⇒ドキュメント回廊

★2011ミサ・ソレニムス-1

★2011ミサ・ソレニムス-1

 昨夜(23日)金沢市の石川県立音楽堂コンサートホールで開催された、荘厳ミサ曲(ミサ・ソレムニス)の演奏を聴きにいった。地域の県音楽文化協会が主催する年末公演で50周年記念だという。歴史を刻んでいる。ある意味で季節の恒例のイベントとして定着しているのか、1階と2階の観客席はほぼ埋まっていた。ステージもにぎやかだった。ソリスト(ソプラノ、アルト、テナー、バス)と混声四部合唱の歌声、それに石川フィルハーモニー交響楽団と韓国の音楽大学の編成による演奏者が旋律を奏でる。演奏時間は80分。演奏はベート-ベンらしい激しい高揚感、そして建築物のように緻密で清明感にあふれる曲構成、決して「長い」とは感じなかった。むしろ、演奏を聴きながら2011年を振り返るよいチャンスにもなった。「2011ミサ・ソレニムス」と題して、この1年の回顧録を。

          人は自然災害とどう向き合えばよいか…畠山重篤さんの語り

 荘厳ミサ曲は、葬送曲のレクイエム(鎮魂ミサ曲)とは異なる宗教音楽のジャンルだが、厳かな旋律を聴くと東日本大震災での犠牲者の方々を想う。「2011年3月11日(金)午後2時46分発生、マグニチュード 9.0、最大震度7、津波の波高最大37.38m(岩手県田老町)、死者1万5840人(行方不明3546人)12月2日現在」

 震災2ヵ月後の5月11日に東北に入り、取材した。その折、宮城県気仙沼市に在住するカキ養殖業、畠山重篤さん(NPO法人森は海の恋人代表)を訪ね、石川県での講演のお願いをした。それが9月2日に輪島市で開催した「地域再生人材大学サミットin能登」(能登キャンパス構想推進協議会主催)の基調講演というカタチで実った。講演内容は今でも心に深くとどまっている。人は自然災害とどのように向き合っていけばよいのか。畠山さんの話を掘り起こしてみる。以下要約。
                   ◇
 3月11日、仕事をしていた最中に地震があった。この数年地震が多く、「地震があったら津波の用心」という碑が道路などあるが、「またか」という気持ちもあった。地震から津波まで30分ほど間があったので、自宅に大事な物を取りに戻った方もいた。しかし、30分後に巨大津波が押し寄せた。三陸は、吉村昭(作家)の『三陸海岸大津波』にもあるように、津波の歴史を持つ地域だ。私も50年前、高校2年生の時にチリ地震津波を経験していて、今回はチリ地震津波くらいのものが来るのかなという感覚はあった。気仙沼の南にある南三陸町はチリ地震津波で死者が50人ほど出たため、防潮堤を造るなど津波対策を施したが、それはあくまでチリ地震津波の水位を基準にしたものだった。ところが今回の津波は、チリ地震津波の約10倍にもなるようなものだった。

 私の家は海抜20㍍近くだが、自宅すぐ近くまで津波は押し寄せた。日本海側の方々は津波のイメージがなかなかわかないと思う。台風が来てシケになると大波が打ち寄せるが、波の連動が伝わってきて、波頭が打ち当たる。津波はそうではなく、海底から水面までが全部動く。昨晩、海辺の温泉のホテルに泊まらせていただいた。窓を開けるとオーシャンビューで、正直これは危ないと思った。4階以下だったら、山手の民宿に移動しようかと考えたが、幸い8階と聞き安心した。温泉には浸かったが、安眠はできなかった。あの津波の恐怖がまだ体に染み込んでいる。

 過去に10㍍の津波を経験している地域は日本各地にある。日本海側は、太平洋側よりは津波の規模は小さいと思うが、覚悟はしておくべき。皆さんは、いざというときは海岸から離れればよいと思っているかもしれないだが、いくら海岸から離れても、あくまで津波というのは高さなので、絶対に追いつかれてしまう。だから、海辺に暮らしている方は、どうすれば少しでも高い所に逃げられるかを念頭に置いた方がいい。

 地域再生を考えるとき、人口が減る、仕事がない、農業・漁業が大変だという諸問題が横たわっている。しかし、それ以前に沿岸域の場合は津波に対してどういう備えをするかが第一義だと考える。三陸はリアス式海岸だが、どんな小さい浦々も一つも逃れようがなく全滅だった。盛岡の岩手医大の先生が言うには、震災の晩、大勢のけが人が出るからと病院に指示をして、けが人を受け入れる準備をした。ところが、けが人は一人も搬入されなかった。津波では、けが人はいない。死ぬか生きるかになる。そういう厳しさがある。地域づくりをする前に、もし大津波警報が発令されたらまずどの高さの所に逃げるか、山へ行くのかビルに行くのかを考える。そこから出発しなければいけないと思う。

