⇒ドキュメント回廊

★2011ミサ・ソレニムス-7

★2011ミサ・ソレニムス-7

 きょう30日の東京株式市場は、日経平均株価の終値が前日より56円46銭(0.67%)高い8455円35銭だった。1年最後の取引日の終値としては、1982年の8016円67銭以来、29年ぶりの安値を記録した。1982年の出来事を調べると、三越・岡田茂社長が取締役会で解任され、「なぜだ!」という言葉が話題となった。その後、背任で愛人とともに逮捕(三越事件)された。東京・赤坂のホテルニュージャパンで火災が発生し33人が死亡。あみんの歌「待つわ」がヒットし、タモリの「笑っていいとも!」がスタートした年だった。福沢諭吉の肖像画の1万円札が発行された年でもある。この年、日本の経済は、世界の同時不況とアメリカの高金利で、これまでの輸出主導型の経済が制約され、国内需要がなんとか経済の成長を支えていた。景気の谷だった。その4年後から、日本の株と土地の異常な値上がりで1991年までバブル景気に日本人は踊ることになる。

           悲報に慣れるな、ニュースに流されるな、希望をつなごう

 その年から29年たった2011年は、東日本大震災による被災や外国為替市場での歴史的な円高水準の定着、世界的な景気後退など、日本の経済を圧迫する不安材料がいくつも重なった。当然、投資家の心理も冷え込み、株価を押し下げた。欧州の財政危機の長期化懸念も広がっている。

 先月(11月)15日、担当するジャーナリズム論で、北陸銀行の高木繁雄頭取に講義をいただいた。題して「私の新聞の読み方」。その中で印象に残るシーンがあった。経済学者アダム・スミスの『道徳感情論』(1759年、グラスゴー大学の講義録)を引き合いに出して、一文(日本語訳文)を頭取が読み上げたのだった。

 「いま中国の大帝国が地震のために、その無数の住民とともに陥没したと仮定せよ。そして、かかる地球の一角になんら関係のないヨーロッパの人道の士が、この恐るべき災害の報に接してどのように感ずるかを考察してみよう。ひそかに思うに、彼はまずこの不幸な人々の災難にたいして強い哀悼の情をあらわし、人間生活の無常なることや、瞬間にして潰滅しさる人の営みの虚しきことについて、幾多の憂鬱な想いにふけるであろう。また彼が投機的な人間であるなら、おそらくこの災害がヨーロッパの商業、ひいては世界の商取引一般に及ぼす影響について多くの推察を試みるであろう。さて、すべてこうした哲学がひと段落を告げ、こうした人道的感情がひとたび麗しくも語られてしまうと、あたかもこんな出来事がぜんぜん突発しなかったかのごとく、以前と同様の気楽さで、人々は自分自身の仕事なり娯楽なりを続け、休息し、気晴らしをやる。彼自身に関して起こる最もささいな災禍のほうがはるかに彼の心を乱すものとなるのである。もしもあした、彼の小指を切り落とさなければならないとするなら、彼はたぶん、今宵は寝もやられぬであろう」

 この一文に耳を傾け、「中国の大帝国」を「日本」に置き換えれば現代でも通用する、実に分かりやすいたとえとなる。人類というのは災害など悲報に接し、哀悼し自らのこととして麗しく道徳的な感情になる。ただ、それはいったん語り終えられると、その道徳的な感情は長続きはしない。私の身の回りでも、2007年3月に能登半島地震があり多くの家屋が倒壊し海外ニュースにもなった。ただ、今はそのことすら思い出せない人々が多い。高木頭取が言いたかったのは、ニュースに流されるなということなのだ。「報道されなくなったからと言って、危機が去ったわけではない。より大きなニュースや事件があれば、結果として報道は偏ってしまう」と。道徳的な感情は流されやすい。だから、自らで手でニュースを探究せよと学生たちに呼びかけたのだ。

 我々日本人は悲報に慣れきっているのではないか。これが当たり前だ、と。経済が29年前と同じ水準に戻っても、仕方ないとあきらめるのか。悲報に接してもあすを、来年を良い日、良い年にしようというモチベ-ションを持たねばはあすが続かない。シリーズ「2011ミサ・ソレニムス」をこれで終える。

⇒30日(木)夜・金沢の天気  くもり

☆2011ミサ・ソレニムス-6

☆2011ミサ・ソレニムス-6

 29日、イタリアの10年物国債の流通利回りが危険水準とされる年7%を超えたことなどを背景にユーロ売りが加速して、円相場が100円近くに上昇したとのニュースがテレビ、新聞などで掲載された。この1年の経済で最も危機感をあおったのはこのユーロ危機だろう。シリーズ「2011ミサ・ソレニムス(荘厳ミサ曲)-6」ではヨーロッパのこの1年を想ってみたい。

           「働かないギリシャやイタリヤに意義がある」

 相当な影響だろう。イタリア経済はギリシャとは比べものにならない、ドイツ、フランスに次ぐユーロ圏3位の経済力を持つ国なのだ。さらにギリシャはすでにデフォルト(破綻)していると見方がある。実際、ギリシャ10年債利回りは30%を超えている。欧州首脳会談では、ギリシャの国債の50%の元本減免されたが、残り50%も支払われるかどうかはもわからない。これが危機感の連鎖をもたらしている。

 先月(11月)10日の誤送信問題を思い出した。アメリカの格付け会社「S&P」が、フランス国債の格付け引き下げを知らせるメールを「誤送信」したことで市場が一時混乱した。ギリシャ、イタリアに続き、フランスまでもと市場も国際政治も騒然としたことだろう。S&Pはその後の公式発表で、「誤送信」とした。でもこれは常識で考えれば「予定原稿」だろう。利用しない原稿を準備するはずがない。これが混乱が混乱を招くユーロ圏の実態だと思えばよい。

