☆遅咲きの梅の花 震災の倒壊ビルは片付くも、待たれる原因究明
けさから金沢は晴れて、午前中の気温が16度と春の陽気を感じる天気となっている。そして、自宅庭の梅の木の花がようやく咲き始めた=写真・上=。金沢地方気象台の生物季節観測表によると、金沢の梅の開花は平年2月23日となっているので、まさに1ヵ月遅れだ。ちなみに観測表によると、これまでの早咲きは1月28日(1998年)、遅咲きは4月6日(1957年)とある。予報によると、気温はあす24日は22度、27日は25度の夏日となり、これから一気に開花
するのだろう。そして気になるのは桜の開花。観測表の金沢の平年の開花は4月3日、ウェザーニュースの開花予想日だと4月2日だ。梅の散り際とソメイヨシノの咲き始めが同時に楽しめるかもしれない。
話は変わる。おととい(21日)輪島市の豪雨被災地と併せて震災地をめぐった。言葉は適切ではないかもしれないが、ある意味で震災のシンボル的な光景されてきたのが、240棟余りの商店や民家が全焼し焦土と化した朝市通り、そして、倒壊した輪島塗製造販売会社「五島屋」の7階建てビルだった。倒壊によってビルに隣接していた3階建ての住居兼居酒屋が下敷きとなり、母子2人が犠牲となった。倒壊現場を初めて見たのは2月5日だった。その倒れ方は壮絶だった。地面下に打ち込んで固定されていたビルの根っこ部分にあたる
コンクリートと鉄による杭(くい)の基礎部分がまるでゴボウ抜きしたようにむき出しになっていた。まったくの素人目線なのだが、バランスを崩して根っこから倒れた、そんなように見えた。(※写真・中は2024年2月5日撮影、写真・下は今月21日撮影)
おととい現場を訪れると、倒壊したビルの公費解体はほとんど終わっているように見えた。解体作業が始まったのは10月初旬だったので、半年ほどかけてひと区切りが付いたように見えた。むしろ問題視されているのはビル倒壊の原因が何なのかという点ではないだろうか。一部報道によると、2007年3月25日の能登半島地震でビルが大きく揺れたことから、五島屋の社長はビルの耐震性を懸念して、地下を埋めて基礎を強化する工事を行っていた。それが倒壊したとなると、社長自身もビル倒壊に納得していないようだ。ビルの築年数は50年ほど。基礎部の一部が地面にめり込んでおり、くいの破損や地盤が原因ではないかとも指摘されている。
国土交通省が基礎部を中心に倒壊の原因を調べている。なぜ、震度6強の揺れに耐えきれずに根元から倒れたのか。ビル倒壊の原因が分かってくれば、責任の所在もおのずと明らかになるだろう。倒壊原因についてはいまだ公表されていない。
⇒23日(日)午後・金沢の天気 はれ
川の氾濫で14歳の女子中学生が流され亡くなった輪島市久手川町の塚田川周辺。被災現場を見たのは翌日の22日午後だった。山間地からの流木が河川の下流で橋脚などに当たり、積みあがって「ダム」のような状態になっていた=写真・上=。これが原因で橋の周囲の家々に水害をもたらした。元日の地震で山の地盤が緩み、豪雨で大量の流木が流され、その流木がさらに人家に水害を拡大させた。そんな被災の連鎖が見える現場だった。
して286戸を整備し、そのうちの52戸はすでに入居。きょうは災害が大きかった輪島市杉平町で整備されていた仮設住宅104戸が完成=写真・下=、入居を待ちわびた人たちが家具などを運び入れていた。残り130戸も来月4日までに完成する予定で、輪島市では来月13日までに指定避難所4ヵ所をすべて閉鎖することにしている。
振り返って、3画像をもう一度見てみる。能登半島を走る観光列車「花嫁のれん」の車体は確かに赤く塗られている。「花嫁のれん」はかつての加賀藩独特の婚礼行事がいまも半島中ほどに位置する七尾市に伝わっている。花嫁が持参したのれんを嫁ぎ先の家の仏間の入り口に掛けてくぐる。花嫁のれんをくぐることで、嫁ぎ先の家族一員となる証(あかし)とされる。その花嫁のれんのデザインは赤や白、青などの模様が使われているが、印象的には赤のイメージが強い。そこで、列車を車体を赤で染めたのだろう。これは憶測だ。
