⇒ドキュメント回廊

☆台湾-金沢を結ぶ空の便 コロナ禍を経て再開

☆台湾-金沢を結ぶ空の便 コロナ禍を経て再開

   先日、兼六園に立ち寄るとかなりの人出だった。中でも、欧米からのインバウンド観光客とおぼしき人々が目立っていた。金沢港ではコロナ禍の水際対策で2020年にストップしていた国際クルーズ船の受け入れを今月から再開した効果もあるのだろう。

   きょう31日付の地元各紙を読むと、あす4月1日から台湾のエバー航空が毎日運航で再開すると、記事と広告で掲載されていた=写真・上=。この便の効果でさらに金沢はぎやかになるのではないだろうと憶測した。石川県観光戦略推進部「統計から見た石川の観光」(令和3年版)によると、コロナ禍以前の2019年の統計で、兼六園の日本人以外の国・地域別の入場者数のトップは台湾なのだ。数にして16万4千人、次は中国の4万4千人、香港3万7千人、アメリカ3万人の順になる。この年に兼六園を訪れた訪日観光客数は47万5千人なので、3割以上が台湾からの入りということになる。

   日本政府観光局(JNTO)の調べによると、2019年の訪日観光客数は中国959万人、韓国558万人、台湾489万人、香港229万人、アメリカ172万人の順だった。この順位と兼六園の訪日客数の国・地域別の入りを比較しても、台湾から金沢への入込が断然多い。この傾向はかなり以前からあった。その理由で一つ言えるのは、台湾での金沢の知名度が高いというだ。それには歴史がある。

   台湾の日本統治時代、台南市に当時東洋一のダムと称された「烏山頭(うさんとう)ダム」が建設された。不毛の大地とされた原野を穀倉地帯に変えたとして、台湾の人たちから日本の功績として今も評価されている。このダム建設のリーダーが、金沢生まれの土木技師、八田與一(1886-1942)だった。ダム建設後、八田は軍の命令でフィリピンに調査のため船で向かう途中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃で船が沈没し亡くなった。1942年(昭和17年)5月8日だった。

   2021年5月8日、八田與一の命日に、ダム着工100年を祝う式典が現地で営まれ、蔡英文総統をはじめ首相に当たる行政院長や閣僚などの要人が出席している。八田與一伝説が生きる台湾から、多くの観光客が「八田のふるさと」金沢を訪ねて来てくれていると思うと感慨深い。(※写真・下は、2017年5月、現地での八田與一の座像修復式。このとき金沢市の関係者も訪れた=台湾・台南市役所ホームページより)

⇒31日(金)午後・金沢の天気      はれ 

☆「3・11」漁業の町・気仙沼 あれから12年

☆「3・11」漁業の町・気仙沼 あれから12年

  2011年の「3・11」の日には、この被災地で見た光景を思い出してしまう。2ヵ月後の5月11日に宮城県気仙沼市を調査に訪れた。当時、街には海水の饐(す)えたような、腐海の匂いが立ち込めていた。ガレキは路肩に整理されていたので歩くことはできた。市役所にほど近い公園では、数多くの大漁旗を掲げた慰霊祭が営まれていた=写真・上=。

   気仙沼は漁師町。津波で漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていた。その大漁旗を市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭で掲げた。この日は曇天だったが、色とりどりの大漁旗は大空に映えていた。その旗には「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものが数枚あった。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。「14時46分」に黙とうが始まり、一瞬の静けさの中で、祈る人々、すすり泣く人々の姿は今でも忘れられない。

   岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船(330㌧)があった=写真・下=。津波のすさまじさを思い知らされた。2015年2月10日、気仙沼を再び訪れた。4年前に訪れた市内の同じ場所に立ってみた。巻き網漁船はすでに解体されていた。が、震災から2ヵ月後に見た街並みの記憶とそう違わなかった。当時でも街のあちこちでガレキの処理が行われていた。テレビを視聴していて復興が随分と進んでいるとのイメージを抱いていたが、現地を眺めて愕然としたことを覚えている。

   では、震災から11年の漁業の町・気仙沼の現状はどうか。水産庁の2021年統計によると、水揚げ数量は7.5万㌧と、全国ランクでは鳥取県境港に次いで7位となっている。カツオの水揚げは日本一を誇る。ただ、震災直前、7万4千人だった気仙沼市。死者・行方不明者は1433人を数え、人口は現在5万8千人に減った。人口減少は日本全体の課題でもある。気仙沼で行政や漁業関係者、NPO法人の方たちと話をして感じたことは、漁業を中心に地域の一体感がある町との印象だった。ネットニュースをチェックすると、気仙沼では廃棄された漁網のリサイクルが進んでいる。「持続可能な漁業の町づくり」を実現してほしい。あの大漁旗を思い出して願う。

