総会で「社民党を政権離脱という厳しい道に追い込んだ責任を取らねばならない」と退陣を表明。同時に小沢氏も幹事長辞任で話のケリがついたことが明かされた。4日の閣議で総辞職した鳩山内閣、その日の午後に衆参両院本会議で菅氏が新しい首相に指名された。ところが、このブログを書いているこの日、つまり7日はまだ鳩山内閣のままである。あす8日の皇居での任命式を終えるまで、憲法71条に基づき鳩山内閣は職務を執行することになる。心はすっかり一議員に戻った鳩山氏なのだが、この「政権空白」のときに、大陸からミサイルが撃ち込まれたら誰が責任ある行動を取るのだろうかと危惧するのは私だけだろうか。この危機意識のなさが、これまでの鳩山内閣のすべてを物語っているような気がする。ちなみに、鳩山氏の総理としての在職日数は、菅内閣が4日に発足していれば262日で、自らが官房副長官として仕えた細川護煕氏に1日及ばずだったが、組閣が8日にずれ込んだことで、細川氏を上回る266日(2009年9月16日‐2010年6月8日)になった。現行憲法下では6番目の「短命政権」となる。

  さて、菅内閣があす8日発足する。朝日新聞が6日付で報じた緊急世論調査(電話)では、菅新首相に「期待する」とした人が59%で、「期待しない」33%を大きく上回った。共同通信社の世論調査でも期待が57%を占め、「総理交代効果」あるいは「ご祝儀相場」は高い。民主党は鳩山内閣から菅内閣へと衣替えをすることで、イメージダウンを一気に盛り返した観がある。おそらくこのまま7月に予定される参院選挙になだれ込んで、過半数を制したいところだろう。

  ここで振り返ってみたい。民主党はこれで万々歳なのかもしれないが、あの沖縄の「怒」は収まってはいない。むしろ辺野古への移設を閣議決定で固定化したために、この「怒」はさらに大きくうねっているだろう。日本の政治の現状は何も変わってはいない。ただ風が吹いているだけである。

 ⇒7日(月)朝・金沢の天気   はれ

☆文明論としての里山13

☆文明論としての里山13

 ここまで「文明論としての里山」を書いてきて、果たして都市の文明は大丈夫なのかと思うときがある。先日、東京に建設中の電波塔「東京スカイツリー」を眺めた。2月16日現在で高さ300㍍を超え、2011年12月に完成すれば高さ634㍍に達する電波塔となる。そして、「世界一の観光タワー」として東京の新名所となるのだろう。が、私の眼には「バベルの塔」のようにも映る。

         巨大な電波塔の下で・・・

  スカイツリーが建設される意味合いは、関東エリアの地上デジタル放送と密接に関係している。東京タワー(正式名称「日本電波塔」、高さ333㍍)から新タワーに移行すると、地上デジタル放送の送信高は現在の約2倍となる。関東の地デジは2003年12月から放送が開始されたが、都心部に林立する200㍍級の高層ビル群から抜ける600㍍級の新タワーからの送信が始まれば、電波障害なども低減し、放送エリアも拡大するという技術的な面での有利さが強調されている。しかし、ハードルの高い問題がいくつかある。

 2011年7月24日正午をもって、アナログ波が停止し、地上デジタル放送へと完全移行する。地デジ対応テレビを購入した大部分の視聴者はUHFアンテナを東京タワーに合わせている。2012年のスカイツリー開業でまた向きを変えなければならない。それにかかる受信インフラコストが高い。つまり、地デジ対応テレビのほかにUHFアンテナの設置に3万5千円から4万円かかる。さらに向きをスカツリーに合わせるコストだ。普通の人が屋根に上って、アンテナのRF(Radio Frequency=高周波)を測定しながら角度設定することは難しいので、町の電器屋さんに頼むことになる。すると2万円前後の費用がかかる。地デジ化による、これらのコストに耐えうる世帯はいい。が、都市の住民は多様であり、耐え切れずに「テレビ難民」化する人々が巨大な電波塔の下では続出するのではないか。

