⇒トレンド探査

☆民主主義と経済のデジタル化が「日本沈没」を救う

☆民主主義と経済のデジタル化が「日本沈没」を救う

   前々回のブログ「☆日本は途上国へと退化していくのか」の続き。ことし9月に発足したデジタル庁の公式ホームページをチェックすると、牧島かれんデジタル大臣の記者会見(17日付)が動画で掲載されている。主な内容は、ワクチン接種の電子証明書アプリについて、今月20日午前中からスマートフォンでのダウンロードが可能になるとの見通しを示した。これによって、国内外の出入国の手続きの際に必要な書面の証明書(コロナパスポート)は必要なくなり、イベント会場などで求められてもスマホでOK ということになるとの説明だった。確かに便利ではあるが、単にアナログを補完しているだけの話で、大臣の説明からデジタル活用の本質が見えて来ない。

   デジタル大臣の言葉として期待したいことは、ぜひ総務省と組んで選挙を「デジタル投票」にしてほしい。そして、日銀と組んで「デジタル法定通貨」を使えるようにしてほしいということだ。デジタル投票の場合は、投票アプリに入り、マイナンバーカードをスマホにかざし、パスワードを入力することで本人確認をし、投票画面に入る。デジタル法定通貨による支払いも同じ要領だ。

   投票も通貨もポイントはマイナンバーカードなのだが、政府は普及を優先させている。先月、ニュースでマイナンバーカードの普及を図るために総務省はカードの取得などの段階に応じて最大2万円分のポイントを付与する制度を創設する費用として1兆8000億円を今年度の補正予算案に計上する方針を示した(11月25日付・NHKニュースWeb版)。発想が逆ではないか。お金をデジタル通貨にすると国が発表すれば、大人も高齢者も子どもも必死になってマイナンバーカードを取得するようになる。大切なのは普及ではなく、必然ではないか。デジタル投票は民主主義のデジタル化であり、デジタル法定通貨は経済のデジタル化だ。この発想がなければ国のデジタル化は進まない。逆に民主主義と経済のデジタル化が進めば、本格的なデジタル社会(Society5.0)が訪れるのではないか。

   Society5.0は、2016年に策定された国の「第5期科学技術計画」の中で用いられ、狩猟社会(Society1.0)、農耕社会(Society2.0)、工業社会(Society3.0)、情報社会(Society4.0)に続く、日本の未来社会の姿として提唱するものである。何もしなければ途上国へと退化する、進めば未来先進国へと進化する。日本の進むべき道は後者しかない。このようなことを、ぜひデジタル大臣が提言してほしい。

⇒17日(金)夜・金沢の天気     あめ時々あられ

☆日本は途上国へと退化していくのか

☆日本は途上国へと退化していくのか

   このところの政治や経済、社会の動きを見ていると、日本は途上国へと退化しているような気がしてならない。こんなことが民主政治なのかと不信感を抱いたのが18歳以下の10万円相当の給付問題だ。11月9日に自民・公明両党が現金とクーポンを組み合わせて給付実施することで合意。それから国会での紆余曲折を経て、3パターンの給付方法(現金10万円の一括給付、現金5万円を2回給付、現金5万円とクーポン5万円分を2回に分け給付)にたどり着く。民意は明らかに現金10万円の一括給付だったが、この議論に1ヵ月以上も費やしている。民主政治は妥協の産物ではない。

   その間、外交問題は棚上げされた。来年2月の北京オリンピックについて、アメリカが問題を提起した「外交的なボイコット」をどうするかの議論だ。中国・ウイグル族への強制労働や、女子プロテニスの選手が前の副首相から性的関係を迫られたと告白した後に行方がわからなくなった問題、香港における政治的自由や民主化デモへの弾圧など、中国の人権状況に対して国際的な批判は強い。日本政府は中国からの招待の有無にかかわらず、政府代表団の派遣をどうするのか。岸田総理は「国益の観点からみずから判断していきたい」(12月7日付・NHKニュースWeb版)を繰り返している。国益で人権問題を判断するという言葉は、はたして自由民主主義国家の政府の長の言葉だろうか。

   日本は世界第3位のGDPを誇る経済大国とされているが、いつまでそれが続くのだろうか。人口の少子・高齢化は日に日に高まっている。人口が減る中で経済規模を維持していくことは難しい。さらに、労働者1人当たりの生産性も高齢化で簡単ではない。GDPや企業の競争力などの指標を見ても、日本はすでにG7に相応しい地位ではない。「世界競争力年鑑2021年版」(IMD=国際経営開発研究所)での日本の順位は31位と停滞が続いている。

