⇒ドキュメント回廊

★「1・17」から28年 地震被災地を訪ね何思う

★「1・17」から28年 地震被災地を訪ね何思う

   ちょうど28年前の1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災は震度7だった。金沢の自宅で睡眠中だったが、グラグラと揺れたので飛び起きた。テレビをつけると大変なことになっていた。当時民放テレビ局の報道デスクだったので、着の身着のまま急いで出勤した。系列局のABC朝日放送(大阪)に記者とカメラマンの2人を応援に出すことを決め、応援チームは社有車で現地にかけつけた。取材チームの無事を祈り見送ったものの、日本の安全神話が崩壊したと無念さを感じたことを覚えている。金沢は震度3だった。

   そのことが身近で現実になったのは12年後、2007年3月25日午前9時41分に起きた能登半島地震だった。マグニチュード6.9、震度6強の揺れで、輪島市や七尾市、輪島市、穴水町で家屋2400棟余りが全半壊し、死者1人、重軽傷者は330人だった。当時は金沢大学に転職していたので、大学の有志と被災調査に入り、その後、学生たちを連れて被害が大きかった輪島市門前地区=写真・上=を中心に高齢者世帯を訪れ、散乱する家屋内の片づけのボランティアに入った。

   この能登半島地震がきっかけで全国の被災地を訪れ、取材をするようなった。同じ年の7月16日、新潟県中越沖地震(震度6強)が発生した。取材の目的は、柏崎市のコミュニティー放送「FMピッカラ」のスタッフに話を聞くことだった。通常のピッカラの生放送は平日およそ9時間だが、災害発生時から24時間の生放送に切り替え、41日間続けた。同市では75ヵ所、およそ6000人が避難所生活を余儀なくされた。このため、被災者が当面最も必要とする炊き出し時刻、物資の支給先、仮設の風呂の場所、開店店舗の情報などライフライン情報を中心に4人のパーソナリティーが交代で流し続けた。そして、「聞き慣れた声が被災者に安心感を与える」とのコンセンプトで続けた。被災地で地域メディアの果たす役割について考えさせられた。

   2011年3月11日の東日本大震災の後、気仙沼市を調査取材に訪れた。当時、気仙沼の街には海水の饐(す)えたような、腐海の匂いが立ち込めていた。ガレキは路肩に整理されていたので歩くことはできた。岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船(330㌧)があった。津波のすさまじさを思い知らされた。

   気仙沼は漁師町。市役所にほど近い公園では、数多くの大漁旗を掲げた慰霊祭が営まれていた。津波で漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていた。その大漁旗を市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭で掲げた。その旗には「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものが数枚あった=写真・中=。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。「午後2時46分」に黙とうが始まり、一瞬の静けさの中で祈る人々、すすり泣く人々の姿は今も忘れられない。

   2016年4月16日の熊本地震。震度7の揺れに2度も見舞われ、震度4以上の余震が115回も起きた。震災から半年後に熊本市と隣接の益城町の被災現場を訪ねた。かろうじて「一本足の石垣」で支えられた熊本城の「飯田丸五階櫓(やぐら)」を見に行った。ところが、石垣が崩れるなどの恐れから城の大部分は立ち入り禁止区域になっていて、見学することはできなかった。櫓の重さは35㌧で、震災後しばらくはその半分の重量を一本足の石垣が支えていた=写真・下、熊本市役所公式ホームページより=。まさに「奇跡の一本石垣」だった。熊本城の周囲をぐるりと一周したが、飯田丸五階櫓だけでなく、あちこちの石垣が崩れ、櫓がいまにも崩れそうになっていた。

   崩れた10万個にもおよぶ石垣を元に戻す作業は時間がかかる。飯田丸五階櫓もようやく石垣部分の積み直しが終わったものの、復旧工事は2037年度まで続く(熊本市役所公式ホームページ)。名城の復旧には時間がかかる。

⇒17日(火)夜・金沢の天気    くもり時々あめ

☆コロナ禍で丸3年 「ブラボー」まだ叫べない

☆コロナ禍で丸3年 「ブラボー」まだ叫べない

   新型コロナナウイルスの感染拡大は第8波に見舞われている。その起点となる最初の感染が確認されたのが2020年1月15日だったので、ちょうど3年たったことになる。この間、マスク着用やソーシャルディスタンスなどは日常の自然の振る舞いのようにもなった。そして、さまざまな変化にも気づく。

