⇒ドキュメント回廊

★ドキュメント3・13「石川県知事選」「金沢市長選」

★ドキュメント3・13「石川県知事選」「金沢市長選」

   きょうは石川県知事選ならびに金沢市長選、そして同市議補選のいわゆる「トリプル選挙」の投開票日。午後2時すぎ、一票を投じるため出かけた。くもり空だったが、外は暖かさを感じた。自家用車で外気温を見ると20度だ。投票場は小中学校の体育館=写真・上=。ひっきりなしに人が行き交っていた。投票率は高いのではないかと想像した。知事と市長という首長ダブル選挙の相乗効果もあるだろう。何しろ、前回の知事選(2018年3月)では金沢市の投票率は30.6%、金沢市長選は(2018年11月)は24.9%とそれぞれ最低を記録していた。投票を終えて再び外に出る。心地よい風が吹いている。この陽気が人々を投票に誘っているのかもしれないとふと思った。

   午後8時00分、NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の冒頭で速報が流れた。「金沢市長選 新人・村山卓氏 当選確実」=写真・中上=。投票が終わった途端に当確の速報を流すということは、NHKの出口調査でトップと2番目の差が少なくとも10ポイント以上ついていたということだ。NHKは「選挙のNHK」と呼ばれるほど、出口調査や開披台調査などを独自で実施して「当確」を出している。なので、候補者は民放の当確ではななく、NHKの当確を確認して初めて万歳をするのが習わしになっているほどだ。それにしても、投票終了直後での当確はちょっと速すぎる。本人も選挙事務所に現れてはいないだろう。

   一方の知事選は激戦が予想されている。開票作業を見学するため、金沢市営中央市民体育館(同市長町3丁目)に出かけた。市内のすべての投票箱が集められ、開票作業が行われる。午後8時40分に到着したがまだ始まってはいなかった。トリプル選挙の開票だけに体育館のフロアはほぼ埋まった状態だ。開票台の一列の机に30数人が並んでいる。それが、12列ある。その脇にはサポートするスタッフが控えている。ざっと500人の市職員がいるのではと推測した。

   その開票作業を取材するために、メディア各社の記者やカメラマンがすでに集まっていた。同時に開披台調査をするスタッフも集まっていた。開披台調査は開票作業をする職員の手元を双眼鏡で覗き込んで、投票に書いてある候補者の名前を読んで発声する。この声が口元のマイクから無線でメディア各社の選挙報道フロアに届き、受信したスタッフが数値化していく。金沢の開票場のほかに県内の主な自治体の開票場にスタッフを張り付けているだろう。

   午後9時30分、開票作業が始まった=写真・中下=。28年ぶりに新人同士の争いとなった知事選には、元文部科学大臣の馳浩氏と、元参院議員の山田修路氏、元金沢市長の山野之義氏の3人が競り合っている。メディアの開披台調査スタッフは、開披台で開票作業をする職員の手元を双眼鏡で覗き込んで、「ヤマノ、ヤマノ、ハセ、ハセ、ヤマダ、ヤマダ」と名前を発している=写真・下=。数分経つと、場所を移り別人の手元をのぞく。こうすることで、市内の地域の偏りがなくなる。NHKの腕章をした開披台調査スタッフを数えると10数人いた。

   自身は双眼鏡を持たない。調査スタッフの横にさりげなく立って、名前を聞く。すると、おおむね見当がつく。「山野4割、馳3割、山田2割」かと。間もなくして、市の選管が投票率を掲示板に貼り出した。知事選「58.48%」、市長選「55.95%」。前回より知事選で28ポイント、市長選で31ポイントもアップしている。

   ベンチでひと休みしていると、隣にいた民放の調査スタッフの女性が声をかけてきた。初めて開票場に来たと言い、「選挙番組の裏側を知ることができて、勉強になります」と。そして、「でも、とてもアナログな現場ですよね」とも。同感だった。デジタル投票に移行すれば、おそらく開票作業は瞬時に終わるだろう。

   午後11時ごろに帰宅した。能登地区と加賀地区のそれぞれの候補の得票率はどうなっているのかとテレビやネットをチェックしたが、知事選の当確は流れていない。相当な接戦なのだろ。アルコールを入れたせいか、うとうととそのまま寝込んでしまった。

