⇒ドキュメント回廊

★ブログ5000日

★ブログ5000日

   きょう1月5日はブログ「自在コラム」を開設して5000日目に当たる。2005年4月28日にアップした「★50歳エイ・ヤッと出直し」がスタートだった。その年の1月に民放テレビ局を辞して、4月から金沢大学の「地域連携コーディネーター」という仕事に就いた。まったくの異業種、エイ・ヤッだった。友人からは「よくテレビ局を辞めたね。もったいない」と言われたが、私自身は以前から「50歳になったら人生を見直す」と公言してきたのでそれを実行したまでのこと。そもそも、性格的に言って、一つの仕事を最後まで務め上げて云々というタイプではなく、幼いころから寄り道や道草、よそ見ばかりしてよく親に心配をかけた。 

        では、ブログを始めるきっかけは。大学でコーディネーターの職に就いたことを知らせるあいさつの葉書を友人たちに送った。その当時の私のオフィスはキャンパスに移築された築280年の古民家=写真・上=だった。その外観の写真を葉書に掲載した。すると、テレビ局時代の秋田の友人から「ブログに掲載するので内部の写真も送ってほしい」とメールで返信があった。メールで何度かやり取りをしているうちに、「宇野ちゃんは元新聞記者だから、書き始めるときっとはまるよ」と勧められ、当時ブログに余り興味はなかったが、誘われるままにブログの世界に片足を突っ込んだ。あれから14年、アップロード回数は今回で1363になった。その意味では、どっぷりと「はまった」のかもしれない。

   ブログは毎日書いているわけではなく、3日か4日に1本のゆっくりペースだ。ただ、日々のニュースや身の回りの出来事に目を向け、「これはブログのネタになるかもしれない」などと常に思いを巡らしてきた5000日だった。ブログを意識して写真も随分と撮った。画像ファイルがハードディスクの容量を占めるようになってきたので、外付けのハードディスクを持ち歩いている。これまでの中で印象に残る写真を1枚紹介するとすれば、2006年1月、イタリアの国立フィレンツェ修復研究所を訪れたときの画像だ。この研究所は16世紀に「美術のパトロン」といわれたメデイチ家が設立し、世界トップクラスの修復のプロたちが集う。研究所内を許可を得て撮らせもらった。ベッドに横たわる聖像があった。修復士たちが何やら聖像の声に耳を傾けているようにも見えた。聖像は右手を上げ、「病んでいる私を助けてほしい」と訴えかけているよう=写真・下=。まさに病院の医者と患者の光景であった。美術王国イタリアのひとコマである。

    ブログを勧めてくれた友人はその後SNSに乗り換え、トレンドを走っている。これまで、SNSの誘いを何人かの友人から受けたが、かたくなにブログ一本で通し、「不器用」な人生を貫いている。「ブログ1万日」となると78歳だ。いま密かに計画を練っている。自身のデータ(日記、検診や診療記録など)、講演や講義の原稿、著作物、撮った写真、読んだ本のリスト、名刺、これまでのブログなどをすべてAIに読み込ませ、私の思考や感情、心理と論理、知識、対人関係を身に着けた「分身」になってもらうのだ。1万日目のブログはひょっとしてAI分身が書いているかもしれない。  (※写真・上は金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」)

⇒5日(土)朝・金沢の天気    あめ

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その6

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その6

   この一年の墓碑銘をなぞってみて、映画『日日是好日』で主役を演じた樹木希林(9月15日逝去)に哀悼の意を表したい。映画は亡くなった後の翌月に封切られ、「日日是好日」の意味が知りたくて金沢の映画館で鑑賞した。物語は樹木希林が演じる茶道の先生の元で、主人公を演じる黒木華が大学生の20歳の春にお茶を習い始めことから始まる。