⇒11日(土)午前・金沢の天気    はれ

☆金沢名所めぐり~21美に友禅の五彩、白い布まとう男~

☆金沢名所めぐり~21美に友禅の五彩、白い布まとう男~

   先日久しぶりに金沢21世紀美術館に入った。中には観光客が大勢いた。21美は円形の建物になっていて、「正面」という概念はなく、いろいろな場所からの入り口がある。市役所側からの入り口で「チケットをください」と言うと、「きょうは休館日です」との返事。すかさず、「交流ゾーンでは作品が無料で見れますので、どうぞ」と丁寧な対応だった。休館日でもこれだけ人が入るのかと思うくらいのにぎわいだった。

   せっかくなので無料ゾーンで楽しんだ。館内の市民ギャラリ―の壁に描かれている、色鮮やかな花や植物の文様。台湾のアーティストであるマイケル・リン氏の作品=写真・上=。金沢市民だったら、おそくらイメージが沸く。加賀友禅の模様だ、と。推測だが、マイケル・リン氏が金沢を訪れて加賀友禅の着物に描かれた文様が気に入ったのだろう。模様は加賀友禅の中でも古典的な図案のモチーフだ。そして、「加賀五彩」と称される藍、臙脂(えんじ)、黄土、草、古代紫の5色を基調に描いている。かなりのめり込んだ作品だ。

   手前には壁と同じモチーフのロッキングチェアがある。この美術館を共同設計した妹島和世氏と西沢立衛氏によるデザインのイス。そして、このイスに座ると見えてくるアートが、空に向かって定規をあてる姿を描いたブロンズ像「雲を測る男」。ベルギーの作家ヤン・ファーブル氏の作品だ=写真・中=。作品目録によると、ヤン・ファーブル氏はあの有名な昆虫学者ファン・アンリ・ファーブルのひ孫という。

   作品は映画「アルカトラズの鳥男」(1961年・アメリカ)から着想を得た、とある。サンフランシスコ沖のアルカトラズ島にある監獄に収監された主人公が独房で小鳥を飼ううちに、鳥の難病の薬を開発したという実話に基づく。映画の終わりの場面で「研究の自由を剥奪された時は何をするか」と問いに主人公が答えたセリフが「雲でも測って過ごす」だったことからこの作品名がついたとか。昆虫学者の末裔らしい、知的なタイトルではある。

   これは自身の個人的な見立てなのだが、雲を測る男が白い布をまとうときがあり、これが空に映えてまるで生きた人物のような存在感がある=写真・下、2004年9月撮影=。何しろ屋上に設置されているので、大型の台風が接近すると倒れるかもしれないと、美術館のスタッフが布を胴体に巻いて、その上にワイヤーを巻いて左右で固定し、台風一過で取り外すそうだ。レアな日でしか見ることができない、「白い布をまとう男」になる。

⇒8日(水)午後・金沢の天気   はれ時々くもり

★金沢名所めぐり~「金沢の玄関口」鼓門とドームの威容~

★金沢名所めぐり~「金沢の玄関口」鼓門とドームの威容~

   JR金沢駅に到着した知人たちを乗用車で迎えに行くとき言葉は決まって、「鼓門(つづみもん)の下で待ち合わせ」である。個人的というより、市民の間ですっかり馴染んだ言葉ではないだろうか。何しろ、鼓のカタチをした、高さ14㍍ほどの2本の太い柱に支えられた門構えは圧巻である=写真・上=。待ち合わせ場所としてはとても目立つ。列車で金沢を訪れた知人たちは必ずといっていいほど、ここで記念写真を撮影を。そして、「JRはすごい投資をしているね」と。

   「鼓門」のデザインのもととなっているのが、金沢で盛んな伝統芸能である能楽「加賀宝生」の鼓とされる。そして、鼓門とセットになっているのが、3019枚の強化ガラスで造られた「もてなしドーム」=写真・下=。中は広場になっていて1万9400平方㍍(東京ドームの半分足らず)の広さ。ドームのサイドにバスターミナル、タクシー乗降場などが連なる。雨や雪の多い金沢で、「駅を降りた人に傘を差し出す、もてなしの心」を表現したドームだ。鼓門とドームは2005年3月に完成し、その10年後の2015年3月に北陸新幹線の金沢開業が始まる。で、この金沢駅東口広場を整備したのはJRではなく金沢市で、投資額は170億円にもなった。

