⇒ドキュメント回廊

☆台湾旅記~3~

☆台湾旅記~3~

 5日朝、ホテルがある台北市天母地区の周辺を散歩した。市内の商店街やオフィス街の通りアーケードのようになっている。日本のアーケードのように、通りに屋根をつけるのではなく、建物の一階の道に面している部分を通路として提供しているという感じの造りで、店と店の間口によって段差がある。このアーケード通りには統一規格というものがない。よそ見しながら歩くと段差でこけたり、つまづく。間口が小さく奥行きもなさそうな商店もあり、建築設計や耐震構造に問題はないのかと、つい思ったりもした。

       食材市場を覗くと、「越光米」も「松葉蟹」も

 この天母地区というのは、台北市の北部にあり、日本人学校やアメリカンスクール、大使館などがある、ちょっとした高級住宅街でもある。中心街には日系デパートの高島屋もある。「士東市場」と書かれたビルがあり、のぞくと市民の台所といった感じの食材市場が広がっていた。2階建てで、1階が食材市場、2階がグルメ店や小物店などがずらりと並ぶ。鮮魚の店ではサケやタイ、マグロに並んで食用カエルを盛った皿も並んでいた。冷蔵庫に目をやると「松葉蟹」の冷凍ものも。精肉の店では、店員が烏骨鶏とおぼしき足の黒いニワトリをさばいていた。日本の食材市場と違うのは、その場で解体と処理と販売をする点だ=写真・上=。日本の場合、鮮魚は目の前でさばくにしても、精肉となると客にそこまでは見せないだろう。この市場では、トサカのついたニワトリの首がまな板の周辺に転がっていた。それぞれの国民の感性の違いはあるにしても、精肉の鮮度が「見える化」されていて、それが価値だと思えば、日本人も納得できるかもしれない。

 米屋があった。台湾産、タイ産など並ぶが、地元台湾産で一番値段が高かったのが「鴨間米」で一斤(600㌘)で65台湾ドル。「有機米」とも書き添えられてあったので、カモを水田に放ち、肥料と除草をまかなう栽培方法かと想像した。さらに値段でひと際目を引いたのは「越光米」、コシヒカリである。一斤(600㌘)85台湾ドル、今のレート換算で日本円にして240円ほど。1キロ計算では400円ほど。日本のスーパーマーケットで売られている米の値段と比べても、1キロ400円は高い。

 市場見学の後、台湾の大学関係者に越光米について聞くと、「台湾の富裕層は別として、地元の人はその値段では手が出せない。おそらく駐在の日本人が買うのではないか」と言う。そう言えば、こちらを日本人と見抜いてか、米屋の主人が近寄ってきて、片言の日本語で「電話でゴヨウメイください」と名刺を差し出してきた。ゴヨウメイとは「ご用命」のことか。名刺には赤字で「免費外送」と書いてある。つまり無料で配達しますよとの意味なのだと想像がついた。なかなか商売上手だ。ただ、この越光米は「日の丸」で日本産を強調しているが=写真=、残念ながら日本国内の産地表示がなかった。

⇒9日(水)午後・金沢の天気   くもり

★台湾旅記~2~

★台湾旅記~2~

 フジテレビ系列の番組『花嫁のれん』の第2弾が10月31日から放送が始まった。その11月7日から11日分が、台湾・北投温泉の加賀屋でのロケ分だという。ちなみにこの番組は、金沢の創業百年を誇る老舗旅館「かぐらや」で女将修業に励む奈緒子(羽田美智子)と、しゅうとめ・志乃(野際陽子)の確執が面白い。7日からの番組で出演している仲居さん(接待係)は現地台湾の従業員たち。和服の着こなし、髪結い、言葉遣いがきっちりとしていて、違和感がない。

      加賀屋の「もてなし」のノウハウを注入

 「台湾では、日本語ができて、格式を誇る旅館の最前線の社員ですので、日本でいえばスチュワーデスのような憧れの職業なんです」。 後日、台北・北投温泉の加賀屋を経営する株式会社「日勝生加賀屋」の副社長、徳光重人氏に取材するチャンスを得た。会社は台湾のデベロッパー「日勝生活技研」と日本の「加賀屋」がともに出資する合弁会社だが、主な出資と土地建物の所有は日勝生活技研である。2004年6月に日勝生加賀屋が日本の加賀屋とフランチャイズ契約(20年間)を結び、台湾の加賀屋は建築から料理、もてなしの様式、すべてが日本の加賀屋流だ。

