⇒ドキュメント回廊

★伊香保の石段、歴史の風景

★伊香保の石段、歴史の風景

   北陸新幹線の金沢開業がこの3月で5年目に入った。新幹線のおかげで北関東や東北が随分と身近になった。きょう高崎駅で途中下車し、伊香保温泉まで足を延ばした。高崎駅から列車で渋川駅へ、駅からはバスで伊香保へ、1時間足らずだった。

   400年余りの歴史がある温泉街、初めて訪ねた。そこは石段の街だった=写真・上=。365段の石段の周囲には歴史の風情を感じさせる温泉地の街並みがあった。土産物店の軒下にポスター写真が貼ってあった。石段を埋め尽くす女性たちの古い写真だ=写真・中=。説明書きに「昭和初期に伊香保温泉に富岡の製糸工場の女工さん達が泊まりに来た記念写真」と。女性たちの表情は笑みを浮かべている。当時はそれほどレジャーがある時代ではない。これは推測だが、「伊香保講(こう)」と称して旅費を毎月積み立て、数年に一度、こうして温泉を楽しみに来ていたのではないだろうか。

   365段を上り切ると伊香保神社がある。温泉の守護神だけに、伝説も豊富だ。幕末、北辰一刀流の千葉周作が額を上州地方で他流試合を行い門弟を増やした。伊香保神社に奉納額を掲げようとすると、地元の馬庭念流の一門がこれを阻止しようとしてにらみ合いになった。千葉周作は掲額を断念したが、この騒動で名を挙げた。その後、江戸に道場を構え、坂本龍馬らが入門している。

   境内に灯籠(とうろう)があった=写真・下=。「伊香保町指定史跡」とあり、由来記にこうあった。天保4年(1833)から明治15年(1882)までの50年間に60回の入湯を果たした人物が記念に建てた。伊香保まので片道60㌔もある道のりを通った、とある。個人の記念碑のようなものなのだが、この人物をネットで検索すると、草津温泉にも40回通って灯籠を建てている。無名ながら、よほどの温泉マニアだったのだろう。

   大正の画家、竹久夢二もこの地を訪れ、女性が黒猫を抱く、代表作『黒船屋』を描いている。さまざま人が行き交い、伊香保の歴史を創ってきた。階段を上り下りしたおかげでスマホの歩数計は8700歩になっていた。

⇒27日(水)夜・金沢の天気     くもり

☆能登学舎までの30年、それからの13年

☆能登学舎までの30年、それからの13年

   能登半島の先端、珠洲市にある金沢大学能登学舎で人材養成プロジェクト「能登里山里海マイスター育成プログラム」の6期生修了生式が今月16日あった=写真・上=。同プロジェクトは2007年に始まった、社会人を対象とした人材養成プロジェクトである。これまで通算10期183人がマイスターの称号を得ている。

   平成18年(2006)に金沢大学が同市に「能登半島 里山里海自然学校」のプロジェクトを持ち込んだことがきっかけだった。珠洲市は半島の先端であり、ここで人材育成を行うことは意義があった。それまで、珠洲市にはおよそ30年にわたって原発というテーマがあった。

   珠洲市では、昭和50年(1975)に北陸電力・中部電力・関西電力のから力会社3社による珠洲原発の計画発表があった。同58年(1983)年12月に同市議会で当時の谷又三郎市長が原発推進を表明した。平成元年(1989)5月に関電が高屋地区での立地可能性調査に着手、建設反対住民が役所で座り込みを始め、40日間続いた。

   平成5年(1993)4月に賛成派と反対派が立候補した珠洲市長選挙で「ナゾの16票」発覚し、無効訴訟へと裁判闘争が始まった。同8年(1996)5月に同市長選挙の無効訴訟で、最高裁が上告を棄却して、原発推進派の林幹人市長の当選無効が確定した。同8年(1996)7月にやり直し選挙で、原発推進派の貝蔵治氏が当選した。同15年(2003)12月、電力3社が珠洲市長に原発計画の凍結を申し入れた。同18年(2006)6月、貝蔵市長が健康上の理由で辞職。選挙では、市民派の泉谷満寿裕氏が自民推薦の前助役を破り初当選を果たした。