 津波が起きてしばらくは、誰もが元の所に帰るのは嫌だと言っていた。しかし、2ヵ月くらいすると、徐々に今まで生活した故郷を離れられないという心情になってきた。ただ恐れていたのは、海が壊れたのではないかということだった。震災後2カ月までは海に生き物の姿が全く見えなかった。ヒトデやフナ虫さえ姿を消していた。しかし2ヵ月したころ、孫が「おじいちゃん、何か魚がいる」と言うので見ると、小さい魚が泳いでいた。その日から、日を追ってどんどん魚が増えてきた。京都大学の研究者が来て基礎的な調査をしているが、生物が育つ下地は問題なく、プランクトンも大量に増えている。酸素量も大丈夫で、水中の化学物質なども調べてもらったが、危ないものはないと太鼓判を押してもらった。これでいけるということで、わが家では山へ行ってスギの木を切ってイカダを作り、カキの種を海に下げる仕事を開始した。

 塩水だけで生物が育つわけではなく、私たちの気仙沼の場合は、川と森が海とつながる「森は海の恋人」運動を通して自然の健全さを保ってきた。海のがれきなどの片付けが終わればあっという間に海は戻ってくる。これが希望だ思っている。森と川の流域に住んでいる人々の心が壊れていれば、漁師はやめるしかない。しかし、森と川と海が健全なので、大丈夫だなという気持ちが盛り返して、今、再出発が始まっている。

⇒24日(土)朝・金沢の天気  はれ

☆ワインとカキの循環

☆ワインとカキの循環

 今月10日の日曜日、「能登ワイン と能登牡蠣のマリアージュ体験ツアー」と銘打ったバスツアーに参加した。金沢在住のソムリエ、辻健一さんが企画した。マリアージュはフランス語で結婚という意味で知られるが、もう一つ、「ワインと料理の組み合わせ」という意味もある。つまり、能登で栽培、生産されているワインと、いまが旬の海の幸・カキを食する旅ということになる。金沢から30人が参加した。

 最初の訪問地は能登ワイン株式会社(石川県穴水町)。2000年からブドウ栽培をはじめ、2006年より醸造を開始している。初出品した国産ワインコンクールで、「能登ロゼ」(品種マスカットベリーA)が銅賞(2007年)、「心の雫」(品種ヤマソーヴィニヨン・赤)が銅賞(2010年)、そして、ことし2011年で「クオネス」(品種ヤマソーヴィニヨン・赤)が銀賞を受賞した。年々実力をつけている。

 すでに収穫は終わっていたが、17㌶に及ぶブドウ畑を見学した。能登は年間2000㍉も雨が降る降雨地でブドウ栽培は適さないと言われているが、適する品種もある。それがヤマソーヴィニヨン。日本に自生する山ブドウと、赤ワイン主要品種カベルネ・ソーヴィニヨンの交配種で、山梨大学が研修者が開発した日本の気候に合うブドウ品種だ。実際、ヤマソーヴィニヨンは成長がよく、1本の木で15㌔から20㌔のブドウの実が収穫される。ワイン1本(720ml)つくるには1㌔の実が必要とされるので、実に15本から20本分になる。

 さらに興味深いのは、穴水湾で取れたカキの殻を畑に入れ、もともとの酸性土壌を中和しながら栽培していることだ。1年間雨ざらしにして塩分を抜いたカキ殻を土づくりに活用している。参加者が感動するはこうした循環型、あるいは里山と里海のマリアージュ(連環型)かもしれない。ブドウ畑は自社農園をはじめ一帯の契約農家で進められ、栽培面積も年々増えている。ヨーロッパスタイルの垣根式で約20品種を栽培し、剪(せん)定や収穫は手作業だ。

 醸造所を見学した=写真・上=。ここのワインの特徴は、能登に実ったブドウだけを使って、単一品種のワインを造る。簡単に言えば、ブレンドはしない。もう一つ。熱処理をしない「生ワイン」だ。さらに詳しく尋ねると、赤ワインならタンクでの発酵後、目の粗い布で濾過し、樽で熟成する。さらに、瓶詰め前に今度は微細フィルターを通して残った澱(おり)を除く。熱処理するとワインは劣化しないが熟成もしない。熱処理をしない分、まろやかに、あるいは複雑な味わいへと育っていく。もう一つ。能登の土壌で育つブドウはタンニン分が少ない。それをフレンチ・オークやアメリカン・オークの樽で熟成させることでタンニンで補う。するとワインの味わいの一つである渋みが加わる。そのような話を聞くだけでも、「風味」が伝わってくる。

