⇒ドキュメント回廊

☆されど花 タカサゴユリに何思う

☆されど花 タカサゴユリに何思う

    このブログのことし5月23日付「『旅するユリ』の生存戦略」で、庭のタカサゴユリ(高砂百合)が同じ場所に何年も生育することで特定のバクテリア(病原菌)が繁殖して枯死する連作障害になってしまった、と書いた。ところが、同じ庭の少し離れた場所で繁殖していて、昨日その花を咲かせた=写真・上=。

   いわゆる外来種で、4年ほど前に突如咲き始めた。花がきれいなので除去せずにそのままにしておいた。旧盆が過ぎるころ、花の少ない季節に咲く。高砂百合の名前の通り、日本による台湾の統治時代の1924年ごろに園芸用として待ちこまれたようだ(ウィキペディア)。当時は外来種という概念もなく、花の少ない季節に咲くユリの花ということで日本で受け入れられたのではないだろうか。

   この花を重宝したのは、茶道の人たちではないだろうか。匂いもなく、同じころに咲くアカジクミズヒキやキンミズヒキといった花と色合いもよく、床の間に飾られてきたのだろう=写真・下=。ムクゲのギオンマモリ(祇園守)と競うように、真っ白な花が夏の強い日差しによく映える。

   冒頭で述べた連作障害で枯死する植物なので、種子を風に乗せて周辺の土地にばらまいて新たな生育地に移動する。「旅するユリ」とも称される。この繁殖力の強さと広範囲性が外来種として「目の敵」にされる。国立研究開発法人「国立環境研究所」のホームページには「侵入生物データベース」の中で記載されている。「生態的特性」として、日当たりの良い法面や道路わき、空き地などに侵入する、とある。「侵入経路」として、観賞用として導入、高速道路法面などでよく見かけるようになった、と。「影響」として、在来種と競合、ウイルス媒介、交雑、と記されている。

   さらに、「防除方法」として、緑化資材にしない、抜き取り刈り取り、とある。面白いのは「備考」だ。「近年各地で繁茂しているが花がきれいなためなかなか駆除されない。少なくとも外来種であることを周知する必要がある」と。そのきれいな容姿に国民はだまされてはいけない。「侵入生物」であることをもっと宣伝して駆除せねば、との国環研の担当者の苦々しい思いが伝わる文章ではある。

   ひょっとしてこのブログは国環研の担当者から外来種の「共犯サイト」としてマークされているかもしれない。自らも含め、うつくしき花に翻弄される人の姿ではある。

⇒19日(水)朝・金沢の天気     はれ

☆ 「多死社会」と「一村一墓」

☆ 「多死社会」と「一村一墓」

   少子高齢化の日本は、死亡数が増加し人口減少が加速する、いわゆる「多死社会」ともいわれる。2019年に日本で亡くなった人の数は137万人、ちなみに出生数は86万人だ(厚生労働省令和元年人口動態統計の年間推計)。旧盆の墓参りに出かける予定だが、最近思うことは故人の弔い方や墓参りのあり方が大きな曲がり角に来ている、ということだ。 

   お盆にもかかわらず、草が伸び放題の荒れた墓を金沢でもよく目にする。何らかの事情で家族や親族が墓参りに来ていない無縁墓なのだろう。最近は、墓を造らず納骨もしないという人も増えている。樹木葬や遺灰を海にまく、あるいは、葬儀もせず遺体を火葬して送る「直葬(ちょくそう)」という言葉も最近聞く。葬式や墓造りには当然ながら多額の費用がかかる。墓を造ると墓守りもしなければならない。死後になぜこれほど経費をかけるのか、むしろ残された家族のために使うべきだという発想が現役世代には広がっているのではないだろうか。確かに、生前に本人の遺志があったとしても、死後にはすべて昇華してしまうのだ。