   平成18年(2006)に金沢大学が同市に「能登半島 里山里海自然学校」を小学校の廃校舎を借りて始めた=写真・下=。能登の里山里海での生物多様性を研究者と市民がいっしょになって調査する、オープンリサーチの拠点とした。このとき、泉谷市長自らが候補地をいくつか案内するなど熱心な誘致活動があった。同19年(2007)10月に金沢大学が「能登里山マイスター養成プログラム」を始める。同21年(2009)9月、ユネスコ無形文化遺産に「奥能登のあえのこと」が登録された。これがきっかけで、同23年(2011)6月に国連食糧農業機関(FAO)の世界農業遺産(GIAHS)に日本で初めて「能登の里山里海」と「トキと共生する佐渡の里山」が認定された。同30年(2018)6月、珠洲市が内閣府の「SDGs未来都市」に採択された。能登半島に国際評価と国連の目標が定まった。

   予断を挟まず淡々と述べた。原発というテーマがなくなり、そこに里山里海と生物多様性、里山マイスターという人材育成プロジェクットを持ち込んだ能登学舎での13年だった。学舎での取り組みは、全国の大学や産業支援機関でつくる「全国イノベーション推進機構ネットワーク」による表彰事業「イノベーションネットアワード2018」で最高賞の文部科学大臣賞を受賞した。そして、珠洲市は「SDGs未来都市」の2030年の目標達成をめがけて突き進んでいる。その運営母体となる「能登SDGsラボ」の事務局は能登学舎にある。

⇒25日(月)夜・金沢の天気    くもり

★Society 5.0にどう向き合うか

★Society 5.0にどう向き合うか

      きょう銀行で両替をした。1万円札2枚を千円札の新券20枚に替えてもらった。依頼書に持参現金の内訳、希望の金種内訳、枚数を書き、新券希望の欄を丸印でチェック、住所と氏名を書くだけよい。両替手数料は50枚以下は無料だ。ちなみに51-300枚は324円、301-1000枚は648円、1001枚以上は1000枚ごとに324円の手数料がかかる。「キャッシュレスの時代に両替なんて、なんとアナログなことを」と自虐的な思いでピン札を受け取った。

  家族が習い事をしていて、月謝は新券で持参するものとの流儀があるからだ。月謝のほかに、結婚や出産の祝いなど慶事の熨斗袋にはピン札を入れる。逆に香典や布施など弔事には旧券を入れる。札は単なるキャッシュではなく、習い事や慶弔など札に込められた文化的な意味合いがある。これは日本独自の文化ではないかと考察している。もちろん、プリペイドカードなど電子マネー(前払い)でコンビニで買い物をし、電車やバスに乗車する。クレジットカード(後払い)で家電製品を買ったりもする。電気料金や水道・ガスなどの公共料金などは自動引き落とし。さらに、住宅ローンなどは銀行口座間での送金となっていて、支払い総額は圧倒的にキャッシュレス決済化している。

  それでも、習い事の月謝はピン札、月命日の供養の住職へのお布施は旧券を袋に入れて手渡しだ。では、私自身が習い事の師匠や住職に「来月から振込でお願いします」と言えるかとなると、自身はやはり違和感を感じる。おそらく、師匠や住職は断らないかもしれないが。対面の文化では恩恵の対価をキャッシュレス決済で、とはならないだろう。

   経済産業省の『キャッシュレス・ビジョン』(2018年4月)によると、世界各国のキャッシュレス決済比率では韓国が89.1%でトップ、2位中国、3位カナダと続く。日本は18.4%にとどまる。韓国では、硬貨の発行や流通にコストがかかることから「コインレス」に取り組み、消費者が現金で買い物をした際のつり銭を、直接その人のプリペイドカードに入金する仕組みを国家の政策として進めている。スウェーデンのキャッシュ決済比率も48.6%と高い。この背景に、現金を扱う金融機関や交通機関などで強盗事件がかつて多発したことから、犯罪対策としてキャッシュレス化が推進された(『キャッシュレス・ビジョン』より)。