⇒13日(日)夜・金沢の天気      くもり

★時代のニーズは何だ 金沢市長選で問われること

★時代のニーズは何だ 金沢市長選で問われること

   選挙カーが自宅周辺をひっきりなしに通りにぎやかしい。今月13日投開票の石川県知事選に出馬した前金沢市長の辞職に伴い、同日投開票の市長選がきのう6日告示され、新人5人が立候補した=写真=。県知事選にも5人が立候補している。

   けさの地元紙には金沢市長選に出馬した候補者の抱負や政策が紹介されている。届け出順に、いずれも無所属の新人で、共産党が推薦する新日本婦人の会金沢支部長の中内晃子氏(49)、元国連大学職員の永井三岐子氏(53)、元金沢市議会議員の小間井大祐氏(39)、自民党と公明党金沢総支部が推薦する元金沢市副市長の村山卓氏(49)、立憲民主党と社民党が推薦する元金沢市議会議員の森一敏氏(63)の5人。

   28年間、石川でマスメディア(新聞と民放)の職に就いたが、正直、金沢市長選の印象は「投票率が低い」ということだ。現職と新人2人が立候補した前回(2018年11月)は24.9%と1947年に公選による市長選が始まって以来、最低の投票率を記録した。その前(2014年10月)は4人が立ち、現職と新人の保守分裂選挙だったが47.0%と50%に届いていない。さらにその前(2010年11月)も4人が出馬する現職と新人の保守分裂選挙となったものの投票率は伸びず、35.9%だった。1982年11月以降で市長選が10回あって、50%を超えたことは1990年の1回しかない。市長選に限らず、知事選にしても金沢選挙区は小松市などの加賀地区や七尾市などの能登地区に比べ投票率は低調だ。ただ、衆院選に関しては50%を超えることが多い。

   北陸の地方都市にすぎない金沢のこの低投票率の傾向は東京や大阪、名古屋、京都といった大都市の傾向と似ている。それはなぜか。金沢には民間会社や行政の転勤族や他の地方から若者が集まる傾向があり、その分、地域の選挙に対する関心度は低いのかもしれない。たとえば、金沢周辺には15の大学・短大・高専が集中していて、金沢は「学都」と自ら称している。金沢大学の場合はほぼ7割が県外出身者で金沢市内に住んでいる。学生たちは住民票を移して選挙権を持っていたとしても、市長選や知事選への関心は薄いかもしれない。

   ちなみに、各都道府県の人口に占める学生の比率は第1位は京都府6.18%、2位は東京都5.48% 、3位は大阪府2.64%、そして4位は石川県で2.55%、5位愛知県と続く(2016年7月30日付・「マイナビ」大学生が多い都道府県ランキング)。

   ただ、金沢市長選は時代を読む選挙戦がこれまでにいくつか繰り広げられた。日本社会党の全盛時代に「革新自治体」と呼ばれた東京都の美濃部亮吉知事が有名だが、金沢市でも1972年8月の選挙で、戦時中に東條内閣の軍政を批判したことで知られた医師の岡良一氏が革新系市長として就任している。また、経歴が時代的なのは前市長の山野之義氏。ソフトバンクを経て市議になり、行政のデジタル化を積極的に進めた。では、今の時代が求めている次の首長はどのような人物なのか。ひょっとして女性のリーダーなのかもしれない。元国連大学職員の永井三岐子氏は時代のキーワードでもあるSDGsの知見を行政の施策に生かしたいと訴えている。

   自宅近くを通る選挙カーから発せられる候補者の声をじっと聞いている。若者たちを巻き込んで時代のニーズに向かっていく人に金沢の未来を委ねたいと思う。

⇒7日(月)夜・金沢の天気   

☆有権者の心に火を放つのは誰か、石川県知事選の混沌

☆有権者の心に火を放つのは誰か、石川県知事選の混沌

   石川県知事選はこれまで述べて来たように、金沢・加賀・能登という地域感情や「森奥戦争」といわれた政争が深く絡んできた。しかし、奥田敬和氏は1998年7月に没し、後継の子息・健氏も2012年12月の衆院選で敗れ政界を引退。森喜朗氏も2012年11月に政界を引退している。では、「森奥」はもう過去の話なのか。当事者はいなくなったが、双方を支持してきた有権者の心の中にはその残影がまだある。

   いくつか検証してみる。森氏がスカウトした馳浩氏と奥田健氏の石川1区での戦いも壮絶だった。2009年8月の衆院選は全国の投票率が69.2%に対し石川1区は72.2%と盛り上がった。勝った奥田氏が所属する民主党の政権交代をかけた選挙でもあった。逆に、2012年12月は有権者の民主政権への落胆が強く、全国投票率が59.3%と低調な選挙となり、石川1区も投票率58.5%に落ち込んだ。奥田氏も馳氏に4万7000票対9万9000票対の大差で敗れ、比例復活もならず政界から身を引いた。これで「森奥戦争は名実ともに終わった」という印象を金沢の有権者は抱いたに違いない。

