⇒ドキュメント回廊

★「芝生」の「雑草」に除草剤 是か非か

★「芝生」の「雑草」に除草剤 是か非か

   午後に晴れていれば、庭の草むしり(雑草取り)を日課としている。草取りをすると作業の成果が見えるだけに、気持ちがすっきりとする。しかし、いくら抜いても取ってもすっきりしない雑草がある。チドメグサだ。漢字では「血止め草」と書き、学名は「Hydrocotyle sibthorpioides」。すっきりしない理由は、数日するとまた茎を張りめぐらして生えてくるからだ。

   チドメグサはどこにも適応できる多年草で、匍匐茎(ほふくけい)といい、地中深くに茎を伸ばしながら繁殖する。茎を途中でちぎっても、残った茎から繁殖し、あっという間に広がってしまう。すさまじい繁殖力だ。こうなると、雑草とはいえ、敵意がむき出しになる。

   とくに、芝生に入ったチドメグサは許せない=写真=。まるで、「隠れ蓑」戦術だ。目立たないように勢力を拡大している。そこで戦いを挑む。まず、芝刈り機で刈り込む。チドメグサの葉や茎も刈ることができるが、問題は芝生の根にチドメグサの茎が絡まって離れようとしない。そこで、一本一本を無心に外すことになる。芝生専用の除草剤もあるのが、除草剤は使いたくないので手作業だ。

   先日この作業をしていて、ふと、いま霊感商法や献金強制で問題となっている旧統一教会と仕組みが似ていると思い浮かんだ。自民党など政治家を芝生に例えれば分かりやすい。そこに、選挙応援などと称して入り込み、いつの間にか自民党の国会議員全体の半数近くの179人が何らかの関係を持っていた。中には秘書となり、しっかりと根を張った者もいる。

   そこで自民党は今後、統一教会や関連団体と一切関係を持たないことを基本方針とし、党所属の国会議員との関係を点検して公表したが、それだけでは教団との関係性を絶ち切れない。そこで、立憲民主党など野党は今月20日、旧統一教会の問題に取り組む弁護士や2世信者を招いてヒアリングを実施し、宗教法人法に基づく解散命令の請求を文化庁に求めた。この解散命令を除草剤と言い換えれば、分かりやすい。

   しかし、文化庁宗務担当者は「安易な解散命令請求することはできない。確実に(裁判で)勝てるだろうという状況がなければ解散命令請求すべきでない」との見解を繰り返した。つまり、除草剤の効果が分からないのにまくべきではないとの主張だ。これに対し、野党側は「解散命令を出す十分な要件がある。裁判で勝つ可能性が極めて高い」と述べていた。除草剤をまいてみないことにはその効果は分からないでしょう、と。

   それぞれに一理はある。個人的には庭に除草剤をまきたくはないが、反社会的な問題を起こしている宗教法人に対して、政治サイドがきっぱりとけじめをつけない限り、また時間とともに茎を生やし芝生を覆うようになる。

⇒23日(金)午後・金沢の天気     あめ

★「小泉訪朝」から20年 「拉致1号事件」から45年

★「小泉訪朝」から20年 「拉致1号事件」から45年

   もう20年になる。2002年9月17日、当時の小泉総理が北朝鮮を訪れた。金正日総書記は小泉総理に対し、日本人拉致の事実を認めて謝罪した。拉致被害者5人の生存も確認され、帰国した。ただ、日本政府が認定している拉致被害者17人のうち、帰国できたのはこの5人だけだった。

   北朝鮮による拉致問題はいまだに解決していない。2021年11月、国連総会で人権問題を扱う第3委員会は北朝鮮に対してすべての拉致被害者の即時帰還を求める決議案を採択した。採択は17年連続となる。拉致被害者は日本だけではない。ヨーロッパではオランダ、フランス、イタリア、ルーマニアなど5ヵ国に及んでいる。アジアでは日本のほか韓国、タイ、マレーシア、シンガポール、マカオの6つの国・地域だ。   

