⇒ドキュメント回廊

★セイタカアワダチソウは「厄介な雑草」なのか

★セイタカアワダチソウは「厄介な雑草」なのか

   きょうは秋晴れのすがすがしい一日になりそうだ。庭にはセイタカアワダチソウが黄色の花を咲かせ、時折そよぐ風に身を揺らしている=写真=。ただ、この植物は植えた覚えはなく、いつの間にか庭に生えていた、いわゆる外来種の雑草ではある。

   なのに、春と夏の草むしり(除草)の際は、数本だけ残している。観賞用でもないのだが、「雑草という草はない。どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる」(昭和天皇のお言葉)という有名なフレーズを妙に覚えていて、根こそぎの除草はしていない。ところが、この季節に休耕田や河原、空き地に一面に群生している様子を見るとその勢いに圧倒されそうになり、複雑な思いに駆られることもある。

           そうした見た目のよくない印象もあるのだろう、セイタカアワダチソウは花粉症の元凶と誤解されたこともかつてあった。今でもそう思っている人も多いかもしれない。風に揺れる様子を見ていても分かるように、花粉がほとんど飛ばない。花粉は量が少なく、比較的重いためとされる。いわゆる「風媒花」ではなく、花に寄って来た虫によって受粉する「虫媒花」なのだ。

   以前、植物研究者から聞いた話だが、セイタカアワダチソウは生命力が強い植物であり、さまざま薬効もあるようだ。葉にはポリフェノールの一種であるクロロゲン酸などが含まれていて、煎じて飲めば、血糖値や血圧の上昇を抑える効果がある。また、フラボノイドも含まれていて、ヨーロッパなどでは葉を潰して虫刺されや外傷の止血剤としても用いられている。入浴剤としても使われている、とか。今では見かけないが、日本では、草丈が1㍍から2㍍と長いことから、かついては簾(すだれ)の材料として活用されていた。

   さまざまに活用方法があるものの、人々の暮らし方の変化にともない、厄介な雑草としか見られない植物になった。こう考えると、才能がある人物を活かしきれず、厄介者扱いにする人間社会も同じ、かと思ってしまう。

⇒13日(木)午前中・金沢の天気    はれ

☆金沢の茶席で見たトンボ絵の茶器のこと

☆金沢の茶席で見たトンボ絵の茶器のこと

      きょうは3連休の初日。空模様を気にしながら、3年ぶりに開かれた「金沢城・兼六園大茶会」(石川県茶道協会など主催)に足を運んだ。「大茶会」と言うのも、4つの会場で茶道7流派の12の社中が日替わりで茶席を設ける形式。4つの会場は金沢城や兼六園の近くにあり、それぞれ趣きのある場の雰囲気にひたりながら茶の湯を楽しむことができる。

   最初に訪れたのは金沢21世紀美術館の敷地の一角にある茶室「松涛庵」。もともとは加賀藩主が江戸時代の末期に東京の根岸に構えた隠居所だった。その後、金沢に移築されて茶室に改装、平成13年(2001)に金沢市が取得して一般公開している。露地は枯山水の造り。モダンアートを展示する「21美」とは真逆の伝統的な和風空間でもある。

   ここで表千家の社中が立礼(りゅうれい)席を設けていた。立礼は椅子に座ってお茶を点てる作法=写真・上=。客も椅子に座り、抹茶碗はテーブルの上に置かれる。まさに和洋折衷の風景だ。一説に、明治5年(1872)に西本願寺などを会場として京都博覧会が開かれ、裏千家が外国人を迎えるために考案したものとされる。文明開化といわれた激変する時代に対応するアイデアだったのだろう。

   その立礼でお茶を点てる様子を眺めていた。すると、お点前の女性が手に持った茶器がキラリと光った。何だろうと思い、茶道具の一覧を記した会記を見ると、茶器の作者は「SUZANNEZ ROSS」、作品名は「KINDRED SPIRITS」と記されていた。「あっ、スザーンさんの作品だ」と心でつぶやいた。茶器は粉の抹茶を入れる漆器で、茶杓で抹茶を碗に入れ、お湯を入れて点てる。茶席に欠かせない道具の一つ。 