   貨幣の流通コストや犯罪対策という迫った課題がない日本でなぜキャッシュレス決済が叫ばれるのか。それは、訪日外国人観光客が年間3000万人を超え、国が掲げる「2020年までにインバウンド客4000万人」の達成を見込んでのことだろう。では、日本でキャッシュレス化を進めるメリットはどこにあるのだろうか。プリペイドカードの枚数が増えて混乱するのは消費者の方だ。根深いところでは、自然災害が多発する日本で送電網が絶たれた場合、プリペイドカードやクレジットカード、デビットカードは果たして使えるのか、機能するのか。それより手元に現金があったほうが安心なのではないか、という深層心理が日本人のどこかにある。

   キャッシュレス化はまだ先の話なのか、そういえば、選挙の投票もいまだに投票所での手書きだ。AI、IoT、5Gなど「Society 5.0」の時代に入っている。超スマート社会に日本人はどう向き合えばよいのか。

⇒17日(火)夜・金沢の天気     くもり

★「3・11」 あれから8年

★「3・11」 あれから8年

   「3・11」の被災現場を初めて訪れたのは、2ヵ月後の2011年5月11日だった。3日間、宮城県の仙台市と気仙沼市を中心に回った。目的は2つあった。一つは「森は海の恋人運動」を進めていた畠山重篤氏に会うため、もう一つは「震災とマスメディア」をテーマにした取材だった。

   気仙沼市役所にほど近い公園では、数多くの大漁旗を掲げた慰霊祭が営まれていた。気仙沼は漁師町。津波で漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていた。それを市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭で掲げた。この日は曇天だったが、色とりどりの大漁旗は大空に映えていた。その旗には「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものも数枚あった。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。午後2時46分に黙とうが始まり、一瞬の静けさの中で、祈る人々、すすり泣く人々の姿が今でも忘れられない=写真・上=。
   
   公園から港方向に緩い坂を下り、カーブを曲がると焼野原の光景が広がっていた。気仙沼は震災と津波、そして火災に見舞われた。漁船が焼け、町が燃え、津波に洗われガレキと化した街だった。数百㌧はあろうトロール漁船が陸に押し上げられていて=写真・下=、津波のすさまじさを目の当たりにした。

   入り江の小高い丘にある畠山氏の自宅を訪れると「さきほど東京に向かった」とのこと。行き違いになった。ご家族の方にアポをとっていただき、翌12日午前中に仙台駅から新幹線で東京駅に行き、畠山氏と二男の耕氏と会った。畠山氏が中心となって、カキの養殖業者が気仙沼湾に注ぐ大川の上流で植林活動を20年余り続けていた。森の養分が湾に注ぎ込むことで、カキを育てる運動の先駆者だった。

   コーヒーを飲みながら被災後の近況を尋ねると、間伐もされないまま放置されている山林の木をどう復興に活用すればよいか、どう住宅材として活かすか、まずはカキ筏(いかだ)に木材を使いたいと、長く伸びたあごひげをなでながら語っておられた。津波で母を亡くし、カキ漁場も失った。それでも、森は海の恋人運動を震災復興にどう役立てるかと一途に想う姿には敬服した。75歳の畠山氏は今もカキ養殖のかたわら講演や執筆活動を通じて運動の広がりに熱意を注がれている。

   同日午後に仙台に戻り、KHB東日本放送を訪ねた。私のテレビ局時代、よく語り合った記者仲間が同社にいて、震災当時の様子を聞かせてもらった。局内の部屋を案内されると天井からボードが落ちていて、当時の揺れの激しさを目の当たりにした。東日本大地震では「地元マスメディアも被災者」ということを実感した。