 副社長の徳光氏は日本人ながら日勝生活技研の出向社員である。台湾に移り住んで17年になるという。フランチャズ契約を申し込んだのは台湾側から。「それ以来、開業に当たってずっと台湾と日本の文化摩擦の間に立ってきた」と振り返る。それを乗り越え、昨年2010年12月にオ-プンさせた。日本の加賀屋にとっては海外進出第1号となる。

 加賀屋にも「出店」への思い入れがあった。同社は1906年の創業であり、「100年」という節目を迎えて記念すべきメモリアル事業を起こしたい、また、今後ブランドビジネスを海外に展開していくためにもフランチャイズ契約の成功例をつくりたいという思い。また、北投温泉は明治16年(1894年)にドイツ人商人が発見したといわれ、1896年、大阪人の資本によって北投で最初の温泉旅館「天狗庵」が開業される。その後、日露戦争の際に日本軍傷病兵の療養所が作られ、北投温泉は名実ともに台湾の温泉の発祥の地となる。その天狗庵の跡地を日勝生が取得し、加賀屋が建つことになり、歴史的な意味合いやストーリー性があった。4番目の思いは徳光氏によれば、「加賀屋による台湾への恩返し」である。1990年の日本のバブル崩壊で、投資を先行した温泉旅館はどこも苦境にあえいだ。加賀屋もその例外ではなかったが、15年前、台湾トヨタの外国社員研修が初めて加賀屋で開かれ、そのもてなしが評判となり、ピークで台湾人宿泊者が2万人も訪れるようになった。

 この間、加賀屋も台湾人との接し方、もてなし方のノウハウを蓄積した。たとえば、青畳は日本人では新鮮な香りがして気持ちがよいものだが、台湾人はこの匂いが苦手だ。そのような経験知が生かされ、加賀屋が北投温泉に生まれた。

 開業から11ヵ月、宿泊客の6割は地元台湾から、2割が日本人観光客、そして1割が香港・マカオの客だ。リピーターも増えた。香港の実業家夫妻はこの間13回も宿泊に訪れた。日本のもてなしを心地よく感じてくれる素地が東アジアにはあると徳光氏は手応えを感じている。

※写真は、車のドアを開けたところ、「いらっしゃいませ」と出迎えてくれた接待係の女性従業員たち。車内からのカメラ撮影。和服の着こなし、身のこなしはきっちりと加賀屋流のトレーニングを受けている。それぞれ自分で選んだ源氏を持つ。

⇒7日(月)夜・金沢に天気  はれ

☆台湾旅記~1~

☆台湾旅記~1~

 先日(10月29日)、NHKの夜7時のニュースを見終えると、次に懐かしいメロディーが流れてきた。「NHKのど自慢」のそれ。「おやっ、なぜこの時間に」と思い見ていると、「NHKのど自慢 イン 台湾」とタイトルが出ている。スペシャル番組のようだ。しばらく視聴していると、自慢の歌声やパフォーマンスを繰り広げる日本と同じシーンだ。しかも、演歌からポップスまで幅広いジャンルの歌が披露される。日本語で歌われるのだが、予選を勝ち抜いた25組とあって、歌もさることながら日本語がうまい。演歌の節回しなども堂に入っている。相当歌い込んだのだろう。会場の国父紀念館(台北市)が2000人の観客で埋め尽くされ、テレビ画面からも熱気が伝わってきた。「台湾は近い」。そのとき感じた。それから1週間。きょう4日、台湾・台北市に来ている。その理由は後に述べるとして、初めて訪れたこの地の印象などを「台湾旅記」としてつづってみる。

       北投温泉・加賀屋から見える「観音様の横顔」

   台湾を訪れた目的は、授業だ。台北の大学と交流がある金沢大学のS教授から9月下旬、「能登の里山里海の取り組みやツーリズムについて講義をしてくれる人を探している」と問い合わせがあり、講義のコンセプトなどにやり取りをしていると「それでは能登の里山里海が世界農業遺産(GIAHS)に認定されたこととツーリズムについて、宇野さん、話して」と指名を受けてしまった。講義をする大学は、国立台北護理健康大学の旅遊健康研究所(大学院ヘルスツーリズム研究科)。日程は11月5日、テーマは「世界農業遺産(GIAHS)に登録された能登半島のツーリムズ」と決まった。

