⇒ドキュメント回廊

☆高値の地物タケノコ 産地で見えた風景

☆高値の地物タケノコ 産地で見えた風景

前回ブログの続き。それにしても、地物のタケノコが高い。いくら裏年とはとは言え、3割高はどうなんだろうとふつふつと疑問がわいてきた。そもそも金沢はタケノコの産地でもある。そこで、近江町市場を出て、「別所のたけのこ」として知られる金沢市の山手の別所町に向かった。

ここのタケノコは、鮮度がよいものはアク抜きをせずに食べられると定評がある。シーズン中には沿道にタケノコの販売所が並び、市内から買いに訪れる人が大勢いる。「たけのこ市」は季節の風物詩にもなっている。きのう別所町に行くと2軒の販売所が開いていた。タケノコの出荷は始まったばかりで5月の連休が本番の忙しさなので、こんなものかと思ったが、それにしても2軒は少ない。シーズンにこの地を訪れるのは10数年ぶりだが、閑散とした印象だ。

現在の画像に代替テキストがありません。ファイル名: IMG_1943.jpg

そして、ある意味で愕然としたのが竹林だ。モウソウ竹の林が荒れている=写真=。もちろん管理された竹林は多くあるが、それにしても雑木が生え、折れたままの竹がそのままになっている竹林が目立つ。言葉は適切ではないかもしれないが、まさに「耕作放棄林」だ。これがタケコノの産地かと目を疑った。

ここから見えることは、金沢の山地の過疎・高齢化だ。竹林を管理する人が高齢化し、後継者も少なくなっているのだろう。その結果、放置された竹林の荒廃が広がっている。裏年によるタケノコの減少もさることながら、生産者そのものが減り出荷量も減っている。これが「地物1本2800円」の背景ではないだろうか。以上は自身の憶測だ。

竹林の荒廃問題は金沢だけでなく全国的で起きている。竹林を放置すれば、地域によっては年間6㍍のペースで広がるとの説もある。根が浅い竹林では豪雨による土砂崩れの事例もある。一方で、荒廃した竹林を環境問題ととらえ、竹を積極的に活用する動きもある。北陸のパルプメーカーは国産の竹を紙原料として使い商品化している。竹林の荒廃をどう防ぐか、まさに里山保全が問われている。

⇒25日(金)午前・金沢の天気  はれ時々くもり

★これじゃ「たけのこご飯」が食べられない

★これじゃ「たけのこご飯」が食べられない

自宅の庭先にヤマシャクヤク(山芍薬)とイチリンソウ(一輪草)が競うように白い花を咲かせている=写真・上=。山芍薬の白い花は丸いボール型に咲く、「抱え咲き」の花で、3日か4日で散ってしまう。花の命が短いだけに、けなげで清楚な感じがする。名前の由来の通り、もともと山中に自生している。根は生薬(鎮痛薬)として利用されることから、乱獲された時期もあった。今では環境省のレッドリストで準絶滅危惧種に登録されている。花言葉は「恥じらい」「はにかみ」。日陰にそっと咲く。

イチリンソウ(一輪草)は「スプリング・エフェメラル(春の妖精)」と称されるように、早春に芽を出し、白い花をつけ結実させて、初夏には地上からさっと姿を消す。一瞬に姿を現わし、可憐な花をつける様子が「春の妖精」の由来だろうか。1本の花茎に一つ花をつけるので「一輪草」の名だが、写真のように群生する。可憐な姿とは裏腹に有毒で、むやみに摘んだりすると皮膚炎を起こしたりする。

庭の花を横目に、きょう(24日)午前中、久しぶりに近江町市場を歩いた。季節ごとに行きアワビやサザエの夏、マツタケの秋、ズワイガニの冬、そしてタケノコの春の4回。市場内をめぐり、食して季節感を味わうこともあれば、手提げ袋が膨らむほど買う、あるいは空気だけ吸って帰ることもある。