   スザーンさんには9年前、金沢大学の社会人講座で講演をいただき、輪島市の工房も訪問したことがある。ロンドン生まれのスザーンさんが漆器と出会ったのは19歳の時、美術とデザインを学んでいて、ロンドンの博物館で見た漆器の美しさに魅せられた。 22歳で日本にやって来て、書道や生け花、着付けなど和の文化を学んだ。その後、漆器を学ぶために輪島に移住。1990年から輪島漆芸技術研修所で本格的に学んだ。

   輪島塗には100を超える作業工程があり、分業システムが確立されていて「輪島11職」とも称される。ところが、スザーンさんは木地造り以降の作業をすべて自分一人で手掛けている。漆器の魅力をこう話していた。「器も木で出来ていて生きている、漆も生きているし、私も生きているから、3つの生き物を合わせて一つ。 うまくいく日と、いかない日がある。でも、それが楽しい」

   茶器には蒔絵で秋雲とトンボが描かれていて、トンボの羽には螺鈿(らでん)が施されている=写真・下=。キラリと光ったのはこのトンボの羽だった。では、「KINDRED SPIRITS」をどう日本語に訳するか。「心の友」だろうか。手塩にかけて仕上げた作品が心を癒してくれる、それは友のようでもあり、漆器という「生き物」に込めた想いかもしれない。チャンスを見つけて本人にお会いして作品名について尋ねてみたい。

⇒8日(土)夜・金沢の天気   くもり   

★安倍国葬後の課題 「今より後の 世をいかにせむ」

★安倍国葬後の課題 「今より後の 世をいかにせむ」

   きょう日本武道館で営まれた安倍元総理の国葬の中継番組をNHKなどで視聴した=写真=。見ていた時間は午後1時50分から午後3時50分ごろまで2時間。この間、安倍氏の昭恵夫人が遺骨を抱いて車から降りて会場に入る。開式の辞で始まり、国歌演奏、黙とう、政府が制作した生前の安倍氏の映像を映写、追悼の辞(三権の長がそれぞれ、友人代表)、皇族による供花、献花(海外参列者、駐日大使ら)までを視聴した。

   あくまでもテレビ視聴での感想だが、めりはりのない形式的な追悼式というイメージだった。目立ったのはきびきびとした動きの自衛隊の儀杖隊だった。そもそも、10分にも及ぶ生前の安倍氏の映像を流す必要性が一体どこにあったのか。故人の功績や人柄をしのぶのは追悼の辞で十分ではなかったか。追悼式は追想の場であり、映像シーンを次々見せてしのぶものではない。

   追悼の辞で、友人代表として菅前総理が興味深いエピソードを紹介していた。平成12年(2000年)、日本政府は北朝鮮にコメを送ろうとしていた。当選2回目だった菅氏は「草の根の国民に届くのならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と自民党総務会で反対意見を大々的に述べた。紙面で掲載され、記事を見た安倍氏が「会いたい」と電話をかけてきた。これが、安倍氏と菅氏が北朝鮮の拉致問題にタッグを組んで取り組むきっかけだった。当時の森喜朗内閣や外務省などは日朝正常化交渉を優先していて、拉致問題はむしろ交渉の阻害要因というスタンスだった。

   安倍政権の7年8ヵ月、官房長官として苦楽を共にした菅氏は、明治の政治家・山県有朋が長年の盟友、伊藤博文に先立たれて故人をしのんだ歌を一首詠んで追悼の辞を締めくくった。「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」。追悼の辞で拍手があったのは菅氏だけだった。

   民放チャンネルも中継番組を流していた。横並びの中継には当初、総務省からの圧力かと違和感があった。日本テレビ系とテレビ朝日系は海外参列者の献花のタイミングで、安倍氏と世界平和統一家庭連合(旧「統一教会」)の関係や、いわゆるモリカケ問題など取り上げ、安倍長期政権の光と陰にスポットを当てていた。日テレ系は、この国葬を統一教会がプロパガンダとして使っていく可能性があると、霊感商法対策弁護士連絡会の弁護士のコメントを中継で紹介していた。

