⇒ドキュメント回廊

★能登半島地震 「震度7の地」で見たこと感じたこと

★能登半島地震 「震度7の地」で見たこと感じたこと

   震度7を記録した能登半島の西端の志賀町香能(かのう)地区は小高い山の中にある=写真・上=。周囲にはレストランや牧場もあり、民家も点在している。外見を見る限り、建物の倒壊や屋根のめくれなどの被害もなく、道路などでの地割れも見られなかった。むしろ、香能から5㌔ほど離れ、震度6弱の揺れに見舞われた富来領家(とぎりょうけ)地区の方が被害は甚大と感じた=写真・中=。海沿いの平地で家並みが続く。両地点のこの違いは地盤の固さによるものなのか。富来領家地区のすぐそばには富来川が流れていて、地盤が柔らかかったことが被害拡大の要因なのだろうか。

   その富来領家地区では、仮設住宅の建設が進んでいた=写真・下=。いわゆる「トレーラーハウス」で、説明書を見ると、高さ4㍍、幅11㍍、奥行き3.4㍍、広さ37平方㍍の1LDKだ。浴室やトイレのほか、キッチンやエアコンも備え付けられている。水道などが整えば、早ければ今月下旬ごろ入居が可能になるようだ。

   志賀町ではトレーラーハウス22戸に加えて、プレハブ住宅77戸の準備が進んでいる。でも、まだまだ足りない。何しろ石川県のまとめ(2月1日付)では、志賀町での全壊・半壊・一部損傷の住宅は4749棟になる。そして、石川県全体では4万7904棟にも及ぶ。これに対し、馳県知事は先月23日の記者会見で、被災者向けの仮設住宅を3000戸、賃貸住宅を借り上げる「みなし仮設住宅」を3800戸、県内の公営住宅800戸、県外(富山、愛知両県や大阪府など)の公営住宅8000戸の計1万5600戸を3月末までに確保すると発表している。

   ただ、現実問題がある。震度6強の揺れに見舞われた輪島市や珠洲市の全域など、県内の4万490戸(今月1日付・県発表)でいまだに断水状態が続いている。仮設住宅の建設が進んだとしても、水道というライフラインが追いつくのかどうか。自宅が倒壊を免れた人でも風呂に入れず、トイレも流せない状態で、避難所から住まいに戻る妨げになっている現状がある。

   先日の馳知事の発言に違和感を感じた。BSフジ『プライムニュース』(2月2日)で、リモート出演した馳知事が、「大阪万博、ぜひやっていただきたいと思っております。それも身の丈に合ったカタチでやっていただきたい」と話していた。この発言に司会の反町キャスターもエッという表情を浮かべていたが、自身も同じだった。万博会場の建設と能登地震の復旧は今後、同時進行で進むことなる。そこで、当該の責任者である知事の言葉とすれば、「能登地震の復旧を最優先でお願いしたい」を冒頭に持ってくるべきだろう。震度7の地を訪れて感じたことだ。

⇒5日(月)夜・金沢の天気    くもり

☆能登半島地震 赤い糸『時を運ぶ船』は残った

☆能登半島地震 赤い糸『時を運ぶ船』は残った

   今回の大地震で半島の尖端、珠洲市は震度6強に見舞われた。先日(1月30日)同市を訪れた際にこの目で確かめておきたいところがあったが、時間がなかったことと、がけ崩れなどで通行止めとなっていてそれは叶わなかった。

   この目で確かめたかったこと、それは珠洲市で開催された奥能登国際芸術祭の作品だった。金沢市在住のアーティスト山本基氏の作品『記憶への回廊』(2021年制作)=写真・上=が倒壊したとメディア各社が報道していた。作品がある場所は、旧・保育所の施設。真っ青に塗装された壁、廊下、天井にドローイング(線画)が描かれ、活気と静謐(せいひつ)が交錯するような空間が演出されている。遊戯場には塩を素材にした立体アートが据えられ、天空への階段のようなイメージだ。途中で壊れたように見える部分は作者が意図的に初めから崩したもので、地震によるものではない。作品には10㌧もの塩が使われている。2023年5月5日に起きた震度6強の揺れには耐えたが、今回の地震では塩の作品が崩れたという(※写真は2022年8月23日に撮影)。

