⇒メディア時評

☆金1個の放映権料

☆金1個の放映権料

 ロンドンオリンピックで日本のサッカーが男女ともベスト4入りしたとき、「もしやダブル金か」などと期待が盛り上がったものだ。しかし、男子サッカーが準決勝でメキシコに敗れ、さらに3位決定戦でも韓国に負けを喫した。そして、「金が目標」の女子は国民からの期待を背負ってのオリンピック決勝戦。アメリカとの戦いは、大人のゲームを見たという思いだった。結果は残念だったが、深夜のウエンブリー・スタジアムの鮮やかな緑で演じたアスリートたちの堂々した姿には感動した。

 ところで、11日現在の日本の今大会でのメダルの獲得数は36個となり、これまで過去最多だった2004年のアテネ大会と並んだという。確かにメダル数は多いのかもしれないが、金は5個だ。人口が日本の半分以下の4800万人の韓国は金12である。日本より人口が少ないドイツ、フランスでも2ケタの金メダルを獲得している。アテネ大会では日本の金は16個、2008年の北京大会でも9個だった。1992年のバルセロナ大会と1996年のアトランタ大会の金3個に比べればましかもしれないが。それしても夜中、テレビを見て応援する割には今大会の金が獲得数が少ない。応援の労が報われていない感じがするのは私だけだろうか。

 ここで思い出す。2009年11月、民主党政権下に内閣府が設置した事業仕分け(行政刷新会議)で蓮舫議員が、次世代スーパーコンピューター開発の要求予算の妥当性について説明を求めた発言。「(コンピューターが)世界一になる理由は何があるんでしょうか。2位じゃダメなんでしょうか」だ。この発言に、科学者の利根川進氏は「1位を目指さなければ2位、3位にもなれない」と批判意見が相次いだものだ。これまで科学者やスポーツ選手では当たり前と思われてきた世界一(金メダル、ノーベル賞)への道だが、政治家にはこの目標がない、正確に言えば「政治の世界ナンバー1」という尺度がないのだ。その政治家が「世界一になる理由は何があるんでしょうか」などと言う資格は本来ないだろう。ひょっとして政治家の多くは「オリンピックは参加することに意義がある」と今でも思っているかもしれない。

 それにしても高くついた。金メダルを見るテレビ映像料がである。IOC国際オリンピック委員会に支払ったテレビ放映権料は日本コンソーシアム(NHKと民放)が3億5480万㌦(※バンクーバー冬季大会も含む一括金額)、アメリカ(NBCテレビ1社)20億㌦(同)である。これを国民一人当たりにすると日本が2.9㌦、アメリカ6.6㌦となる。しかし、金メダル1個当たりで計算すると、5個の日本は1個当たり7000万㌦、金41個のアメリカは1個当たり4800万㌦となる。日本は金メダル1個獲得のシーンをテレビで視聴するのにアメリカより多く払ったことになる…。2016年はリオデジャネイロ大会となるが、果たして日本コンソーシアムはこれだけの高額放映権料を次回も払えることができるだろうか。

⇒11日(土)夜・金沢の天気  はれ
 

★「地デジ」以降‐下‐

★「地デジ」以降‐下‐

 アナログ停波の日(7月24日)に総務省テレビ受信者支援センター(通称「デジサポ」)への電話相談は12万4000件(0時~24時)と発表された。電話内容の多くは地デジ対応テレビやチューナーの接続方法などで、中には「チューナを買いたいが売っていなかった」といった苦情もあった。NHKのコールセンターには同日4万9千件、停波が延期された東北3県を除く44都道府県の地上民放テレビ115社に寄せられた電話での問い合わせは、24日の業務開始から25日14時の時点で2万1000件と発表されている。相談内容の分析はおそらくこれからされるだろうが、件数でいえばざっと19万余件が寄せられたことになる。この件数をどう見るか。

          アメリカに比べ混乱は少なかったが…

 先のブログで紹介したミラー・ジェームス弁護士によると、アメリカの「2009年6月12日」では当日31万7000件の問い合わせがコールセンターに寄せられたという。地上波をアンテナで直接受信する世帯はアメリカで15%、およそ4500万人。日本では76%(2009年統計)が直接受信なので、およそ9600万人となり、アメリカの2倍以上となる。相談件数で見る限り、少なくとも日本はアメリカより混乱は少なかったといえる。

