⇒ドキュメント回廊

☆金沢はカミナリ銀座、インフル発生、コロナ禍止まず

☆金沢はカミナリ銀座、インフル発生、コロナ禍止まず

   朝から西の空に雨雲が立ち込めている。気象庁は、北陸地方できょう午前中から午後にかけて、線状降水帯が発生する可能性があると発表している。きのう5日午後も雷を伴って、一時的に激しい雨が降った。

   金沢に住んでいて、とくに気をつけるのは雷だ。何しろ金沢は「カミナリ銀座」。全国の都市で年間の雷日数がもっとも多いは金沢の45.1日だ(気象庁「雷日数」1991-2020)。ちなみに、東京は14.5日、仙台は9.8日となっている。雷が直接落ちなくても、近くで落ちた場合には「雷サージ」と呼ばれる、瞬間的に電線を伝って高電圧の津波現象が起きる。この雷サージがパソコンの電源ケーブルから機器内に侵入した場合、部品やデータを破壊することになる。(※写真は、北陸電力公式サイト「雷情報」より)

   きのうもピカッと空が光り、ヤバイと思い、瞬間的にパソコンの電源ケーブルを外した。PCをチェックしたが、異常はなくひと安心した。電源ケーブルをコンセントに入れたまま外出して、途中で雷が発生するということもある。万が一に備えて、雷害からPCを守るためにガードコンセントを使っている。

   話は変わる。この時節としては珍しい集団風邪が石川県内で発生している。県のプレスリリース(5日付)によると、5日現在の患者数はあわせて153人で、金沢市内の高校や小松市と白山市の小学校など4つの学校で学級閉鎖や学年閉鎖の措置がとられている。欠席した生徒や児童の症状は、38度以上の発熱があり、のどの痛みを訴えるなどインフルエンザの症状という。昨シーズンの集団風邪の発生はことし1月16日だった。インフルエンザは季節性がなくなり、年間を通して発症が見られるようになってきた。
   
   県内では新型コロナウイルスと診断された患者数は1223人(8月21-27日の合計)と高止まりの傾向が続いている。今後、集団風邪と新型コロナの「ダブル感染」も流行するのかもしれない。

⇒6日(水)午前・金沢の天気   あめ

☆フィリピンの戦争モニュメントと「終戦の日」

☆フィリピンの戦争モニュメントと「終戦の日」

   きょう「8月15日」は終戦の日である。政府主催の全国戦没者追悼式(東京・日本武道館)をNHKで視聴していた。岸田総理は「いまだ争いが絶えることのない世界にあって、わが国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と手を携え、世界が直面するさまざまな課題の解決に、全力で取り組んでまいります」と式辞を述べた。いまだに続くロシアによるウクライナ侵攻を意識したような言葉だった。

   正午の時報とともに1分間の黙とうが捧げられた。その後、天皇陛下は「過去を顧み、深い反省の上に立って再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と述べられた。全国戦没者追悼式は、日本国が不戦の誓いを確認する恒例の行事でもある。

   「8月15日」の現場を訪れたことがある。2012年1月に金沢大学の交流事業でフィリピン・ルソン島イフガオ州のキアンガンを訪れた。山中に壮大な棚田が広がる絶景と同時に、人類の米づくりの歴史を感じさせる。土地の識者の人たちから日本との関わりの話を聴いた。当地では9月2日は「勝利と解放の日」として日本軍との戦いに勝利したことを祝い、10年に一度は大規模な式典が開催されている。本来ならば1945年8月15日が終戦の日だが、ルソン島で最後まで抵抗を続けていた日本軍の山下奉文陸軍大将が降伏を表明したのは9月2日だった。

   土地の人たちの話は辛辣だった。アメリカ軍の進行に押された日本軍はマニラから北上してバギオを経由して経て、さらに奥深いキアンガンに最後の拠点を構えた。山中で孤立した日本兵の多くは飢餓や戦病で倒れ、「今でも骨はいたることろで見つかる」と話していた。そして、古老は「日本兵は怖かった。あいさつをしなかったというだけで殴られた。なので、山に逃げて、夜になると食料を探しに村に降りるという生活を続けていた。ヤマシタが降伏したと聞き、走って山から村の家に帰った」と話した。