   塩田千春氏(日本/ドイツ)の作品『時を運ぶ船』=写真・下=は芸術祭の公式ガイドブックの表紙を飾るなどシンボル的な作品だ。この作品は2017年の第1回芸術祭で制作された。赤い毛糸は強烈なイメージで、作品を観賞するたびに人間の本能をくすぐるような感動を覚える。この作品は無事だったようだ(※写真は2023年8月23日に撮影)。

   珠洲市で展示されていた作品の多くはダメージを被った。メディアの報道によると、奥能登国際芸術祭の総合ディレクターである北川フラム氏は震災に関する支援を行う「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」を立ち上げた。アーティストやサポーターで構成する有志グループで、被災した人たちと協力しながら、同地の復興に寄与していくという。北川氏は述べている。「珠洲の人々と他地域の人々を結びつけるアート作品や施設の撤去、修繕、再建などを行い、珠洲に思いを寄せる人々の力を結集したいと考えます」(「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」公式サイト)。

   「ヤッサー」は珠洲の祭りの掛け声で、若い衆が力を合わせて巨大なキリコや曳山を動かすときに「ヤッサーヤッサー」と声を出して気持ちを一つにする。北川氏は芸術への想い、地域復興への願いを一つに込めて動き出そうとしている。

⇒4日(日)夜・金沢の天気   くもり

★能登半島地震 コウノトリは再び舞い降りるのか

★能登半島地震 コウノトリは再び舞い降りるのか

   震度7の揺れがあった志賀町富来地区を訪ねた(1月31日)。気象庁や国土地理院の分析によれば、能登半島西端から新潟・佐渡島近くの日本海まで長さ130-150㌔に達する断層が破壊されたとみられている。その半島西端の部分が富来地区にあたる。

           志賀町の全壊・半壊など家屋被害は4900棟におよび、その多くがこの富来地区での家屋だった。増穂浦海岸は、さくら貝が流れ着く観光名所として知られる。8月になれば30基の奉灯キリコが威勢よく担がれ冨木八朔祭礼が行われる。町の中を歩くと、本祭りで神輿が集う住吉神社の鳥居が砕け落ちていた=写真・上=。2007年3月25日の能登半島地震は震度7クラスの揺れだったが、石灯ろうが倒れるくらいで済んだ。しかし、今回倒壊した鳥居を見ると相当な揺れだったことが分かる。全壊の家も数多く、全壊は免れても窓ガラスが割れたり、屋根の瓦が崩れ落ちたりしている家は相当な数にのぼる。

    富来地区でさらに気になることがあり、山中に入った。同地区は国の特別天然記念物のコウノトリの営巣地としては日本で最北の地だ。去年5月、誕生したばかりの3羽のヒナを観察するため現地を訪れた。当地でのヒナの誕生は2年連続だった。気になるというのも、コウノトリの巣が地震で落ちたり、壊れたりしているのではないかと思ったからだ。
 
   現地に到着すると、電柱の上につくられた巣は無事にあった=写真左=。電柱は傾いてもおらず、巣も崩れてはいないようだった。ただ、よく見ると巣がかなり小さくなっている。巣の下を見ると、巣に使われていたであろう木の枝がかなり落ちている。地震の揺れで、落ちたのだろう。去年5月に撮影した様子=写真右=と比べると、巣の大きさは2分の1ほど。巣とすると半壊状態なのではないだろうか。
 
   自身はコウノトリの専門家ではないので、以下は憶測だ。ことしもコウノトリのつがいが営巣に来て、どのような営巣本能が働くのだろうか。巣が壊れているから別の場所に行こうとするのか、あるいは枝を足すなど修復してこの地で営巣を続けるのか。コノトリが再びこの地に舞い降りるのか気になった。
 
