⇒ドキュメント回廊

★佐渡とグアムの島旅1

★佐渡とグアムの島旅1

 きょう(15日)、新潟県佐渡市に渡った。波も穏やかで、新潟港からのジェットホイル(高速旅客船)は滑るように走った。この船は、船外から大量の水をポンプで吸い込み、高圧で水をジェット噴射して進む。時速計を見るとおよそ80㌔で走行している。滑るような感覚は、海面より浮上して航行するので、波で揺れないということらしい。船酔しやすい体質の自分にとっては快適だった。船旅は60分余り。12時30分すぎに、佐渡・両津港に着岸した。快晴、気温は30度。島に来たという、ある種の爽快感があった。引き続き17日から家人とともにグアムを旅する。グアムも島。この2つの島めぐりを「佐渡とグアムの島旅」と題して、紀行で見たこと聞いたことを記したい。

          ~ 佐渡で見た天然杉の凄み ~

 佐渡行きは、新潟大学「朱鷺の島環境再生リーダー養成ユニット」の特任助教、O氏から講義を依頼され引き受けた。同大学は佐渡に拠点を構え、社会人を対象とした人材養成にチカラを入れている。同大学にはトキの野生復帰で培った自然再生の研究と技術の蓄積があり、これを社会人教育向けにカリキュラム化し、地域で生物多様性関連の業務に従事する人材を育てることで、地元に役立ちたいと願っている。金沢大学が能登半島の先端・珠洲市を拠点に実施している「能登里山マイスター」養成プログラムと同じ文部科学省の予算(科学技術戦略推進費)なので、「兄弟プロジェクト」のようなもの。お願いされたら断れない…。

 そんな内輪の話はさておき、講義が始まる15時30分までは時間がある。O氏が気を利かせてくれて、大佐渡山脈の「石名の天然杉」に案内してくれた。大佐渡には金北山(1172㍍)や妙見山など1000㍍級の山があり、「天然杉の宝庫」とも言われる。O氏の解説で1時間ほど山歩きを楽しんだ。江戸時代に金山で栄え、幕府直轄の天領だった佐渡は、金山で精錬に使う薪炭を確保するため、山林も幕府が管理していた。明治に入って県が買い取って多くの山林が県有林となった。今回めぐった石名の天然杉の遊歩道はその中の一部。気温は低く風が強いという環境のため、建築材に適さなかった杉が切り出されることなくそのまま残っている

 標高は900㍍付近なのでもうすっかり秋の様相になっている。海辺で聞こえていたセミの鳴き声も聞こえず、辺りは静寂だった。今年5月に開通したという遊歩道を歩くと、「四天王杉」と呼ばれる巨木=写真・上=がひと際目立ち、風格を漂わせている。枝は下に向いて生え出し、幹も1本なのか4本なのかよくわからないほどに束なっている姿には、日本海の風雪に耐えて威勢を張る、ある種の凄みがある。幹周り12.6㍍、樹高は21㍍。7階建てのビルくらいの高さだ。推定樹齢は300年~500年。ほかにもマンモスの象牙のような枝をはわせる「象牙杉」=写真・下=、樹木の上の樹相が丸形の「大黒杉」があって、天然杉のミュージアムといった雰囲気だ。

 下山して、「トキ交流会館」に到着した。15時30分から、「朱鷺の島環境再生リーダー養成ユニット」の講義を始めた。市職員を4人を対象にした講義。テーマは「大学が地域と連携するということ」。そのレジュメ。1)世界農業遺産(GIAHS)認証を佐渡と能登が得た意義、2) 大学が地域と連携するということ、3) 能登の先端「サザエのしっぽの先」から何が見えるのか~ 地の利を考えると、東アジアを見渡す視点が広がる、4)まとめ:「里山と里海」の未来可能性を探る~大学と地域が連携し、半島と島から発信する持続可能な社会を、と話を進めた。

 佐渡市は、トキの野生復帰を契機として「エコアイランド佐渡」を標榜し、地域の自然再生や循環型農業、グリーンツーリズム型観光などを推進することによって先進的な循環型社会づくりを目指している。一方で、36%を超える高齢化率(人口に65歳以上が占める比率)や疎化が急速に進行している地域のひとつでもある。能登半島とよく似ている。ただ、考えようによっては天然杉のごとく、土地に根を張って生き抜いてきたしぶとさが人々にはある。流行を追わず、島や半島といった条件不利地に生きる逞しさこそ、現代人が求めているものではないか。O氏は言う。「山で採った山菜をおすそ分けしようとすると、そんなに貧乏ではありませんと断る気風が島にはあります」と。確かに、島の人々の語り口調には、淡々とした自尊の気風が漂う。

