⇒ドキュメント回廊

★能登地震から半年の風景~⑥ 逆境で盛り上がる「あばれ祭」

★能登地震から半年の風景~⑥ 逆境で盛り上がる「あばれ祭」

  逆境でこそ盛り上げる、それが能登町宇出津の「あばれ祭(まつり)」の本命なのだろう。キリコを担ぐ人、鉦(かね)と太鼓をたたく人、笛を吹く人、沿道で声援を送る人が一体となった祭りだ。きのう(5日)夜、祭りを見に行った。能登にこれだけ人がいるのかと思ったくらい人でにぎわっていた。

  「イヤサカヤッサイ」の掛け声が、鉦(かね)や太鼓と同調して響き渡る。高さ6㍍ほどのキリコが柱たいまつの火の粉が舞う中を勇ましく練り歩く=写真・上=。数えると、神輿2基とキリコ37基が港湾側の広場に集っている。キリコの担ぎ手は老若男女で衣装もそれぞれ。キリコに乗って鉦と太鼓をたたく人、笛を吹く人には女性も多い=写真・下=。熱気あふれるとはこの事をことを言うのだろうと実感した。

  祭りは暴れることで神が喜ぶという伝説がある。江戸時代の寛文年間(1661-73)、この地で疫病がはやり、京都の祇園社(八坂神社)から神様を勧請し、盛大な祭礼を執り行った。そのとき大きなハチがあらわれて、病人を刺したところ病が治り、地元の人々はこのハチを神様の使いと考えて感謝した。それから祭りでは「ハチや刺いた、ハチや刺いた」とはやしながら練り回ったというのが、この祭りのルーツとされる(日本遺産「灯り舞う半島 能登〜熱狂のキリコ祭り〜」公式ホームページより)。

  逆境に立たされれば、立たされるほど闘争心をむき出しにして元気よくキリコを担ぐ、そのような言い伝えのある祭りなのだ。元日の震災で能登町では関連死を含めて28人が亡くなっている。町内外の仮設住宅や親類の家に身を寄せるなどしている住民も多い。そんな中で祭りを実行した。おそらく、担ぎ手の中には宇出津以外からの応援の人たちも大勢いるに違いない。そんなキリコチームが団結して心を一つにして担ぎ上げる祭りの風景なのだ。震災にめげない能登の人々の意地でもある。

  祭りは今夜まで行われ、神輿を川に投げ込んだり、火の中に放り込むなど、担ぎ手が思う存分に暴れる。

⇒6日(土)夜・金沢の天気     くもり

☆能登地震から半年の風景~⑤ 複合災害で地区ごと集団移転へ

☆能登地震から半年の風景~⑤ 複合災害で地区ごと集団移転へ

  金沢の自宅の近所にある銀行支店できょう4日から新札の両替を始めるとの貼り紙があったので、さっそく行って来た。午前10時30分から手続きを開始するというので、午前10時15分ごろに行くと、すでに20人ほどが列をなして並んでいた。両替の枚数には制限がある。1人につき「1万円札は20枚、5千円札は10枚、千円札は20枚まで」とある。それにしても、旧札も使えるのになぜ新札を求めるのか。金沢だけではないかもしれないが、茶道や華道の習い事の月謝はピン札でという暗黙の了解がある。それでもこんなに並ぶものか。待って30分で両替が完了し、手数料は消費税込み110円だった。

  話は変わる。元日の能登半島地震ではさまざまな複合災害が発生した。そうした被災地の一つが能登町白丸地域。白い砂浜が円を描くような風光明媚な湾岸の地区で、地名そのもの。ここに地震、火災、そして津波の複合災害が起きた。4月15日に現地をめぐった際も、火災に見舞われた一帯では黒くな焼けた車や焼け残った瓦が積み重なっていた=写真=。気象庁によると、4.7㍍(痕跡高)の津波が200世帯の白丸地区に到達した。発生から半年がたっても、大量のがれきがそのままになっている。

  その白丸地区では集落ごと高台に移住する集団移転について行政側と協議を行っている。地元メディアの報道によると、白丸地区の住民代表と行政側がきのう3日に協議し、まず住民の合意形成を図ることを目的に「白丸地区復興推進委員会(仮称)」を今月内に立ち上げ、集団移転の是非を問う住民アンケートを実施することになった。現在、30世帯が旧小学校のグランウンドに建てられた仮設住宅に入居しているが、地区内の高台での家の再建を希望する声が上がっていることから行政との協議に踏み込んだようだ。今のところ反対意見はなく、8月か9月までにアンケートの集計を終える段取りのようだ。