   かつて、日本は「一億総中流」と言われたが、その言葉を最近すっかり聞かなくなり、代わって「貧困」をよく目にする。厚生労働省の「国民生活基礎調査」(2019年版)によると、2018年の貧困線(等価可処分所得の中央値の半分)は127万円で、これ以下の「相対的貧困」の世帯の割合は15.4%と記されている。今後、独り暮らしの高齢世帯などが増えていく。貧困率はさらに高まっていくだろう。暗い話ばかりになってしまった。

   ただ、反転する可能性はある。それは「資源」があるからだ。2000兆円におよぶ個人金融資産が眠っている。日本全国に張り巡らされた光ファイバーなどのデジタル通信網がある。このブログで何度か述べたように、日銀が主導するデジタル法定通貨を実施することだ。2024年から新一万円札は「渋沢栄一」に変わるが、これを機に札や硬貨ではなく、デジタル通貨にしてはどうか。タンスに眠ったままとなっている金融資産を吐き出させ、消費を回す絶好のチャンスではないだろうか。この機を逃せば、日本は本格的に途上国へと退化するのではないかと思えてならない。

⇒15日(水)夜・金沢の天気       くもり

☆「雪吊り」は庭木のアート

☆「雪吊り」は庭木のアート

   この時節、金沢の一つのキーワードは「雪吊り」だ。11月に兼六園で雪吊りのニュースが流れると金沢市内の家々でも雪吊りが始まり、12月初旬にピークを迎える。我が家も造園業者に依頼している。きょうは朝から小雨が降っていたが、庭師が来てくれた。

   庭木に雪が積もると、雪圧や雪倒、雪折れ、雪曲など樹木の形状によってさまざま雪害が起きる。金沢の庭師は樹木の姿を見てどのような樹木の雪対策をしたらよいか判断する。「雪吊り」「雪棚」「雪囲い」など11種の方法があると、出入りの庭師から聞いた。毎年見慣れている雪吊りの光景だが、縄の結び方などが樹木によって異なるのだ。

   雪吊りで有名なのは「りんご吊り」。我が家では五葉松などに施されている=写真・上=。木の横に孟宗竹の芯(しん)柱を立てて、柱の先頭から縄を17本たらして枝を吊る。パラソル状になっている。「りんご吊り」という名称は、金沢では江戸時代に庭にリンゴの木を植えていて、果実がたわわに実ると枝が折れるのを補強するためそのような手法を用いた。それが冬の樹木にも応用されたと伝えられている。

   低木に施される雪吊りが「竹又吊り」=写真・下=。ツツジの木に竹を3本、等間隔に立てて上部で結んだ縄を下げて吊る。秋ごろには庭木の枝葉を剪定してもらっているが、庭師は庭木の積雪を意識して、積もらないように剪定を行うと話してくれた。その仕事ぶりを見ていると、「庭木のアーチスト」ではないかと思う。庭木の積雪をイメージして剪定を行い、雪害を予想して庭木の生命や美の形状を保つために、雪吊りや雪囲いといった作業をする。

     関西や関東の友人たちに雪吊りの写真をメールで送ると、「長期予報で北陸が暖冬だったら、わざわざ雪つりをする必要はないよね」と返信があったりする。理にかなってはいるが、冬の現実はそう単純ではない。暖冬ではあっても、冬将軍は突然やってくる。一夜にして大雪になることもままある。北陸の雪は湿っぽく重い。とくに松の木の枝には雪が積もりやすく、大雪になると枝がボキボキと折れる。「備えあれば憂いなし」の心構えで、暖冬予報であっても雪吊りをする。雪つりは年末の恒例行事でもある。気持ちの問題として、年末の大掃除のように、これをやらないと気持ち的にけじめがつかないということもある。

⇒6日(月)夜・金沢の天気      くもり

☆カーボンニュートラルな生き方

☆カーボンニュートラルな生き方

   前回のブログの続き。イギリスで開催された国連の気候変動対策会議「COP26」では、世界の平均気温の上昇を1.5度に抑える努力を追求し、石炭火力発電については「段階的な廃止」を「段階的な削減」に表現を改めることで意見対決をまとめて成果文書が採択された。日本政府も2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする「カーボンニュートラル宣言」を掲げ、脱炭素社会の実現に向けて待ったなしで突き進んでいくことになる。

