⇒メディア時評

★シェアの呪縛

★シェアの呪縛

  「呪縛」とは、まじないをかけて動けなくすること。あるいは、心理的な強制によって、人の自由を束縛することの意味である。日本人ほど、シェア(市場占有率)にこだわり、自ら呪縛されている国民はないのではないかと最近考えている。

  シェアにこだわること、それは、そこそこ品質がよいものを低価格で売り、市場の占有率を高めることだ。シェア1番でなければ存在意味がないと、ライバルが現れると価格競争でしのぎを削り、競り勝つ、それが勝利の方程式だった。ところが、2007年に起きたサブプライム問題に端を発したリーマンショック以降、世界的な金融不安が市場を覆い、リスク回避の流れからヨーロッパやアメリカのヘッジファンドなどが円買いに走った。円高にぶれてきて、日本の家電製品も自動車も価格競争という手を打てなくなった。もともと商品はそこそこの品質だったので、韓国や台湾、中国といったメーカーの追い上げを食らうようになる。日本のメーカーは、円高で価格競争ができない分、多機能化することで魅力をアップしようとした。ただ、多機能化の行き過ぎが製品の魅力を低下させることもある。

  むしろ、多機能より単純で使いやすい方がその機能のチカラというものを発揮させるものだ。海外が住む友人から、「日本製はやたらと多機能で値段が高い。韓国のサムスンなどは求められている、あるいは必要な機能に絞って販売している。結果、使いやすい」と聞いたことがある。世界の人々は日本人ほど器用でない。その日本人でさえ、地上デジタルテレビのリモコンに今でも辟易している。デジタルカメラもボタンが多く、静止画を撮ろうしして、動画撮影になったりすることがままある。日本企業にめぼしい技術革新もなかった。リーマンショックから5、6年が過ぎて、日本製品は海外で随分とシェアを落とした。

   ここで最近、よく話題になるのが、日本製品とドイツ製品はどこで違いが出てきたのか、ということである。『日経ビジネス』(2013年2月25日)の記事が興味深かった。ドイツ人実業家ハーマン・サイモン氏の言葉を引用して、「日本企業はブランドや高級感の創出力に欠け、技術的な強みを活用しきれていない」と。つまり、「ソニーやパナソニックがなぜ10~20%上乗せの価格で売り、消費者を引きつけることができないのか」「市場シェアを追求する追及する限り、値下げによる価格競争に巻き込まれざるを得ない」と。シュアを落としてでもブランドイメージを創造すべきだというのだ。知名度の高さとブランドイメージを混同してはならない。ドイツの中小企業は高価格で売ることに努力を惜しまなかった。シェアより、利益にこだわったからだ。

  シェアにこだわるのは何も工業製品だけと限らない。これは直観だが、国内ではマスメディアがこのシェアの罠に落ちている。部数というシェア争いを新聞社は演じている。かつて広告費はテレビに食われ、いまはインターネット広告に浸食されている。それでも、何とか各社が新聞を発行し続けることができているのは宅配制度という強固な販売システムに支えられているからだろう。では、紙面の中身はどうか。1面から社会面まで各紙ほとんど同じなのである。我先にセンセーショナリズムに走っている。しかも、うがった見方をすれば、発表を先取りすることを「スクープ」と称している。ここのところ、昨今の新しい日銀総裁の人事案件などはその典型だろう。数日経れば発表される記事を、各社血まなこになって先を争い追いかけた。

  日経新聞はもともと別だが、全国紙のうちの1紙ぐらいは「クオリティペーパーを目指す」と宣言して、発表の先取り型から独自の調査報道に重心を置く新聞社が現れないものだろうか。ただ、報道現場は賛成しても、販売や広告の現場が反対するかもしれない。「シェアを落とす」と。「読者はテレビやネットに出たニュースを最終的に新聞で確認したいと思っている。新聞はニュースのアンカーだ」として、独自の調査報道路線には承服しないだろう。

  シェア(視聴率)を取れる番組とは何かを追求しているテレビ局も同じだ。大衆迎合だと視聴者から言われても、子どもに見せたくない番組だと言われても、ゴールデン番組はお笑いタレントが占める。番組タイトルは違うが、どこもコンセプトはどこかよく似ている。短いキャッチフレーズでお笑いを取り、視聴者も満足している。そして、いま、日本国中がB級グルメ選手権ばやりだ。A級グルメを目指さない風潮になった。A級では人が集まらないからだ。