⇒3日(土)夜・金沢の天気   くもり

☆能登半島地震 「誰一人取り残さない」文化風土

☆能登半島地震 「誰一人取り残さない」文化風土

            災害下でも互いに助け合う能登の被災者の心意気を「能登はやさしや土まで」という言葉でこのブログ(1月27日付)で書いた。衆議院・参議院の本会議(1月30日)で岸田総理が施政方針演説の中で能登半島地震の対応について触れていた。「厳しい状況の中でも、なによりも素晴らしいのは、被災者の皆さん、また、支援に携わる皆さんの整然とした行動と『絆の力』です。発災直後の大混乱した状況は、皆さんの忍耐強い協力によって段々と落ち着きを取り戻しています。『能登はやさしや土までも』と言われる、外に優しく、内に強靱な能登の皆さんの底力に深く敬意を表します」

   この「能登はやさしや土まで」には奥深さがある。文献で出てくるのは、元禄9年(1696)に加賀藩の武士、浅加久敬が書いた日記『三日月の日記』。「されば・・・能登はやさしや土までも、とうたうも、これならんとおかし」。浅加は馬に乗って、石動山という山に上った。七曲がりという険しい山道を、能登の馬子(少年)は馬をなだめながら、そして自分も笑顔を絶やさずに一生懸命に上った。武士は馬にムチ打ちながら上るものだが、馬子が馬を励まし、やさしく接する姿に感心し、「能登はやさしや」という杵歌(労働歌)の言葉にたとえて日記に綴った。

   「能登はやさしや」に障がいを持った人たちへの気遣いも感じる。ユネスコ無形文化遺産にも登録されている能登の農耕儀礼『あえのこと』は、目が不自由な田の神様を食でもてなす行事だ=写真=。働き過ぎで眼精疲労がたたって失明した、あるいは稲穂で目を突いてしまったなど云われがある。目が不自由であるがゆえに、農家の人たちはその障がいに配慮して田の神に接する。座敷に案内する際に段差がある場合は介添えをし、供えた料理を一つ一つ口頭で説明する。じつに丁寧なもてなしだ。

   能登出身のパテシエ、辻口博啓氏から聞いた話だ。辻口氏の米粉を使ったスイーツは定評がある。当初、職人仲間から「スイーツは小麦粉でつくるもので、米粉は邪道だよ」と言われたそうだ。それでも米粉のスイーツにこだわったのは、小麦アレルギーのためにスイーツを食べたくても食べれない人が大勢いること気が付いたからだ。高齢者やあごに障害があり、噛むことができない人たちのために、口の中で溶ける「ナノチョコレ-ト」もつくっている。

   能登には「誰一人取り残さない」という心意気がある。まさにSDGsの精神風土ではないだろうか。「能登はやさしや土までも」からそんなことを感じ取る。

⇒2日(金)夜・金沢の天気    くもり

★能登半島地震 カーボンニュートラルな生業の再構築

★能登半島地震 カーボンニュートラルな生業の再構築

          元日を襲った最大震度7の揺れからひと月たった。犠牲者は240人に増え、重軽傷者は1180人、行方不明者が15人いる。地元の1次避難所には8230人、金沢などの場所に移動した避難者を含めれば1万4000人にもなる。全壊や半壊の住宅被害は4万7900棟におよび、道路や水道といったインフラやライフラインが壊滅的な被害を受けた(石川県危機管理監室まとめ・2月1日午後2時現在)。冬の冷え込みもきつく、被災地では過酷な状況が続いている。

   前回ブログの続き。珠洲市に行き、山の中で製炭業を営む大野長一郎氏を訪ねた。茶道用の炭である「菊炭」を生産する県内では唯一の業者でもある。今回の地震で稼働していた3つの炭焼き窯が全壊した=写真・上=。2022年6月19日の震度6弱の揺れで窯の一部がひび割れ、工場の天井が一部壊れた。2023年5月5日の震度6強では窯の一部が崩れた。支援者の力添えを得ながら修復してようやく炭を焼き始め、品質にもメドがたちこれからというときに今回全壊となった。

   大野氏の茶道用の炭=写真・下=はススが出ず、長く燃え、燃え姿がいいと評価が高く、金沢をはじめ全国から茶人が炭窯を見学に訪れている。日本の茶道文化の一端を担えてうれしいと話していただけに、窯の全壊は相当ショックだったようだ。