   自分の仕事が地球環境や気候変動にどのような影響を与えているだろうか。環境に謙虚な気持ちを持つということはどういうことなのか。そのことに取り組んでいる人物の話だ。能登半島の尖端、珠洲市の製炭所にこれまで学生たちを連れて何度か訪れている。伝統的な炭焼きを生業(なりわい)とする、石川県内で唯一の事業所だ。二代目となる大野長一郎氏は45歳。レクチャーをお願いすると、事業継承のいきさつやカーボンニュートラルに対する意気込みを科学的な論理でパワーポイントを交えながら、学生たちに丁寧に話してくれる。

   22歳で後継ぎをしたころ、「炭焼きは森林を伐採し、二酸化炭素を出して環境に悪いのではないか」と周囲から聞かされた。しかし、自分自身にはこう言い聞かせてきた。樹木の成長過程で光合成による二酸化炭素の吸収量と、炭の製造工程での燃料材の焼却による二酸化炭素の排出量が相殺され、炭焼きは大気中の二酸化炭素の増減に影響を与えない、と。ただ、実際にはチェーンソーで伐採し、運ぶトラックのガソリン燃焼から出る二酸化炭素が回収されない。「炭焼きは環境にやさしくないと悩んでいたんです」   

   この悩みを抱えて、2009年に金沢大学の社会人向け人材育成プロジェクト「能登里山マイスター養成プログラム」に参加した。自身も大野氏とはこの時に知り合った。大野氏は自然環境を専門とする研究者といっしょに生業によるCO²の排出について検証する作業に入る。ライフサイクルアセスメント(LCA=環境影響評価)の手法を用い、過去6年間の製造、輸送、販売、使用、廃棄、再利用までの各段階における環境負荷を検証する。事業所の帳簿をひっくり返しガソリンなどの購入量を計算することになる。仕事の合間で2年かけて二酸化炭素の排出量の収支計算をはじき出すことができた。また、環境ラベリング制度であるカーボンフットプリントを用いたCO²排出・固定量の可視化による、木炭の環境的な付加価値化の可能性などもとことん探った。

   得た結論は、生産する木炭の不燃焼利用の製品割合が約2割を超えていれば、生産時に排出されるCO² 量を相殺できるということが明らかになった。3割を燃やさない炭、つまり床下の吸湿材や、土壌改良材として土中に固定すれば、カーボンマイナスを十分に達成できる。これをきっかけに木炭の商品開発の戦略も明確に見えてきた。さらに、炭焼きの原木を育てる植林地では昆虫や野鳥などの生物も他の地域より多いことが研究者の調査で分かってきた。「里山と生物多様性、そしてカーボンニュートラルを炭焼きから起こすと決めたんです」

   付加価値の高い茶炭の生産にも力を入れている。茶炭とは茶道で釜で湯を沸かすのに使う燃料用の炭のこと。2008年から茶炭に適しているクヌギの木を休耕地に植林するイベント活動を開始した。すると、大野氏の計画に賛同した植林ボランティアが全国から集まるようになった。能登における、グリーンツーリズムの草分けになった。(※写真・上は大野氏が栽培するクヌギの植林地。写真・下はクヌギで生産する「柞(ははそ)」ブランドの茶炭)

⇒16日(火)夜・金沢の天気      はれ

☆秋の夜長3題~聴く、見る、読む~

☆秋の夜長3題~聴く、見る、読む~

   秋の夜長とはよく言ったものだ。たまにはゆったりと月を眺めて過ごしてみたいと思う気持ちは古今変わらない。昨夜は「ソナタの夕べ」と題したリサイタル=写真・上=を聴きに出かけた。オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の第一バイオリンで活躍する原田智子さん、そして、原田さんが敬愛するというピアニスト小林道夫氏を招いて、ピアノとバイオリンのソナタの魅力を披露した。

   モーツァルトのピアノとバイオリンのためのソナタ(K379)、シューベルトのソナチネ第2番、ベートーベンのソナタ第10番の3曲。心に響いたのはベートーベンだった。森の中にいることを思わせる響きで、日光が差したかと思えば、暗闇になり、嵐になり、そして月影が現れ、また日光が差してくる。まるで、ドラマのような流れだった。アンコール曲は同じくベートーベンの「スプリング・ソナタ」。コロナ禍で席は一つ空けての着席。この方がむしろ、演奏者と空間を分け合い、そして音楽を聴きながら自分と対話しているような感覚になって、十分楽しむことができた。