   これまで何度か、日本人拉致「1号事件」の現場を訪れたことがある。能登半島の尖端近く、能登町宇出津(うしつ)の遠島山公園の下の入り江がその現場だ=写真・上=。1977年9月19日に事件は起きた。以下、当時事件を取材した元新聞記者のK氏から聞いた話だ。

   同年9月18日、東京都三鷹市の警備員だった久米裕さん(当時52歳)と在日朝鮮人の男(同37歳)はJR三鷹駅を出発。翌19日、現場と近い旅館「紫雲荘」に到着した。午後9時、2人は黒っぽい服装で宿を出た。怪しんだ旅館の経営者は警察に通報し、石川県警の捜査員らが現場に急行した。旅館から歩いて5分ほどの入り江で男は石をカチカチとたたいた。数人の工作員が船で姿を現し、久米さんを船に乗せて闇に消えた。男は外国人登録証の提示を拒否したとして、駆けつけた捜査員に逮捕された。旅館からはラジオや久米さんが持参していた警棒などが見つかった。

   しかし、当時は拉致事件としては扱われず、公にされなかった。その後、拉致は立て続けに起きた。同年10月21日に鳥取県では松本京子さん(同29歳)が自宅近くの編み物教室に向かったまま失踪(2号事件)。そして、11月15日、新潟県では下校途中だった横田めぐみさん(同13歳)が日本海に面した町から姿を消した(3号事件)=写真・下=。

   政府は拉致事件として認定していないが、1963年5月11日、能登半島の志賀町沖に刺し網漁に出た寺越昭二さん(当時36歳)、寺越外雄さん(同24歳)、寺越武志さん(同13歳)の3人が行方不明となり、後日、船だけが沖合いで発見された。1987年1月22日、外雄さんから姉に北朝鮮から手紙が届いて生存が分かった。2002年10月3日、武志さんは朝鮮労働党員として来日し、能登の生家で宿泊した。武志さんは「自分は拉致されたのではなく、北朝鮮の漁船に助けられた」と拉致疑惑を否定している。このケースは、北朝鮮の工作船と遭遇したため連れ去られた「遭遇拉致」と見られている。 

   1999年3月23日朝、能登半島東方沖の海上から不審な電波発信を自衛隊が傍受し、能登沖と佐渡島沖で2隻の「漁船」が発見された。北朝鮮の不審船による日本領海侵犯事件として、海上自衛隊と海上保安庁の巡視船など追跡したが、不審船は高速で逃げ切った。いまでも海上保安庁は北朝鮮の不審船による領海侵犯に目を光らせている。拉致事件は終わってはいない。

⇒17日(土)午後・金沢の天気    はれ

☆「旅するチョウ」アサギマダラが舞う季節

☆「旅するチョウ」アサギマダラが舞う季節

   「旅するチョウ」と称されるアサギマダラが能登や加賀の空に舞う季節がやってきた。このチョウは春は日本列島の北の方へ、秋には南の方へ。その距離は2000㌔にも及ぶと言われる。金沢大学に在職中はこの時季に学生や留学生といっしょに、能登半島で一番高い山である宝達山(637㍍)によく登った。山頂付近にはエサとなるフジバカマやホッコクアザミが繁っていて、東北方面からやってきたアサギマダラを間近に観察できた。

   地元でアサギマダラの保護活動を取り組んでいる人たちに同行してもらい、アサギマダラを捕獲し、マーキングして放す様子を見せてもらった。面白いのは捕獲の様子だ。右手で白いタオルを振り回すと、そのタオルをめがけてふわふわとまるでダンスを踊っているようにアサギマダラが飛んで来る。近寄って来たところを、左手に持ったネットで捕まえる。

   なぜアサギマダラは回るタオルに寄って来るのか。解説も面白かった。寄って来るタオルの色は白色と水色。白色と水色でも、回転しないタオルには寄って来ない。ゆっくり回すより、はやく回すと寄って来る。アサギマダラには回転する白や水色のタオルはどのように見えているのだろうか。吸蜜植物のホッコクアザミやフジバカマ、ヒヨドリバナなどお花畑が広がる光景のように見えるのかもしれない。