   キアンガンの村で山下は降伏の意思を表明し、翌9月3日にバギオに連行され、そこで降伏文書に署名してフィリピンでの戦闘は最終的に終了した。戦時中フィリピンでは日本兵51万人が戦死しているが、フィリピン人は110万人が命を落としている。別の古老は「戦争当時は日本と日本人を憎んだ。しかし今は平和の時代、日本人とは仲良くやっていきたい」と話し、握手を求めてきたのを覚えている。11年も前の話だ。

(※写真は、キアンガンにある「戦争モニュメント」の塔。激しい戦闘を物語るレリーフがある。この公園では10年に一度、「山下降伏記念式典」が開催される。直近では2015年9月2日に行われた)

⇒15日(火)夕・金沢の天気   くもり

★「コロッセオ」のような石川県立図書館 地域のシンボル

★「コロッセオ」のような石川県立図書館 地域のシンボル

           何かと石川県立図書館が話題になっている。先日も関西に在住する大学時代の友人が金沢にやってきて、リクエストで図書館を案内した。広い吹き抜けの空間に、何重にも円を描くように本棚が配置されている光景を見た友人の第一声が「古代ローマのコロッセオの雰囲気だね」と。コロッセオは円形格闘場と呼ばれ、自身もその言葉を聞いて、高校時代に学んだ「パンとサーカス」という言葉を思い出した。ローマ皇帝は、民衆から支持を得るため小麦を無料配り、演劇や格闘技を盛んに開いた。そのシンボルがコロッセオだった。

           図書館というとこれまで地味なイメージだったが、石川県立図書館のように地域のシンボルのような存在になるかもしれない。

   面白いのは形状だけでなく、従来の図書分類の枠を超えたコンセプトだ。吹き抜けに面して1階から上へと続く360度の円形書架には、12のテーマで7万冊の本が手に取りやすい形で並べられている。たとえば、「自分を表現する」という書架には、絵を描く、音楽を奏でる、写真を撮る、演じるといった芸術関連の本が並ぶ。それは芸術論ではなく、本を手に取って読むことで自らも表現してみたくなるような内容の本だ。司書が選りすぐった本なのだろう。ほかにも「暮らしを広げる」「文学にふれる」「仕事を考える」「体を動かす」などのテーマで本が並ぶ。また、分類別図書の本棚には30万冊が並ぶ。

   それにしても、これまでの県立図書館のイメージとはがらりと変わって「会話ができる図書館」で、おしゃべりができてスマホも使え、場所によっては飲食もできる空間だ。子どもエリアにアスレチック施設も併設されていて、休日には子ども連れの若いカップルの姿もよく見かける。

   円形劇場のような吹き抜け造りなので、東西を結ぶブリッジが閲覧席にもなっている。ここからは館内全体を見渡すことができ、書棚とイスはまるでアート空間だ。そして、館内のいたるところで、石川県内の著名な陶芸家や漆芸家か描いた作品がさりげなく展示されている。

   友人と訪れた日は、夏休みとあって館内に並ぶ閲覧席は宿題に取り組む小中学生や受験勉強の高校生らでいっぱいだった。そして驚いたことに観光バスできた団体客もいた。観光なので滞在時間は短いかもしれないが、図書館に観光客が訪れるという光景には友人だけでなく、自身もある意味で感動だった。 

⇒13日(日)夜・金沢の天気     はれ

☆旧盆墓参りとブッダのインド料理の話

☆旧盆墓参りとブッダのインド料理の話

   旧盆入りのきょう金沢市の南隣の野々市市と北隣の津幡町へ親戚の墓参に行ってきた=写真・上=。近隣であってもお盆の風習に違いがある。金沢市は7月中旬の新盆、野々市市と津幡町は旧盆での墓参りが多い。

   この時節いつも思うことだが、同じ墓参りでも金沢と能登・加賀では参り方に違いがある。金沢の場合は、墓所にキリコをつり下げる棒か紐がかけてあり、墓参した人は札キリコをかける。札キリコには浄土真宗の墓所ならば「南無阿弥陀仏」、曹洞宗ならば「南無釈迦牟尼仏」と書いて、裏の「進上」に墓参した人の名前を記す。この札キリコをつるすことで、その墓の持ち主は誰が墓参に訪れたのか分かる仕組みになっている。

    これに対し能登・加賀では、札キリコを持参する風習はないが、墓参りの後にその家を訪ねて仏壇にも合掌をする。直接顔を見せる能登・加賀と、名前を札キリコに書き置きする金沢の違いがある。むしろ、札キリコを持参する風習の金沢の方が独特のようだ。金沢での言い伝えでは、代々の加賀藩主の墓地に年寄衆や家老・若年寄らが札キリコを献上したことが、年月を経て庶民にも広まったとする説もある。武家文化の名残りなのだろうか。