 ヨーロッパの実質経済もよくない。ニュースを総合すると、欧州主要国の経済予測を見ると、来年は今年よりも厳しい見込みが出ている。実質経済成長率では、ドイツでさえ2.9%から0.8%へ下落の見通し。ドイツ政府が11月に発表した9月の鉱工業生産指数は前月比2.7%低下し、第3四半期終盤に生産の勢いが急激に失速していることを示していると伝えられた。スペイン、ポルトガル、ギリシャ、イタリアなど経済の調子が悪くなるに連れ、EU圏内での取引が多いドイツ経済に徐々に悪影響が出てきているのだろう。

 ここまでも話を進めると、かつてギリシャは歴史的に「民主主義」を生み出した国だったが、いまや「衆愚政治」に陥った国、そしてイタリアもフランスも同じ轍を踏んでいると思ってしまう。そして、今やその衆愚政治は治療できない、本当の欧州危機ではないかと多くの人が考え込んでいる。

 ことし夏に読んだ本の中に、『働かないアリに意義がある』(長谷川英祐著、メディアファクトリー新書)がある。進化生物学者である著者の言いたいことを私なりに解釈すると次のようになる。昆虫社会には人間社会のように上司というリーダーはいない。その代わり、昆虫に用意されているプログラムが「反応閾値(いきち)」である。昆虫が集団行動を制御する仕組みの一つといわれる。たとえば、ミツバチは口に触れた液体にショ糖が含まれていると舌を伸ばして吸おうとする。しかし、どの程度の濃度の糖が含まれていると反応が始まるかは、個体によって決まっている。この、刺激に対して行動を起こすのに必要な刺激量の限界値が反応閾値である。

 人間でいえば、「仕事に対する腰の軽さの個体差」である。きれい好きな人は、すぐ片づける。必ずしもそうでない人は散らかりに鈍感だ。働きアリの採餌や子育ても同じで、先に動いたアリが一定の作業量をこなして、動きが鈍くなってくると、今度は「腰の重い」アリたち反応して動き出すことで組織が維持される。人間社会のように、意識的な怠けものがいるわけではない。

 これを少々乱暴な論の進め方であるが人間社会で想像してみる。人々の働きによって金がぐるぐる回る資本主義社会ではギリシャやイタリアの反応閾値はよくなかった。しかし、世界が混乱に陥り、人類が新たな文明の理念を求め始めたとき、「腰の重い」ギリシャやイタリアから新たな思想や英雄が現るのかもしれない。本のタイトルになぞらえれば「働かないギリシャやイタリアに意義がある」と。そう願いたい。

⇒29日(木)夜・金沢の天気   ゆき
 

★2011ミサ・ソレニムス-5

★2011ミサ・ソレニムス-5

 大学の授業のTA(テーチィング・アシスタント)をしてくれている中国人留学2人を誘って、先日忘年会をした。金沢の居酒屋でのささやかな宴(うたげ)。刺し身、生春巻き、焼き鳥、そして飲み物はワインだ。中国ではビール、紹興酒だけでなく、意外に中国の若者はワイン党なのだとか。彼女たちは「日本の食べ物はおいしい。安全ですから」と喜んだ。中国でも国民は食の安全性にとても敏感になっていると言う。少々価格は高いが日系資本のスーパーマーケットを利用する中国の消費者も増えている。

            「ヘビが住む家から鳥は飛び立たない」ロシアのことわざ

 彼女たちは本国の食の事情を嘆いた。「毒菜」という言葉があるそうだ。姿やカタチはよいが、使用が禁止されている毒性の強い農薬(有機リン系殺虫剤など)を使って栽培された野菜のことを指す。「下水油」というのもある。残飯やどぶの汚水などを処理して精製した油、あるいは劣化した油を処理して見栄えをよくした油で実際に年に何万㌧も出回っていて、最近摘発された。「同年代の若い人たちは屋台の食堂には行かなくなりましたよ。なんだか怖くて」と。中国のゆがんだ「食」をただしていくのはネットで情報を共有し合える若い世代なのかもしれない。

  先日、あるロシア人事業家と話す機会があった。彼は、中古の乗用車や建設機械、漁船などを日本国内や極東ロシアに販売する仕事をしている。将来はインドやアフリカにも販売ルートを拡大したいとプランを練っている。その彼が意外なことを口にした。「年々、ロシアのビジネス環境は悪化している」と。ロシアは今月(12月)16日、世界貿易機関(WTO)の加盟承認を得て、批准手続きを経て154ヵ国目の加盟国となる予定だ。資源依存度が高いロシアは2008年のサブプライムローン金融危機による需要の低迷から一時原油価格が急落し打撃を受けたが、WTO加盟でさらに経済の多様化に弾みがつき、ビジネス環境はむしろよくなっていると素人目にも映っていたのだが。

 彼は続けた。「ロシアのことわざに、ヘビが住む家から鳥は飛び立たない、とね」。何を意味しているのかというと、WTO加盟に向けた動きなどビジネス環境はよくなって見えるものの、現実は「国内のエネルギー産業は国が統制する」とのプーチン大統領時代からの方針があり、たとえば天然ガス生産量世界最大のガスプロム社は政府の株式保有比率は過半数を超える半国営企業だ。また、ロシア最大規模の石油会社ユコスの創業者が脱税事件で逮捕され(2003年10月)、会社そのものが解体された。そうした政府による経済支配はメドベージェフ大統領になっても引き継がれ、今ではエネルギー産業にとどまらずさまざまな経済分野に及んでいる。大統領の背後でにらみを利かせるプーチン首相、さらにそのバックヤードでかつてのソ連国家保安委員会(KGB)人脈がうごめく。彼はそのビジネス環境を「ヘビが住む家」とたとえたのだ。