 相談内容では、アメリカの場合、受信機の使用についてが28%ともっとも多かった。これは日本と同じだ。ただ、日本と違った点は「特定のチャンネルの映りが悪い」26%もあったことだ。これは送信するテレビ局側の技術的な問題だった。

 24日に記者会見した片山善博総務大臣は「想定の範囲内の件数」と述べた。言い換えれば、やれやれと何とかうまくいったとの意味だろう。しかし。問題はこれからだろう。先に述べたように、80歳以上の独り暮らし世帯が全国150万ともいわれ、文句も言わないサイレント層がいる。未対応世帯は大都市圏に多いという観測もある。この層をどうケアするのか。

 テレビ局自身もこれからが大変だ。アメリカでは景気後退でテレビ局の経営が行き詰まり、身売りや合併が相次ぐ。記憶に新しいところでは、ことし1月、ケーブルテレビの最大手コムキャストがNBCユニバーサルの経営権を取得したことがニュースで流れた。NBCはアメリカ3大ネットワークの一つである。従来のCMを中心とした地上テレビ局のビジネスモデルだけでは成り立たなくなっている。さらに、アメリカではこうした買収などによるメディア集中の問題が浮上しており、メディアの多様性、市場原理、地域コンテンツをどう確保していくか、「地デジ」以降の問題が山積する。日本も同じだ。地デジが終わったのではなく、始まったのである。

⇒28日(木)朝・金沢の天気    あめ

☆「地デジ」以降‐中‐

☆「地デジ」以降‐中‐

 2009年6月12日、アメリカは日本よりひと足早く地上デジタル放送(DTV)への移行を終えた。アメリカの地デジ移行はさほど混乱はなかったというのが定評となっているが、果たしてそうだったのか、その後、どうなっているのか。また、日本とアメリカの地デジを比較して何がどう違うのかについて話をしてもらうため、きょう26日、アメリカ連邦通信委員会(FCC)工学技術部の法律顧問であるミラー・ジェームス弁護士を金沢大学に招き、メディアの授業に話してもらった。以下、講義内容を要約して紹介する。

        アメリカの「2009年6月12日」

 アメリカではケーブルテレビやBS放送の加入者が多く、アンテナを立てて地上波を直接受信している家庭は全体の15%とされていた。人口でいえば4500万人の市場規模となる。そのアメリカでは「2009年2月17日」がハードデイト(固い約束の日)として無条件に地デジへ移行する日と決められていた。これに合わせ、2008年元旦から、商務省電気通信情報局(NTIA)がデジタルからアナログへの専用コンバーター購入用クーポン券の申請受付を始めた。政府は40ドルのクーポンを1世帯2枚まで補助することにした。2009年に入り、クーポン配布プログラムの予算が上限に達してしまい、230万世帯(410万枚分)のクーポン申請者が待機リストに残こされるという事態が起きた。

 オバマ大統領(当時は政権移行チーム)は連邦議会に対して、DTV移行完了期日の延期案を可決するように要請した。同時にDTV移行完了によって空くことになる周波数オークションの落札者だったAT&Tとベライゾンの同意を得て、4ヵ月間延期して「6月12日」とする法案が審議、可決された。FCCの定めた手続きでは、「2月17日」の期限を待たずにアナログ放送を打ち切ることができるため、この時点ですでにアメリカの1759の放送局(フル出力局)の36%にあたる641局がアナログ放送を停止していた。

 オバマの「チェンジ!」の掛け声はFCCにも及び、スタッフ部門1900人のうち300人ほどが地域に派遣され、視聴者へのサポートに入った。ミラー氏は2008年11月から地デジ移行後の7月中旬まで、カリフォニア州北部、シアトル、ポートランドに派遣された。その目的は「コミュニティー・アウトリーチ」と呼ばれた。アウトリーチは、援助を求めている人のところに援助者の方から出向くこと。つまり、地域社会に入り、連携して支援することだ。

 ミラー氏自身が地元のテレビ局に出演して、地デジをPRしたり、家電量販店に出向いて、コンバーターの在庫は何個あるのか確認した。また、ボーイスカウトや工業高校の学生が高齢者世帯でUHFアンテナを手作りで設置するボランティアをしたり、NGOや電機メーカーの社員がコンバーターの取り付けや説明に行ったりと、行政ではカバーしきれないことを地域が連携してサポートした。そうした行政以外の支援を活用するコーディネーションも現地で行った。

