⇒ニュース走査

★台風一過の兼六園、梢のざわめき

★台風一過の兼六園、梢のざわめき

    昨夜(4日)の金沢での最大瞬間風速は44.3㍍(午前6時前)だった。台風一過、けさは雲一つない青空だった。6時30分ごろ、兼六園に出かけた。名木が倒れているのではないかと気になった。入り口に札がかかっていた。「本日の早朝入園は中止します」。普段だと午前7時前ならば無料で入ることができる。その早朝入園が中止ということは、はやり名木が倒れるなど緊急事態が発生しているのではないかとますます気になった。

    午前7時に開門。入場料(310円)を払って入った。園内は落ち着いた名園の風景だった。早朝入園が中止は落ちた枝葉の清掃によるものだった。根が盛り上がっている根上松(ねあがりのまつ)や見事な枝ぶりで知られる唐崎松(からさきのまつ)は健在だった。44.3㍍の台風によく耐えたものだと安堵を得た。でも、その姿をよく見ると、根上松の枝に縄を張って補強が施され、さらに支柱がしてある=写真・上=。枝が強風で折れないように「台風対策」があらかじめ施されていたのだ。台風が去った後は速やかに撤去されるのだろう。名木あっての名園を守るということの意義に感じ入った。

           実は兼六園では「名木を守る」もう一つの手段が講じられている。台風で名木が折れた場合に備え、次世代の子孫がスタンバイしている。これは兼六園管理事務所の関係者から聞いた話だが、子孫とは、たとえば種子からとることもあるが、名木のもともとの産地から姿の似た名木をもってくる場合もある。兼六園きっての名木である唐崎松。これは、滋賀県大津市の「唐崎の松」から由来する。歌川広重(安藤広重)が浮世絵「近江八景之内 唐崎夜雨」に描いた名木である。近江の唐崎松は2代目だが、第13代加賀藩主・前田斉泰(在位1822-1866)が近江から種子を取り寄せて植えたのが現在の兼六園の唐崎松だ。

    兼六園管理事務所では、滋賀県の唐崎の2代目の種子で成長した低木を譲り受け、管理事務所で育てている。つまり「年の離れた兄弟」という訳だ。この兄弟の出番はいつか分からない。100年後か200年後か。ただ、名木に次世代がスタンバイするという在り様は永遠という時空をつけている。兼六園は四季の移ろいを樹木などの植物によって感じさせ、それを曲水の流れや、玉砂利の感触を得ながら確かめるという、五感を満たす感性の高い空間なのだ。その空間に永遠という時空をつけて、完成させた壮大な芸術品、それが兼六園だ。   

     ことじ灯ろう=写真・下=など30分ほど兼六園を散策して、随身坂口の門を出ようとすると風が頬をなでた。松の枝葉がサラサラと音を立てた。庭を愛したドイツの詩人、ヘルマン・ヘッセの作品を思い出した。「あの涼しい庭の梢(こずえ)のざわめきが私から遠のけば遠のくほど私はいっそう深く心から耳をすまさずにはいられない、あの頃よりもずっと美しくひびく歌声に」(『青春時代の庭』)。梢のざわめきがハーモニーのような美しい歌声に聞こえた。

⇒5日(水)午後・金沢の天気    はれ

★27年ぶり「猛烈台風」

★27年ぶり「猛烈台風」

          豪雨の次は猛烈な台風だ。「非常に強い」台風21号が4日に本州に上陸する。気象庁のきょうのホームページで掲載されている台風の進路予想図では同日夜には北陸が暴風域のど真ん中に入るルートになっている。「非常に強い」勢力の台風が本州に上陸するのは1991年以降初めと警戒感が広がっている。

    1991年9月27日夜に北陸を直撃した「台風19号」。鮮明に覚えている。このとき、北陸朝日放送の報道制作局に所属していた。開局を4日後の10月1日に控え職場では準備で慌ただしかった。さらに台風の直撃。カメラマンと取材場所をどこにするかと議論になった。台風は長崎県に上陸し、山口県をかすめて、日本海を北上していた。防波堤に叩きつけるような波を撮影しようと、カメラマンには金沢港に向かってもらった。この日は社内に泊まり込んだ。