   震災直後の報道現場の様子を生々しく語ってくれた。余震が続く中、14時53分に特番を始めた。それ以降4日間、15日深夜まで緊急マナ対応を継続した。空からの取材をするため、14時49分に契約している航空会社にヘリコプターを要請したがヘリは破損していた。空撮ができなければ被害全体を掌握でききない。さらに、21時19分、テレビ朝日からのニュース速報で「福島原発周辺住民に避難要請」のテロップを流した。震災、津波、火災、そして原発の未曽有の災害の輪郭が徐々に浮き彫りになってきた。

   同社の社長は社員を集め指示した。「万人単位の犠牲者が出る。長期戦になるだろうが、報道部門だけでなく全社一丸となって震災報道にあたる」と、報道最優先の方針を明確に打ち出した。それは、命を救うための情報発信に専念せよとの指示だった。また、甚大な被害を全国に向けて発信し、中央政府を動かして一刻も早く救援を呼ぶことも当面の方針だった。全国へは「被災の詳報」、そして宮城県の放送エリアへは「安否情報」「ライフライン情報」を最優先した。カメラ用の収録用テープの確保を最優先した。持久戦を戦うために、ロジスティックス(補給管理活動)を手厚くした。

   避難所や被災家屋周辺での取材で「見世物にするのか」と怒鳴られること多数回あった。耳障りの良い美談、一部の前向きの事象に偏っていないかという厳しい意見もあった。家族が死亡・行方不明の場合、信頼関係が構築できていないと取材を拒まれることも。「3年後、5年後、10年後を視野に入れた長期戦で臨む。被災地に寄り添うメディアでありたと心がけている」と当時語ってくれた。

   あれから8年、彼は定年で報道現場を退いた。自ら被災者であり、そして取材者として、かけがえのない人生経験をした友として尊敬している。

⇒11日(月)朝・金沢の天気     あめ

★「平成」 一場の夢~下

★「平成」 一場の夢~下

         けさ(7日)新聞を眺めて、「ひょっとしたらこれは平成最後の不思議、かもしれない」と言葉が浮かんだ。保釈されたカルロス・ゴーン氏の写真である。青い帽子に作業服姿で、顔の半分以上はマスクで隠している。なぜ、このような姿で東京拘置所から出てくる必要性があったのだろうか。この作業服を着せた意味は何か、本人の希望だったとは思えない。これまで日産で着ていたスーツ姿、あるいは普段着でよかったのではないか。保釈金10億円を納付したのだから堂々と出てくればよいのではないか。写真を見て、おかしく、心は和むのだが。

   前回の続き。平成の30年はさまざまな新語や流行語が飛び交い、政治や経済、社会が動いた。政治の世界でも言葉が続々と生まれた。「現代用語の基礎知識」選ユーキャン新語・流行語大賞から引用させていただく。年間大賞の言葉は、平成7年『無党派』(青島幸男)、平成8年『友愛/排除の論理』(鳩山由紀夫)、平成10年『凡人・軍人・変人』(田中真紀子)、平成11年『ブッチホン』(小渕恵三)、平成13年『米百俵/聖域なき改革/恐れず怯まず捉われず/骨太の方針/ワイドショー内閣/改革の痛み』(小泉純一郎)、平成15年『毒まんじゅう』(野中広務)と『マニフェスト』(北川正恭)、平成17年『小泉劇場』(武部勤ほか)、平成19年『どげんかせんといかん』(東国原英夫)、平成21年『政権交代』(鳩山由紀夫)、平成26年『集団的自衛権』(※受賞者辞退)、平成29年『忖度』(稲本ミノル)だ。平成7年から21年まで政治にまつわる新語・流行語の受賞頻度が高いことが分かる。

     「地盤・看板・カバン」選挙を変えた消費税ポピュリズム

   今こうして見てみると、政治は平成の世から日本版ポピュリズムの時代に入ったのではないかと思う。キーワードは消費税。平成元年4月に竹下内閣のもとで消費税3%が導入された。それ以降、税率引き上げにピリピリと過敏に反応する民衆の気持ちを推し測る、あるいは政治利用する、「消費税ポピュリズム」に政治は陥っているのではないかと思えてならない。