⇒15日(木)夜・新潟の天気  はれ

☆「老兵」は能登で復権

☆「老兵」は能登で復権

 愛車について。2004年に購入した「アベンシス」は、当時、トヨタがイギリスで生産している「欧州車」が売りだった。購入の動機は、デザインがよかったからだ。当時49歳という年齢でもあって、派手さはなく、どちらかと言えば渋めでトータルデザインが落ち着いて、飽きがこない車を求めていた。何台か見て周り、その中でアベンシスが一番しっくりときた。車体の色は濃紺にした。

  デザインだけではなかった。乗り心地もよかった。車の基本性能の面でも、シートはしっかりとしていて、操縦に安定性がり、遮音の良さ、ドアを閉める時にボンと心地よく響く。ただ一つ不満があった。それは燃費だった。レギュラーガソリンでの市内走行は、1㍑当たり7㌔がせいぜい。2、3年前からそろそろハイブリッド車にとの思いが募っていた。

 そのころから大学のブログラムを運営するために能登通いが始まった。当初は大学の共有車(プリウスやプレサージュなど)を予約を入れて使っていた。その能登通いも頻繁になる連れて、予約もままならぬようになってきた。そこで、昨年秋ごろから、アベンシスを能登の往復用に使うことにした。大学から能登半島の目的地までざっと150㌔の距離になる。往復で300㌔だ。6年目の「老兵」に、わが身をだぶらせながらムチ打つつもりで使い始めた。

 ところが、これがよく走る。金沢の山側環状道路から白尾インターチェンジを経由して能登有料道路を走るが、能登空港までの約100㌔は信号がない(料金所は4ヵ所ある)。さらに半島の先端・珠洲市まで主要地方道を使うが、信号は数えるくらいだ。セルフの石油スタンドで満タンにして往復し、また満タンにしてガソリン消費量と走行距離とを計算すると1㍑当たり20㌔なのだ。

 今ごろになって調べてみると、エンジンは直噴式ガソリン仕様の2Lエンジンとの説明がある。特徴は、排出ガスのクリーンさで、超-低排出ガスレベルを達成しているという。確かに欧州の排出基準をクリアしたとの「三ツ星」のステッカーが貼ってある。さらに、連続高速走行の多い道路では、抜群の安定感と燃費を発揮する、とある。つまり、金沢のような城下町の都市構造はクネクネとした、信号だらけの道路で、アベンシスが持っている本来の性能が発揮できないのだ。

 さらに、往復300㌔運転しても疲れないのだ。大学の共有車のプリウスで何度も通ったが、疲労感が出る。ところが、アベンシスはシートのしっかり感と、操縦の安定性、遮音の良さで体と精神への負荷が少ないことに気がついた。

 気づかなかった。見た目のスタイルだけで判断して購入していた。市内走行で燃費が悪いとグチッていた。本来の車の走りについてもっと知るべきだった、と今さらながら反省の弁だ。こうなると、不思議と「老兵」に対する敬意やら、いとおしさが出てくる。老兵は能登で復権したのだ。輸入採算性の悪化で、トヨタはイギリスからの輸入を2008年に停止すると発表している。もうしばらく、いたわりながら能登の往復300㌔を走らせてやりたい思っている。

※写真は、輪島市曽々木海岸をバックにした愛車

⇒9日(木)夜・金沢の天気  雷雨

★ベートーベンの響き

★ベートーベンの響き

 おそらく日本人ほど「第九」が好きな民族はいない。その曲をつくった偉大な作曲家ベートーベンを産んだドイツでも第九は国家的なイベントなどで披露される程度の頻度なのだ。それを日本人は年に160回ほどこなしているとのデータ(クラシック音楽情報サイト「ぶらあぼ」調べ)がある。これは世界の奇観であろう。

  年末になると指揮者の岩城宏之さん(故人)=写真・上=を偉業を思い出す。2004年と2005年の大晦日にベートーベンのシンフォニーを一番から九番まで一晩で演奏した人である。世界で初めて、しかも2年連続である。それはCS放送「スカイ・A」で生中継、05年のときはインターネットでもライブ配信された。私は放送と配信の仕掛けづくりに携わった。

  意外な反響があった。そのCS放送を、帰国した野球の松井秀喜選手が自宅で見ていて、「(岩城さんは)すごいことに挑戦しているいる」と思ったという。また、当時岩城さんもニューヨークヤンキーズで活躍する松井選手に手紙を出すほどのファンになった。そして、岩城さんはオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の演奏で応援歌をつくり、世界へ発信する構想を温めていた。「ニューヨークで歌っても様になるように」と、歌詞は簡単な英語のフレーズを含むことも考えていた。この2人は会うことなく、06年6月に岩城さんは他界した。応援歌構想の遺志は引き継がれ、宮川彬良(須貝美希原作、響敏也作詞)/松井秀喜公式応援歌『栄光(ひかり)の道』とうカタチになった。曲の中の「Go、Go、Go、Go! マツイ…」というサビの部分は松井選手が出番になるとヤンキー・スタジアムに響いたのだった。