   ところが一夜明けて大変なことになっていた。金沢の観光スポット、兼六園の名木が何本も倒れて無残な光景に。輪島市にある輪島測候所の風速計が最大瞬間風速57.3㍍を記録した後に破損するという事態になっていた。映像は「ネット上げ」(全国ニュース用)にテレビ朝日に送った。北陸朝日放送の駐車場にあった取材用のワゴン車1台も横転していた。その後、台風は青森、北海道を通過した。映像で繰り返し放送されて有名になったのは、収穫を前に青森のリンゴが軒並み落下し、落胆する農家の様子だった。このことから台風19号は「リンゴ台風」とも呼ばれた。

   では、27年ぶりの「非常に強い」台風21号はどうか。気象庁の予測データでは、4日の最大風速は北陸で30㍍、最大瞬間風速は45㍍、5日朝までの24時間に北陸では300-400㍉の雨。気象用語では最大風速30㍍は「猛烈な風」だ。風速33-49㍍(約10 秒間の平均)で「屋根瓦が飛び、ガラス窓が割れる。ビニールハウスの被害甚大。根の弱い木は倒れ、強い木の幹が折れたりする。走っている自動車が横風を受けると、道から吹き落とされる」とある。台風19号を経験しているだけにリアリティを感じる。(※写真は気象庁の3日付のHPから抜粋)

⇒3日(月)朝・金沢の天気    はれ

☆「ため池ハザ-ド」

☆「ため池ハザ-ド」

    豪雨の峠は越えたようだが、能登半島を中心に石川県ではきのう(31日)の降り始めからの雨量が各地300㍉近くに達しているところがあり、テレビのニュースでは気象台が土砂災害に警戒するよう呼びかけている。能登の人たちの心配はむしろこれからだ。きのう夕方のNHKニュース(ローカル)で、避難所に身を寄せている高齢女性のひと言が心配を象徴していた。「堤が壊れるんやないかと不安でここ(避難所)にきたんや」

    堤は「ため池」のこと。能登半島は中山間地での水田が多く、その上方にため池が造成されている。能登半島全体で2000ものため池があると言われている。中には中世の荘園制度で開発された歴史的なため池もある。「町野荘」があったことで知られる能登町には「溜水」と書いて「タムシャ」と呼ぶ集落もある。今でも梅雨入り前に集落の人たちが土手を補修するなど共同管理している。インタビューで高齢女性が不安に思ったため池はおそらく、過疎高齢化で管理する人たちがいなくなったに違いない。中山間地のため池が決壊すれば、山のふもとにある集落には水害と土砂災害が一気に襲ってくることになる。

    ため池は普段どのように管理されているのだろうか。能登町矢波地区に行くと、公民館に「ため池ハザードマップ」=写真=が貼ってある。同地区には5つのため溜め池があり、決壊した場合どのような範囲で水や土砂が流れるのか地図上で示されている。溜め池の管理人が堤防の亀裂や崩れ、沈下、濁水、水位などに異常を確認した場合、区長に連絡し、区長は住民に避難の連絡をすると同時に行政とともに現地対策本部を立ち上げると明記している。これだけ用意周到な対策を講じていれば、地域住民は安心感を得ることができる。

    問題は管理されないため池の存在である。石川県農林水産部が珠洲市で行った「ため池の管理に関するアンケート」(2010 年1 月)ではまったく管理や補修がされていため池が1割あった。耕作放棄や河川からの引水で灌漑の機能を失ったためだ。この傾向は増える傾向にあることは言うまでもない。「もう3割は管理されていないのでは」と指摘する向きもある。

    ため池を放置すれば土砂崩れや水害のリスクが高まる。沼地化して、その後に樹木が生えて原野に戻っていくこともある。能登半島はコハクチョウや国指定天然記念物オオヒシクイなどの飛来地としても知られる。これらの水鳥はため池周辺の水田を餌場としても利用している。また、ため池は絶滅危惧種であるシャープゲンゴロウモドキやトミヨ、固有種ホクリクサンショウウオなど希少な昆虫や魚類の生息地でもある。ため池の管理が大きな曲がり角に来ている。