  シェアには、市場に対する影響力や発言力の拡大や、顧客の囲い込みといったメリットがあるものの、世界的な競争の中でシェアは崩されやすく、消耗度が高い。ドイツ企業はシェアより利益をどう高めるかを模索した。

⇒2日(土)朝・金沢の天気    くもり 

★天上のワイン

★天上のワイン

 かつて、大学の薬学の教授から教わったことだ。酒はビールだけ、あるいは日本酒だけというのは体によくない。なるべくウイスキー、白酒(パイチュウ)、ワイン、ウオッカなど多種類を飲んだ方がよい。つまり、麦だけでなく、米も、モロコシも、ブドウもというわけだ。それを「アルコール多様性」というそうだ。その教授は「常時100種類ほどの酒を自宅にスットクしていて、少しずつ飲んでいる。健康だよ」と笑っていた。それまでどちらかいうと「ビールのち日本酒」だったが、その話を聞いてから、ワインも白酒もウオッカも飲むようになった。今は一巡して、どちらかというと、ワインの量が多くなった。

 先日、誘われて金沢のワインバ-が主催する「メドック格付1級 5大シャトーの違いを知る」というワインの講座に出かけた。ワインはまったくの初心者でどちらかというと、イタリヤやチリ、南アフリカといった国別で選んで買っていた。シャトー(ワイナリー)は知っていたが、「5大シャトー」は正直知らなかった。フランスに何度か勉強に行っているソムリエの辻健一さんが解説する。

 「5大シャトー」は、1855年のパリ万国博覧会で、皇帝ナポレオン3世は世界中から集まる訪問客に向けて、フランスのボルドーワイン(赤)の展示に格付けが必要だと考えた。 そこで、ボルドー・メドック地区で、ワイン仲買人が評判や市場価格に従って、ワインをランク付けした。その格付けで4つのシャトーに「第一級」の称号を与えられた。それ以来、ボルドーワインの公式格付けとなった。その4つとは「Ch.Lafite-Rothschild(シャトー・ラフィット・ロートシルト)」、「Ch.Margaux(シャトー・マルゴー)」、「Ch.Latour(シャトー・ラトゥール)」、「Ch.Haut Brion(シャトー・オー・ブリオン)」のこと。これに、1973年の格付けで昇格した、「Ch.Mouton Rothschild(シャトー・ムートン・ロスシルド)」を加え、これら5つが世界トップクラス・シャトーといわれるようになった。インターネットで調べてみても、それぞれ1本5万円は下らない。ちなみの、今回の講座の会費は2万3千円。グラスに1杯ずつ5大シャトーが飲めるのだから。一生に一度のチャンスと思えば、案外お得かも知れない。

 問題は味わいの表現力だ。これは、素人ではなかなか出てこない。辻さんはソムリエらしく、ラフィット・ロートシルを「長く残る深みのある味わい。森の中に白いお城のようですね」と。「熟成したときに醸し出す杉の香り」(ムートン・ロスシルド)、「重厚でありながら優雅さを崩さず、複雑極まりない風味の豊かさ」(ラトゥール)、「甘くそして芳ばしい香水のような」(シャトー・マルゴー)、「若い間から楽しめる芳醇でソフトな果実味。スミレとトリュフの香り」(オー・ブリオン)と次々と鼻と舌の感覚を言葉にしてにおい立たせる。ここまでくると、まさに「天上のワイン」のように思える。

 各シャトーのデータによると、ブドウの品種はカベルネ・ソービニオンが圧倒的に多い。ブドウの品質管理を徹底するために、どこのシャトーもブドウ畑の面積を100㌶以内にしている。そして、「プルミエ・ド・プルミエ(1級の中の1級)」を維持するために、ブドウのクローン選別や土壌改良、コンピューター制御の発酵管理などのたゆまぬ品質向上に向けた取り組みも紹介された。利より格付けを重んじる風土がワインに沁みこんでいる。