  話は岩城さんのベートーベン全交響曲演奏に戻る。このときは演奏者はN響メンバーを中心にOEKメンバーも加わった混成チーム「岩城オーケストラ」だった。指揮者も演奏者たちも、そしてその挑戦者たちを見届けようとする観客も一体となった、ある種の緊張感が会場に張り詰めていた。そして元旦を向かえ第九が終わるとスタンディングオベーション(満場総立ち)の嵐となったのは言うまでもない=写真・下、06年1月1日、東京芸術劇場=。岩城さんは演奏を終えてこう言った。「ベートーベンのシンフォニーは一番から九番までが巨大な一曲。だから全曲を一度で聴くことに価値がある」と。今にして思えば凄みのある言葉である。

  松井選手がことし11月、ワールドシリーズ第6戦で2ラン、6打点をたたきだしてヤンキースを優勝に導き、MVP(最優秀選手)に耀いたときのニューヨーク市民の歓喜の嵐と、岩城さんのベートーベン演奏のスタンディングオベーションが、私には今でも重なって聞こえる。

⇒22日(火)夜・金沢の天気  くもり

★おっぱいはお尻の擬態

★おっぱいはお尻の擬態

 動物行動学者の日高敏隆さんが逝去された(11月14日)。享年79歳。2度お会いするチャンスを得た。一度目は、06年8月30日、当時、総合地球環境学研究所(京都)の所長時代、その年の10月9日に開催した「能登半島 里山里海能登自然学校」のキックオフシンポジウムの基調講演のお願いをするための訪問だった。総合地球環境学研究所は京の森に囲まれた環境にあり、名称の印象から受ける威容さを削いだ洒脱な建物だった。日高氏の人柄もそのような感じの第一印象だった。

 お話をさせていただくと、専門の動物行動学の話になった。女性の下着メーカーのワコールが中心となって乳房(にゅうぼう)文化研究会を発足させ、なぜ女性のおっぱいは大きく丸いのかという形状を研究しているという。そのメンバーである日高氏は面白い話をしてくれた。いわく「おっぱいはお尻の擬態である」と。詳細は後段で記すが、目からウロコが落ちて、本人には失礼だったが笑ってしまった。本人も笑う姿を見て「どうだ参ったか」と言わんばかりにニヤリと。

 2度目にお会いしたのは、10月9日の珠洲市でのシンポジウムだった。日高氏の基調講演=写真=のタイトルは「自然界のバランスとは何か」。私はシンポジウムの司会者だった。講演の後、会場から質問が相次ぎ盛り上がった雰囲気となった。時間はオーバーしていたが、司会者の特権であえて「おっぱいはお尻の擬態」論に水を向けた質問をした。基調講演の締めくくりに会場から笑いを取ってやろう下心があった。日高氏も心得ていた様子で即座に乗ってきた。以下は、講演の録音テープから質問に答えていただいた部分の抜粋である。