⇒1日(土)午前・金沢の天気    くもり時々あめ

☆暗雲を晴らす政策論争を

☆暗雲を晴らす政策論争を

    昨夕(23日)自宅近くから西の空を見ると不気味な雲が覆っていた。午後6時40分ごろだ。黒い雲が幾重にも走るように重なっている=写真=。以前、図録で見た長谷川等伯の『龍虎図屏風』のようだった。鋭い前足の爪を立てながら一頭の龍が暴風の黒雲の中から現れる姿をイメージさせる。台風20号が北陸も通過するとニュースで流れていたので、暗雲が立ち込めるとはまさにこの空だと実感した。

   「暗雲」と表現すると誤解を招くかもしれないが、9月7日告示、20日投開票で行われる自民党総裁選の雲行きがおかしい。すでに石破茂氏(元幹事長)が出馬を表明し、現職で3期目を目指す安倍晋三氏と一騎打ちになる見通しだ。今月10日付のこのブログでも述べたが、総裁選では、石破氏は外交や安全保障政策について、安倍政権の不確実性を指摘して、トランプ大統領との日米同盟でこの国の安全保障を真に託せるのかと問うべきだ。「いつまでトランプに頼っているのか」と安倍氏の外交・安全保障を対立軸として明確にすれば、党内でも議論が起き、総裁選も面白くなるのではないか、と書いた。

   そのためにも「公開討論会」を期待しているのだが、どうやら雲行きが怪しい。メディア各社のWebニュース(24日付)を検索すると、自民の総裁選挙管理委員会が23日までに街頭演説などの日程について協議した。告示後に党が主催する遊説日程が実質5日間となる案も示された。ところが、公開討論会は日本記者クラブ主催のものに限定し、総裁選の公式日程には組み込まれないようだ。有権者に分かりやすいのは、まず公開討論を実施して、その後にそれぞれが持ち前の論点を街頭演説で訴えていくというのが筋ではないだろうか。政策論争なき政権与党の総裁選というのは一体なんだろう。

   政策論争で期待したいことは先に述べた外交や安全保障政策だけではない。アベノミクをめぐる論点にも注目したい。第2次安倍内閣が発足した直後の2013年1月から、企業に雇われている「雇用者数」は66ヵ月連続プラスとなり、今年6月は5940万人。実に450万人も雇用が生み出された(総務省統計局)。アベノミクスの「一億総活躍」「女性活躍」「生涯現役」「人生百年時代」の相乗効果だろう。

   ではなぜ、デフレ脱却の切り札として打ち出された2013年4月の「異次元緩和」、大胆な金融緩和の効果が表れないのか。日銀総裁はマネタリーベースを2倍にして、2年で2%の物価上昇を達成するとしたが、達成目標年度を何回も先送りしているではないか。消費が盛り上がらないのは可処分所得が増えていないからだろう。確かに賃金は上昇傾向にあるが、一方で年金掛け金など社会保険の負担も増え続けている。ではどうすればよいか。有権者が案じている経済、外交、安全保障の暗雲を政策論争を通じて晴らしてほしいものだ。

⇒24日(金)朝・金沢の天気     くもり時々あめ

★豪雪、豪雨、そして「災暑」

★豪雪、豪雨、そして「災暑」

           アメリカのCNNテレビのニュースが、大型のハリケーン「レーン」がハワイに接近していて、ハワイ島はきょう(23日)夜にも暴風圏に入る恐れがあり、州知事は非常事態を宣言したと伝えている。日本でも「W台風(19、20号)」が西と東で並んで日本列島を通過する。今夜から北陸でも風が強まりそうだ。このとろの異常気象が世界中で猛威を振るっている。

