⇒ドキュメント回廊

☆気候変動なのか、高騰するタマネギからの警告

☆気候変動なのか、高騰するタマネギからの警告

   家庭菜園が趣味の知人からタマネギをいただいた。丁寧にも皮付きのままビニール紐で2個ずつくくってある。さっそく、ガレージの軒下に吊るした=写真=。タマネギは風通しのよい場所に吊るすことで、乾燥させて保存性を高めることができると言われている。この時節、農村地区で竹ざをにずらりと吊るされたタマネギの様子を見かけるが、ちょっとした風物詩ではないだろうか。

   タマネギはサラダをはじめステーキやカレーなどさまざまな料理に使われる「万能野菜」でもある。ただ、このところ気になるのが、タマネギの価格高騰だ。ニュースでもよく取り上げられている。タマネギといえば、北海道産というイメージだが、その北海道では2021年、雨が少なく記録的な猛暑となった影響で不作だった。 出荷量では全国のシェアの60%以上を占める一大産地だけに影響が大きい。

    そこで農林水産省の食品価格動向調査(野菜)をチェックすると、最新の調査結果(6月13-15日)でタマネギの全国平均価格が1㌔換算で495円と平年比で203%となっている。この調査は各都道府県で10店舗(全国470店舗)で行い、価格は特売価格を含まず、消費税込みのもの、平年比は最近5ヵ年の平均価格と比べたもの。調査はタマネギのほかキャベツ、ニンジン、バレイショなど8品目。この中でタマネギの平年比203%はダントツだ。去年12月に150%、ことし5月にはピークの230%に達し、それ以降でようやく下げに転じている。が、ことし4月以降の低温や多雨で全国の生産地で出荷量が減少していると、この調査では分析している。

   きょう近所のスーパー2軒の野菜売り場をのぞいてみた。棚には北海道産はなかった。兵庫産が1個150円、愛知産は1個130円ほど(税込み)。売り場もいつものタマネギのコーナーより狭く感じた。

   ロシアによるウクライナへの侵攻や円安などの影響で、ガソリンや小麦などの価格が上昇する中、比較的安定しているのは野菜類だ。しかし、前述のような気候変動によって、野菜類も大きく揺らいでくる可能性もある。その事例がタマネギなのだろう。そしてこれは、タマネギからの警告ではないだろうか。

⇒26日(日)夜・金沢の天気     はれ

☆能登にコウノトリの巣を訪ねて

☆能登にコウノトリの巣を訪ねて

   このブログ(6月11日付)で、能登半島の志賀町で国の特別天然記念物のコウノトリのつがいからひな3羽が誕生したとのメディア各社のニュースを紹介した。石川県内でのひなの誕生は1971年に日本で野生のコウノトリが絶滅して以来初めてのことで、地元でも話題を呼んでいる。ぜひコウノトリのひな鳥をこの目で見てみたいと思い、きのう現地を訪ねた。

   ひなを育てているつがいは足環のナンバーから、兵庫県豊岡市で生まれたオスと、福井県越前市生まれのメスで、ことし4月中旬に山の中の電柱の上に巣をつくり、5月下旬には親鳥が3羽のひなに餌を与える様子が確認された。ひなが順調に育てば8月上旬ごろに巣立つという。ひなが誕生して1ヵ月ほど経っているのでそれなりに成長しているはず。そして、親鳥がどのようにして餌を与えているのか、興味津々で午後4時ごろ同町に入った。

   町役場ではカメラを設置して定点観測を行っているものの、ひな鳥の保護の観点から具体的な場所については問い合わせがあっても教えていないと記事で記されていた。そこで、巣の場所を見たことがある現地の人を探し出すことにした。

   同町の富来(とぎ)地区というおおざっぱ場所は記事にも書かれてあったので、知り合いを通じて富来地区に住む人を紹介してもらった。その人はコウノトリが空を飛んでいる姿を見たことはあるものの、巣の場所は知らなかった。さらに、その人から鳥に詳しいという人を紹介してもらった。その人もコウノトリがよく餌をついばんでいる田んぼは知っていたものの、巣の場所までは知らなかった。さらに、その人を介して訪ねた人からようやく詳しい場所を聞くことができた。現場に着いたときはもう午後5時30分ごろだった。