   先日、金沢市にある県立音楽堂で開催されたコンサートに出かけた。新型コロナウイルスの感染を避ける観客席の制限はとくになかったものの、一点だけ注意のアナウンスがあった。「ブラボーの声掛けは控えてください」。素晴らしい演奏にブラボーが飛べば客席の気分がさらに盛り上がるものだが、確かにブラボーを叫べば前方につばが飛ぶだろう。今後、コロナ禍が沈静化しても、ブラボーは復活しないかもしれない。

   もう一つ。茶道の茶会で濃茶は茶碗の回し飲みをする「吸い茶」が流儀だったが、コロナ禍では各服点(かくふくだて)と呼ばれる、一人が一碗で飲む流儀になっている。この各服点は、百年前の大正期にスペイン風邪と呼ばれるインフルエンザが日本で大流行したときに導入されたが、風邪が治まって吸い茶が復活していた。コロナ禍で人々の衛生観念はかなり敏感になった。コロナ禍が終了したとして、回し飲みの流儀にすんなりと戻るのか。

   話は海外に飛ぶ。いま流行のオミクロン株は世界で派生型の種類が多いとされる。メディアが連日取り上げている、中国のゼロコロナ政策解除の爆発的な感染拡大、さらに、春節の休暇(今月21-27日)による中国人の海外渡航の問題。中国国内ではすでに集団免疫を獲得していて、渡航を許可しているのかもしれない。ところが、中国政府が感染者数や死亡者数をあいまいにしたことから、他国は疑心暗鬼に陥っている。

   逆なことを考えると、中国人が国内で集団免疫を獲得していたとしても、海外の旅先で別の変異株に感染すると、帰国後にそれが新たな感染拡大の要因になるのではないか。人とコロナウイルスのいたちごっこが繰り返される。もちろん、中国だけの話ではない。コロナ禍の収束までには相当な時間がかかりそうだ。

⇒16日(月)夜・金沢の天気   くもり

☆能登の火様 受け継ぎ広げる物語

☆能登の火様 受け継ぎ広げる物語

   かつて民家の朝の始まりは、囲炉裏の灰の中から種火を出し、薪や炭で火を起こすことだった。能登では、そうした先祖代々からの火のつなぎのことを「火様(ひさま)」と言い、就寝前には灰を被せて囲炉裏に向って合掌する。半世紀前までは能登の農家などでよく見られた光景だったが、灯油やガス、電気などの熱源の普及で、囲炉裏そのものが見られなくなった。火様の風習も風前の灯となった。

   その火様を今でも守っているお宅があることを聞いたのは10年前のこと。2014年8月、教えていただいた方に連れられてお宅を訪れた。能登半島の中ほどにある七尾市中島町河内の集落。かつて林業が盛んだった集落で、里山の風景が広がる。訪れたお宅の居間の大きな囲炉裏には、300年余り受け継がれてきたという火様があった。囲炉裏の真ん中に炭火があり、その一部が赤く燃えていた=写真=。訪れたのは夕方だったので、これから灰を被せるところだった。この集落でも火様を守っているのはこの一軒だけになったとのことだった。このお宅の火様を守っているのは、一人暮らしのお年寄りだった。

   案内いただいた方の妻の実家がこのお宅の隣にあり、それがご縁で火様のことを知ったとの話だった。その方から火様の第二報を届いたのは2016年秋ごろだった。「火様をお預かりすることになりました」。火様を守っていたお年寄りが入院することになり、最後の火様が消えることになるので、火様を自身が継承するとのことだった。

   その方は現在、埼玉県に住んでいる。どうのように火様を守るのかと尋ねると、預かった火様を囲炉裏ではなく、2週間燃え続けるオイルランプに灯し、それをウエッブカメラで埼玉から見守る。2週間ごとに七尾市を訪れ、オイルを補給する。万一に備えて、オイルランプは2つ灯している。「伝統の灯は消せない」と話しておられた。