    きょうも金沢は35度を超える猛暑日だ。きのう小松市で観測史上最高の38.6度まで上がった。直射日光に焼け付くような痛さを感じる。1時間ほど駐車場に置いておいた自家用車のドアを開けると、車内から熱風が吹き出し、入れない。しばらく前後のドアを開けて待ち、それから運転席に着き、エアコンを最大限にしてようやく運転開始。それでも車内が熱い。「車は走るかまど」とはよく言ったものだ。県内のニュースによると、きのう県内で21人が熱中症の疑いで病院に搬送されている。

    ことしのブログのテーマは「異常気象」扱ったものが多い。2月9日付では、豪雪について書いた。金沢でも1㍍を超える大雪となった。ところが、気温が上がり、今度はまとまった雨が降るという。雪国で生活する者の直感として不安感がよぎる。屋根に積もった大量の雪にさらに雨が降れば、どれだけの重さが家屋にのしかかってくることか、と。屋根の瓦には雪止めがしてあって、自然には落ちてこない。屋根雪降ろしをして、木戸を開けると、背丈をはるか超える、まるで南極のような雪壁が迫っていた=写真・上=。

    7月10日付は西日本豪雨について書いた。「死者126人 平成最悪」と新聞の見出しは白抜きベタで伝えている。西日本豪雨での大雨特別警戒は全て解除されたものの、その後の被害は日々拡大している。昨日付の紙面では104人だった死者がきょう付で126人だ。安否不明者は86人もいる。先週5日に気象庁が「記録的な大雨になる恐れがある」と呼びかけたが、「平成最悪」になるとは想像すらできなかった。

    豪雪、豪雨、そして猛暑日。7月30日付では「災暑日」について述べた。気象庁は天気予報や解説などで予報用語を使っているが、最高気温が35度以上の日を「猛暑日」と定義して、2007年4月から使っている。これまでは最高気温が30度以上の日を「真夏日」としていたが、最高気温が35度以上の日が1990年以降急増したため、レベルアップした用語が必要となったからだ。熊谷市で41.1度を記録した23日、気象庁の予報官が記者会見でこう述べた。「命に危険をおよぼすレベルで、災害と認識している」と。深刻な発言に思えた。40度以上の日、これを「災暑日」と名付け予報用語としてはどうか。

    異常気象はすでに「気象災害」と化している。加えて、大地震などの地殻変動も世界各地で頻繁に起きている。我々の地球はどこに向かっているのか。ふと、そんなことを考えてしまう。

⇒23日(木)午後・金沢の天気    はれ(猛暑日)

☆石破語録「よそ者、若者、ばか者」

☆石破語録「よそ者、若者、ばか者」

   きょう(10日)自民党の石破茂氏が午後4時から国会内で記者会見し、9月の党総裁選への立候補を正式に表明した。連続3選を目指す安倍晋三氏との一騎打ちとなる公算が大きいとメディア各社が報じている。党総裁選は6年ぶりの選挙戦となる見通し。前回2015年9月は無投票で安倍氏が再選、2012年9月は決戦投票で「安倍108、石破89」の接戦だった。安倍氏も石破氏の政治手腕や見識を評価していて、党幹事長や内閣府特命担当大臣(地方創生担当)に抜擢している。

   その石破氏とちょっとした出会いがある。私は大学で大学版地方創生推進事業(COC+)を担当しており、学生たちに授業の一環として視聴してもらうビデオ「地域創生概論-いしかわで学ぶ未来可能性」を作成していたときだ。地方創生大臣だった石破氏が講演に金沢市を訪れるとの情報を得て、内閣府を通じてインタビューを申し込み承諾された。インタビューは2016年2月7日、 場所は障がい者施設や児童養護施設、ケア付高齢者住宅などの複合型施設「シェア金沢」で。

Q:地方創生にはどのような人材が必要なのですか
石破大臣:昔から地域を変えるのは「よそ者、若者、ばか者」と言われ、外から新鮮な目で見ることが一つの要素なんです。若い感性とは、たとえばPCが使える、外国語が使えること。ばか者はこれまでの既成概念にとらわれない新しい考え方を持つこと。学生はそのすべてを持っている人が多いし、チャレンジ精神旺盛な方を求めたい。