     日日是好日の人生を生き抜いた二人の墓碑銘をなぞる

   映画の空間は一つの小さな茶室なのだ。ここで茶道の帛紗(ふくさ)さばき、ちり打ちをして棗(なつめ)を「こ」の字で拭き清める。茶巾(ちゃきん)を使って「ゆ」の字で茶碗を拭く。多くのシーンは点前だ。面白いのは二十四節季の茶室が描かれ、茶道の四季を際立たせている。四季は「立春」「夏至」「立秋」「小雪」「大寒」などと移ろっていく。同時に掛け軸と茶花が変わり、炉から風炉へ、菓子も季節のものが次々と。外の風景も簀(す)戸、障子戸と季節が移ろう。夏のシーンで主人公が床の掛け軸の「瀧」と茶花のムケゲと矢羽ススキを拝見する姿がある。瀧の字は流れ落ちる滝のしぶきをイメージさせ、「文字は絵である」と悟る。小さな茶室での物語であるものの、季節感あふれる多様な茶道具に見入り、茶道の世界の広さと深さに圧倒された。

   樹木希林の演技はまさに「お茶の先生」だった。初釜の場面で、濃茶の点前をする長めのシーンがある。複雑な手順も自然にこなし、流れが身についていると感じさせる。作法と演技を一体化させる才能はどこから来るのだろうか。主人公は失敗と挫折、人生の岐路に立たされながらも、茶道を通じてその清楚さに磨きをかけ、ヒロインとして輝きを放つ。小さなお茶室で繰り広げられる、茶道という「道」の壮大なドラマだった。日日是好日の意味は、喜怒哀楽の現実を前向きに生きる、その一瞬一瞬の積み重ねが素晴らしい一日となる、そんな解釈だろうか。

   映画を見終わったとき、ひょっとして樹木希林が演じたお茶の先生のモデルではないのかと想像を膨らませた先生がいた。金沢市の出村宗貞さん(本名・貞子)。茶室がある自宅を訪問すると、庭には茶花が咲き、茶室では社中の人たちが稽古に余念がない。出村先生はときには叱り、ときには手を取り教える。話し方、所作など樹木希林が演じる役を地で行く先生だ。その出村さんは10月27日に逝去された。94歳だった。慕われ、尊敬される茶道教授の役柄を見事に演じ切った。日日是好日。名優として最期を遂げた樹木希林と私の心の中でどこか2人の生きざまが重なって見える。(※写真は映画『日日是好日』のパンフレットから)

⇒31日(月)午後・金沢の天気  くもり時々あめ

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その5

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その5

  年の瀬になって起きた「能登半島沖」の「大和堆」での事件。日本の排他的経済水域(EEZ)内で、韓国海軍の駆逐艦が20日午後3時ごろ、海上自衛隊のP1哨戒機に対して火器管制レーダーを照射した。岩屋防衛大臣が21日夜に緊急記者会見で公表した。P1は最初の照射を受け、回避のため現場空域を一時離脱した。その後、状況を確認するため旋回して戻ったところ、2度目の照射を受けた。P1は韓国艦に意図を問い合わせたが、応答はなかった。照射は数分間に及んだと報じられている。

   ドラマ仕立ての反論、事実と向き合えない相手が陥る弱点とは

   28日、防衛省はP1が韓国駆逐艦を撮影した動画をホームページで公開した。再生して視聴すると、当時のリアルな状況が伝わってくる。レーダーの電波を音に変換してヘッドホンで聞いているP1の操縦士たちが「出しています」と電波を感知すると、「避けた方がいいですね」「めちゃくちゃすごい音だ」と緊迫した会話が録音されている。その後、P1から駆逐艦に向けて、「KOREAN NAVAL SHIP, HULL NUMBER 971, THIS IS JAPAN NAVY, We observed that your FC antenna is directed to us. What is the purpose of your act ? over.」とレーダー照射の目的を無線で3度問い合わせている=写真・防衛省ホームページより=。問い合わせに対する駆逐艦からの応答はなかった。テロップは付けてあるものの、画像の編集はなく、13分7秒の実録である。