   ともとも外科医で定年退職後に空き家となっていた妻の実家の活用を考え、能登と埼玉を行き来するようになった。能登の古建築がイスラム教徒(ムスリム)の宿泊場所に適していることに気がついて、家を修築してムスリムの宿泊施設を開設した。能登の家に特徴的な大広間は礼拝の場所となっている。「過疎化の病(やまい)に陥った能登を治したい」。能登に世界の人々を呼び込むことで、地域を活性化したいとの思いだった。

   火様の第三報が届いたのは去年の9月だった。伝統の灯を消せないと守ってきたが、火様を受け継ぐ人を広げようとの思いから、茶道用の茶炭を焼いている珠洲市の製炭業の職人、そして金沢市の薪ストーブ会社に火様の話を持ち込んだところ、快く受けてもらい、両者を火様の受け継ぎ手とする認定式を行い、火種を分けたという。さらに、一般社団法人「能登火様の守人」を立ち上げたとのことだった。「守りから広げるに発想を変えました」と。

   その方から年賀状をいただいた。「少しづつ、肩の荷を軽くしてまいりたいと思います」。ことし74歳になる。一人で守ることの心の重さを感じていたのだろう。守人を広げることで「肩の荷」を軽くした思いなのだろう。伝統的な風習を現代風に解釈することで受け継ぎ広げる。火様の物語だ。賀状を読んで思わず、「お疲れさまでした」と拍手をした。

⇒10日(火)午前・金沢の天気    くもり

★團十郎の襲名酒の誉 農口杜氏の人生に酔う

★團十郎の襲名酒の誉 農口杜氏の人生に酔う

   今月で御年90歳、顔がつやつやしている。「酒蔵の階段の昇り降りが健康の素」と笑う。石川県小松市の造り酒屋で杜氏として蔵人たちを指導する農口尚彦さんは国が卓越した技能者と選定している「現代の名工」であり、日本酒ファンからは「酒造りの神様」と呼ばれる。「のど越しのキレと含み香、果実味がある軽やかな酒。そんな酒は和食はもとより洋食に合う。食中酒やね」。理路整然とした言葉運びに圧倒される。農口杜氏の山廃仕込み無濾過生原酒にはすでに銀座、パリ、ニューヨークなど世界中にファンがいる。

   きのう醸造所「農口尚彦研究所」を訪れ、杜氏が特別に造った酒を楽しませてもらった。そのブランド名は「十三代目市川團十郎白猿襲名披露 特別Ver」。歌舞伎俳優の市川海老蔵改め十三代市川團十郎白猿の襲名を記念した公式の日本酒だ。特別バージョンというのも、4年前から造りためた未発売の酒をブレンドしたもの。これまでの日本酒のイメージを超えた華やかな味わいだ。農口杜氏から「ブルゴーニュワインのロマネ・コンティをイメージして造った」と説明があった。低温で熟成させるため新鮮な香りがする。500本限定の特別Ver。御年90歳の杜氏のさらなる挑戦でもある。

   それにしても、十三代目市川團十郎白猿と結びつく、どのような縁があったのか。小松市の安宅海岸は「安宅の関」で知られる。源義経が都落ちして平泉に向かうとき、武蔵坊弁慶が杖で義経を叩いて検問をくぐり抜けたというこの地の伝説は、十三代目市川團十郎白猿のお家芸の歌舞伎十八番『勧進帳』として演じられる。来年3月には、襲名披露の巡業が小松市の「こまつ芸術劇うらら」である。うららは襲名を機に「小松市團十郎芸術劇場うらら」に改称されることも決まっている。こうした縁から襲名を記念した公式の日本酒を農口杜氏が造ることになった。

   先日、知り合いから写真を送ってもらった。東京の歌舞伎座の前では農口尚彦研究所の酒樽が積まれている=写真=。農口の「の」の字がデザインされた酒樽。「歴史がある市川家の襲名記念の酒を造れるのは光栄です。さらに、世界に通じる酒を造りたいと思いこの歳になって頑張っております」。まさに、酒造りのエンドレスな人生。ちなみに、「研究所」の名称は、この農口杜氏の技と発想を若い人たちに学んでもらいたいとの思いから付けられたそうだ。