 ボーイスカウトや高校生、メーカー社員も参加して「地デジボランティア」が繰り広げられた。アメリカの場合は移民が多く、多言語である。英語以外の言語(スペイン語、ロシア語、中国語など)に堪能な大学生たちはコールセンターで待機し、移民の人々から相談対応に当たったという。アメリカではアメリカなりのさまざま対応があった。

 2009年6月12日以降、アメリカで地デジ未対応は貧困層を中心にあったものの、同年7月いっぱいでクーポンの配布も終了した。では、アメリカでアナログ放送は完全に視聴できなくなったかというとそうではない。宗教団体や自治体が独自に電波を出す低出力テレビ(LPTV)がある。このLPTVも2015年9月1日に停波が決まっていて、この日がアメリカにおける「地デジ完全移行」となる。

※写真は、移民者への地デジ説明の様子(ミラー氏提供)

⇒26日(火)夜・金沢の天気   はれ

★「地デジ」以降‐上‐

★「地デジ」以降‐上‐

 7月24日、アナログ停波の日。東北の被災3県(岩手、宮城、福島)を除く44都道府県で、NHKと民放115社、BSアナログ放送(NHKとWOWOW)のアナログ放送での番組が正午12時でブルーバックに切り替わり、午後11時59分に地上アナログ放送の電波、その1分前にBSアナログ放送の電波のスイッチがオフになった。後は砂嵐状態に。

        サイレント層へのケア
 25日付の新聞報道によると、24日未明から同日午後6時までに総務省のコールセンターには9万8千件の電話相談や苦情があった。NHKには午後8時までに3万1千件、民放各社には午後7時までに1万6千件、まとめると14万5千件に上る。

 24日午後4時からNHK・民間放送連盟(民放連)による記者会見があった。月刊ニューメディアの吉井勇編集長からのメールレターによると、「12時以降に電話が殺到しましたが、時間を経るに従い、通常の範囲のコールになった」(松本NHK会長)、「心配していた混乱もなく、しっかりとした対応をいただいた」(廣瀬民放連会長)とメディア側は、地デジに向けた最大の転換であるアナログ停波が無事に成し遂げたということに安どの表情を浮かべた。

 問題は、電話をかける人ではなく、電話をかけないサイレント層である。目に浮かぶのは、「テレビはついているだけでいい」という独り暮らしのお年寄り世帯だ。たとえば、能登地方の夜道を歩くと、玄関や居間の電気は消され、テレビの画面だけがまるでホタルの光のようにポツンとついている様子が窓越しにうかがえる。80歳以上の独り暮らし世帯が全国150万ともいわれている。文句も言わず、細々と生きている。気がかりなのはこうした層である。民生委員の手でチューナーは届けられているかもしれないが、はたしてうまく設置させているだろうか。特に都市部は「無縁社会」という言葉もあるように、お年寄りの死すら気づかれないほどに人々の関係性が希薄である。

 テレビは単に電波政策上ではなく、お年寄りの福祉という観点でとらえる必要がある。このブログで何度か書いたが、昨年7月24日に全国に先駆けてアロナグを停波した能登半島・珠洲地区ではこうしたお年寄りの単身世帯を中心に街の電器屋がローラーをかけてチューナーを取り付け、リモコンの操作説明をした。4回も通ってようやくリモコン操作が可能になったお宅があった、との話も聞いた。このような手厚いケアが全国でなされたのだろうか。

⇒25日(月)夜・金沢の天気 くもり

☆アナログ停波の日に

☆アナログ停波の日に

 きょう24日正午にアナログ放送が終わった。深夜零時には停波する。NHKも民放も正午を期して一斉に「ご覧のアナログ放送の番組は本日正午に終了しました」のテロップをブルーバックで掲載している。アナログ放送終了の瞬間を家族で見守った。そして、ブルーバックになったのを見届けて、ワインで乾杯した。新しいデジタルの夜明けにではなく、ちょっとノスタルジックに「アナログ放送お疲れさま」と。