青果店をのぞくと「地物」の札が付いたタケノコがずらりと並んでいる=写真・下=。大きなもので1本2500円や2800円などの値札がついている。正直「高い」と思って眺めていると、店主らしき人が話しかけてきた。「ことしはタケノコが採れない年で去年より3割ほど高くなっているんです」と。収穫量が少ない裏年でしかも旬の値段となれば、それも仕方ないかと思いつつも、「コメの値段もずいぶんと高くなっているし、タケノコもこれだけ高いと、たけのこご飯は食べられませんね」と言うと、店の人は苦笑していた。きょうは値札だけ見て帰ることにした。

⇒24日(木)午後・金沢の天気   くもり

☆能登の千枚田、田植えを前に広がる水鏡 ことしは200枚余り

☆能登の千枚田、田植えを前に広がる水鏡 ことしは200枚余り

季節は移ろい、そろそろ田植えのシーズンだ。輪島の名所「白米(しらよね)千枚田」の様子が気になり、きのう(22日)現地を訪れた。気になると言うのもの、去年元日の能登半島地震で田んぼに無数の亀裂が入り、地元の農家やボランティアの人たちが懸命に修復作業を行い、120枚で耕作が行われた。ところが、稲刈りを終えた9月には48時間で498㍉という「記録的な大雨」に見舞われ、棚田に土砂が流れ込むなどの被害が出た。ことし3月には生産者やボランティアによる土砂の除去作業などが行われている。

現地に到着したのは夕方、午後5時過ぎだった。白米千枚田は4㌶の斜面に1004枚の棚田が広がり、2001年に文化庁の「国指定文化財名勝」に指定され、2011年に国連食糧農業機関(FAO)から認定された

世界農業遺産「能登の里山里海」のシンボル的なエリアでもある。現地を見渡すと、すでに一部の棚田に水が引かれ、田植えの準備が始まっていた=写真=。くもり空だったが、水鏡のように空を映す棚田の光景はこの時期だけに見られる絶景でもある。

では、ことしは何枚が耕されるのかと、水が引かれた田んぼの枚数を数えようとしたが、4㌶にもおよぶ広さと凹凸がある地形なので簡単には数えられない。そこで、公益財団法人「白米千枚田景勝保存協議会」の事務局がある輪島市観光課に問い合わせた。すると、「ことしは200枚余りを耕したい」との返事。田植えは5月10日と11日の土日を予定しているとのことだった。二重の被災に見舞われながらも、コメ作りを続ける地元の農家やそれを支援するボランティアの人たちには敬服する。

千枚田を見渡す高台には、国文学者で歌人の土屋文明(1890-1990)の歌碑がある。『一椀にも足らぬばかりの田を並べ継ぎて来にける国を思ふも』。解説板によると、土屋文明が昭和15年(1940)、万葉の歌人・大伴家持が能登を旅した足跡調査にこの地を訪れたときに詠んだ歌とある。一枚の田から一椀の米も収穫できそうにない極めて小さな数々の棚田を今日まで営々と耕し続けてきた能登人の心を思う、との歌意のようだ。

この千枚田を眺めて能登の風土と粘り強い人柄を感じ取るのは、85年前に訪れた歌人も、いま観光で訪れる人々も時を超えて同じ思いかもしれない。

⇒23日(水)午後・金沢の天気   くもり時々あめ

★ことしも能登にコウノトリがやってきた、4年連続 

★ことしも能登にコウノトリがやってきた、4年連続 

きのう(18日)国の特別天然記念物のコウノトリの日本の最北端の営巣地といわれる能登半島の志賀町富来にコウノトリを見に行ってきた。電柱の巣に一羽のコウノトリがいた=写真、午後1時ごろ撮影=。ことしも能登にやってきた、と正直うれしくなった。例年ペアでやって来るので、もう一羽が飛んでくるのをじっと待った。エサを探しに行っているのか、30分待ったが現れなかったのでそっと場を離れた。