   墓参りの帰り、インド料理の店に入った。初めての店だった。店内で流れるBGMはまるでお経の合唱のような、ゆったりとして荘厳な響きで、インドの民謡のような雰囲気だ。マトンカレーとプレーンナン、タドリーエビを注文。

   ふと壁を見ると、ブッダ(仏陀)のポスターが飾ってあった=写真・下=。従業員の許可を得て、写真を撮らせてもらった。インドで製作されたポスターで顔は女性のようなふっくらとした笑顔で描かれている。全体に光沢があり、美しく、じつにまばゆいポスターだ。「南無阿弥陀仏」と唱え、墓参りをした後だっただけに、ありがたい思いで料理を食べた。たわいもない話である。

⇒12日(土)午後・金沢の天気    はれ

★「禁酒の村」の物語

★「禁酒の村」の物語

   「質素倹約」という少々古くさいイメージの言葉がある。ムダな消費を控えてコツコツと金をため込むと解釈しがちなのだが、これを単にため込むのではなく投資に回すというふうに考えれば、実に合理的で先駆的な言葉のようにも思える。この質素倹約を村を挙げて実践したムラが石川県にある。いまでも「禁酒の村」として伝えられる。

   津幡町河合谷(かわいだに)地区は石川県と富山県の県境沿いの山間地にある。「禁酒の村」はこれまで話には何度も聞いていたが、先日、初めて現地を訪れた。かつては河合谷村として独立村だった。その村長から村ぐるみの禁酒の提唱があったのは大正15年(1926)1月28日のことだった。以下、説明書き「河合谷村【禁酒】の碑 由来」から。

   当時、明治8年(1875)に開校した村の小学校は老朽化していた。そこで、全面的な建て替え費用として当時の金で4万5215円の資金が必要となり、村長は「自治改良委員会」に諮った。自治改良委員会は公選の委員と有識者らで構成する合議制の執行機関のこと。積立金2000円と基本財産3000円の計5000円を差し引いて、不足分の4万円余りをどう工面するか。村長が提案したのは禁酒による資金の捻出だった。

   議論は白熱した。「酒を薬として愛飲している者もいる」「祭礼や地鎮祭、婚礼のなどの儀式で酒を禁止にするのは不可能だ」などの反対意見が上がった。最終的には「学校の建て替えは急がねばならない。こうした非常時にこそ禁酒は村民の同意を得られる」と全会一致で決議した。

   当時の4万円余りとは現在に換算するとどのくらいか。大正末期の大卒サラリーマンの初任給(月給)は50-60円というデータがある。現在だと22万円5千円。単純に当時を55円と計算すると、現在はざっと4090倍に相当する。雑ぱくな計算だが、当時の4万円は現在の1億6360万円相当となる。これを298戸・住民1576人の村で賄うのである。

   5年間は禁酒して倹約、ためたお金を小学校の建て替え費に充当するという村挙げての取り組みだった。子どもたちの教育という投資のために、禁酒運動はその年の4月1日から始まった。「全村民は酒を飲んだつもりで毎日最低5銭以上を貯金する」という「つもり貯金」を実施した。家々に禁酒規約が配られ、村内では酒を飲まない、客にも出さない、酒類の販売も禁止、と徹底した。説明書きに記述はないが、おそらく経費の分担は、資産状況によって分担金がランク付けされる「万雑割(まんぞうわり)」だったのだろう。そして、村の入り口の川の橋のたもとには「禁酒」の石碑=写真=が設置された。

   その年の7月に小学校の建て替え工事は完了したが、ちょっとした異変が起きた。新聞社がこの「禁酒の村」を報じると、全国で初めての禁酒の村として注目されるようになった。村には全国から激励文や視察の訪問が相次ぐようになった。すると、禁酒はムラの誇りにもなり、5年の償還を終えても、そのまま継続して、昭和20年8月の敗戦まで続いた。その後、河合谷村は昭和29年(1954)5月に津幡町に編入される。

          禁酒はその後、伝説となった。もし、現在でも河合谷地区で続けられていれば、「禁酒のムラ」として世界から注目されていたかもしれない。小学校はその後、昭和46年(1971)に移転し、過疎化による児童数の減少で平成20年(2008)に閉校となった。学校創立から133年の歴史に幕を閉じた。