Q:地域で活躍する若者に対して期待することは何ですか
石破大臣:地方は東京と違い、行政との距離が近い。地域の特性を最大限に活かして金沢の大学が未来を作っていくのか。この国の未来は「学生」に創ってもらわないといけない、今はそんな時代です。明治維新など、歴史の変わり目に常に若者がいるというのはそういうことなんです。

Q:地域の大学に期待することは何ですか
石破大臣:「象牙の塔」にならないこと。大学が持つ本来の真実を探求する心は忘れないでほしい。今は「地方が日本を変える時代」、その責任感や使命感、学生にはそんな感性を持って欲しい。

   10分足らずの単独インタビューだったが、石破氏は淡々と答えた。無駄のない、理路整然とし、そして奥が深い内容だった。冒頭での「よそ者、若者、ばか者」は意外な言葉だったが、印象的だった。確かに、よそ者=客観性、ばか者=専門性、若者=エネルギーは歴史の転換点を担ってきた。石破氏もテレビ出演などで「国防がライフワーク」と語ってきたように、外交や安全保障に精通する政策通で、ある意味で「ばか者」ぶりを印象付けてきた。 

   9月の総裁選に向けて、石破氏は「ばか者」ぶりを発揮すればよいではないか。つまり、外交や安全保障政策について、安倍政権の不確実性を指摘して、トランプ大統領との日米同盟でこの国の安全保障を真に託せるのかと問うべきだ。そこを突けるのは石破氏しかいない。報道では、森友・加計学園問題をめぐる安倍総理の政権運営を念頭に、石破氏が「正直、公正」な政治姿勢を対立軸に据えるとしているが、野党の使い古しで争点とすれば弱い。むしろ「いつまでトランプに頼っているのか」と安倍氏の外交・安全保障を対立軸として明確にすれば、党内でも議論が起き、総裁選も面白くなるのではないか。私は一票を持っていないが。

⇒10日(金)夜・金沢の天気     くもり

★「平成最悪」の豪雨

★「平成最悪」の豪雨

    「死者126人 平成最悪」と新聞の見出しは白抜きベタで伝えている。西日本豪雨での大雨特別警戒は全て解除されたものの、その後の被害は日々拡大している。昨日付の紙面では104人だった死者がきょう付で126人だ。安否不明者は86人もいる。先週5日に気象庁が「記録的な大雨になる恐れがある」と呼びかけたが、「平成最悪」になるとは想像すらできなかった。

    堤防が決壊した岡山県倉敷市真備町の空から映像をテレビで見たが、まさに泥海に水没した街だった。屋根の上から、登った樹木から助けを求める人、実に痛々しかった。4階建ての病院から入院患者や避難住民がボートやヘリコプターを使って救助が続けられているのを見て、ビルなどの建築物の必要性を改めて感じた。

    地場産業への打撃も深刻だ。岡山県総社市でアルミニウム工場への浸水で溶解炉が爆発した。山口県岩国市で有名な日本酒「獺祭(だっさい)」の蔵元のホームページによると、「豪雨により岩国にある本社・酒蔵に浸水と停電による被害を受けました。」「 本社隣接の直営店 獺祭ストア本社蔵はしばらくの間営業中止とさせて頂きます」とあった。一升瓶(1.9㍑)換算で90万本分の製造に影響が出て、ストアの被害など設備を含めた被害総額は15億円になり、製造再開には2ヵ月半ほどかかるという。このほか、農林水産業など一次産業を始め、加工、流通の2次、3次産業にも多大な被害を与えていることは想像に難くない。

    高速道路の山陽道の福山西IC―広島ICの通行止めや、JR貨物の山陽線の兵庫―山口間と、予讃線の香川―愛媛間でJR貨物が運休している。復旧が遅れることになるればそれだけ、東日本から九州への物流にも影響が出るだろう。

     先月6月7日に土木学会が発表した数字を思い起こす。今後30年以内に70-80%の確率で発生するとされる「南海トラフ地震」がM9クラスの巨大地震と想定すると、経済被害額は最悪の場合、20年間で1410兆円(推計)に達すると。倒壊などによる直接被害は169兆5千億円、それに加え、交通インフラが寸断されて工場などが長期間止まり、国民所得が減少する20年間の損害額1240兆円を盛り込んだ数字だ。