                   ◇

 変な話なのですが,進化とは何をもって進化というかということになるのですが,先ほど象という動物が鼻を大きくしたというお話をしましたけれども,なぜそのようになってしまったのかよく分かりません。
 鼻が大きくなったのも進化一つなのでしょうが,人間の場合は,京都にワコールというブラジャーの会社があります。あそこが中心となって,乳房(にゅうぼう)文化研究会というものをやっています。要するに,人間のおっぱいは子供に乳をやるための器官です。ところが,普通の動物の乳房は,大体哺乳類以外は細長く,乳首が長くて子供が乳を非常に吸いやすいようにできていますが,人間の女のおっぱいはそうではなく,丸くて非常に形が美しい。丸くて乳首が短くて,赤ん坊が吸うには非常に不便であるということです。
 私はやったことがないのであまり分かりませんけれども,初めて子供さんを持ったお母さんが病院で,自分の生まれて初めて持った赤ん坊に自分のおっぱいをあげようとしますと,大変だそうですね。なかなかうまく吸いつけないですし,吸いついてもあまり押しつけたりしますと,今度は乳首の丸いところに赤ちゃんの鼻がびたっとくっついてしまって息ができなくなって泣くことがよくあるそうです。随分皆さん困って,看護婦さんがこうするのですよと教えないといけないそうです。
 ところが,ほかの動物はそんなことにはなっておりません。人間だけがそうなっているのです。非常に丸くて,とにかく子供におっぱいをあげるためには非常に不便な哺乳器官であるということで,変なことなのです。それが一つです。
 もう一つ変なことは,これは哺乳器官で,赤ん坊におっぱいをあげるために進化してきた器官なのに,どういうわけか男がそれを好きで,見たい,触りたい。だからセクハラという話が頻繁に起こっているのはそういうことなのです。しかも,それは赤ん坊が生まれるずっと前のお話です。本当は赤ん坊に乳をやるための器官であったはずなのが,男に性的な信号を与えるような器官になっているのです。
 それはどういうことなのだということを昔からいろいろな人は研究していたわけです。デズモンド・モリスというイギリスの動物行動学者ですが,この人のことは「あんな話はインチキだ」という話もありますからあまりまともに信じなくてもいいのですけれども,その人はこのようなことを考えたのです。つまり,人間は要するに類人猿ですから,メスは,自分はいいメスだろうということを相手のオスに知らせたいのです。類人猿やサルの仲間は,皆その「メスであるぞ」という信号はおしりなのですね。おしりが赤いなど,いろいろなものがあり,四つんばいで歩いていますから,おしりを見せて歩いていると,オスも四つんばいになって後ろから来て,前にいるおしりを見て,「おっ,いいおしりしているな,いいメスだな」と思い,そのメスを口説きに行くわけです。
 ところが人間は,何を考えたかこれもよく分かりませんが,まっすぐ立ってしまったのです。そして,人と会うときは目を見て向き合うようになってしまったのですね。ですから,女がいて,男がいて,話をしているときに,この女が男のことを気に入っていれば,自分がいい女でしょうと口説かれたいですし,自分も口説きたいわけなのですが,もともとはオサルの仲間ですから,要するに女である信号はおしりなのです。おしりはこちらを向いているのです。当の男は前を向いています。こちら向きに「いい女でしょう」と言いたいのですが,それはおしりが言っているわけなのです。それでデズモンド・モリスは多分,何とか前向きに言いたかったので,エイヤとばかりにおっぱいをおしりの擬態にしたのです。おっぱいを大きくしておしりにしてしまったのです。それを向けるのが前にいるわけですから,それをこうやって見せれば,「いい女でしょう」と言えるわけです。それで結局,おっぱいはそのようなものになってしまったのだろうというお話なのです(笑い・拍手)。

(司会) どうもありがとうございました。日高先生のお話,この間京都でしていただきましたが,このようなお話がどんどん出てきますので離れられなくなるのですね。動物行動学の日高敏隆先生に,もう一度拍手をお願いいたします(拍手)。

                ◇

 シンポジウムの司会をこれまで何度か経験したが、講演者と司会が妙に呼吸が合って、しかも笑いが取れた講演は日高氏が初めてだった。一期一会の名講演だった。

⇒14日(月)朝・金沢の天気   くもり

☆「忘れざる日々」

☆「忘れざる日々」

 6月20日の75歳の誕生日を前にして一人のジャーナリストが逝った。鳥毛佳宣(とりげ・よしのり)さん。中日新聞の記者として、石川と東京で政経、文化、事件を担当した。後に文化事業も担当し、北陸で初めての開催となる中華人民共和国展覧会を誘致するなど腕利きのプロモーターでもあった。退職後に記者生活30年余の回想をつづった本を著した。そのタイトルが「忘れざる日々」(1994年6月出版)である。出版のときに贈呈されたその本を読み返して、故人を偲んだ。

 記者の生活には日曜日や休み、時間外、オフという概念がない。いつでも、どこでも事件は記者を駆り立てる。そのエピソードが「忘れざる日々」で紹介されている。鳥毛さんが結婚して間もなく金沢市内で3日続けて深夜の火災があった。警察担当だったが、一夜、二夜とも気づかず、出社して先輩記者に大目玉を食らった。しかし、さすがに三夜目は「きょうは寝ない」と覚悟を決めた。事件に予定はないが、消防団の半鐘が鳴り、鳥毛さんは真っ先に現場に駆けつけた。記者としての瞬発力は定評だったが、若き日の苦い経験をバネとした。東京報道時代にはホテルニュージャパンの火災、日航機の墜落事故などを担当した。このエピードは妻の美智子さんが本のあとがきで紹介している。