 ツアーのクライマックはカキ料理だった。ソムリエの辻さんは「能登カキには赤が合うか、白が合うか、自分で確かめてください」と。魚介類だと白という感じだが、焼きガキ=写真・下=だと赤が合うような感じがする、カキフライだとシャルドネ(白)かなとも思う。いろいろ語り合い、食するうちに酔いが回り、マリアージュが完結する。

⇒13日(火)朝・金沢の天気   くもり

☆台湾旅記~5~

☆台湾旅記~5~

 帰国する6日、台湾の国立故宮博物院(台北市士林区)=写真=を見学した。山中にあるが、付近は高級住宅街が広がる。第二次世界大戦後、国共内戦が激化し、中華民国政府が台湾へと撤退する際に北京の故宮博物院から収蔵品を精選して運び出した。その数は3000箱、61万点にも及んだ。それが世界四大博物館の一つに数えらるゆえんとされる。

        2つの故宮めぐり、中国の歴史ロマンを彷彿と

 国立台北護理健康大学の教員スタッフが案内してくれた。「まず、キャベツでしょう」と連れて行かれた展示室で見たのが、中国・清朝時代の「翆玉白菜」(写真は国立故宮博物院のホームページから)。長さ19㌢、幅10㌢ほど造形ながら、本物の白菜そっくりだ。とくに日本人にとっても身近な野菜だけに、その色合いが人を和ませる。ヒスイの原石を彫刻して作ったというから、おそらく工人はまずこの色合いからイメージを膨らませ、白菜を彫ったのではないか。これが逆で、白菜を彫れと言われて原石を探したのであれば大変な作業だったに違いない。清く真っ白な部分と緑の葉。その葉の上にキリギリスとイナゴがとまっている。

 博物院では、清朝の康熙大帝とフランスのルイ14世の特別展が開催されていた。解説書では、遠く隔たった2人の君主であったが、フランスのイエズス会宣教師らによって交流が生まれていたという。ルイ14世が康熙帝に宛てた書簡なども展示されていた。また、フランス絵画の影響を受けた中国絵画、中国をモチーフしたフランスの絵画などが展示され、東西の文明が互いに刺激し合ったとの展示のコンセプトがよく見えた。

 1960年代から1970年代に中華人民共和国で起きた文化大革命が起き、封建社会の文化財に対する組織的な破壊活動があった。その歴史から、台湾への所蔵品の移送は貴重な文化遺産を結果的に保護したという意味合いもあったろう。いろいろと思いめぐらせながら故宮博物院を後にした。

 ことし6月に北京を訪れた折、紫禁城(故宮)を見学した=写真=。明朝と清朝の旧王宮である歴史的建造物。「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」の一つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。72㌶の広大な敷地に展開する世界最大の宮殿の遺構だ。1949年、毛沢東は城門の一つである天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。訪れたとき、この現代中国の歴史的なシンボルの場所で、突然激しく叩きつけるような風雨に見舞われた。雷鳴とともに逃げ惑う多数の観光客の姿はまるで映画のシーンのようだった。

 この半年で、北京では紫禁城(故宮)を半日かけて歩き、台北では国立故宮博物院の名品の数々を鑑賞する機会に恵まれた。この二つの体験が、故宮をめぐる中国の歴史ロマンを彷彿(ほうふつ)とさせる。

⇒15日(火)夜・金沢の天気   あめ

★台湾旅記~4~

★台湾旅記~4~

 5日午後、今回の台湾訪問の主な目的である国立台北護理健康大学=写真=旅遊健康研究所(大学院ヘルスツーリズム研究科)での講義。講義内容を簡単に説明すると、日本の温泉ツーリズムは「温浴効果」と「もてなし」による「癒し」である。海外でも温浴効果の高い温泉はあちこちにある。これに「もてなし」というメニューを加わえたのが日本流である。その「もてなし」の独自の進化が能登にある。以下、講義の概略を。

            「もてなしのDNA」あえのこと

 毎年12月5日、もてなしの原点といわれる農耕儀礼「あえのこと」が行われる=写真・下=。「あえ」は晩餐会の餐、「こと」は祭りで、食してもてなす、ご馳走でもてなすという意味。あえのことは、田に恵みをもたらす「田の神様」の労苦をねぎらって、その家に迎え、ご馳走でもてなす儀礼である。家の主は、田に神様を出迎えに行き、家の中に招き入れて、足を洗ってさしあげ、お風呂に入れて、ご馳走でもてなす。甘酒やタイの尾頭を並べて、「神様、どうぞお召し上がりください」ともてなす。しかも、その家々でもてなし方が異なる。なぜか。

