☆「能登はやさしや」のルーツ 消滅可能性を免れた町のこと
日本はこのままいけば、2050年には全国の市区町村のうち4割にあたる744の自治体が「消滅する可能性がある」と、民間組織「人口戦略会議」が公表した(24日)。同じく民間組織「日本創生会議」が2014年に「消滅可能性都市」という
言葉で初めて発表して衝撃が走ってから10年だ。消滅する、しないは2020年から2050年にかけて20代から30代の若い女性の人口が半減するか、しないかが基準で、半減する場合は将来的に「消滅の可能性がある自治体」と定義している=図・上=。
人口戦略会議が公表した「令和6年・地方自治体『持続可能性』分析レポート」によると、自身が暮らす石川県の19の市町のうち9つが「消滅可能性」となる。その9つのうち若年女性人口減少率がもっとも高いのは能登町で減少率が73.1%、以下穴水町、珠洲市、宝達志水町、輪島市、志賀町、羽咋市、七尾市、七尾市、加賀市となる。9つのうち8つ
が能登地区になる。
残念な言い方になるが、もともと過疎高齢化が進んでいるところにきて、最大震度7の揺れに見舞われた能登半島では人口流失が激しく、消滅可能性に拍車がかかっている。
ただ唯一、能登の自治体で「消滅可能性」の対象外となったところがある。中能登町だ。若年女性人口減少率は44.3%で、なんとか50%を下回っている。この中能登町というところは、じつに人にやさしい風土がある。「能登はやさしや土までも」という言葉の発祥の地でもある。元禄9年(1696)に加賀藩の武士がこの地の石動山にという山に上ったとき、この地の馬子(少年)が馬をなだめながら、険しい山道を登り切ったことを、「能登はやさしや土までも」を用いて日記に記している。
※【図・下】中能登町にある国史跡「雨の宮古墳群」の山のふもとに一青(ひとと)という地名がある。歌手で作詞家の一青窈の先祖の地でもある。同町には花見月(はなみづき)という地名もあり、描かれている田園風景が広がる
また、町役場では「障害攻略課プロジェクト」という、ハード面のバリアフリーだけでなく、「心のバリアフリー」を推進している。誰もが分け隔てなく、気軽に交流し暮らすことができる町づくりを、基幹産業である繊維会社などと連携して取り組んでいる。2016年と2017年に繊維技術を活用し、義足の女性たちによるファッションショーを開催するなど評価を高めた。
また、人へのやさしい土地柄にプラスして、町の遊休地を活用して7ヵ所で宅地開発などを積極的に行っている。1人の女性が一生のうちに産む子どもの数の指標となる「合計特殊出生率」は2020 年で1.83と県内でトップだった。金沢までは1時間の通勤圏でもあり、積極的な施策が若い世代を呼び込んでいる。
もちろん、中能登町の施策は消滅可能性への強い危機感を持った対応であることは言うまでもない。
⇒26日(金)夜・金沢の天気 くもり
とくに地震の被害が大きかった奥能登では、「九六の意地」という言葉がある。間口9間(約16㍍)奥行き6間(約11㍍)の大きな家を建てるのが男の甲斐性(かいしょう)とする風土だ。黒瓦と白壁、そして九六の威風堂々とした建物が奥能登で立ち並んでいる。奥能登の4市町(輪島、珠洲、穴水、能登)の被災地では、建物の構造がしっかりしていて揺れには耐えたが、裏山のがけ崩れで横倒しになった住宅をよく見かけた。そこで思ったのが、九六の家に住んでいる人たちはコンパクト化した仮設住宅で不便ではないだろうか、という懸念だった。(※写真は、裏山のがけ崩れで倒壊した大きな民家=1月30日、珠洲市で撮影)
伝説の続き。その時忠の子孫が輪島市町野町の時国家とされる。2軒ある時国家のうち丘の上にある「上時国家」は去年8月まで一般公開されていたので、これまで何度か訪ねた。入母屋造りの主屋は約200年前に造られ、間口29㍍、高さ18㍍に達する。幕府領の大庄屋などを務め、江戸時代の豪農の暮らしぶりを伝える建物でもある。国の重要文化財指定(2003年)の際には、「江戸末期の民家の一つの到達点」との評価を受けていた。
網野氏が読み解いた膨大な上時国家文書8千点余(石川県指定文化財)が、元日の地震で家屋の下敷きになった。厚さ約1㍍におよぶ茅葺の屋根が地面に覆いかぶさるように倒壊した。メディア各社の報道によると、今月20日に国立文化財機構文化財防災センターのスタッフ、石川県教委や輪島市教委の職員、大学教授ら20人が「文化財レスキュー」活動を行い、主屋と離れを結ぶ廊下に保管されていた古文書を運び出した。一部に水ぬれやカビが見られ、現地で修復作業が施されるようだ。