※写真は、コルク栓のついたものが5大シャトーのワイン。ソムリエの辻健一氏。

⇒17日(日)夜・金沢の天気    くもり

★鯛の唐蒸しの誤解

★鯛の唐蒸しの誤解

  金沢では、郷土の伝統料理のことを「じわもん」と呼ぶ。治部煮(じぶに)は結構有名でお手軽料理かもしれない。そぎ切りにした鴨肉を小麦粉をまぶし、だし汁に醤油、砂糖、みりん、酒をあわせたもので鴨肉、麩(金沢の「すだれ麩」)、しいたけ、青菜(せりなど)を煮て煮物碗に盛る。肉にまぶした粉がうまみを閉じ込め濃厚な味にある。これまでじわもんを結構味わったつもりだったが、誤解もあった。

 前々回に紹介した金沢の料亭「大友楼」でいただいた「鯛の唐蒸し(たいのからむし)」=写真=が誤解の一つだった。二匹の鯛の腹に卯の花(おから)を詰めて大皿に並べたもの。婚礼に際して供される料理。、「にらみ鯛」や「鶴亀鯛」と呼ばれることもある。嫁入り道具とともに花嫁が持参する鯛を、婿側が調理して招待客にふるまうのがならわしである。子宝に恵まれるように、銀杏・百合根・麻の実・きくらげ・人参・蓮根などを入れた卯の花を鯛の腹一杯に詰め、雌雄二匹の鯛を腹合せにして並べる。これまで、知人や同僚の婚礼の披露宴に出席して、何度か口にした。が、正直見栄えだけ豪華でおいしくない料理との印象が残っていた。それが誤解だった。

 大友楼で、食事を運ぶ仲居さんからこう説明された。「おからを召し上がってくださいね。タイよりおからがおいしいのですよ」と。その通りにした。なんと、あのおからが芳醇な香りと旨味のする、まるで鱈子の煮つけのように味わい深い。そして、麻の実がほどよい歯触りのアクセントになっているのだ。そして、鯛の身はというとこれまで味わってきた味気のない、脂の抜けた身なのである。つまり、蒸す過程で鯛の肉の旨味がおからに吸収されているような感じだ。

 婚礼料理と聞いていたので、「めでたい」鯛が主役だと思って、これまでおからには手を付けなかった。つまり、パサパサの鯛の身ばかり食べていた。おからは鯛を膨らませ、大きく見せる「演出」だと思っていたのである。知らなかった。見栄えは鯛、味はおからなのである。くだんの仲居さんは「そのような方は土地(金沢)の方でも多いですよ」と。主役は鯛だと勘違いして、鯛の身ばかりをつまんでしまう。どちらかというと男性の客に多いそうだ。

 ところで、「唐蒸し」の由来だが、「おから蒸し」がいつの間にか「から蒸し」となった説、また、長崎を訪れた加賀藩の留学生が中国料理風の鯛のけんちん蒸しの調理法を持ち帰ったことが「唐蒸し」となったとする説などいくつかある。

⇒8日(金)昼・珠洲市の天気     ゆき

☆匿名と実名の間

☆匿名と実名の間

  日本のマスメディア(新聞やテレビ)の報道には「夜討ち」「朝駆け」という言葉がある。事件の取材や政治のネタを扱う場合、ネタを取るのにもスピード感が必要で、相手方(ライバル紙)に先んじればスクープとなり、同着ならばデスクにしかられることはない。先を越されれば、「抜かれた」と叱責をくらう。警察取材(サツ回り)の新人には、「夜討ち」「朝駆け」は記者教育の基本として教えられる。

  これはニュースにおけるスクープやスピードだけのことなのだろうか。先日、現役の新聞記者と話す機会があり、話題になった。記者によると、「夜討ち・朝駆けという取材手法があるのは世界で日本と韓国だけらしい」と。続けて、「複数の記者たちを前に事件が経緯や概要を発表するのはある意味で建て前だ。ただ、捜査の経緯の中で隠されたことや、謎の部分で公表したくてもできない場合がある、つまりその本音を聞きたい」と。

  面白いのはそれが日本と韓国だけらしい、という点だ。確かに、両国とも本音と建て前の精神性がある。かしこまっての公の場ではなかなか本音が出ない。ならば、裏の非公式な場でその本音の話を聞こうとなる。ただ、本音の話を聞き出せても、実名はなかなか書けない。そこで、「警察幹部によると」などの書き出しで始まることになる。匿名である。