  羽田から3時間40分、現地時間4時10分ごろに台北の松山空港に着いた。大学の教員スタッフの出迎えを受け、最初に向かった先は、台北市内の中心分から車で30分ほどの山麓にある北投温泉。ここの「日勝生 加賀屋」=写真・上=を取材に訪れた。日本でも有名な和倉温泉「加賀屋」の台湾の出店である。実は、講義では日本の温泉ツーリズムについても触れてほしいと先方から依頼されている。温泉ツーリズムといえば能登半島の和倉温泉、そして「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」(主催:旅行新聞社)で31年連続日本一の加賀屋を引き合いに出さないわけにはいかない。北投の加賀屋の取材予約はあす5日の夕方だった。まずは挨拶に思い向かったのだが、現地のマネージャーから丁寧に館内を案内され、取材が事実上早まったかたちになった。

  15階の部屋など見せてもらった。通訳の女性が「あれが観音様の横顔ですよ」と指差した方を眺めると、尾根の連なりが確かに観音像が仰向けに横たわった姿に見える。夕焼けに映えて、神々しさが引き立っていた=写真・下=。その後、部屋を出るとき同行した台湾の男性教員がアッと声を出した。部屋の入り口で無造作に脱がれてあった6人の靴がきちんと並べられていたのだ。「これが日本の流儀なのですね」と。

 部屋から廊下に出ると、接待係の和服の女性が笑顔で控えていた。宿泊者でもない、ただの見学者にさえも気遣いをしてくれたのだ。これが加賀屋流の「もてなし」かと、見学を申し込んだ自分自身も恐縮したのだった。

 ⇒4日(金)夜・台北の天気   はれ

☆「ミクロ」の輝き4

☆「ミクロ」の輝き4

 よく手入れされた山が能登半島にある。中でも、能登町宮地・鮭尾地区はキノコが採れる山で知られる。この山を生かして、いろいろな体験ができる=写真=。山菜採り体験、ツリーハウス作り体験、炭焼き体験など都会ではできないコンテンツだ。能登町の農家民宿群「春蘭(しゅんらん)の里」。いまこの集落が注目されている。

       英・BBC放送に挑戦した「春蘭の里 持続可能な田舎のコミュニティ」

 地域おこしを目指す草の根活動を表彰するイギリス・BBC放送の番組「ワールドチャレンジ」。世界中から600以上のプロジェクトの応募があり、「春蘭の里」が最終選考(12組)に残った。題して「春蘭の里 持続可能な田舎のコミュニティ~日本~」。日本の団体が最終選考に残ったのは初めてという。BBCでは現在、12組の取り組みを放映中で、内容は特設サイトでも見られる。投票は同サイトで11月11日まで受け付け、結果は12月に放送される予定。最優秀賞(1組)には賞金2万ドル、優秀賞には1万ドルが贈られる。最優秀賞をかけたインターネット投票を実施中で、地元は「能登の魅力を世界に発信するチャンス。ぜひ投票して欲しい」と訴えている。 

 能登町はことし2月の国勢調査の速報値でも、前回(5年前)調査に比べ人口が10%現象するなど過疎化が起きている。そこで、同町のDさん(63)ら有志が住民が実行委員会を設立し、「春蘭の里」づくりを始めた。1996年のことだ。春蘭の里のキャッチフレーズは「何にもない春蘭の里へようこそ」だが、30の農家民宿がそれぞれ「1日1組」限定で宿泊客を迎え、囲炉裏を囲んだ夕食でもてなす。くだんの炭焼きや山菜採り、魚釣りなどの体験もできることから人気を集め、去年およそ5000人が泊まった。