  地震による地滑りで集落が損壊した輪島市稲舟地区でも集団移転が検討されている。60世帯のうち連絡が取れている住民の4割、5割が集団移転を希望しているという。地滑り地帯は地震だけでなく、大雨などによる二次災害もあり、仮設住宅の入居期間(最長2年間)が終わったらどうするか、被災した人々の心に重くのしかかる。個人で悩むのではなく、集団移転をテーマに地域の問題として取り組む動きが出てきたようだ。

⇒4日(木)午後・金沢の天気    はれ

★能登地震から半年の風景~➃ 復興タスクフォース動き出す

★能登地震から半年の風景~➃ 復興タスクフォース動き出す

        震災から半年がたつものの、能登の被災地では青いビニールシートで覆われた屋根があちらこちらで見える。屋根の一番上にある棟瓦の一部がはがれるなど屋根瓦に被害が出ているようだ。能登の知人から話を聞くと、屋根の修繕をする業者とコンタクトを取っても、2ヵ月や3ヵ月先の待ちとなるという。屋根瓦の被害など一部損壊は石川県全体で5万9700棟にもおよぶ(7月1日現在・石川県危機対策課まとめ)。きょうは特に暑い。金沢の最高気温は35度と猛暑日=写真・上、午後3時30分ごろ撮影=、輪島は33度の真夏日だった。屋根に上って修繕をする業者にとっては、過酷な一日だったのではないだろうか。

  岸田総理は発災からちょうど半年の今月1日、輪島市の能登空港で、復興支援にあたる政府の専門組織「能登創造的復興タスクフォース」の発足式を開いた。関係省庁から派遣された職員150人余りが能登に常駐し、復興作業を加速させる。メディア各社の報道によると、岸田総理は「復興の隘路(あいろ)となる課題を霞が関一体となって解決する」と述べ、政府が一丸となり復興を迅速化させること強調した。(※写真・下は、総理官邸公式サイトより)

  総理の被災地入りは2月24日以来の3度目で、6月21日の記者会見でタスクフォースの設置を表明していた。今後、被災者の生活再建、家屋の公費解体の迅速化、上下水道の宅内配管の修繕、漁港の復旧、液状化対策といった幅広い分野で、各省庁と県、市町の職員が関係機関と連携して対応していくことになる。

  ところで、総理が述べた「復興の隘路」とは何か。単純に解釈すれば、復興を進めるうえでの妨げを意味する。たとえば、予算措置だろう。漁港の護岸の復旧となると水産庁の漁港漁場整備事業予算からの支出となるが、漁港内で道路と一体化した護岸もある。この場合は国土交通省の港湾関係災害復旧事業の予算枠ではないだろうか。このような2つのケースが同じ漁港であった場合、水産庁と国交省のスタッフが現地で調整することでに護岸の復旧費用が迅速に賄うことができるのかもしれない。

  タスクフォース発足式の後、岸田総理は観光名所でもある七尾市の和倉温泉の現状を視察した。海に面した旅館が多くあり、護岸が崩れたため大半が今も休業を余儀なくされている。護岸の復旧工事を国が主導していく考えを示した総理は「日本有数の温泉地である和倉温泉の再生は、能登地域のなりわい再建の象徴だ。あらゆる手段を活用して進めたい」と語った(7月1日付・NHKニュースWeb版)。そして、この後、能登地域を対象に観光客の宿泊代の7割を補助する「復興応援割」を実施する意向を明らかにした。時期は示されなかったが、現地で観光客の受け入れが可能になり次第始まる見通し。

  岸田総理は「増税メガネ」などと揶揄されているが、被災地に向けたメッセージは的を得ていて、能登の人々の心をつかんでいる。総理がいつ辞するのか注目されているが、能登に常駐する150人の復興タスクフォースの面々には総理の志(こころざし)をしっかり継いでほしい。

⇒3日(水)夜・金沢の天気   はれ時々くもり

☆能登地震から半年の風景~③ 逆境にめげない熱狂の「あばれ祭」

☆能登地震から半年の風景~③ 逆境にめげない熱狂の「あばれ祭」

      先日(6月24日) 能登空港近くの県道を通ると道路規制の看板が見えてきた=写真・上=。「7月5日・6日 あばれ祭の為 宇出津町内は全域通行止となります」と書いてある。交通規制予告の看板を出したのは「宇出津祭礼委員会 珠洲警察署長」とある。これを見ただけで、祭りで地元が盛り上がっていると感じた。