  ミクロな現場を見てみる。ことし1月22日から24日にかけて2日間(48時間)、能登半島の先端・珠洲市(1万7700人)で総務省のアナログ停波のリハサールが実施された。昨年7月24日には1時間の停波を実施しており、2度目の停波リハーサルである。停波リハーサルに向けて行政の下支えをした町会長や電器業者の話を聞いた。秋の祭りやご近所のよい関係が保たれている町内会でも、「地デジ移行の現場」はすさまじい。地区ごとに説明会を開き、一般家庭ほか高齢者世帯や生活保護受給者、障害者、独居老人宅を回り、ケーブルテレビへの加入を促す、あるいは国から支給された簡易チューナー(デジタル波からアナログ波への変換器)の配布し、その取り扱いを説明する。チューナーの配布と取り扱いの説明のために4度も足を運ぶケースもある。無料の簡易チューナーとはいえ、受け手が能動的に対応するのと、「国がやることだからしかたない」と受動的に対応するのとでは理解力や操作の飲み込みが異なるものだ。1万7700人の小さな自治体であっても町の世話役たちの相当のマンパワーが発揮されて、リハーサルはなんとかうまくいったという感じだ。しかも住民同士のコミュニケーションが普段から取れている地域で、である。結果、リハーサル期間の2日間でデジサポ珠洲のコールセンターに寄せられた視聴者からの問い合わせは49件。これが多いか少ないかの判断は別として、事前説明会など入念に準備を整えてもこれだけの問い合わせがある。

 地上デジタルへ移行が進む条件は、人間同士の関係性が保たれている地域コミュニティがあることだ。翻って、そうした人間の関係性が希薄な都会はどうだろう。集合住宅や受信障害の対策エリアなど複雑な問題解決にマンパワーを発揮する人々が、問題の数だけいるのか、近所の独居老人とは日ごろ誰がコミュニケーションを取っているのか、海外からの移住者はどうか・・・。バベルの塔は『旧約聖書』の「創世記」に記されたレンガ造りの高い塔だ。人類はノアの大洪水の後、バビロニアの地にレンガをもって町と塔を建て、その頂(いただき)を天にまで届かせようとした。神はこれを怒り、それまで一つであった人類の言語を乱し、人間が互いに意志疎通できないようにしたという物語である。大建造物が人々を一致させるどころか、分裂させていくということを諭したのである。

 これになぞらえて、新たなテレビ文明への移行過程で高齢者や低所得世帯など生活弱者を中心に大量の「テレビ難民」が発生し、新たな情報の格差社会がつくり出されるのではないかとの想像は杞憂だろうか。いや、そうであってはならない。東京でこそアナログ停波のリハーサルを実施すべきだと思う。テレビ局が「地デジ移行に協力を」と繰り返し叫んでも、視聴者の理解は進まない。これははっきりしている。問題を先送りせず、地デジを「予定された災害」と見立てて危機感を持って対応に当たらなければ、2011年7月24日、東京を中心にテレビ難民は続出するだろう。スカイツリーをバベルの塔にしてはならない。

 ⇒17日(水)朝・金沢の天気  くもり

☆大晦日の喧騒

☆大晦日の喧騒

 地上デジタル放送対応のテレビを購入してよくなったと思うのは画質もさることながら、音声だ。これまでのアナログ対応ではクラシック音楽の高音の部分が聞き取れなかったりしたが、地デジ対応テレビではすっと耳に入ってくる。こうした音質の改善もあってか、最近テレビでクラシック番組が増えたように感じる。ところで、きょう大晦日は地デジをめぐって我が家でちょっとした喧騒があった。