   そこで最近よく聞くのが、共同墓だ。以前、東京に住む友人から共同墓の権利を購入したとのメールをもらった。費用が安く、供養してもらえるようだ。ただ、遺骨は永久供養ではなく33回忌で、他の遺骨と一緒に合祀されるとのこと。「家族に迷惑がかからない分、すっきりしていい」と本人は納得していた。共同墓がこれからのトレンドではないだろうか。

   以下は参考事例だ。能登で「一村一墓(いっそんいちぼ)」という言葉を聞いて、その地を訪れたことがある。珠洲市三崎町の大屋地区だ。江戸時代に人口が急減した時代があった。日本史で有名な「天保の飢饉」。能登も例外ではなく、食い扶持(ぶち)を探して、若者が大量に離村し人口が著しく減少した。村のまとめ役が「この集落はもはやこれまで」と一村一墓、つまり集落の墓をすべて集め一つにした。そして、ムラの最後の一人が墓参りをすることで村じまいとした。しかし、集落は残った。江戸時代に造られた共同墓と共同納骨堂=写真=は今もあり、一村一墓は地域の絆(きずな)として今も続いている。

   現実問題として一村一墓は今の時代こそ必要になのかもしれない。多死社会にあって、都会にいる子孫たちはわざわざ墓参にくるだろうか。縁が薄れていく墓はさらに増えるだろう。むしろ、共同墓にして、誰かが供養に来てもらえばそれでよい。町内会で一墓、もうそんな時代ではないだろうか。

⇒14日(金)朝・金沢の天気    はれ

☆コロナ禍「ふるさとは遠きにありて思うもの」

☆コロナ禍「ふるさとは遠きにありて思うもの」

   あと1週間もすれば旧盆だ。この時季は能登はにぎやかだ。観光客と帰省客がどっと訪れ、キリコ祭りといった祭礼も各地で盛り上がる。例年ならば8月の14日か15日に能登の実家を訪れて墓参し、キリコ祭りを見ながら親戚や旧友たちと杯を重ねながら近況を語る。真夏のこの光景を心に刻んで金沢に帰る。で、コロナ禍のことしはどうするか。

   「4月13日」の緊迫した状況ならば、帰省を見合わせざるを得ない。この日は、金沢市の10万人当たりの感染者が15.3人と東京都の13.6人を超えて全国トップとなったことから、石川県の知事が県独自の緊急事態宣言を出した。知事は「改めて危機感を共有し、社会全体が一致結束しなければならない」と不要不急の外出や移動の自粛徹底を要請した。この危機感のアピ-ルが奏功したのだろうか、いまは10万人当たりで金沢市は31.9人(8月2日現在)、東京都の96.7人(同)と比べると感染者数は増えてはいるものの随分とペ-スダウンしている。

   冒頭で述べた能登各地で執り行われるキリコ祭りは、今年ほとんどが中止となった。キリコ祭りは巨大な奉灯を1基当たり気数十人で担ぎ上げて街を練り歩く神事でもある。少ない地域でも数基、多いところは数十基もあり、金沢ほか遠来からの帰省客や観光客がキリコ担ぎや見学にやってくる。まさに「3密」を招くので、それを避けるための中止だ。つまり、「ことしは来てほしくない」という地元の人たちの正直な気持ちが痛々しく伝わる。キリコ祭りが行われる能登の6市町のうち、感染者ゼロは5市町だ。相手の気持ちを考えると気軽に帰省してよいものか。

   キリコ祭りを考えると、複雑な気持ちがもう一つある。能登は過疎高齢化の尖端を行く。帰省客らが来てキリコを担がないとキリコそものが動かせないという集落も多い。今回のコロナ禍でキリコ祭りを止めたことをきっかけに、来年以降も止めるというところが続出するのではないか。すでに、高齢化でキリコを出すことも止めた集落もあり、伝統祭礼の打ち止めに拍車がかかるのではないかと案じる。