  能登では「盆や正月に帰らんでいい、祭りの日には帰って来いよ」、「1年365日は祭りの日のためにある」という言葉があるくらい、能登の人々は祭りが好きといわれる。その能登の祭りで、一番威勢のいい祭りとして知られるのが、能登町宇出津(うしつ)の「あばれ祭」だ。この祭りは曳山巡行ではなく、地元でキリコと呼ぶ「切子灯籠(きりことうろう)」を担いで巡行する。

  40基のキリコが繰り出し、広場に集まって松明(たいまつ)のまわりを勇壮に乱舞するのが見どころだ=写真・下=。また、神輿を川に投げ込んだり、火の中に放り込むなど、担ぎ手が思う存分に暴れる。祭りは暴れることで神が喜ぶという伝説がある。江戸時代の寛文年間(1661-73)、この地で疫病がはやり、京都の祇園社(八坂神社)から神様を勧請し、盛大な祭礼を執り行った。そのとき大きなハチがあらわれて、病人を刺したところ病が治り、地元の人々はこのハチを神様の使いと考えて感謝した。それから祭りでは「ハチや刺いた、ハチや刺いた」とはやしながら練り回ったというのが、この祭りのルーツとされる(日本遺産「灯り舞う半島 能登〜熱狂のキリコ祭り〜」公式ホームページより、写真・下も)。

  逆境に立たされれば、立たされるほど闘争心をむき出しにして元気よくキリコを担ぐ、そのような言い伝えのある祭りなのだ。元日の地震では、キリコの材料を作る製材所と、神輿を製作する工務店の作業場や仕事道具が壊れたりしたため、地元の有志らがクラウドファンディングで復旧に必要な資金を必死になって集めた。その甲斐あって、祭りの開催にこぎつけることができた。

  あばれ祭は夏から秋にかけて能登各地で行われるキリコ祭りの先陣を切る代表的な祭りでもある。発災から半年、地震に負けない、能登人の意地をむき出しにするあばれ祭に期待したい。

⇒2日(火)夜・金沢の天気     あめ

★能登地震から半年の風景~➁ 被災者の気持ち「復興遅い」、でも「地元で住む」

★能登地震から半年の風景~➁ 被災者の気持ち「復興遅い」、でも「地元で住む」

  能登半島地震からきょう7月1日で半年を迎えた。石川県危機対策課のまとめによると、家屋の倒壊などによる犠牲者を直接死として230人を数えていたが、うち輪島市の1人に関しては関連死であったことが分かり、229人に数字を訂正した(6月27日時点)。また、関連死は医師や弁護士らによる審査会でこれまで70人が認定されており、直接死と関連死を合わせた死者数は299人となる。関連死についてさらに100件以上の申請が遺族から寄せられていて、死者数は今後も増える見込みだ。また、生存が確認されていない行方不明者が3人、重軽症者は1491人となっている。

  いまも避難生活を余儀なくされている被災者は2288人に上る。うち、市や町の1次避難所には970人、県が指定した金沢などの宿泊施設での2次避難所には1222人、などなっている。(※写真は、輪島市朝市通り周辺で進められている公費解体の作業=6月6日撮影)

  この半年を被災者はどう思っているのか。地元メディアは被災者に対して行ったアンケート調査をきょうの紙面で掲載している。北國新聞が210人から得た回答(調査6月18-26日)によると、復旧・復興の実感について77人が「ない」、72人が「あまりない」と答え、「ある」は12人、「ややある」は39人、「どちらとも言えない」は10人だった。「ない」が7割が占めている。復興の遅れを感じる点(複数回答)では、「公費解体」が163人ともっとも多く、以下「道路の修繕」、「地域経済の再生」、「復旧業者の確保」、「仮設住宅の整備」と続いた。「その他」としてライフラインの復旧や介護体制の整備を指摘する人もいた。

  北陸中日新聞が輪島市と珠洲市の仮設住宅に暮らす105人から得た回答(調査5月27日-6月4日)によると、生活再建を進めたい場所として、「市内」との回答が80人、「分からない・決められない」が21人、「能登半島以外」が4人だった。恒久的な住まいをどう確保したいかの設問には79人が答え、「自宅の再建・修復」が39人、「災害公営住宅(復興住宅)」が16人、「分からない、決められない」が14人だった。