   これに対する韓国側の対応はドラマ仕立てだ。映像の公開を受けて、韓国国防部側は「日本側が公開した映像資料は単純に日本の哨戒機が海上から巡回するシーンとパイロットの対話だけだ。一般的な常識からみると射撃統制レーダーを調査したという日本側の主張に対する客観的な証拠とはみられない」と映像の信ぴょう性そのもものを否定。さらに、P1からの呼びかけに答えなかった理由として「日本乗務員がKorea South Naval Shipと呼んだが、通信状態が良くないえうえ英語の発音が悪くてSouthがCoastと聞こえた。海警を呼んだと考えた」と明らかにした、と29日付の韓国・中央日報(日本語版)は伝えている。

  韓国側の対応を「ドラマ仕立て」と述べたのは、事実のストーリーの書き換えを懸命に行っているとの意味である。「英語の発音が悪くて」というそれこそ客観性のない言葉で責任逃れのストーリーを組み立てようとしている。国際外交の舞台であれば、ある意味でドラマ仕立てのハッタリを効かせて交渉を優位に進めることもあるだろう。防衛は外交の場ではなく、相手の弱点を見抜く場でもある。事実と向き合えない相手の弱点とは何か。自己防衛本能は強いが、そのうち自己矛盾に陥る。そのときどうなるのか韓国は。

⇒30日(日)午後・金沢の天気    くもり時々みぞれ

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その4

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その4

     「キャッシュレス」も今年よく耳目で触れた言葉かもしれない。テレビや新聞によると、その先進事例は中国で、スマートフォンによる決済が進んでいて、マクドナルドでは現金レジがない店もあるようだ。さらに、食材市場の個人商店などでもQRコード決済が可能で、キャッシュレスが日常の光景になっている。この傾向は世界的に進んでいて、日本だけが「キャッシュレス文明」に乗り遅れてしまうと言わんばかりの少々自虐的なメディアの論調ではある。

     日本は「キャッシュレス文明」に乗り遅れているのか    

   そもそもキャッシュレスは物理的な紙幣や硬貨の現金ではない支払い手段のことだと自身は解釈している。プリペイドカードなど電子マネー(前払い)で買い物をし、電車やバスに乗車する。クレジットカード(後払い)で家電製品を買ったりもする。私は持っていないがデビットカード(即時払い)でレストランで食事を楽しんでいる友人たちもいる。このほか、電気料金や水道・ガスなどの公共料金などは自動引き落としだ。すでに身の回りはキャッシュレスだ。さらに、住宅ローンなどは銀行口座間での送金となっていて、支払い総額の高い比率がすでにキャッシュレス化している。

   それでも、日本のキャッシュレス化は低い。経済産業省の『キャッシュレス・ビジョン』(2018年4月)によると、世界各国のキャッシュレス決済比率では韓国が89.1%でトップ、2位中国、3位カナダと続く。日本は18.4%にとどまる。韓国では、年商240万円以上の店舗にクレジットカードの取扱義務を課しているほか、硬貨の発行や流通にコストがかかることから「コインレス」に取り組み、消費者が現金で買い物をした際のつり銭を、直接その人のプリペイドカードに入金する仕組みを国家の政策として進めている(『キャッシュレス・ビジョン』より)。
 
   日本でキャッシュレス化が進まないのは貨幣(お金)に対する日本人独特の意識と文化があるのかもしれないと考察している。その典型的な事例が「新券」という考えだ。俗にいうピン札だ。結婚や出産のお祝いの慶事の熨斗袋や、習いごとの月謝袋にはピン札を入れる。同じ1万円札なのに何故に、と他国の人々は不思議がるかもしれない。新券に気持ちを込めるという文化があるのだ。もう一つは治安のよさだろう。スウェーデンのキャッシュ決済比率も48.6%と高い。この背景に、現金を扱う金融機関や交通機関などで強盗事件がかつて多発したことから、犯罪対策としてキャッシュレス化が推進された(『キャッシュレス・ビジョン』より)。