   JRは民営化(1987年)以降、徹底したコスト主義を経営の柱に据えていて、金沢だからと言って特別なフォルムの駅はつくらないし、つくれないのである。北陸新幹線の駅はどの駅ものっぺりしとした、ワンパターンの建物である。そこで、金沢市が先手を打って、駅の玄関口に170億円を投じた。「金沢の玄関口」に見合う立派な母屋=駅をつくってほしいとのメッセージをJRに対し送ったのだった。

   この投資がなく、金沢駅をのっぺりとした新幹線駅にしていたら、JRと同時に行政にも批判が沸き起こっていたに違いない。一方で、「新幹線の駅が完成していないのに、170億円もの税金を先行的に投入してよいのか、他に税金を回すべきではないのか」といった議論も議会で白熱した。

   結果論で言えば、先行投資は奏功した。東京駅で赤煉瓦の駅舎をイメージするように、鼓門とドームが金沢駅のシンボルにもなった。また、2011年にアメリカの旅行雑誌「TRAVEL + LEISURE」の「世界で最も美しい駅」14の一つに選ばれた。鼓門の写真とともに掲載された記事では「未来観を醸し出したデザインの玄関」をその理由にあげた。ちなみに、1位はベルギーのアントワープ中央駅。2位はイギリスのセント・パンクラス駅などで、金沢駅は6位。こうした効果もあって、2012年ごろから欧米からのインバウンド観光客が徐々に増え始め、2015年の北陸新幹線の開業でさらに増えることになる。

⇒5日(日)夜・金沢の天気      くもり

☆金沢名所めぐり~金沢城は石垣の博物館~

☆金沢名所めぐり~金沢城は石垣の博物館~

   兼六園と道路を隔てて接する金沢城。城壁にはさまざまな石があって、緻密(ちみつ)にそしてさまざまな技法で積み上げていることが分かる。専門の業者や研究者からは、「石垣の博物館」と評されている。

   インバウンド観光のツアーのガイドが金沢城の石垣を指さして、「加賀百万石」を「カガ・ワン・ミリオン・ストーンズ」と直訳しているとこのブログでも紹介したことがある。「百万石」はコメの量を示す尺貫法なのだが、金沢城には百万個の石があると説明されると、妙に納得する。

  石垣の城郭は城をぐるりと囲むように広がる。中でも壮観なのは菱櫓(ひしやぐら)、五十間長屋(ごじっけんながや)、橋爪門続櫓(はしづめもんつづきやぐら)の石垣=写真・上=だ。「打ち込みハギ積み」と呼ばれる技法で、形や大きさをそろえた割石を用いて積み上げたもの。門の入り口などの石垣は「切り込みハギ積み」と称される、石同士の接合部分を隙間なく加工して積み上げる技法。その中に六角形の亀甲石がある=写真・中=。水に親しむカメを表現したのもので、城の防火のげん担ぎの意味を込めた石といわれている。

   石川門近くの石垣は春の桜の季節になると、絶妙なコントラストを描く=写真・下=。無機質な石垣の鋭角的なフォルムを優しく植物の桜が覆う。ただそれだけのアングルなのだが、それはそれで見方によっては美のフォルムのように思えるから不思議だ。

   金沢城の石垣の石は8㌔ほど離れた戸室山の周辺から運ばれた安山岩だ。金沢では「戸室石(とむろいし)」として知られる。赤味を帯びた石は「赤戸室」、青味を帯びたものは「青戸室」と称される。戸室山で発掘した石を運んだルートを石引(いしびき)と言い、現在でも「石引町」としてその名前は残っている。

   その石を運んだルートに「ダゴザカ」という坂道がある。漢字では「団子坂」と書く。傾斜は20度ほどだろうか、それが200㍍ほど続く。この坂を上り切るとあとはゆるやかな下りになる。加賀藩三代藩主の前田利常(1594-1658)は戸室の石切現場を見回った後、この坂で運搬の労役者たちにダンゴを振舞って労をねきらったとの言い伝えからダゴザカと名が付いた。利常は江戸の殿中で鼻毛をのばし、滑稽(こっけい)を装って「謀反の意なし」を幕府にアピールし、加賀百万石の基礎を築いた人物だった。現場感覚のある苦労人だったのかもしれない。