ここにやってくるコウノトリのペアは足環のナンバーから、兵庫県豊岡市で生まれたオスと福井県越前市生まれのメスで、ことしも同じペアだとすれば、4年連続で能登にやってきたことになる。この地で初めてコウノトリを観察したのは2022年6月24日だった。かなり成長したヒナ鳥と親鳥がいた。1ヵ月後の7月24日に再度訪れたとき、ヒナ鳥が羽を広げて飛び立とうとしている様子を観察できた。これがきっかで毎年、観察に訪れている。

去年1月31日に現地を訪れたときはコウノトリの姿はまだ見えなかった。元日の最大震度7の地震で、電柱の上の巣は無事だったが、揺れたせいで巣の下に大量の枝が落ちていて、巣そのもの小さくなっていた。見た目で2分の1ほどになっていた。6月6日に訪れたときは、巣は1月に見たときより大きくなっていた。枝を加えて補修したのだろう。このとき、親鳥のほかにヒナ鳥が1羽がいて、合わせて3羽が見えた。コウノトリの3年連続での営巣を確認した。

コウノトリのダイナミックな動きも観察されている。2022年7月中旬、志賀町で初めて生まれた3羽のヒナに、兵庫県立コウノトリの郷公園といしかわ動物園が協力して、個体識別用の足環を装着した。その後、8月5日に巣立った3羽のうちの1羽(オス)が10月31日に台湾の屏東県車城(海沿いの村)で、11月8日に同じく台湾の雲林県台西郷蚊港村(養殖池)でそれぞれ確認された(兵庫県立コウノトリの郷公園の公式サイト)。屏東県は台湾の最南端で、能登半島から飛んで渡ったとすれば、2000㌔にもおよぶ。

サイトによると、日本生まれの個体が台湾で確認された初めてのケースだった。いまも台湾の空を飛んでいるのか、ペアリングは成功したのかとつい能登生まれのコウノトリに想いを寄せてしまう。

⇒19日(土)夜・金沢の天気   はれ

☆「森は海の恋人」畠山重篤氏逝く 里山と里海の連環を説いた先駆者

☆「森は海の恋人」畠山重篤氏逝く 里山と里海の連環を説いた先駆者

朝から日差しが届き、春らしい穏やかな天気となった。金沢の桜は満開間近となっている。犀川と並んで市街地を流れるもう一つの河川、浅野川の河川敷を散歩した。近くには茶屋街として知られる東山界隈があり、観光客が大勢訪れていた。河川敷では花見宴会を楽しむグループも。絵になる風景があった。菜の花とソメイヨシノの競演だ。黄色とピンクの花が咲き誇り、気持ちを和ませてくれる=写真・上=。

話は変わる。ブログのことし3月11日付「★『3・11』あれから14年 目に焼け付くあの光景、心に刻む畠山重篤氏の言葉」で紹介した畠山重篤氏が今月3日に逝去されたときょう5日付の新聞で掲載されていた。享年81歳。宮城県気仙沼市でカキの養殖を営んでいて、カキの栄養分は里山でつくられるので海の環境を守るためにと、1989年に植林活動を始めた。山に大漁旗を掲げ、漁師たちが植林する活動は「森は海の恋人」運動として全国で知られるようになった。国際的にも評価され、2012年2月には世界の森林保護に取り組む国連機関「国連森林フォーラム」(UNFF)から「国際森林ヒーロー」に選ばれている。

畠山氏と知り合うきっかけは、2010年8月に金沢大学が能登で実施していた社会人人材育成事業「能登里山マイスター養成プログラム」で講義をいただいたことだった。事前に気仙沼のご自宅に伺い、プログラムの趣旨を説明すると、「それは森は海の恋人と同じ」と快く引き受けていただいた。翌年、東日本大震災の直後の2011年5月に東京でお会いして、その年の9月に能登で開催したシンポジウムで、「人は自然災害とどのように向き合っていけばよいのか」をテーマに基調講演をいただいた。