 春蘭の里実行委員会がBBC放送にエントリーしたのは、突飛な話ではない。去年10月、名古屋市で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)の公認エクスカーション(石川コース)では、世界17ヵ国の研究者や環境NGO(非政府組織)メンバーら50人が参加し、春欄の里でワークショップを繰り広げた。そして今年6月、北京での国連食糧農業機関の会議で「能登の里山里海」が世界農業遺産(GIAHS)に認証され、能登にはある意味での世界とつながるチャンスが訪れている。春蘭の里はこの機会を見逃さずにエントリーしたのだ。

 とはいえ、他の11組は強敵ぞろいだ。ナイル川に咲くスイレンや稲わらなど1050 万トンの農業廃棄物を利用して、ギフトボックスやランプシェイドなどの高級な紙製品を作るエジプトの非営利企業や、パラグアイの先住民と企業が協力して熱帯雨林でハーブティーなどを育てる取り組み、ニューヨークのビルの屋上スペースで農業を行う取り組みが選ばれている。そのほか、「バイオガスエナジー~インド~」、「燃費の良いコンロ~ウガンダ~」、「電気ごみリサイクル~チリ~」、「ユキヒョウを守れ~モンゴル~」、「中古車リサイクル~イギリス~」などがある。予断は許さない。いつも大声のDさんは「番組のアピール効果は大きい。ぜひトップを狙いたい。そして能登に外国人がもっと来てほしい」と投票依頼に余念がない

 春蘭の里の世界への挑戦。地域のチャレンジは人々の輝きでもある。

⇒16日(日)朝・珠洲の天気  はれ

★「ミクロ」の輝き3

★「ミクロ」の輝き3

 去年5月のこと。映画監督を名乗る31歳の女性が珠洲市にある製塩施設「塩田村」を訪ねてきた。人と塩をテーマに映画をつくりたいという。聞けば、スポンサーとなる映画配給会社や広告代理店もない。地元の人は当初、疑心暗鬼だった。でも、近くの民家を間借りして、撮影が始まった。監督自ら炊き出しをしながら(地元からいただた魚や海藻で)、カメラや音声のスタッフとともに炎天下の塩づくりを熱心に撮影し続けた。

          「ひとにぎりの塩」が問う、現代人の忘れもの

 能登の製塩方法は「揚げ浜塩田」と呼ばれる。塩をつくる場合、瀬戸内海では潮の干満が大きいので、満潮時に広い塩田に海水を取り込み、引き潮になればその水門を閉めればいい。ところが、日本海は潮の干満が差がさほどないため、満潮とともに海水が自然に塩田に入ってくることはない。そこで、浜から塩田まですべて人力で海水を汲んで揚げる。揚げ浜というのは、人力が伴う。しかも野外での仕事なので、天気との見合いだ。監督のCさんが魅せられたのは、条件不利地ながら自然と向き合う人々の姿だった。

 今では動力ポンプで海水を揚げている製塩業者もいるが、かたくなに伝統の製法を守る塩士(しおじ、塩づくりに携わる人々)もいる。人がそれこそ手塩にかけてつくる塩、それは人が生きる上で不可欠にして量産には限度がある。これこそ人がつくり出すモノの「最高傑作」ではないのかと、Cさんは気づく。これを数百年間つくり続ける能登の人々。ひとにぎりの塩をつくるために、人はどのように空を眺め、海水を汲み、知恵を絞り汗して、火を燃やし続けるのか。現代人が忘れた、愚直で無欲でしたたかな労働とは何か、と問い続けた。

 さらにことし3月11日、東京で大地震に遭った。電気が止まり、バスや電車がストップした。都市基盤の弱さ。なすすべなく、黙々と歩くしかない人々。Cさんは思った。「脆(もろ)い」。現代文明は市場で約束されたことしかできない。売り買いが成立しなければ、生活すら危うい。それに比べ、能登で目にする人々の生活は売り買いの契約ではなく、「贈与」にあふれている。野菜を魚を、互いに裾分けして助け合う。似ているが物々交換とも異なる。強いていえば、無償の隣人愛なのかと。

 足かけ2年、つい先日、映画は完成した。ドキュメンタリー映画「ひとにぎりの塩」。私はまだ映画を観ていない。ただ、Cさんとの会話から、映画のストーリーを勝手に脳裏に浮かべている。映画には英語字幕もつける予定で、作品を世界に問う。ひょっとして、この映画、現代文明への大いなる問いかけにかるかもしれない。そして、日本人が「能登が日本にあってよかった」と感想を漏らすかもしれない。先行上映会が10月8日に珠洲市である。楽しみにしている。※写真は、「塩田村」のホームページから