   このキリコ祭りの日を楽しみに能登の人たちは1年365日を過ごす。帰省する兄弟や、縁者、友人たちを自宅に招いてゴッツオ(祭り料理)をふるまう。その後、夜を彩るキリコの練り歩きを皆で楽しむ。そのキリコ祭りがなくなれば、地域の活気そものが失われる。

   金沢出身の文人・室生犀星は『ふるさとは遠きにありて』の詩を詠んだ。今回はあえて帰省を止め、「帰るところにあるまじや」「ふるさとおもひ涙ぐむ」のか、あるいは「Go To ふるさと」か。迷いは続く。

(※写真は能登のキリコ祭りを代表する一つ、能登町「あばれ祭り」。40基のキリコが街を練る)

⇒4日(火)朝・金沢の天気     くもり時々はれ

★「言葉は生き物」 時代の感性や鮮度

★「言葉は生き物」 時代の感性や鮮度

   2020年も折り返し地点を過ぎて、これにまで使ってこなかった言葉が気が付けば日常を覆っている。「パンデミック」「クラスター」「オーバーシュート」「ロックダウン」「東京アラート」「線状降水帯」など。金沢大学では教養科目として「ジャーナリズム論」を担当していて、学生たちには「言葉は生き物である」と教えている。

   たとえば、テレビなどで盛んに使われ流行した言葉の中には、一過性で死語になるものもあれば、その言葉の意味に普遍性が見出されて辞書に載るものもある。そして、時代が変われば言葉も劇的に変化する。江戸から明治に時代が転換し、西洋文明が押し寄せた。福沢諭吉はeconomyを「経済」、money ordersを「為替」と訳した。この「為替」の言葉がなければ、当時、海外から文化を輸入する文明開化は広がらなかったかもしれない。言葉は時代を動かす原動力にもなる。

   3年前、新書『実装的ブログ論―日常的価値観を言語化する』(幻冬舎ルネッサンス新書、2017)を上梓した。この本を出版した動機の一つとして、学生や若者たちに言葉を自在に操ってブログを書いてほしいという思いがあった。

   著書のタイトルにもある「日常的価値観の言語化」はごく簡単に言えば、自ら日頃考えていること、感じたことを言葉として表現すること。言葉に皮膚感覚や、明確な事実関係の構成がなければ伝わらない。実際に見聞きしたこと、肌で感じたこと、地域での暮らしの感覚、日頃自ら学んだことというのは揺るがないものだ。それらは日常で得た自らの価値観だ。その価値観を持って、思うこと、考えることを自分の言葉で組み立てることが「実装」である。学生たちにはブログなどを手段として自らの言葉を磨いていほしいと思う。

   ジャーナリズム論について深い考察で会話が弾む学生がいて、「なるほど。そこまで考えているのか」と共感することがある。ただ、人前での発表やディスカッションの場に誘うと、急に言葉がトーンダウンする。「人前で偉そうなことはいいたくない」「目立ちたくないから」と言い訳する。男子学生に多いのだが、これも今どきの若者気質ではある。

   そのような学生にはテレビ局や新聞社への就活を薦めている。言葉の深さはメディアへの関心度とも相伴する。エントリーシートの書き方から始め、面接のリハーサルを本人が納得するまで重ねる。受け答えの言葉のタイミングと表現、抑揚など、言葉を鍛えることで本人のモチベーションが高まり、感性も磨かれる。10数年で出版社含めメディア関係に35人が就職した。

   取材で金沢に立ち寄った彼らから声がかかり、一献傾けることがある。久しぶりに交わす彼らの言葉に時代の感性や鮮度を感じる。この上ない喜びでもある。

(※写真は、ラファエロ作「アテナイの学堂」。ギリシャの有名な賢人たちを描いている=2006年1月、サンピエトロ大聖堂で撮影)

⇒20日(月)夜・金沢の天気    くもり

☆ブログ「5555日」 近未来への追記

☆ブログ「5555日」 近未来への追記

   昨夜、ブログをアップロードしてから気がついた。編集画面の左上にさりげなくブログ開設からの経過日数が表示されている。よく見ると、なんと「5555日」、ぞろ目の記念日だった。2005年4月28日付でこのブログをスタートさせたので、満17歳のブログではある。産声を上げたときの書き出しはこうだった。