   では、日本でキャッシュレス化を進めるメリットはどこにあるのだろうか。よく分からない。プリペイドカードの枚数が増えて混乱するのは消費者の方だ。根深いところでは、自然災害が多発する日本で送電網が絶たれた場合、プリペイドカードやクレジットカード、デビットカードは果たして使えるのか、機能するのか。それより手元に現金があったほうが安心なのではないか、という深層心理が日本人のどこかにあるのではないだろうか。小銭を財布の中で探すのは時間がかかり、おっくうではあるが。  ※写真は経済産業省『キャッシュレス・ビジョン』(2018年4月)より。

⇒28日(金)夜・金沢の天気     くもり

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その3

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その3

  最近耳にする言葉を2つ挙げると「SDGs(エス・ディ・ジーズ)」と「5G(ファイブ・ジー)」かも知れない。慣れない人は「エス・ディ・ジー」と発音して、なかなか「ズ」が出てこない。この2語はおそらく来年のキーワードではないかと想像している。

      能登半島の最尖端から発するSDGsアクション

   偉そうに言う自身が「SDGs」を発するようになったのはことし3月ごろだ。能登半島の先端に位置する珠洲市が、「SDGs未来都市構想」を掲げる内閣府が全国自治体から公募する「SDGs未来都市」に応募するので、知恵を貸してほしいと持ちかけられたのが最初だった。同市の提案「能登の尖端“未来都市”への挑戦」が採択されたのは6月だった。初公募で29自治体が採択された。次年度(2019年)は応募が過熱するだろうと読んでいる。それだけ、学校教育や企業の現場でも「SDGs」が語られるようになっている。

   珠洲市が率先して「SDGs未来都市」に乗り出したことには2つの意味があると考えている。それは、これまでの地方創生の目標に加え、国際的に通用する「新しい物差し」で地域の課題に向き合うという意思表示を国内だけでなく世界に示したということになるからだ。 

  国連の持続可能な開発目標であるSDGsの基本原則は「誰一人取り残さない」ということ。これは、立場の弱い人々に手を差し伸べて、負担を少なくする、あるいはどうすれば負担が少なくなるのかを福祉の観点だけでなく、環境や経済などの視点から前向きに幅広く考えて、地域のプラス成長にもっていくという発想でもある。SDGsは高邁な理想にも聞こえるが、実践ベースではとても地味だ。珠洲市は7月に市内の10の郵便局とSDGsの目標達成に向けて協力する包括連携協定書を交わした。「なぜ郵便局と」と思われるかもしれないが、郵便局はすべての世帯に郵便物を届けるという使命感がある。その郵便局のネットワークを活かして、地域の見守り活動や災害時の支援、広報など行政の取り組みを支援していく。これは、SDGsの「誰一人取り残さない」社会の理念と実に合致する。地味な一歩かもしれないが、SDGs実践に向けてプロジェクトを積み上げる大きな一歩ではないだろうか。

   10月1日には、珠洲市におけるSDGsの取り組みの中核となる「能登SDGsラボ」がオープンした=写真=。能登SDGsラボは、地域の課題解決のワンストップ窓口であり、さまざまな専門家や有識者が集うシンクタンクの拠点機能を目指している。多くの研究者や学生にも参加してもらい、グローバルな視点で地域課題を考え、課題解決に参画するアクションの場となればと期待する。