 鳥毛さんはある意味で目利きだった。筋をきっちりと掴んで真贋を見分けていく。「忘れざる日々」で面白い記事が紹介されている。「禅の壁」というコラムで、金沢・湯涌にある康楽寺のことを書いている。昭和19年に建てられたその寺は、仏教王国と称される北陸では「乳飲み子」のような歴史しか持たない。が、この寺はかつて加賀藩前田家の重臣、横山章家氏の別邸だったもので、明治時代の金沢の代表的な建物だった。それを戦前の政治家、桜井兵五郎氏(1880‐1951年)が譲り受け、同氏が経営する白雲楼ホテル(今は廃業)の近くに寺として再建した。鳥毛氏の謎解きはここから始まる。なぜ寺としたのか、釈迦の遺骨と称されるものをビルマの要人からもらった桜井氏が寺を建て安泰したと、桜井氏の関係者から取材している。おそらく普通の記者だったら、このエピソードを持って、この取材は終わっていたかもしれない。鳥毛氏の真骨頂はここからである。その関係者から「昭和40年4月に東京・三越本店で開催された鶴見・総持寺展で展示された仏像10体のうち7体がこの康楽寺のものだった」と聞きつける。さらに、東急電鉄の創業者で美術品収集家として知られた五島慶太氏(1882-1959年)が寺の愛染明王像を所望したが、適わなかったとのエピソードを五島氏の周辺に取材して紹介している。寺とは言え、実質的に個人が収集した仏教美術の「倉庫」と化している寺の有り様に、鳥毛氏は「言い表せないむなしさを覚えた」とジャーナリスとしての感性をこぼしている。

 鳥毛さんは1934年6月20日、東京生まれ。戦時下の空襲で父方の親戚を頼って、能登半島・柳田村(現・能登町)に疎開し、終戦を迎える。その縁で、「故郷は柳田」と言い、能登半島にも眼差しを注いだ。私が鳥毛さんと親しくさせてもらったのも、同郷のよしみだった。

 病の床でうわごとのように「つくづく疲れた、精も根も」と言っていたと、美智子さんは19日の通夜の式場で話した。全力投球するタイプ、そんな記者時代の思い出の一つ一つが走馬灯のように死の直前の脳裏を駆け巡っていたのだろうか。

※写真は鳥毛さんが愛用したペンと原稿=「忘れざる日々」より。

⇒6月20日(日)朝・金沢の天気 はれ

★キャンデーの警告

★キャンデーの警告

 4月2日午後、能登半島に出張した。市役所など5ヵ所を車で回り、昼食は14時を回っていた。この日の16時30分から金沢で打ち合わせがあるので、ファミリーレストランに駆け込んで、「海鮮スープスパゲティ」を注文した。「大盛りはできますか」と店員に尋ねると、「スパゲティはできません」と言う。きょうのテーマの伏線はおそらくここから始まる。

  海鮮スープスパゲティは具沢山でそれはそれで満足感はあった。が、早食いのせいで、「ひもじさ」が少々残った。レジで代金を払い、ふとレジの周りを見ると「特濃黒ごまミルク」という文字が目に飛び込んできた。「これください」と言ってしまった。黒ゴマは好きな食材で、「黒ゴマ入りのミルクキャラメル」と勝手に解釈して手にとってしまった。126円だった。1粒が17kcal、黒ゴマが入るとカロリーは高いと思いながら口に入れ、再び車に乗リ込んだ。軟らかなキャラメルを期待したのだが、キャンデーだった。口に含んだらゆっくりとは出来ない性分で、すぐ噛んでしまう。ガリガリと。農厚な味だが甘くはない。さらに2粒目を口に入れ、ガリガリと。事件はここで起きた。

  嫌な予感と同時に口の中に違和感が走った。舌に「重い」ものが転がってきたのである。瞬間、「またやってしまった」と後悔の念がこみ上げ、思わず特濃黒ごまミルクのパッケージを左手で握りしめた。右下あごの奥歯に被せてあった金属がポロリと取れたのだ。ガリガリと噛むと、歯に大きなバイアスがかかり、とくに硬いキャンデーの場合は一点にその力が集中するので、角度が悪いと歯が欠けたり、被せた金属が取れると歯医者から言い聞かされていた。実は10年ほど前にも同じ経験をしていたのだ。後悔は、2度同じ過ちを繰り返した不注意さと、ひもじさに勝てない理性に対してである。と同時に、歯科治療の現場で起きるであろう苦痛のドラマを想像すると身の毛がよだった。

  翌日3日、職場の近くの歯科医に予約を入れた。夕方、出かけた。歯のレントゲン撮影から始まった。モニター画面に映し出されたX線写真を指し示しながら、歯科医は「金属を支えていた心棒が途中で折れていますね。これを抜き取るのは少々面倒かもしれませんが…」と続けて、「それにしても歯周病が随分と進んでいますよ。このまま放っておいたら、あと2年ぐらいで歯がガタガタになるかもしれませんね」「まず、歯石を徹底的に取り除きましょう」と。これは心外な言葉だった。