   ところで、「アサギマダラ」という名前はなぜついたのだろうか。ネットで調べると、「前ばねは黒、後ろばねは茶色の地色ではねの中央に透き通るような部分があります。この白い部分が新鮮な個体では青みがかっており、日本古来の色『あさぎ色』に見えることからアサギマダラの名前がついています」(「愛媛県総合科学博物館」公式サイト)との解説がある。

   アサギマダラの命は羽化後4、5ヵ月とされる。その間に2000㌔の旅をする。いま能登で蜜を吸って、これから小笠原諸島や与那国島、さらに台湾まで移動する。この時節は台風の季節でもある。向かい風をどう乗り切って南に向かうのか。そして、なぜ過酷な旅をするのか。人の人生というものを連想させる、不思議なチョウではある。

(※写真は、世界農業遺産「能登の里山里海」情報ポータル公式サイトより) 

⇒16日(金)夜・金沢の天気     はれ

☆ドングリ実らぬ秋の山 クマ出没警戒アラート

☆ドングリ実らぬ秋の山 クマ出没警戒アラート

   「クマが出るので注意を」。石川県はきのう、メディアなどを通じてツキノワグマ出没警戒情報を出した=写真・上=。県庁公式サイトによると、ことし1月から8月までに報告されたクマの目撃情報は208件で、過去最多のペースで増えている。クマ出没警戒情報が出されるのは15人の人身被害が出た2020年以来だ。

   ふだんは山奥にいるクマが人里に降りてくるのは、エサ不足が主な原因とされる。とくに冬眠前になるとクマも必死にエサを探し求めて人里に降りてくる。そのエサとなるブナの実のドングリが、県が調査した24ヵ所中16ヵ所で「大凶作」ないし「凶作」だった。このことから、秋の深まりとともにクマの出没頻度が高まると予測される。

   クマは場所を選ばない。これまで金沢市内のいろいろなところに出没している。金沢の野田山は加賀藩の歴代藩主、前田家の墓がある由緒ある墓苑だ。市街地とも近い。お供え物の果物を狙って出没する。なので、「お供え物は持ち帰ってください」との看板が随所にかかっている=写真・下=。

   クマは中心街にも出る。兼六園近くの金沢城公園で、たびたび出没していたことから、捕獲用のおりを仕掛けたところ体長1㍍のオスがかかったことがある(2014年9月)。周辺にはオフィスビルなどが立ち並ぶ。

   クマは柿が大好物だ。一度食べたら、また翌年も同じところに柿を食べにくると言われる。知人から聞いた話だ。痩せたクマが金沢市街地の民家の柿木に登って、無心に柿の実を食べていた。通報を受けたハンターが駆けつけたが、その無心に食べる姿を見て、「よほどお腹がすいていたのだろう」としばらく見守っていた。満足したのか、クマが木から下りてきたところをズドンと撃った。クマはたらふく食べることができてうれしかったのか、目に涙が潤んでいたという。

    クマの出没は県内では金沢や加賀地方を中心だが、その余波が能登地方にも及ぶ。まもなくキノコ採りのシーズンを迎えるが、出没警戒情報が出されるとクマの出没が比較的少ない能登地方に金沢や加賀地方のキノコ採りの人々がやってくる。能登の人々にとっては迷惑な話なのだが、能登の人たちが目指しているキノコはコノミタケと地元で呼ぶホウキダケの仲間だ。コノミタケと能登牛のすき焼きは季節の料理として人気がある。

   一方、金沢や加賀地方からやってくる人たちは、能登ではゾウゴケ(雑ゴケ)と呼ぶシバタケがお目当て。目指すものが異なるので、山でトラブルになったという話は余り聞いたことがない。ただ、マツタケがはえる山には縄を張って、立ち入りを警告する山主もいる。クマの話がいつの間にかキノコに逸れた。

⇒13日(火)午後・金沢の天気   はれ

★亡き父の「8月15日」

★亡き父の「8月15日」

   まったく個人的な話だ。平成14年(2002)8月に父が他界した。亡くなる前「一度仏印に連れて行ってほしい。空の上からでもいい」と病床で懇願された。仏印は戦時中の仏領インドシナ、つまりベトナムのことだ。父の所属した連隊はハノイ、サイゴンと転戦し、フランス軍と戦った。同時に多くの戦友を失った。父はベトナムに亡き戦友たちの慰霊に訪れたかったのだろう。「空の上からでもいい」とまで言われたが、病状は思わしくなかった。まもなく他界。父の最期を見守った兄弟3人にはその言葉が脳裏に焼き付いていた。