  「ことし1月にテレビ局を退職し、4月から金沢大学の地域連携コーディネーターという仕事をしています。大学にはさまざまな知的な財産があって、それを社会に還流させていこうというのがその趣旨です。一口に知的な財産と言っても、それこそ人材や特許など有形無形の財産ですから、それを社会のニーズに役立てようとすると、そのマッチング(組み合わせ)は絡まった細い糸をほぐすような作業である場合もあります。」

   いま読み返すとなんとも緊張した書きぶりではある。ブログなので、読まれることを意識し過ぎたのかもしれない。何しろ「です」「ます」調がなんともレトロな感じがする。

   「5」のぞろ目といえば、同じ石川県出身の「55」の松井秀喜氏をテーマにこれまで21回も書かせてもらった。テレビ局時代に取材した甲子園大会での「5打席連続敬遠」(1992年)の思い出や、NYヤンキ-スの時代、そして2012年の引退のときなど、その都度取り上げている。そして「野球の天才というより、努力の天才」が 松井氏の姿ではなかったか、と述べてきた。

   このブログをテーマに、2017年12月に新書『実装的ブログ論―日常的価値観を言語化する』(幻冬舎ルネッサンス新書)を出版した。実際に見聞きしたこと、肌で感じたこと、地域での暮らしの感覚、日頃自ら学んだことというのは揺るがないものだ。それらは日常で得た自らの価値観である。その価値観を日常で刻む作業がブログだと思っている。ただ、ブログはフェイスブックやツイッター、インスタグラムなどのSNSと違って孤独な作業でもある。近未来で、この自らの価値観をAI化したいと考えている。AIにすべてのページを読み込ませ、価値観を共有するAIブログくんと対話ができれば、それはそれで新たな人生の付き合いが始まるのではないか。

           5555日目のきのう7月13日の訪問者(UU数)は640、閲覧数(PV)は1286だった。これまでにアップしたページ数は1673。「3.3日」に1回ということになる。

⇒14日(火)朝・金沢の天気     あめ

★コロナ禍の陰で横行する「ショートメール詐欺」

★コロナ禍の陰で横行する「ショートメール詐欺」

   先日、自分自身のスマホのSMSに「お荷物のお届けにあがりましたが不在のため持ち帰りました。ご確認ください」と、宅配業者の不在通知のようなショートメールが届いた=写真=。その文字の下にURLがあった。どんな荷物が届いたのかと、そこにアクセスすると何も映らなかった。一瞬気がついた。「やられた」。即キャンセルをかけた。

   宅配業者を装った詐欺メールだ。その後、スマホには覚えのない電話番号からの着信が2度あった。もちろんこちらから電話をかけることはしなかった。この詐欺メールは実に巧妙だ。というのも、荷物が着払いの場合は宅配業者から事前に荷物を届ける旨の電話がある。普通、荷物には届け出先の電話番号が記されているので電話がかかってきても当然だと思う。その一般常識の盲点を突いた詐欺メールだ。

   通常のメール(Eメール)だったら、宅配を名乗っても「なぜアドレスを知っている。フィッシング詐欺か」と削除するものだ。これがスマホのショートメールだったら、荷物の届け出先の電話番号に携帯番号が記載されることもままあり、疑念はさほどわかないだろう。そこでネットなどで調べてみると、SMSを使った詐欺メールはEメールを使った場合と区別して「スミッシング詐欺」とも呼ばれ、一昨年前から出始め今ではかなり被害が広がっているようだ。新型コロナウイルスの影響で在宅時間も多くなり、宅配も増えている。その陰でこのような詐欺メールが横行している。