  これが政治の世界の取材となると、「オンレコ」と「オフレコ」になる。オン・レコードはメモ取り、オフレコはオフ・レコードはメモ取りなし。オンレコは記者会見といった実名で発言内容がニュースになることが多い。オフレコは一応記事にしないことを前提とした取材を指す。情報のニュースが高く記事にする場合は、オフレコの発言者を「与党幹部」や「政府筋」といった匿名の表現にとどめる。発言内容も一切報道しない完全オフレコという場合もある。

  では、読者の方が「なぜ匿名だ、実名にしないのか」と訴えたことがあるか。未聞である。むしろ、個人情報保護に関する過剰反応によって、社会の匿名化が進んでいる。学校の名簿から先生の住所、電話番号が削除されたり、町内会が災害に備えて1人暮らしの高齢者の名簿をつくろうとしても個人情報保護の壁に阻まれてできなかったりした例などいくらでもある。

  新聞社やテレビ局などでつくる日本新聞協会は、こうした行政などの「匿名発表」は容易に拡大し、やがて意図的,組織的な隠ぺい、ねつ造に発展するおそれがあると警告している。「実名発表」は「事実の核心」であり、実名があれば「発表する側はいい加減な発表や意図的な情報操作はできなくなる」として、読者や視聴者の「知る権利」に応えるために「実名発表」が必要だと主張している。が、肝心の新聞やテレビが上記で述べたように、取材元を匿名化しているので、なかなか説得力を持たない。

  ましてや、先月起きたアルジェリアで起きた人質事件で、日本政府は当初、事件に巻き込まれた大手プラントメーカー「日揮」の意向に配慮し、被害者の氏名を明らかにしなかった。日揮の意向とは、被害者遺族へのメディアスクラム(集団的過熱取材)を案じてのことだ。

  匿名を一律に否定している訳ではない。メディアの取材源の秘匿は言うまでもない。ただ、安易に匿名化することに日本の新聞やテレビは慣れきっている気がしてならない。テレビでも、映像にホカシや音声を変えているケースが多々ある。「実名が取材のスタート」であろう。新聞やテレビがこの「実名改革」を推し進めない限り、信頼が増々失われるのではいないか。最近そんなことを思っている。

⇒7日(木)夜・金沢の天気     風雨

☆「孤独死」を読む

☆「孤独死」を読む

  正月早々に縁起でもない話をする。年末に読んだ新聞記事で衝撃的な見出しがあった。「『孤独死』最多 行政危機感 県内今年11月末で223人」(12月31日付・北陸中日新聞)。死後に発見され、警察が病気など事件性のない変死として取り扱った一人暮らしの高齢者(65歳以上)が石川県内で223人もいるとの統計だ。

 石川県は高齢者が子供と暮らす割合が高い方だ。厚生労働省の平成24年版「国民生活基礎調査(平成22年)」によると、「65歳以上の者の子との同居率」は全国平均42.3%に対し、県別では石川51.9%、もっとも高い山形は65.1%となる。にもかかわらず増えている、と。新聞記事を続けよう。石川県には65歳以上の高齢者が27万5千人(2011年10月現在)、うち一人暮らしは3万6千人(2010年10月現在)、高齢者夫婦のみの世帯は4万4千世帯(同)である。そうした中で、高齢者の孤独死が年々増えている。石川県警では、一人暮らしの高齢者の変死事案は2003年には126人、2010年に203人、2012年では11月末現在で223人となった。

 高齢者が子供と暮らす割合が比較的高い石川県でもこの通りだ。ましてや、東京や大阪など大都市圏ではかなりの数でお年寄りの孤独死が増えているだろうと想像する。石川県は人口比率で全国の1%だ。ここから類推すると、全国では2万2千人ほどの高齢者の孤独死があるのではないか、と。