    次の秋の夜長は、まるでベートーベンの「運命」をテレビで見るような感覚だった。10日に放送されたTBSの日曜劇場「日本沈没―希望のひと―」(午後9時)の初回=写真・中=。1973年の小松左京のSF小説が原作。2023年の東京を舞台に内閣府や環境省の官僚、東大の地震学者らが、天才肌の地震学者が唱える巨大地震説を伏せようと画策する。環境省の官僚が海に潜ると、海底の地下からガスが噴き出して空洞に吸い込まれそうになるシーンはリアル感があった。ラストシーンは実際に島が沈むというニュース速報が流れ、騒然となる。

   これまで小説も読み、映画も観たので既視感はあった。さらに、7日夜に首都圏で震度5強の地震があった直後だけに、関東の人たちはこの番組をどのような思いで視聴しているのだろうかなど案じながら見ていた。ビデオリサーチ社によると、初回の世帯平均視聴率は15.8%だった。ドラマを楽しむというより、自分たちの運命はどうなるのだろうという不安心理などがない交ぜになった高視聴率ではなかったか。

   月刊誌「文藝春秋」(11月号)の「財務次官、モノ申す 『このままでは国家財政は破綻する』」=写真・下=を秋の夜長に読んだ。「最近のバラマキ合戦のような政策論を聞いていて、やむにやまれぬ大和魂か、もうじっと黙っているわけにはいかない、ここで言うべきことを言わねば卑怯でさえあると思います。」との出だし。現職の財務事務次官による、強烈な政治家批判だ。「数十兆円もの大規模な経済対策が謳われ」は岸田総理の自民党総裁選での主張のこと。また、「財政収支黒字化の凍結」は総裁選での高市早苗氏の政策だった。「さらには消費税率の引き下げまでが提案されている」は立憲民主党の枝野代表の公約だ。

 
   読んだ感想だが。財務事務次官の立場からすれば当然だろう。国庫には無尽蔵にお金があるはずがない。財政規律を唱えて当然だ。政治家は選挙を前に必死に財政出動を訴えるものだ。今月31日の衆院選を前に多様な議論があっていいのではないか。
 
⇒13日(水)夜・金沢の天気    くもり時々あめ

☆夏の終わりによみがえるあの2曲

☆夏の終わりによみがえるあの2曲

   朝夕に肌寒さを感じるようになった。まもなく秋分の日(23日)だ。この夏を振り返ると、印象に残るのやはり東京オリンピックとパラリンピック、そして、耳に残るのが『マツケンサンバⅡ』と『波乗りジョニー』だろうか。

   俳優の松平健はテレビ番組『暴れん坊将軍』でおなじみだったが、歌っているとは知らなかった。オリンピック開会式のセレモニー楽曲を担当する作曲家グループの1人だった小山田圭吾氏が過去のいじめ告白問題で7月19日に辞任して大騒ぎになったが、そのとき、ヤフー・コメントなどで「マツケンサンバを開会式で」との書き込みを何度か目にした。検索して、『マツケンサンバⅡ』を動画で見て初めて知った。

   サンバのリズムに乗ってテンポよく歌い踊る松平健の後ろでは、腰元と町人風のダンサーたちが乱舞する。サンバは肌を露わにしたダンサーが踊る姿をイメージするが、赤い衣装を着た腰元ダンサーの方がむしろ艶っぽくなまめかしい。これが、正式にリリースされたのが2004年7月なので、17年も前の楽曲だ。さすがに、オリンピックの開会式では時間もなく無理だろうと思ったが、閉会式ではひょっとしてサプライズがあるのではないかと期待もした。家飲みのときにネットで楽しませてもらっている。
 
   テレビでオリンピック競技を17日間視聴して、印象に残っているのはもちろんアスリートたちの姿だが、番組での解説やコメントなどスタジオのバックで流れていた桑田佳祐の『波乗りジョニー』も、だった。この曲はもともと、テレビCMに流れる、日本の夏を象徴する曲だ。夏のテーマソングがそのままオリンピックのテーマソングのようになり、盛り上げてくれた。オリンピック競技場の無観客の状態は当初さみしいとも感じたが、毎日違和感なく視聴できたのもこの曲のおかげかもしれない。