  NHK教育で、N響による第九の演奏が放送された。指揮者はクルト・マズアだ。82歳・マズアといえば、「あれから20年」である。ベルリンの壁崩壊につながったとされる1989年10月9日、旧東ドイツのライプチヒで「月曜デモ」が起きた。民主化を要求するデモ参加者に、秘密警察と軍隊が銃口を向け、にらみ合いとなった。このとき、マズアは東ドイツ当局と市民に「私たちに必要なのは自由な対話だ」と平和的解決を要望するメッセージを発表した。この流血なき非暴力の反政府デモが広がり、「月曜デモ」の9日後にホーネッカー議長が退任し、11月9日のベルリンの壁崩、東西ドイツは統一へと向かう。そして、ベートーベンの第九は東西ドイツ統一の賛歌になった。そんなマズアの歴史的な功績に思いを重ね合わせながら、NHK教育の第九に耳を澄ませていた。

  午後9時10分ごろ、第4楽章に入って合唱でクライマックスを迎えた。このとき、家人が「もうそろそろチャンネルをNHK総合に切り替えてくれない」という。 「えっ、第4楽章のいいところなに何で」といぶかると、午後9時過ぎごろからNHK紅白歌合戦にスーザン・ボイルが出演して、そろそろ歌うのだという。スーザン・ボイルはイギリスのスター発掘番組でミュージカル「レ・ミゼラブル」の「夢やぶれて」を歌って、一気にスターダムにのし上がった「おばさん歌手」。「数分で終わるから聴きたい」と半ばすごまれて、しかたなくNHK総合にチャンネルを変えた。スーザン・ボイルの歌声もそれはそれでよかった。眉毛も細くなっていて、あか抜けした感じがした。

  スーザン・ボイルが終わって、即NHK教育にチャンネルを戻した。間に合って、第4楽章の感動のフィナーレを聴くことができた。すると、リモコンを握った家人が演奏が終わると同時にブチッとNHK総合に切り変えた。「何するんだ。演奏には余韻というものがあるだろう」と抗議すると、「スーザン・ボイルに続いて矢沢永吉が出る」という。「時間よ止まれ」と「コバルトの空」を歌うらしい。マズアが聴けただけでも良しとして、その場を退散した。

  それにしても、NHKはマズアの第九の第4楽章と、スーザン・ボイルの歌声が同時刻ぐらいに重なると計算していたのか、いなかったのかとふと思った。そんな喧騒は我が家だけだったのだろうか…。

  ことろで、マズアがつい最近(09年12月15日)、金沢でオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)と共演してメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」を振った。OEKのプロデューサー氏から後日聞いた話だ。ことしはベルリンの壁崩壊20周年に当たり、当然話題に上った。すると、マズアは「革命の闘士のようにいわれることは今でも心外。私は指揮者なのだ」と笑っていたという。ベルリンの壁崩壊は、先導者によるものではなく、あくまでも市民革命だったのだ。そういいたかったのだろう。

⇒31日(金)夜・金沢の天気  くもり

☆アメリカで有名な社説

☆アメリカで有名な社説

 新聞の役割について論じるとき、優しい眼差しや人間味、大局観というものがある。これを読者が敏感に感じてファンになる。私の知り合いは、1969年7月、アポロ11号が月面に到着し、アームストロング船長が降り立ったときの新聞記事で「地球人が月に立った」の一行に衝撃を受け、それ以来、新聞の切り抜きをしている。「地球人」という言葉の新鮮さと大局観に、「世界を読み解こう」という感性のスイッチが入った。