 ただ、この記事でいくつか物足りない点がある。記事では「高齢者の孤独死」としているが、警察は年齢に関係なく「変死」として扱い、幅広い年齢別の孤独死の統計も持っているはずである。東京都監察医務院が発表した「東京都23区における孤独死の実態」のデータがある。平成17年の統計だが、孤独死の年齢と人数に男女差がある。男性の孤独死は45-49歳で100人を越え、ピークは60-64歳の404人である。65歳以上の孤立死の人数は低下する。ところが、女性の孤独死では70歳以降で100人を越え、80-84歳でピークの201人となっている。つまり、東京都と石川県で違いあるかもしれないが、男性の孤独死は60-64歳がピークなのに、記事では、「高齢者」つまり65歳以上と年齢で区切っているので、このピークの数字が記事では分からない、反映されてない。

 記事の趣旨は、石川県が昨年3月に「地域見守りネットワ-ク」を発足させ、民間事業者(新聞、郵便、電気、ガスなど)が個人宅をを訪れた折に郵便物などチェックして行政に知らせるなど、高齢者の孤立化への対応に乗り出したとの内容だ。これは提案なのだが、孤独死を高齢者(65歳以上)に限定せず、地域で孤独死が増えていることそのものを問題視して、「孤独死防止ネットワーク」として地域全体で見守る必要があるのではないだろうか。その方が社会の実態が見えてくる。

 ちなみに、平成18年の東京都23区の孤独死は老若男女合わせて3395人に上り、1日10人前後だ。ついでに、死後発見の平均日数は男性12日、女性6.5日と孤独死の男女格差も歴然とある。孤独死の理由は病死、自宅内のけがなどさまざまだが、生前の関与は難しいものがある。「人間の尊厳」として地域社会ができることは、早期に発見することではないか。孤独死には自殺、災害死、赤ちゃんの突然死などは含まれていない。

※写真は、イタリア・フイレンツェ市にあるサンタ・クローチェ教会の壁画

⇒2日(水)朝・金沢の天気  はれ

★2012ミサ・ソレニムス~5

★2012ミサ・ソレニムス~5

  この一年、マスメディアは迷走した。印象に残るのは、ことし10月上旬、山中伸弥教授(京都大学)のノーベル賞授賞の発表直後、「ハーバード大客員講師」を名乗る男性がiPS細胞の臨床応用に成功したというニュースを読売新聞などが報じた事件だ。「世界初」のスクープだったのだが、ハーバード大学側は「無関係」とし、手術が行われたことも否定した。これを受けて、読売を始め、共同通信、日経新聞、毎日新聞、日本テレビなどマスメディアは相次いで誤報の検証やおわび記事を掲載した。この話はこれで済んだのか。構造的な問題はないのだろうか。

          iPS細胞の臨床応用の誤報問題を考える

  読売新聞は検証記事(10月26日付)で、「当時の取材は、実験記録や年齢、肩書など確認が不十分だった」など取材の不備を認めた。共同通信も「速報を重視するあまり、専門知識が必要とされる科学分野での確認がしっかりできないまま報じてしまった」という。しかし、これは言い訳にすぎない。報道に「伝えない」という選択肢はなく、伝える以上は裏付けに手を尽くすのが報道機関の使命である。当然、その結果責任はつきまとう。

  こう考える。新聞やテレビの記者は「夜討ち朝駆け」でネタを取る。ネタを取るのにもスピード感が必要で、相手方(ライバル紙)に先んじればスクープとなり、同着ならばデスクにしかられることはない。先を越されれば、「抜かれた」と叱責をくらう。新人記者は警察取材(サツ回り)を通じて、そうトレーニングされて育つ。

 ここに問題が浮かぶ。スクープ記事では匿名が多い。「政府関係者によると」「警察関係者によると」など、これでライバル紙より速ければ許されるのである。裏付けは「二の次」になりがちだ。情報をリークする側も匿名なので、たとえば捜査過程での進捗状況を話すことになる。「警察の○○部長によると」などと名指しはされないので、推察の域を出ないことも話してしまう可能性がある。これが誤報や冤罪を生む土壌となってきた、と言えないか。

 iPS細胞の臨床応用の誤報の問題に話を戻す。この場合、匿名ではなく、実名である。無名の大学の研究者だったら眉唾ものだが、本人は「東京大学」「ハーバード大学」の名刺を持っている。実名を出してよいと本人が言っている、まさか嘘をつくとは思わないだろう。ましてや、読売新聞の場合、本人の研究に関して206年2月から6本のも記事を書いている。ある意味で「常連さん」である。ここに、ノーベル賞授賞の発表直後であり、記事にするタイミングが重なった。編集局では、「それ行け」とアクセルがかかったことは想像に難くない。他社も読売の一面の記事を後追いをした。ここに、裏付け取材という地道な作業が入る余地はなかったのだろう。