   父のベトナムへの想いをかなえようと2017年11月、父の遺影を持参して3泊4日のベトナムの旅に出かけた。父の想いは仏印という戦地で散った戦友たちへの供養だったので、いろいろ調べた。が、現地ベトナムでは日本兵の戦死者たちを祀る慰霊碑は見当たらない。ただ、太平洋戦後に捕虜地を逃れ、ベトナム独立のために戦った元日本兵たちの墓がハナム省モックバック村にあるとの情報を得て墓参することにした。ベトナムは社会主義の国だが仏教信仰が盛んだ。革命烈士の墓の近くの商店で線香を買い求め、近くに野ギクが自生していたので切って、元日本人の墓に線香と花を手向けた。

    サイゴンのラジオ局に向かった。敗戦で父たちの捕虜収容所があった場所がかつての「無線台敷地」、現在のラジオ局の周辺だった。父たちは周囲で畑をつくり、近くの川で魚を釣りながら、戦闘のない日常を楽しんでいたと話していた。ラジオ局の近くを流れるのはティ・ゲー川。生前父から見せてもらった捕虜生活の写真が数枚あり、その一枚がこの川で魚釣りをしている写真だった。兄弟でこの川の遊覧船に乗った=写真=。川面を走る風が頬をなでるようにして流れ、捕虜生活の様子を偲ぶことができた。

   旅の最後に、父たちの部隊が帰還の船に乗り込んだサイゴン港に行った。父からかつて聞いた話だが、乗船の際は一人一人が名前を大声で名乗りタラップを上った。地元民に危害を加えた者がいないか、民衆が見守る中、「首実験」が行われたのだ。父が所属した部隊では幸い「戦犯者」はいなかった。別の部隊では軍属として働いていた地元民にゴボウの煮つけを出したことがある炊事兵が、乗船の際に「あいつはオレらに木の根っこを食わせた」と地元民が叫び、イギリス軍によりタラップから引きづリ降ろされた。そう語る父の残念そうな顔を今でも覚えている。

   父たちがサイゴンの港を出たのは1946年5月2日だった。港を出て行く船を見ていると、父たちの帰還船を見送っているような不思議な感覚になった。まるでタイムマシーンに乗って、港に来たような。「無事日本に帰ってくれてありがとう」と心の中で叫んだ。父は同月13日に鹿児島港に上陸。能登半島に戻り結婚。1949年に兄が、私は54年に、そして弟は58年に生まれた。

⇒16日(火)夜・金沢の天気   くもり

★「災害級」大雨の被災現場から

★「災害級」大雨の被災現場から

   テレビやネットで最近よく「災害級大雨」という言葉が出て来る。気象庁では雨の降る量が1時間に80㍉を超える場合、予報用語として「非常に激しい雨」と説明して、「雨による大規模な災害の発生するおそれが強く、厳重な警戒が必要です」と注意を呼びかける。さらに、「記録的短時間大雨情報」という用語も、数年に一度、1時間雨量が100㍉の猛烈な雨を警戒するために使われる。

   今月4日、石川県の加賀地方は災害級の記録的な大雨に見舞われた=写真・上=。金沢地方気象台によると、4日午後8時30分時点の24時間降水量は白山河内で395㍉、白山白峰で274㍉、小松で251㍉とそれぞれ観測史上最大を記録した。金沢は132㍉だった。

   中でも被害が大きかった小松市では床上浸水220棟、床下浸水550棟、一部損壊や半壊が12棟など家屋被害が出た。きょう同市中海町を訪ねた。35度を超える炎天下の中で、重機が入りに道路を覆う土砂や流木の撤去作業が行われていた。また、各家々ではボランティアも入り、家の中の泥などの除去作業が行われていた=写真・中=。