   それ以降、石川1区では馳氏が独走態勢に入るが、投票率は下がった。2014年12月は全国は52.6%だったが、石川1区は43.1%と極端に低かった。2017年10月も全国53.6%、石川1区は51.9%だった。知事選に出馬表明した馳氏が後継の小森卓朗氏を立てた去年10月も全国55.9%だが、石川1区は52.2%と低調だった。この投票率の低さは、有権者の立場から両氏を支援してきた人たちの「森奥戦争のロス状態」ではないかとも推測した。

   これが3月13日投開票の知事選に反映されるのか。そうではない。興味深い選挙ストーリーが浮かび上がっている。知事選は事実上、馳氏(元衆院議員)、山田修路氏(元参院議員)、山野之義氏(元金沢市長)の保守系3候補の争いになっている。馳氏と山田氏は安倍元総理が率いる派閥「清和会」の議員だった。森氏はかつて清和会の会長をとつめた。

   朝日新聞Web版(2月13日付)によると、去年11月下旬、安倍氏は派閥の山田氏を議員会館の自室に呼んで知事選立候補への自制を求めた。その後、安倍氏は山田氏を何度も呼び、「困るんだよ」と迫ったが、山田氏は「出ると決めたんです」とかたくなだった。山田氏は国会の閉会直後の12月24日、議員を辞職し退路を断った。

   派閥の領袖からいさめられても、山田氏は臆することなく出馬の意向を打ち出した。自民党県連は馳、山田の両氏に「支持」を出しているが、自民党本部からは菅元総理、小泉進次郎氏らが馳氏の応援に駆けつけている。森氏がバックヤードで馳氏支援に回ってることは想像に難くない。この森氏の関与、そして山田氏の潔さが森奥戦争のロス状態に陥っていた有権者の心に再び着火するかもしれない。

   山田氏には立憲民主党や社民党県連、連合石川など推薦・支援に回っている。まるで1994年知事選の森奥戦争のように、「自民党」対「非自民連合」の構図のように見えるが、そのような単純な構図ではない。1区(金沢)と2区(加賀)の国会議員2人は馳氏だが、3区(能登)の議員2人と12市町首長のうち8人が山田氏支持を表明している。

   地元の北國新聞社と民放が調査した告示後の調査(2月24-26日)によると、1区は「山野の支持が厚く、馳をリード」、2区は「馳の支持が伸び、山田に並んだ」、3区は「山田は底堅いものの、馳や山野も徐々に浸透」と報じている。投票に「必ず行く」の答えは82.6%と高率で、関心の高さを示している。

   3候補はともに自らの退路を断っての出馬で日増しに選挙戦は熱くなっている。混沌としてきた知事選に有権者の感度もさらにヒートアップしそうだ。

⇒28日(月)午後・金沢の天気      はれ

★「森奥戦争」と石川県知事選

★「森奥戦争」と石川県知事選

   石川県の少々年配の有権者だったらおそらく「森奥戦争」と聞けばピンと来るはずだ。森喜朗と奥田敬和の両代議士によるかつての激しい政争を指す。奥田氏は1998年7月に没し、森氏も2012年11月に政界を引退してはいるが、いまでも選挙があるたびに、「森奥戦争が」とささやかれる。今回の県知事選(3月13日投開票)でも何度か耳にしている。

   現在の衆院選小選挙区は1区(金沢)、2区(加賀地方)、3区(能登地方)と別れているが、両氏が初出馬した1969年は中選挙区で1区(金沢・加賀)と2区(能登)だった。同じ1区(定数3)で、金沢が地盤の奥田氏と加賀が地盤の森氏はトップ争いを演じた。当時は、森氏は自民党の福田赳夫派の清話会に、奥田氏は田中角栄派の経世会に属していたので、2人の争いは「角福戦争」と称された派閥抗争の代理戦というイメージも当時はあった。1994年に小選挙区が導入されて奥田氏は1区、森氏は2区となり直接対決に一応終止符が打たれた。