     1410兆円という数字を目にした時は数字が「躍っている」との印象だったが、政府が発表した「南海トラフ地震防災対策推進基本計画」(2014年3月28日)に目を通してみる。M9クラスの巨大地震を想定した場合の「減災目標」を「想定される死者数を約33万2千人から今後10年間で概ね3割減少させること、また、物的被害の軽減に関し、想定される建築物の全壊棟数を約250万棟から今後10年間で概ね5割減少させる」と掲げている。いま、南海トラフ巨大地震が起きれば最悪30万人余りの命が失われるのだ。暗い話になってしまった。

⇒10日(火)午前・金沢の天気   はれ

☆「麻原」か「松本」か、躍る見出し

☆「麻原」か「松本」か、躍る見出し

    「オホーツク海高気圧」と「太平洋高気圧」ががっぷり四つ状態になって梅雨前線が激しを増し、そして長時間居座っている。あの「ゆずぽん酢」で知られる高知県馬路村では3日間で1200㍉を超える降水量を記録したというから驚きだ。そんな中、法務省が6日午前に、坂本堤弁護士一家殺害事件(1989年11月)、長野県松本市でのサリン事件(1994年6月)、東京の地下鉄サリン事件(1995年3月)など一連のオウム真理教による犯行の首謀者、松本智津夫死刑囚らの刑を執行したとのニュースをテレビの速報テロップで知った。

    当時金沢のテレビ朝日系「北陸朝日放送」の報道デスクとして「オウム真理教」事件とはさまざまな場面でかかわった。当時、テレビ映像の露出は頻繁だった。あの電極が付いた「ヘッドギア」は「カルト教団」を強く印象づけた。オウム真理教への取材で最初のかかわりは1992年10月だった。石川県能美市(当時・寺井町)の油圧シリンダーメーカー「オカムラ鉄工」の社長に麻原彰晃が就いて記者会見をした。社長が信者で資金繰りの悪化を機に社長を交代した、という内容だった。ほとんどの従業員は教団の経営に反発して退職し、代わりに信者が送り込まれていたので「教団に乗っ取られた」と周囲の評判は良くなかった。まもなく会社は事実上倒産。会社の金属加工機械などは山梨県の教団施設「サテイアン」に運ばれていた。その後の裁判で、金属加工機械でロシア製カラシニコフAK47自動小銃を模倣した銃を密造する計画だったことが明らかになった。

    1995年3月20日の地下鉄サリン事件の実行犯だった医師の林郁夫らがレンタカーで逃げた先が能登半島・穴水町の海辺の貸し別荘だった。4月7日、一緒に身を隠した信者の一人が別荘の近くで警官の職務質問を受け逮捕された。テレビのニュースで知った林郁夫は盗んだ自転車で貸し別荘を出て、金沢方面に向かう途中で警官の職務質問を受けて逮捕された。一緒に逃げた公証人役場事務長拉致監禁死事件(1995年2月)の実行犯・松本剛は翌月5月に大阪・堺市で逮捕された。

    では林郁夫らはなぜ能登半島に逃げたのか、さまざまな憶測が当時飛び交った。オウム真理教は1992年9月にモスクワに支部を開設し、ソビエト連邦の崩壊(1991年12月)で混乱する現地で信者を獲得していた。当時、極東ウラジオストクと富山湾を北洋材(シベリア木材)を積んだロシア船が行き来しており、ロシアに密入国するチャンスをうかがっていたのではないか、と。当時のモスクワ支部長は上祐史浩が兼務していたこともあり、「彼だったら、そのくらいのことは考えるだろう」という推測に過ぎなかったのだが、「ロシア逃亡説」はまことしやかに流れていた。その後の林郁夫の全面自供により地下鉄サリン事件の全容が明らかになり、検察は死刑ではなく無期懲役を求刑した。