        2020年には同市で「奥能登国際芸術祭」が開催される。半島の先端から「SDGs芸術祭」を世界に発信するチャンスかもしれない。

⇒25日(火)朝・金沢の天気     はれ

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その2

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その2

   きのう23日は天皇誕生日だった。平成最後の年末を迎えるにあたって、天皇のお気持ちを察する。85歳の誕生日を前に開かれた記者会見(20日、皇居)の内容からお気持ちを読んでみる。宮内庁ホームページに会見録が掲載されている。在位中最後となる会見でもあり、象徴として歩んで来られた平成という時代に込めた思いを述べられ、「私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と語られた。印象的な言葉は、「天皇としての旅を終えようとしている今、…」とのフレーズだった。来年春の譲位が決まり、安堵のお気持ちが伝わるフレーズだと感じた。

    在位中最後となる会見で天皇が込められた「旅を終える」想い

   天皇が初めて譲位の意向をお言葉として発せられた、平成28年8月8日のお言葉の中で、「次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」と語られ、悲壮感が漂ったお言葉だと感じた。それが、今回のお言葉では、「天皇としての旅を終えようとしている今、…」と肩の荷を下ろされたような表現になっている。

   その背景を探ってみる。平成28年8月8日のお言葉の中に、重苦しいお言葉があった。「皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません」と。

   「重い」との形容詞をあえて被せた「殯の行事」。一般の葬儀とは違って、夜を徹してご遺体と共にする「お通夜」が2ヵ月にわたって続く。天皇というのは皇位を継承するだけではなく、亡くなられた天皇の霊を継承するという宗教的な意義がセットになっている。こうした「重い」儀式は果たして現代の皇室に必要なのだろうかと天皇自ら問いかけられたのが前段のお言葉だった。生前退位で皇位が継承されれば、殯の行事は簡素化で済む。これが皇室改革の大きな一歩になると、天皇は平成28年8月8日のお言葉を述べられたのではないかと解釈している。今回の「天皇としての旅を終えようとしている今、…」はようやくその願いがかなったとの安堵のお言葉ではないだろうか。

   ちなみに、殯の弔いは東南アジアの一部で残っている。壮大な棚田で2千年の稲作の歴史を有するフィリピン・ルソン島中央のイフガオだ。現地で聞いた話だが、イフガオ族では死者を布でくるんで白骨化するまで自宅に置いて弔う。家族は死者を身近に置くことで、亡き人をしのぶ。日ごとに悲しみにと同時に死者への畏敬の念が沸いているのだという。その後、家族で洗骨の儀式を営み、埋葬する。カトリック教の布教の広がりとともにこうした弔い方は減ってはいるが、古代からの農耕民俗として今でも伝えられている。(※写真は、今月20日の天皇の記者会見、場所は宮殿「石橋の間」=宮内庁ホームページより)

⇒24日(振休)朝・金沢の天気   くもり

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その1

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その1

    きょう23日午後2時から石川県立音楽堂で、県音楽文化協会の年末公演が開催された。モーツアルトの「レイクエム」、年末を飾るのにふさわしいコンサートだった。昭和38年(1963)から続く恒例の年末コンサートはこれまで長らく、ベートーベンの「第九交響曲」と「荘厳ミサ曲」の2公演がセットだった。今回初めて「荘厳ミサ曲」から「レクイエム」に変更された。平成最後の年末公演を「レイクエム」で締める。練習も相当厳しいものがあったろうことは想像に難くない。公演では、イタリアの合唱団メンバーも加わり、35歳で亡くなったモーツアルトが最後に残した曲が感動的に演奏された。「レイクエム」を聴きながら、平成最後の1年を振り返る。

      日本海の「厄介な危険物」、来年はさらに混沌と

    日本海側で暮らす一人として、はやり北朝鮮と日本海、そして最近の韓国の動向が気にかかった1年だった。年初の1月10日朝、金沢市下安原海岸に北朝鮮の漁船が漂着し中から7人の遺体が見つかった。現場に足を運んだ。船の中には、ハングル文字で書かれた菓子袋などが散乱し、迷彩服もあった。ひょっとして軍人が乗っていたのではないかと勘ぐった。昨年から問題となっている北朝鮮の漂着船を現場で見るのは初めてだが、それにしても古い木造船だ。全長16㍍、幅3㍍ほど。このような船で日本海のイカの好漁場である大和堆(日本のEEZ内)に繰り出し、漁をする。しかし、冬の日本海は荒れやすい。命がけで、なぜそこまでしてイカ漁に固執する必要があったのだろうか。上からの命令だったのか。