 このiPS細胞の臨床応用の取材に関して、専門家と渡り合う知識、自覚や節度はあったのだろうか。お詫び訂正は出したものの、マスメディア側が「あいつに騙された」と思っているならば、誤報は繰り返される。

⇒28日(金)朝・金沢の天気   くもり

☆「ネット選挙」その後

☆「ネット選挙」その後

 今頃になって、ようやくである。今回の衆院総選挙で大勝した自民党の安倍総裁が21日、来年夏の参院選からインターネットによる選挙活動を解禁したい意向を示したと各メディアの報じた(22日付)。安倍氏は記者団に「次の選挙までに解禁すべきだ。投票率の上昇につながっていくと思う」とネット解禁の効用を強調した、という。もともと自民は今回の衆院選挙の公約の「政治・行政・公務員改革」の項目の中で「インターネット利用選挙解禁法案の制定」を明記している。

 現行の公職選挙法は、公示・告示後の選挙期間中は、法律で定められたビラやはがきなどを除き、「文書図画(とが)」を不特定多数に配布することを禁じている。候補者のホームページやツイッターなどソーシャルメディアの発信は、こうした文書図画に相当し、現行では認められていない。これまで、ネット選挙解禁についての論議は何度もありながらも、政治の混乱の中で法案は提出されてこなかった。たとえば、2010年の参院選挙の前に、民主、自民、公明の与野党は候補者・政党が選挙期間中にホームページやブログを更新できるとする公選法改正に合意していたのに、である。

 来年夏の参院選挙からネット選挙が解禁されることが明確に打ち出されたことで、いよいよ現実になる。ただ、問題がないわけではない。「なりすまし」など他人の名をかたって中傷が書き込まれる可能性などいろいろと問題は懸念材料はあるだろう。そのために、虚偽の名前を記載することが罰則対象となるなどの法的な整備も必要だろう。

 ネット選挙の解禁によって、選挙活動をいわゆる「地盤・看板・ドブ板」に重きをおいたベテランたちの選挙運動の在り様も劇的に変化するだろう。とくに地方での選挙区では、インターネットを有権者のニーズに対応するスタッフが少ない。若者たちの雇用の場にもなる。候補者の選挙活動の一日を画像や動画でリアルに伝える、そんなスタッフがいてもよいのではないか。多様な活動、多様な意見をネットを通じて広める。有権者もそれを投票の判断材料にするといった効果が期待できる。選挙は多様でなければ盛り上がらない。ようやくその扉が開かれようとしている。

⇒23日(日)午前・金沢の天気  はれ

★メディアの当確の精度

★メディアの当確の精度

 このブログで何度か述べた衆院総選挙での「開披台調査」や「出口調査」が、今回の投開票日にその威力を発揮した。16日の投開票日は近くの投票場に行き、出口調査の様子を観察し、同日の21時から開票場で開披台調査の様子をつぶさに観察した。そして、その予想と結果を数字で比較した。

 テレビ朝日『選挙ステーション』では、20時34分に石川一区(金沢市)の出口調査の得票数をパーセントで発表していた。そのポイント。馳浩(自民)47.6%、奥田建(民主)23.4%、小間井俊輔(維新)19.3%、熊野盛夫(未来)5.5%と続いた。では、実際の得票率はどうだったのか。翌日の北陸中日新聞で掲載された確定票をもとにした獲得率は、馳浩47.87%、奥田建22.88%、小間井俊輔19.82%、熊野盛夫5.11%だった。馳の誤差はマイナス0.2、奥田プラス0.6、小間井マイナス0.5、熊野プラス0.4なのである。つまり、どの候補者も出口調査と確定票の得票率の誤差は1.0ポイント以下だったことになる。

