⇒ドキュメント回廊

★炭窯の哲人

★炭窯の哲人

  金沢大学には地域おこしのリーダーから教えを請う「里山駐村研究員」という制度がある。北陸3県で活躍する、里山をテーマにした地域おこしのプロたちである。人材がバリエーションに富んでいて、山中塗り木地職人、製材業者、農産加工グループ代表、木竹炭生産、有機農業、山菜・きのこグループ、酪農家、農家レストランの経営者、草木染め作家、天然塩生産者と多士済々だ。中には、道なき道を手探りで歩いて成功を収めた人も多く、人生については一家言を持つ。

   そうした駐村研究員の中で、声が大きくヒゲの風貌が似合うのが炭焼きの安田宏三さん(62)だ。安田さんについては以前、ことし3月6日付「奥能登へ早春行」でも紹介した。その安田さんが先日、私のオフィスがある創立五十周年記念館「角間の里」を訪ねてこられた。その時の話である。

   安田さんは抜群に記憶力がいい。なにしろ転職以前の国鉄時代、同僚400人の名前をすべて覚え、列車ダイヤもおおかた頭に入っていたそうだ。今でも、これまで読んだ本の作者や論文の研究者の名前が日本人であれ外国人であれ、すらすらと出てくるのだ。高校時代は生物部に所属し、動植物の名前を徹底して覚えた。

   山に入り、木を切り、炭窯に向かう毎日。孤独な作業だが、自然とは何か、人間とは何かを自らの来し方行く末に照らし、問いかけ、そして山中の動植物の生態をつぶさに観察する。「木のにおいを嗅ぎ、炎を見つめていると考えるヒントが浮かんでくる」 と。

  茶道で使う高級木炭、「お茶炭」をつくる。ある日、茶人たちの茶話会に招かれ講演した。その席で質問された。「炭焼きの仕事は、夏は何をなさるのですか」と。「夏は動植物たちの営みが盛んな季節。そんな中に人間が入ってろくなことがありません。だから休みます」と答えた。するとある人が驚いたように、「仏教用語でそれを夏安居(げあんご)と言いますが、仏教にお詳しいのですか」と。詳しくもないし、その言葉は聞いたことがなかった。

   安田さんはそのとき気づいた。仏教は頭の中でつくり上げたイマジネーションなどではなく、山の暮らしの中で動植物の観察の中から、自然と人がどう共存するかという知恵のようなものではないか、と。修行僧が山にこもるのも、自然から教えを請うためではないか。

   この話を安田さんから聞いて、夏安居を調べた。「大辞林」(三省堂)によると、インドの夏は雨期で、仏教僧がその間外出すると草木虫などを踏み殺すおそれがあるとして寺などにこもって修行したことに始まる、とある。雨安居(うあんご)とも言う。この3文字になんと生命感があふれていることか。

   安田さんは時折り、自らの炭窯に入り、レンガの状態など調べる。内部は直系2㍍、高さ1.2㍍ほど。狭くても、安田さんにとっては樹木という自然、炎、そして空気が激しく燃焼し炭化する宇宙でもある。その宇宙を眺めながら、ヒゲを撫でてを哲学的な思索にふける。その様子から、私は安田さんを「炭窯の哲人」と名付けた。一度じっくりと時間を割いてもらい、炭窯の壮大な宇宙の話を聞かせていただきたいと思っている。

 ⇒28日(水)夜・金沢の天気  くもり

☆おサルの学校

☆おサルの学校

 愛読している司馬遼太郎の「風塵抄」(中央公論社)の中に「おサルの学校」というタイトルがある。1988年(昭和63年)4月5日付の産経新聞に掲載されたコラムである。日本の霊長類研究の草分けである今西錦司博士が山口県の村崎修二氏と民俗学者の宮本常一氏に「おサルの学校」をつくってほしいと依頼した経緯について記されている。

 その学校は、芸を教える学校ではなく、人間の場合と同様の学校である。村崎修二氏が猿曳き公演と文化講演(5月3日、5日)のため金沢大学を訪れたので、その学校の「理念」についてじっくり伺った。実はその学校はいまでも続いているのである。 

 その学校の生徒たちの寿命は長い。「相棒」と呼ぶ安登夢(あとむ)はオスの15歳、銀が入ったツヤツヤな毛並みをしている。猿まわしの世界の現役では最長老の部類だ。ところが、何とか軍団とか呼ばれるサルたちの寿命は10年そこそことだそうだ。なぜか。人間がエサと罰を与えて、徹底的に調教する。確かにエンターテイメントに耐えうる芸は仕込まれるが、サルにとってはストレスのかたまりとなり、毛並みもかさかさ全身の精気も感じられない。村崎さんの学校に体罰はない。「管理教育」といえば周囲の人に危害を与えないようにコントロールする手綱だけだ。だからストレスが少なく長生きだ。