直近ではもう10年前になるが、2015年3月15に金沢大学「能登里山里海寄付研究部門」設立記念フォーラムを能登で開催。基調講演を「森里海の復興から地域再生へ」と題していただた=写真・下=。印象に残る話が、森は海の恋人運動がルイ・ヴィトンから支援を受けているという内容だった。ルイ・ヴィトンの創業者はフランスとスイスの国境にあたるジュラ山脈の出身で、森林の再生にチカラを入れている。さらに60年前、フランス・ブルターニュ地方の牡蠣が病気によって壊滅的被害に遭った際に、宮城県産の種牡蠣がフランスに渡り牡蠣業界を救ったという経緯もある。東日本大震災を契機にルイ・ヴィトンが恩返しに森は海の恋人運動を支援するようになった。

ルイ・ヴィトンの支援があり、畠山氏は「おかげで(震災から)3年目にはイカダが沈みかけるほどカキが実った」と。その語りは、心と心が自然に響き合うような口調で心に残っている。桜と菜の花を添えて、冥福をお祈りしたい。

5日(土)夜・金沢の天気    くもり

☆クルーズ船入港ラッシュの金沢港 港の有事利用もこれから整備へ

☆クルーズ船入港ラッシュの金沢港 港の有事利用もこれから整備へ

金沢港ではクルーズ船の入港ラッシュが始まっている。先日(先月30日)能登へ行く途中に金沢港に立ち寄ると、モナコ船籍のクルーズ船「シルバー・ミューズ」(4万791㌧・定員596人)が停泊していた=写真=。港の埠頭には観光バスが10台ほど並び、インバウンドの乗船客が乗り込んでいた。一般社団法人「金沢港振興協会」公式サイトによると、この日の朝に韓国の釜山から到着し、翌31日夜に青森港に向けた出発したようだ。このほかにも、今月8日にはこの船の4倍の大きさのスイス船籍「MSCクルーズ」(17万1598㌧・定員4386人)が入港する予定のようだ。3月から6月までの4ヵ月間で計32隻が寄港することになっている。

その金沢港に関する気になるニュース。メディア各社の報道(2日付)によると、政府は有事の際に自衛隊や海上保安庁による利用に備えて整備する「特定利用空港・港湾」に7道県の計8ヵ所を追加すると決定した。追加された8ヵ所のうちの港湾として金沢港が入っている。港湾では輸送鑑や護衛艦などの接岸に向けて海底の掘り下げや岸壁整備が行われる。個別の経費は掲載されていないが、2025年度予算で8ヵ所で計968億円を充てる。

記事によると、同じ日本海側で鳥取・島根両県の境港も今回、有事利用施設に追加されている。これまで北海道や沖縄で港湾の有事利用施設が整備されてきたが、新たに日本海側でも整備を急いでいるような印象を受ける。ちなみに、同じ日本海側ではこれまで福井県の敦賀港と福岡県の博多港の2港だった。なぜ日本海側で有事利用施設を増やすのか。

去年2024年6月に日米韓の海上保安機関による合同訓練「フリーダム・エッジ」を初めて実施。アメリカ沿岸警備隊の巡視船など3ヵ国の船が日本海に集結し、京都・丹後半島沖で大掛かりな訓練を実施している。11月には自衛隊とアメリカ軍、韓国軍による共同訓練を東シナ海で実施し、アメリカ軍の原子力空母「ジョージ・ワシントン」など艦艇7隻が参加している。一方のロシア海軍は去年9月に「オケアン(大洋)2024」と名付けた大規模な海上演習を実施し、極東ウラジオストクに近い日本海では中国軍の艦船4隻が参加している。まさに、海上でのにら見合いの様相だ。金沢港にアメリカ軍の原子力空母が入る日がやってくるのか。