能登の伝統行事である祭りのキリコが北陸新幹線の開業10年を迎え、JR金沢駅前の「もてなしドーム」で設置され話題を呼んだ(※現在は撤去されている)。高さ6㍍ほどのキリコで、半島の尖端に位置する珠洲市上戸町から持ち込まれたもの。上戸のキリコは毎年8月の第一土曜日の地域の祭りに担ぎ出され、鉦や太鼓の響きとともに街中を練り歩く。今回のお披露目は、新幹線開業10年のイベントが行われた今月15日に合わせて、金沢市の呼びかけで珠洲市から出張してきた。幾何学的なドームの天上の模様と、キリコの立ち姿が妙にマッチしていて、じつに絵になっていた。
そして、のとキリシマツツジの紅色。金沢市の中心街にある「しいのき迎賓館」で展示会が開催された。能登町のツツジ愛好家らで結成する「花の力」プロジェクト実行委員会が観賞展を金沢で始めてことしで7年目となる。去年元日の能登半島地震後の3月にも観賞展を開催し、燃え盛るような満開の深紅の花が被災地から金沢に2次避難してきた人たちを励ました。今回も樹齢35年から100年の6鉢が展示され、故郷の花の観賞に能登出身の人たちが多く訪れていた。
ていたので歩くことはできた。岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船(330㌧)があった=写真=。津波のすさまじさを思い知らされた。気仙沼市を訪れたのは、NPO法人「森は海の恋人」代表の畠山重篤氏に有志から集めたお見舞いを届ける目的もあった。ただ、アポイントは取っていなかった。昼過ぎにご自宅を訪れると、家人から本人はすれ違いで東京に向かったとのことだった。そこで、翌日12日に東京・八重洲で畠山氏と会うことができた。
能登半島をこれまで何度もめぐって一番印象に残るスポットと言えば、半島の最先端にある「禄剛崎(ろっこうさき)灯台」だろうか。海抜48㍍の断崖絶壁の岬にあり、海から上る朝日と海に沈む夕日が同じ場所から眺めることができることでも知られる。さらに、海越しに見える立山連峰は絶景で、佐渡島も見渡せる。灯台とその周囲の風景を眺めていると「さいはて」感が込み上げてくるような、そんな思いにかられる。能登の人たちは、灯台がある地名(珠洲市狼煙町)から「狼煙(のろし)の灯台」と呼んでいる。
道によると、レンズの上部の3分の1ほどのガラスが落下した。このため、光が届く距離が短くなった。観光パンフレットなどによると、レンズは明治16年(1883)の灯台完成時から使われていたフランス製の大型レンズ(高さ2.4㍍、直径1.4㍍)で、18カイリ(33㌔)先までを照らしていた。(※写真は、能登半島の最先端に位置する禄剛崎灯台=2021年9月撮影)
名残り雪なんてものではなく、まさに「戻り寒波」となった。この予期せぬ雪で慌てたのは金沢市役所だった。北陸新幹線の金沢開業の日が3月14日だった。市役所では、春の装いで新幹線客を金沢でお迎えしようと、例年より1週間早く3月3日からJR金沢駅東口のクロマツなどの雪吊りを外したほか、市内メインストリートの街路樹の雪吊りを外していた。
寒波の最中(23日)に輪島市をめぐった話の続き。去年元日の能登地震で商店や民家など240棟が焼けた朝市通り周辺に行くと雪原が広がっていた=写真・上=。焼け焦げたビルなどの解体作業が進み、かつて朝市でにぎわった風景とは一変した。行政は、地域復興のシンボルプロジェクトとして、「輪島朝市周辺再生」を掲げている。朝市と商店街、住まいの共生を目指した市街地整備を行うとのコンセプトで、市民からの意見を募るパブリックコメントを経て、今月中には正式に決定すると報じられている。ところで気になるのは人気スポットの一つだった「永井豪記念館」のことだ。あの『マジンガーZ』や『キューティーハニー』などの漫画家・永井豪氏は同市出身で、2009年に行政が記念館を創り、永井氏は名誉館長を務めていた。記念館は再建されるのだろうか。