 アメリカで一番有名な社説というのがある。取り上げるタイミングとしては少々遅きに失したが、「サンタはいるの」という8歳の女の子の質問に答えた社説だ。1897年9月、アメリカの新聞ニューヨーク・サンに掲載され、その後、目に見えないけれども心に確かに存在し、それを信じる心を持つことの尊さを説いた社説と評価され、掲載されてから110年余り経った今でも、クリスマスの時期になると世界中で語り継がれている。その社説を掲載する。
                ◇
 「じつはね、ヴァージニア(※投書の女の子の名前)、サンタクロースはいるんだ。愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、愛もサンタクロースも、ぼくらにかがやきをあたえてくれる。もしサンタクロースがいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。ヴァージニアみたいな子がこの世にいなくなるくらい、ものすごくさみしいことなんだ。サンタクロースがいなかったら、むじゃきな子どもの心も、詩のたのしむ心も、人を好きって思う心も、ぜんぶなくなってしまう。みんな、何を見たっておもしろくなくなるだろうし、世界をたのしくしてくれる子どもたちの笑顔も、きえてなくなってしまうだろう。・・・中略・・・サンタクロースはいない? いいや、ずっと、いつまでもいる。ヴァージニア、何千年、いやあと十万年たっても、サンタクロースはずっと、子どもたちの心を、わくわくさせてくれると思うよ。」(訳:大久保ゆう、青空文庫)
                                    ◇
 新聞には社会の木鐸(ぼくたく)であらねばならないと自ら任じ、調査報道や現場主義の取材で真実に迫る気迫が必要であることはいうまでもない。一方で、上記のサンタの社説のようにヒューマンで、普遍的な価値を伝えるというチカラも必要なのだろう。人々の心の扉を開かせる、そんなジャーナリズムであってほしいと願っている。

⇒27日(日)夜・金沢の天気 くもり 

☆米国版メディア・スクラム

☆米国版メディア・スクラム

 日本のマスメディアの取材手法を否定的に表現する言葉として「メディアスクラム(media scrum)」がある。メディアスクラムとは、テレビ局や新聞社、雑誌社の記者やカメランが大人数で取材に押しかけること。集団的過熱取材ともいう。「横並び取材、みんなで渡れば怖くない、そんな日本的な取材手法」と説明できる。どうやらアメリカでも同じ現象が起きているようだ。ゴルフ界のスーパースター、タイガー・ウッズの不倫騒動を巡る報道が過熱している。

  新聞各紙やテレビのニュースをまとめる。11月27日、フロリダ・オーランドの自宅前でウッズが乗用車で自損事故を起こし重傷との一報を、地元テレビ局が報じた(11月27日)。スーパースターのけが。マイケル・ジャクソンの急逝も記憶に新しいアメリカでは、国民の関心が一気にウッズに集中したのも無理はない。ウッズは顔面に軽い傷を負った程度で、病院で手当して帰宅したが、ウッズの退院後の姿を取材しようと、「ゲートコミュニティ」と呼ばれる塀で囲まれた高級住宅街のメインゲートにはテレビ中継用のSNG(Satellite News Gathering)車がずらりと並んた。このSNG車はカメラで撮影した素材(映像と音声)を電波として通信衛星を経由させ、本局に伝送する装置を搭載していて、パラボラアンテナが付いている。つまり、「おわん」の付いた車が横一列に並ぶ、日本のニュース現場ではおなじみの光景がオーランドでも再現されたのである。

  ウッズは姿を現さず、おそらくゲートコミュニティの住民からのクレームもあったのだろう、おわん付きの車は徐々に減っていった。ところが、その自損事故の原因がウッズの不倫を巡る夫婦げんかと一部で報じられ、報道合戦が再燃した。今度はスキャンダル専門のタブロイド紙などもこれに参戦してきた。ここがアメリカの面白いところで、「私が不倫相手」と称する女性が次々と10人以上も名乗り出ている。ここまで過熱したのは、超有名人という一方、ウッズは慈善事業に熱心な模範市民というイメージが定着していて、それが覆った。その落差感がさらに国民の関心を引き付けたのだろう。

  日本の取材ならば、ここで新聞とテレビそれぞれのメディアのまとまって話し合い、ウッズ側の代理人と交渉し記者会見を設定するという「手だれた」手法を用いる。が、独立独歩の取材でスクープを身上とするアメリカのメディアには「一致団結して、ウッズを会見に引っ張り出そう」という雰囲気が取材現場にないだろう。