⇒3日(木)午前・金沢の天気   くもり時々あめ

☆桜は咲けど金沢は騒然とした街に 「尹奉吉記念館」めぐり街宣車連なる

☆桜は咲けど金沢は騒然とした街に 「尹奉吉記念館」めぐり街宣車連なる

金沢でもソメイヨシノが咲き始め、金沢地方気象台は29日に開花は発表した。平年より5日早い開花という。自宅の近くにある「六斗の広見(ろくとうのひろみ)では、泉野菅原神社の早咲きの寒桜が満開を迎えている=写真・上=。後を追うようにソメイヨシノが咲くとまるで競い咲きのような華やかさが楽しめる。ちなみに広見はいわゆる広場のことで、市内の何ヵ所で設けられている。これは藩政時代から火災の延焼を防ぐため火除け地としての役割があったとされる場所だ。

話は変わる。きのう(30日)午後、買い物のために金沢市の市街地を車で走るととても混んでいた。道路のところどころに警察官が多数配置されていて、バリケードを設置して警戒に当たっていた。そして、聞こえてきたのがいわゆる右翼団体の街宣車による大音量のマイクの叫びだった。その街宣車は数十台は走っているように見えた=写真・中=。何を叫んでいるのかよく聞き取れなかったが、「尹奉吉記念館・・・」との文字が見えたので、「いよいよ騒動になってきたのか」と憂鬱な気持ちになった。

韓国では「義士」として知られる尹奉吉(ユン・ボンギル)。現在の韓国大統領の尹錫悦氏が2022年6月に大統領選挙への出馬を宣言した場所がソウルにある「尹奉吉義士記念館」だったことでも知られる。その尹奉吉の碑が金沢市の野田山墓地にある。日本が朝鮮半島を統治していた1932年4月29日、中国・上海の日本人街で行われていた天長節(天皇誕生日)の行事に、尹奉吉が手榴弾を投げ込んで日本軍の首脳らを死傷させ、軍法会議で死刑判決となった。その後、陸軍第9師団の駐屯地(金沢市)に身柄が移管され、同年12月19日に銃殺刑に処せられた(Wikipedia「尹奉吉」)。戦後、韓国では「尹奉吉義士」と称され、野田山には在日大韓民国民団石川県地方本部が建立した碑がある=写真・下=。

メディア各社の報道によると、韓国メディアがことし1月に尹奉吉の「追悼記念館」の設置が金沢市内で計画されていると報道。設置に動いているのは民団ではなく、韓国在住の元テレビプロデューサーという。そのオープンの日が爆殺事件を起こした「4月29日」であることから、右翼団体を巻き込む騒動に持ち上がっている。今月2日には民団県本部の壁に、開設計画に反対する右翼団体のメンバーとみられる軽自動車が突っ込む事件が起きている。韓国人にとっては「義士」なのだが、日本人にとっては「テロリスト」でもあり、今後この騒動がどう展開していくのか。

それにしても、右翼団体が大音量で叫びながら街宣車で連なる騒然とした光景は、金沢を訪れている多くのインバウンド観光客にはどう映るだろうか。「ファシズムが金沢で頭をもたげている」との印象ではないだろうか。

⇒31日(月)午後・金沢の天気   はれ

★能登地震は復興ステージへ 仮設住宅から公営住宅に、地元ラーメン店も再開

★能登地震は復興ステージへ 仮設住宅から公営住宅に、地元ラーメン店も再開

ミャンマーの中部で28日に発生したマグニチュード7.7の地震は、去年元日の能登半島地震の2倍のエネルギーを持った揺れだったとメディア各社が報じている。震源から1000㌔離れたタイのバンコクでは建設中のビルが倒壊した。遠隔地にもたらす揺れは「長周期地震動」と呼ばれ、2011年3月11日の東日本大震災でも震源から700㌔離れた大阪市の高層ビルで被害が出ていた(29日付・読売新聞Web版)。地震の揺れはどこに何をもたらすのか分からないところがむしろ怖い。
 