  テレビ朝日『報道ステーション』での石川一区の出口調査が結果が流れたのは20時34分だった。同区の開票開始時間は21時30分だった。開票が始まる1時間ほど前に、テレビ視聴者は精度の高い「当選確実」の情報を得たわけである。テレビ朝日と朝日新聞は共同で9000ヵ所で出口調査を実施、54万人からサンプルを収集した。1ヵ所60サンプルである。調査員1人が10ヵ所回って調査したとて900人の調査員が動員されたことになる。投開票日だけでなく、期日前投票でも出口調査は行われていた。さらに、開票場での開披台調査では、石川の開票場だけでも70人余りが配置された。全国規模の調査で、その経費は億単位であろうことは想像に難くない。今回、テレビ朝日のフライング(当確を発表した後に落選)はゼロだった。調査の精度はそれほど高かったことになる。

 選挙報道と言えば、これまでNHKが圧倒的な強さ、つまり視聴率が高かった。では、今回はどうだったのか。ビデオリサーチ社が公表したデータでは、衆院選挙開票速報の特別番組で、関東地区の視聴率が最も高かったのは、NHK総合『衆院選2012開票速報』(19時55分~21時)17.3%、次はテレビ朝日『選挙ステーション・第2部』(22時~23時30分)10.1%だった。やはり、NHKが圧倒的に強い。ただ、今回、面白い現象が散見された。候補者はこれまで民放が早々と当確を打っても万歳をしなかった。NHKに当確が流れて、初めてバンザイの声を上げたものである。それが今回、民放の当確で選挙事務所が沸き立つ場面があった。たとえば石川三区では、20時過ぎに「北村茂男(自民)当確」を民放が報じ、20時20分ごろ万歳だった。NHKの当確打ちはさらにこの後22時半ごろだった。民放の当確打ちの精度が上がったということが徐々に認知されてきたということだろうか。

 でも、これでは各選挙事務所がメディアの開票速報で一喜一憂していると誤解されかねない。実は、陣営独自の票読みもある。独自の票読みというのは、たとえば北村氏の場合、対抗馬の近藤和也氏(民主)の地盤とも言える中能登地区のうち羽咋市と宝達志水町では投票時間が繰り上げられ、20時00分に開票作業が始まった。この2市町で北村氏が近藤氏と互角ならば、奥能登(輪島市など)を地盤とする北村氏の優位は確実となる。おそらく北村陣営の目利きが2市町の開票作業をウオッチして、「ほぼ互角」の一報をもたらした。事実、確定票(羽咋市で北村5990、近藤5456)は互角だった。民放の当確打ち後に、その一報がもたらされ、勝利のムードが盛り上がったのだろうと想像する。バンザイをもたらすものはメディアの速報もさることながら、陣営の独自の票読みというものがあるということを確認しておきたい。

※写真は、16日(日)21時40分ごろ、開票場となった金沢市中央市民体育館でのテレビ局による開披台調査の様子。ネットが張ってあるのは、これ以上身を乗り出さないように選管が配慮したもの。 

⇒22日(土)朝・金沢の天気   あめ 

☆続・過剰適合の悲劇

☆続・過剰適合の悲劇

 金沢と韓国を往復しながらITビジネスを展開している企業の日本人社長と先日、語らう機会があった。社長は、19日に投開票日がある韓国大統領選で、国民がフェイスブックやツイッターを使った選挙運動が盛り上がっていると話してくれた。韓国は人口4800万人のうち3000万人がスマートフォンを有すると言われる。韓国の憲法裁判所が昨年12月、ネット選挙の法的な規制を違憲と判断した。低コストや機会の均等というインターネットの特質が選挙に合致するとの判決理由だった。

 一方、先日、金沢の知人から「あなたの英知に判断ゆだねる」とある候補者の推薦の葉書が届いた。能弁な友人なのだから自分の思いを葉書ではなく、電話なり、直接の会話で表現すればよいだろうと思う。日本全体がこの時期、人に向かって「私は○○候補に一票を投じたい。それの理由はこうだ」と話すことを控え、まるで自粛しているようだ。そのくせ、新聞やテレビの世論調査に目を凝らし、耳を傾けている。そして、最近声がかすれた候補者の乗った選挙カーが市内を走り回っている。この風景は何十年も変わらない。盛り上がらない、まさに、選挙停滞の風景なのだ。