  6年ほど前から歯周病には気を使っていて、朝晩の歯磨き。それに歯間ブラシも欠かさなかった。そして仕上げは洗口液「リステリン」だ。磨き残しの歯垢に細菌がいても、リステリンの殺菌効果で除去できる。それ以来、朝起きたときの口内の粘りもなく、歯周病対策は完璧だと確信していた。だから、「歯周病が進んでいる」という医者の言葉は意外だったのだ。しかし、現実に写真で説明を受けると、歯石が付着し、歯肉で見えない歯の部分は確かに以前よりやせ細っていいる。歯だと思っていたのは歯石だった。歯周病が進行中と分かり愕然とした。よく考えれば、歯磨きは手抜きだったかもしれない。リステリンで殺菌していると思っていたが、口でゆすぐのはせいぜいが10秒程度でその効果は薄かったのかもしれない。つまり、その効果を過信していただけだったのだ。

  目隠しをされ、下あごの歯石の除去作業が始まった。「痛みを感じたら左手を挙げて」と歯科衛生士の女性が丁寧に言ってくれたが、正直痛く、涙がにじんだ。目隠しはその涙を隠すのにちょうどよいと思った。それにしてもキューンという機械音は神経的な苦痛を倍加させる。除去が始まる前、歯科衛生士に「手掘りにしていただけませんか」と申し出たのだが、「それだと歯に負荷がかかるので、超音波の方がよいと思いますよ」と説得された。

  レントゲン撮影と歯石除去、抜けた歯の部分の「型どり」までざっと90分。悔恨と苦痛、そして再生への希望とストーリーはめまぐるしく展開した。治療イスで時折、口をゆすぎながら思った。ひょっとして、あの時、特濃黒ごまミルクのキャンデーを食べなかったら、歯科クリニックには来なかった。クリニックに来なければ、歯周病が密かに進行していることに気づくこともなかった。気づかなければ、2年後には入れ歯をする運命になるかもしれない。そうか、これは「キャンデーの警告」だったのだ。

  ちなみに、通院を始めた歯科医院は「オードリー歯科(Audrey Dental Office)」。通勤バスの通り道にあり、その医院名が以前から気になっていた。最後にその日の治療費を払って、思い切って受付の女性に尋ねてみた。「オードリーという名は、院長先生がオードリー・ヘップバーンのファンなのですか」と。すると女性は「その質問はたまにあるのですが、大通りに面しているのでオードリーと名付けたようですよ。お大事に」と手短に。歯科医院を出ると、辺りはすでに暗く、18時47分だった。

⇒4日(金)朝・金沢の天気  くもり  

★雪原の遠い記憶

★雪原の遠い記憶

  雪原を見ると妙にファイトが湧いてくる。狩りがしたくなるのである。小中学生のころだ。野ウサギを狩るため、針金で仕掛けをつくった。ダイナミックだったのは、雪原を駆ける野ウサギの頭上をめがけて60センチほどの棒を投げ、野ウサギが雪に頭を埋めるのを獲った。棒が回転しながら頭上をかすめると、ビュンビュンという風を切る音を野ウサギは猛禽類(タカなど)と勘違いして、雪の中に身を隠そうとする習性を狩りに生かしたものだ。その耳を切って2枚持っていくと、森林組合の窓口では50円で買ってくれたと記憶している。

 人類学者の埴原和郎氏(故人)のことを記す。東京の学生時代に埴原氏の研究室を訪ねると、いきなり「君は北陸の出身だね」と言われ、ドキリとした。その理由を尋ねると、「君の胴長短足は、体の重心が下に位置し雪上を歩くのに都合がよい。目が細いのはブリザード(地吹雪)から目を守っているのだ。耳が寝ているのもそのため。ちょっと長めの鼻は冷たい外気を暖め、内臓を守っている。君のルーツは典型的な北方系だね。北陸に多いタイプだよ」。ちょっと衝撃的な指摘だったものの、目からウロコが落ちる思いだった。もう30年余りも前の話だ。

 埴原氏は、古人骨の研究に基づいた日本人の起源論が専門。とくに、弥生人は縄文人が進化したものではなく、南方系の縄文人がいた日本列島に北方系の弥生人が渡来、混血したことによって、日本人が成立したとする「二重構造モデル」を打ち立てたことで知られている。

 雪原におけるファイティング。これはひょっとしてDNAが騒ぎ出すのか。ながらくシベリア大陸をさまよって、かつてはマンモスを駆っていた北方系の血か。冬は動物の動きが鈍くなる。最高の猟場が雪原なのである。雪原を見ると血が騒ぎ出す。これは遠い記憶か。