   作業をしていた80歳の男性から話を聞くことができた。4日午後4時ごろには家の1階で胸あたりまで水につかった=写真・下=。「仏壇も水浸しになった。34年ぶりや」とあきらめ顔で語った。今回、集落が水につかったのは、梯(かけはし)川の支流の滓上(かすかみ)川の橋の欄干に次々と流木がひっかかり、まるでダムのようになって集落に水があふれたと話してくれた。

   酒店を営む80歳の女性もその日の午後4時ごろにひざのあたりまで水が来て、知人に助けを呼ぶと、消防隊のボートが救助に来てくれたと話した。店では、ビールなどを冷やす大型の冷蔵庫が倒れて使えない。「いまごろはお中元で忙しい時期なのに。店を続けるかどうか迷っている」と肩を落としていた。

   白山山系のふもとにある小松市の梯川や白山市の手取川ではこれまで洪水に見舞われた歴史がある。郷土史に詳しい人から聞いたことがある。「加賀の一向一揆は洪水がもたらした」と。洪水で田んぼが減収すると、加賀の農民は年貢が納められないと領主に直訴した。大雨に備えた排水溝などは百姓衆が造り、一向宗の門徒でもある共同体は「百姓の持ちたる国」とまで呼ばれた。

   話は横にずれた。中海町の現場で、腕章をした小松市の職員を見かけた。被災者から罹災証明書の申請が市役所に出され、その認定作業を行っている。外壁や屋内の被害の様子を写真で撮影していた。罹災証明書によって、公的支援を受けることができる。災害復旧に向けた動きも始まっていた。

⇒9日(火)夜・金沢の天気    はれ

☆最早の梅雨明け 麦わら帽子で熱中症を警戒

☆最早の梅雨明け 麦わら帽子で熱中症を警戒

   異例の猛暑が続いていると思っていたら、これも異例の「6月の梅雨明け」だ。気象庁公式サイト「梅雨入りと梅雨明け(速報値)」によると、北陸をはじめ、九州北部、四国、中国、近畿の各地できょう28日、「梅雨明けしたとみられる」と発表した。このまま確定すれば、梅雨入りは今月14日だったので、梅雨は2週間しかなかったことになる。

   北陸ではこれまで最も早い梅雨明けは2001年の7月2日だったので、6月中の梅雨が明けは記録的となる。梅雨明けの平年(2020年までの過去30年の平均)は7月23日なので、それより25日も早い。ちなみに去年は7月14日だった。

   きょうもうだるような暑さだった。午後3時過ぎごろに金沢34.4度と「猛暑日」並みの暑さだった。そして、気象庁と環境省はきょう午後5時、あす29日も予想最高気温が金沢で34度を上回るとして、石川県に「熱中症警戒アラート」を出して、注意を呼び掛けている。石川県では今シーズン初めての「アラート」。外出はなるべく避け、室内をエアコンなどで涼しい環境にして過ごすこと、水分補給を行うことなどを呼びかけている。

   異常気象とも言えるこの原因について、テレビ各社の気象予報士が解説している。まとめてみると、世界的に異常気象をもたらすとされる「ラニーニャ現象」が去年秋から太平洋で続いている。日本付近では梅雨前線が北に押し上げられたことによって、梅雨が短くなり、来月7月から9月にかけては猛暑がもたらされることも予想される。 

   気温の高い日が当面続きそうな予報なので、きょう市内の雑貨店で麦わら帽子を買ってきた=写真=。草むしりなど野外の作業を行うときには、猛暑の熱中症対策として欠かせないが、6月に麦わら帽子を購入するのはことしが初めてだ。

   平年の感覚で言えば、アヤメの花が咲くこの時節は梅雨のさなかで、晴耕雨読の穏やか日々でもあるが、「うっとうしい梅雨が短くてよかった」と思わなくもない。しかし、適度な雨量がないということは、水不足や渇水、干ばつによる農業への影響といった、次なるやっかいなステージが待ち受けているとも言える。