⇒4日(火)朝・金沢の天気   はれ

☆「ミクロ」の輝き2

☆「ミクロ」の輝き2

 講演会のチラシなどで、ソーシャル・ビジネス(SB)という言葉を最近よく目にする。地域社会の問題をビジネスを通して解決していくという意味合いだ。では、過疎・高齢化が進む地域ではどのようなビジネスを新たに興せば、その地域が活性化していくのだろうか。これから示す例がSBに当たるかどうか分からない。が、お年寄りたちの目が輝き始めている。

      お年寄りの目を輝かせたい、能登の「サカキビジネス」 

 Bさん(28)は金沢市内の生花店に勤める男性だ。週2日ほど能登半島の北部、能登町で借りている家にやってくる。今年2月に発表された国勢調査の速報値でも、能登半島の北部、「奥能登」と呼ばれる2市2町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)は軒並み5年前の調査に比べ、人口が10%減少している。高齢化率も35%を超え、人手が足りなくなった田畑の耕作放棄率も30%を超える地域だ。

 奥能登では、Bさんの仕事は「サカキビジネス」と呼ばれている。里山の集落を回って、サカキの出荷を呼びかけている=写真=。サカキは、古くから神事に用いられる植物であり、「榊」という漢字があてられる。家庭の神棚や仏壇に供えられ、月に2度ほど取り替える習わしがある。このサカキは金沢などでも庭先に植えている家庭が多い。種類は、ホンサカキとヒサカキの2種がある。

 Bさんのサカキビジネスをさらに詳しく見てみよう。能登では裏山にヒサカキが自生している。これを摘んで束ねて出荷してもらうのだ。サカキは摘みやすく、高齢者でも比較的楽な作業である。これを「山どり」と呼んでいる。さらに、Bさんは、計画出荷ができるようにと、耕作放棄地の田畑に挿し木で植えて栽培することを農家に勧めている。

 この能登産のサカキは、金沢市内では一束150円ほどで販売されている。実は、ス-パーなど市場に出回っているサカキの90%以上は中国産だ。「地元産のサカキに合掌したいというニーズもあるはず」と、Bさんは能登産に狙いをつけた。過疎や高齢化で進む耕作放棄地と、お年寄りの労働力があればビジネスは成立するのではないか、と。徐々に出荷するグループが増え、4、5人のお年寄り仲間で年間出荷額100万円を売り上げるところも出てきた。こんなグループが10できれば1000万円、100できれば1億円の売り上げになる。お年寄りにすれば「小遣い稼ぎ」ではあるが、点が面になったときに産地化する。

 山の葉っぱを集めて料理屋に卸す徳島県上勝町の「彩(いろどり)事業」は葉っぱビジネスとして知られる。上勝町が取り扱う、南天や紅葉の葉、柿の葉は320種類になる。この事業を支えているのはお年寄りだ。都会には季節感が薄く、料理屋からの葉っぱのニーズは高い。上勝町では町長らが音頭をとって支援している。能登産サカキも、最近になって農協(JA)がサカキ生産部会を組織して、集団で栽培に取り組むようになってきた。Bさんのまいたタネは広がっている。

 初対面はBさんが24歳のとき。話ぶりはぼくとつとして言葉も粗く、とても人前で話せるようなタイプではないと思っていた。ところが、最近ではパワーポントを使って説明会もこなしている。まだまだだが、確実に成長している。地域の活性化をしっかりと支えるのはカリスマではなく、むしろ若くぼくとつしたタイプなのかもしれない。

⇒2日(日)夜・金沢の天気  くもり

★「ミクロ」の輝き1

★「ミクロ」の輝き1

 市井でオーラを放ち、その生き方に共感する人々に影響を与え続ける人こそ本来の輝きと私は思っている。人の輝きを見つめないと、いつまでたってもトレンドやマーケットに踊らされるばかりだ。人の活動の本質が見えてこない。私が知る、狭い範囲でも輝いている人は何人もいる。肩書きがつく偉い人ではない、マーケットを左右するような人でもはない。おそらく歴史の中で埋もれゆく人たちである。ただ、いま輝く人とはこのような人たちだ。ローカルの話である。題して「ミクロ」の輝き。