    死刑執行の当日の夕刊を購入した。ある新聞の一面は「麻原死刑囚 刑執行」、別の新聞は「松本死刑囚 刑執行」の白抜きベタの大見出しが躍っている。この紙面を若い学生たちがコンビニで見て不思議に思っただろう。「どちらが本当なのか」と。本名は松本智津夫、教祖名は麻原彰晃。シアニの世代には麻原の方が通りはよい。ただ、刑の執行名では松本だ。翌日7日の全国・ローカルの朝刊7紙を比較すると、「松本」5、「麻原」2だった。別に購入したスポーツ系の2紙とも「麻原」だった。読者への衝撃度を考慮すると「麻原」なのだろうか。

    ちなみにイギリスのBBCテレビのWeb版では、「Seven members of the Aum Shinrikyo doomsday cult which carried out a deadly chemical attack on the Tokyo underground in 1995 have been executed, including cult leader Shoko Asahara.」と伝え、「麻原」だった。

    「平成」の時代に象徴的な事件だった。平成も来年2019年4月末をもって終わる。平成のうちに事件を終幕としたかったのだろう。刑の執行命令書に署名した上川陽子法務大臣が臨んだ記者会見(6日)。慎重な言葉選びに、かすかにそのような想いを感じた。

⇒7日(土)夜・金沢の天気   くもり

☆大浦天主堂の石畳

☆大浦天主堂の石畳

    ユネスコの世界文化遺産に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本県)が登録されることになったとテレビ各局がニュースで伝えている。この朗報に接して脳裏に浮かぶのは「大浦天主堂」だ。2006年3月に家族旅行で訪れた。

    案内の男性ガイドが分かりやすく説明してくれたのを覚えている。豊臣秀吉の時代から徳川幕府と続いたキリスト教禁教令で「隠れキリシタン」たちは、表面は仏教徒を装いながら代々伝え聞いた信仰を守り通した。幕末に長崎の外国人居留地にやってきたフランス人宣教師たちが1864年に大浦天主堂を建造。翌年公開が始まると、隠れキリシタンたちが見学者に紛れて天主堂やってきた。まだ禁教令下だった。「サンタ・マリア様の御像はどこですか」と小声でフランス人神父に尋ねた。実に七世代、250年もの隠れキリシタンの存在を知って驚いた神父はフランス、ローマに報告した。宗教史上、類まれなこの出来事が世界に広がった。

    実は「長崎」にはちょっとした個人的にも思い入れがある。宴席でカラオケの順番が巡ってきて、「何か歌って」とせかされて歌うのが、内山田ひろしとクールファイブの『長崎は今日も雨だった』だ。「行けどせつない石畳~」と歌い、自分をカラオケモードに切り替える。

     この歌の場所は、オランダ坂を上がり、大浦天主堂、グラバー邸入り口にかけての石畳なのだ=写真=。現地で初めて理解ができたことなのだが、長崎は「坂の街」である。石畳を敷き詰めないと雨で路肩が崩れてしまう。しかも傾斜が急なところも多い。これは想像だが、天主堂の建設と併せて石畳の舗装も進められたとすれば、隠れキリシタンたちも石畳を歩いたに違いない。どのような思いで石畳の向こうの天主堂を眺めたのだろうか。写真はそのようなことを思いめぐらし撮影した一枚だった。

   天主堂前の石畳の坂道を少し上ると「グラバー邸」に着く。長崎湾を見下ろす高台だ。イギリス人貿易商トーマス・グラバー。長崎が開港した安政6年(1859)に日本にやって来た。若干21歳。2年後にグラバー商会を設立し、同時に東アジア最大の貿易商社だったジャーディン・マセソン商会の代理店になった。大資本をバックに武器の取り扱いを始める。

    グラバーに接近したのは坂本龍馬だった。龍馬は、幕府から睨まれている長州藩が武器の購入を表立ってできないのを知り、自ら設立した亀山社中を通して薩摩藩名義で武器を購入、それを長州藩に横流しするという「ビジネスモデル」を思いつく。グラバー商会から購入した最新銃4300丁と旧式銃3000丁が後に第二次長州征伐である四境戦争などで威力を発揮し、長州藩を勝利へと導く。それがきっかけで薩長を中心とした勢力が明治維新を打ち立てる原動力となっていく。龍馬ファンの間では知られたストーリーではある。