観光名所として知られる白米千枚田に行った。分厚い雲に荒波が打ち寄せている。日本海の冬の海を感じさせる。大雪で千枚田はすっぽり雪に埋もれていた。秋には黄金の絨毯を敷き詰めたような稲穂で覆いつくされる棚田が白く染まっている。ネイビーブルーの海の色とのコントラストが印象に残る。白米千枚田は4㌶の斜面に1004枚の棚田が広がり、2001年に文化庁の「国指定文化財名勝」に指定され、2011年には国連食糧農業機関(FAO)から認定された世界農業遺産「能登の里山里海」のシンボル的なエリアだった。ところが能登地震で田んぼの多くに亀裂が入り、去年耕作されたのは120枚だった。その後、田んぼの修復はどこまで進んだのだろうか。4月に入ると田起こしが始まる。
雪に埋もれた文化財。日本史で知られる平氏と源氏が一戦を交えた壇ノ浦の戦い(1185年)。平家が敗れて一族の平時忠が能登に流刑となり、その子孫が輪島市町野地区に根付いて製塩業や海運業など営み、現在も2軒の時国家が継承されている。2軒の住宅(国の重要文化財・2003年指定)のうち上時国家が去年元日の地震で倒壊した。9月の記録的な大雨では裏山が崩れ、敷地全体に被害が及んでいた。現地をめぐると、主屋の屋根にこんもりと雪が積もり、倒壊家屋の様子すらうかがえない。能登の歴史を語る古文書などは国立文化財機構のスタッフが中心となって「文化財レスキュー」活動を行い運び出している。被災地では一般住宅の公費解体は進んでいるが、上時国家を含めた文化財の復旧が本格的に動き出すのはいつなのか。まだ見えてこない。
前回ブログの続き。寒波の3連休の初日(22日)に「顕著な大雪に関するに気象情報」が出された輪島市に、きのう往復で現地に行き、イベントを見物してきた。同市町野町で開催された一日限りのFMラジオの生放送。同市町野支所には住民も見学できる公開スタジオが設けられ、元NHKアナウンサーの女性とフリーパーソナリティの男性が司会を務め、地元の住民がゲスト出演していた=写真・上=。30分ほどだったが、自身も見学させてもらった。金沢から移住してきた農業者の若者は、「町野の人は意外と時間にうるさいですよ。寄り合いの集合時間の5分前に着いても、『遅い』としかられるんですよ」などと地元ネタで盛り上がっていた。
放送時間は午前10時から午後3時までの5時間だったが、主催した団体「町野復興プロジェクト実行委員会」では将来の開局を目指している。被災地のこうした臨時のFM放送は「災害FM」と呼ばれ、災害の軽減に役立つ情報を伝える目的で開局が可能。放送器材は総務省総合通信局から貸与される。被災者にとっては「情報こそライフライン」である。定期放送に期待したい。
した大型プリンターで作製したもの。行政では「復興デザインセンター」をすでに整備していて、タペストリーを情報発信の一つとして今後活用していくようだ。
被災地の積雪の様子を見にきょう日帰りで輪島市に行ってきた。同市宅田町の仮設住宅に立ち寄ると、積雪は30㌢ほどだろうか、かなりの雪の量だ。中には雪だるまもあって雪を楽しんで様子もうかがえた=写真・上=。一つ気になったのは、それぞれの仮設住宅では玄関の前は除雪してあるものの、除雪もなく長靴の跡もない住宅がところどころある。不在なのか、あるいは冬ごもりで外出していないのかと案じた。仮設住宅は高齢者が比較的多いといわれているので、積雪で親族の家に身を寄せて不在なのか、と思ったりもした。
同市杉平町の被災した漆器店に、国内外の被災地での支援活動などで世界的に知られる建築家、坂茂(ばん・しげる)氏が設計した輪島塗の仮設工房があると聞いて訪れた。大雪で仮設工房の屋根や出入り口にはかなりの雪が積もっていた=写真・中=。去年3月に建設されたもので、工房の柱などは「紙管」と呼ばれる硬い筒状に加工した再生紙でできている。広さ12畳の工房は2棟で、輪島塗の職人の作業場として活用されているようだ。坂氏の設計は、珠洲市の見附島近くにある仮設住宅も知られる。こうした災害地における仮設住宅や緊急避難所の設計に尽力し、人間生活を助ける即効性の高い仕事は特筆すべきものがあるとして、文化庁に設置
されている国の栄誉機関「日本芸術院」の新会員に選ばれている(2月21日付・メディア各社の報道)。