  上記のアンケートを読むと、被災者の気持ちとして、「復興は遅い」、でも「地元に住みたい」ということだろうか。

⇒1日(月)午後・金沢の天気   あめ後くもり

☆能登地震から半年の風景~①  全半壊の公費解体まだ4%

☆能登地震から半年の風景~①  全半壊の公費解体まだ4%

  あす7月1日で能登半島地震から6ヵ月になる。被災地をめぐると、発災当時のそのまま状態、そして、復興に動き出した光景が交互に目に入ってくることがある。そのことを知人たちと話すと、「たかが半年」「されど半年」などと、復旧・復興の時間の問題で論議がわくことがある。そこで、「能登地震から半年の風景」と題して、いまの被災地の風景を見てみたい。

  被災地をめぐりまず感じるのは倒壊した家屋などがそのままになっているところが多いことだ。石川県全体で住家の全半壊が2万4799棟(6月27日時点)あり、政府が能登半島地震を特定非常災害に指定したことから、自治体が費用を負担する公費解体が可能となった。公費解体は所有者の申請、あるいは同意に基づいて行われる。県では公費解体の作業を来年度末までに終える計画だ。

  その作業日程は可能なのか。地元メディア各社の報道によると、今月6月27日の馳知事の記者会見で公費解体について説明し、2万865棟について申請があり2601棟で着手、これまで申請の4%にあたる911棟(自費、緊急解体を含む)で完了した、と述べた。公費解体は各自治体で4月から始まっている。ペースが遅いのではないかと記者から問われ、馳知事は「地理的条件など様々な要件が重なっている。全くそれを否定するつもりはない」「来年度末の完了をめざす考えは変わらない」などと答えている。はたして知事の言葉通りに作業が進むのか。

  また会見では、仮設住宅は6810戸の需要に対し、6642戸を着工し、今月末には当初目標の5000戸の完成を達成できるとした。ただ、仮設住宅を造ればそれでよいのだろうか。入居した人たちの中には、知り合いがいないために孤独を感じるといった人も多いのではないか。ゴミ出しや駐車場の使い方など生活に関するルールがないことに対する不安の声などもあがっているだろう。

  県は仮設住宅を管理する市と町に対して、仮設住宅の住民に自治組織の設立を促すよう求める通知を出した。現在までに自治組織ができたのは71の仮設住宅の団地のうち16のみだ(6月30日付・NHKニュースWeb版)。

  そもそも仮設住宅での暮らしは、日常ではない非日常での生活だ。団結する家族もあれば、逆に夫婦喧嘩や親子喧嘩、DVなどが顕在化することもあるだろう。限られた空間で長い時間を共に過ごすことで、予想もしなかった人間の関係性が露呈する。

(※写真・上は輪島市町野町の倒壊家屋。写真・下は同じく町野町の仮設住宅=6月17日撮影)

⇒30日(日)夜・金沢の天気    あめ時々くもり

★「ニューヨーク」の復旧が未来志向の能登復興につながるか

★「ニューヨーク」の復旧が未来志向の能登復興につながるか

  能登半島の尖端をめぐる国道は「249号」、地元では数字をもじって「ニューヨーク」と呼ぶ人もいる。それほど地域に密着し、生活に欠かせない道路なのだ。そして観光ルートでもある。輪島市の白米千枚田を縦貫し、名所の窓岩がある曽々木海岸を通り、珠洲市の揚げ浜式塩田へとつながる。それが、元日の地震でニューヨークがズタズタになった。千枚田などがある北部海岸は「外浦」と称され、リアス式海岸で海と山々を通る249号は奥能登の大動脈でもあるが、土砂崩れなどで5ヵ所が寸断となった。

  そのうちの1ヵ所は千枚田の近くあった。山が崩れ、海岸にまで土砂が落ちた。国土交通省が陣頭指揮を執って、地震で隆起した海岸沿いに迂回路(幅5㍍の1車線、長さ430㍍)を新設し、先月5月2日に通行が可能になった。もう1ヵ所、珠洲市街と外浦を結ぶ249号の大谷トンネルが崩れたため、県道などを迂回路として確保した。

  249号の寸断箇所は残り3ヵ所。そのうちの一つ、勇壮な太鼓で知られる御陣乗太鼓の発祥の地の輪島市名舟町から曽々木海岸に行く途中の道の崩壊がすさまじい。ネット上で掲載されている国交省の「能登半島地震 国道249号 道路啓開5工区の状況」によると、道路そのものが大規模に崩落している=写真=。地元メディア各社の報道によると、国交省はこの現場で年内に1車線を確保するとしている。