⇒3日(金)夜・金沢の天気    はれ

★「チークナイフ」こだわるアメリの執念

★「チークナイフ」こだわるアメリの執念

   北朝鮮による弾道ミサイルの発射など挑発が相次ぐ中、米韓両軍は特殊作戦を展開しているようだ。韓国の朝鮮日報Web版日本語(3月1日付)によると、2月28日の米韓合同訓練では特殊部隊を動員した「チークナイフ(Teak Knife)」、別名「斬首作戦」と呼ばれる北朝鮮の指導部を狙った訓練が行われた。この訓練は1990年代以降で毎年実施されているが、尹錫悦政権の発足後の去年9月に続き今回と、わずか半年で2回訓練を実施し公開している。挑発の頻度を高める北朝鮮に向けた警告メッセージなのだろう。

   アメリカ軍はこれまで単独で2回、斬首作戦を実行している。2001年9月11日にニューヨ-ク・マンハッタンなどで起きた同時多発テロを仕掛けた国際テロ組織アルカイダの首謀者オサマ・ビン・ラディンに対して、2011年5月1日、パキスタンのイスラマバードから60㌔ほど離れた潜伏先をステルスヘリコプターなどで奇襲し殺害。2022年7月30日にもう一人の首謀者とされていたアイマン・アル・ザワヒリを潜伏先のアフガニスタンのカブール近郊のダウンタウンで、無人攻撃機に搭載した2発のヘルファイアミサイル(空からの対戦車ミサイル)で攻撃し殺害している。

   これで、アメリカによる対テロ戦争は終わったのか。「9・11」翌年の2002年の一般教書演説で当時のブッシュ大統領が述べた「悪の枢軸」。それ以前からイランやイラク、北朝鮮などを「テロ支援国家」や「ならずもの国家(rogue state)」などと称して敵視を続けている。

   アメリカが北朝鮮を悪の枢軸」に位置付けるのは、朝鮮戦争(1950年6月-53年7月)に由来する。北朝鮮が、国境線といわれた38度線を南下し、韓国に侵攻した。これにアメリカなど国連軍は反撃したが、アメリカ軍は3万6000人にもおよぶ多大な犠牲を払った。しかも、朝鮮戦争は終戦ではなく、現在も休戦状態にあり、一触即発の状況に変わりない。朝鮮戦争にどう決着をつけるか、アメリカにとって、冒頭のチークナイフはその選択肢の一つなのだろう。(※写真は「The White House」公式ホームページより)

⇒2日(木)夜・金沢の天気     くもり

☆金沢名所めぐり~兼六園桜の散り際と曲水の美学~

☆金沢名所めぐり~兼六園桜の散り際と曲水の美学~

   国の特別名勝に指定されている兼六園の園名が付いたのは文政5年(1822)とされる。一説に、中国・洛陽の名園を紹介した書物『洛陽名園記』から引用し、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えることが名園の誉(ほまれ)と命名された。ただ、命名した人物には諸説ある。これ以降、兼六園のシンボルとも言える霞ヶ池が造られるなど本格的に手が入ることになる。兼六園に隣接する「いしかわ生活工芸ミュージアム」に、当時の加賀藩主から依頼を受けた幕府の老中・松平定信の筆「兼六園」の扁額=写真・上=が飾られている。

   兼六園には四季折々の楽しみ方がある。春といえば、兼六園は桜の名所で40種類、400本を超える木々がある。「兼六園菊桜(ケンロクエンキクザクラ)」という遅咲きの桜がある=写真・中=。ソメイヨシノが散るころに花を咲かせ、3回色が変わり、最後は花ごとポロリと落ちる。桜の季節を終わりまで楽しませてくれて、潔く花の命を終わらせる。まさに散り際の美学である。武家の庭園らしい見事な花だと語り継がれる桜でもある。慶應年間(1865-68)に天皇より加賀藩主が賜わったものと伝えられ、別名「御所桜」ともいわれている。

   兼六園の6つの風景の一つが「水泉」。春、夏、秋、冬、いつ来ても曲水(きょくすい)のせせらぎが心を和ませてくれる=写真・下、「花見橋」から=。じっと眺めていて、不思議に思ったことがある。雨が降っていれば当然、水かさが増して流れも激しくなるものだ。でも、兼六園の曲水が大雨で荒れて氾濫したという話は聞いたことがない。逆に、夏に日照りが続いて、曲水が干せ上がったという話も聞いたことがない。なぜ、この穏やかなせせらぎが絶えないのか、と。