   来週3日から秋の臨時国会が始まる。自民党は旧統一教会と絶縁宣言(今月8日)をする一方で、安倍氏と教団の関係を調査することについては「本人が亡くなった今、限界がある」(岸田総理)として否定している。国葬をプロパガンダにさせないためにも、この問題にけじめをつけてもらいたい。まさに、菅氏が詠んだ山県有朋の歌、「今より後の 世をいかにせむ」だ。

⇒27日(火)夜・金沢の天気    くもり時々あめ

★「芝生」の「雑草」に除草剤 是か非か

★「芝生」の「雑草」に除草剤 是か非か

   午後に晴れていれば、庭の草むしり(雑草取り)を日課としている。草取りをすると作業の成果が見えるだけに、気持ちがすっきりとする。しかし、いくら抜いても取ってもすっきりしない雑草がある。チドメグサだ。漢字では「血止め草」と書き、学名は「Hydrocotyle sibthorpioides」。すっきりしない理由は、数日するとまた茎を張りめぐらして生えてくるからだ。

   チドメグサはどこにも適応できる多年草で、匍匐茎(ほふくけい)といい、地中深くに茎を伸ばしながら繁殖する。茎を途中でちぎっても、残った茎から繁殖し、あっという間に広がってしまう。すさまじい繁殖力だ。こうなると、雑草とはいえ、敵意がむき出しになる。

   とくに、芝生に入ったチドメグサは許せない=写真=。まるで、「隠れ蓑」戦術だ。目立たないように勢力を拡大している。そこで戦いを挑む。まず、芝刈り機で刈り込む。チドメグサの葉や茎も刈ることができるが、問題は芝生の根にチドメグサの茎が絡まって離れようとしない。そこで、一本一本を無心に外すことになる。芝生専用の除草剤もあるのが、除草剤は使いたくないので手作業だ。

   先日この作業をしていて、ふと、いま霊感商法や献金強制で問題となっている旧統一教会と仕組みが似ていると思い浮かんだ。自民党など政治家を芝生に例えれば分かりやすい。そこに、選挙応援などと称して入り込み、いつの間にか自民党の国会議員全体の半数近くの179人が何らかの関係を持っていた。中には秘書となり、しっかりと根を張った者もいる。

   そこで自民党は今後、統一教会や関連団体と一切関係を持たないことを基本方針とし、党所属の国会議員との関係を点検して公表したが、それだけでは教団との関係性を絶ち切れない。そこで、立憲民主党など野党は今月20日、旧統一教会の問題に取り組む弁護士や2世信者を招いてヒアリングを実施し、宗教法人法に基づく解散命令の請求を文化庁に求めた。この解散命令を除草剤と言い換えれば、分かりやすい。

   しかし、文化庁宗務担当者は「安易な解散命令請求することはできない。確実に(裁判で)勝てるだろうという状況がなければ解散命令請求すべきでない」との見解を繰り返した。つまり、除草剤の効果が分からないのにまくべきではないとの主張だ。これに対し、野党側は「解散命令を出す十分な要件がある。裁判で勝つ可能性が極めて高い」と述べていた。除草剤をまいてみないことにはその効果は分からないでしょう、と。

   それぞれに一理はある。個人的には庭に除草剤をまきたくはないが、反社会的な問題を起こしている宗教法人に対して、政治サイドがきっぱりとけじめをつけない限り、また時間とともに茎を生やし芝生を覆うようになる。

⇒23日(金)午後・金沢の天気     あめ

★「小泉訪朝」から20年 「拉致1号事件」から45年

★「小泉訪朝」から20年 「拉致1号事件」から45年

   もう20年になる。2002年9月17日、当時の小泉総理が北朝鮮を訪れた。金正日総書記は小泉総理に対し、日本人拉致の事実を認めて謝罪した。拉致被害者5人の生存も確認され、帰国した。ただ、日本政府が認定している拉致被害者17人のうち、帰国できたのはこの5人だけだった。

   北朝鮮による拉致問題はいまだに解決していない。2021年11月、国連総会で人権問題を扱う第3委員会は北朝鮮に対してすべての拉致被害者の即時帰還を求める決議案を採択した。採択は17年連続となる。拉致被害者は日本だけではない。ヨーロッパではオランダ、フランス、イタリア、ルーマニアなど5ヵ国に及んでいる。アジアでは日本のほか韓国、タイ、マレーシア、シンガポール、マカオの6つの国・地域だ。   