能登半島地震から間もなく1年3ヵ月が経つ。気になるのは復興のペースだ。奥能登では9月21日に48時間で498㍉という記録的な豪雨にも見舞われている。このため、石川県では仮設住宅を急いで整備してきた。地震の被災者向けに6882戸、豪雨の被災者向けに286戸を完成させ、被災者に供給しているものの、仮設住宅はあくまでも応急措置であり、契約期間は原則2年だ。復興となると、長年にわたって使える公営住宅が急がれる。県の公式サイトをチェックすると、「復興公営住宅の整備状況について」というページが設けられていて能登を中心に9市町(輪島市、珠洲市、能登町、穴水町、七尾市、志賀町、中能登町、羽咋市、内灘町)で被災者向けの公営住宅を建設すると公表している。
 
県のサイトでは、建設予定地別に入居までの工程表が示されている。輪島市では4ヵ所で公営住宅が整備され、中心街に近い同市宅田町ではRC造(鉄筋コンクリート造)の集合住宅150戸が2027年3月までに建設される予定となっている。ほかの3ヵ所については場所や戸数や建て方、構造などはまだ未定のようだ。県では9市町で計3000戸程度の公営住宅を建設する見通しを示していて、「災害に強く地域の景観やコミュニティの維持に寄与し、子供から高齢者まで安心して暮らせる環境や持続性を持った住まいづくり」を整備指針に掲げている。
 
被災地をめぐると店舗なども徐々に再開している。先日、能登半島の尖端の震源地から直線距離で100㌔も離れた金沢市に隣接する内灘町に行くと、「8番らーめん」の店が「熱い一杯、再び!がんばろう内灘!」と書かれた横断幕を掲げて店を再開していた=写真=。内灘町の河北潟に面する地区では地震による液状化で地盤が隆起して道路や駐車場のアスファルトがめくれ上がり、建物も大きく傾くなどの被害に見舞われていた。「8番らーめん」は地元石川県発祥のラーメンチェーン店で、ある意味でソウルフードとして親しまれているので、店の再開を待ちわびていた住民も多かったのではないだろうか。
 
⇒30日(日)午後・金沢の天気    あめ

☆「転んでもただでは起きない」能登の震災現場を学習プログラムに活かす

☆「転んでもただでは起きない」能登の震災現場を学習プログラムに活かす

黄砂が列島を直撃する。気象庁の「黄砂解析予測図」によると、きょう25日午後9時ごろには北海道と沖縄を除いて日本列島がすっぽりと覆われる=図=。黄砂が飛来すると、外の洗濯物が汚れたりするほか、呼吸系の疾患の原因にもなり、かなり厄介だ。そして、給油スタンドでの洗車の待ちに時間が取られることになる。たかが黄砂、されど黄砂、だ。

話は変わる。去年元日の能登半島地震の被害の実情や災害からの教訓を学習プログラムとして修学旅行などに役立ててもらおうと、能登地域の6つの自治体と石川県、県観光連盟が災害学習の構築に取り組んでいる。この検討会がきのう(24日)輪島市で開催され、26の学習プログラムをまとめたと、地元メディア各社が報じている。学習プログラムには3つのテーマがあり、「自然の驚異」「防災・減災」「復興への取り組み」。海底が隆起した外浦海岸(珠洲市)や大規模火災に見舞われた朝市通り(輪島市)、地域を襲った津波の現場(能登町)などを見学に訪れて被災者から話を聴いたり、震度7の現地では防災キャンプ(志賀町)など多様な学習プログラムが提案されている。

26の学習プログラム内容を紹介する冊子を『能登復興の旅プログラム集』とのタイトルで5千部作成し、3大都市圏(東京、大阪、名古屋)の中学校や旅行会社に配布する。ことし8月に教育関係者、12月に旅行会社向けのモニタ-ツアーを実施する段取りで、来年度から本格的にツアーの受け入れを行うようだ。(※写真は、七尾市の学習プログラム「被災商店街で語り継ぐ能登半島地震の記憶」の現場。被災した和ろうそくの店など=2024年1月29日撮影)