   窯をじっと見つめる大野氏の口から「でも、やめませんよ」の言葉が出た。1971年に父親が創業した製炭業を2003年に引き継いだ。茶炭に使うクヌギの木は炭焼き工場の近くの山でボランティアを募り植林した。そして、二酸化炭素を増やさない「カーボンニュートラルな生業(なりわい)」を目指すことを決意する。

   ライフサイクルアセスメント(LCA=環境影響評価)の手法を用い、過去6年間の製造、輸送、販売、使用、廃棄、再利用までの各段階における環境負荷を検証した。事業所の帳簿をひっくり返しガソリンなどの購入量を計算。2年かけて二酸化炭素の排出量の収支計算をはじき出した。また、環境ラベリング制度であるカーボンフットプリントを用いたCO²排出・固定量の可視化による、木炭の環境的な付加価値化の可能性などもとことん探った。

   そして得た結論は、生産する木炭を2割以上を不燃焼利用の製品にすれば、排出するCO² 量を相殺できるということが明らかになった。そこで商品生産の方針を決め、生産した炭を床下の吸湿材や、土壌改良材として商品化することにした。この生業のポリシーを自らの人生として実践していくことを決意している。

   炭窯をどのように再構築していくかまだ思案中とのことだった。従来の炭窯ではなく、小規模になるが鉄製の窯もこれからの多品質の生産には欠かせないと具合的なアイデアも語った。「この土地で炭焼きを続ける。この際、窯も見直して持続可能な方法で続けたい」との前向きな言葉に、自身も励まされた思いだった。

⇒1日(木)夜・金沢の天気    くもり

☆能登半島地震 震源地の珠洲は津波と土砂崩れ複合被害

☆能登半島地震 震源地の珠洲は津波と土砂崩れ複合被害

   能登半島地震の震源地は半島の尖端部分の珠洲市。きょうその珠洲市に所用があり一日がかりで往復した。これまで金沢の自宅から市役所までは車で1時間30分ほどだが、今回は4時間かかった。幹線道路「のと里山海道」を北上すると崩落の箇所などがあり、う回路を経由して走行することになる。そのう回路には警察のパトカ-や自衛隊のトラック、救急車、支援物資を運ぶ車が列をなしていてゆっくり運転が続く。(※NHK図=✖が震源とされる珠洲市大谷・馬緤地区)

   珠洲市には去年秋の「奥能登国際芸術祭2023」に何度か訪れている。元旦の震度6強に見舞われ、街並みは変わり果てた。石川県危機管理監室がまとめた被害状況(30日午後2時現在)によると、犠牲者は101人、重軽傷者249人、全壊2092棟、半壊1036棟だ。同市は約6000世帯なので、半数超えが全半壊となった。2022年6月19日に震度6弱、2023年5月5日に震度6強の揺れがあり一部地域に損壊があったものの、それでも芸術祭は実施できた。ところが今回はさらに幅広い場所で被害が出た。海岸沿いでは4㍍の津波による被害、そして山沿いでは土砂崩れとまさに複合被害だ。(※写真・上=地震と土砂崩れで崩壊した住宅)

   珠洲市の観光名所として知られる見附島も変わり果てていた。そのカタチから通称「軍艦島」と呼ばれていたが、2022年と2023年、そして今回と度重なる揺れで、勇壮な面影は変化した。(※写真・下=津波で海岸に打ち上げられた漁船、地震で崩れた見附島)

   震源地にもっとも近いとされる同市の大谷・馬緤(まつなぎ)地区。所用の帰りにここを通って帰ろうとしたが、土砂崩れなどで通行止めとなっていた。馬緤という地名には伝説がある。壇ノ浦の戦い(1185年)で名を上げた源義経が兄・頼朝との仲違いで京を追われ、奥州・平泉に逃げ延びる途中で一行がここで滞在した。そのため馬をここで繋いだので、「マツナギ」という地名になったという。大谷地区にも平家伝説があり、歴史と伝統がある地区でもある。ふるさとを離れる避難者の想いはいかほどか。