  ともあれ、ウッズのスキャンダル報道から感じることは、経済の閉塞感に覆われたアメリカ国内の関心事が内向き、あるいは「巣ごもり」状態になっているのではないか、と。

 ⇒23日(水)夜・金沢の天気  くもり   

☆こつなぎ百年物語

☆こつなぎ百年物語

 映像で見るのと、活字で読むのとではまったく別の物語ではないかと感じた。ドキュメンタリー映画「こつなぎ‐山をめぐる百年物語」の上映が4日、金沢市21世紀美術館であった。国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットが主催する「環境映像祭 in 金沢」のプログラムの一つ。入会(いりあい)権をめぐる裁判闘争で有名な小繋(こつなぎ)事件を扱ったドキュメンタリー映画だ。

  出版の世界では、「生きる権利をめぐる半世紀の闘争の裁判記録」となる。ところが、今回の映像では印象として「たくましき山の民の物語」である。映像では、法廷への出入りのシーンがあるだけで、ムシロ旗を掲げての抗議行動などのシーンというものが出てこない。村の生活やお祭りを交えながら淡々と映像は流れて行く。120分。 会場で配布された「あらすじ」からこのドキュメンタリーの流れを引用する。岩手県盛岡市の北、50㌔の山里。二戸郡一戸町小繋。ここへ今から50年前、映像カメラマンの菊池周、写真家の川島浩、ドキュメンタリー作家の篠崎五六の3人が通い、小繋の人々の暮らしの記録を取るようになった。小繋は戸数50戸に満たない山間の農村。村を取り巻く小繋山から燃料の薪や肥料にする草・柴を刈り取って暮らしている。山は暮らしに欠くことのできない入会地だ。入会地とは、一定地域の住民が慣習的な権利によって特定の山林・原野・漁場の薪材・緑肥・魚貝などを採取することを目的に共同で使用することを指す。

  大正3年(1914)、村に大火事があり、家々が焼けた。山から材木を切り出し家を再建しようとする人々に、地主が立ち入りを禁止する。江戸時代は南部藩の所領だったが、その管理を地元の寺の山守に任せていた。入会の山は、明治の地租改正を経て、県外の地主の私有地となっていたのだ。地主と契約を結ぶことで山に入ろうとする住民たち「地主賛成派」と、入会は自分たちの権利だと主張する住民たち「地主反対派」に分かれ、村は二分される。

  反対派は大正6年(1917)、「山に入れなければ生きていけない」と入会権確認の訴訟を起こす。これが、「小繋事件」の始まりだった。人権派弁護士の支援、盛岡地裁、宮城控訴院の棄却判決、地主のよる森の伐採、第2次訴訟と高裁調停など、大正から昭和、戦後にかけて長い裁判闘争の歴史が続く。その間も、村の暮らしは山とともに不自由をしのぎながら続き、カメラはそれを追う。

  そして昭和30年(1955)、反対派住民が「山の木を伐採した」として森林法違反で11人が逮捕され、刑事事件となった。事件は昭和41年(1966)、最高裁で被告の有罪が確定する。「負けたからといって山に入るのはやめられない。入会をやめるのは農民としての暮らしを放棄することだ」と語る被告たち。時は流れ昭和50年(1975)。賛成派と反対派の調停が成立し、住民が顔をそろえて一緒に山仕事をするようになった。

 しかし、今、村は高齢化と過疎化の波に洗われる。最後の方のシーンでは人手不足や化石燃料の依存の生活形態の変化などで薪を使わなくなり、樹木が伸び放題の荒れた山のシーンが描き出される。かつての原告の一人の古老がこうつぶやく。「山でも川でも地球の一部分でしかないでしょう。これが誰のものというのは変なんですよ。…地球があって、はじめて我々が生きているわけだから…」。終盤のシーンは「山は誰のものか」から「この山を今後どう生かす」へとテーマが大きく転換しつつことを暗示しているようにも思える。

 ⇒5日(月)夜・金沢の天気  はれ