   いくつか事例を上げてみる。平成7年の『無党派』は、東京都と大阪府の知事選挙でそれぞれ無党派の青島幸男、横山ノックが政党推薦の候補を破ってことから一躍広がった。その前年の平成6年、自民・社会・さきがけ連立政権の村山内閣が消費税率を3%から5%に引き上げる税制改革関連法を成立させた。これを機に、数合わせの政党連合に対する嫌気ムードが大都市圏で一気に醸成され、無党派候補を支持する有権者層が政治パワーとして台頭、青島幸男、横山ノックを押し上げ、メディアも「無党派層」と呼ぶようになった。これ以降、無党派層をどう取り込むかが政治の命題となり、平成15年の『マニフェスト』はこれまでの「地盤・看板・カバン」の選挙の在り様を問いかけた。

    平成21年の『政権交代』は、民主党が衆院選挙で「国民の生活が第一」のマニフェストを掲げ、消費税率は4年間上げないと明言して勝利し政権交代を実現させた。しかし、翌年の参院選挙では菅内閣が消費税率10%に言及し選挙は惨敗。続く野田内閣では消費税率を「2014年に8%、15年に10%」に引き上げる法案を成立させ、「国民の信を問う」とした衆院選挙は新党乱立もあって大敗を喫した。社会保障と税の一体改革は民主、自民、公明の三党合意でもあったので、安倍内閣は8%の引き上げを実施したが、10%はこれまで2度見送り、ことし10月に軽減税率と抱き合わせで税率引き上げの方針を打ち出し、今まさに正念場を迎えている。

    いくつかの課題を積み残しながら、次なる時代に入る。

⇒7日(木)夜・金沢の天気      くもり

☆「平成」 一場の夢~上

☆「平成」 一場の夢~上

      最近、知人から勧められて円相(えんそう)の掛け軸を購入した。円相は禅の書画の一つで、円形を一筆で描いたもの。その横に「人間万事 一場 夢(じんかんばんじ いちじょうのゆめ)」と。掛け軸と向きあって、解釈を試みる。世の中に起きる良し悪し全ては、はかない夢であり、動じることはない。そんな意味だろうか。作者は曹洞宗管長を務めた板橋興宗氏。「大乗七十世」と書いてあるので金沢市の大乗寺の住職を務めておられたころの作だ。92歳の板橋氏は今も現役で、「猫寺」で知られる御誕生寺(福井県越前市)の住職をされている。この掛け軸を眺めながら、平成の世を振り返ってみたい。

   平成を言葉で振り返ると面白い。平成という元号が始まった1989年1月8日、私は34歳の新聞記者だった。当時の小渕恵三官房長官が記者会見で「平成」のニ文字を掲げる様子をテレビ中継で見て、その意味や意義、この二文字に至った経緯について取材に回った。ある大学の国文学者は名前の由来は『史記』五帝本紀にある「内平外成」(内平かに外成る)が元ではないかと教えてくれた。国内が平和であってこそ、他国との関係も成立する。軍部の台頭から大戦を招いた昭和の経験を平成の世に活かそうという意義が二文字に込められていたに違いない。平成の言葉は毎年12月に発表される「現代用語の基礎知識」選ユーキャン新語・流行語大賞から引用させていただく。審査員は学者のほか歌人の俵万智ら7人で多彩な目線で構成されている。 

              元年の「セクハラ」から「#Me Too」まで30年

   平成元年の新語部門金賞(平成3年から年間大賞)は「セクシャル・ハラスメント」(河本和子)だった。深夜のJRホームで、酔っ払った高校の男性教師がヌードダンサーにしつこく絡んで、女性から突き飛ばされ、線路上に転落し、電車とホームの間に挟まれ即死した西船橋駅教師転落事件(1986年1月)。翌年9月の判決で、女性の行為は正当防衛とされ無罪、検察も控訴を断念した。法廷でセクハラという言葉が飛び交ったわけではないが、男性にある女性軽視の発想が問われた。この判決がきっかけで、2年後の平成元年に慰謝料などの損害賠償を求めた福岡セクハラ民事訴訟が起こされるなど、セクハラという言葉が社会的認知を得ることになった。受賞者の河本和子氏はダンサーの弁護団長だった。