 私が生まれた1954年の1年前に日本のテレビ放送は開始した。1926年に高柳健次郎がブラウン管に「イ」の字を映すことに成功し、日本のテレビ映像の黎明期が始まった。1929年、すでに開始されいたNHKラジオの子供向けテキストに「未来のテレビ」をテーマにしたイラストが描かれた。当時、完成するであろうブラウン管は丸いカタチで想像されていた。東京オリンピック(1940年に予定していたが日本が返上)を目指してテレビ開発は急ピッチで進んだが、戦時体制に入り中断した。高柳博士の成功から28年かかってテレビ放送は開始されたことになる。

 テレビ放送は開始されたが、国産テレビはシャープ製(14インチ)で当時17万5000円もした。大卒の初任給が5000円の時代で、庶民には高根の花だった。そこで、テレビは街頭に出た。ちょっとした街の広場にテレビが置かれ、帰宅途中のサラリーマンがプロレス中継など観戦した。テレビが急激に普及したのはミッチーブームのおかげだろう。現天皇皇后両陛下のご成婚である。美智子さまは当時、ミッチーと庶民から愛され、当時の皇太子は「語らいを重ねゆきつつ気がつきぬわれのこころに開きたる窓」と和歌をよみ、お二人のラブロマンスが共感を呼んだ。このころ日本経済は高度成長期と称され、テレビが爆発的に売れる。1962年には1000万台(普及率50%)の大台に乗った。

 かつてのテレビ映像でいまも脳裏に焼き付いているは、1964年の東京オリンピック、とくに東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボールである。当時、スローVTRが挿入され、その活躍ぶりには心を躍らされた。先般の女子サッカー「なでしこジャパン」の活躍とイメージがだぶる。1969年、アポロ11号のアームストロング船長が月面に第一歩を記したとき、私は中学3年生だった。テレビは38万キロ先の月面の画像をリアルタイムに映し出していた。今年いっぱいで番組が終了する水戸黄門が始まったのも1969年だった。1983年にNHKで放送された「おしん」のストーリーは60ヵ国以上で放送されているという。山形の寒村に生まれたヒロインが、明治から昭和まで80余年を懸命に生きるた人間ドラマ。外国人も涙を流すという、人類の共通の涙腺はとは何か。2001年9月11日、ニューヨークで起きた同時多発テロも、テレビ朝日「ニュースステーション」の途中ライブ映像で見た。一機目の衝突は事故だろうと思った。二機目が衝突して身震いした。これがテロか、と。

 日本や世界の出来事の断片をテレビで知り、そして脳裏に現代という歴史を刻んできた。それぞれの感性は異なるだろうが、テレビ映像は同時代の共通の話題やアイデンティティになった。そして私もかつて「テレビ屋」で14年間業界に籍を置いた。アナログ放送が終わりワインで乾杯したのも、ドラマ、スポーツ中継、ニュース、情報番組、バラエティ番組を通じてさまざまな情報(映像)を届けてくれたアナログ映像の向こう側にいるテレビスタッフの姿に感謝したかったからだ。

⇒24日(日)夜・金沢の天気   はれ

★震災とマスメディア-11-

★震災とマスメディア-11-

 前回に引き続き遺体写真をテーマに。日本の震災報道では、新聞もテレビも遺体を映した写真や動画は一切ない。私の知る限り、朝日新聞アエラ臨時増刊号「東日本大震災」で掲載されていた、遺体にかけられた布団からのぞいている足首の写真が唯一の写真だった。一方、海外のメディア(ワシントンポストなど)では、遺体安置所で亡き人の顔を覗き込む被災者の姿が掲載されるなど写真は数多い。動画でもアップされている。日本のメディアは、遺体に関して神経質なまでに気を使っている。

      メディアの遺体画像をめぐる学生たちの意見

 こうした日本のメディアに在り様について、金沢大学の学生たちに考えてもらおうとアンケートを実施した(5月24日)。前回のコラムでも紹介したように、「現状でよい」が154人、「見直してもよい」が81人だった。

 では、学生たちの意見はどうなのだろうか、いくつか紹介したい。まずは、日本のメディアの在り様は今のままでよいとする現状派のリアクションペーパーから。

 「海外メディアのようにリアリティのある写真を載せれば、悲惨さや現状をまっすぐ伝えられと思うけれど、それを見てトラウマになってしまう人もいると思うからです。実際中学生のとき戦争中を映したDVDを鑑賞して焼け焦げた死体やバラバラになった身体をみました。それから私は戦争の映像を直視できなくなりました。日本のマスメディアには今のままでいき、言葉やインタビューを組み合わせて、視聴者に伝えてほしいです」(学校教育・1年)