 この田の神様には特徴がある。田の神様は稲穂で目を突いて、目が不自由であるという設定になっている。どちらか片方が不自由であったり、両目という場合、夫婦そろって不自由という、家々によってその設定が異なっている。目が不自由な神様をおもてなしするためにどうすればよいのか、それぞれ家々で考える。神様が転ばないように「神様、敷居が高いのでまたいでください」と本当に手を引くようにして座敷まで迎えたり、「どうぞ、お風呂でございます。熱いです」といって目の不自由さを家の主がカバーしいる。「もてなし」をホスピタリティ(hospitality)と訳する。あえのことは病院での介護や介助に近い意味合いのもてなし方になる。しかも、自分の家の構造によって、それぞれもてなし方が違う。自らイマジネーションを膨らませ、自身が不自由であったと仮定すれば、どのように介助してほしいかとあれこれ自ら考えることになる。全知全能の神様であったり、不自由さがない神様だったら一律でパターン化された儀礼になっていたかもしれない。

 健常者と障がい者の分け隔てのない便宜の提供をユニバーサル・サービスと称するが、あえのことはその原点とも言えなくもない。衣料品販売のユニクロは1店舗に1人の障がい者を従業員として雇い、日ごろから職場全体でその従業員がスムーズに働けるよう周囲が気配りや目配りをする。このトレーニングがあってこそ、障がいを持ったお客が訪れても普通に接することでできるようになる。 

 能登の各地では五穀豊穣を願う、感謝する祭りが盛んで、ヨバレという風習がある。地域外の親戚や友人、会社の同僚を家に招き、ゴッツオ(ご馳走)でもてなす。このもてなしの風土が能登で熟成された。この能登半島のもてなし、お祭り文化をサービス産業としてプロ化したのが和倉温泉と言える。和倉温泉の加賀屋は、「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」で31年連続1位に選ばれている。加賀屋の小田禎彦会長に講義をいただいた(2008年7月)。「サービスの本質は正確性とホスピタリティ」、「三河人の生真面目さがトヨタを世界一の自動車メーカーに押し上げた。能登人のもてなしの心、祭りの風土が加賀屋を日本一に押し上げてくれたと思っている」との言葉が印象的だった。

 旅館やホテルは、設備や施設も必要条件だが、もてなしの心を持った人々がその旅館にどれだけいるかという、その数、質の高さで決まる。加賀屋をはじめ和倉温泉には、能登人という「もてなし」の精神にあふれた人の集積があり、その風土(バックボーン)がある。いまでも能登の子供たちは、幼いころからお客さまへの扱いをトレーニングされ、また祭りに招かれたときの作法を心得える。つまり、ホスト、ゲストを繰りかえしながら人間として成長する。都会の家庭では得難いトレーニング(もてなしの作法)を受けて育っている。

 この「あえのこと」はユネスコの無形文化遺産登録に登録された(2009年9月)。そしてことし2011年6月に国連食糧農業機関の世界農業遺産(GIAHS=Globally Important Agricultural Heritage Systems)に認定された。あえのことがGIAHS認定の文化的なファクターとして寄与した。能登のもてなしの風土は、「能登はやさしや土までも」と表現される。台湾の北投温泉に加賀屋のフランチャイズ店ができて、接待係の従業員の立居、振る舞いを昨日、垣間見ることができた。見ていると実に心地いい。「もてなしのDNA」がこの地にしっかり根付くことを願っている。

⇒13日(日)朝・金沢の天気   あめ

☆台湾旅記~3~

☆台湾旅記~3~

 5日朝、ホテルがある台北市天母地区の周辺を散歩した。市内の商店街やオフィス街の通りアーケードのようになっている。日本のアーケードのように、通りに屋根をつけるのではなく、建物の一階の道に面している部分を通路として提供しているという感じの造りで、店と店の間口によって段差がある。このアーケード通りには統一規格というものがない。よそ見しながら歩くと段差でこけたり、つまづく。間口が小さく奥行きもなさそうな商店もあり、建築設計や耐震構造に問題はないのかと、つい思ったりもした。

       食材市場を覗くと、「越光米」も「松葉蟹」も

 この天母地区というのは、台北市の北部にあり、日本人学校やアメリカンスクール、大使館などがある、ちょっとした高級住宅街でもある。中心街には日系デパートの高島屋もある。「士東市場」と書かれたビルがあり、のぞくと市民の台所といった感じの食材市場が広がっていた。2階建てで、1階が食材市場、2階がグルメ店や小物店などがずらりと並ぶ。鮮魚の店ではサケやタイ、マグロに並んで食用カエルを盛った皿も並んでいた。冷蔵庫に目をやると「松葉蟹」の冷凍ものも。精肉の店では、店員が烏骨鶏とおぼしき足の黒いニワトリをさばいていた。日本の食材市場と違うのは、その場で解体と処理と販売をする点だ=写真・上=。日本の場合、鮮魚は目の前でさばくにしても、精肉となると客にそこまでは見せないだろう。この市場では、トサカのついたニワトリの首がまな板の周辺に転がっていた。それぞれの国民の感性の違いはあるにしても、精肉の鮮度が「見える化」されていて、それが価値だと思えば、日本人も納得できるかもしれない。