   これまで何度か、日本人拉致「1号事件」の現場を訪れたことがある。能登半島の尖端近く、能登町宇出津(うしつ)の遠島山公園の下の入り江がその現場だ=写真・上=。1977年9月19日に事件は起きた。以下、当時事件を取材した元新聞記者のK氏から聞いた話だ。

   同年9月18日、東京都三鷹市の警備員だった久米裕さん(当時52歳)と在日朝鮮人の男(同37歳)はJR三鷹駅を出発。翌19日、現場と近い旅館「紫雲荘」に到着した。午後9時、2人は黒っぽい服装で宿を出た。怪しんだ旅館の経営者は警察に通報し、石川県警の捜査員らが現場に急行した。旅館から歩いて5分ほどの入り江で男は石をカチカチとたたいた。数人の工作員が船で姿を現し、久米さんを船に乗せて闇に消えた。男は外国人登録証の提示を拒否したとして、駆けつけた捜査員に逮捕された。旅館からはラジオや久米さんが持参していた警棒などが見つかった。

   しかし、当時は拉致事件としては扱われず、公にされなかった。その後、拉致は立て続けに起きた。同年10月21日に鳥取県では松本京子さん(同29歳)が自宅近くの編み物教室に向かったまま失踪(2号事件)。そして、11月15日、新潟県では下校途中だった横田めぐみさん(同13歳)が日本海に面した町から姿を消した(3号事件)=写真・下=。

   政府は拉致事件として認定していないが、1963年5月11日、能登半島の志賀町沖に刺し網漁に出た寺越昭二さん(当時36歳)、寺越外雄さん(同24歳)、寺越武志さん(同13歳)の3人が行方不明となり、後日、船だけが沖合いで発見された。1987年1月22日、外雄さんから姉に北朝鮮から手紙が届いて生存が分かった。2002年10月3日、武志さんは朝鮮労働党員として来日し、能登の生家で宿泊した。武志さんは「自分は拉致されたのではなく、北朝鮮の漁船に助けられた」と拉致疑惑を否定している。このケースは、北朝鮮の工作船と遭遇したため連れ去られた「遭遇拉致」と見られている。 

   1999年3月23日朝、能登半島東方沖の海上から不審な電波発信を自衛隊が傍受し、能登沖と佐渡島沖で2隻の「漁船」が発見された。北朝鮮の不審船による日本領海侵犯事件として、海上自衛隊と海上保安庁の巡視船など追跡したが、不審船は高速で逃げ切った。いまでも海上保安庁は北朝鮮の不審船による領海侵犯に目を光らせている。拉致事件は終わってはいない。

⇒17日(土)午後・金沢の天気    はれ

☆「旅するチョウ」アサギマダラが舞う季節

☆「旅するチョウ」アサギマダラが舞う季節

   「旅するチョウ」と称されるアサギマダラが能登や加賀の空に舞う季節がやってきた。このチョウは春は日本列島の北の方へ、秋には南の方へ。その距離は2000㌔にも及ぶと言われる。金沢大学に在職中はこの時季に学生や留学生といっしょに、能登半島で一番高い山である宝達山(637㍍)によく登った。山頂付近にはエサとなるフジバカマやホッコクアザミが繁っていて、東北方面からやってきたアサギマダラを間近に観察できた。

   地元でアサギマダラの保護活動を取り組んでいる人たちに同行してもらい、アサギマダラを捕獲し、マーキングして放す様子を見せてもらった。面白いのは捕獲の様子だ。右手で白いタオルを振り回すと、そのタオルをめがけてふわふわとまるでダンスを踊っているようにアサギマダラが飛んで来る。近寄って来たところを、左手に持ったネットで捕まえる。

   なぜアサギマダラは回るタオルに寄って来るのか。解説も面白かった。寄って来るタオルの色は白色と水色。白色と水色でも、回転しないタオルには寄って来ない。ゆっくり回すより、はやく回すと寄って来る。アサギマダラには回転する白や水色のタオルはどのように見えているのだろうか。吸蜜植物のホッコクアザミやフジバカマ、ヒヨドリバナなどお花畑が広がる光景のように見えるのかもしれない。