 「見直してもよいと思う人もいると思う。それは自己責任で見ればいいのだから。その点は私も肯定できる点である。しかし、もし偶発的に小さい子供が見てしまったら、どうするのか。私が幼い頃にそんなものを見たらトラウマになることは確実だろう。そうなったら誰が責任をとるのだろうか。そのようなことを考えたら現状のままを維持すればよいのではないかと私は思う」(物質化学・1年)

 「第一に受け手の心情という観点から考えると、やはりご遺体の写真を掲載することはしないほうが良いと思います。ご遺体の中には、状態がきれいなものだけでなく、損傷の激しいものもあり、見ている側としては気持ちのよいものではないと思うからです。第二に個人の尊厳を守るという観点から考えると、写真の掲載はするべきではないと思います。震災などで損傷の激しいご遺体の写真をマスメディアで取り上げることは、報道側からすれば、被害の大きさや悲惨さを世間に伝えるという意味では視覚的でとても分かりやすく有効だと思いますが、一方で写真の被写体の人達は世間に”さらしもの”にされるわけで、亡くなったご本人の尊厳が損なわれるだけでなく、そのご家族も二重のショック(家族が亡くなったこととその無残な写真が世間に公表されたこと)を受けてしまう、と考えられます。被害の程度を世間に知らせることも大事ですが、その前に人権を守ることが大切だと思います」(保健・2年)

 では、見直し派(遺体写真の掲載)はどのような意見なのだろうか。リアクションペーパーから。

 「『死』が軽視されるのは、そのような社会と生き物の生死が切り離されているからだと思っている。夢物語のように生死が感じられない情報は自分の世界とは違う非日常で他人事にしか感じられない。だから、被害者以外の人々が差し迫った考えができないのではないか。例を挙げるなら、便利、不便程度で生活に支障をきたすと言ってしまうような都会の人々のように。自分たちが生きている日常が非日常であるということを実感するためにも、メディアは『現実』をある程度報道するべきだと思う」(自然システム・1年)

 「遺体の写真をみせ物のように載せるのはどうかと思うが、現状の日本のメディアのようにタブーとして掲載しないのはどうかと思う。がれきの写真のみを扱うメディアがあってもいいと思う。時には、遺体の写真を載せるメディアがあってもいいと思う。『タブー』という言葉をメディアが簡単に用いるようになり、自分たちに都合の悪い写真や記事を載せなくなる懸念がある。さらにメディアが一律化していくとにもつながりかねない」(国際・1年)

 「まず、遺体の写真を映さないというは”真実を伝えるマスメデイア”という言葉と矛盾している。現場で起きた真実をすべて伝えるのがマスメディアの使命ではないのか。被災者や被害者に『今どんな気持ちですか?』と尋ねまわって、被災者たちの心をえぐってまで、オイシイコメントを手に入れて放送するより、遺体の映像を見せたほうが、視聴者に被害の深刻さを伝えられるのではないだろうか。私は地震の時、マスメディアの報道を見ても津波に対してあまり恐怖を抱かなかった。(唯一、抱いたのはNHKの中継くらいだった。)ネットでYouTubuの津波動画や遺体の写真を見たとき、やっと津波の怖さを理解した。遺体の写真は、視聴者に不快な思いをさせるかもしれないが、日本人が現実から目をそむけて平和ボケしっぱなしでいるより、きちんと見せて現実を知らせ、日本人に危機感を抱かせるべきである」(地域創造・2年)

※写真は、津波で破壊されたバス。乗客は高いビルに避難して無事だったという=5月11日・宮城県気仙沼市で撮影

⇒4日(土)朝・金沢の天気  くもり

☆震災とマスメディア-10-

☆震災とマスメディア-10-

 金沢大学で「マスメディアと現代を読み解く」という共通教育授業を担当している。これまで3回にわたって、震災とマスメディアをテーマに、現地での取材を交え講義してきた。その中で論議のポイントとして話してきたことをまとめる。これまで取材した被災地での記者やカメラマン、ディレクターの有り様は、震災の当事者ではない記者たちが現場で浮いている状態だった。