          CO2排出の収支計算をして変わった炭焼き人生

 自分の職業が環境にどのような影響を与えているだろうか。たとえば二酸化炭素。これを空中や社会にまき散らし、「儲かった、儲かった」と喜んでいる人たちは多い。環境に謙虚な気持ちを持つ人々ならこれを疑問に考えるだろう。それに真剣に取り組んでいる人の話だ。

 能登半島の先端・珠洲市に在住するAさん(34)。日本でも数少ない炭焼きの専業者だ。「自分の仕事は、巷間で言われているように本当にカーボンオフセットなのか。違うのではないか」。木炭は、二酸化炭素を吸収した樹木を焼くので本来ならば二酸化炭素の排出はゼロである。ところが、炭焼きという仕事となると、木の切り出しにガソリン使用のをチェーンソーを使い、運搬や出荷にトラックを使用するのでトータルでは二酸化炭素を排出していることになる。Aさんは悩んだ。そして大学の門をたたいた。

 大学の教員とともに、ライフサイクルアセスメント(LCA=環境影響評価)の手法を用い、自らの2004-2009年にかけての製造、輸送、販売、使用、廃棄、再利用までの各段階における環境負荷をコツコツと帳簿をひっくり返しながら計算することになる。さらに、自らの炭焼きよるCO2の排出量と、植林や木炭の不燃焼利用によるCO2固定量を比較することで、炭焼きによるCO2削減効果の検証を行った。また環境ラベリング制度であるカーボンフットプリントを用いたCO2排出・固定量の可視化による、木炭の環境的な付加価値化の可能性をとことん探った。仕事の合間で2年かけ、2010年2月に二酸化炭素の排出量の収支計算をはじき出すことができた。

 その結論。彼の炭焼き工場の場合、不燃焼利用の製品割合が約2割を超えていれば、木炭の生産時に排出されるCO2量を相殺できるということを計算上で明らかにした。不燃焼利用とは、木炭を土壌改良剤や建築材として製品出荷すること。つまり、燃やさず固定するのである。彼はさらにカーボンマイナスへの可能性を探る。つまり、植林によって新たなCO2吸収源を拡大し、CO2 固定量を増やすのだ。このあたりから、Aさんの目は輝き始めた。自らの業(なりわい)に確信が生まれたのだ。

 彼は今、6000本を目標にクヌギの木の植林運動を進めている=写真=。クヌギの木は茶道用に使う「お茶炭」の材料となる。次なる目標は環境と経済の両立だ。付加価値の高い木炭を生産することで目標突破を目指す。彼の考えに賛同し、支援する人も増えてきた。来る11月6日(日)のクヌギの木の植林活動には手弁当で150人もの人たちが珠洲の山中に集まる。金沢や東京からも。

⇒29日(木)夜・金沢の天気  あめ

★佐渡とグアムの島旅5

★佐渡とグアムの島旅5

 水質調査をした訳ではないが、ジャングルの豊富な栄養分をタロフォフォ川が湾に注ぎ、川だけではなく、外洋の植物プロンクトンの増殖に影響を与えているのではないか。ガイド役のジョンは、川の流れが注ぐタロフォフォ湾には多くの魚が生息していて、「ちょっと深いところにはイルカもいる」と話した。湾は海の水と川の水が混じる汽水域(きすいいき)と呼ばれる。畠山重篤氏は著書『鉄は魔法つかい』の中で「川の水が注ぐ海、汽水域は、フルボ酸鉄が注ぎこむので海藻と魚介類が育ち、人間と生き物たちが交錯するところです」((P.190)と述べている。察するに、タロフォフォ湾やその周辺、さらにグラム島は古代より格好の漁場なのかもしれない。

            ~ 海の民・古代チャモロ人の姿をほうふつと ~

 グアム政府観光局のホームページは、グラムの豊かな海について紹介している。「海中を彩っているのは、魚達だけではありません。様々な形で海中に素晴らしい造型美を見せてくれるサンゴはもちろん、赤や黄色、白など、豊かな色彩で海中の花園を造っている、イソバナやウミンダ、妖しい美しさのイソギンチャクも。現在、グアムの海には約300種類のサンゴと、50種類におよぶソフトコーラル類が生息しています」と。