 米屋があった。台湾産、タイ産など並ぶが、地元台湾産で一番値段が高かったのが「鴨間米」で一斤(600㌘)で65台湾ドル。「有機米」とも書き添えられてあったので、カモを水田に放ち、肥料と除草をまかなう栽培方法かと想像した。さらに値段でひと際目を引いたのは「越光米」、コシヒカリである。一斤(600㌘)85台湾ドル、今のレート換算で日本円にして240円ほど。1キロ計算では400円ほど。日本のスーパーマーケットで売られている米の値段と比べても、1キロ400円は高い。

 市場見学の後、台湾の大学関係者に越光米について聞くと、「台湾の富裕層は別として、地元の人はその値段では手が出せない。おそらく駐在の日本人が買うのではないか」と言う。そう言えば、こちらを日本人と見抜いてか、米屋の主人が近寄ってきて、片言の日本語で「電話でゴヨウメイください」と名刺を差し出してきた。ゴヨウメイとは「ご用命」のことか。名刺には赤字で「免費外送」と書いてある。つまり無料で配達しますよとの意味なのだと想像がついた。なかなか商売上手だ。ただ、この越光米は「日の丸」で日本産を強調しているが=写真=、残念ながら日本国内の産地表示がなかった。

⇒9日(水)午後・金沢の天気   くもり

★台湾旅記~2~

★台湾旅記~2~

 フジテレビ系列の番組『花嫁のれん』の第2弾が10月31日から放送が始まった。その11月7日から11日分が、台湾・北投温泉の加賀屋でのロケ分だという。ちなみにこの番組は、金沢の創業百年を誇る老舗旅館「かぐらや」で女将修業に励む奈緒子(羽田美智子)と、しゅうとめ・志乃(野際陽子)の確執が面白い。7日からの番組で出演している仲居さん(接待係)は現地台湾の従業員たち。和服の着こなし、髪結い、言葉遣いがきっちりとしていて、違和感がない。

      加賀屋の「もてなし」のノウハウを注入

 「台湾では、日本語ができて、格式を誇る旅館の最前線の社員ですので、日本でいえばスチュワーデスのような憧れの職業なんです」。 後日、台北・北投温泉の加賀屋を経営する株式会社「日勝生加賀屋」の副社長、徳光重人氏に取材するチャンスを得た。会社は台湾のデベロッパー「日勝生活技研」と日本の「加賀屋」がともに出資する合弁会社だが、主な出資と土地建物の所有は日勝生活技研である。2004年6月に日勝生加賀屋が日本の加賀屋とフランチャイズ契約(20年間)を結び、台湾の加賀屋は建築から料理、もてなしの様式、すべてが日本の加賀屋流だ。

 副社長の徳光氏は日本人ながら日勝生活技研の出向社員である。台湾に移り住んで17年になるという。フランチャズ契約を申し込んだのは台湾側から。「それ以来、開業に当たってずっと台湾と日本の文化摩擦の間に立ってきた」と振り返る。それを乗り越え、昨年2010年12月にオ-プンさせた。日本の加賀屋にとっては海外進出第1号となる。

 加賀屋にも「出店」への思い入れがあった。同社は1906年の創業であり、「100年」という節目を迎えて記念すべきメモリアル事業を起こしたい、また、今後ブランドビジネスを海外に展開していくためにもフランチャイズ契約の成功例をつくりたいという思い。また、北投温泉は明治16年(1894年)にドイツ人商人が発見したといわれ、1896年、大阪人の資本によって北投で最初の温泉旅館「天狗庵」が開業される。その後、日露戦争の際に日本軍傷病兵の療養所が作られ、北投温泉は名実ともに台湾の温泉の発祥の地となる。その天狗庵の跡地を日勝生が取得し、加賀屋が建つことになり、歴史的な意味合いやストーリー性があった。4番目の思いは徳光氏によれば、「加賀屋による台湾への恩返し」である。1990年の日本のバブル崩壊で、投資を先行した温泉旅館はどこも苦境にあえいだ。加賀屋もその例外ではなかったが、15年前、台湾トヨタの外国社員研修が初めて加賀屋で開かれ、そのもてなしが評判となり、ピークで台湾人宿泊者が2万人も訪れるようになった。

 この間、加賀屋も台湾人との接し方、もてなし方のノウハウを蓄積した。たとえば、青畳は日本人では新鮮な香りがして気持ちがよいものだが、台湾人はこの匂いが苦手だ。そのような経験知が生かされ、加賀屋が北投温泉に生まれた。