   この森奥の戦いは県政にも波及した。1991年2月の知事選だった。8期目を目指す中西陽一知事に対して、森氏は副知事だった金沢出身の生え抜きの県庁マン、杉山栄太郎氏を自民党公認として担ぎ出した。これに対して、奥田氏は多選批判もあった中西氏への支援を掲げて金沢を中心に支持を固め、中西8選へと導いた。このときの投票率は76%、1万1000票差の激戦だった。その後、奥田氏は自民党を離党し、新生党の結成に参加する。

   知事選をめぐる森奥戦争の第2ラウンドは1994年3月だった。中西氏が任期中に死去。後継の知事選で、奥田氏は副知事の谷本正憲氏を擁立。これに対して、自民党幹事長だった森氏は、参院議員で元農林水産事務次官の石川弘氏(金沢出身)を推した。このころは奥田氏が所属する新生党を中心とする公明党、民社党、日本新党、社会党のいわゆる「非自民」連立政権で、細川護熙総理が谷本氏の応援に駆け付け、街頭演説が行われた香林坊が聴衆で埋め尽くされたのを覚えている。谷本氏が1万600票差で競り勝ち、投票率は70%だった。その後、谷本氏は通算7期にわたって知事を務め、去年11月に引退を表明した。   

   話は国政選挙に戻る。奥田氏が死去し、後を継いだのは子息の奥田健氏だった。衆院石川1区の補欠選挙(1998年8月)に民主党公認で出馬し、自民党公認の岡部雅夫を下して初当選。新たな森奥戦争をほうふつさせたのが2000年年6月の衆院選だった。プロレスラーでもあった馳浩氏が、自民党幹事長の森氏から抜擢されて1995年7月の参院選石川選挙区(定員1)に出馬して初当選。2000年衆院選で馳氏は鞍替えして自民党公認で1区から出馬し、奥田氏を破った。2003年の衆院選では逆に奥田氏が馳氏に勝った。そして、2005年には馳氏が勝ち、2009年は奥田氏が勝利するという、まさに森奥戦争の再現だった。しかし、奥田氏は2012年12月の衆院選で4万7000票対9万9000票という大差で馳氏に敗れ、比例復活もならず政界から身を引くことになる。2021年6月に急性心筋梗塞で他界。62歳だった。(※写真は2012年衆院選石川1区のポスター掲示板)

   今回の知事選には、参院議員だった山田修路氏、衆院議員だった馳氏、そして金沢市長だった山野之義氏が立候補している。まさに退路を断って争う、近年まれに見る保守系3候補の激しい争いだ。森奥戦争はもう過去の話なのか。次回でさらに分析してみる。

⇒26日(土)午後・金沢の天気      はれ

☆「金沢嫌い」と石川県知事選

☆「金沢嫌い」と石川県知事選

   けさの朝刊の一面見出しは、全国紙は「ロシア、ウクライナ進攻」、そして地元紙は「知事選 5新人立候補」だ=写真=。ウクライナ情勢めぐり世界をウオッチすると同時に、地元石川の将来のありようを知事選の各候補者の主張を読み解きながら考えるチャンスでもある。3月13日が投開票日で、金沢市長選もこの日に重なる。市長選もまた話題満載だ。

   地元に住む者として、知事選をめぐるポイントをいくつか点検してみたい。全国的に見れば、金沢市は百万石の伝統を現代に伝える優美な街というイメージで、観光需要は北陸新幹線の金沢開業(2015年3月)以来さらに高まった。石川の県庁所在地であり、市の人口は46万人と北陸3県(石川、富山、福井)でもっとも大きい。都市の強みや魅力など、いわゆる「都市力」を評価した2021年度版「日本の都市特性評価」(森記念財団都市戦略研究所)でも、神戸市、仙台市に次いで8位に金沢市がラキングされ、毎年全国ベスト10に入っている。

   では、「政治力」はどうか。金沢を中心に県内はまとまっているのか。金沢の市長がその政治手腕を県知事として発揮したことはあるのか。この59年間、15期にわたって知事を務めたのは中西陽一氏(故人)、谷本正憲氏の2人で、ともに官僚出身で副知事だった。官僚出身の知事は堅実に地域課題に取り組み、成果を出すという行政能力を請われて知事に擁立されるケースは全国的にも多いが、石川はその典型的なケースと言えるかもしれない。1947年4月に公選による知事選が始まって以来、金沢の政治家が知事となって県政を束ねたことはないのだ。