 ニュースによると、今月(12月)4日のロシア下院選挙をめぐり、与党「統一ロシア」の不正疑惑への抗議が続いて、24日にはソ連崩壊後最大となる集会がモスクワであった。来年3月の選挙で大統領復帰を狙うプーチン首相。「プーチンなきロシアを」と叫ぶ民衆にはくだんのロシア人実業家と同じ閉塞感があるのだろうか。隣国ロシアの2012年の動きが気にかかる。

※写真は中国・北京の紫禁城(故宮)の竜の扉

⇒28日(水)朝・金沢の天気   はれ

☆2011ミサ・ソレニムス-4

☆2011ミサ・ソレニムス-4

 ことし7月24日にテレビのアナログ放送が停波(岩手、宮城、福島の3県を除く)、デジタル放送に完全移行した。1953年に誕生した日本のテレビはカラー化やハイビジョンなどの技術革新を経て、2011年にようやくデジタル化へ到達したとの感はある。しかし、私の周囲の地デジに関する評判ははかばかしくない。「高いテレビ買ったのだが、何のために地デジにしたのか未だによくわからない」「地デジって、BSのチャンネルが増えただけなのか」「視聴者が投資をしたのに、テレビ局はどんな投資をしたのか、画像がきれいになっただけじゃないか」など。視聴者は「テレビ新時代」を実感していないのが現状なのだ。

           地デジの「テレビ新時代」、ローカル局からアピールを

 今月(12月)22日午後、金沢市内で地デジに関するシンポジウムが開催された。タイトルは「地デジ化のメリットの視聴者及び地域への還元に関するシンポジウム~地デジの特徴を生かした番組づくりの充実、空いた電波の地域のための活用等~」(総務省北陸総合通信局など主催)=写真=。どうしたら「地デジに変わって本当によかった」と視聴者に実感してもらえるか、北陸の電波行政や放送事業に携わる130人が集った。このシンポジウムではパネリストと参加し、いくつか意見や提案を述べさせてもらった。

 地デジの特徴を生かした番組づくり、それはデータ放送やマルチ編成、ネットとの連携などのほか、地デジ化により空いた電波の地域への活用など地デジ化のメリットを視聴者や地域にどう還元するかだ。しかし、たとえばデータ放送にしては、機材が高価、専門技術者が不足している、放送局にとっては慣れていないメディア、機器や制作システムの操作性、煩雑な検証作業、新しい収益モデルが描けないなどの理由でテレビ局側が二の足を踏むケースが多かった。本音で言えば、データ放送は投資が大きい割には儲からないメディア、というわけだ。

 ところがローカル局でも、一部のテレビ局が動き始めている。彼らは口をそろえて「今動かないことがリスクだ」と言う。そして、今までのビジネスモデルだけに頼れない、キー局依存からの自立、地方独自の番組や広告づくり、通信メディアを積極的に取り込み、テレビを中心としたクロスメディアの番組と広告の展開など、さまざまなアプローチを試行している。シンポジウムではいくつか事例が報告された。「地デジとワンセグのデータ放送を活用した地域放送サービス」(NHK富山放送局)、「5.1CHサラウンド放送への取り組み」(北日本放送)、「エリアワンセグ放送の実証実験」(富山テレビ放送)、「データ放送のローカル送出実現と地域情報の提供」(チューリップテレビ)、「自社制作データ放送、クロスメディア展開による地域情報の独自発信」(テレビ金沢)など。これらの発表を若手のテレビマンたちが行い、その可能性を感じさせた。

 パネル討論では、いくつか意見や提案をした。その一つはデータ放送について。「『詳しくはウエッブへ』というCMがあるが、私自身はテレビのCMを見てインターネットを起動したことはない、また、それでネットを検索したという知人の話を聞いたこともない。もともとテレビの情報というのは揮発性が高く、視聴した瞬間は印象深いが記憶にとどまらない。パッと消え去ってしまう。キーワードを覚えて、ネット検索するという人はごく限られているのではないか。それよりむしろ『詳しくはDボタンへ』と誘った方がよい。少なくとも視聴者には親切だと思う。地デジは自己完結型のメディアでもある」

 そのほかの提言。「北陸の冬は電気の使用量が気になり、節電ムード。そこで、電力会社からデータを得て『でんき予報』をデータ放送で実現してはどうか。視聴者の関心は高い。テレビは速報性が基本である」「若者のテレビ離れと一口に言うが、問題はデジタル・ネイティブ(物心ついてからケータイやPCが周囲にあった世代)をどう取り込むか、だろう。彼らのどんな感性をくすぐる番組をつくっていけばよいのか」

 地域におけるテレビ局、地域における大学というのはよく似ている。何もしなけらば製作費というコストがかからず経営は安泰かもしれないが、地域における存在価値は高まらない。むしろ、地域を照らす、つまり地域の文化価値や社会価値を掘り起こして、全国と比較、また世界で通用する価値なのか検証する必要があるだろう。地域に寄り添うメディアとして、テレビの新時代をぜひローカル局からアピールしてほしい。

⇒27日(火)夜・金沢の天気   くもり

★2011ミサ・ソレニムス-3

★2011ミサ・ソレニムス-3

 能登のたぐいまれな農耕儀礼「あえのこと」は「神への饗宴」だ。家々の田んぼには神が宿っている。冬になると、その家の主は田んぼに神様を迎えに行く。そして自宅に招き入れ、田の神にお風呂にも入ってもらい、ごちそうでもてなす。非常に丁寧な所作である。しかも、もてなし方は家々で異なり、座敷でもてなすパターンや、土蔵でもてなすパターンなど、その家々によって流儀が異なる。田の神に恵みに感謝し、1年の疲れを癒してもらうと儀礼のコンセプトは同じだ。今月(12月)5日、能登町柳田植物公園の「合鹿(ごうろく)庵」であった「あえのこと」=写真・上=を見学した。