   ところで、「アサギマダラ」という名前はなぜついたのだろうか。ネットで調べると、「前ばねは黒、後ろばねは茶色の地色ではねの中央に透き通るような部分があります。この白い部分が新鮮な個体では青みがかっており、日本古来の色『あさぎ色』に見えることからアサギマダラの名前がついています」(「愛媛県総合科学博物館」公式サイト)との解説がある。

   アサギマダラの命は羽化後4、5ヵ月とされる。その間に2000㌔の旅をする。いま能登で蜜を吸って、これから小笠原諸島や与那国島、さらに台湾まで移動する。この時節は台風の季節でもある。向かい風をどう乗り切って南に向かうのか。そして、なぜ過酷な旅をするのか。人の人生というものを連想させる、不思議なチョウではある。

(※写真は、世界農業遺産「能登の里山里海」情報ポータル公式サイトより) 

⇒16日(金)夜・金沢の天気     はれ

☆ドングリ実らぬ秋の山 クマ出没警戒アラート

☆ドングリ実らぬ秋の山 クマ出没警戒アラート

   「クマが出るので注意を」。石川県はきのう、メディアなどを通じてツキノワグマ出没警戒情報を出した=写真・上=。県庁公式サイトによると、ことし1月から8月までに報告されたクマの目撃情報は208件で、過去最多のペースで増えている。クマ出没警戒情報が出されるのは15人の人身被害が出た2020年以来だ。

   ふだんは山奥にいるクマが人里に降りてくるのは、エサ不足が主な原因とされる。とくに冬眠前になるとクマも必死にエサを探し求めて人里に降りてくる。そのエサとなるブナの実のドングリが、県が調査した24ヵ所中16ヵ所で「大凶作」ないし「凶作」だった。このことから、秋の深まりとともにクマの出没頻度が高まると予測される。

   クマは場所を選ばない。これまで金沢市内のいろいろなところに出没している。金沢の野田山は加賀藩の歴代藩主、前田家の墓がある由緒ある墓苑だ。市街地とも近い。お供え物の果物を狙って出没する。なので、「お供え物は持ち帰ってください」との看板が随所にかかっている=写真・下=。

   クマは中心街にも出る。兼六園近くの金沢城公園で、たびたび出没していたことから、捕獲用のおりを仕掛けたところ体長1㍍のオスがかかったことがある(2014年9月)。周辺にはオフィスビルなどが立ち並ぶ。

   クマは柿が大好物だ。一度食べたら、また翌年も同じところに柿を食べにくると言われる。知人から聞いた話だ。痩せたクマが金沢市街地の民家の柿木に登って、無心に柿の実を食べていた。通報を受けたハンターが駆けつけたが、その無心に食べる姿を見て、「よほどお腹がすいていたのだろう」としばらく見守っていた。満足したのか、クマが木から下りてきたところをズドンと撃った。クマはたらふく食べることができてうれしかったのか、目に涙が潤んでいたという。

    クマの出没は県内では金沢や加賀地方を中心だが、その余波が能登地方にも及ぶ。まもなくキノコ採りのシーズンを迎えるが、出没警戒情報が出されるとクマの出没が比較的少ない能登地方に金沢や加賀地方のキノコ採りの人々がやってくる。能登の人々にとっては迷惑な話なのだが、能登の人たちが目指しているキノコはコノミタケと地元で呼ぶホウキダケの仲間だ。コノミタケと能登牛のすき焼きは季節の料理として人気がある。

   一方、金沢や加賀地方からやってくる人たちは、能登ではゾウゴケ(雑ゴケ)と呼ぶシバタケがお目当て。目指すものが異なるので、山でトラブルになったという話は余り聞いたことがない。ただ、マツタケがはえる山には縄を張って、立ち入りを警告する山主もいる。クマの話がいつの間にかキノコに逸れた。