      海上保安庁によると、ことし1年ですでに北朝鮮からとみられる木造船が漂着は201件、昨年の2倍。問題はこうした漂着船の解体処分や遺体の火葬をするのは自治体だ。石川県に漂着した木造船などの処分費用21件880万円(11月現在)。最終的に国が全額負担している。

   もっと厄介なのは北朝鮮の違法操業だ。スルメイカ漁は6月に解禁になり、多くの日本漁船が大和堆でのイカ釣り漁を開始する。日本漁船は釣り漁であるのに対し、北のイカ漁船は網漁だ。夜間に日本漁船が集魚灯をつけると、集魚灯の設備を持たない北の漁船が多数近寄ってきて網漁を行う。獲物を横取りするだけでなく、網が日本漁船のスクリューに絡むと事故になる危険性にさらされる。また、夜間では北の木造漁船はレーダーでも目視でも確認しにくいため、衝突の可能性が出てくる。衝突した場合、水難救助法によって北の乗組員を救助しなければならない。そうなればイカ漁どころではなくなる。だから、「厄介な危険物」にはあえて近寄らない。多くの日本漁船が好漁場である大和堆を避けるという現象が起きたのはこのためだ。

    さらに厄介なのは最近の韓国の動きだ。11月20日、大和堆付近で操業中の日本のイカ釣り漁船に対し、韓国の海洋警察庁の警備艦が「操業を止め、海域を移動するよう」と指示を出し、漁船に接近していた「事件」があった。日本の海上保安庁の巡視船が韓国の警備艇と漁船の間に割って入ることで、韓国の警備艇は現場海域を離れた。

    スルメイカは貴重な漁業資源だ。それを北朝鮮に荒らされ、さらに「日本漁船は海域を出ろ」という韓国。来年の日本海はさらに混沌としてくるのではないか。

⇒23日(日)夜・金沢の天気    あめ

★島崎藤村と「どぶろく」

★島崎藤村と「どぶろく」

   出張の帰りに北陸新幹線軽井沢駅で途中下車し、「しなの鉄道」に乗り換え、小諸市を巡った。晴れてはいたが寒風がふいていた。小諸駅の裏手にある「小諸城址 懐古園」を散策した。ダイナミックな野面石積みの石垣、樹齢500年のケヤキの大木など城址めぐりを楽しんだ。ただ、城の大手門と本丸の間に鉄道が敷設されているので、城址公園の遺産がまるで分断されたようになっていて、「もったいない」と感じたのは私だけだろうか。

   懐古園にある「藤村記念館」に入った。平屋の小さな民家のような建物なのだが、設計者は東宮御所や帝国劇場を手掛けた建築家、谷口吉郎(1904-1979)だった。パンフレットによると、島崎藤村が小諸にやってきたのは明治32年(1899)のこと。牧師として藤村に洗礼を施した木村熊二に招かれて私塾の教員として小諸にやってきた。ここで過ごした6年余の間に創作活動を広げ、『雲』『千曲川のスケッチ』、そして『破戒』を起稿した。記念館には藤村の小諸時代を中心とした作品や資料、遺品が展示されている。