        世界農業遺産(GIAHS)と「あえのこと」に見える能登の未来可能性

 粛々と執り行われる儀式。その丁寧さには理由がある。床の間に田の神を描いた掛け軸がある=写真・中=。白いきつねは田の神の遣いだと昔から言い伝えられている。そして田の神は目が不自由だという設定になっている。この家の田の神は、左目が不自由である。別の家では両目が不自由な神もいる。私たちに田んぼの収穫の恵みを与えてくれる神は、稲穂で目を突いてしまい目が不自由なのだから、神が転ばないようにも座敷へと案内をしなさい、並んでいるごちそうが何か分かるように説明しなさい、先人は今に伝えている。「あえのこと」の農耕儀礼は連綿で引き継がれる「里山文化」のシンボルであ り、国連教育科学文化機関(UNESCO)の無形文化遺産に登録された(2009年9月)

 先月(11月)5日、台湾の国立台北護理健康大学旅遊健康研究所(大学院ヘルスツーリズム研究科)から講義の依頼があった。世界には温浴効果の高い温泉はあちこちにある。これに「もてなし」というメニューを加わえ、「心と体を癒す」のが日本の温泉ツーリズムの特色である。その「もてなし」の独自の進化のカタチが能登にある。それを説明してほしいと。講義ではこう解説した。「もてなし」をホスピタリティ(hospitality)と訳する。能登の農耕儀礼である「あえのこと」は病院での介護や介助に近い意味合いのもてなし方になる。しかも、自分の家の構造によって、それぞれもてなし方が異なる。自らイマジネーションを膨らませ、自身が目が不自由であったと仮定すれば、どのように介助、案内、説明をしてほしいかとあれこれ自ら考えることになる。健常者と障がい者の分け隔てのない便宜の提供をユニバーサル・サービスと称するが、「あえのこと」はその原点とも言えなくもない。これが能登では、「能登はやさしや土までも」と呼ばれる風土へと深化した。この風土の上に和倉温泉というサービス産業があり、また「日本一の旅館」と認定された「加賀屋」がある。さらに、衣料品販売のユニクロは1店舗に1人の障がい者を従業員として雇い、日ごろから職場全体でその従業員がスムーズに働けるよう周囲が気配りや目配りをする。このトレーニングがあってこそ、障がいを持ったお客が訪れても普通に接することができるようになる。こうした「あえのこと」の現代的な解釈と応用は従来のサービスとはまったく違った概念である。温泉ツーリズムだけでなく、サービス産業や販売、さらにヘルス・ケア分野への広がりに未来可能性を感じる、と。

 国連食料農業機関(FAO)はことし6月11日、佐渡市と能登半島4市4町を世界重要農業資産システム(GIAHS:Globally Important Agricultural Heritage System)として認定した。中国・北京で開催された世界農業遺産の認証式に立ち会った=写真・下=。

 佐渡市は国の天然記念物トキとの共生をめざす減農薬農法などの取り組みが評価され、能登半島は棚田のコメ栽培や「あえのこと」の伝統文化、海女漁を営む山村や漁村を「里山里海」と呼んで守っていることが評価された。世界重要農業資産システム(GIAHS)は世界農業遺産と呼ばれ、伝統農法や地域で伝承される独特の農業の知恵を世界に残そうとFAOが創設したもの。2011年6月現在、アンデス農業(ペルー)、イフガオの棚田(フィリピン)、マサイ族の放牧(ケニア)、万年の伝統稲作(中国)など12地域が認定されている。世界農業遺産と称されるものの、FAOが重視するのは農業の多面的な機能をシステムととらえている点だ。GIAHS事務局長のパルビス・クーハフカン氏は「大切なのは、農産物の生産だけではなく、景観や生物多様性、文化、レクリエーション、ツーリズムなどを包含しているこの素晴らしい農業システムを未来に生かし継承することだ」と述べている。

 認証名は、能登は「NOTO’s Satoyama and Satoumi(能登の里山里海)」、佐渡は「SADO’s Satoyama in harmony with Japanese crested Ibis(トキと共生する佐渡の里山)」である。昨年10月に生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で「里山イニシアティブ」が採択されたことを受け、同じ国連機関が里山をテーマにした案件を日本で2つ認証したのである。 認証名に「里山」と付いたことは、国際的に大きな意味合いがある。世界の人たちから「日本の里山はどこにあるのか」と問われたとき、「能登や佐渡に行けばある」と答えられる。要するに、里山というシンボル的な言葉を能登と佐渡が冠したということだ。今後、日本の里山あるいは里海を見に来たい、研究しよう、体験をしようという里山ツーリズムが組まれた場合には、能登と佐渡がターゲットになる。

 来月(2012年1月)、フィリピンのルソン島北部にあるイフガオに行く。広大な棚田は「ライステラス」として世界遺産に登録され、そして世界農業遺産にも認定されている。能登と佐渡、そしてイフガオなど世界農業遺産に認定された地域との国際的なネットワークづくりができないか、その可能性を探りに行く。

⇒26日(月)朝・金沢の天気  ゆき  

☆2011ミサ・ソレニムス-2

☆2011ミサ・ソレニムス-2

東日本大震災(3月11日午後2時46分)が起きたとき、金沢市内の金沢大学サテライトプラザで「事業企画・広報力向上セミナー」の講師として、「広報の裏ワザ教えます」「マスコミを通していかに広報するか」と題して講演とワークショップを開いていた。社会人30人ほどの参加があり、立ちながらの講演だったせいか、金沢での揺れにはまったく気づかなかった。午後3時ごろの休憩時間に、「東北でかなり大きな地震があって大変なことになっている」と別の教授が耳打ちしてくれた。それ以来、東北・仙台のテレビ局のある友人のことがずっと気になっていて、電話をしようかどうかずっと迷っていた。テレビ局は特番で忙しいだろう、また自ら被災していたら大変なことになっているだろうと思うと、お見舞いの電話などとてもする気にはなれなかった。別の東北のテレビ局の友人を介して、「彼は少し落ち着いたみたいだよ。電話してみたら。メールアドレスも通じていると」とアドバイスがあり、メールをしたのは5月1日のことだった。その後、仙台を訪ねたのは11日後の5月12日だった。