 開業から11ヵ月、宿泊客の6割は地元台湾から、2割が日本人観光客、そして1割が香港・マカオの客だ。リピーターも増えた。香港の実業家夫妻はこの間13回も宿泊に訪れた。日本のもてなしを心地よく感じてくれる素地が東アジアにはあると徳光氏は手応えを感じている。

※写真は、車のドアを開けたところ、「いらっしゃいませ」と出迎えてくれた接待係の女性従業員たち。車内からのカメラ撮影。和服の着こなし、身のこなしはきっちりと加賀屋流のトレーニングを受けている。それぞれ自分で選んだ源氏を持つ。

⇒7日(月)夜・金沢に天気  はれ

☆台湾旅記~1~

☆台湾旅記~1~

 先日(10月29日)、NHKの夜7時のニュースを見終えると、次に懐かしいメロディーが流れてきた。「NHKのど自慢」のそれ。「おやっ、なぜこの時間に」と思い見ていると、「NHKのど自慢 イン 台湾」とタイトルが出ている。スペシャル番組のようだ。しばらく視聴していると、自慢の歌声やパフォーマンスを繰り広げる日本と同じシーンだ。しかも、演歌からポップスまで幅広いジャンルの歌が披露される。日本語で歌われるのだが、予選を勝ち抜いた25組とあって、歌もさることながら日本語がうまい。演歌の節回しなども堂に入っている。相当歌い込んだのだろう。会場の国父紀念館(台北市)が2000人の観客で埋め尽くされ、テレビ画面からも熱気が伝わってきた。「台湾は近い」。そのとき感じた。それから1週間。きょう4日、台湾・台北市に来ている。その理由は後に述べるとして、初めて訪れたこの地の印象などを「台湾旅記」としてつづってみる。

       北投温泉・加賀屋から見える「観音様の横顔」

   台湾を訪れた目的は、授業だ。台北の大学と交流がある金沢大学のS教授から9月下旬、「能登の里山里海の取り組みやツーリズムについて講義をしてくれる人を探している」と問い合わせがあり、講義のコンセプトなどにやり取りをしていると「それでは能登の里山里海が世界農業遺産(GIAHS)に認定されたこととツーリズムについて、宇野さん、話して」と指名を受けてしまった。講義をする大学は、国立台北護理健康大学の旅遊健康研究所(大学院ヘルスツーリズム研究科)。日程は11月5日、テーマは「世界農業遺産(GIAHS)に登録された能登半島のツーリムズ」と決まった。

  羽田から3時間40分、現地時間4時10分ごろに台北の松山空港に着いた。大学の教員スタッフの出迎えを受け、最初に向かった先は、台北市内の中心分から車で30分ほどの山麓にある北投温泉。ここの「日勝生 加賀屋」=写真・上=を取材に訪れた。日本でも有名な和倉温泉「加賀屋」の台湾の出店である。実は、講義では日本の温泉ツーリズムについても触れてほしいと先方から依頼されている。温泉ツーリズムといえば能登半島の和倉温泉、そして「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」(主催:旅行新聞社)で31年連続日本一の加賀屋を引き合いに出さないわけにはいかない。北投の加賀屋の取材予約はあす5日の夕方だった。まずは挨拶に思い向かったのだが、現地のマネージャーから丁寧に館内を案内され、取材が事実上早まったかたちになった。

  15階の部屋など見せてもらった。通訳の女性が「あれが観音様の横顔ですよ」と指差した方を眺めると、尾根の連なりが確かに観音像が仰向けに横たわった姿に見える。夕焼けに映えて、神々しさが引き立っていた=写真・下=。その後、部屋を出るとき同行した台湾の男性教員がアッと声を出した。部屋の入り口で無造作に脱がれてあった6人の靴がきちんと並べられていたのだ。「これが日本の流儀なのですね」と。

 部屋から廊下に出ると、接待係の和服の女性が笑顔で控えていた。宿泊者でもない、ただの見学者にさえも気遣いをしてくれたのだ。これが加賀屋流の「もてなし」かと、見学を申し込んだ自分自身も恐縮したのだった。

 ⇒4日(金)夜・台北の天気   はれ

☆「ミクロ」の輝き4

☆「ミクロ」の輝き4

 よく手入れされた山が能登半島にある。中でも、能登町宮地・鮭尾地区はキノコが採れる山で知られる。この山を生かして、いろいろな体験ができる=写真=。山菜採り体験、ツリーハウス作り体験、炭焼き体験など都会ではできないコンテンツだ。能登町の農家民宿群「春蘭(しゅんらん)の里」。いまこの集落が注目されている。