         震災とメディア、遺体写真をどう考えるか
 たとえば、2007年3月の能登半島地震で実際に私自身が目の当たりにした光景は、輪島市門前町でただ一つのコンビニで食料を買いあさるテレビ局のスタッフの姿であったり、倒壊のしそうな家屋の前でじっとカメラを構え余震を待つ姿だった。記者やディレクター、カメラマン、ADも人の子である。お腹も減れば、ジュースも飲みたい。また、余震で家屋倒壊のシーンを撮影したい、「絵をとりたい」という気持ちは当然であろう。ただ、被災者への目線、被災者との目線がすれ違い、それが違和感を生んでいた。

 今回の東日本大震災は大きく違っていた。広範囲での災害だっただけに、地域のマスメディア(ローカル紙やブロック紙、ローカルテレビ局)そのものが被災者となった。取材で訪ねテレビ局の社屋を見せてもらった。外見はそのままだが、社屋の上の鉄塔が揺れた5階(総務や役員室)は天井があちこちで落ちていた。自家発電や取材車のためのガソリンの確保、食料の確保などの課題が次々と襲ってきた。身内に犠牲者が取材スタッフもいる。だから、報道制作局長は「被災者に寄り添うような取材をしたい」とローカル番組では避難所からの安否情報を、ニュースでは生活情報に視点を注いだ。これから何十年とこのメディアの被災者目線が地域に生かされていくのなら、ローカルメディアの新たな姿がそこに確立されるのではないかと期待もした。

 学生たちにあるテーマを投げかけ、意見を書いてもらった。こういうテーマだった。「【設問】日本のマスメデイア(新聞・テレビなど)は通常、遺体の写真を掲載していません。読者や視聴者の感情に配慮してのことだと考えられます。一方で、海外メディアはリアリティのある写真を掲載しています。以下の問いのどちらかを○で囲み、あなたの考えを簡潔に述べてください。」。少々シビアなテーマだ。震災報道では、新聞もテレビも遺体が映された写真や動画はない。ある新聞社が写真特集で、遺体にかけたれた布団から足だけが出ている写真が唯一、マスメディアを通じて見た遺体写真だった。ただ、海外のメディアは毛布にくるまれ顔がのぞく遺体を親族ではないかと覗き込む人々の遺体安置所での写真を掲載し、ネットでも掲載している。日本のメディアは、遺体に関して露出することにかなり神経を使っているのである。

 こうした日本のメディアの姿勢への学生たちの反応は、「現状でよい」が154人。「見直してもよい」が81人。二者択一だったが、どちらも丸で囲まなかった者が2人いた。一番多かった現状肯定派の言い分は、1)見る側への心理的な影響(トラウマ、PTSDなど)、2)人権・人の尊厳、プライバシーへの配慮、3)別の表現方法がある(ネットやデータ放送など)、4)日本人の独自の文化、メンタリティーである、など4つに大別できた。中には、「その遺体写真を見た幼い子どもたちがトラウマになったら誰が責任をとるのですか」と強く反対する論述もあった。

 一方、見直し派はの言い分は、1)「現実」「事実」を報道すべき、2)メディアはタブーや自己規制をしてはならない、3)見る側の選択肢を広げる報道を、に概ね分けることができた。遺体の見せ方には配慮は必要としながらも、事実や現実を意図して隠すことに違和感を感じ取った学生が多かったようだ。ある学生は「テレビは嘘は言わないが、真実も言わない」と手厳しい。

 こうした議論はマスメディアの中でもぜひしてほしい。238人の学生の意見でも熱く論じる者が多数いた。国民的な論議になるかもしれない。

※写真は、5月11日に気仙沼市に営まれた大漁旗を掲げての慰霊祭。

⇒31日(火)朝・金沢の天気   はれ

☆震災とマスメディア-9-

☆震災とマスメディア-9-

 昨夜(7日)午後11時32分に東北地方で強い揺れがあり、仙台市など震度6強、盛岡市などで震度5強を観測した。震度6強は民家は半壊あるいは全壊するくらいの激しい揺れだ。復興に向け、被災地の人々の心がまとまり始めていた矢先に追い打ちをかけるようにして起きた。