   巣の場所は山中にあるものの、見晴らしの良い場所だった。周囲には電柱が何本か立っていて、コウノトリの巣はすぐ確認できた。下から見上げて確認できたひなは2羽だった=写真=。もう1羽は巣にこもっているのだろうか。ひな鳥とはいえ、かなり成長していて親鳥かと一瞬見間違えるほどだった。

   親鳥がエサを運んでくるのを待ったが、現れなかった。親鳥が巣を空ける時間が長いということは、それだけ餌が大量に必要なのだろうか。この大きさになったらカラスの攻撃にも耐えられるからなのか。これからくちばしも黒くなり、羽ばたきの練習も始めるだろう。そして、くちばしを激しく打ち鳴らすクラッタリングも始め、大人へとさらに成長していく。

   そんなことを思いめぐらしながら親鳥が来るのを待ったが、天気はくもり空で薄暗くなってきたので現地を引き上げた。これから能登で羽ばたくであろうコウノトリたちをこの目で確認できた。60分ほどの観察だった。

⇒24日(金)夕方・金沢の天気   くもり時々はれ

☆群発地震で古陶「珠洲焼」が転がる無残

☆群発地震で古陶「珠洲焼」が転がる無残

   震度6弱の揺れなど群発地震が続く能登半島・珠洲市のニュースをテレビで視聴して、地域工芸のシンボルである珠洲焼に相当な被害が出ているのではと察している。震度5強の地震があった日、NHKニュース(20日付)では、珠洲市立珠洲焼資料館の展示作品50点のうち半分ほどが倒れ、ガラスケース内にあって落下は免れたものの、中には破損したものもあったと報じられた=写真・上=。

  珠洲焼の古陶の多くは民家の土蔵に眠っている。家宝として、大切に保管されている。多くはしっかりとした棚の下段に並べられている。上段に置くと、誤って手が触れて落ちる可能性があるのであえて下段に置いている。ところが、震度6弱、震度5強と連続すると棚から転がり落ちる。それは、珠洲焼資料館を見れば一目瞭然だ。底に固定する下支えを入れたとしても、ヨコ揺れタテ揺れには耐えられないのだろう。民家の蔵の中では相当数の作品が被害を受けていることは想像に難くない。

   珠洲焼の魅力に見入ったのは、2007年暮れごろだった。珠洲市のあるお宅に招かれ座敷に上がると、現代作家の手による珠洲焼の花入れに一輪の寒ツバキが活けてあった。黒い器と赤い花のコントラスに存在感があり、しばし、見とれてしまった=写真・中=。そういえば、玄関にもさりげなく珠洲焼の一輪挿しがあった。「お宅にお茶やお花を嗜(たしな)まれる方がいらっしゃるのですか」と無礼を承知で尋ねると、「いやおりません。先代からこんな感じで自己流で活けております」と主(あるじ)は笑った。

   そして、珠洲焼の古陶が眠っているという土蔵に案内された。還元炎でいぶされ、艶やかになるまで焼き締められた黒色の壺は、荒々しい能登の気候風土の中でどこか厳粛さを感じさせる。それでいて、自己主張せずにどっしりとした能登の家構えに合う。中でも、主が大切にしていると語っていたのは、「海揚がり」の壺だった。珠洲は室町時代にかけて中世日本を代表する焼き物の産地だったが、各地へ船で運ぶ際に船が難破。海底に眠っていた壺やかめが漁船の底引き網に引っ掛かり、古陶として揚がってくることがある。壺にへばりついた貝類がそのままになっていて、時空を超えた作品に仕上がっている。この家の主は、先祖が明治時代に引き揚げた家宝だと、うれしそうに話していたのを覚えている。