   最後にこの夏を締めくくる言葉。東京オリンピックの閉会後にイギリスBBCのスポーツ編集長は「Tokyo Olympics : Sporting drama amid a state of emergency but how will Games be remembered?」との見出しで記事を書いている。最後の下り。「(意訳)パンデミックという事態であっても、オリンピックを否定することはできなかった。そのことに安堵した人も、失望した人もいたはずだ。そして、東京オリンピックの開催が正しかったのかどうかは、今後ずっと議論されていくだろう。しかし、不安に満ちた時代でも、スポーツ選手はこれまでと同じように、その元気な姿で我々を励ましてくれる存在であり続けた。それだけは確かなことではないだろうか」(8月9日付・BBCニュースWeb版)

⇒20日(祝)午前・金沢の天気      はれ

☆中国人の不動産熱と「寝そべり族」

☆中国人の不動産熱と「寝そべり族」

   中国の人々の熱い投資熱を感じたことがある。10年前のことだ。2012年8月、浙江省紹興市で開催された「世界農業遺産(GIAHS)の保全と管理に関する国際ワークショップ」(主催:国連食糧農業機関、中国政府農業部、中国科学院)に参加し、日本と中国のGIAHSについて意見交換や、隣接する青田県などを視察した。青田県方山郷竜現村を訪れたとき、田舎に不釣り合いな看板が目に飛び込んできた。川べりに建設予定の高層マンションの看板だった。

   中国人の女性ガイドに聞くと、マンションは1平方㍍当たり1万元が相場という。1元は当時12円だったので、1戸161㎡では円換算で1932万円の物件である。確かに、村に行くまでの近隣の都市部では川べりにすでにマンションがいくつか建っていた=写真=。夕食を終え、帰り道、それらのマンションからは明かりがほとんど見えない。おそらく、買って値上がりするのを待つ投資向けマンションなのだろう。前年の2011年6月に訪れた首都・北京でも夜に明かりのないマンションがあちこちにあった。

   同じ女性ガイドに「中国はマンションブームなのですか」と問いかけると、このような話を披露してくれた。「日本でも結婚の3高があるように、中国でも女性の結婚条件があります」と。中国の「3高」は、1つにマンション、2つに乗用車、そして3つ目が礼金、だと。マンションは1平方㍍当たり1万元が相場という。中国ではめでたい「8」の数字でそろえるので、1戸88平方㍍のマンションが人気。となると、1056万円だ。そして、18万元の乗用車、さらに8万元の礼金。この3つの「高」をそろえるのは大変だ。

   上記の話を思い出したのは、いま中国の若者の間で広がっているとされる、あえて頑張らない「タンピン(寝そべり)」現象がある一方で、習近平国家主席が共産党創立100年の式典で「われわれは党創立100年の目標である貧困問題を解決した。生産力が劣っていた状況から、経済規模で世界2位になるという歴史的な進歩を実現した」(7月1日付・NHKニュースWeb版)と拳を振り上げて強調した、いまの中国のギャップだ。

   習氏の世代は、極限の貧困や飢餓などを体験しながらも社会のはしごをよじ登ってきた。しかし、いまの若者たちは過当競争や長時間労働に耐えて、車の所有やマンション投資、結婚して子どもを持つという、いわば「人生の勝ち組」を目指すことにむしろ違和感や無力感を抱いているのではないだろうか。逆に言えば、習氏が「小康社会」と語ったように、それだけ国が豊かになったという証(あかし)なのかもしれない。

⇒2日(金)午後・金沢の天気   くもり時々はれ

★「必要は発明の神さま」で祭り復活

★「必要は発明の神さま」で祭り復活

   「必要は発明の母」と言われる。この場合は「必要は発明の神さま」かもしれない。新型コロナウイルスの感染拡大で、昨年に引き続きことしも各地域の祭礼や神事などの恒例行事の中止が相次いでいる。インターネット調査で、コロナ禍で失われる可能性が⾼い⽇本⽂化として、「祭り」がもっとく高く42.3%、「花⽕⼤会」32.8%、「屋形船」29.0%、「花⾒」24.3%と続く(⼀般社団法⼈マツリズム、有効回答:男女400人、調査:2021年02月27日-3月1日)。祭りについては以前から高齢化や少子化で担い手不足が指摘されていたが、コロナ禍が拍車がかけたとも言える。