⇒18日(日)午後・金沢の天気   くもり

★「玉虫厨子」復元に夢とロマン

★「玉虫厨子」復元に夢とロマン

 タマムシという昆虫をご存知だろうか。政治の世界に足を踏み入れたことがある人ならば、「玉虫色の決着」などという言葉を思い浮かべるだろう。タマムシの羽は光線の具合でいろいろな色に変わって見える。そこから、解釈のしようによってはどちらとも取れるあいまいな表現という意味に使われ、「玉虫色の改革案」などと新聞の政治面で見出しになったりする。でも、多くの人がタマムシと聞いて連想するのが法隆寺(奈良県斑鳩町)の国宝「玉虫厨子」だろう。その玉虫厨子を現代に蘇らせるプロジェクトが完成し、その制作過程を追ったドキュメンタリー映画が輪島市と金沢市で上映されることになった(3月16日付・北陸中日新聞)。

 玉虫厨子の復元プロジェクトを発案したのは岐阜県高山市にある造園会社「飛騨庭石」社長、中田金太さん(故人)だ。実は、私がテレビ局に在籍していた9年前、中田氏に依頼され、輪島塗にタマムシの羽を使った作品の数々を紹介するテレビ番組「蘇る玉虫の輝き」(60分)をプロデュースした。そのときの記憶はいまも鮮明だ。いくつかエピソードがある。

  タマムシの羽は硬い。鳥に食べられたタマムシは羽だけが残り、地上に落ちる。輪島塗の作品をつくるとなると絶対量が日本では到底確保できない。そこで中田氏は、昆虫学者を雇って東南アジアのジャングルで現地の人に拾い集めさせる。それを輪島に持ち込んで、レーザー光線のカッターで2㍉四方に切る。それを黄系、緑系、茶系などに分けて、一枚一枚漆器に貼っていく。江戸期の巨匠、尾形光琳がカキツバタを描いた「八橋の図」をモチーフにした六双屏風の大作もつくられた。大小30点余りの作品を仕上げるのに延べ2万人にも上る職人たちの手が入った。

  これらの作品は中田氏がオーナーの美術館「茶の湯の森」(高山市)で展示されている。東南アジアでタマムシの羽を拾い集め、輪島塗の工芸職人に制作させるという着想は中田氏のオリジナルだった。すべての工程をお金で換算すれば数億にも上る、まさに「玉虫工芸復活プロジェクト」だった。その着想の成功を得て、今回、中田氏の夢は玉虫厨子に帰結したのだった。

  新聞によると、2004年から玉虫厨子のレプリカと平成版玉虫厨子の2つが同時進行で制作された。制作は前回同様に輪島塗産地の蒔(まきえ)絵や宮大工、彫刻師らが携わった。しかし、当の中田氏は07年6月、完成を待たずして76歳で他界する。妻の秀子さんが故人の意志を継ぎ、ことし3月1日にレプリカを法隆寺に奉納した。映画を手がけたのは乾弘明監督。国宝の復刻に情熱を傾ける職人たちの苦悩や葛藤を描いた作品になったという。映画のタイトルは「蘇る玉虫厨子~時空を超えた『技』の継承~」(64分・平成プロジェクト製作)。俳優の三國連太郎らが出演と語りで登場する。小学校の時から奉公に出され、一代で何百億の財を成し、国宝を蘇らせることに情熱を傾けた男の夢とロマンだった。人は死すとも、名品は残る。

  上映会は4月26日(土)午後7時から輪島市文化会館、翌27日(日)午後2時から金沢市本多町のMROホールで。

 ⇒16日(日)夜・金沢の天気   はれ

★カニ食い名人の話

★カニ食い名人の話

 日本海のズワイガニ漁が11月6日に解禁となった。ズワイガニにはご当地の呼び方があって、山陰地方では松葉ガニ、福井県では越前ガニと呼ぶ。石川県では昨年から漁協などが「加能(かのう)ガニ」と呼ぶことにしたらしい。加能とは、加賀と能登という意味である。ことしの初物は9日に食した。皿に盛られたゆでカニには青いタグが付いていて、「輪島港」と刻まれていた。つまり、輪島港で水揚げされたズワイガニという証明になっている。

 昔からカニを食べると寡黙になる、というのが常識だが、この日は様子が違った。同席したのは宮崎、福岡、大阪、奈良、東京、仙台と出身はバラバラ。すると、食べ方が慣れないせいか、「カニは好きだが食べにくい」「身をほじり出すのがチマチマしている」などという話になる。出されたカニには包丁が入っていて、すでに食べやすくしてある。これを「食べにくい」といってはバチが当たるというものだ。つまり、カニの初心者なのだ。