   きょうたまたま銀行から「偽のお荷物不在通知メールやSMSにご注意」とEメールが届いた。アクセス先にこの銀行の番号とパスワードを入力させ、不正送金させる被害が多発しているようだ。メールでは「被害に遭わないための注意」として3項を呼びかけている。「1.詐欺やSMSメールに埋め込まれたリンクは絶対クリックしない! 2.万一、偽サイトに誘導されても、お客さま番号・パスワード等は絶対入力しない! 3.万一、電話の自動音声で確認コードを伝えられても、誘導先サイトに絶対入力しない!」

   佐川急便の公式ホームページをチェックすると、先月5月14日付で注意喚起している。「佐川急便を装った迷惑メールが届くというお問い合わせが急増しております。このような迷惑メールに記載されているアドレスにアクセスしたり、添付ファイルを開いたりされますとコンピューターウィルス等のマルウェアに感染する恐れがございますのでご注意ください。なお、当社では荷物の集配についてショートメール(SMS)によるご案内は行っておりません」。

   どのように悪質な詐欺なのか、さらにネットで調べる。私が持っているスマホはいわゆるAndroid端末だ。これでSMSに記載されたURLにアクセスすると、偽サイトの画面が表示される。偽サイトには、「設定マニュアル」と書かれたインストール手順が記載されている。自身ははたと気がついて、画面をキャンセルした。もしうっかりと手順通りにアプリをインストールしていたら、自身の端末から不在通知を装うSMSが大量に送信されたり、キャリア決済で勝手にiTuneカードが購入されるという被害にあったかもしれない。

   ここで思う。ショートメール詐欺に対策の手を打つべきはキャリア、つまり携帯電話会社ではないか。事例としてはそぐわないかもしれないが、SNSではすでにフェイクや不適切な発言内容について規制をかけ始めている。キャリアとして対策を打ってほしい。個人の責任論ではもう済まない段階にきているのではないだろうか。

⇒25日(木)夜・金沢の天気    あめ

★「弁当忘れてもマスク忘れるな」

★「弁当忘れてもマスク忘れるな」

   「弁当忘れても傘忘れるな」。地域ならではの教えというものがある。金沢は年間を通して雨の日が多く、年間の降水日数は170日余りと全国でもトップクラス(総務省「統計でみる都道府県のすがた」) 。天気も変わりやすく、朝晴れていても、午後には雨やくもり、ときには雷雨もある。そのような気象の特徴から冒頭のような言葉が金沢で生まれたのだろう。ただ、最近思うのは「弁当忘れてもマスク忘れるな」だ。

   きのう出勤する途中でマスクを忘れたのに気が付き、コンビニに立ち寄ったが売り切れだった。大学に到着して、生協売店で買いを求めた。バラ売りで1枚74円。それから職場に行く。エレベーターに乗るとすでに3人いた。おそらくマスクを着けていなかったら気が引けて乗らなかっただろう。マスクは通行手形のようなもので、「場」に入るには今や必須となっている。弁当を忘れても、誰も何も言わないが、マスクを着けていないとジロリとした視線を感じる。さらに咳やくしゃみをしようものなら、多様な角度から目線が集中するのだ。

   マスクの常識は新型コロナウイルスによって大きく変わった。これまでマスクは使い捨てが常識だった。それが、洗濯して再利用が当たり前になった。また、マスクは白色が当たり前と思っていたが、最近では黒色もあればピンクもあり、白地に花柄模様と実に多様である。先日も夜の街ですれ違った男性が「首なし」で一瞬ドキリとした。黒色マスクに黒の帽子を深く被っていたのでそう見えたのだ。

   先日もこのブログで取り上げたWHOの公式ホームページには「When and how to use masks」と題してマスクの使い方を紹介している。これを見ていて感じることは日本人のマスク観と海外のマスク観が違っていることだ。この中で「やってはいけないこと」として、マスクを他人とシェアする、破れたマスクを使う、マスクで鼻を出す、汚れたマスクを着用する、などイラスト入れりで説明している=写真=。衛生観念の違いと言えばそうなのかもしれないが、日本人がこのイラストを見れば、マスクが普及していない国や地域ではマスクの使い方をめぐって混乱しているのではないかと想像する。