   多くの祭りは、神輿を担ぎ、その先導に獅子舞などがいて、それを見学する人々がいる。いわゆる「3密」の状態になることから、祭りが中止となるケースが多い。このような中、伝統の祭りを絶やしてはいけないと、神様を神社から外にお連れする神輿の代わりにミニ台車を手作りした神社の宮司がいる。きょう神社を訪れる機会に恵まれ、その想いを聞いた。

   石川県羽咋(はくい)市にある深江八幡神社。羽咋は祭礼の獅子舞が盛んな土地柄だが、昨年ほとんど中止となった。宮司の宮谷敬哉氏は3密を避けるために神輿を出せないとなれば、一人で押せる台車を作れないかとホームセンターに何度も通い、高さ150㌢ほどのものを完成させた=写真=。みこしに欠かせない鳳凰(ほうおう)は手作りが難しかったので、通販で小型のものを購入し飾り付けた。「神座(みくら)台車」と名付けた。

   昨年7月12日の例祭「祇園祭」では、神のより代である御霊代(みたましろ)を台車に収め、獅子頭だけを乗せた手押しワゴンが先導した。宮谷宮司が神輿の代わりに1人で台車を押して後に続いた。各家を1軒1軒回った。例年ならば神輿と獅子舞でにぎやか祭礼だが、簡素ではあるものの中止することなく続けることができた。

   この地区は500年ほど前に疫病が流行したことから、京都の八坂神社から神を招いて七日七夜祈祷したところ疫病が収まり、それを機に祇園祭が始まったと伝わる。宮谷宮司は「苦労して疫病を鎮めた歴史が地元にあり、『できない』ではなく、『どうしたらできるか』と考えた末にアイデアが浮かんだ」と。

   この神座台車と獅子頭の手押しワゴンが意外な展開を見せる。1965年(昭和40)年前後に神輿の渡御が途絶えていた集落から復活させたいと申し出があった。10月18日に地元の子どもたち6人が中心となって、神座台車と獅子頭の手押しワゴンで町内を歩いて回った。少子高齢化で担い手が少なくなり中止していたが、実に55年ぶりに祭りが復活したのだ。

   宮司は「祭りの復活で地域の様子が活き活きとしていることを一番感じたのは地域の人たちだと思う」と。この秋も神座台車と獅子頭の手押しワゴンの出番となる。

⇒17日(木)夜・金沢の天気     くもり

☆蚊取り線香を携え 言葉が変遷する時代を想う

☆蚊取り線香を携え 言葉が変遷する時代を想う

   「一石二鳥」の4字熟語は一つの行為で二つの利益を得ることを意味する。新聞記者時代にこの言葉をめぐって他社の記者たちと意見を交わしたことがある。ある全国紙の記者は「なるべく使わないようにしている」と。一つの石を投げて二羽の鳥を落とすという言葉なので、動物保護の観点から読者からの理解は得られない。先輩記者から「一挙両得」の4字熟語を使うように言われている、と話した。すると、別の記者は「それは神経過敏だ。まるで言葉狩りではないか。言葉は言葉として尊重すべきだ」と場は熱くなった。

   この場面を思い出したのは、きのう4日付の全国紙朝刊の広告を見たときだった。「閲覧虫意」というアース製薬の派手な全面広告だ=写真=。アースは独自に「6月4日」を「『虫ケア用品』の日」と定めてキャンペーンを行っている。広告の文面を読むと、「虫はケアするべき健康リスク。だからアース製薬は『殺虫剤』から『虫ケア用品』へと呼び方を変えました」とある。さらに、ネットで公開中の「キケンな虫図鑑」をチェックすると以下のコンセプトが記されている。

   「虫も人間と同じようにひたむきに生きています。子育てをしたり、食べ物を探したり、住む場所を作ったり、時には人間の味方にもなる虫もいます。キケンで悪モノとされている、そんな虫たちの暮らしを覗いてみませんか」

   アース製薬の商品と言えば、実は我が家でも使っている蚊取り線香などの殺虫剤だ。それを、「虫ケア用品」とあえて呼び直している。上記のコンセプトは「虫たちと共存しながらも危険な場合もありますから十分ケア(注意)しましょう」と読める。確かに、殺虫効果のあるスプレーも最近では「虫除けスプレー」と呼んでいる。「殺虫」という言葉は冒頭の「一石二鳥」と同様に生物多様性や動植物保護の現代にそぐわくなってなってきている。