   県外の人が上記の話を聞けば、おそらく「えっ、なぜ」と驚くかもしれない。以下、想像を膨らませて書く。石川は能登、金沢、加賀の3つの地域に分かれていて、それぞれに独自の文化や歴史、それに基づく言葉がある。実はこうした文化風土の違いが、能登と加賀の人々の「金沢嫌い」を生んでいる。もう20年も前になるが、金沢市長が隣接の町長に合併を呼びかけたものの振られた。町長はその後再選されているので、自身は民意だったと解釈している。

   金沢のどこが嫌われるのか。日本史でも教わるように、戦国時代の北陸は「百姓の持ちたる国」として浄土真宗の本願寺門徒が地域を治めていた。その後、戦国大名・前田利家を中心とした武家集団が金沢に拠点を構えた。金沢の人は日常の言葉として「そうしまっし」と語尾にアクセントをつけて念を押すように話す。武家社会の上意下達の名残とも言えるが、初めて聞く人にとっては「上から目線」を感じることもある。金沢の観光パンフでよく使われる「百万石」。かつての栄華をいつまで誇っているのかと揶揄する向きもある。能登や加賀からの目線で、金沢はどこか「異質」に映る。

   とは言え、産業の集積など都市力で金沢は群を抜いている。県内の他の地域からすれば、やっかみや憧れが入り混じる。歴代の知事はそうした県民感情を巧みに政策として活かし、「能登と金沢・加賀の格差是正」をスローガンに能登半島の道路網などインフラ整備を積極的に進めてきた。知事選の候補者に必要なのはこうした地域の機微を理解した上でのバランス感覚なのだと感じている。

⇒25日(金)午後・金沢の天気      はれ

☆能登の「岩のり」とユネスコ無形文化遺産のこと

☆能登の「岩のり」とユネスコ無形文化遺産のこと

   先日、能登の知人から「岩のり」が届いた。この時節に「季節のものです」と一筆添えて送られてくる。岩のりは能登の福浦海岸べりの岩場で採れた天然のノリで、送られてきたものは干したもの。さっそくうどんをつくり、岩ノリをさっとあぶって、うどんに入れる。磯の香りが広がり食欲がわいてくる。

   能登には海藻の食文化がある。とくにかく海藻の種類が多い。半島の尖端の珠洲市でいまでも採れている海藻は10種類ほどある。地元ではカジメと呼ぶツルアラメやモズク、ワカメ、ウスバアオノリ(あおさ)、ウップルイノリ(岩のり)、ハバノリ、アカモク(ぎばさ)、ウミゾウメン、マクサ(てんぐさ)、ホンダワラなど。海藻ごとにそれぞれ料理がある。

   能登で精進料理(お講料理)としてよく出されるのが「カジメの煮物」だ。冬場に海がシケると、翌日は海岸に打ち上げられる。これを刻んで乾燥させる。油揚げと炊き合わせる。それぞれ家庭の味があり、能登で代表的なゴッツオ(ごちそう)でもある。また、生のカジメを刻んで味噌汁や納豆汁に入れて食する。ねばねば感と独特の風味がある。カジメはヨード分が多く滋養豊富なことから、「海の野菜」と言われ、血圧の高い人や冷え性の人に重宝がられてきた。能登では古くから産後のうるち(古血)おろしにカジメを食べるという風習もあった。

   能登では夏には貝類を、冬には海藻類を多く採っている。また、こうした海産物を加工保存することにより、年間を通して海の恵みにあずかる。塩漬け、乾燥、粕漬け、味噌漬け、発酵などにより食材を保存し、素材に応じて様々な料理の工夫を凝らしている。まさに、食文化がここにある。

   2013年12月にユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に「和食:日本人の伝統的な食文化」が登録されている。自然を尊び活かした食文化が国際評価を受けている。ただ、「和食文化」は分かりにくい。能登の海の恵みを活かした食文化をアピールしてはどうかと思ったりもする。能登では田の神をもてなす農耕儀礼「あえのこと」が2009年9月にユネスコ無形文化遺産に登録されていて、相乗効果も生まれるのではないだろうか。いただいた岩のりからふと浮かんだ思いつきではある。

⇒18日(金)午前・金沢の天気    あめ時々あられ    

★「あさま山荘事件」から50年 現場を行く~下~

★「あさま山荘事件」から50年 現場を行く~下~

   スマホのグーグルマップで南軽井沢の「あさま山荘」を探す。前回のブログで述べた「あさま山荘事件顕彰碑」の向こう側と方向が一致する。車で向かう。ゴールまでは道が複雑だった。そして坂道は急で積雪があり、気温はマイナス3度。この日はいったん宿に引き返し、翌日に出直すことにした。