⇒30日(火)夜・金沢の天気   くもり

★能登半島地震  復旧に向けた動きも徐々に

★能登半島地震  復旧に向けた動きも徐々に

   能登半島地震の発生からきょうで4週間が経った。半島の中ほどに位置し、人口4万7千人と能登で最も大きな自治体である七尾市を訪ねた。同市での最大の震度は6強、中心市街地は6弱の揺れに見舞われ、犠牲者は5人、住宅や店舗の全壊・半壊など被害は1万550棟に及んだ。

   中心街の老舗が並ぶ一本杉商店街を歩くと無残にも倒壊した店も。創業130年の和ろうそくの店で知られる「高澤ろうそく」は、建物が国の有形文化財に登録されているが、今回の地震で軒先が倒壊し、母屋も傾くなど大きな被害を受けた=写真・上=。同店はそれにもめげず、フランス・パリで開かれた世界最大規模のインテリアとデザイン関連の国際見本市「メゾン・エ・オブジェ」(今月18-22日)に出品し注目を集めたようだ(29日付・NHKニュースWeb版)。復興へのともし火のようなニュースだ。

   七尾市の中心街から北側にある和倉温泉に車で移動した。途中でJR七尾線の線路の修復工事が行われていた=写真・中=。金沢駅から七尾駅は今月22日に運転を再開したものの、七尾駅から和倉温泉駅の間は終日運転を取り止めている。レールのゆがみや架線柱が傾斜している箇所もあり、JRは2月中旬の運転再開を目指して復旧作業を進めている。

   和倉温泉街に入ると、いつものにぎわいはなく、閑散としていた。開湯1200年の歴史がある和倉温泉。建物の損壊などで22の旅館すべてが休業に追い込まれている。「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」(旅行新聞社主催)で通算40回総合1位に輝くなど、「おもてなし日本一」の旅館として知られる「加賀屋」でも入り口に立ち入り禁止の規制線がはられていた=写真・下=。入り口には歪んでいるところもあり、建物を眺めると外壁の一部が落ちてる。内部は揺れで食器なども相当に散乱したに違いない。

   ただ、復旧に向けた動きも始まる。七尾市では1万5100戸が断水となっていたが、水道の送水は順次復旧しており、和倉温泉地区への送水は3月中頃の見通しだ(28日付・七尾市役所公式サイト「水道 県・自エリア別一覧及び復旧状況確認表」)。電気はすでに復旧しており、水道の復旧で温泉街に一日も早く活気が戻ることを祈る。

⇒29日(月)夜・金沢の天気   くもり

☆能登半島地震 共助の心意気「能登はやさしや土までも」

☆能登半島地震 共助の心意気「能登はやさしや土までも」

   震度6弱の揺れがあった中能登町をきのう訪れた。能登半島の中ほどに位置するこの町には国指定の史跡「雨の宮古墳群 」がある。北陸地方最大級の前方後方墳と前方後円墳が隣接する。4 世紀から5世紀(弥生後期)の古墳で、眉丈山(びじょうざん・標高188㍍)の山頂にあり、邑知(おうち)地溝帯と呼ばれる穀倉地帯を見渡す位置にする。能登の王は自ら開拓した穀倉地を死後も見守りたいという思いで山頂に古墳を築いたのかもしれない、と想像を膨らませながら雪の山道に車を走らせた。

   ところが、道半ばでストップの貼り紙が。「地震のため 古墳は登れません 中能登町教育委員会」=写真・上=。関係者に問い合わせると、36基の古墳の中でも大きな1号墳と2号墳の頂上部分で数㍍にわたって地割れ走っていて、ブルーシートで応急措置を施している。適切な修復方法を文化庁などと模索中で、当面の間は立ち入り禁止となるとのことだった。これまで、学生たちを連れて能登スタディツアーを実施する際には能登の歴史を理解するポイント地点として雨の宮古墳群 を訪れていた。行政予算は生活や交通インフラなどが優先されるのが常だが、地域が誇る文化財の修復を願う。