⇒4日(日)午前・金沢の天気   あめ

★どぶろくを飲み、カニを味わう 「時代食感」の楽しみ

★どぶろくを飲み、カニを味わう 「時代食感」の楽しみ

   庶民にとってカニの季節が訪れた。きのう午後、近くのスーパーに行くと、地元産のズワイガニがずらりと並んでいた。雄のズワイガニ(加能ガニ)はゆでたものをカットしたもので大パックで5800円、中パックで3800円の値段だった。今月6日に漁が解禁となり、上旬はご祝儀相場もあり、大パックは9000円ほどだったが、下旬に入って5000円台に。雌の香箱(こうばこ)ガニは大きめのもので1500円ほどだったが、いまは800から900円ほどで値が落ち着いている。今季で香箱ガニは2、3度食したが、今回は思い切って加能ガニに手を伸ばした。

   例年、カニは地酒の辛口吟醸酒で味わう。今回はちょっと趣向を変えて、能登産の「どぶろく」で味わうことにした。能登半島の中ほどに位置する中能登町には、連綿とどぶろくを造り続けている神社が3社ある。五穀豊穣を祈願するに供えるお神酒で、お下がりとして氏子に振る舞われる。同町ではこの伝統を活かして2014年に「どぶろく特区」の認定を受け、いまでは農家レストランなど営む農業者が税務署の製造免許を得て醸造している。

   蒸した酒米に麹(こうじ)、水を混ぜ、熟成するのを待つ。ろ過はしないため白く濁り、「濁り酒」とも呼ばれる。もともと、どぶろくは各家々で造る庶民の味だった。明治政府は国家財源の柱の一つとして酒造税を定め、日清や日露といった戦争のたびに増税を繰り返し、並行してどぶろくの自家醸造を禁止した。

   そして、ズワイガニもかつては庶民も味だった。能登半島で生まれた自身の記憶だが、子どものころにコウバコガニをおやつ代わりに食べ、カニ足をパキパキと折って身を吸い出して食べる「カニ食い競争」に興じたものだ。そのころ、乱獲などで漁獲量が減り、石川県から島根県の漁業者らが昭和39年(1964)に「日本海ズワイガニ採捕に関する協定」を結び、漁期や漁獲量を取り決めた。そのころから、カニは高嶺の花となっていく。

   今回ふと、いにしえの人々のように、どぶろくを飲みながらカニを食べるとどのような風味になるのだろうかと思い立った。そこで、中能登町へ行き、本場のどぶろくを手に入れ、今季初の加能ガニに挑んだ。ぴっちりと締まったカニの身を、とろりとしたどぶろくが包み込むような食感で、実にのど越しがいい。さらに、カニみそ(内臓)としっくりなじみ、満足度が高い。どぶろくとカニを味わっていた昔の人々と時代を超えて食感が共有できたひと時でもあった。

⇒27日(日)午後・金沢の天気    はれ

★コロナワクチン接種5回目 迷った末に

★コロナワクチン接種5回目 迷った末に

   おそらく迷っている人が相当数いるのではないか。先日郵送で金沢市役所の新型コロナワクチン接種推進室から5回目のワクチン接種の案内が届いた。接種費用はこれまでと同様に無料であり、ありがたいのだが、接種すべきかどうか。

   じつは、8月9日に4回目のワクチン接種を市内の病院で受けた。去年の2回(6月、7月)はファイザーで、3回目(ことし3月)と4回目はモデルナだった。3回目とのときは、接種した右腕の付け根の部分に痛みが1週間ほど残った。4回目では右腕の付け根だけでなく、左腕のほぼ同じ個所にもじんわりとした痛みが続いた。そして、恐怖を感じたのは2日目の午後、小刻みに体が震える症状が出た。しばらくキードボードを打つことができなかった。数分して震えが治まった。

   それ以来、「アナフィラキシー症状だったのか」と気になっている。この症状は、薬や食物が身体に入ってから起きることのあるアレルギー反応で、じんま疹などの皮膚症状、腹痛や嘔吐などの消化器症状、息苦しさなどの呼吸器症状が急に起こる(厚労省公式サイト「新型コロナワクチンQ&A」)。じんま疹などの皮膚症状はなく、震えだったので呼吸器症状ではなかったか、と。(※イラストは厚労省公式サイトより)