          「5年後、10年後もずっと被災者に寄り添うメディアでありたい」

 仙台市に本社があるKHB東日本放送。加藤昌宏報道制作局長と再会したのは2005年9月以来、6年ぶりだった。5階建ての社屋の屋上に鉄塔があり、当時はとても揺れたと役員室など案内いただいた。天井からボードが落ち、当時の揺れの激しさを目の当たりにした。困難は揺れの後にやってきた。仙台空港に駐機してあった取材ヘリコプターは津波で流失、本社の送出装置や中継局は損傷した。東日本大地震では「地元マスメディアも被災者」ということが実感できた。金沢大学で担当しているの「ジャーナリズム論」で、加藤氏に講義をしてもらうことをお願いし、12月13日に実現した。「千年に一度」「未曽有の大震災」と称される震災、それに地元のテレビメディアはどのように関わればよいのか、今の有り様を含めて率直に話していただいた。以下要約する。
                   ◇
 3月11日、この日はくしくも、テレビ朝日から「ニュージーランド地震取材本部閉鎖」の連絡があり、その14分後に大きな揺れが来た。揺れは収まったものの、余震が続く中、14時53分に特番を始めた。それ以降4日間、15日深夜まで緊急マナ対応を継続した。14時49分頃 契約している航空会社にヘリコプターの離陸を要請したが飛ばず、全体被害の取材の眼を失った。さらに、21時19分、テレビ朝日からのニュース速報で「福島原発周辺住民に避難要請」のテロップを流した。震災、津波、火災、そして原発の未曽有の災害の輪郭が徐々に浮き彫りになってきた。

 社長は震災直後に社員を集めトップとして指示した。「万人単位の犠牲者が出る。長期戦になるだろうが、報道部門だけでなく全社一丸となって震災報道にあたる」と、報道最優先の方針を明確に打ち出した。それは、命を救うための情報発信であった。甚大な被害を全国に向けて発信し、中央政府を動かして一刻も早く救援を呼ぼうとう当面の方針だった。全国へは「被災の詳報」、そして宮城県の放送エリアへは「安否情報」「ライフライン情報」を最優先した。取材は戦いでもある。精神論は3日と持たない。取材人員・伝送機材を確保し、応援到着まで社員全員で乗り切る初動態勢を組んだ。テレビなので収録用テープの確保を最優先した。SONY工場が津波被災していて、FUJIの在庫をいち早く確保した。さらに持久戦を戦うために、ロジスティックス(補給管理活動)を手厚くした。その後、続々と取材の応援部隊がくる。

 戦場で戦うためには、食料補給所の充実が欠かせない。ロビーに取材用備品を並べ、応援スタッフが自由に使えるようにした。電池、防塵マスク、軍手、ペン、メモ帳、レンズクリーナー、飲料、のど飴、蜂蜜缶詰、栄養ドリンク、男女使い捨て下着、防寒着、サバイバルキットなど用意した。数種類の弁当の他、常時大鍋で味噌汁、スープを提供、コーヒー、紅茶、お茶、カップ麺のためにお湯も沸かした。ロジ担当が常駐して疲れて帰る取材スタッフへの声掛け、ねぎらいの言葉を張り出すなどした。

 情報共有のための「立会い朝会議」を実施した。3月16日~4月28日までほぼ毎日。午前9時から。立会い朝会議は録音、議事録を当日中に作成し全社にメール配信した。これにより社内のチームワークを固めた。民放史上最長となったL字(ライフライン)情報の放送は、アーカイブ室と社内応援が担当した。3月13日から4月29日の放送終了まで実に48日間余り、入手情報2008件、送出情報は延べ3200件余に上った。

 取材する側のメディアも被災者であり共感できる部分は理解できた。安否情報や避難所の物資不足を伝えたことや、取材終了後、記者がお茶を飲みながら被災とは関係のない四方山話をしたことは喜ばれた。真っ暗な避難所、避難誘導時に取材用バッテリーライトを点けてあげたとき、離島や孤立地域、復旧困難地域での取材なども感謝されえた。一方で、避難所や被災家屋周辺での取材で「見世物にするのか」と怒鳴られること多数回あった。耳障りの良い美談、一部の前向きの事象に偏っていないかという厳しい意見をいただいた。家族が死亡・行方不明の場合、信頼関係が構築できていないと取材を拒まれることも。取材が集中することによるトラブルが通常は多いが、今回は取材をしないことで精神的な不安を与えたこともある。広範囲であるがゆえに、取材が行き届かないのだ。

 これからの取材については、取材先が気仙沼市、南三陸町、石巻市、東松島市に偏る傾向があり、ローラー作戦を実施したいと思う。地域経済復活へ向けた活動の取材強化もポイントだと考えている。そして、3年後、5年後、10年後を視野に入れた長期戦で臨む。被災地に寄り添うメディアでありたと心がけている。

※写真・上は震災2ヵ月目の5月11日に営まれた市民の慰霊法要を取材するメディア各社(気仙沼市で)、写真・下はテレビ局の食料補給所(仙台市)