⇒28日(火)夜・金沢の天気     はれ

☆気候変動なのか、高騰するタマネギからの警告

☆気候変動なのか、高騰するタマネギからの警告

   家庭菜園が趣味の知人からタマネギをいただいた。丁寧にも皮付きのままビニール紐で2個ずつくくってある。さっそく、ガレージの軒下に吊るした=写真=。タマネギは風通しのよい場所に吊るすことで、乾燥させて保存性を高めることができると言われている。この時節、農村地区で竹ざをにずらりと吊るされたタマネギの様子を見かけるが、ちょっとした風物詩ではないだろうか。

   タマネギはサラダをはじめステーキやカレーなどさまざまな料理に使われる「万能野菜」でもある。ただ、このところ気になるのが、タマネギの価格高騰だ。ニュースでもよく取り上げられている。タマネギといえば、北海道産というイメージだが、その北海道では2021年、雨が少なく記録的な猛暑となった影響で不作だった。 出荷量では全国のシェアの60%以上を占める一大産地だけに影響が大きい。

    そこで農林水産省の食品価格動向調査(野菜)をチェックすると、最新の調査結果(6月13-15日)でタマネギの全国平均価格が1㌔換算で495円と平年比で203%となっている。この調査は各都道府県で10店舗(全国470店舗)で行い、価格は特売価格を含まず、消費税込みのもの、平年比は最近5ヵ年の平均価格と比べたもの。調査はタマネギのほかキャベツ、ニンジン、バレイショなど8品目。この中でタマネギの平年比203%はダントツだ。去年12月に150%、ことし5月にはピークの230%に達し、それ以降でようやく下げに転じている。が、ことし4月以降の低温や多雨で全国の生産地で出荷量が減少していると、この調査では分析している。

   きょう近所のスーパー2軒の野菜売り場をのぞいてみた。棚には北海道産はなかった。兵庫産が1個150円、愛知産は1個130円ほど(税込み)。売り場もいつものタマネギのコーナーより狭く感じた。

   ロシアによるウクライナへの侵攻や円安などの影響で、ガソリンや小麦などの価格が上昇する中、比較的安定しているのは野菜類だ。しかし、前述のような気候変動によって、野菜類も大きく揺らいでくる可能性もある。その事例がタマネギなのだろう。そしてこれは、タマネギからの警告ではないだろうか。

⇒26日(日)夜・金沢の天気     はれ

☆能登にコウノトリの巣を訪ねて

☆能登にコウノトリの巣を訪ねて

   このブログ(6月11日付)で、能登半島の志賀町で国の特別天然記念物のコウノトリのつがいからひな3羽が誕生したとのメディア各社のニュースを紹介した。石川県内でのひなの誕生は1971年に日本で野生のコウノトリが絶滅して以来初めてのことで、地元でも話題を呼んでいる。ぜひコウノトリのひな鳥をこの目で見てみたいと思い、きのう現地を訪ねた。

   ひなを育てているつがいは足環のナンバーから、兵庫県豊岡市で生まれたオスと、福井県越前市生まれのメスで、ことし4月中旬に山の中の電柱の上に巣をつくり、5月下旬には親鳥が3羽のひなに餌を与える様子が確認された。ひなが順調に育てば8月上旬ごろに巣立つという。ひなが誕生して1ヵ月ほど経っているのでそれなりに成長しているはず。そして、親鳥がどのようにして餌を与えているのか、興味津々で午後4時ごろ同町に入った。

   町役場ではカメラを設置して定点観測を行っているものの、ひな鳥の保護の観点から具体的な場所については問い合わせがあっても教えていないと記事で記されていた。そこで、巣の場所を見たことがある現地の人を探し出すことにした。

   同町の富来(とぎ)地区というおおざっぱ場所は記事にも書かれてあったので、知り合いを通じて富来地区に住む人を紹介してもらった。その人はコウノトリが空を飛んでいる姿を見たことはあるものの、巣の場所は知らなかった。さらに、その人から鳥に詳しいという人を紹介してもらった。その人もコウノトリがよく餌をついばんでいる田んぼは知っていたものの、巣の場所までは知らなかった。さらに、その人を介して訪ねた人からようやく詳しい場所を聞くことができた。現場に着いたときはもう午後5時30分ごろだった。