   後日、知人にこの症状を話すと、「接種後にじんま疹などの副反応が出てしばらく病院で待機したという話は聞いたことがあるが、翌日の震えは初めて聞いた」とのことだった。病院に行くことを勧められたが、その後は症状がないので行ってはいない。ネットで調べると、アナフィラキシーの症状は実にさまざまなケースがあり、中でも恐ろしいのは気道閉塞(喉の奥の空気の通り道が塞がれること)や不整脈、ショックなどで、死に至る事例もあるという。

   以下は憶測だが、副反応を一度でも経験した人は次回の接種をためらうのではないか。これは全国的な傾向のようだが、たとえば石川県内のワクチン接種率は、1回目終了者は82.4%、2回目の終了者は81.5%、3回目の終了者は67.7%、そして4回目終了者は38.6%と激減する。11月に始まった5回目の終了者は3.9%に過ぎない(NHK公式サイト「ワクチン接種 日本国内の状況は」より)。

   アナフィラキシーなどの副反応を覚悟して接種するか、あの経験をもう二度としたくないと辞退するか。冒頭で述べたように迷っている人は多いのではないか。自身は万が一のことを考え、控えることにした。

⇒22日(火)午前・金沢の天気    くもり

★霜降のころ 一滴の茶

★霜降のころ 一滴の茶

   きょうは二十四節季の「霜降」にあたる。朝夕が冷え込み、霜が降りるころだ。霜降の次は「立冬」(11月7日)。季節は冬に移ろいでいる。とは言え、きょう午後1時ごろの金沢の気温は23度だった。その後、強い雨が一時的に降って、夕方は17度ほどに。

   きのう金沢21世紀美術館の茶室「松涛庵」で催された「小川流煎茶会」に席入りした。今月8日にも「金沢城・兼六園大茶会」が松涛庵であり、表千家流の抹茶を楽しんだ。それぞれ趣きのある場の雰囲気にひたりながら茶の湯を楽しませてもらった。

   煎茶を味わって感じることは「一滴の哲学」ということだろうか。小さな茶碗にほんの僅か、ほぼ一滴の煎茶が出される。それを2回味わい、その後に菓子をいただき、最後に白湯を飲み、茶席が終わる。抹茶とはまったく異なる流儀だ。

   そもそも茶碗に一滴、その意味は。亭主(主催者)の説明は示唆に富んでいた。小川流煎茶の開祖は幕末に京都で御殿医を勤めていた。茶とは何かを問い、「茶の真味」を突き詰めていく。そして、明治維新の最中にまったく無駄のない、「滴々の茶」という発想にたどり着く。「茶は渇きを止むるに非ず、飲むに非ず、喫するなり。ただ湯水の如く呑飲で、いかでか茶味を知ることを得んや」(小川可進著『喫茶弁』)。茶碗に注がれる滴の茶の味にこそ、茶本来の自然の味があり、それを引き出すのが茶道である、と。

   確かに一滴の茶ながら、凝縮された味わいがある。抹茶碗で一服をいただたときより味わい深いかもしれない。これは、一滴の味わいを求めて、全神経と味覚が集中するからかもしれない。そして、「茶とは何か」と思索にはまる。

   茶室「松涛庵」。露地は枯山水の造り。モダンアートを展示する「21美」とは真逆の伝統的な和風空間でもある。ここで茶とは何か、人が茶を味わうとは何か、味わうことの喜びや楽しみ、そして幸福感とは何かを考えた時間だった。

   茶室庭の後ろ側の道路は紅葉の道だった=写真=。落ち葉が小路を覆い、晩秋を感じさせる。そして、自身の人生も秋のころかと、ふと思った。

⇒23日(日)夜・金沢の天気   くもり時々あめ

★セイタカアワダチソウは「厄介な雑草」なのか

★セイタカアワダチソウは「厄介な雑草」なのか

   きょうは秋晴れのすがすがしい一日になりそうだ。庭にはセイタカアワダチソウが黄色の花を咲かせ、時折そよぐ風に身を揺らしている=写真=。ただ、この植物は植えた覚えはなく、いつの間にか庭に生えていた、いわゆる外来種の雑草ではある。