   冒頭で述べたように、中能登町は古くから広大な平地でコメづくりが営まれた豊かな地域だ。その様子は街並みを見れば理解できる。「あずまだち」あるは「あずまづくり(東造り)」と呼ばれる切妻型の屋根は建物の上に大きな本を開いて覆いかぶせたようなカタチをしている。黒瓦と白壁のコントラストも特徴的で、旧加賀藩の農家の伝統的な建築様式とも言われている。

   大きく損壊した建物はないように見受けられたが、白壁の部分が剥がれている家が相当あった=写真・中=。タテ揺れやヨコ揺れに本体はなんとか耐えたものの、外部では屋根瓦や白壁が落ち、内部では神棚やタンスなどが倒れただろうと察した。通りを歩くと、「瓦が落ちます 危険」と貼り紙をしている民家もあった。

   町の様子を眺めながら車で走ると、「能登は 負けません!! 震災復興にがんばりましょう」「能登に 暖かいご支援 ありがとうございます」と書かれた看板が目に入った。看板の場所は国道159号に面した道の駅「織姫の里なかのと」。この看板を見て、「能登はやさしや土までも」という言葉を思い起こした。

   この言葉はこの地域の共助の精神を表現する言葉としてよく用いられる。被災地には「自主避難所」が数多くある。難を逃れた自宅や納屋、ビニールハウスなどを開放して近所や知り合いの人たちと助け合いながら避難所生活をしているケースだ。配給や医療巡回などでいろいろ問題も指摘されているが、共助による生き残りの精神が根付いている。自助でも公助でもなくまず共助、「能登は  負けません」はその心意気を象徴する言葉かもしれない。

⇒27日(土)夜・金沢の天気    くもり時々あめ

★能登半島地震 白山麓で学ぶ集団避難の中学生たち

★能登半島地震 白山麓で学ぶ集団避難の中学生たち

   きょうの各紙の朝刊によると、気象庁はこれまで能登半島地震は震度7が志賀町、震度6強が輪島市、珠洲市、七尾市、穴水町と発表していたが、地震発生時に通信が途絶えていた輪島市と能登町の2ヵ所の震度計のデータを解析すると、輪島市の震度計では震度7、能登町の震度計では震度6強を記録していることが分かった。また、輪島市できのう倒壊家屋から新たに3人が見つかり、同市の犠牲者は101人、石川県全体では236人になった。震災から25日経つが被害の全体がつかめていないのが現状だ。

   先日、輪島市の避難所に身を寄せている知人と電話で連絡を取った。本人にはエコノミークラス症候群の兆しもなく、周囲に感染症の人もいないので「おかげさんで無事に暮らしている」とのことだった。ただ一つ、「孫のようすを見てきてほしい」と頼まれた。16日まで中学生の孫を含めて5人での避難所生活だったが、17日からは中学生の集団避難が始まり、金沢市の南の白山市にある県の施設にいるとのこと。

   被災地の中学生たちの集団避難についてはこのブログ(17日付)で述べた。輪島市では地震の影響で授業再開の見通しがたたないことから、市内3つの中学校の生徒401人のうち保護者の同意を得た258人が白山市にある「白山青年の家」と「白山ろく少年自然の家」に3月まで集団避難させている。授業は避難先の施設のほか、市内の中学校などで行われる。3年生は高校受験を控えていて、生徒たちの学びの環境を確保することを最優先したのだろう。

   そこで、おととい24日に白山ろく少年自然の家に行って来た=写真・上=。白山麓は雪深いところで、周囲の積雪は35㌢ほどだった。ここに輪島市の1年生と2年生が集団避難をしている。訪れた時間は午後5時ごろだったので、授業は終わっていた。玄関のロビーに入ると、中学生たち5、6人が談笑している様子が見られた。教員の人と立ち話をした。この施設では130人ほどが避難しているという。ただ、親が金沢に移住したり、親戚の家があずかることになったりと個別の事情があり、人数は一定していないとのことだった。