    グラバー邸と天主堂は直線距離にして70㍍ほど。龍馬は石畳で立ち止まり、2つの建築物を眺めて西洋という世界を実感し、新たな時代へのイメージを膨らませたに違いない。天主堂の神父と隠れキリシタンたちの劇的な出会いから2年後の1867年12月に龍馬は京都で暗殺される。「行けどせつない石畳~」。歌うたびに天主堂前の石畳がまぶたに浮かぶ。

⇒1日(日)朝・金沢の天気     はれ

 

☆秀吉の「なまつ大事」

☆秀吉の「なまつ大事」

      大学で担当している授業「マスメディアと現代を読み解く」で、今月18日に起きた大阪北部を震源とする地震をテーマに取り上げた。20日の講義は「震災とマスメディア(上)」。講義のつかみの一つに豊臣秀吉が体験した2度の地震を取り上げた。学生に紹介した文献は平凡社新書『秀吉を襲った大震災~地震考古学で戦国史を読む~』(寒川旭著、2010)。
       1596年9月に慶長伏見地震があり、このとき秀吉は伏見城(京都市伏見区)にいた。太閤となった秀吉は中国・明からの使節を迎えるため豪華絢爛に伏見城を改装・修築し準備をしていた。その伏見城の天守閣が揺れで落ち、城も崩れた。それほど激しい地震だった。慶長伏見地震にまつわる秀吉の伝説がある。誰かが混乱に紛れて刺殺に来るのではないかと、秀吉は女装束で城内の一郭に隠れていたとか、建立間もない方広寺の大仏殿は無事だったが、本尊の大仏が大破したことに、秀吉は「国家安泰のために建てたのに、自分の身さえ守れぬのならば民衆は救えない」と怒りを大仏にぶつけ、解体してしまったという話まで。災難を通して秀吉という天下人の人格が浮かび上がる。

   慶長伏見地震の10年前にも秀吉は地震に遭遇している。中部地方の広い範囲を襲った1586年1月の天正地震。このとき秀吉は琵琶湖に面する坂本城(滋賀県大津市)にいた。当時、琵琶湖のシンボルはナマズで、ナマズが騒いだから地震が起きたと土地の人たちの話を聞き、秀吉は「鯰(ナマズ)は地震」と頭にインプットしてしまった。その後、伏見城を建造する折、家臣たちに「ふしミ(伏見)のふしん(普請)なまつ(鯰)大事にて候まま、いかにもめんとう(面倒)いたし可申候間・・」と書簡をしたためている。現代語訳では「伏見城の築城工事は地震に備えることが大切で、十分な対策を講じる必要があるから・・・」(『秀吉を襲った大震災』より)と。

   実際にどのような地震の備えが伏見城に施されたのかは定かではないが、秀吉が自らの体験で得た防災意識を建築に取り込んだことが見て取れる。それでも、前述したように伏見城は慶長伏見地震で天守閣などが倒壊した。この地震も今回の大阪北部地震が起きた「有馬―高槻断層帯」の延長線上にある(19日付・朝日新聞)。

   秀吉の「なまつ大事にて候」の一文は時を超えて安政江戸地震(1855年11月)に伝わる。余震に怯える江戸の民衆は、震災情報を求めて瓦版を買い求めたほか、鯰を諫(いさ)める錦絵を求めた。地震(鯰)が治まってほしいと願う、当時の民衆の不安心理を象徴する購買行動でもある。当時の民間伝承の多様な鯰の絵は、後に「鯰絵」という浮世絵アートの一角を築くほど多く描かれた。

   大地震、さらに幕末から明治維新へと激動する時代、民衆の情報に対する欲求が格段に強まる。安政江戸地震から16年後、1871年に「横浜毎日新聞」が日本で最初の日刊紙として創刊される。これが日本のマスメディアの発達の黎明期となる。(※写真は、2007年3月の能登半島地震の被災地=輪島市門前町)

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