       英・BBC放送に挑戦した「春蘭の里 持続可能な田舎のコミュニティ」

 地域おこしを目指す草の根活動を表彰するイギリス・BBC放送の番組「ワールドチャレンジ」。世界中から600以上のプロジェクトの応募があり、「春蘭の里」が最終選考(12組)に残った。題して「春蘭の里 持続可能な田舎のコミュニティ~日本~」。日本の団体が最終選考に残ったのは初めてという。BBCでは現在、12組の取り組みを放映中で、内容は特設サイトでも見られる。投票は同サイトで11月11日まで受け付け、結果は12月に放送される予定。最優秀賞(1組)には賞金2万ドル、優秀賞には1万ドルが贈られる。最優秀賞をかけたインターネット投票を実施中で、地元は「能登の魅力を世界に発信するチャンス。ぜひ投票して欲しい」と訴えている。 

 能登町はことし2月の国勢調査の速報値でも、前回(5年前)調査に比べ人口が10%現象するなど過疎化が起きている。そこで、同町のDさん(63)ら有志が住民が実行委員会を設立し、「春蘭の里」づくりを始めた。1996年のことだ。春蘭の里のキャッチフレーズは「何にもない春蘭の里へようこそ」だが、30の農家民宿がそれぞれ「1日1組」限定で宿泊客を迎え、囲炉裏を囲んだ夕食でもてなす。くだんの炭焼きや山菜採り、魚釣りなどの体験もできることから人気を集め、去年およそ5000人が泊まった。

 春蘭の里実行委員会がBBC放送にエントリーしたのは、突飛な話ではない。去年10月、名古屋市で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)の公認エクスカーション(石川コース)では、世界17ヵ国の研究者や環境NGO(非政府組織)メンバーら50人が参加し、春欄の里でワークショップを繰り広げた。そして今年6月、北京での国連食糧農業機関の会議で「能登の里山里海」が世界農業遺産(GIAHS)に認証され、能登にはある意味での世界とつながるチャンスが訪れている。春蘭の里はこの機会を見逃さずにエントリーしたのだ。

 とはいえ、他の11組は強敵ぞろいだ。ナイル川に咲くスイレンや稲わらなど1050 万トンの農業廃棄物を利用して、ギフトボックスやランプシェイドなどの高級な紙製品を作るエジプトの非営利企業や、パラグアイの先住民と企業が協力して熱帯雨林でハーブティーなどを育てる取り組み、ニューヨークのビルの屋上スペースで農業を行う取り組みが選ばれている。そのほか、「バイオガスエナジー~インド~」、「燃費の良いコンロ~ウガンダ~」、「電気ごみリサイクル~チリ~」、「ユキヒョウを守れ~モンゴル~」、「中古車リサイクル~イギリス~」などがある。予断は許さない。いつも大声のDさんは「番組のアピール効果は大きい。ぜひトップを狙いたい。そして能登に外国人がもっと来てほしい」と投票依頼に余念がない

 春蘭の里の世界への挑戦。地域のチャレンジは人々の輝きでもある。

⇒16日(日)朝・珠洲の天気  はれ

★「ミクロ」の輝き3

★「ミクロ」の輝き3

 去年5月のこと。映画監督を名乗る31歳の女性が珠洲市にある製塩施設「塩田村」を訪ねてきた。人と塩をテーマに映画をつくりたいという。聞けば、スポンサーとなる映画配給会社や広告代理店もない。地元の人は当初、疑心暗鬼だった。でも、近くの民家を間借りして、撮影が始まった。監督自ら炊き出しをしながら(地元からいただた魚や海藻で)、カメラや音声のスタッフとともに炎天下の塩づくりを熱心に撮影し続けた。

          「ひとにぎりの塩」が問う、現代人の忘れもの

 能登の製塩方法は「揚げ浜塩田」と呼ばれる。塩をつくる場合、瀬戸内海では潮の干満が大きいので、満潮時に広い塩田に海水を取り込み、引き潮になればその水門を閉めればいい。ところが、日本海は潮の干満が差がさほどないため、満潮とともに海水が自然に塩田に入ってくることはない。そこで、浜から塩田まですべて人力で海水を汲んで揚げる。揚げ浜というのは、人力が伴う。しかも野外での仕事なので、天気との見合いだ。監督のCさんが魅せられたのは、条件不利地ながら自然と向き合う人々の姿だった。

 今では動力ポンプで海水を揚げている製塩業者もいるが、かたくなに伝統の製法を守る塩士(しおじ、塩づくりに携わる人々)もいる。人がそれこそ手塩にかけてつくる塩、それは人が生きる上で不可欠にして量産には限度がある。これこそ人がつくり出すモノの「最高傑作」ではないのかと、Cさんは気づく。これを数百年間つくり続ける能登の人々。ひとにぎりの塩をつくるために、人はどのように空を眺め、海水を汲み、知恵を絞り汗して、火を燃やし続けるのか。現代人が忘れた、愚直で無欲でしたたかな労働とは何か、と問い続けた。