   先に述べたように、各民家の土蔵などに仕舞われた珠洲焼の古陶は落下して相当の破損を被っているのではないか。さらに、珠洲焼の現代作家の人たちが創って展示している作品や、焼き上げ窯にしても損傷を負っているに違いない。今回の震災はさまざまな分野の人々に相当なダメージをもたらしているのだろう。(※写真・下は海揚がりの珠洲焼=「奥能登国際芸術祭2020+」公式ホームページより、文中の海揚がりの壺とは別の物)

⇒22日(水)午後・金沢の天気    くもり

☆能登半島の尖端で震度6弱、やはり来たか

☆能登半島の尖端で震度6弱、やはり来たか

   そのとき、民放テレビが放送していた能登がテーマのバラエティ番組を楽しく見ていた。グラグラと揺れを感じた。同時に、スマホの緊急警報(Jアラート)が高々と鳴り響いた。「19日午後3時08分ごろ、能登地方で強い地震」。NHKは番組そのものが地震速報に切り替わった。地元・北陸放送のアナウンサーはヘルメット姿で速報を伝えていた=写真・上=。

     能登半島の尖端部分を震源とする、深さ10㌔、マグニチュードは5.2の揺れ。震度6弱は珠洲市、震度5弱は能登町、震度4が輪島市と。石川県内だけでなく、震度3の揺れが新潟県上越市、富山県高岡市、氷見市、福井県あわら市で観測された。(※その後、震源の深さは13㌔、マグニチュードは5.4に修正されている)

   番組では、珠洲市の泉谷市長が電話でのインタビューで揺れについて語っていた。「発生当時、市役所の3階の市長室にいた。突然、突き上げられるような揺れが10秒ほど続いた。棚から書類などがほとんど落ちた。現時点で被害情報はまだ入ってきていないが、市内をパトロールしてなるべくはやく被害を把握したい」と述べていた。NHKでは午後3時50分から、松野官房長官が記者会見を行い、志賀原発ではいまのところ異常は報告されていないと語っていた。「やはり来たか」。テレビにくぎ付けになった。

   能登地方では2018年から小規模な地震活動が確認され、おととし2020年12月以降で活発化している。去年9月16日には珠洲市で震源の深さ13㌔、マグニチュード5.1、震度5弱の地震があった。同市では「奥能登国際芸術祭2020+」が始まっていたが、展示作品などに影響はなかった。能登半島では震度6以上の強い地震がこれまでも起きている。15年前の2007年3月25日の「能登半島地震」ではマグニチュード6.9、震度6強の揺れが七尾市、輪島市、穴水町を襲った。

   話は変わる。きょうの午前中、菩提寺(曹洞宗)で催された「普度会(ふどえ)」の法要に参列していた=写真・下=。10年に一度開催される法要でそれまでは父親が参列していたので、自身は初めてだった。和尚の説明書きによると、冷害や干ばつ、震災などの自然災害で江戸時代中ごろに飢饉(きん)が全国でまん延した。飢饉でなくなったすべての人たちを弔う法要として、曹洞宗では普度会が始まったそうだ。「普(あま)ねく度(ど)す会」、これは僧と檀家が一堂に会して、この法要を営む。

   日本史で習う「天保の飢饉」は加賀藩も例外ではなかった。能登には「一村一墓(いっそんいちぼ)」という仕組みができた。集落の墓をすべて一つにまとめ、最後の一人が墓参することで「村終い(むらじまい)」とすることを村の定めとした。その集落は消滅せずにいまも存在する。集落は珠洲市にあり、一村一墓の定めは現代でも継がれている。