   依頼を受けた知人には白山ろく少年自然の家の写真と、子どもたちが談笑している雰囲気をメールで伝えた。「それだけで十分、ほっとした」との返信があった。被災地で大変な思いをした子どもたちが集団避難での生活と学びを通じてさらに一歩成長することを願う。

   以下はまったくの自身の妄想だ。能登の中学生たちは国連食糧農業機関(FAO)の世界農業遺産に認定された「能登の里山里海」について学んでいることは知っている。集団避難をしている白山麓はユネスコの世界ジオパークに認定されている(2023年5月)=写真・下=。そこで、教員と立ち話をした折に「せっかくですから、ジオパークについて生徒たちも学んではどうですか」と提案しようと思ったが、余計なことを言うべきではないとの思いもあり結局、口にはできなかった。

   ただ、施設にはジオパークの関連資料もあり、生徒たちは白山を眺めながら資料を手に取って自主的に学ぶかもしれない。

⇒26日(金)午前・金沢の天気   くもり

☆能登半島地震 台湾から民間寄付25億円 歴史と体験共有

☆能登半島地震 台湾から民間寄付25億円 歴史と体験共有

   能登半島地震への寄付金について、林官房長官は23日の記者会見で、台湾政府が民間から募った25億円以上の寄付金に謝意を表明した。「多大なる支援をいただき、深く感謝する。台湾の日本に対する友情の証しだ」と述べた。 地震発生直後に台湾政府から受けた6千万円の義援金にも触れ「台湾との間では、これまでも自然災害や新型コロナウイルス禍において相互に支援してきた」と強調。支援金を有効に活用するため調整する考えを示した(23日付・共同通信Web版)。

   台湾から驚くほど多額な寄付金が寄せられたのは単なる「友情の証し」ではないような気がする。台湾の人々の石川県、そして金沢に寄せる思いは別の数字でも表れている。石川県観光戦略推進部「統計から見た石川の観光」(令和3年版)によると、コロナ禍以前の2019年の統計で、兼六園の日本人以外の国・地域別の入場者数のトップは台湾なのだ。数にして16万4千人、次は中国の4万4千人、香港3万7千人、アメリカ3万人の順になる。なぜか。その理由で一つ言えるのは、台湾での石川県、金沢の知名度が高いのだ。それにはある歴史がある。

   台湾の日本統治時代、台南市に当時東洋一のダムと称された「烏山頭(うさんとう)ダム」が建設された。不毛の大地とされた原野を穀倉地帯に変えたとして、台湾の人たちから日本の功績として今も評価されている。このダム建設のリーダーが、金沢生まれの土木技師、八田與一(1886-1942)だった。烏山頭ダムは10年の歳月をかけて1930年に完成した。ただ、日本国内では1923年に関東大震災があり、八田にとっては予算的にも想像を絶する難工事となった。(※写真は、台湾・烏山頭ダムを見渡す記念公園に設置されている八田與一の座像=台北ナビ公式ホームページより)

   ダム建設後、八田與一は軍の命令でフィリピンに調査のため船で向かう途中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃で船が沈没し亡くなった。1942年(昭和17年)5月8日だった。終戦直後、八田の妻は烏山頭ダムの放水口に身投げし後追い自殺する。

   2021年5月8日、八田與一の命日に、ダム着工100年を祝う式典が現地で営まれ、蔡英文総統をはじめ首相に当たる行政院長や閣僚などの要人が出席している。式典では蔡総統は「ダムと灌漑施設の水は100年流れ続けている。台湾と日本の友情も双方の努力によって続いていくことだろう」と、功績をたたえた。台湾の民主化を成し遂げ、哲人政治家としても知られる元総統、李登輝氏(2020年7月死去)が2004年12月に金沢に来て、八田に関する展示と胸像がある「金沢ふるさと偉人館」を訪れている。

   その八田與一のふるさとが激震に見舞われた。台湾でも1999年、最大震度7の地震が襲い、2500人以上の死者を出す甚大な被害があった。歴史的なつながりと災害体験の共有が台湾の人たちを寄付行為へと駆り立てたのかも知れない。

⇒25日(木)午後・金沢の天気   くもり