⇒27日(木)夜・金沢の天気     はれ

☆俳句の世界を感性で駆け抜けた千代女の人生

☆俳句の世界を感性で駆け抜けた千代女の人生

   夏休みに入って、登校時に響く小学生たちのにぎやかな声が聞こえなくなった。むしろ、子どもたちは夏休みの学習帳と奮闘しているのだろう。その中で、17音の文字数で自らの思いや感動を表現する俳句を学習するのも夏休みではないだろうか。自身もこの時節にふと「朝顔やつるべとられてもらい水」の一句を思い浮かべることがある。

   先日、石川県白山市にある「千代女の里俳句館」を見学した。2年前にも訪れたが、このときは臨時休業となっていて今回が初めての見学。館内には千代女の人生と折々の俳句が紹介されている。千代女は元禄16年(1703)に現在の白山市松任(まっとう)で表具師の娘として生まれ、73歳で没するまで生涯で1900余の句を残したといわれている。

   同館のパンフによると、12歳で俳句の手ほどきを受け、その才能が認められたのは17歳のとき。松尾芭蕉の門人であった美濃の各務支考(かがみ・しこう)が松任を訪れた折に千代女と面会した。そのときに千代女が詠んだ句の一つが「稲妻のすそをぬらすや水の上」。夜に稲妻が走り水面を一瞬照らした。まるで稲妻が裾をぬらしたようにも見えた。このダイナミックな情景描写に、支考は「あたまから不思議の名人」と称賛した。

   18歳で加賀藩の足軽の家に嫁ぐも、20歳のときに夫と死別したことから松任の実家に帰る。このころから、金沢や小松、名古屋、美濃、伊勢の俳人らと交流を深める。52歳で剃髪して尼僧となる。(※写真は「千代女の里俳句館」の千代尼象)

   大きな転機となったのが宝暦13年(1763)。朝鮮通信使という外交団が訪日した。徳川家治の将軍職の襲名を祝うためだった。幕府は国賓を迎えるため、その接待役を加賀藩主の前田重教に命じた。そこで重教は千代尼の俳句を使節団の土産に持たせることを発案して、幕府の了解も取り付けた。千代尼は当時61歳、これまで詠んできた俳句の中から21句を選んで、掛け物6本と扇子15本に句をしたためた。千代尼とすれば、幕府からお墨付きをもらって朝鮮使節団への贈答品として自らの句を納めた。大変名誉なことだったろう。この時に詠んだ句。「仰向いて梅をながめる蛙かな」。梅は前田家の家紋であり、チャンスを与えてくれた藩主に感謝を込めた。

   その後、『千代尼句集』(上下2冊)が出版されて、俳人であり文人画家でもあった与謝蕪村らとの交流も深めていく。辞世の句は「月も見て我はこの世をかしく哉」。「かしく」は当時女性が手紙の結びに用いたあいさつ語で、「さようなら」の意味。名月や満月を見ることができ、この世に未練もなく、心安らかにこの世を去ることができます。みなさん、さようなら。俳句の世界を女性の感性で駆け抜けた人生だった。

⇒23日(日)夜・金沢の天気   はれ

☆新盆で見える金沢の風景

☆新盆で見える金沢の風景

   金沢の風習の一つとして「新盆」がある。7月13日から15日ごろにかけて墓参りをする。その際、「札キリコ」を持参する。墓の前に札キリコをつり下げる棒か紐がかけてあり、墓参した人はそこに札キリコを吊るす=写真・上=。この板キリコの表面には、浄土真宗の家ならば「南無阿弥陀仏」、曹洞宗ならば「南無釈迦牟尼仏」と書いて、裏面の「進上」には墓参した人の名前を記す。この札キリコによって、その墓の持ち主は誰が墓参に来てくれたのかということが分かる仕組みになっている。いわゆる墓参者の名刺代わりのようなものだ。

   自身もきのう菩提寺を訪れ、墓参りを済ませた。最近思うことだが、墓地をざっと眺めて板キリコの数が減っているように思えてならない。つまり墓参する人の数が減っている。きのう午後に訪れたときも、墓参者はまばらだった。

   4月と6月に親戚と知り合いに物故者が出て、葬儀に出かけた。会場はいわゆる「家族葬」で、祭壇はコンパクトに白菊などの花が飾ってあった。近親者だけで行う小規模な葬儀なので、それぞれ40人ほどの参列だった。通夜も葬儀も時間にすれば1時間ほどだった。最近、朝刊の「おくやみ」欄で「通夜、葬儀ともに終了」の表記が目立つ。家族葬で通夜・葬儀をすでに済ませた、というケースが多いのだろう。ちなみに、14日付の「おくやみ」欄では石川県内で20名の方が掲載されていたが、うち8名は「通夜、葬儀ともに終了」となっている。葬儀の身内化、コンパクト化だろうか。