け崩れが起き、集落が孤立した。さらに、がけ崩れで谷川がせき止められる「土砂ダム」ができ、各地で民家や集落が水に浸かった。また、隆起して白くなった海岸線が何㌔にも渡って続いていた。このリアルな能登の被災地の状況を知ることができたのはテレビ映像より、むしろドローンによる画像だった。(※写真は、土砂ダムで孤立した輪島市熊野町の民家=1月4日、国土交通省TEC-FORCE緊急災害対策派遣隊がドローンで撮影)
数字だけを眺めると、たとえば珠洲市の断水は当初4800戸(1月4日時点)だったので、遅い早いは別として徐々に復旧している。先日(4月15日)、1930棟の住宅が全半壊した穴水町を訪ねた。仮設住宅の近くを通ると、洗濯物が干してある様子が見えた=写真=。ささやかな光景だが、生活実感が見て取れ、地域の復旧へと動き出しているようにも思えた。
出ると目がかゆくなり、のどに違和感も感じる。毎年のことだが、何ともやっかいな「空からの贈り物」だ。
石川県農林水産部は、奥能登地域の4市町(輪島、珠洲、穴水、能登)の農家を対象に調査を行うなどして、ことしのコメの作付け面積を推計した。それによると、去年の6割程度の1600㌶にとどまり、また例年この時期に行われるカボチャやブロッコリーといった野菜の作付け面積は去年の5割程度の35㌶になる見通しであることが分かった(4月17日付・NHK石川ニュースWeb版)。ただ、この調査は欠損したため池や用水路が4月中に復旧見込みとして算定したもので、実際に水を引いてみないと分からない水田もあり、作付け面積が変動する可能性がありそうだ。
NHKの地震速報で、「南海トラフが来たか」と誰もが一瞬思ったのではないだろうか。今回の地震は、南海トラフ巨大地震の想定震源域内で起きているからだ。NHKの解説によると、想定震源域内でM6.8以上の地震が発生した場合、気象庁は「南海トラフ地震臨時情報」を発表するが、今回はM6.6で基準未満だった。また、南海トラフ地震は、フィリピン海プレートと陸側のプレートの境界部分が震源となるが、今回は深さ39㌔のフィリピン海プレートの内部で発生したと推定され、地震のメカニズムが異なり、南海トラフ地震の可能性が高まっているわけではないというのが気象庁の見解のようだ。
話は変わる。元日の地震で震度5強を観測した金沢市田上新町ではがけ崩れが起き、民家4軒が道路ごと崩れ落ちた=写真・上、1月2日撮影=。場所は金沢大学角間キャンパス隣地の山手の住宅街だ。きのう現地に行くと、崩れ落ちた4軒の民家は解体・撤去されていた=写真・下、4月17日撮影=。現場を眺めながら考えたこと、それは「事はこれで終わったのだろうか」という思いだった。2月13日に現場を訪れたときに、この近くに40年余り住んでいるというシニアの女性から聞いた話だ。「このあたりで30年前にも大雨で土砂崩れがあって、2度目なんですよ」と。
きく傾いている。地震前日の大みそかに多くの人たちが除夜の鐘をつきに訪れただろうと思うと、地域の人たちが鐘楼堂を見るたびに感じるであろう緊張感が伝わってくるようだった。あの鐘楼堂はどうなったのだろうかと気になっていた。
前回ブログの続き。能登鹿島駅の桜を見て、その後、穴水町で16人が亡くなった由比ヶ丘地区をめぐった。一帯には大量の土砂が積み上がり、巻き込まれた家や車が流されていた。現場はそのまま残されていた=写真・上=。今月12日に当地を訪れた天皇、皇后両陛下が黙礼をされた場所でもある。海岸沿いを走り、能登町鵜川地区に入った。古い伝統的な家並みが多い地区で、全壊の住宅も目立った。
そして、同じ能登町の白丸地区に入った。同町ではもっとも被害が大きかった地区でもある。白い砂浜が円を描くような風光明媚な地区で、地名そのもの。ここに地震、火災、そして津波の複合災害が起きた。火災に見舞われた一帯では黒くなった車や焼け残った瓦が積み重なっていた。気象庁によると、4.7㍍(痕跡高)の津波が200世帯の白丸地区に到達した。発生から3ヵ月半がたっても、大量のがれきが散乱していた=写真・下=。
無人駅のホームに入ると、線路を囲むようにヨメイヨシノが咲いている。アマチュアカメラマンや見学に来た人たちが200人ほどいただろうか。昭和7年(1932)に鉄道の開通を祝って桜が植えられた。それ以降も鉄道会社や地域の人たちが少しずつ植え、いまでは100本余りのソメイヨシノやシダレ桜が構内を彩っている。
のと鉄道は今回の地震で線路が歪むなど大きな被害に見舞われた。今月6日、およそ3ヵ月ぶりに全線での運転再開にこぎつけた。震災直後のガタガタとなった線路を実際に見ている能登の現地の人々にとっては、満開の桜のトンネルと列車の様子を見てようやく日常への一歩と実感しているかもしれない。