   というのも、WHOが掲載しているマスク着用に関するイラストや文書は、世界の国民に向けて発しているのではなく、「on Advice to decision makers」(意思決定者へのアドバイス)として発信しているのだ。「マスク途上国」は世界で多くあり、そのマスクの使い方を初歩から指導者に教えている、そんなふうにも読める。ここはWHOに期待したいところだ。

⇒23日(火)朝・金沢の天気    はれ

☆加賀千代女と酒飲み男

☆加賀千代女と酒飲み男

    『朝顔やつるへとられてもらい水』の俳句で有名な江戸時代の俳人、千代女(1703-75)は加賀国松任(現・石川県白山市)に生まれ育った。小さいころから、この句を耳にすると夏休みのイメージがわくくらい有名だった。昨年の話だが、古美術の展示販売会で千代女の発句が展示されていると聞いて、会場の金沢美術倶楽部へ見学に行ってきた。

   2点展示されていると聞いていたが、『朝かほや起こしたものは花も見ず』は早々と売れて展示されてはなかった。もう一点の『男ならひとりのむほど清水かな』の掛け軸はまるで滝を流れるような書体だった。「千代尼」と署名があるので、剃髪した晩年の作だろうと美術商から説明を受けた。ただの見学のつもりだったが、『男ならひとりのむほど清水かな』の句に魅かれて購入した。

   自宅の床の間にさっそく飾ってみる=写真=。掛け軸にじっと向き合っていると、千代女のくすくすと笑い声が聞こえてきそうになった。酒飲みの男が一人酒でぐいぐいと飲んでいる。それを見て千代女は「酒はまるで水みたい」と思ったに違いない。おそらくその男は僧侶だった。法事で余った酒をもらい、自坊で黙々と飲んでいる姿ではなかったか。『男ならひとりのむほど清水かな』。千代女の観察眼は鋭い。

   はたと気がついた。冒頭の『朝顔やつるへとられてもらい水』に面白い解釈が浮かんだ。自らの体験だが、若いころ飲み仲間数人と朝まで飲んでいて、「朝顔みたいだ」と互いに笑ったことがある。赤くなった顔と、青白くなった顔をつき合わせるとまるで朝顔の花のようだった。以下はまったくの空想だ。千代女がある夏の朝、自坊の外の井戸に水くみに出ようとすると、朝まで飲んでいた酔っ払い男たちが井戸で水を飲んでいた。あるいは、井戸の近くでへべれけになって寝込んでいた。近づくこともできなかった千代女はしかたなく近所に水をもらいにいった。そして、男たちのへべれけの顔や姿から井戸にからまる朝顔をイメージした。そんなふうに解釈するとこの句がとても分かりやすい。

   私は俳句の研究者でもなければ、たしなんでもいない。酒はたしなんでいる。顔は赤くなる。今もその酒の勢いでブログを書いてしまった。

⇒13日(土)夜・金沢の天気    あめ

☆「非日常」から見えてきた「日常」の不都合

☆「非日常」から見えてきた「日常」の不都合

   けさ地元紙を開くと、新型コロナウイルスの感染防止のため全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)は中止となったが、石川県独自に代替の大会を開催するとの記事が目を引いた。7月中旬から8月上旬の土日と祝日に試合を行う。併せて、これも中止となった全国高校総体(インターハイ)も、剣道や柔道、相撲など選手が密着する5つの競技を除き県大会の実施を検討している(28日付・北陸中日新聞)。

   確かに、選手には3年生が多いだろうから、このままでは「不完全燃焼」で卒業することになる。何とか競技の場に出してやりたいとの県大会の運営に携わる教諭サイドの配慮だと察する。