   先日、知り合いがマイホームを新築したというので、見学させてもらった。金沢の丘の上のある住宅で、見晴らしがとてもよい。知り合いは旧市街地から現在のところに、ある意味で移住した。キッチンとリビングが一体化していて、広々とした「住まい感」を感じた。そして、畳の部屋がない。「前の家にあったあの大きなお仏壇はどうしたの」と尋ねると、仏壇屋に引き取ってもらって、代わりに小さな仏壇にしたとのこと。リビングのドアを開けてくれた。すると、縦70㌢・横50㌢・奥行き30㌢ほどのコンパクトな仏壇が仕舞ってあった。「もちろん、月命日には家族で手合わせして供養している」とのこと。住宅の洋風化とともに仏壇がコンパクト化している、そんな印象を受けた。

   と同時に、金沢の金箔産業は大丈夫なのかとの思いも脳裏をよぎった。仏壇の内部には金箔がふんだんに施されている。なので、仏壇が小さくなるということは、金箔の需要が減るということだ。「金沢は金箔で持つ」と言われるくらいに、金沢は伝統的に金箔生産量を誇り、全国シェアは98%だ=写真・下=。金を極限まで薄く伸ばしたのが金箔であり、この「縁付(えんつけ)金箔」と呼ばれる製法は「伝統建築工匠の技」の一つとして、2020年にユネスコ無形文化遺産にも登録されている。(※写真は金沢金箔伝統技術保存会ホームページより)

   新盆に見えた金沢の風景を取りとめもなく書いてみた。

⇒14日(金)夜・金沢の天気     くもり時々あめ 

★安倍事件から1年 モラル崩壊の世の中に

★安倍事件から1年 モラル崩壊の世の中に

   安倍元総理が奈良市で選挙応援演説中に銃撃され死亡してから、きょう8日で1年になる。この銃殺は回避できなかったのかと思うことがある。それは警察が襲撃のとき何をしていたのか、という点だ。

   奈良市の大和西大寺駅前の交差点で安倍氏は候補者とともに立っていた。この場所はガードレールに囲まれていて、警視庁のSP1人を含む4人の警察官が警備にあたっていた。SPは安倍氏を見ながら、前方の大勢の聴衆を警戒していた。2人の警察官は安倍氏の目線と同じ方向にいる聴衆を警戒していた。つまり、傍らにいた3人が会場前方を中心に警備していたことになる。そしてもう1人の警察官は主に安倍氏の後方の警戒にあたっていた。

   最初、容疑者と安倍氏の直線距離は約15㍍だった。その後、安倍氏の背後に回り込むように歩いて車道を横断。ショルダーバッグの中から手製の銃を取りだし、約8㍍の距離から発砲した。周囲の人たちが大きな音に身をすくめる中、容疑者は白煙の上がる銃を手にし、さらに5歩前進。2.7秒後に、背後約5㍍から2発目を撃った。音の方を振り向くような動きを見せていた安倍氏は身をかがめるようにして倒れた。容疑者は直後、車道上で取り押さえられた。(※写真は、安倍氏銃撃事件を伝える、7月8日付の地元紙の夕刊) 

   ここで理解できないのは、背後8㍍まで近づいて発砲し、さらに5歩進み2.7秒後に2発目を発射している点だ。その間、SPと警察官の4人は何をしていたのか。ネットに上がっている関連動画などを見ると、一発目の後、安倍氏に覆いかぶさるなど警護対象者の身を守るような行動は確認できない。警察は常に容疑者の身柄の確保を最優先に考えていて、一発目の砲音と同時に犯人捜しに視線が注がれ、安倍氏をガードする行動が遅れた。5歩、2.7秒の二発目はその警備の死角を突いたのだろうか。

   銃規制がきびしい日本の社会にあって、専門知識があれば銃や弾を自作できる。それも無尽蔵にだ。これから銃がはびこるのではないか。そして、ことし4月には和歌山市で岸田総理の演説会場で爆発物が投げ込まれる事件もあった。世の中ではモラルの崩壊が起きているように思えてならない。