   館内は写真撮影は不可なのだが、一枚の写真のみ「撮影可」となっているものがあった。浅間山、小諸の街並み、そして千曲川が流れる大判サイズの写真で、『千曲川旅情の歌』と藤村の写真を配置している=写真=。確か中学時代に覚えた『千曲川旅情の歌』の始まりは今でも記憶にある。「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ・・・」。出だしは覚えているのだが、実は最後まで目を通したことは記憶に薄い。歌詞が長い。改めて最後まで目を通すと、歌詞は「千曲川いざよふ波の岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて草枕しばし慰む」で締めている。このとき、「藤村はどぶろく大好きだったのか」と想像をたくましくした。どぶろくは蒸した酒米に麹と水を混ぜ、熟成させた酒。ろ過はしないため白く濁り、昔から「濁り酒」とも呼ばれていた。どぶろくは簡単に造ることはできるが、明治の酒税法によって、自家での醸造酒の製造を禁止され、現在でも一般家庭では法律上造れない。

   歌詞にあえて「濁り酒」を入れるとは好物だったのではないかと想像するが、と言うことは、藤村自身も家庭で醸造していたのか。酒税法によって自家での醸造酒の製造を禁止されたのは明治32年(1899)。藤村が小諸にやって来た年である。この歌が作品として発表されたのは同34年(1901)の『落梅集』とされる。国立国会図書館デジタルコレクションでこの著作物を開いてみると、巻頭言の次の2ページと3ページに「小諸なる古城のほとり」のタイトルで掲載されている。藤村にとって相当の自信作だったに違いない。

           当時法律の周知には数年かかったろうと想像すると、この歌をつくったころはまだ、どぶろくを自由に造れ、存分に飲めたのだろう。しかし、日露戦争が明治37年(1904)に起き、戦費調達のために税の締め付けがきつくなり、「濁り酒」は本格的に御法度となっていったのではないだろうか。

⇒16日(日)午前・金沢の天気   くもり

☆「壺中日月長」 庭清掃と茶の湯のこと

☆「壺中日月長」 庭清掃と茶の湯のこと

   寺社の庭園で清掃ボランティアをして、その後、茶会に臨む。4日に金沢市山の上町にある浄土宗心蓮社でそのような催しが開かれ、参加した。ボランティアとしてではなく、茶会のバックヤードでのスタッフとしての参加だった。

   このイベントは金沢市などが主催する「東アジア文化都市2018金沢」の中の「金沢みらい茶会」の一つ。みらい茶会では「トラディショナル(伝統)」と「コンテンポラリー(現在)」の2つをテーマに茶の湯の文化を味わうという、ある意味で野心的な試みでもある。

   「ボランティア茶会」を企画したのは国連大学IAS研究員のフアン・パストール・イヴァールス氏。日本の建築と庭園が専門で、研究のかたわら茶道をたしむ。フアン氏は金沢の寺社などで研究を進める中であることに気づいた。市内には庭園が数多くあるものの、所有者の高齢化などによって、あるいは経費的に維持管理ができない状態に陥っているケースが目立つことだった。心蓮社も住職が兼務で、庭園になかなか手が回らない状態だった。2年前にフアン氏が同社の庭園を訪れ、ボランティアによる清掃を住職に提案。その後、学生や知り合いの外国人仲間を誘って清掃のボランティア活動を続けている。

      同社の庭園は「築山池泉式」と呼ばれる江戸時代に造られた書院庭園。湧水の池は「心」をかたどり、池のきわにはタブの巨木がそびえる。市指定名勝でもある。今回午前と午後に分けて30人余りのボランティアが参加。サンショウウオが住む池の周囲で落ち葉を拾い集めたり、草刈りなどを行った。参加したボランティアのほどんどが女性。東京や大阪などから観光で訪れ偶然イベントを知って参加した人たちや、フアン氏の活動を支援する外国人も。また、趣味で寺巡りをしている女性、テラジョ(寺女)と呼ばれる人たちもいてなかなかにぎやか。2時間ほどの作業で、庭園が清められた=写真・上=。

  その後、書院での茶会に。床の間には「壺中日月長」の掛け軸。秋明菊など種の季節の花が彩りを添える=写真・下=。参加者は薄茶を味わいながら、書院から清められた庭園を眺める。寺社の庭で清掃ボランティア、そして茶会という2つのステージは参加者にとって2度心が洗われ満足度も高かったのではないだろうか。