   10年ほど前の話だが、この曲水の源流を訪ねて水の流れの上流をさかのぼってみた。すると「山崎山」という兼六園のもっとも東側の小高い山の下に小さな洞窟があった。この中には入れないので、山崎山の裏側に回ると、池があった。ガイドマップには「沈砂池(しんさち)」という池だった。ここから向こうは兼六園ではないので、ここが曲水の発生源の池だと分かった。池は深く、よく見ると水道管と思われるパイプラインとつながっている。そこで、兼六園管理事務所を訪ねると、当時の所長が丁寧に説明してくれた。「この池は辰巳用水という江戸時代につくられた用水から水を引いている。ここで水を調整し、1秒間に160㍑の水が流れるように計算して下流に流している」と。

   雨が降れば水門を少し閉めて水量を調整し、水が足りなくなれば、ほかの貯水池から水を補給するようにもしている。160㍑以上になっても、以下になっても、曲水のせせらぎは流れないとの話だった。兼六園の曲水の美学は「人力」の景色でもある。

⇒1日(水)夜・金沢の天気     はれ

★金沢名所めぐり~花街の美術館~

★金沢名所めぐり~花街の美術館~

   金沢の「ひがしの茶屋街」は紅殻格子の町家が建ち並び、江戸時代の花街の風情を今に伝えている。界わいの家々は1階に出格子を構え、2階の建ちを高くして座敷を設けた建築が特徴で、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。初見の観光客は時代劇の映画のロケ地、あるいはテーマパークの印象を抱くかもしれない。和の趣を感じ、インスタ映えする画像を撮るには絶好のスポットでもある。レンタルの着物を羽織った女性グループや、男女が街並みをバックに撮影している姿をあちらこちらで見かける。中には、和装のインバウンド観光客もいる。

   先日、茶屋街に「お茶屋美術館」の看板がかかる建物に入った。パンフによると、この家は文政3年(1820)に加賀藩の施策で茶屋街が造られた当時の建物、とある。じつに200年余り前の歴史ある建築物で、金沢市指定文化財でもある。かつて屋号は「中や」と呼ばれた。お茶屋は訪れた町人衆に遊ぶ場を提供する「貸し座敷」のような場所だった。客の求めに応じて仕出し屋から料理を取り寄せ、酒を供し、芸妓を呼ぶなど遊宴を盛り上げた。勘定はすべて後日払いだった。お茶屋はそうした、なじみの客との信頼関係を大切にした。なので、なじみの客から紹介があったとしても、新規の客は「一見さんお断り」を貫いた。

   逆に言えば、なじみの客は足しげく通ったのだろう。2階の座敷には「お座敷太鼓」が展示されている。三味線の囃子に合わせて、客が平太鼓と締め太鼓を用いてドンドン・ツクツク・ドンなどと叩く。この太鼓は別名「散財太鼓」と呼ばれる。この太鼓の技は何度も座敷遊びに通ってようやく芸として身につく。一人前になるまでには相当な散財を要するという意味のようだ。

   由緒ある「中や」にはもてなしの宴を彩る加賀蒔絵や加賀象嵌、九谷焼など優美な御膳や碗などの道具が遺され、「美術品」として展示されている。中でも目を引いたのは櫛(くし)や簪(かんざし)など芸妓たちの黒髪を飾った品々だった=写真・下=。実際に使用されていたべっ甲や象牙などの櫛や簪はとても意匠(デザイン)にこだわりが感じられる。踊りや衣装だけでなく、こうした櫛や簪にも芸妓たちは華やかさを込めたのだろう。

   何百とある櫛や簪を見て、ふと思った。それに込めた想いと同時にそれぞれの人生があった。この花街で生涯を遂げた女性たちの形見の品のように思えた。

⇒27日(月)夜・金沢の天気    くもり

★「加賀百万石」レトロなキャッチいつまで続けられるか

★「加賀百万石」レトロなキャッチいつまで続けられるか

   金沢では「加賀百万石」は聞き慣れた言葉だが、違和感のある使い方があることを知ったのは、金沢大学で教員をしていたころだ。インドネシアからの留学生がこんな話をしてくれた。