⇒8日(土)午後・金沢の天気   あめ

☆季節外れの黄砂がやって来る

☆季節外れの黄砂がやって来る

   きょうも線状降水帯が九州地方にはびこるなど、異常気象ともいえる状況が続いている。そして、これも異常な空だ。気象庁公式サイト「黄砂情報」によると、あす6日は大陸から黄砂が飛んでくる可能性がある。これまで7月から9月かけて黄砂が観測されたことはなく、もし観測された場合、統計が始まった1967年以来初めてのこととなる。季節外れの黄砂だ。   

   日本から4000㌔も離れた中国大陸のタクラマカン砂漠やゴビ砂漠から偏西風に乗って黄砂はやって来る。ただ、この時期に黄砂が来るということは、中国北部が高温少雨の干ばつに見舞われていて、砂が巻き上げられやすくなっているのではないか、と憶測してしまう。北京などでは猛暑が続き、観測史上初めて6月に3日連続で40度を超え、22日には過去最高の41度を記録したと報じれらている(6月25日付・AFP通信Web版日本語)。

   黄砂の日に外出すると、目がかゆくなる。黄砂そのものはアレルギー物質になりにくいとされているが、黄砂に付着した微生物や大気汚染物質がアレルギーの原因となり、鼻炎など引き起こすようだ。さらに、黄砂の粒子が鼻や口から体の奥の方まで入り、気管支喘息を起こす人もいる。日本海側の黄砂のルートにもなっている金沢では古くから「唐土の鳥」がまき散らす悪疫として、黄砂を忌み嫌ってきた。

   厄介もの扱いの黄砂だが、日本海に恵みをもたらすともいわれている。大量の黄砂が日本海に注ぐ3月と4月には、「ブルーミング」と呼ばれる、海の表面が白くなるほど植物プランクトンが大発生する。黄砂の成分といえるケイ酸が海水表面で溶出し、植物プランクトンの発生が促される。それを動物プランクトンが食べ、さらに魚が食べるという海の食物連鎖があるとの研究がある。確かに、地球規模から見れば、「小さな生け簀(す)」のような日本海になぜクジラやサメ、ブリ、サバ、フグ、イカ、カニなど魚介類が豊富に獲れるのか、いろいろ要因もあるが、黄砂もその役割を担っているのかもしれない。

   気象庁「黄砂情報」=予想図=によると、北陸地方にはあす6日午後3時ごろからが黄砂のピークだ。

⇒5日(水)夜・金沢の天気    くもり   

★タカになりたかったトンビ

★タカになりたかったトンビ

   きょう久しぶりに金沢城公園を散歩した。コロナ禍を経て観光客が戻っているようで、団体やインバウンド観光客の姿が多く見られた。休憩所に入ると、「トンビに注意!」のポスターが数枚貼ってあった。

   休憩所にいたボランティアガイドの男性に尋ねた。「トンビに注意とありますが、どんな被害があるのですか」と。すると、ガイド氏は困ったような顔つきでこう話してくれた。公園の広場で弁当などを食べていると、トンビが空から降りて来て、人に危害を与えないが食べ物を取っていくという事例が目立っているという。これまでも、サンドイッチやおにぎりなどが狙われた被害があったそうだ。確かに、注意書きの下には、「食べ物をねらって、空から急降下してくることがあります」と記してある。

   タカ科の猛禽類のトンビはピーヒョロヒョロと鳴きながら、空でくるりと輪を描いているイメージだが、地上の獲物を狙っている。ヘビやカエルなどが好物のようだが、以前、能登の千里浜海岸で打ち上げられたの魚の死骸を突いている様子を見たことがある。雑食性の鳥だ。「トンビに油揚げをさらわれる」という言葉もある。自分のものになると思っていたものや、大切にしていたものが不意に横取りされることのたとえで使われる。このようなことわざがあるくらい油断ならない生き物なのだろう。

   悪いイメージだけではない。「トンビがタカをうむ」という言葉もある。平凡な親が優れた子を生むことのたとえ。そして、「トンビも居ずまいからタカに見える」という言葉もある。普通の人間であっても、立ち居振る舞いによって立派な人に見えるというたとえだ。

   前回のブログの続きになるが、ロシアのプリゴジンをトンビにたとえてみる。タカ(将軍)になりたかったトンビが軍勢を引きいてモスクワに進軍したが、ベラルーシのルカシェンコ大統領にトンビはトンビと諭されておじけづいた。しょせんトンビはトンビ、タカにはなれない、と。

⇒30日(金)夜・金沢の天気    くもり