   きょうの能登半島の地震、そして普度会法要でふと一村一墓の集落のことを思い起こした。

⇒19日(日)夜・金沢の天気     はれ  

★八田與一の命日、日本と台湾と関係で何思う

★八田與一の命日、日本と台湾と関係で何思う

   きょう5月8日は、八田與一の命日にあたる。この名前を知っている人は金沢と台湾以外、ほとんどいないだろう。「はった・よいち」と読む。日本統治時代の台湾で「烏山頭(うさんとう)ダム」の建設に尽くした金沢出身の技師である。ダムは1920年に着工したことから、去年は命日にあたる5月8日に100年を祝う式典が現地で執り行われ、蔡英文総統は「ダムと灌漑施設の水は100年流れ続けている。台湾と日本の友情も双方の努力によって続いていくことだろう」と功績をたたえた(2021年5月8日付・NHKニュースWeb版)。

   烏山頭ダムは10年の歳月をかけて1930年に完成した。ただ、日本国内では1923年に関東大震災があり、ダム建設のリ-ダーだった八田にとっては予算的にも想像を絶する難工事だったと伝わっている。当時としてはアジア最大級のダムで、同時に造られた灌漑施設によって周辺の地域は台湾の主要な穀倉地帯となり、現在も農業だけでなく工業用水や生活用水として利用されている。

   八田の功績は戦後日本と台湾の友好の絆をも育んだが、台湾の独立派と中国と台湾の統一派によるつばぜり合いが過熱する政治情勢では、政争のシンボルになることもある。2017年4月、烏山頭ダムの記念公園にある銅像(座像)の首が切断され、中台統一派の元台北市議が逮捕された。日本より中国との交流を優先せよというメッセージだった。八田の座像はすぐさま修復され、同年5月7日に座像修復の除幕式、そして8日には金沢市から関係者を招いて慰霊祭が行われた。

   5月8日が命日というのは、ダム建設後、軍の命令でフィリピンの綿花栽培のための灌漑施設の調査のため船で向かう途中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃で船が沈没し亡くなった。その日が1942年の5月8日だった。座像は、八田が考え事をしている時によくとっていたポーズとされる。日本と台湾の友好の絆、独立派と統一派による政争のシンボル、中国による台湾の武力統一も懸念される中、「いま八田は何思うのか」。意味深なポーズではある。

(※写真は、台湾・烏山頭ダムを見渡す記念公園に設置されている八田與一の座像=台北ナビ公式ホームページより)

⇒8日(日)夜・金沢の天気     はれ

★追悼・柳生博氏「確かな未来は、懐かしい風景の中に」

★追悼・柳生博氏「確かな未来は、懐かしい風景の中に」

         きょう未明、就寝中にグラグラと揺れた。時計を見ると、1時36分だった。スマホで地震速報をチェックすると、震源地は金沢市内で深さ10㌔、マグニチュード(M)3.4、震度2だった。このブログ(4月11日付)で紹介した、地震予測の研究グループは今月中にも「北信越地方周辺でM6.0±0.5の地震」と発表している。揺れが再び来るのではないか、そんなことを考えると寝付けなかった。

   話は変わり、訃報を。きょうの朝刊によると、NHKのドキュメンタリー番組生きもの地球紀行のナレーションをつとめ、名脇役として知られた柳生博氏が山梨県北杜市の自宅で亡くなった。85歳だった。 自身も一度だけだが、柳生氏と対面で話をさせていただいたことがある。

   2011127日に東京の経団連ホールで開催された、三井物産環境基金特別シンポジウム「~がんばれNPO!熱血地球人~」に参加した。基調講演で、日本野鳥の会会長の柳生博氏は「森で暮らす 森に学ぶ」をテーマに、35年前に八ヶ岳に移り住んで森林再生を始めたきっかけや、環境問題に関する人々の意識の高まりについて、山中の生活者目線で話された。

   印象に残ったのが「確かな未来は、懐かしい風景の中にある」という言葉だった。人間が生きる自然環境は「懐かしい風景」だ。田んぼの上を風が吹き抜けていく様子を見た時、あるいは雑木林を歩いた時、そんな時は懐かしい気持ちになる。超高層ビルが立ち並び、電子的な情報が行き交う都会の風景を懐かしい風景とは言わない。「懐かしい風景」こそ、人々の「確かな未来」と見据えて、自然環境を守っていこうという柳生氏のメッセージだった。