   今月6日付のブログで紹介した国立工芸館のオープンが9月半ばの開業にめどがたったと、同じ紙面で紹介されている。本来は東京オリピック開会前の7月開業を予定していたが、コロナ禍の影響で人が集まる公共施設が休館を余儀なくされたことから、オープンも見送られていた。工芸館は東京国立近代美術館の分館だったが、地方創生の一環として金沢に移転、分館から独立した国立美術館となる。

   人間国宝や日本芸術院会員の作品を中心に陶磁や漆工、染織、金工、木工、竹工、ガラス、人形など1900点の収蔵品も金沢に移される。金沢には伝統的な工芸品に目の肥えた「うるさい」人たちが多い。オープンが待ち焦がれる。

   こうしたニュースに接すると、緊急事態宣言が全面解除されて、生活や行動、そして発想が「非日常」から「日常」に戻りつつあると感慨深い。一方で、非日常を経験して、はっきりと見えてきたこともいくつかある。たとえば、働き方の在り様だ。タイムカードを押す出勤、対面での会議、会議出席のための出張、印鑑での決裁などは、自宅の通信環境さえ確保されていればリモートワーク(在宅勤務)やオンライン会議、パソコン決裁で事足りることが分かってきた。営業マンも自宅から訪問先に向かう、あるいは、リモートセールスの手法があってもいい。ただ、製造現場に携わる人たちの在宅勤務が難しいことは理解できる。

   もちろん、全ての会議をオンラインで済ませるのではなく、数回に1度の割合で意思疎通の観点で対面があってもよい。在宅勤務にしても、週1回くらいは職場に顔出ししてもよいかもしれない。働き方改革が叫ばれながらその改革ぶりが日常の風景として見えてこなかった。表現は適切ではないかもしれないが、コロナ禍がきっかけで動き始めた。

   ここからは想像だ。日本人の働き方の尺度や人事評価も大きく変化していくのではないだろうか。これまでの勤務態度や能率、成果主義から、たとえば、ビジネスに立ちはだかる課題の検証力や、事業展開の巻き込み・推進力、ビジネスマッチィングを企画する発想力などコンピューターでは処理できない、クリエイティブな仕事ぶりが評価される時代になるのかもしれない。むしろ、変化していかなければ日本のビジネスに未来は拓けないかもしれない。

⇒28日(木)朝・金沢の天気     はれ

★「旅するユリ」の生存戦略

★「旅するユリ」の生存戦略

   きょう庭の手入れをしていて気がついた。タカサゴユリ(高砂ユリ)の先端が枯れている。4年ほど前に突如咲き始めた、いわゆる外来種だが、花がきれいなので伐採せずにそのままにしておいた。旧盆が過ぎるころ、花の少ない季節に咲き、茶花としても重宝されている=写真=。雑草の力強さ、そして床の間を飾る華麗さ。したたかなタカサゴユリではある。

  その生命力ある植物が若くして枯れようとしている。連作障害だ。同じ場所に何年も生育すると、土壌に球根を弱める特定のバクテリア(病原菌)が繁殖して枯死してしまう。そのため、タカサゴユリは風に乗せて種子を周辺の土地にばらまいて新たな生育地に移動する。いわゆる「旅するユリ」とも称される。

   以前、植物に詳しい知人にタカサゴユリの花の話をすると、外来種をなぜほめるのかと苦笑いされたことがある。確かに、立場が異なればタカサゴユリは外敵、目の敵だ。国立研究開発法人「国立環境研究所」のホームページには「侵入生物データベース」の中で記載されている。侵入生物、まるでエイリアンのようなイメージだ。日本による台湾の統治時代の1923年ごろに、観賞用として待ちこまれたようだ。

    それにしても、バクテリアで枯死する前に種子をばらまいて次々と拠点をつくり、侵入生物と敵視される一方で、床の間に飾られるような見事な花をつける。人間社会に入り込んだ植物として、その生存戦略は実に見事ではないだろうか。

⇒23日(土)夜・金沢の天気    はれ