⇒25日(日)朝・金沢の天気  ゆき

★2011ミサ・ソレニムス-1

★2011ミサ・ソレニムス-1

 昨夜(23日)金沢市の石川県立音楽堂コンサートホールで開催された、荘厳ミサ曲(ミサ・ソレムニス)の演奏を聴きにいった。地域の県音楽文化協会が主催する年末公演で50周年記念だという。歴史を刻んでいる。ある意味で季節の恒例のイベントとして定着しているのか、1階と2階の観客席はほぼ埋まっていた。ステージもにぎやかだった。ソリスト(ソプラノ、アルト、テナー、バス)と混声四部合唱の歌声、それに石川フィルハーモニー交響楽団と韓国の音楽大学の編成による演奏者が旋律を奏でる。演奏時間は80分。演奏はベート-ベンらしい激しい高揚感、そして建築物のように緻密で清明感にあふれる曲構成、決して「長い」とは感じなかった。むしろ、演奏を聴きながら2011年を振り返るよいチャンスにもなった。「2011ミサ・ソレニムス」と題して、この1年の回顧録を。

          人は自然災害とどう向き合えばよいか…畠山重篤さんの語り

 荘厳ミサ曲は、葬送曲のレクイエム(鎮魂ミサ曲)とは異なる宗教音楽のジャンルだが、厳かな旋律を聴くと東日本大震災での犠牲者の方々を想う。「2011年3月11日(金)午後2時46分発生、マグニチュード 9.0、最大震度7、津波の波高最大37.38m(岩手県田老町)、死者1万5840人(行方不明3546人)12月2日現在」

 震災2ヵ月後の5月11日に東北に入り、取材した。その折、宮城県気仙沼市に在住するカキ養殖業、畠山重篤さん(NPO法人森は海の恋人代表)を訪ね、石川県での講演のお願いをした。それが9月2日に輪島市で開催した「地域再生人材大学サミットin能登」(能登キャンパス構想推進協議会主催)の基調講演というカタチで実った。講演内容は今でも心に深くとどまっている。人は自然災害とどのように向き合っていけばよいのか。畠山さんの話を掘り起こしてみる。以下要約。
                   ◇
 3月11日、仕事をしていた最中に地震があった。この数年地震が多く、「地震があったら津波の用心」という碑が道路などあるが、「またか」という気持ちもあった。地震から津波まで30分ほど間があったので、自宅に大事な物を取りに戻った方もいた。しかし、30分後に巨大津波が押し寄せた。三陸は、吉村昭(作家)の『三陸海岸大津波』にもあるように、津波の歴史を持つ地域だ。私も50年前、高校2年生の時にチリ地震津波を経験していて、今回はチリ地震津波くらいのものが来るのかなという感覚はあった。気仙沼の南にある南三陸町はチリ地震津波で死者が50人ほど出たため、防潮堤を造るなど津波対策を施したが、それはあくまでチリ地震津波の水位を基準にしたものだった。ところが今回の津波は、チリ地震津波の約10倍にもなるようなものだった。

 私の家は海抜20㍍近くだが、自宅すぐ近くまで津波は押し寄せた。日本海側の方々は津波のイメージがなかなかわかないと思う。台風が来てシケになると大波が打ち寄せるが、波の連動が伝わってきて、波頭が打ち当たる。津波はそうではなく、海底から水面までが全部動く。昨晩、海辺の温泉のホテルに泊まらせていただいた。窓を開けるとオーシャンビューで、正直これは危ないと思った。4階以下だったら、山手の民宿に移動しようかと考えたが、幸い8階と聞き安心した。温泉には浸かったが、安眠はできなかった。あの津波の恐怖がまだ体に染み込んでいる。

 過去に10㍍の津波を経験している地域は日本各地にある。日本海側は、太平洋側よりは津波の規模は小さいと思うが、覚悟はしておくべき。皆さんは、いざというときは海岸から離れればよいと思っているかもしれないだが、いくら海岸から離れても、あくまで津波というのは高さなので、絶対に追いつかれてしまう。だから、海辺に暮らしている方は、どうすれば少しでも高い所に逃げられるかを念頭に置いた方がいい。

 地域再生を考えるとき、人口が減る、仕事がない、農業・漁業が大変だという諸問題が横たわっている。しかし、それ以前に沿岸域の場合は津波に対してどういう備えをするかが第一義だと考える。三陸はリアス式海岸だが、どんな小さい浦々も一つも逃れようがなく全滅だった。盛岡の岩手医大の先生が言うには、震災の晩、大勢のけが人が出るからと病院に指示をして、けが人を受け入れる準備をした。ところが、けが人は一人も搬入されなかった。津波では、けが人はいない。死ぬか生きるかになる。そういう厳しさがある。地域づくりをする前に、もし大津波警報が発令されたらまずどの高さの所に逃げるか、山へ行くのかビルに行くのかを考える。そこから出発しなければいけないと思う。

 津波が起きてしばらくは、誰もが元の所に帰るのは嫌だと言っていた。しかし、2ヵ月くらいすると、徐々に今まで生活した故郷を離れられないという心情になってきた。ただ恐れていたのは、海が壊れたのではないかということだった。震災後2カ月までは海に生き物の姿が全く見えなかった。ヒトデやフナ虫さえ姿を消していた。しかし2ヵ月したころ、孫が「おじいちゃん、何か魚がいる」と言うので見ると、小さい魚が泳いでいた。その日から、日を追ってどんどん魚が増えてきた。京都大学の研究者が来て基礎的な調査をしているが、生物が育つ下地は問題なく、プランクトンも大量に増えている。酸素量も大丈夫で、水中の化学物質なども調べてもらったが、危ないものはないと太鼓判を押してもらった。これでいけるということで、わが家では山へ行ってスギの木を切ってイカダを作り、カキの種を海に下げる仕事を開始した。