   シンポジウムの事例報告として、自身は「能登の自然学校から広げる未来可能性~地域と大学のクロスカップリング~」と題して、里山里海に恵まれた能登半島の生物多様性を守る金沢大学の人材育成について話した。すると、講師控室で柳生氏が「渡り鳥にとって、能登半島は大切な場所だよ」とミゾゴイやサシバの話をされた。そして、「鳥たちだけでなく、人間の子孫のためにも、里山の風景を取り戻しましょう」とあの笑顔で語られたことを覚えている。

   柳生氏はことし2月中旬以降、体調が悪化したものの病院には入院せず、大好きな八ヶ岳の森に囲まれて家族らに見守られながら穏やかな最期を迎えたという(21日付・FNNプライムオンライン)。鳥の鳴き声、風の音を聞きながらあの世へと旅立たれたようだ。

⇒22日(金)午後・金沢の天気     はれ

☆熊本地震から6年、城下町の被災現場に金沢を重ね思う

☆熊本地震から6年、城下町の被災現場に金沢を重ね思う

   きょうは「4月14日」。6年前の2016年のこの日、熊本地方を震源とする最大震度7の地震が発生した。その28時間後にも再び震度7の地震が起きた。2度の激震で、熊本のシンボルでもある熊本城は天守閣や石垣などが崩れた。震災から6ヵ月後の10月8日に被災地を訪ねた。

   地震の被災地をこれまで何度か訪れている。そのきっかけは新聞記者時代に体験した津波だった。1983年5月26日に秋田沖を震源とする日本海中部沖地震が起きた。輪島支局に勤務していて、震度3の揺れだった。津波が日本海沿岸に押し寄せた。輪島漁港に大きな渦がまき、漁船が沈没した。その様子をカメラのシャッターを1回だけ切って高台に避難した。足元に波が来てさらわれそうになったからだ。それ以降、被災地を訪れ、被害の状況をこの目で確かめるようにしている。

   新幹線熊本駅に到着して向かったのは熊本城だった。当時テレビで熊本城の被災の様子が報じられ、「飯田丸五階櫓(やぐら)」が震災復興のシンボルにもなっていた。石垣が崩れるなどの恐れから城の大部分は立ち入り禁止区域になっていて、飯田丸五階櫓を見学することはできなかった。ボランティアの説明によると、櫓の重さは35㌧で、震災後しばらくはその半分の重量を一本足の石垣が支えていた=写真、熊本市役所公式サイトより=。まさに「奇跡の一本石垣」だった。崩れ落ちた10万個にもおよぶ石垣を元に戻す復旧作業が行われていた。

   熊本を訪れたこの日、阿蘇山の中岳で大噴火があり、36年ぶりの「爆発的噴火」だった。熊本城の被災状況を見た後、チャーターしたタクシーで阿蘇山行きを検討したが、熊本市内と阿蘇を結ぶ国道57号は4月の地震で寸断されていて、迂回路は慢性的な交通渋滞になっていた。噴火で渋滞に拍車がかかっていることが予測され、断念せざるを得なかった。次ぎに益城町に向かった。震度7で揺れた益城町では3万3千人の町全体で5千棟の建物が全半壊した。道路添いに倒壊家屋があちこちにあり、痛々しい街の様子が間近に見えた。そして、田んぼには断層の亀裂が走っていた。

   熊本城、そして益城町の当時の様子を思い出して、1799年6月29日に起きた金沢地震の被害を想像することがある。言い伝えでは、10万人の城下町で5千余りの住宅や土蔵が全半壊し、金沢城の石垣が崩れ落ちたとされる。まさに、熊本で見た被災地の光景だ。金沢市の公式サイトに掲載されている「平成24年度(2012)被害想定調査結果」によると、金沢の平野部を走る森本・富樫断層帯で中心部直下の地震が起きた場合、マグニチュードは 7.2、最大で震度7、建物被害は3万1700棟を予測している。