 村崎氏の芸は「人とサルの呼吸」のようなところがある。安登夢をその気にさせて一気に芸に持ち込む。「鯉の滝登り」のように輪っかを上下2段に重ねて、そこを跳びくぐらせる=写真・上=。あるいは、杖のてっぺんに安登夢を二足立ちさせる。背筋がピンと伸びているので、杖と猿が一本の木のように見える。これは「一本杉」=写真・下=と呼ばれる。ここまでにするには繰り返し仕込む。今回の公演でも、サルをその気にさせるための雰囲気づくりのために観客から繰り返し拍手と声援を求めた。そして芸ができればエサを与えるのではなく「ほめる」。

 よく考えれば、人間の学校も同じである。その雰囲気づくりをいかに醸し出し、自発的に学習に取り組む子どもをいかに育てるか。どうしたら生徒のやる気を引き出すことができるか。これが苦心なのだ。できない生徒ややらない生徒に体罰や言葉の暴力を与えてもストレスとして蓄積され、いつか爆発する。

 村崎氏には調教という発想はない。重んじているのは「同志的結合」だ。だから繰り返すが安登夢に決して体罰は与えたりしない。「粘り強く、あきらめない」。故・今西博士が村崎氏に残した宿題は、人間の2歳ほど知能のニホンザルにはたして教育をほどこすことは可能かという実にスケール感のある話だったのである。

⇒7日(日)夜・金沢の天気  くもり

★猿曳き人生、村崎さん

★猿曳き人生、村崎さん

 「あなたはサルのおかげで人間の大ザルとめぐり会えたんや」。作家の故・司馬遼太郎からこう声をかけられたことがあるそうだ。山口県周防を拠点に活動する「猿舞座(さるまいざ)」の村崎修二さん(58)と2日、あすから始まる金沢大学での猿まわし公演と文化講演の打ち合わせをした折りに出た話だ。

 村崎さんの大道芸はサルを調教して演じるのではなく、「同志的結合」によって共に演じるのだそうだ。だから「観客が見ると相棒のサルが村崎さんを曳き回しているようにも見える」との評もある。相棒のサルとは安登夢(あとむ)、15歳のオスである。村崎さんは「こいつの立ち姿が見事でね、伊勢の猿田彦神社で一本杉という芸(棒の上で立つ)がぴたりと決まって、手を合わせているお年寄りもいたよ」と目を細めた。

 同郷の民俗学者・宮本常一(故人)から猿曳きの再興を促され、日本の霊長類研究の草分けである今西錦司(故人)と出会った。司馬遼太郎が「人間の大ザル」とたとえたのは今西錦司のことである。商業的に短時間で多くの観客に見せる「猿まわし」とは一線を引き、日本の里山をめぐる昔ながらの猿曳きを身上とする。人とサルの共生から生まれた技。そこを今西に見込まれ、嘱望されて京都大学霊長類研究所の客員研究員(1978-88年)に。ここで、河合雅雄氏らさらに多くのサル学研究者と交わった。

 うぐいすの谷渡り、輪くぐり、棒のぼり、コイの滝登り同志的結合で間合いを見ながら演じること90分。玄人うけする芸だ。江戸時代の英一蝶(はなぶさ・いっちょう=1652-1724年)の絵を持っている。「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」を揶揄(やゆ)して、伊豆・三宅島に島流しされたことでも知られる絵師だ。その反骨の絵師が描いた猿まわしの絵には、サルが長い竹ざおの上でカエルに化けて雨乞いをする姿が描かれている。中世、渇水期の里山で雨乞いの儀式にサルを舞わせたのが猿曳き芸能のルーツではないかともいわれる。「その当時の芸を再興してみたい」(村崎さん)と自らのライフワークを語る。

 猿まわしは3日と5日、それぞれ午前11時と午後3時から。金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」で。3日は午後5時30分から同所で「日本の里山と猿曳き芸能」と題する村崎さんの講演がある。入場は無料だが、大道芸だけに投げ銭を用意してほしいと主催者からの要望。それに演じるのがサルだけにイヌの同伴はご遠慮を。安登夢が気が散って演技に集中できないらしい。