   留学生は、兼六園を散策に行き、そのときインバウンド観光客の団体を案内していた日本人のガイドが「カガ・ワン・ミリオン・ストーンズ」と言っていたのを聞いて、「加賀百万石」のことかとガイドの案内に耳をそばだてた。そのとき、ガイドは金沢城の石垣を指さして説明していたので、とても腑に落ちたという。「百万個もの石を使って、お城を造り、そして金沢に用水をはりめぐらせた加賀のお殿様はとても有能な方だったのですね」と留学生は感心していた。

   ガイドは「加賀百万石」を「カガ・ワン・ミリオン・ストーンズ」と直訳していたのだ。話を聞いて、「それは誤解だよ」と留学生に説明した。「石(こく)」はコメの容量(1石は180㍑分)を意味し、ストーンではない、と。きょとんとした顔つきで留学生は聞いていたが、なんとか理解はしてくれたようだった。それにしても、現代に通用しない「百万石」という言葉を使ってどうするのか。日本人でも理解できない世代が増えているのではないか。ましてや、インバウンド観光では誤解を与えるだけではないか。

   ところが、石川県は「百万石」を多用している。ことし秋に開催される「第38回国民文化祭」(10月15日-11月26日)の名称は「いしかわ百万石文化祭2023」と銘打っている。インバウンド観光の寄港地の一つでもある金沢港クル-ズターミナルの愛称を「ひゃくまんごくマリンテラス」、新しく完成させた県立図書館を「百万石ビブリオバウム」としている。

   そもそも石川県人はどれほど「百万石」を意識しているだろうか。石川県には金沢、加賀、能登の3地区があり、「百万石」を名乗ったり、使ったりしているのは金沢だけではないだろうか。むしろ、加賀や能登の人たちには、かつての栄華をいつまで誇っているのかと揶揄する向きもある。一方で、加賀友禅や金沢蒔絵といった伝統工芸には雅(みやび)が漂い、加賀百万石の文化をイメージさせる。「加賀百万石」というレトロなキャッチフレーズはいつまで続けられるか。

⇒11日(土)夜・金沢の天気   くもり

★寒波襲来に雪国は耐える 「冬来たりなば春遠からじ」

★寒波襲来に雪国は耐える 「冬来たりなば春遠からじ」

   「10年に一度のレベルと言われている強烈な寒波が襲来し、きょう日本海側では大雪による災害に警戒が必要です」とテレビのニュースや情報番組では何度も繰り返されている。少々聞き飽きた感がある。雪国に住んでいると、これが当たり前だからだ。寒波は2波、3波とやってくる。強烈な寒波は昔から「冬将軍」と称して、メディアに言われなくても身構える。

   メディアがしつこく報道するのは、日本海側の大雪もさることながら、太平洋側にも雪雲が流れ首都圏などでの積雪が予想されるからだろう。日ごろ雪が降らない都市では少しの雪でも、生活を直撃する。スノータイヤを履いていない車はスリップ事故が起きる。電気や水道などの生活インフラにダメージが起きる。さらに、配送など物流が滞る。

   今回の寒波で身の回りのことを言えば、あす25日に出席予定だった金沢での会議が延期になった。きょう午後4時ごろ、風雪の中で車を運転すると、マイナス3度となっていた。そのせいで、フロントガラスやバックミラーになどに雪がこびりついて運転に危なさを感じたので=写真=、ほどなくして自宅に引き返した。

   北陸ではこうした強烈な寒波に備えて、乗用車をスノ-タイヤに履き替え、庭木には雪吊りを施してリスクに備えている。ただ、雪国で慣れているとはいえ、屋根雪下ろしは滑って落ちることもあり緊張する。屋根に1㍍余りも雪が積もると、天上からミシッ、ミシッと音がすることもあり、これも緊張する。

   夕方のテレビニュースによると、ヤマト運輸が猛烈な吹雪により高速道路の通行止めなどが見込まれることから、石川県など北陸3県と新潟県で荷物の配送や集荷を停止した。また、石川県内のほとんどの自治体で、あす25日は小中学校の臨時休校を決め、多くの県立高校も臨時休校を予定している。

   金沢地方気象台は雪のピークについて24日夜から25日朝にかけてと予想している。寒波襲来、冬本番だ。「冬来たりなば春遠からじ」(イギリスの詩人シェリー)の言葉を思い起こしながら、雪国に人々はこの季節を耐える。

⇒24日(火)夜・金沢の天気    ふぶき