⇒14日(木)午後・金沢の天気    くもり時々あめ

☆「柳緑 花紅」そぼろきんとん

☆「柳緑 花紅」そぼろきんとん

   きょう午後から自宅庭の草むしりをした。4月の暖かさを超えて、夏日のような暑さだった。雑草は例年、桜のソメイヨシノの満開が過ぎたころから勢いが増す。ドクダミ、チドメグサ、スギナ、ヨモギ、ヤブカラシが顔を出していた。無心に雑草を抜き取り、そして、落ち葉を掃く。 

   草むしりを終え、心地よかった庭の風を連想して、床の間に『柳緑 花紅』の掛け軸を出した=写真・上=。「やなぎはみどり はなはくれない」と読む。ネットで調べると、11世紀の中国の詩人・蘇軾の詩の一部のようだ。柳は緑色をなすように、花は紅色に咲くように、それぞれに自然の理があるという意味のようだ。四文字の掛け軸は詩的であり哲学的でもある。そして、淡い二色が春の美しい景色が描き出す。ありのままの姿が真実だということ。

   夕方から金沢市内の茶席に出向いた。知人たちが趣味で始めている茶道の会の招きだった。そこで、お菓子が出された。名前は『都の春』という、市内の和菓子屋がつくったもの。よく見ると、緑とピンクの2色のそぼろを付けたきんとん=写真・下=。この季節に、予約してつくってもらった上生菓子という。

   思わずエッと口にした。家の床の間に掛けてきた掛け軸『柳緑 花紅』の和菓子と同じイメージだ。知人に尋ねると。にっこりと説明をしてくれた。お菓子の薄紅色は桜の花を表現している。緑色は若葉というより柳の葉を表している。京都の高瀬川などでは両サイドに桜の木と柳の木が並んでいて、この季節は重なり合うように咲く。『都の春』という生菓子は銘も含めて京都の和菓子文化なのだという。

   そして、知人は和歌を詠んだ。「見渡せば 柳桜を こきまぜて 都ぞ春の 錦なりける」。10世紀初頭の平安時代につくられた『古今和歌集』で、素性法師が詠んだ。『都の春』という銘もこの和歌が由来だとか。

   この後、濃茶の一服を楽しんだ。季節の自然は『柳緑 花紅』、菓子は『都の春』、ちょっとした旅気分に包まれた。

⇒10日(日)夜・金沢の天気     はれ

★のどかな花見日和に けん騒の春選挙

★のどかな花見日和に けん騒の春選挙

   金沢では桜、ソメイヨシノが満開になっている。自宅近くの桜の名所でもある神社の境内に行くと、青空にピンクの花が咲き誇り、絶好のコントラストを描いていた=写真・上=。「花見日和」とはこのことを言うのだろう。きょうは金沢市内の小学校の入学式もあり、親子連れで桜の木をバックに記念写真を撮るなど、楽しんでいる様子が見られた。

   うららかな春の本番の中で、石川県ではまた選挙戦が始まった。参院石川県選挙区の補欠選挙がきょう7日告示され、立候補を表明していた4人が届け出を済ませた。選挙は前職である山田修路氏が知事選(3月13日)の出馬で辞職したことに伴うもの。投開票日は今月24日。立候補したのは、比例代表からのくら替えを狙う自民党公認の宮本周司氏51歳、行政書士で立憲民主党公認の小山田経子氏43歳、共産党公認で県委員会書記長の西村祐士氏67歳、実業家秘書で「NHK受信料を支払わない国民を守る党」公認の齊藤健一郎氏41歳の4人。

   午後1時ごろ、近所に設置されているポスター掲示板の写真を撮影に行く。斎藤氏のポスターがまだ貼ってなかった。それもそうだろう、立候補を表明したのはきのう6日のこと。県内に活動拠点はなく、いわゆる「落下傘候補」だ。肩書は実業家秘書となっているが、実業家とはあのホリエモンこと、堀江貴文氏とメディア各社は紹介している。ただ、本人は選挙運動は告示日だけで、選挙期間中はほとんどを都内で過ごすようだ。供託金300万円は誰が払ったのかとふと考えた。午後6時ごろ、はがきを出し郵便局行く途中、ポスター掲示板を見るとようやく貼ってあった=写真・下=。