 そこで、席上でこんな話をつい偉そうにしてしまった。「私の友人で丸ごと一匹を5分間で食べる名人がいるんです」と。すると周囲の話がピタリと止んだ。「とにかく、包丁が入っていないので、脚を関節近くで折り、身を吸って出す。その音はパキパキ、ズーズー、その食べる姿はまるでカニとの格闘ですよ」「何とかチャンピオンでカニ食い選手権があったら間違いなく、その人が優勝です」「私はまだその域には達していないが、これまでのタイムでだいたい7分。メスのコウバコガニだったら5分で食べます」と。周囲は「さすが北陸の人はカニに対する思い入れが違うな」と、話だけで満足した様子。「カニと格闘する宇野さんの姿をぜひ見たい」という話にもなったが、さらに丸ごと一匹注文するとなるとさすがに値段が張るので話はたち切れになった。内心、ホッとした。

 その名人は実在する。福井県武生の人。私と同年代で、マスコミ業界にいたころからの友人だ。20代後半にその人とカニを平らげる時間を競争したことがある。その時のタイムが5分だった。福井の人はカニを食べ、さんざん飲んだ後、ソバを食べて仕上げる。カニとそばのことは福井の人にはかなわない、と思ったものだ。

 ついでにその名人の話。先日電話があり、福井から金沢大学の私の職場にやってきた。会社を辞めて、農業をやるという。武生は福井市と近いので出荷がしやすい。ハウス栽培で小松菜やホウレン草などを中心に作るのだという。人生が吹っ切れた感じで、ハツラツとしたいい顔だった。「50過ぎたら自分の人生。会社や家族のためではない。これからの時間、自分の人生を刻もう」と別れた。彼とカニ食い競争をしてから、かれこれ25年ほど経っている。

⇒13日(火)夜・金沢の天気  はれ

 

☆「巨大な1曲なんだよ」

☆「巨大な1曲なんだよ」

 6月13日は指揮者、岩城宏之さんの一周忌である。岩城さんのことは昨年の訃報以来、「自在コラム」で何度か書かせいただいた。

  最近、岩城さんが指揮したベートーベンの交響曲3番「エロイカ(英雄)」を聴いている。2005年12月31日にベートーベンの1番から9番までを演奏したチクルス(連続演奏)をCS放送「スカイ・A」が生放送したものを私的録音で時折、視聴している。番組の合間に岩城さんが曲を解説するコーナーがある。「ベートーベンはナポレオンの革命的行為を礼賛して、この曲をつくった。しかし、ナポレオンが皇帝になって、いやけがさして曲名を差し替えた」のがエロイカだと。当初の曲名は「ボナバルト」だったといわれる。

  ベートーベンは体制のイノベーター(改革者)としてのナポレオンに共感していた。共和制の守護者だったナポレオンが打ち出した政策は、キリスト教に対するアンチテーゼでもある「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」などの近代的な価値観を取り入れた画期的なものだった。ベートーベン自らも師匠のハイドンに教えを請いつつも、独自色を交響曲に取り入れた。3番で音楽史上初めて、シンフォニーのホルンを3本にし、5番でトロンボーンを(最終章)。そしてついに9番に声楽を取り入れる。当時は「禁じ手」だった。音楽史上のイノベーターだった。

  ナポレオンの思想は自ら皇帝になり、1804年の「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典で結実していくのだが、皇帝という権力者になったことに、ベートーベンはナポレオンの野心を見透かしてしまう。そして上記のように改題してしまうのである。ベートーベン、34歳。

  番組では岩城さんはこのように解説をしながら1番から9番を指揮していく。私は当時、経済産業省「コンテンツ配信の実証事業」のコーディネータ-としてかかわった関係で、東京芸術劇場大ホールで演奏を見守っていた。演奏を放送と同時にインターネットで配信していた。解説は収録だったが、演奏はライブである。岩城さんのすさまじいエネルギーは舞台裏でも伝わってきた。

  番組では指揮者を顔を映し出している。ディレクターは朝日放送の菊池正和氏。その菊地氏の手による、1番から9番のカメラ割り(カット)数は2000にも及ぶ。3番では、ホルンの指の動きからデゾルブして、指揮者・岩城さんの顔へとシフトしていくカットは感動的である。ベートーベンの3番におけるイノベーションがホルンであることを熟知していて、ホルンをここで聴かせる意味を存分に見せている。味わい深い番組なのである。

  1番から9番までを指揮者した感想を岩城さんは別の番組でこう述べている。「ベートーベンの1番から9番は個別ではそれぞれ完結しているんだけれど、連続して指揮してみると巨大な1曲なんだよ」(北陸朝日放送「岩城宏之 人生振るマラソン」2006年6月23日放送)。こんな壮大なスケール感のある番組は、「次の岩城さん」を待たなければつくれない。

⇒11日(月)夜・金沢の天気  くもり