⇒13日(火)午後・金沢の天気   はれ

★亡き父の「8月15日」

★亡き父の「8月15日」

   まったく個人的な話だ。平成14年(2002)8月に父が他界した。亡くなる前「一度仏印に連れて行ってほしい。空の上からでもいい」と病床で懇願された。仏印は戦時中の仏領インドシナ、つまりベトナムのことだ。父の所属した連隊はハノイ、サイゴンと転戦し、フランス軍と戦った。同時に多くの戦友を失った。父はベトナムに亡き戦友たちの慰霊に訪れたかったのだろう。「空の上からでもいい」とまで言われたが、病状は思わしくなかった。まもなく他界。父の最期を見守った兄弟3人にはその言葉が脳裏に焼き付いていた。

   父のベトナムへの想いをかなえようと2017年11月、父の遺影を持参して3泊4日のベトナムの旅に出かけた。父の想いは仏印という戦地で散った戦友たちへの供養だったので、いろいろ調べた。が、現地ベトナムでは日本兵の戦死者たちを祀る慰霊碑は見当たらない。ただ、太平洋戦後に捕虜地を逃れ、ベトナム独立のために戦った元日本兵たちの墓がハナム省モックバック村にあるとの情報を得て墓参することにした。ベトナムは社会主義の国だが仏教信仰が盛んだ。革命烈士の墓の近くの商店で線香を買い求め、近くに野ギクが自生していたので切って、元日本人の墓に線香と花を手向けた。

    サイゴンのラジオ局に向かった。敗戦で父たちの捕虜収容所があった場所がかつての「無線台敷地」、現在のラジオ局の周辺だった。父たちは周囲で畑をつくり、近くの川で魚を釣りながら、戦闘のない日常を楽しんでいたと話していた。ラジオ局の近くを流れるのはティ・ゲー川。生前父から見せてもらった捕虜生活の写真が数枚あり、その一枚がこの川で魚釣りをしている写真だった。兄弟でこの川の遊覧船に乗った=写真=。川面を走る風が頬をなでるようにして流れ、捕虜生活の様子を偲ぶことができた。

   旅の最後に、父たちの部隊が帰還の船に乗り込んだサイゴン港に行った。父からかつて聞いた話だが、乗船の際は一人一人が名前を大声で名乗りタラップを上った。地元民に危害を加えた者がいないか、民衆が見守る中、「首実験」が行われたのだ。父が所属した部隊では幸い「戦犯者」はいなかった。別の部隊では軍属として働いていた地元民にゴボウの煮つけを出したことがある炊事兵が、乗船の際に「あいつはオレらに木の根っこを食わせた」と地元民が叫び、イギリス軍によりタラップから引きづリ降ろされた。そう語る父の残念そうな顔を今でも覚えている。

   父たちがサイゴンの港を出たのは1946年5月2日だった。港を出て行く船を見ていると、父たちの帰還船を見送っているような不思議な感覚になった。まるでタイムマシーンに乗って、港に来たような。「無事日本に帰ってくれてありがとう」と心の中で叫んだ。父は同月13日に鹿児島港に上陸。能登半島に戻り結婚。1949年に兄が、私は54年に、そして弟は58年に生まれた。

⇒16日(火)夜・金沢の天気   くもり

★「災害級」大雨の被災現場から

★「災害級」大雨の被災現場から

   テレビやネットで最近よく「災害級大雨」という言葉が出て来る。気象庁では雨の降る量が1時間に80㍉を超える場合、予報用語として「非常に激しい雨」と説明して、「雨による大規模な災害の発生するおそれが強く、厳重な警戒が必要です」と注意を呼びかける。さらに、「記録的短時間大雨情報」という用語も、数年に一度、1時間雨量が100㍉の猛烈な雨を警戒するために使われる。

   今月4日、石川県の加賀地方は災害級の記録的な大雨に見舞われた=写真・上=。金沢地方気象台によると、4日午後8時30分時点の24時間降水量は白山河内で395㍉、白山白峰で274㍉、小松で251㍉とそれぞれ観測史上最大を記録した。金沢は132㍉だった。

   中でも被害が大きかった小松市では床上浸水220棟、床下浸水550棟、一部損壊や半壊が12棟など家屋被害が出た。きょう同市中海町を訪ねた。35度を超える炎天下の中で、重機が入りに道路を覆う土砂や流木の撤去作業が行われていた。また、各家々ではボランティアも入り、家の中の泥などの除去作業が行われていた=写真・中=。