     まるで要塞のような造り 機動隊突入から逮捕まで8時間のナゾ

   そして、きょう18日の午前中、「あさま山荘」がある山を再度上った。気温はマイナス5度だった。積雪の坂道を車で上るのはタイヤのスリップなどで難しくなくなり、車を降りて徒歩で上った。300㍍ほど歩くとグーグルマップの「あさま山荘」に着いた=写真・上=。友人たちと「これだ」と確かめ合った。

   1972年2月28日、連合赤軍が立てこもってから10日目に人質となっていた管理人の女性の人命が危ういと判断し、警察機動隊は救出のために強行突入した。午前10時、酷寒の山地での機動隊と犯人との銃撃の攻防、血まみれで搬送される隊員、クレーン車に吊った鉄球で山荘を破壊するなど衝撃的なシーンがテレビで生中継された。逮捕された犯人の引き回しの映像の中継されたのは午後6時すぎ。周囲は暗くなっていた。テレビ業界で今でも話題に上るのは、このあさま山荘事件は放送史で89.7%という驚異的な視聴率だった。

   現地に来て気づいたことだ。当時なぜ機動隊は強行突入から逮捕まで8時間余りもかかったのか、その理由がなんとなく分った。山荘の入り口は階段状で狭く、道路の下にある=写真・下=。そして、山荘そのものは切り立ったがけ地に建設されたものだ。まるで要塞のようだ。機動隊にとって、いわゆる突入による包囲は簡単ではないのだ。そして、連合赤軍がここから撃ったライフルの銃声はおそらくやまびこのように鳴り響いていたに違いない。連合赤軍側の威嚇射撃に対する警戒心は相当だったろう。それが同時に機動隊の動きを鈍らせたのかもしれない。

   そこで使われたのがクレーン車に吊るした鉄球で山荘の一部を破壊するという犯人たちへの威嚇攻撃だったに違いない。威嚇射撃と威嚇攻撃でにらみ合いが続いた。

   もう一つはテレビ報道について。元日本テレビのアナウンサー、久能靖氏の著書『浅間山荘事件の真実』(河出文庫)によると、逮捕された犯人の引き回しの映像の中継に成功したのは玄関の近くでカメラを構えていたフジテレビだけだった。当時の中継はマイクロ波を小型パラボラアンテナで何段にもつないで現地と東京を結ぶやり方だ。このため、犯人の引き回しを撮影する場所を予め固定する必要があった。NHKや日本テレビは高所から俯瞰した映像を狙っていた。ところが、逮捕は午後6時過ぎになり、中継映像は暗くなった。移動しようにも玄関前の道路は狭く、警察関係者や新聞・雑誌メディアなどが道路を埋め尽くしている。日中であれば問題はなかったが、逮捕の時間が遅れて移動と設定が間に合わなかったのだろう。

   半世紀前の事件現場であり報道現場でもあるこの地に立って、なるほどそうだったのかとナゾが解けたような気がした。あくまでも推測だ。

⇒18日(火)夜・金沢の天気    くもり

☆「あさま山荘事件」から50年 現場を行く~上~

☆「あさま山荘事件」から50年 現場を行く~上~

   高校・大学時代からの友人と軽井沢に来ている。きょうの天気は晴れで、浅間山もはっきり見えたのでドライブに出かけた。目指したのは、1972年2月、銃を持った連合赤軍の若者が長野県南軽井沢の企業保養所に押し入り、管理人の女性を人質に立てこもり警察と銃撃戦となった「あさま山荘事件」の現場だ。

     殉職警官2人の顕彰碑の向こうに前代未聞の銃撃戦の現場が

   この事件があった50年前、高校2年生だった。キューバ革命のチェ・ゲバラを崇拝し世界同時革命をめざす赤軍派と、毛沢東理論で一国革命を唱える京浜安保共闘が連携したゲリラ組織だ。群馬、長野の冬の山中を警察に追われながら逃げ延び、ついにあさま山荘に人質を取って立てこもる。ライフル銃や猟銃のほか実弾2千発余り、手投げの爆弾も持っていた。強行突入の様子には自身もテレビにくぎ付けだったことを覚えている。