   参院石川県選挙区の補欠選挙とは言え、岸田政権の評価も問われ、立憲民主党が新しい代表に変わってから初めての国政選挙でもある。地元メディアなどは、与野党の対立構図が描かれていて、この夏に予定されている参院選の前哨戦だと位置づけている。17日間の戦いぶりが見ものだ。そこで一句。「国会の 桜ふぶきは 誰に舞う」

   春満開の風情で正午ごろは気温も19度と、4月下旬並みの暖かさだった。ただ、夕方からは日本海から低気圧が接近して、雨が降りそうとの天気予報だ。雨で桜が散らねばよいが。

⇒7日(木)夜・金沢の天気     あめ

★西田幾多郎の「円相」オブジェ

★西田幾多郎の「円相」オブジェ

        先日、石川県かほく市にある「西田幾多郎記念哲学館」を見学した。西田幾多郎は哲学書『善の研究』で知られる。実在とは何か、善とは何か、宗教とは何か、人間の存在をテーマに考え抜いた哲人である。記念哲学館は生れ故郷の地に2002年6月に開館した。これまでツアーの見学コースの一つとして2度訪れた程度だった。

   1階の展示室「哲学へのいざない」に入ると、いきなりガツンと来る言葉があった。「いまだ研究もせない前にまずその利益を知ろうとする好奇心ほど有害なるものはない」(「哲学のアポロジー」より)。「カントの言った如く」と前置きをし、これを述べた。「近代哲学の祖」とも言われるイマヌエル・カントの言葉の引用なのだが、哲学にとどまらず、研究者たる者への心構えのように響く。

   展示室で一つだけ、アレッと感じるコーナーがあった。西田幾多郎はよく「円相」を書いていたという説明があった。中国・唐代の禅僧である盤山宝積の漢詩である「心月孤円光呑万象」(心月  孤円にして、光 万象を呑む)をイメージして描いた円相図がオブジェになっている=写真・上=。

   自身は茶道を習っているが、床の間に円相の掛け軸をかけ、眺めながら茶を点てる。満月のようにも見える円相は絵なのか、それとも文字なのか分かりにくいが、禅宗の教えの一つとされる。円は欠けることのない無限を表現する、つまり宇宙を表現している、と解釈されている。千利休の口伝書とされる『南方録』には「水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶を点てて仏に供え、人に施し、吾ものみ、花をたて香をたく、皆々仏祖の行いのあとを学ぶなり」とある。雑念を払い、ひたすら無限の境地で、自らの心を円相とせよ、それが茶の道の心得であると教えている。

   「心月」は月のように澄みきって明らかな心、悟りを開いた心を澄んだ月にたとえた禅語とされる。ふと、前述の「いまだ研究もせない前にまずその利益を知ろうとする好奇心ほど有害なるものはない」を思い出した。雑念を払い、ひたすら無限の境地で研究に励むこと、と。

   ちなみに自身が床の間の掲げる円相の掛け軸は「人間万事 一場 夢(じんかんばんじ いちじょうのゆめ)」=写真・下=。世の中に起きる良し悪し全ては、はかない夢であり、動じることはない。そんな意味だろうか。作者は曹洞宗管長を務めた板橋興宗・大乗寺住職だった。西田幾多郎が円相をイメージしていたこと、そして自身も円相の掛け軸を好んでいることに、少しだけ接点が見いだせた思いだった。

   では、哲学者として円相を模索したきっかけは何だったのだろうか。ひょっとして、茶道をたしなんだのだろうか。そんなことを想いめぐらしながら、90分ほど館内を見学した。

⇒5日(火)午後・金沢の天気    くもり時々はれ