   作業をしていた80歳の男性から話を聞くことができた。4日午後4時ごろには家の1階で胸あたりまで水につかった=写真・下=。「仏壇も水浸しになった。34年ぶりや」とあきらめ顔で語った。今回、集落が水につかったのは、梯(かけはし)川の支流の滓上(かすかみ)川の橋の欄干に次々と流木がひっかかり、まるでダムのようになって集落に水があふれたと話してくれた。

   酒店を営む80歳の女性もその日の午後4時ごろにひざのあたりまで水が来て、知人に助けを呼ぶと、消防隊のボートが救助に来てくれたと話した。店では、ビールなどを冷やす大型の冷蔵庫が倒れて使えない。「いまごろはお中元で忙しい時期なのに。店を続けるかどうか迷っている」と肩を落としていた。

   白山山系のふもとにある小松市の梯川や白山市の手取川ではこれまで洪水に見舞われた歴史がある。郷土史に詳しい人から聞いたことがある。「加賀の一向一揆は洪水がもたらした」と。洪水で田んぼが減収すると、加賀の農民は年貢が納められないと領主に直訴した。大雨に備えた排水溝などは百姓衆が造り、一向宗の門徒でもある共同体は「百姓の持ちたる国」とまで呼ばれた。

   話は横にずれた。中海町の現場で、腕章をした小松市の職員を見かけた。被災者から罹災証明書の申請が市役所に出され、その認定作業を行っている。外壁や屋内の被害の様子を写真で撮影していた。罹災証明書によって、公的支援を受けることができる。災害復旧に向けた動きも始まっていた。

⇒9日(火)夜・金沢の天気    はれ

☆最早の梅雨明け 麦わら帽子で熱中症を警戒

☆最早の梅雨明け 麦わら帽子で熱中症を警戒

   異例の猛暑が続いていると思っていたら、これも異例の「6月の梅雨明け」だ。気象庁公式サイト「梅雨入りと梅雨明け(速報値)」によると、北陸をはじめ、九州北部、四国、中国、近畿の各地できょう28日、「梅雨明けしたとみられる」と発表した。このまま確定すれば、梅雨入りは今月14日だったので、梅雨は2週間しかなかったことになる。

   北陸ではこれまで最も早い梅雨明けは2001年の7月2日だったので、6月中の梅雨が明けは記録的となる。梅雨明けの平年(2020年までの過去30年の平均)は7月23日なので、それより25日も早い。ちなみに去年は7月14日だった。

   きょうもうだるような暑さだった。午後3時過ぎごろに金沢34.4度と「猛暑日」並みの暑さだった。そして、気象庁と環境省はきょう午後5時、あす29日も予想最高気温が金沢で34度を上回るとして、石川県に「熱中症警戒アラート」を出して、注意を呼び掛けている。石川県では今シーズン初めての「アラート」。外出はなるべく避け、室内をエアコンなどで涼しい環境にして過ごすこと、水分補給を行うことなどを呼びかけている。

   異常気象とも言えるこの原因について、テレビ各社の気象予報士が解説している。まとめてみると、世界的に異常気象をもたらすとされる「ラニーニャ現象」が去年秋から太平洋で続いている。日本付近では梅雨前線が北に押し上げられたことによって、梅雨が短くなり、来月7月から9月にかけては猛暑がもたらされることも予想される。 

   気温の高い日が当面続きそうな予報なので、きょう市内の雑貨店で麦わら帽子を買ってきた=写真=。草むしりなど野外の作業を行うときには、猛暑の熱中症対策として欠かせないが、6月に麦わら帽子を購入するのはことしが初めてだ。

   平年の感覚で言えば、アヤメの花が咲くこの時節は梅雨のさなかで、晴耕雨読の穏やか日々でもあるが、「うっとうしい梅雨が短くてよかった」と思わなくもない。しかし、適度な雨量がないということは、水不足や渇水、干ばつによる農業への影響といった、次なるやっかいなステージが待ち受けているとも言える。

⇒28日(火)夜・金沢の天気     はれ