   グーグルマップで「あさま山荘」をめがけて走行する途中に、「浅間山荘事件顕彰碑」という看板があった。車を降りて顕彰碑に向かった。顕彰碑には「治安の礎」と書かれてあった=写真=。顕彰碑の裏の添え書きを読むと、事件の翌年の1973年にあさま山荘を後方に臨む道路の入り口に建てられた。事件の教訓と犯人の凶弾に倒れ殉職した2人の警察官の功績を称えた文章が刻印されている。

    犯人が立てこもってから10日目の2月28日、いよいよ人質の生命が危ういと警察側は判断し、強行突入し救出作戦に入る。人命尊重を第一に慎重な態度を崩さない警察に対し、「警察のやり方は手ぬるいのではないか。だから過激派がはびこる」というような批判もわき起こっていた。警察は午前10時に突入、この様子は生中継でアナウンサーが逐一リポートした。

   元日本テレビのアナウンサー、久能靖氏の著書『浅間山荘事件の真実』(河出文庫)に当時の報道陣の視線で現場が描いている。午前10時の突入のシナリオはすべて警察とメディアの「報道協定」で取り決めがなされていた。雑誌を含む新聞、テレビ、ラジオなど52社との協定は当時とすれば「史上空前の報道協定」だった。犯人を射殺した場合、射殺した警察官の氏名は公表しない、事件解決後のムービーカメラによる現場撮影は3分(100フィートのフィルム1本分)といった内容まで協定で細かく決められていた。

   ところが、警察隊は催涙ガスと放水をしながらもなかなか前に進めない。午前中には終えると思われていた警察側のシナリオが狂う。そして、警官2人が射殺された。生の衝撃的な画面が視聴者の目の前で9時間にわたって展開されるという、前代未聞のテレビ中継となった。

  亡くなった2人の警察官の顕彰碑に手をあわせ、事件の現場に向かった。

⇒17日(日)夜・軽井沢の天気   くもり

☆2021 バズった人、コト~その8

☆2021 バズった人、コト~その8

   ことし話題になった人物といえば、ノーベル物理学賞を受賞したプリンストン大学上級研究員の真鍋淑郎氏、90歳ではないだろうか。地球温暖化予測の第一人者として知られ、それまで物理学とは考えられていなかった気候変動をコンピューターでシミュレーション解析を行うことで数式化し、「気候物理学(Climate physics)」という新たな研究ジャンルを切り拓いた。

   ~ノーベル物理学賞・真鍋淑郎氏 気候変動会議「phase down」に何思う~ 

   真鍋氏の受賞は実にタイムリーだった。二酸化炭素による地球温暖化が国際政治の遡上にのぼったタイミングだ。10月31日からイギリスのグラスゴーで開催されていた国連の気候変動対策会議「COP26」で成果文書「グラスゴー気候協定」が採択された。世界の平均気温の上昇を産業革命前から1.5度に抑える努力を追求すると成果文章で明記された。世界全体の温室効果ガスの排出量を2030年までに2010年比で45%削減し、さらに2050年にほぼゼロに達するまで排出量を削減し続ける。

   世界の年間の二酸化炭素排出量の約4割が火力発電など石炭を燃やすことで発生しているため、今回の成果文書で石炭対策が初めて明記された。が、その表現をめぐって土壇場で攻防があった。文書案では当初、石炭の使用を「phase out(段階的に廃止)」という表現になっていた。しかし、合意採択を協議する最後の全体会議でインド代表がこれに反対した。飢餓の削減に取り組まなくてはならない発展途上国にとって、石炭使用や化石燃料を段階的に廃止する約束はできないと主張。インドの主張を中国も支持し、石炭産出国のオーストラリアも賛同した。議論の挙句に「phase down(段階的な削減)」という表現になった。

   真鍋氏はこの土壇場での表現の変更をどう思っただろうか。ノーベル賞発表後にプリンストン大学で記者会見が開催され、会見動画がYouTubeでアップされている。その中で、記者から日本からアメリカに国籍を変えた理由をこう述べている。

   I never wrote single research proposal in my life. So I got all computer I want to use, and do whatever I pleases. So that is one reason why I don’t want to go back to Japan, because I’m not capable of living harmoniously.(意訳:私は生涯で一度も研究提案書を書いたことがない。それで、使いたいコンピューターを全部手に入れて、好きなようにしています。だから、私は日本に帰りたくないのです。なぜなら、私には日本人のような協調する生活ができないからです)