         メディアの現場も戦場と化している

 先ほど、知り合いの月刊ニューメディア編集長、吉井勇氏からメールでニュースレターをいただいた。その中で、東北の民放テレビ局関係者からテレビの現場の様子を取材した一文があったので以下抜粋する。要約すると、テレビの現場もガソリンの確保、食糧の確保、そして取材者たちの精神的疲労が募っているとの内容だ。

「震災直後の停電は、放送局の使命である電波を出す作業も際どいという、自家発の油入手との戦いだったそうだ。八方どころか、32方にも及んだ油作戦は、裏技も駆使しながら確保できたという。放送局は取材ができないと、ただの送信局設備になってしまう。ここでも中継車、取材車、ローカル応援局の取材車などのガソリンが必要・・・」

「食糧事情も厳しい。物流が途絶えたため、約340食を用意するのもギリギリ。炊き出し部隊はおにぎり一つでしのいだそうだ。物流が途絶えた中での、これも戦い。」

「一番気にかけたのは、取材先、つまり被災者たちのあまりにもむごい現実に向き合うことで、取材者自身が夜に眠りきれないなど、精神的に疲労してきているという。PTSD(心的外傷後ストレス障害)の心配も、被災地にある局だから真剣に対応すべき問題なのであるだろう。」

 以上が東北ローカル局の生々しい実情である。

 東北太平洋側のテレビ局記者・カメラマンはまさに「戦場のカメラマン」状態だと思う。おそらく毎日が「悲惨な事故現場」での取材の連続だろう。私自信も記者時代(新聞、テレビ)に自殺、交通死亡事故、水難事故など人が死ぬという現場を取材してきた。今回の東日本大震災の映像をテレビで見るたびに、遺体は映し出されてはいないものの、当時の現場がフラッシュバックで蘇ってくる。「現場」というのもはそれほど心に深く刻まれ、ときに連想で追いかけてくる。

 ただ、現場にいるのは記者とカメラマンだけではない。検死に立ち会う医者、警察、消防、自衛隊などがいる。記者はその遺体を自らの腕で抱きかかえ運ぶということはしない。記者やカメランマンのPTSD(心的外傷後ストレス障害)が時折問題となるものの、現場の後処理をしなければならない警察や消防のことを考えると、PTSDをメディアの中で問題化することにちょっと引け目を感じる。これは自分自身の体験からの思いである。

 心情支援しか送れないが、現場で奮戦する記者、カメラマン、技術スタッフ、ロジを担当する総務のスタッフ・・・。10年、20年の長い戦いになる。未来を信じて、メディアそしてジャーナリズムの職務をまっとうしてほしいと思う。

※写真は、2007年3月の能登半島地震の被災地(輪島市門前町)。寺院は全壊したが、地蔵は倒れず残った。

⇒8日(金)朝・金沢の天気   くもり

★震災とマスメディア-8-

★震災とマスメディア-8-

 東日本大震災(2011年3月11日)と新潟県中越沖地震(2007年7月16日)のメディアの取材テーマに類似点がある。それは、被災地の原子力発電所に損傷が及んだという点である。能登半島地震(2007年3月25日)でも震源近くに北陸電力志賀原発1・2号機があったが、ともに点検などのため停止中だったので、メディアの取材が集中するということはなかった。

       メディアの取材資源には限りがある

 新潟県中越沖地震では、東京電力柏崎刈羽原発3号機から火災が発生した。放射能漏れは当初確認されなかったが、NHKのヘリコプターが火災現場の空撮を行った。この原発火災の映像が全国ニュースで放映され、視聴者は不安を募らせた。この火災では、東電職員4人が現場に駆けつけたものの、消火用配管が壊れていて、消火活動は行われなかった。また、地震の影響で地元消防署との専用電話は使用できず、消防隊の到着が遅れ、鎮火までに2時間近くかかった。メディアの取材は東電の初期消火の体制と地元消防署との連携の不手際に集中した。当然、柏崎市など行政の対応も震災と原発に2分化された。その後の調査で、少量の放射性物質の漏れが確認されたが、人体や環境に影響はないレベルとされた。もし放射性物質の漏れが火災の発生と相まっていたら騒ぎはさらに大きくなっていたかもしれない。