   巣の場所は山中にあるものの、見晴らしの良い場所だった。周囲には電柱が何本か立っていて、コウノトリの巣はすぐ確認できた。下から見上げて確認できたひなは2羽だった=写真=。もう1羽は巣にこもっているのだろうか。ひな鳥とはいえ、かなり成長していて親鳥かと一瞬見間違えるほどだった。

   親鳥がエサを運んでくるのを待ったが、現れなかった。親鳥が巣を空ける時間が長いということは、それだけ餌が大量に必要なのだろうか。この大きさになったらカラスの攻撃にも耐えられるからなのか。これからくちばしも黒くなり、羽ばたきの練習も始めるだろう。そして、くちばしを激しく打ち鳴らすクラッタリングも始め、大人へとさらに成長していく。

   そんなことを思いめぐらしながら親鳥が来るのを待ったが、天気はくもり空で薄暗くなってきたので現地を引き上げた。これから能登で羽ばたくであろうコウノトリたちをこの目で確認できた。60分ほどの観察だった。

⇒24日(金)夕方・金沢の天気   くもり時々はれ

☆群発地震で古陶「珠洲焼」が転がる無残

☆群発地震で古陶「珠洲焼」が転がる無残

   震度6弱の揺れなど群発地震が続く能登半島・珠洲市のニュースをテレビで視聴して、地域工芸のシンボルである珠洲焼に相当な被害が出ているのではと察している。震度5強の地震があった日、NHKニュース(20日付)では、珠洲市立珠洲焼資料館の展示作品50点のうち半分ほどが倒れ、ガラスケース内にあって落下は免れたものの、中には破損したものもあったと報じられた=写真・上=。

  珠洲焼の古陶の多くは民家の土蔵に眠っている。家宝として、大切に保管されている。多くはしっかりとした棚の下段に並べられている。上段に置くと、誤って手が触れて落ちる可能性があるのであえて下段に置いている。ところが、震度6弱、震度5強と連続すると棚から転がり落ちる。それは、珠洲焼資料館を見れば一目瞭然だ。底に固定する下支えを入れたとしても、ヨコ揺れタテ揺れには耐えられないのだろう。民家の蔵の中では相当数の作品が被害を受けていることは想像に難くない。

   珠洲焼の魅力に見入ったのは、2007年暮れごろだった。珠洲市のあるお宅に招かれ座敷に上がると、現代作家の手による珠洲焼の花入れに一輪の寒ツバキが活けてあった。黒い器と赤い花のコントラスに存在感があり、しばし、見とれてしまった=写真・中=。そういえば、玄関にもさりげなく珠洲焼の一輪挿しがあった。「お宅にお茶やお花を嗜(たしな)まれる方がいらっしゃるのですか」と無礼を承知で尋ねると、「いやおりません。先代からこんな感じで自己流で活けております」と主(あるじ)は笑った。

   そして、珠洲焼の古陶が眠っているという土蔵に案内された。還元炎でいぶされ、艶やかになるまで焼き締められた黒色の壺は、荒々しい能登の気候風土の中でどこか厳粛さを感じさせる。それでいて、自己主張せずにどっしりとした能登の家構えに合う。中でも、主が大切にしていると語っていたのは、「海揚がり」の壺だった。珠洲は室町時代にかけて中世日本を代表する焼き物の産地だったが、各地へ船で運ぶ際に船が難破。海底に眠っていた壺やかめが漁船の底引き網に引っ掛かり、古陶として揚がってくることがある。壺にへばりついた貝類がそのままになっていて、時空を超えた作品に仕上がっている。この家の主は、先祖が明治時代に引き揚げた家宝だと、うれしそうに話していたのを覚えている。

   先に述べたように、各民家の土蔵などに仕舞われた珠洲焼の古陶は落下して相当の破損を被っているのではないか。さらに、珠洲焼の現代作家の人たちが創って展示している作品や、焼き上げ窯にしても損傷を負っているに違いない。今回の震災はさまざまな分野の人々に相当なダメージをもたらしているのだろう。(※写真・下は海揚がりの珠洲焼=「奥能登国際芸術祭2020+」公式ホームページより、文中の海揚がりの壺とは別の物)

⇒22日(水)午後・金沢の天気    くもり