 塩水だけで生物が育つわけではなく、私たちの気仙沼の場合は、川と森が海とつながる「森は海の恋人」運動を通して自然の健全さを保ってきた。海のがれきなどの片付けが終わればあっという間に海は戻ってくる。これが希望だ思っている。森と川の流域に住んでいる人々の心が壊れていれば、漁師はやめるしかない。しかし、森と川と海が健全なので、大丈夫だなという気持ちが盛り返して、今、再出発が始まっている。

⇒24日(土)朝・金沢の天気  はれ

☆ワインとカキの循環

☆ワインとカキの循環

 今月10日の日曜日、「能登ワイン と能登牡蠣のマリアージュ体験ツアー」と銘打ったバスツアーに参加した。金沢在住のソムリエ、辻健一さんが企画した。マリアージュはフランス語で結婚という意味で知られるが、もう一つ、「ワインと料理の組み合わせ」という意味もある。つまり、能登で栽培、生産されているワインと、いまが旬の海の幸・カキを食する旅ということになる。金沢から30人が参加した。

 最初の訪問地は能登ワイン株式会社(石川県穴水町)。2000年からブドウ栽培をはじめ、2006年より醸造を開始している。初出品した国産ワインコンクールで、「能登ロゼ」(品種マスカットベリーA)が銅賞(2007年)、「心の雫」(品種ヤマソーヴィニヨン・赤)が銅賞(2010年)、そして、ことし2011年で「クオネス」(品種ヤマソーヴィニヨン・赤)が銀賞を受賞した。年々実力をつけている。

 すでに収穫は終わっていたが、17㌶に及ぶブドウ畑を見学した。能登は年間2000㍉も雨が降る降雨地でブドウ栽培は適さないと言われているが、適する品種もある。それがヤマソーヴィニヨン。日本に自生する山ブドウと、赤ワイン主要品種カベルネ・ソーヴィニヨンの交配種で、山梨大学が研修者が開発した日本の気候に合うブドウ品種だ。実際、ヤマソーヴィニヨンは成長がよく、1本の木で15㌔から20㌔のブドウの実が収穫される。ワイン1本(720ml)つくるには1㌔の実が必要とされるので、実に15本から20本分になる。

 さらに興味深いのは、穴水湾で取れたカキの殻を畑に入れ、もともとの酸性土壌を中和しながら栽培していることだ。1年間雨ざらしにして塩分を抜いたカキ殻を土づくりに活用している。参加者が感動するはこうした循環型、あるいは里山と里海のマリアージュ(連環型)かもしれない。ブドウ畑は自社農園をはじめ一帯の契約農家で進められ、栽培面積も年々増えている。ヨーロッパスタイルの垣根式で約20品種を栽培し、剪(せん)定や収穫は手作業だ。

 醸造所を見学した=写真・上=。ここのワインの特徴は、能登に実ったブドウだけを使って、単一品種のワインを造る。簡単に言えば、ブレンドはしない。もう一つ。熱処理をしない「生ワイン」だ。さらに詳しく尋ねると、赤ワインならタンクでの発酵後、目の粗い布で濾過し、樽で熟成する。さらに、瓶詰め前に今度は微細フィルターを通して残った澱(おり)を除く。熱処理するとワインは劣化しないが熟成もしない。熱処理をしない分、まろやかに、あるいは複雑な味わいへと育っていく。もう一つ。能登の土壌で育つブドウはタンニン分が少ない。それをフレンチ・オークやアメリカン・オークの樽で熟成させることでタンニンで補う。するとワインの味わいの一つである渋みが加わる。そのような話を聞くだけでも、「風味」が伝わってくる。

 ツアーのクライマックはカキ料理だった。ソムリエの辻さんは「能登カキには赤が合うか、白が合うか、自分で確かめてください」と。魚介類だと白という感じだが、焼きガキ=写真・下=だと赤が合うような感じがする、カキフライだとシャルドネ(白)かなとも思う。いろいろ語り合い、食するうちに酔いが回り、マリアージュが完結する。

⇒13日(火)朝・金沢の天気   くもり

☆台湾旅記~5~

☆台湾旅記~5~

 帰国する6日、台湾の国立故宮博物院(台北市士林区)=写真=を見学した。山中にあるが、付近は高級住宅街が広がる。第二次世界大戦後、国共内戦が激化し、中華民国政府が台湾へと撤退する際に北京の故宮博物院から収蔵品を精選して運び出した。その数は3000箱、61万点にも及んだ。それが世界四大博物館の一つに数えらるゆえんとされる。

        2つの故宮めぐり、中国の歴史ロマンを彷彿と

 国立台北護理健康大学の教員スタッフが案内してくれた。「まず、キャベツでしょう」と連れて行かれた展示室で見たのが、中国・清朝時代の「翆玉白菜」(写真は国立故宮博物院のホームページから)。長さ19㌢、幅10㌢ほど造形ながら、本物の白菜そっくりだ。とくに日本人にとっても身近な野菜だけに、その色合いが人を和ませる。ヒスイの原石を彫刻して作ったというから、おそらく工人はまずこの色合いからイメージを膨らませ、白菜を彫ったのではないか。これが逆で、白菜を彫れと言われて原石を探したのであれば大変な作業だったに違いない。清く真っ白な部分と緑の葉。その葉の上にキリギリスとイナゴがとまっている。

 博物院では、清朝の康熙大帝とフランスのルイ14世の特別展が開催されていた。解説書では、遠く隔たった2人の君主であったが、フランスのイエズス会宣教師らによって交流が生まれていたという。ルイ14世が康熙帝に宛てた書簡なども展示されていた。また、フランス絵画の影響を受けた中国絵画、中国をモチーフしたフランスの絵画などが展示され、東西の文明が互いに刺激し合ったとの展示のコンセプトがよく見えた。