   平成30年新語・流行語大賞で年間大賞には選ばれなかったが、トップテンに「#Me Too」が入った。財務次官による女性記者へのセクハラ問題がきっかけだが、男と女のセクハラに対する意識の違いは30年経っても浮き彫りになったままである。

⇒5日(火)夜・金沢の天気   あめ

★「どぶろく」と「シャルドネ」

★「どぶろく」と「シャルドネ」

    きょう(17日)金沢の友人たちと朝から「酒の秘境」をめぐる旅をした。秘境の意味はまだ一般に知られていない場所という意味ではある。まずは日本酒のルーツをめぐる旅から始めた。

    最初に訪れたのは「雨の宮古墳群」(中能登町)。国指定史跡である雨の宮古墳群は、眉丈山(びじょうざん)の尾根筋につくられた古墳群で、地元では古くから「雨乞いの聖地」として知られた。尾根を切り開いて造られた古墳は前方後方墳(1号墳)と前方後円墳(2号墳)を中心に全部で36基が点在している。全長64㍍の1号墳は、4世紀から5世紀の築造とされ、古墳を覆う葺石(ふきいし)も当時ままの姿。まるでエジプトのピラミッドのようだ。山頂にあるこの古墳からは周囲の田んぼが見渡すことができる。この地域は能登半島のコメの産地でもある。1987年に古墳近くの遺跡から炭化した「おにぎりの化石」が出土し、2千年前の弥生時代のものと推定され、日本最古のおにぎりとして当時話題になった。

    コメの恵みに感謝する神事も営まれてきた。同町にある天日陰比咩(あめひかげひめ)神社は稲作の実りに感謝する新嘗祭(にいなめさい、毎年12月5日)で同社が造った「どぶろく」をお供えし、お下がりとして氏子らに振る舞っている。今回、同神社を参拝してお神酒としてどぶろくをいただいた。蒸した酒米に麹(こうじ)、水を混ぜ、熟成するのを待つ。ろ過はしないため白く濁り、「濁り酒」とも呼ばれる。神社の説明によると、どぶろくを造る神社は全国で30社あり、石川県内では3社とも同町にある。コメ造りと酒造りが連綿と続く地域である。

    次に能登半島をさらに北上して、穴水町に。この辺り一帯は赤土(酸性土壌)だ。ブドウ畑に適さないと言われてきたが、畑に穴水湾で養殖されるカキの殻を天日干しにしてブドウ畑に入れることで土壌が中和され、ミネラルが豊富な畑となり、良質なブドウの栽培に成功している。白ワインの「シャルドネ」、赤ワインの「ヤマソービニオン」は国内のワインコンクールでグランプリに輝いている。さっそく、予約してあったかき料理の店に入った。けさ水揚げしたカキを炭火で焼く。プリプリとしたカキの身はシャルドネにとても合う。

    穴水湾ではカキのほかにボラが獲れる。同町の寿司屋では、ボラの卵巣を塩漬けにして陰干した珍味のカラスミが楽しめる。このカラスミは柔らかく、まるでチーズのような濃厚な風味なのである。これもシャルドネと合う。そのような話をしながら、焼きガキとシャルドネの「マリアージュ」を楽しみながら旅のクライマックは終了したのだった。

⇒17日(日)夜・金沢の天気     はれ

★「雪すかし」 不都合な真実

★「雪すかし」 不都合な真実

   金沢の「雪すかし」、つまりスコップを持っての除雪にはちょっとした暗黙のルールのようなものがある。時間的には朝、それも学校の児童たちが登校する前の7時すぎごろ。ご近所の誰かが、スコップでジャラ、ジャラと始めるとそれが合図となる。別に当番がいるわけではないが、周囲の人たちがそれとなく家から出て来始める。「よう降りましたね」「冷え込みますね」とご近所が朝のあいさつを交わす。いつの間にかご近所が一斉に雪かきをしている=写真=。