 では、「川は海の母」と語るチャモロ人は海とどうかかわってきたのだろうか。『Island Time(アイランド タイム)vol.17』というグアム情報誌に、「スピアフィッシング 先祖の暮らしを支えた海に今、再び潜る」という特集があり、そこにはチャモロ人の漁労の歴史が詳しく述べられている。かいつまんで紹介する。古代チャモロ人の生活は海からの恵みによって支えられていた。人々は海に潜ってモリ=チャモロ語でフィスガ=で魚を捕まえ、暮らしの糧としていた。モリの刃には動物の骨が使われていたが、1600年代にスペイン人がグアムに金属を持ち込み、金属製の刃が使われるようになって、モリで魚を仕留める技術は格段に進歩した。漁場では、ココナッツの葉などを燃やし、その灯りで魚をおびき寄せるスロという呼ばれる漁法も用いていた。チャモロ人は、必要以上には捕獲せず、その日の食べる分だけ捕獲し、食べ物を分け合うという精神を育んだ。先のグアム政府観光局のホームページでも、「グアムの漁師は、今でも古代チャモロ人が編み出した方法(投げ縄)で漁を行っています」と。伝統は脈々と受け継がれている。

 グアム国際空港で、古代チャモロ人の漁労のいでたちを描いたポスター=写真・右=が貼ってある。右手にフィスガを持ち、まるで戦士のような勇壮な姿である。ちなみCHAIFIとは「友達になる」というチャロモ語らしい。そして、タモン湾地区のマクドナルドの店では、古代チャモロ人のイルカ漁を描いた絵画=写真・左=が掛けてあった。丸木舟でイルカを追いかけ、若者が潜ってイルカを捕まえる。想像画ではあるが、海洋の民・チャモロ人の姿をほうふつさせる。
 
 グアムの旅の最終日(19日)、ホテル近くの水族館を見学した。海底を再現した巨大な水槽の下を歩く。その名も「トンネル水族館 アンダーウォーターワールド」。100㍍の「海底トンネル」からは、パンフによると「100種類4000匹」の魚が観察でき、中にはハタ、ウミガメ、サメ、エイなど大型の海洋生物なども見ることができる。立ち止まってよく見ると、海に沈んだ旧日本軍の戦闘機や沈没船とおぼしき残骸=写真=もあり、鑑賞する人によっては痛々しく感じるだろう。が、それらは魚たちの魚礁にもなっていて、複雑な思いだ。

 15日の佐渡の天然杉の見学から始まって、19日のトンネル水族館まで、5日間の島旅は山と海の生態系、そして人の関わりを考えるよいテーマに恵まれた。

⇒20日(火)朝・金沢の天気 あめ

☆佐渡とグアムの島旅4

☆佐渡とグアムの島旅4

 グアム島の地図を眺めていると、ぽってりとした芋虫の這う姿に似ている。その西側はフィリピン海、東側は太平洋である。ホテルがあるタモン湾はフィリピン海に面している。18日午後から島の南、太平洋側に注ぐタロフォフォ川をさかのぼるリバー・クルーズのツアーに参加した。ここで思いがけず「グアムの森は海の恋人」を目の当たりにすることになった。

         ~ 「母なる川」と呼ばれるタロフォフォ川 ~

  クルーズのガイドはジョンとマンティギという先住民チャモロ人の血を引く男性2人だ。クルーズはジャングルの中を縫うように流れるタロフォフォ川をさかのぼり、途中、川沿いの古代チャモロ村落跡を訪ね、ラッテ・ストーン(建造物の土台)などの遺跡を見学するほか、ハイビスカスの乾木を使った伝統的な火おこしやヤシの葉編みのアトラクションを見学するという4時間ほどのツアーだ。

  川の流れはタロフォフォ湾に注ぐ、グアムでも比較的な大きな川だ。上流へとさかのぼるにつれ、うっそうとしたジャングルの樹木の枝が川面に垂れ、遊覧船はそれを押しのけるようにして進む。ジョンが「この川にはワニはいないけど、大きなマナズがいるんだ。あそこにうようよいる」と流ちょうな日本語で指をさした。そしてあらかじめ用意してあったパンをちぎって川面に投げると70~80㌢はあるナマズやサヨリに似た小魚の群れがワッと集まり=写真=、辺りが黒くなるほどだ。ブラックバスやウナギなどもこの川には豊富にいる、という。