 1960年代から1970年代に中華人民共和国で起きた文化大革命が起き、封建社会の文化財に対する組織的な破壊活動があった。その歴史から、台湾への所蔵品の移送は貴重な文化遺産を結果的に保護したという意味合いもあったろう。いろいろと思いめぐらせながら故宮博物院を後にした。

 ことし6月に北京を訪れた折、紫禁城(故宮)を見学した=写真=。明朝と清朝の旧王宮である歴史的建造物。「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」の一つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。72㌶の広大な敷地に展開する世界最大の宮殿の遺構だ。1949年、毛沢東は城門の一つである天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。訪れたとき、この現代中国の歴史的なシンボルの場所で、突然激しく叩きつけるような風雨に見舞われた。雷鳴とともに逃げ惑う多数の観光客の姿はまるで映画のシーンのようだった。

 この半年で、北京では紫禁城(故宮)を半日かけて歩き、台北では国立故宮博物院の名品の数々を鑑賞する機会に恵まれた。この二つの体験が、故宮をめぐる中国の歴史ロマンを彷彿(ほうふつ)とさせる。

⇒15日(火)夜・金沢の天気   あめ

★台湾旅記~4~

★台湾旅記~4~

 5日午後、今回の台湾訪問の主な目的である国立台北護理健康大学=写真=旅遊健康研究所(大学院ヘルスツーリズム研究科)での講義。講義内容を簡単に説明すると、日本の温泉ツーリズムは「温浴効果」と「もてなし」による「癒し」である。海外でも温浴効果の高い温泉はあちこちにある。これに「もてなし」というメニューを加わえたのが日本流である。その「もてなし」の独自の進化が能登にある。以下、講義の概略を。

            「もてなしのDNA」あえのこと

 毎年12月5日、もてなしの原点といわれる農耕儀礼「あえのこと」が行われる=写真・下=。「あえ」は晩餐会の餐、「こと」は祭りで、食してもてなす、ご馳走でもてなすという意味。あえのことは、田に恵みをもたらす「田の神様」の労苦をねぎらって、その家に迎え、ご馳走でもてなす儀礼である。家の主は、田に神様を出迎えに行き、家の中に招き入れて、足を洗ってさしあげ、お風呂に入れて、ご馳走でもてなす。甘酒やタイの尾頭を並べて、「神様、どうぞお召し上がりください」ともてなす。しかも、その家々でもてなし方が異なる。なぜか。

 この田の神様には特徴がある。田の神様は稲穂で目を突いて、目が不自由であるという設定になっている。どちらか片方が不自由であったり、両目という場合、夫婦そろって不自由という、家々によってその設定が異なっている。目が不自由な神様をおもてなしするためにどうすればよいのか、それぞれ家々で考える。神様が転ばないように「神様、敷居が高いのでまたいでください」と本当に手を引くようにして座敷まで迎えたり、「どうぞ、お風呂でございます。熱いです」といって目の不自由さを家の主がカバーしいる。「もてなし」をホスピタリティ(hospitality)と訳する。あえのことは病院での介護や介助に近い意味合いのもてなし方になる。しかも、自分の家の構造によって、それぞれもてなし方が違う。自らイマジネーションを膨らませ、自身が不自由であったと仮定すれば、どのように介助してほしいかとあれこれ自ら考えることになる。全知全能の神様であったり、不自由さがない神様だったら一律でパターン化された儀礼になっていたかもしれない。

 健常者と障がい者の分け隔てのない便宜の提供をユニバーサル・サービスと称するが、あえのことはその原点とも言えなくもない。衣料品販売のユニクロは1店舗に1人の障がい者を従業員として雇い、日ごろから職場全体でその従業員がスムーズに働けるよう周囲が気配りや目配りをする。このトレーニングがあってこそ、障がいを持ったお客が訪れても普通に接することでできるようになる。 

 能登の各地では五穀豊穣を願う、感謝する祭りが盛んで、ヨバレという風習がある。地域外の親戚や友人、会社の同僚を家に招き、ゴッツオ(ご馳走)でもてなす。このもてなしの風土が能登で熟成された。この能登半島のもてなし、お祭り文化をサービス産業としてプロ化したのが和倉温泉と言える。和倉温泉の加賀屋は、「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」で31年連続1位に選ばれている。加賀屋の小田禎彦会長に講義をいただいた(2008年7月)。「サービスの本質は正確性とホスピタリティ」、「三河人の生真面目さがトヨタを世界一の自動車メーカーに押し上げた。能登人のもてなしの心、祭りの風土が加賀屋を日本一に押し上げてくれたと思っている」との言葉が印象的だった。

 旅館やホテルは、設備や施設も必要条件だが、もてなしの心を持った人々がその旅館にどれだけいるかという、その数、質の高さで決まる。加賀屋をはじめ和倉温泉には、能登人という「もてなし」の精神にあふれた人の集積があり、その風土(バックボーン)がある。いまでも能登の子供たちは、幼いころからお客さまへの扱いをトレーニングされ、また祭りに招かれたときの作法を心得える。つまり、ホスト、ゲストを繰りかえしながら人間として成長する。都会の家庭では得難いトレーニング(もてなしの作法)を受けて育っている。

 この「あえのこと」はユネスコの無形文化遺産登録に登録された(2009年9月)。そしてことし2011年6月に国連食糧農業機関の世界農業遺産(GIAHS=Globally Important Agricultural Heritage Systems)に認定された。あえのことがGIAHS認定の文化的なファクターとして寄与した。能登のもてなしの風土は、「能登はやさしや土までも」と表現される。台湾の北投温泉に加賀屋のフランチャイズ店ができて、接待係の従業員の立居、振る舞いを昨日、垣間見ることができた。見ていると実に心地いい。「もてなしのDNA」がこの地にしっかり根付くことを願っている。

⇒13日(日)朝・金沢の天気   あめ