   私の仕事は「点(たて)出し」。 茶の湯で薄茶を客の前でたてるのは正客と次客の2人。3人目の客からはあからじめ、「点出しでさせていただきます」とことわってから、水屋でたてたお茶を運ぶ。お湯に入れて茶碗を温め、薄茶の粉を茶碗に入れて、茶筅(ちゃせん)をスクリューにように回してたてる。それを半東(はんとう)役が客に運ぶ。

   庭園の清掃ボランティアと茶の湯という小さな空間だが、それはそれで歴史的な背景もあり、人の作法や人生観、人と自然のかかわりが時空として深く広がる。掛け軸の壺中日月長(こちゅうじつげつながし)という禅語はこの一日のことを筆一行に凝縮しているように思えた。

⇒6日(火)夜・金沢の天気     くもり

★阿武松と輪島の横綱顕彰碑

★阿武松と輪島の横綱顕彰碑

   能登が生んだ相撲界のトップは2人いる。第6代横綱、阿武松緑之助(おうのまつ・みどりのすけ、1791‐1852)と第54代横綱の輪島大士(わじま・ひろし)だ。2人の生きた時代はまったく違うが、幼いころからエピソードはよく聞いた。ことし5月に2人の顕彰碑を訪ねる機会があった。

   阿武松の顕彰碑は生まれ故郷の能登町七見にある。富山湾を臨む海辺に、高さ4.5メ㍍、幅2.4㍍の石碑だ。町の案内板によると、碑は昭和12年(1937)に建立され、相撲力士碑としては日本一の大きさと説明がある。文政11年(1828)に横綱に昇進、天保6年(1835)の引退までの在位15場所の通算成績は230勝48敗だった。ちょっと癖もあったようだ。立合いでよく「待った」をかけた。良く言えば慎重派だったのだろう。当時の江戸の庶民はじれったい相手をなじるときに、「待った、待ったと、阿武松でもあるめぇし…」と阿武松の取り組みを引用したほどだった。

   阿武松が引退して、145年後再び能登生まれが横綱に駆け上った。輪島だ。七尾市石崎町の出身。阿武松の故郷とは直線距離にして30㌔ほどだろうか。同じく海辺の町だ。ちなみに現役の遠藤聖大(えんどう・しょうた)は2人の中間地点の穴水町中居の生まれ。

   輪島は金沢高校1年のときに国体で優勝して地元石川で名をはせた。日本大学へ進み、2年連続の学生横綱、そして花籠部屋へ入門した。当時、学生横綱がプロの世界に入るのは異例だった。1973年に横綱に昇進したが、本名で通した。これも異例だった。ただ当時、能登半島の観光ブームの起爆剤になった。輪島は「輪島の朝市」や「輪島の千枚田」を連想させ、生誕地に接する和倉温泉のにぎわいに貢献した。77年に歌手・石川さゆりの『能登半島』がヒットし、能登ブームはピークに達した。

   左下手を取ると力を発揮する特異な取り口は「黄金の左」と呼ばれ、ライバルの横綱・北の湖とともに「輪湖時代」の全盛期を築いた。81年春場所で引退、通算成績は673勝234敗だった。その後、花籠部屋を継承したが、金銭トラブルなどで日本相撲協会を退職。プロレスラーに転向し、ジャイアント馬場の門下に。その後も輪島の話題は地元でよく聞いた。出身地の石崎奉燈祭(8月)では、帰省してキリコを担いでいる写真が地元紙で掲載されたこともあった。一方、仕事に困って和倉温泉の旅館で下足番をしているのを見たなどと噂話も。これも「有名税」なのだろう。

   その輪島がきのう8日逝去したと報じられた。70歳だった。阿武松の顕彰碑に匹敵する石碑が生まれ故郷の石崎町、市立能登香島中学の後方に建っている。

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