  ジョンが「ヨコイはこの川の上流で28年間も自給自足の生活をしていたんだ。彼が発見されて、この川のナマズの焼いたのがうまかったと言っていたらしい」と解説した。クルーズに参加した10人のほとんどは若いカップルや家族で、おそらく若い世代にはヨコイは何者か理解できなかったはずだ。横井庄一(1915‐1997年)、元日本兵。終戦後も配属先のグアムに潜み、1972年にタラフォフォ川でエビを採っていたところを現地の猟師に見つかった。彼はグアムでは英雄だ。28年間も完全自給自足、究極のサバイバルに挑んだ男として。横井が暮らした穴居は「Yokoi Caves」として観光マップにも掲載されている。

  興味を持ったのは、ヨコイも漁をしたタロフォフォ川だ。この川の水はうす茶色だ。ジョンとマンティギに「上流で工事をしているか」と尋ねたところ、「昔からこんな色の川だ」との返事だった。そこで思い出したのが畠山重篤氏の『鉄は魔法つかい』の中で北海道・襟裳岬の「はげ山復旧事業」を紹介した下りだ。「うす茶の色は、まちがいなくフルボ酸鉄の色です。復活した森の中で生まれたフルボ酸鉄が、ゆっくり地下に浸透し、水路から海に流れ出しているのです。森の土は、粒子が細かく赤茶けていて、鉄分が多そうでした」(P.177)。川の水が茶色に濁っているのは、フルボ酸鉄(腐葉土にある鉄イオンがフルボ酸と結合した物質)を多く含むからだ。そしてフルボ酸鉄は、植物プランクトンや海藻の生育に欠かせない。この川にナマズやウナギ、エビなどの魚介類が多く見られるのは本来の豊かな川なのだと気がついた。そして切り立った川べりの土を見ると鉄分を多く含む赤土だった。

  そこでジョンとマンティギに聞いた。「この川は海にも恵みをもたらしているのではないか」と。するとジョンは「そうだ。チャモロ人は昔から母なる川と呼んでいるよ」と。グアムでは、「森は海の恋人」ではなく「川は海の母」なのだ。

⇒19日(月)朝・グアムの天気   はれ

★佐渡とグアムの島旅3

★佐渡とグアムの島旅3

  関西空港の出発ロビーはゴールデンウイーク並みにごった返していた。これも「超円高」のある意味で恩恵なのだろう。現地時間15時ごろ、グアム国際空港に着いた。そこからタクシーで10数分、島のほぼ中央の西側、タモン湾を臨むホテルに入った。観光名所となっている恋人岬(TWO LOVERS POINT)に近い。さらに北にはアンダーソン・アメリカ空軍基地(グアムはアメリカの準州)がある。

           ~ 和モダンとミクロネシアの海辺 ~

 グアム旅行は昨年10月に続き2度目なのだが、最初家人が行こうと提案したとき、余り乗り気ではなかった。正直言って、使い古された南国のリゾ-ト地という、さびたイメージがあったから。もっと悪く言えば、ショッピング(免税)とゴルフの島なのだ、と。個人的には双方とも縁がない。それでも家人は気に入ったらしく、2度目も「家族孝行」と思いやってきた。

 ところが、ホテルに到着して、ちょっとイメージが変わった。このホテルは初めてなのだが、3年前に改装したという。フロントがあるロビーが何かモダンな感じがした。さびた感じのミクロネシアのリゾ-ト地らしくないのである。和模様のイス、屏風を思わせる壁面。和風モダンなのである。漆を塗った竹編みのかごもさりげなくインテリアとして並べてある。ロビーを抜けて海岸に向かって歩くと亜熱帯の植物が配され、池にはニシキゴイが泳ぐ。そしてビーチに出ると、そこは間違いなく、ミクロネシアの海が広がる。

 これは発見だった。この和モダンとミクロネシアの海辺の絶妙な空間デザインは誰の手によるものだろうか、建築デザイナーの名前が知りたくなった。

⇒18日(土)朝・グアムの天気  はれ