  ほかの2ヵ所について、輪島市中心部から同市門前町をつなぐ中屋トンネルの崩落では、ことし9月末までに1車線を、年内に2車線を確保する。また、珠洲市の逢坂トンネル付近の土砂崩れについては年内に1車線を確保する。 

  報道によると、政府は28日、能登半島地震の復旧・復興に向け、2024年度予算の予備費から1396億円を支出することを閣議決定した。道路などのインフラ復旧に充てる。予備費からの支出は5回目で総額で5500億円に上る。また、来月7月1日には各省庁による「能登創造的復興タスクフォース」が発足する。150人規模のスタッフが省庁横断で能登復興に取り組む。未来志向のさまざまなアイデアの実現に期待したい。

⇒29日(土)夜・金沢の天気    くもり  

☆再生可能エネルギー「風力」が自然災害と向き合うとき

☆再生可能エネルギー「風力」が自然災害と向き合うとき

  きょうのブログの入力画面に、「ブログ開設から7000日」と表記されている。このブログのスタートは2005年4月28日なので、もう19年と2ヵ月だ。ただ、掲載回数を「カテゴリー」欄のものをすべて足すと3021回。ということは掲載は2.3日に1回の割合だ。50歳でブログを始めた当初は割とこまめにアップしていたが、途中から中だるみで月に数回という時期も続いた。還暦の60代に入ってからは「備忘録」という意味を込めてブログと向き合い再びこまめに掲載している。さて、いつまで続けることができるか。

  元日の震災で能登の風力発電の多くが停止していることをブログ(3月12日付)で取り上げた。あれから3ヵ月余り経ったが現状は変わっていないようだ。能登には長さ30㍍クラスのブレイド(羽根)の風力発電が73基もある。立地する場所は珠洲市が30基、輪島市が11基、志賀町が22基、七尾市が10基で、いずれも震度6弱以上の揺れがあった地域だ。そのうち再稼働したのは、志賀町にある日本海発電(本社・富山市)の9基のみ。

  先日(今月24日)珠洲市を訪れた際、山を見上げるとやはり風車はストップしていた=写真・上=。同市にある30基の風力発電を管轄している「日本風力開発」(東京)の公式サイトによると、発電所や変電所の敷地内外を徒歩によるアクセスやドローンおよび航空写真で確認した。その結果、1基についてはブレイド1枚の損傷を確認した、としている。「6月10日現在の状況」として、ブレイドの損傷原因を現在も引き続き追究中で、それ以外の風車およびほかの設備についても周辺安全に影響する損壊がないことを確認しながら、具体的な復旧方法や工程を関係機関とともに策定中、とある。しかし、再稼働の日程については公式サイトで記載はなかった。

  風力発電が立地している山の近くで山崩れが起きていることが目視で確認できる。以下は憶測だが、それぞれの風車までのアクセス(山道)が相当に崩れているのだろう。そのため、風力発電とつなぐ回線なども切れて電気が共有できなくなっているのではないだろうか。市内を車で走行していても、あちこちでがけ崩れなどを目にする=写真・下=。

  能登半島の沿岸部、特に北側と西側は年間の平均風速が6㍍/秒を超え、一部には平均8㍍/秒の強風が吹く場所もあり、風力発電には最適の立地条件と評価されている。風力発電の増設も計画されていて、13事業・181基について環境アセスメントの手続きが進んでいる。しかし、今回の地震での復旧のプロセス、たとえば行政などとの連携による山道の修復作業などの具体案などが示されなければ、今後の増設計画も難しくなるに違いない。

  風力発電は再生可能エネルギーのシンボルとされる。それが、自然災害にどう向き合うのか試されているのではないだろうか。

⇒27日(木)夜・金沢の天気     くもり 

★早朝の日本海に弾道ミサイル 能登地震の犠牲者300人に 来月17日から対面通行

★早朝の日本海に弾道ミサイル 能登地震の犠牲者300人に 来月17日から対面通行

       北朝鮮がまた日本海に向けて弾道ミサイルを発射した。防衛庁公式サイトによると、北朝鮮はきょう午前5時28分ごろ、少なくとも1発の弾道ミサイルを東方向に向けて発射した。EEZ(日本の排他的経済水域)の外側に落下したと推定される。最高高度は100㌔、飛距離は200㌔以上だった。北朝鮮による弾道ミサイル発射は5月30日以来で、その技術を用いた「人工衛星」の発射も含めてことしに入って7回目となる。(※イメージ図は、防衛省公式サイト「北朝鮮のミサイル等関連情報」より)