 私が柏崎市を取材に訪れたのは震災から3ヵ月余りたった10月下旬だった。住宅街には倒壊したままの家屋が散見され、メインストリートの駅前の商店街の歩道はあちこちでひずみが残っていて歩きにくかった=写真=。復旧半ばという印象だった。能登半島地震の復旧に比べ、そのテンポの遅さを感じたのが正直な印象だった。事実、取材した被災者の人たちも「原発対応に追われ、復旧に行政の目が行き届いていない」と不満を述べていた。当時のニュースの露出も原発関連が先にあり、後に震災関連という順位だったと記憶している。

 当時、原発火災は「あってならないことが起きた」というインパクトを周辺住民にも全国の視聴者にも与えた。したがって、メディアの取材が原発関連に集中したのも不思議ではなかった。が、メディアの取材資源(マンパワーと機材)も無限ではない。地域のテレビ局にしても、もっと被災者の生活や被災地のインフラの復旧状況を取材したいと思っても、原発関連に人と機材が割かれるという場面も相当あったろうと想像する。

 では、今回の東日本大震災の場合はどうだろう。全国ニュースで見る限り、テレビ画面や紙面からの印象として「福島」に集中してはいないだろうか、「宮城」「岩手」は手薄くなってはいないだろうか。ニュースの露出の多寡によって復旧や復興のテンポに地域格差や温度差が出てはならない。復旧が遅れると、それだけその地域の人々の不満や疲労度は募る。メディアは復旧のシンボルは取材するが、それ以外には取材資源を割けないのである。

⇒4日(月)朝・金沢の天気  はれ

☆震災とマスメディア-7-

☆震災とマスメディア-7-

 2007年3月25日の能登半島地震では、被災者110人にアンケート調査をお願いした。その中で、「メディアに対する問題点や要望」を聞いた。手厳しい意見があった。紹介しておきたい。「朝から夕方までヘリコプターが飛び、地震の音と重なり、屋根に上っていて恐怖感を感じた」(54歳・男性)、「震災報道をドラマチックに演出するようなことはやめてほしい」(30歳・男性)、「特にひどい被災状況ばかりを報道し、かえってまわりを心配させている」(32歳・女性)。

         被災地に向けて情報をフィードバックすべき

 こうした被災者の声は誇張ではなく、感じたままを吐露したものだ。そして、阪神淡路大震災や新潟県中越地震など震災のたびに繰り返されてきた被災者の意見だろうと想像する。

 震災時のメディアへの意見は、今回の東日本大震災でも散見される。被災地からはメディアはどのように見えているのだろうか。「週刊現代」(4月2日号)で、仙台市在住の作家、伊集院静氏はこのように述べている。「まだ孤立して飢えと寒さに震えている子供がいるのに厚化粧して被災地のレポートをする女子アナ」、「テレビのキャスターの一人が『あの波が押し寄せる光景はまるで映画を見ているようです』と口にした。これほどの人々を呑み込んだ津波を、まるで映画を見ているような、とは、ナンナノダ? 君にとってこの惨事は劇場の椅子にふんぞり返って眺めるものなのか。言葉の間違いというより、人としての倫理の欠落、無人格以外のなにものでもなかろう。日本人はここまで落ち果てたか。」。視聴者はテレビを見ているのではない。伝え手であるメディアを見ているのだ。

 誰しもが一瞬にして「情報弱者」になるのが震災である。被災者にどう情報をフィードバックしていくか、メディアが問われている。現実は、メディアは被災地から情報を吸い上げて全国に向けて発信しているが、被災地に向けたフィードバックが少ない。

 避難所の様子を映したテレビ画面を見て気づいた。大人も子どもも携帯電話のワンセグ放送でニュースをチェックしている姿だ。災害情報を得るための防災グッズといえば、携帯ラジオが定番となっていたが、様変わりした。いま手元のメディアツールは携帯電話のワンセグ放送なのだ。これだったら、車載のカーナビゲーションでも受信できる。2008年4月に放送法が改正され、ワンセグ放送の独立利用が可能になった。ワンセグ放送を災害復旧に役立てない手はない。被災地のための臨時放送局をテレビ各社が共同運営してはどうだろうか。

 また、新聞社は協力して避難住民向けのタブロイド判をつくったらどうだろう。決して広くない避難所でタブロイド判は理にかなっている。メディア同士はよきライバルであるべきだと思うが、災害時には協力して被災地に向けて情報をフィードバックすべきだ。

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