 この日本の停滞した、淋しい選挙戦は今の日本を象徴している。いや、日本そのもののように感じる。何も友人や知人たちと選挙の議論もしないまま、もう明後日に投開票の日を迎える。選挙運動の公平さを期する余り、選挙期間中に指定している枚数のビラなど以外の文書図画を配ることを禁じている。このためホームページやブログ、ツイッターなどは指定外の文書図画とみなされ、公示後の更新などは公選法にふれるおそれがあると選挙管理員会は警告する。選挙に過剰に適合したがゆえに選挙運動の柔軟さや多様性を拒否してしまっている。ネット選挙をしている候補者はいないかと監視している選挙管理委員会よりも、法律をそのまま放っておいた政治家の方に罪があるだろう。

 もちろん、選挙のネット解禁で投票率が上がるかとなるとこれは別のレベルの話かもしれない。フェイスブックやツイッターで飛び交う言葉には、誹謗や中傷、不確かな情報も少なくない。これを民意だと錯覚しては、民主主義はおぼつかない。なぜなら、ネット上で支持されても投票行動に結びつくかどうかは分からない。ネットは民意の集合体を形成しうるかはまだ先の話だ。

 それでも、この選挙期間の停滞感は人々の気持ちを暗くしている。なぜなら、誰しもがなぜネット選挙が許されないのか、「韓国にも先を越されているではないか」と惨憺たる思いでいるからだ。過剰適合の悲劇のスパイラルに落ち込んでしまっている。盛り上がらない選挙ムードをつくっている状況こそが問題なのだ。

⇒14日(金)夜・金沢の天気  はれ

☆過剰適合の悲劇

☆過剰適合の悲劇

 「過剰適合の悲劇」は、文明評論家でもある月尾嘉雄氏の講演(2012年7月6日・金沢市)で耳にした言葉だ。南米大陸に棲息するヤリハシハチドリは体長10cm、クチバシも10cmあるアンバランスな恰好をした鳥。これはトケイソウという細長い花弁からミツを吸引するのに最適の形状になっている。つまり、トケイソウのミツをヤリハシハチドリが独占でき、トケイソウも受粉できる共生関係にある。逆に、火山の噴火や気候変動などでトケイソウが絶滅すればヤリハシハチドリも消滅する共倒れの関係でもある。

 この過剰適合の悲劇は実際に日本の社会のあちこちで起きている。人種も言語も多様ではない、この国の社会は画一性を生み、工業化社会では断トツのチカラを発揮した。しかし、多様性が発揮される情報化社会では出遅れてしまった。その代表例が「民主主義と選挙」の関係ではないかと考える。

 選挙運動の公平さを保つため、選挙ポスター、選挙チラシ、選挙看板、選挙看板立札、選挙ちょうちんなど細かな規制をつくった。公職選挙法は、選挙期間中に指定している枚数のビラなど以外の文書図画を配ることを禁じている。候補者1504人、現憲法下で最多となった今回の選挙は、それだけ原発政策、消費税増税などの経済政策、憲法観などをめぐって多様な争点がある。ところが、公示後、候補者は情報発信することを一斉に止めてしまった。ホームページやブログ、ツイッターなどは指定外の文書図画とみなされ、公示後の更新などは公選法にふれるおそれがあるのだ。つまり、多様な争点がありながらも、公選法違反の疑いありとして候補者が有権者と直接コミュニケーションを取ることをネット上では止めざるを得ないのである。

 この国の行方を左右する大事な総選挙での、ネット上の沈黙は何だろう。候補者ではないので実名をあげるが、橋下徹氏(大阪市長)の言葉が印象的だ。「今のネット空間の重要性を考えたら、こんな公選法なんてバカげたルールは政治家が一喝して変えなきゃいけない。こんな状況を変えられない今までの政治家に何を期待するんですか。もしかすると僕は選挙後に逮捕されるかもしれません。その時は皆さん助けて下さい。公選法に抵触するおそれがあるとかいろんなこと言われてました。僕はそれはないと思うんですけどね」(9日、東京・秋葉原での街頭演説で)=朝日新聞ホームページ(12月10日付)
 
 冒頭の話に戻る。選挙の公平さを期する余り、息苦しい選挙になっている。これでは情報化社会はおろか、議会制民主主義の共倒れになりはしないか。日本社会の過剰適合の悲劇はまだまだある。

⇒10日(月)朝・金沢の天気  ゆき