⇒2日(火)午後・金沢の天気  くもり

★夢を売るおっさん

★夢を売るおっさん

 金沢のソメイヨシノは今月6日に開花宣言がされたものの、その後は雨や風の日が多く桜の季節の実感に乏しい。通勤の意欲さえそぐ雨が憎らしく思うこともある。

   花が三部咲きだった先週末、兼六園の近くの料理屋で開かれた会合に出席した。金沢大学と地元民放テレビ局が共同制作した番組の反省会である。番組は、大学のキャンパス(2001㌶)に展開する森や棚田を市民ボランティアとともに保全し、農業体験や動植物の調査を通じて地域と交流する、大学の里山プロジェクトの一年をまとめたものだ。ハイビジョンカメラで追いかけた里山の四季は「われら里山大家族」というドキュメンタリー番組(55分)となって先月25日に放送された。

   この番組に登場する市民ボランティアは、今の言葉で「キャラが立っている」と言うか、魅力的な人たちがそろった。その一人、男性のAさんは「夢を売るおっさん」というキャラクターで登場した。65歳。岐阜県大垣市の農家の生まれで、名古屋市に本社がある大手量販店に就職した。金沢に赴任し、北陸の食品商社に食い込んで、業界では知られた腕利きのバイヤーだった。定年後に里山プロジェクトに市民ボランティアとして参加し、棚田の復元に携わる。

  「人を幸せにする里山づくり」がAさんの身上とするところ。「自然体験は知恵の鍛錬になる。真の生きる力を育てる」「定年後は第二の人生というが、自分が熱中し楽しめることをやるのが一番よい。元気の素はボアランティア活動だよ」と言って憚(はばか)らない。一時、ヒゲを蓄え、黙して語らぬ仙人のような風貌になった。クワを持ち、小屋作りのためにヨイトマケをした。棚田づくりのために人の輪を広げた。そして最近では余分な言葉がそがれて「夢」という一語ですべてを語るようになった。

  宴席にはAさんも参加した。持病を抱えているので量は飲まなかったが、「いい気分で酔った」と満足そうだった。

  帰途、信号待ちのタクシーの窓から兼六園周辺にボンボリが灯っているのが見えた。現役のときは一生懸命にモノを売り、定年になっからはクワを握って夢を売る。まるで「いぶし銀」のように味わい深い人生。酔った勢いで、ひと回り以上も先輩であるAさんのことをそう表現してみたくなった。

 ⇒12日(水)朝・金沢の天気  はれ 

★ブログと向き合った365日

★ブログと向き合った365日

 ブログを始めて丸1年になる。1年と表現すると感覚のデフレーションを起こしそうなので、あえて365日とした。事実、去年4月にブログを始めて一日一日の区切り、あるいは「けじめ」という充実感が日々あり、意味ある365日だった。

   ブログを始めたおかげで毎日の五感が研ぎ澄まされた。何かを文章表現しなければというある種の「知的な飢え」のようなものである。とくに視覚と言語感覚が連携を始めた。視覚、つまり撮影した1枚の画像から湧いてきた文章表現も多々ある。逆に文章表現によってこれまで視覚的に無視してきたモノに価値を持たせることができたケースもあった。

  「ブログを書く」という一つの行為が習慣を変え、習慣が変わることで思考方法が変わり、思考方法が変わることで人生観も変わった。これがブログを始めて一番大きな収穫ではなかったかと思う。「自在コラム」の365日を数字でまとめてみた。

  237 この1年間で書いた本数である。毎日書けば365本、これを100%とすると65%、つまり「ブログ化率」65%となる。始めたころは「意地でも毎日書こう」と張り切ったが、最近は「週3本ほど」を心がけている。私の書き方はタイトルでも銘打っているようにコラム形式を取っている。結論は出さないが、考え方を整理して書くという手法だ。日々のことを日記風に記録し云々という気負いはない。

  1187 週間のIPアクセス(訪問者)数で最高だった数字だ。「gooブログ」では毎日(7日分)と週間(3週間分)のアクセス状況(IPアクセスとページビュー)が表示される。3月19日から25日の1週間の間に1187人が訪れ、3665ページを見てくれたことになる。一時的だったがgooブログの50万サイトの中で700位ぐらいにランキングされた。この記念すべきヒット数の原動力となったのが「☆祈りの回廊‐野町和嘉ワークス」(3月20日付)だった。一日のIPアクセス数でも250を記録した。

  20 「自在コラム」では長文を避けるために1000字前後の文章を目安としている。このため、シリーズで小分けして書くことがままある。そのシリーズの最も長いのが20回。シリーズ名は「ブログの技術」。ブログ作成のノウハウをまとめたものだ。しかし、この企画は機会を見て再開しようと思っているので記録はさらに更新できそうだ。