   なのに、春と夏の草むしり(除草)の際は、数本だけ残している。観賞用でもないのだが、「雑草という草はない。どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる」(昭和天皇のお言葉)という有名なフレーズを妙に覚えていて、根こそぎの除草はしていない。ところが、この季節に休耕田や河原、空き地に一面に群生している様子を見るとその勢いに圧倒されそうになり、複雑な思いに駆られることもある。

           そうした見た目のよくない印象もあるのだろう、セイタカアワダチソウは花粉症の元凶と誤解されたこともかつてあった。今でもそう思っている人も多いかもしれない。風に揺れる様子を見ていても分かるように、花粉がほとんど飛ばない。花粉は量が少なく、比較的重いためとされる。いわゆる「風媒花」ではなく、花に寄って来た虫によって受粉する「虫媒花」なのだ。

   以前、植物研究者から聞いた話だが、セイタカアワダチソウは生命力が強い植物であり、さまざま薬効もあるようだ。葉にはポリフェノールの一種であるクロロゲン酸などが含まれていて、煎じて飲めば、血糖値や血圧の上昇を抑える効果がある。また、フラボノイドも含まれていて、ヨーロッパなどでは葉を潰して虫刺されや外傷の止血剤としても用いられている。入浴剤としても使われている、とか。今では見かけないが、日本では、草丈が1㍍から2㍍と長いことから、かついては簾(すだれ)の材料として活用されていた。

   さまざまに活用方法があるものの、人々の暮らし方の変化にともない、厄介な雑草としか見られない植物になった。こう考えると、才能がある人物を活かしきれず、厄介者扱いにする人間社会も同じ、かと思ってしまう。

⇒13日(木)午前中・金沢の天気    はれ

☆金沢の茶席で見たトンボ絵の茶器のこと

☆金沢の茶席で見たトンボ絵の茶器のこと

      きょうは3連休の初日。空模様を気にしながら、3年ぶりに開かれた「金沢城・兼六園大茶会」(石川県茶道協会など主催)に足を運んだ。「大茶会」と言うのも、4つの会場で茶道7流派の12の社中が日替わりで茶席を設ける形式。4つの会場は金沢城や兼六園の近くにあり、それぞれ趣きのある場の雰囲気にひたりながら茶の湯を楽しむことができる。

   最初に訪れたのは金沢21世紀美術館の敷地の一角にある茶室「松涛庵」。もともとは加賀藩主が江戸時代の末期に東京の根岸に構えた隠居所だった。その後、金沢に移築されて茶室に改装、平成13年(2001)に金沢市が取得して一般公開している。露地は枯山水の造り。モダンアートを展示する「21美」とは真逆の伝統的な和風空間でもある。

   ここで表千家の社中が立礼(りゅうれい)席を設けていた。立礼は椅子に座ってお茶を点てる作法=写真・上=。客も椅子に座り、抹茶碗はテーブルの上に置かれる。まさに和洋折衷の風景だ。一説に、明治5年(1872)に西本願寺などを会場として京都博覧会が開かれ、裏千家が外国人を迎えるために考案したものとされる。文明開化といわれた激変する時代に対応するアイデアだったのだろう。

   その立礼でお茶を点てる様子を眺めていた。すると、お点前の女性が手に持った茶器がキラリと光った。何だろうと思い、茶道具の一覧を記した会記を見ると、茶器の作者は「SUZANNEZ ROSS」、作品名は「KINDRED SPIRITS」と記されていた。「あっ、スザーンさんの作品だ」と心でつぶやいた。茶器は粉の抹茶を入れる漆器で、茶杓で抹茶を碗に入れ、お湯を入れて点てる。茶席に欠かせない道具の一つ。 

   スザーンさんには9年前、金沢大学の社会人講座で講演をいただき、輪島市の工房も訪問したことがある。ロンドン生まれのスザーンさんが漆器と出会ったのは19歳の時、美術とデザインを学んでいて、ロンドンの博物館で見た漆器の美しさに魅せられた。 22歳で日本にやって来て、書道や生け花、着付けなど和の文化を学んだ。その後、漆器を学ぶために輪島に移住。1990年から輪島漆芸技術研修所で本格的に学んだ。