   欧米でも時代とともに言葉には敏感になっている。昨年5月にアメリカのミネソタ州で起きた白人警官によるアフリカ系男性への首の押さえつけ死亡事件。黒人差別反対を訴える「Black Lives Matter」の抗議活動が全米に広がった。すると、アメリカの医薬品会社「J&J(ジョンソン・エンド・ジョンソン)」はアジアや中東で販売していたホワイトニングクリーム(シミ消しクリーム)を販売中止に。フランスの化粧品会社「ロレアル」もスキンケア商品で「ホワイトニング」といった表現を使わないと発表した(2020年6月27日付・ニューズウィークWeb版日本語)。白肌をイメージさせる言葉を避けたのだろう。

   言葉に対する時代感覚が実にナーバスになっている。一方、コロナ禍で新たな言葉が次々と社会に放出されている。言葉が目まぐるしく変遷する時代、果たして自身はついていけるのか。蚊の季節になった。午後からの庭の草取りは蚊取り線香を持って出ることにしよう。

⇒5日(土)午前・金沢の天気    くもり

★「たかがサカキ されど榊」 こだわりの消費者心理

★「たかがサカキ されど榊」 こだわりの消費者心理

   スルメイカ漁の苦難が続く。日経新聞(6月3日付)によると、今月から漁が解禁となったスルメイカの価格が落ちている。函館漁港では生きたままの「いけすイカ」の初競りが1㌔1650円と昨年に比べ25%安く、おととし2019年より68%も下落した。新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言の再延長で飲食店などの需要が振るわない。さらに、日本海の好漁場「大和堆」周辺はEEZ(排他的経済水域)でもあるにもかかわらず、解禁前から大量の中国漁船が押し寄せて違法操業を行っている。イカ釣り漁業者にとってはまさにダブルパンチだ。

   先月29日付のこのブログでも述べたが、中国漁船でインドネシア人が不当に働かされていることが国際問題にもなっている。先日、コンビで酒のつまみを選んでいて、「さきいか」を手に取った。裏面を見ると「中国産」と書かれてあり、違法操業と不当労働行為で得たイカかもしれないと思うと買う気にはなれなかった。

   話は変わる。金沢のスーパーに行くと、フラワーショップのコーナーに並ぶ商品の中にサカキがある。「榊」と漢字で表記されているものが多い。あるショップでは「国産榊 本体価格200円(税込220円)」とあり=写真=、別の店では「榊」と表記され「価格(税込)160円」だった。サカキは普通に庭先に植えられていたり、金沢の里山でも自生している。なぜあえて「国産榊」と表記しているのだろうかとふと疑問に思って、その店の経営者に尋ねたことがある。

   返事は意外な言葉から始まった。「店に並んでいるサカキの90%ほどは中国産なんです」と。仕入れ業者が中国から輸入し、それを全国のショップに卸している。「でも、サカキは普通の観賞用は違いますよね」と、その女性経営者は丁寧に説明してくれた。サカキは古くから神事に用いられる植物であり、家庭の神棚や仏壇に供えられ、そして拝まれるものだ。

   ある日、よく買いに来る客から「これ、どこ産」と聞かれ、女性経営者が「中国産です」と答えると、その客は「サカキなので国内産だと思っていた。外国産に毎日手を合わせるのは違和感がある」と。産する国は違うものの、同じサカキだ。しかし、これは客のこだわりの言葉と理解して、それ以来、店のサカキは能登や金沢など含めて国内産を調達し、「国産榊」として販売するようにした。値段は国産のサカキの方が少し高い。しかし、輸入品は防疫の消毒液がかかるため、長持ちするのは国産だという。

   同じ植物であっても、その植物がどのような思いで育てられたのかということに消費者はこだわるものだ。もし、サカキが日本人と同じ価値観で中国で伝統的に栽培されていれば、国産より価格は高いかもしれない。逆にモノづくりに生産者のこだわりがなければ拒絶される。中国・新疆の綿花畑でウイグル族の人々が強制労働に従事させられていると報じられると、その綿花で製造された衣類はたとえシャツであったとしても着たくない。上記のスルメイカもそうだ。こだわりの消費者心理を理解しない生産者、生産国は見放される時代だ。

⇒4日(金)夜・金沢の天気   くもり