 ⇒1日(土)午後・金沢の天気  はれ

☆祈りの回廊‐野町和嘉ワークス

☆祈りの回廊‐野町和嘉ワークス

 インターネット上ではすでに無数の動画があふれている。でも私自身これまで心を揺さぶられたとか、最後まで心して視聴したという動画は正直お目にかかったことはなかった。でも、きのう19日、初めて「感動もの」と言えるムービーとめぐり会えた。写真家、野町和嘉氏のサイトである。

  去年5月、金沢の知人の紹介で初めてサイトを見て、この「自在コラム」でリンクを勝手にはらせてもらっていた。きのう久々にサイトを訪問して動画の存在に気がついて視聴した。そして、目頭が熱くなった。

  野町氏はイスラム教のメッカ、カトリック教のバチカン宮殿、チベット仏教、ヒンズー教のインドと、それこそ彼自身が「祈りの回廊」と呼び、世界の宗教の祈りの現場を撮影に歩いた。死を迎えるため、200㌔も離れた村からインダス川のほとりにやってきた老女、マイナス10度のチベットの聖地を野宿しながら向かう人々、一日わずか15分しか日差しのない洞穴で祈りを捧げるエチオピアのキリスト教信者…。

  野町氏は「なぜ人々は祈るのか」を念頭に置き、撮影を続けてきた。その世界は、金で心も幸福も買えると信じている人々とはまったく別世界の人たちの姿である。そして、野町氏は「なぜ人間は祈るのか。それは人間のDNAかもしれない」と言う。自らの来し方行き先をふと振り返ってみると、余りにも慢心し敬虔さを失ってしまっている自分の姿が見えてくる。

  ストリーミングに引き込まれる。砂漠と天空のコントラスト、野町氏を受け入れ信者の目線と一体化したアングル。そこには自然と人間、生と死が活写されている。この映像をぜひとも文化遺産として残してほしいと思った。

 ⇒20日(日)朝・金沢の天気   くもり

★「理は利に勝る」

★「理は利に勝る」

   「山眠る」という言葉がある。季節が冬に移ろい、枯れ枯れとして精彩を失った山の様はまるで眠りこけたような静寂、との意味だろう。人の眠りは「死」と同意語だ。先日、人生の大先輩、Y・Sさんの訃報を受けた。

   前職のテレビ局時代、2年間にわたりY・Sさんから薫陶を受けた。酒は嗜まなかったが、部下の宴席によく顔を出し面倒見のよい人だった。ゴルフの腕前は全盛期のころはシングルの実力と他の人から聞いた。クラシックに造詣が深く、骨董もかなりの目利きと推察した。若いころ在阪のテレビ局の営業マンとして鳴らし、日清食品のカップヌードルをテレビCMという側面からメジャーに押し上げたアイデアマンだった。もはや「世界の日清」なので本来なら営業マン冥利に尽きる話である。その自慢話の一つもしたくなるだろうが、それを語ることはなく、ゴルフの腕前と同様に他の人から伝説の数々を聞いた。

   Y・Sさんから私が直接教えられた言葉が今でも忘れられない。「理は利に勝る」だ。山一証券や日本長期銀行の破綻が表面化した1990年代後半、テレビCMの売上は伸びず、ローカル局の営業マンは悪戦苦闘していた。薬事法などの法律に抵触しそうなものは論外として、公序良俗の面ではどうかと思われる物件がスポンサーから持ち込まれることもあった。その度にY・Sさんは「理に合わん」とそれらのCMの放送を却下した。テレビ局の収入部門を統括する立場にあったので、売上数字は喉から手が出るくらい欲しかったはずだ。しかし、「利を優先させたら、理が立たない。理が立たなければ会社も人も立たない」と譲らなかった。

   その後、他のテレビ局ではCMの間引きなどCMにまつわる事件が相次ぎ発覚する。コンプライアンス(法令遵守)という概念を今では各テレビ局が競うように取り入れるようになった。一般常識で考えておかしいと思うことを企業はしてはならないというは当たり前のことなのだが、利益を追求する企業の中でその当たり前が時として通用しにくい場合もある。それを全部飲み込んでY・Sさんは一途を通した。

   役員定年後に関西に戻り、ゴルフを存分に楽しんだようだ。ヤフーでそのお名前を検索すると、自宅近くのゴルフ場の運営委員にその名があった。享年69歳。

⇒20日(日)朝・金沢の天気   くもり