   輪島塗には100を超える作業工程があり、分業システムが確立されていて「輪島11職」とも称される。ところが、スザーンさんは木地造り以降の作業をすべて自分一人で手掛けている。漆器の魅力をこう話していた。「器も木で出来ていて生きている、漆も生きているし、私も生きているから、3つの生き物を合わせて一つ。 うまくいく日と、いかない日がある。でも、それが楽しい」

   茶器には蒔絵で秋雲とトンボが描かれていて、トンボの羽には螺鈿(らでん)が施されている=写真・下=。キラリと光ったのはこのトンボの羽だった。では、「KINDRED SPIRITS」をどう日本語に訳するか。「心の友」だろうか。手塩にかけて仕上げた作品が心を癒してくれる、それは友のようでもあり、漆器という「生き物」に込めた想いかもしれない。チャンスを見つけて本人にお会いして作品名について尋ねてみたい。

⇒8日(土)夜・金沢の天気   くもり   

★安倍国葬後の課題 「今より後の 世をいかにせむ」

★安倍国葬後の課題 「今より後の 世をいかにせむ」

   きょう日本武道館で営まれた安倍元総理の国葬の中継番組をNHKなどで視聴した=写真=。見ていた時間は午後1時50分から午後3時50分ごろまで2時間。この間、安倍氏の昭恵夫人が遺骨を抱いて車から降りて会場に入る。開式の辞で始まり、国歌演奏、黙とう、政府が制作した生前の安倍氏の映像を映写、追悼の辞(三権の長がそれぞれ、友人代表)、皇族による供花、献花(海外参列者、駐日大使ら)までを視聴した。

   あくまでもテレビ視聴での感想だが、めりはりのない形式的な追悼式というイメージだった。目立ったのはきびきびとした動きの自衛隊の儀杖隊だった。そもそも、10分にも及ぶ生前の安倍氏の映像を流す必要性が一体どこにあったのか。故人の功績や人柄をしのぶのは追悼の辞で十分ではなかったか。追悼式は追想の場であり、映像シーンを次々見せてしのぶものではない。

   追悼の辞で、友人代表として菅前総理が興味深いエピソードを紹介していた。平成12年(2000年)、日本政府は北朝鮮にコメを送ろうとしていた。当選2回目だった菅氏は「草の根の国民に届くのならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と自民党総務会で反対意見を大々的に述べた。紙面で掲載され、記事を見た安倍氏が「会いたい」と電話をかけてきた。これが、安倍氏と菅氏が北朝鮮の拉致問題にタッグを組んで取り組むきっかけだった。当時の森喜朗内閣や外務省などは日朝正常化交渉を優先していて、拉致問題はむしろ交渉の阻害要因というスタンスだった。

   安倍政権の7年8ヵ月、官房長官として苦楽を共にした菅氏は、明治の政治家・山県有朋が長年の盟友、伊藤博文に先立たれて故人をしのんだ歌を一首詠んで追悼の辞を締めくくった。「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」。追悼の辞で拍手があったのは菅氏だけだった。

   民放チャンネルも中継番組を流していた。横並びの中継には当初、総務省からの圧力かと違和感があった。日本テレビ系とテレビ朝日系は海外参列者の献花のタイミングで、安倍氏と世界平和統一家庭連合(旧「統一教会」)の関係や、いわゆるモリカケ問題など取り上げ、安倍長期政権の光と陰にスポットを当てていた。日テレ系は、この国葬を統一教会がプロパガンダとして使っていく可能性があると、霊感商法対策弁護士連絡会の弁護士のコメントを中継で紹介していた。

   来週3日から秋の臨時国会が始まる。自民党は旧統一教会と絶縁宣言(今月8日)をする一方で、安倍氏と教団の関係を調査することについては「本人が亡くなった今、限界がある」(岸田総理)として否定している。国葬をプロパガンダにさせないためにも、この問題にけじめをつけてもらいたい。まさに、菅氏が詠んだ山県有朋の歌、「今より後の 世をいかにせむ」だ。

⇒27日(火)夜・金沢の天気    くもり時々あめ