  日本海はスルメイカの漁場で、能登半島の小木漁港から出港した中型イカ釣り漁船などが今月から操業している。弾道ミサイル発射の情報に船主や乗組員の家族、漁業関係者はピリピリしたことだろう。

  今回の弾道ミサイルの落下はEEZ外と推定されているが、2017年3月6日に北朝鮮は中距離弾道ミサイル弾道を能登半島の輪島市から北200㌔のEEZ内に落下させている。EEZは国連海洋法条約で定められているが、北朝鮮は条約に加盟していない。また、日本と漁業協定も結んでいないことを盾に日本海は自国の領海であると以前から主張している。

  話は変わる。能登半島地震で金沢と奥能登(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)を結ぶ自動車専用道路「のと里山海道」は輪島方面のみの一方通行が続いているが、来月7月17日から対面通行が可能になる。国土交通省がきのう発表した。ただ、穴水町の能登大橋付近では路面が一部崩落しており、9月末まで工事用信号で行き交う片側交互通行となる。(※写真は、国交省公式サイト「報道・広報」資料より)

        地震による「災害関連死」がさらに18人増え70人となった。地元メディア各社によると、石川県はきのう(25日)、能登の3市町に対し遺族から認定申請があった23人について合同審査(委員は医師、弁護士)を実施し、うち18人を関連死と認定した。元日の地震による犠牲者は、家屋の下敷きになるなどの直接死が230人なので、今回の追認で関連死は70人となり、震災による犠牲者は300人に上る。関連死に認定された人の遺族には、災害弔慰金支給法に基づき、最大で500万円が遺族に支給される。 

  あさから弾道ミサイルのニュースが飛び込んできて、能登半島地震の関連情報でまとめる予定だったブログの文脈がごちゃごちゃになった。

⇒26日(水)午前・金沢の天気      くもり

☆能登半島の尖端で 自衛隊の「入浴支援」いまも続く

☆能登半島の尖端で 自衛隊の「入浴支援」いまも続く

  元日の能登半島地震からきょうで177日目。この日の重なりは自衛隊の災害派遣の日の重なりでもある。これまで不明者の捜索や物資搬送、給水支援などに当たってきた。2日目からは物資輸送の自衛隊のヘリコプターが航空自衛隊小松基地を飛び立ち金沢の上空を経由して能登へ飛んでいた。同日には救難物資を積んだ海上自衛隊の艦艇「せんだい」と「はやぶさ」が輪島港と珠洲市の飯田港に到着した。そして、道路が寸断し孤立した集落への物資輸送を担ったのは陸上自衛隊だった。その機敏な対応に驚きと同時に安心感を得たのを覚えている。その自衛隊の支援活動は今も続いている。

  きのう(24日)半島の尖端、珠洲市の被災地をめぐった。同市では3ヵ所で陸上自衛隊が入浴支援を続けている。その一つが市立宝立小中学校に設置されている仮設風呂。校舎の裏手に「男湯」テントと「女湯」テントがある=写真=。通りかかった中年男性に尋ねると、午後3時から入浴の受付が始まるとのこと。近くの仮設住宅に住んでいるという男性は「無料でとても助かっている」と話した。仮設住宅にも小さな浴槽はあるものの、足の膝を痛めていて足を伸ばすことができないので、ここを利用しているとのことだった。

  同市では現在、民営の入浴施設が2ヵ所あるが、施設の一部が破損しているためにてフル稼働していない。一方で入浴のニーズは高い。同市では学校の体育館や集会所に身を寄せている避難者が372人いる。また、半壊や一部損壊した住宅が4800戸余りあり、そこで暮らす人も多い。ただ、給水は可能になったが、ガス供給がストップして給湯器が使えなかったり、下水管が復旧していないために風呂の湯が流せないというケースもあるようだ。

  現在、陸上自衛隊はおよそ100人の隊員を投入して同市での入浴支援を続けている。防衛省は地元の要望に基づき、今後も支援を続ける方針という。宝立小中学校の裏に自衛隊の給水車が停まっていた。「第10師団災害派遣部隊 愛知県春日井市 春日井駐屯地」の幕がフロント部分に貼ってある。同じ石川県民としてこれまで177日の支援に感謝の気持ちと同時に、この「戦時体制」のような光景はいつまで続くのかとも思った。

⇒25日(火)午前・金沢の天気   くもり時々はれ