   雪をすかす範囲はその家の道路に面した間口部分となる。角の家の場合は横小路があるが、そこは手をつけなくてもよい。家の正面の間口部分の道路を除雪する。しかも、車道の部分はしなくてよい。登校の児童たちが歩く「歩道」部分でよい。すかした雪を家の前の側溝に落とし込み、積み上げていく。冬場の側溝は雪捨て場と化す。

   暗黙のルールに従わなかったからと言って、罰則や制裁があるわけではない。雪は所詮溶けて消えるものだ。しかし、町内の細い市道でどこかの家が積雪を放置すれば、交通の往来に支障をきたし雪害となる。ご近所の人たちはその家の危機管理能力を見抜いてしまう。

   雪すかしのご近所ルールはさて置くとして、最近ある懸念を抱いている。最近のスコップはさじ部がプラスチックなど樹脂製が多い。少し前までは鉄製やアルミ製だったが、今はスコップの軽量化とともにプラスチックが主流なのだ。雪をすかす路面はコンクリートやアスファルトなので、そこをスコップですかすとなるとプラスチック樹脂の方が摩耗する。その破片は側溝を通じて川に流れ、海に出て漂っている。日常の雪すかしが、意識しないうちに「マイクロプラスチック汚染」を増長しているのではないか、ということだ。

    マイクロプラスチック汚染は、粉々に砕けたプラスチックが海に漂い、海中の有害物質を濃縮させる。とくに、油に溶けやすいPCB(ポリ塩化ビフェニール)などの有害物質を表面に吸着させる働きを持っているとされる。そのマイクロプラスチックを小魚が体内に取り込み、さらに小魚を食べる魚に有害物質が蓄積される。食物連鎖で最後に人が魚を獲って食べる。

    ご近所で仲良く路上で雪すかしをするが、それが知らず知らずのうちにマイクロプラスチックを陸上で大量生産することになっているとすれば、それこそ不都合な真実ではある。そう考えると、樹脂製のスコップには製造段階でさじ部分の先端に金属を被せることを義務づけるなどの対策が必要なのではないだろうか。

⇒28日(月)朝・金沢の天気    くもり   

☆雪吊りの価値と景観

☆雪吊りの価値と景観

   けさ金沢はすっかり雪景色になった。それでも自宅周囲は20㌢ほど。昨年のこのごろは70㌢積もったこともあったので、ある意味穏やかな冬将軍かもしれない。雪が積もると金沢の街で目立つが雪吊りだ。北陸の湿った重い雪から樹木を守ってくれて、さらに冬景色を単なる銀世界からアートへと誘ってくれる。まさに、雪吊りが醸し出す価値と景観だ。

   金沢の造園業者は雪吊りにかけてはなかなか「うるさい」(技が優れている)。雪吊りには木の種類や形状、枝ぶりによって実に11種もの技法がある。庭木に雪が積もりと、「雪圧」「雪倒」「雪折れ」「雪曲」と言って、樹木の形状によってさまざま雪害が起きる。樹木の姿を見てプロは「雪吊り」「雪棚」「雪囲い」の手法の判断をする。毎年見慣れている雪吊りの光景だが、縄の結び方などもまったく異なる。

   雪吊りで有名なのは「りんご吊り」=写真・上=。五葉松などの高木に施されている。マツの木の横に孟宗竹の芯(しん)柱を立てて、柱の先頭から縄を17本たらして枝を吊る。パラソル状になっていることろが、アートなのだ。「りんご吊り」の名称については、金沢では江戸時代から実のなる木の一つとしてリンゴの木があった。果実がたわわに実ると枝が折れるので、補強するため同様な手法を用いていたようだ。