   この文言から察するに、真鍋氏は周囲を気にせず、自分の好きな研究に没頭するタイプだろう。悪く言えば自己中心的。日本社会のように気配りや忖度する社会環境に馴染めず、「Yes」か「No」で済むアメリカ社会が自分に適していると判断した。このような頑なな研究者に石炭の使用を「phase out」か「phase down」と問えば、当然、前者だろう。真鍋氏は 「They should think about more how decision-makers and research scientists communicate with each other(政策決定者と研究者がどのようにコミュニケーションをとるかをもっと考えるべきだ)」と憤っているのではないだろうか。

⇒31日(金)午後・金沢の天気      ゆき

★2021 バズった人、コト~その7

★2021 バズった人、コト~その7

   136年も前、隣国に対する憤りの念を持った人物がいた。福沢諭吉だ。主宰する日刊紙「時事新報」(明治18年3月16日付)の1面社説にこう記した。「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と。社説は福沢の「脱亜論」で知られる。福沢の執筆の背景は、当時の清国、李氏朝鮮は近代化を拒否して儒教などの旧態依然とした体制に固執していた。そこで福沢は政治的な縁切り(国交断絶)ではなく、「謝絶」と表現した。要求には謝りつつ応じない、と。当時の福沢の気持ちが現代にもによく通じる。

      ~福沢諭吉「悪友を謝絶する」 いまに通じる言葉~

   香港では言論の自由への締め付けが止まない。香港の警察は、政府に批判的な論調で知られ抗議活動の記事などを数多く配信してきたネットメディア「立場新聞」の幹部7人を、憎悪をあおる出版物を発行した疑いで逮捕した。これを受けて「立場新聞」は記事配信を停止し、過去の記事も削除、すべての社員の契約を解除することを明らかにした(12月29日付・NHKニュースWeb版)。ことし6月、中国政府への批判を続けてきた香港の新聞「蘋果日報(アップル・デイリー)」の紙面の主筆や中国問題を担当する論説委員も逮捕され、発行停止に追い込まれている。

   香港問題だけではない。ウイグル族への強制労働や、女子プロテニスの選手が前の副首相から性的関係を迫られたと告白した後に一時行方がわからなくなった問題など中国の人権状況に対して国際的な批判も強く、北京オリンピックへの「外交的ボイコット」などに展開している。

   日本に対しては尖閣諸島周辺での領海侵犯を執拗に続けている。ことし3月、中国海警局の船2隻が尖閣の沖合で操業していた日本漁船2隻に接近する動きを見せ、海上保安本部が巡視船が割って入るなど緊張感が高まっている。「ここは我が国の領海だ」と主張して、南シナ海でもベトナムやフィリピンの漁船を追いかけ回している。八重山日報Web版(12月30日付)によると、きのう29日も尖閣周辺の領海外側にある接続水域に、中国海警局の艦船4隻が航行。機関砲らしきものを搭載していた。海上保安庁の巡視船が領海に侵入しないよう警告している。

   領海侵犯だけではない。日本海のスルメイカの漁場は大和堆だ。日本のEEZ(排他的経済水域)なのだが、中国漁船が大挙押しかけ、能登半島などから出漁する日本漁船に打撃を与えている。日本側はスルメイカのイカ釣り漁の漁期を6月から12月と定めているが、日本の漁船に先回りして、中国漁船は4月から大和堆などに入り込んで漁場を荒らしているのだ。

    ここで気がかりなことがある。2022年は日中国交回復50年周年にあたる。1972年9月29日に当時の田中角栄と周恩来の両総理が日中共同声明の調印式に臨み、日本はそれまで対立関係にあった中華人民共和国と関係を取り戻し、それまで国交のあった中華民国との断交を通告した。50周年を機に中国との関係や台湾との関係はこのままでよいのか見直す議論をすべきではないだろうか。そして、友好記念の行事は民間ベースにとどめ、外交は自粛すべきだ。

   気がかりというのは、中国の習近平国家主席を国賓として2020年4月に招請する予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大を理由にいまも延期の状態となっている。もともとは、2019年6月、大阪での「G20 サミット」に出席のため訪れた習氏に当時の安倍総理が国賓としての再来日を招請したものだった。50周年を機に、自民党や公明党などから国賓招請が頭をもたげてくるのではないか、ということだ。

   冒頭の福沢諭吉の社説にあるように、「悪友を謝絶する」べきだろう。岸田総理が北京オリンピックに事実上の「外交的ボイコット」に踏み込んだのは賢明な政治判断だった。もう一つの意図を感じる。それは、与党内の国賓招請論を封じ込める伏線ではないのか。あくまでも憶測だが。

⇒30日(木)午後・金沢の天気   あめ時々ゆき