 さらにことし3月11日、東京で大地震に遭った。電気が止まり、バスや電車がストップした。都市基盤の弱さ。なすすべなく、黙々と歩くしかない人々。Cさんは思った。「脆(もろ)い」。現代文明は市場で約束されたことしかできない。売り買いが成立しなければ、生活すら危うい。それに比べ、能登で目にする人々の生活は売り買いの契約ではなく、「贈与」にあふれている。野菜を魚を、互いに裾分けして助け合う。似ているが物々交換とも異なる。強いていえば、無償の隣人愛なのかと。

 足かけ2年、つい先日、映画は完成した。ドキュメンタリー映画「ひとにぎりの塩」。私はまだ映画を観ていない。ただ、Cさんとの会話から、映画のストーリーを勝手に脳裏に浮かべている。映画には英語字幕もつける予定で、作品を世界に問う。ひょっとして、この映画、現代文明への大いなる問いかけにかるかもしれない。そして、日本人が「能登が日本にあってよかった」と感想を漏らすかもしれない。先行上映会が10月8日に珠洲市である。楽しみにしている。※写真は、「塩田村」のホームページから

⇒4日(火)朝・金沢の天気   はれ

☆「ミクロ」の輝き2

☆「ミクロ」の輝き2

 講演会のチラシなどで、ソーシャル・ビジネス(SB)という言葉を最近よく目にする。地域社会の問題をビジネスを通して解決していくという意味合いだ。では、過疎・高齢化が進む地域ではどのようなビジネスを新たに興せば、その地域が活性化していくのだろうか。これから示す例がSBに当たるかどうか分からない。が、お年寄りたちの目が輝き始めている。

      お年寄りの目を輝かせたい、能登の「サカキビジネス」 

 Bさん(28)は金沢市内の生花店に勤める男性だ。週2日ほど能登半島の北部、能登町で借りている家にやってくる。今年2月に発表された国勢調査の速報値でも、能登半島の北部、「奥能登」と呼ばれる2市2町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)は軒並み5年前の調査に比べ、人口が10%減少している。高齢化率も35%を超え、人手が足りなくなった田畑の耕作放棄率も30%を超える地域だ。

 奥能登では、Bさんの仕事は「サカキビジネス」と呼ばれている。里山の集落を回って、サカキの出荷を呼びかけている=写真=。サカキは、古くから神事に用いられる植物であり、「榊」という漢字があてられる。家庭の神棚や仏壇に供えられ、月に2度ほど取り替える習わしがある。このサカキは金沢などでも庭先に植えている家庭が多い。種類は、ホンサカキとヒサカキの2種がある。

 Bさんのサカキビジネスをさらに詳しく見てみよう。能登では裏山にヒサカキが自生している。これを摘んで束ねて出荷してもらうのだ。サカキは摘みやすく、高齢者でも比較的楽な作業である。これを「山どり」と呼んでいる。さらに、Bさんは、計画出荷ができるようにと、耕作放棄地の田畑に挿し木で植えて栽培することを農家に勧めている。

 この能登産のサカキは、金沢市内では一束150円ほどで販売されている。実は、ス-パーなど市場に出回っているサカキの90%以上は中国産だ。「地元産のサカキに合掌したいというニーズもあるはず」と、Bさんは能登産に狙いをつけた。過疎や高齢化で進む耕作放棄地と、お年寄りの労働力があればビジネスは成立するのではないか、と。徐々に出荷するグループが増え、4、5人のお年寄り仲間で年間出荷額100万円を売り上げるところも出てきた。こんなグループが10できれば1000万円、100できれば1億円の売り上げになる。お年寄りにすれば「小遣い稼ぎ」ではあるが、点が面になったときに産地化する。

 山の葉っぱを集めて料理屋に卸す徳島県上勝町の「彩(いろどり)事業」は葉っぱビジネスとして知られる。上勝町が取り扱う、南天や紅葉の葉、柿の葉は320種類になる。この事業を支えているのはお年寄りだ。都会には季節感が薄く、料理屋からの葉っぱのニーズは高い。上勝町では町長らが音頭をとって支援している。能登産サカキも、最近になって農協(JA)がサカキ生産部会を組織して、集団で栽培に取り組むようになってきた。Bさんのまいたタネは広がっている。

 初対面はBさんが24歳のとき。話ぶりはぼくとつとして言葉も粗く、とても人前で話せるようなタイプではないと思っていた。ところが、最近ではパワーポントを使って説明会もこなしている。まだまだだが、確実に成長している。地域の活性化をしっかりと支えるのはカリスマではなく、むしろ若くぼくとつしたタイプなのかもしれない。

⇒2日(日)夜・金沢の天気  くもり