被災地に誘う学習プログラム計画から受ける自身の印象を表現すれば、「七転八起」「転んでもただでは起きない」「レジエンス」という言葉だろうか。能登の絶景の地はそうした自然の驚異と人々の知恵で磨き上げられてきた歴史がある。輪島の白米千枚田はもともと深層崩壊のがけ崩れ現場を土地の人たちが耕し、観光地として知られるようになった。同じく輪島の曽々木海岸と真浦の断崖絶壁に道を開いたのは禅宗の和尚だった。「寺で座るのも禅、安全な道を開くのも禅修行」と悟り、浄財集めの托鉢に奔走し苦難の工事に挑んだ。その絶壁の道が昭和30年代の能登観光ブームにつながる。

数千年に一度の震災を活かす、ただでは起きない。能登半島は観光が重要な産業であり、修学旅行客のほか一般客やインバウンド客を呼び込むことで復興につながることに期待したい。

最後に、きょう3月25日は2007年の能登半島沖地震から18年となる。震度6強の揺れが輪島市であり、1人が亡くなり300人以上が負傷した。同じ年の7月16日には新潟県中越沖地震が起き、長岡市や柏崎市、刈羽村などで震度6強の揺れとなった。日本海側で立て続けに起きた地震だった。

⇒25日(火)午前・金沢の天気     くもり

☆遅咲きの梅の花 震災の倒壊ビルは片付くも、待たれる原因究明

☆遅咲きの梅の花 震災の倒壊ビルは片付くも、待たれる原因究明

けさから金沢は晴れて、午前中の気温が16度と春の陽気を感じる天気となっている。そして、自宅庭の梅の木の花がようやく咲き始めた=写真・上=。金沢地方気象台の生物季節観測表によると、金沢の梅の開花は平年2月23日となっているので、まさに1ヵ月遅れだ。ちなみに観測表によると、これまでの早咲きは1月28日(1998年)、遅咲きは4月6日(1957年)とある。予報によると、気温はあす24日は22度、27日は25度の夏日となり、これから一気に開花するのだろう。そして気になるのは桜の開花。観測表の金沢の平年の開花は4月3日、ウェザーニュースの開花予想日だと4月2日だ。梅の散り際とソメイヨシノの咲き始めが同時に楽しめるかもしれない。

話は変わる。おととい(21日)輪島市の豪雨被災地と併せて震災地をめぐった。言葉は適切ではないかもしれないが、ある意味で震災のシンボル的な光景されてきたのが、240棟余りの商店や民家が全焼し焦土と化した朝市通り、そして、倒壊した輪島塗製造販売会社「五島屋」の7階建てビルだった。倒壊によってビルに隣接していた3階建ての住居兼居酒屋が下敷きとなり、母子2人が犠牲となった。倒壊現場を初めて見たのは2月5日だった。その倒れ方は壮絶だった。地面下に打ち込んで固定されていたビルの根っこ部分にあたるコンクリートと鉄による杭(くい)の基礎部分がまるでゴボウ抜きしたようにむき出しになっていた。まったくの素人目線なのだが、バランスを崩して根っこから倒れた、そんなように見えた。(※写真・中は2024年2月5日撮影、写真・下は今月21日撮影)

おととい現場を訪れると、倒壊したビルの公費解体はほとんど終わっているように見えた。解体作業が始まったのは10月初旬だったので、半年ほどかけてひと区切りが付いたように見えた。むしろ問題視されているのはビル倒壊の原因が何なのかという点ではないだろうか。一部報道によると、2007年3月25日の能登半島地震でビルが大きく揺れたことから、五島屋の社長はビルの耐震性を懸念して、地下を埋めて基礎を強化する工事を行っていた。それが倒壊したとなると、社長自身もビル倒壊に納得していないようだ。ビルの築年数は50年ほど。基礎部の一部が地面にめり込んでおり、くいの破損や地盤が原因ではないかとも指摘されている。

国土交通省が基礎部を中心に倒壊の原因を調べている。なぜ、震度6強の揺れに耐えきれずに根元から倒れたのか。ビル倒壊の原因が分かってくれば、責任の所在もおのずと明らかになるだろう。倒壊原因についてはいまだ公表されていない。

⇒23日(日)午後・金沢の天気   はれ