   低木に施される雪吊りが「竹又吊り」=写真・下=。ツツジの木に竹を3本、等間隔に立てて上部で結んだ縄を下げて吊る。秋ごろには庭木の枝葉を剪定してもらっているが、ベテランの職人は庭木への積雪をイメージ(意識)して、剪定を行うという話だった。このために強く刈り込みを施すこともある。ゆるく刈り込みをすると、それだけ枝が不必要に成長して、雪害の要因にもなる。庭木本来の美しい形状を保つために、常に雪のことが配慮される。「うるさい」理由はどうやらここにあるようだ。それにしてもせっかくの雪吊りの景色だが、電線を地下配線化してくれたらもっと違う景色になるのではないかと思うのだが。

   周囲の庭木の雪吊りを眺めながら、「雪すかし」(スコップで除雪)をする。玄関前やガレージ周辺の雪を側溝に落とし込む。20分ほどの軽い運動でもある。ただし、これが一夜にして70㌢の積雪だと数時間の重労働となるのは言うまでもない。

⇒27日(日)朝・金沢の天気      はれ

★雪のない冬の兼六園で

★雪のない冬の兼六園で

   このところの天気が異常に思える。例年ならば、周囲は雪景色なのだが積雪はゼロである。まったく降らなかったわけではない。12月30日朝は雪が4、5㌢積もっていて、30分ほど自宅周囲の雪すかしをした。この冬はそれ一回だけ。新調したスコップも手持ちぶさたで、出番を待っている=写真・上=。

    きょう午前、所用で通りかかったので久しぶりに兼六園を歩いた。前を歩く家族連れらしき3人のうち女性が「せっかく兼六園に来たのに、雪がないと魅力がないよね」と。そうか、暖冬で一番ぼやいているのは観光客かもしれない。確かに、雪吊りの風景をパンフで見て、銀世界の兼六園のイメージを膨らませて金沢にやって来たのに、拍子抜けとはこのことか。

   夕顔亭(ゆうがおてい)=写真・下=という古い茶亭の横を通った。もう14年も前のことだがエピドーソを思い出した。茶亭をハイビジョンカメラで撮影したことがある。撮影は、石川県の委託事業で兼六園を映像保存するもの。兼六園の数ある茶亭でもなぜ夕顔亭にこだわったのかというと、この茶室から滝を見ることができるので「滝見の御亭(おちん)」と呼ばれていて、茶室から見る風景がもっとも絵になるからだ。

   この夕顔亭の見本となったといわれるのが、京都の茶道・藪内家の「燕庵(えんなん)」という茶亭。そこで、撮影では藪内家の若宗匠、藪内紹由氏(2015年に家元を継承)に夕顔亭まで起こし頂き、お点前を撮影させていただいた。そこで出た話だ。藪内家には、「利家、居眠りの柱」とういエピソードがある。京の薮内家を訪れた加賀藩祖の前田利家が燕庵に通された時、疲れがたまっていたのか、豪快な気風がそうさせたのか、柱にもたれかかって眠リこけてしまった。こうした逸話が残る燕庵を後に利家の子孫、11代の治脩(はるなが)が1774年に燕庵を模してつくった茶亭が夕顔亭だった。 

   この夕顔亭をつくる際、薮内家と加賀藩には一つの約束事があった。茶器で有名な古田織部が指導してつくったこの由緒ある茶亭を簡単に模倣させる訳にはいかない。そこで、もし燕庵が不慮の事故で焼失した場合は「京に戻す」という条件で建築が許された、との言い伝えだ。知的財産権の観点からいうと、広い意味での「使用権」だけを加賀藩に貸与したということになるかもしれない。その後、契約者である前田ファミリーは明治維新後この夕顔亭を手放し、今では石川県の所有になっている。その約束事は消滅しているのかもしれない。

   知的財産権という法律は当時なかったにせよ、「知財を守る」という精神は脈々と日本の歴史の中に生きていたと、若宗匠のお点前を拝見しながら思ったものだ。暖冬の話がいつの間にか知財の話になってしまった。

⇒19日(土)午後・金沢の天気     はれ