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☆続々々々・ニュージーランド記

☆続々々々・ニュージーランド記

 旅行中、kiwi(キーウィ)という言葉がいたるところに目につく。この国の国鳥でシンボルでもある。そして、ニュージーランドの人たちは自分たちのことをkiwiと読んだり、書いたりする。日本でキーウィといえばフルーツのことだが、語源はこの鳥である。

      愛される鳥・キーウィ

  現地の新聞で「BBQ is kiwiana」という文が目に止まった。BBQはバーベキューのことなので、バーベキューならキーウィの肉、かといぶかった。このKiwianaを英和辞書で検索しても出てこないので、現地の日本人ガイド氏に聞くと、笑いながら「そうですね、日本語で近いのは『ニュージーランド名物』とでもいいましょうか…」、「あえて訳せば『バーベキューはニュージーランド名物』ですね」と。

  「キーウィ」と口笛のような声で鳴くため、ニュージーランドの先住民であるマオリ族からキーウィと名付けられたそうだ。ニワトリくらいの大きさで、飛べない。たくましい脚を持ち、速く走る。しかし、ヨーロッパからの移民とともにやって来たネコやネズミなどの移入動物の影響でキーウィは一時絶滅の危機に瀕したこともある。体の3分の1ほどの大きさの卵を抱くのはオスの仕事である。そこで、kiwihusband(キーウィハズバンド)と言えば、面倒見のよい夫のたとえだとか。

  実は飛べない鳥はニュージーランドには5種類もいる。その中で、国のシンボルとなり、この国の人々の代名詞にもなりと、さまざまなかたちで言葉となるのは、背を丸めた、その愛くるしほどの姿ゆえか。オーストラリアのコアラ、中国のパンダほど世界的に有名ではないにしろ、ニュージーランド国民410万人に愛されている鳥なのである。

⇒29日(火)夜・金沢の天気  はれ 

★続々々・ニュージーランド記

★続々々・ニュージーランド記

  ニュージーランドでスポーツと言えば、ラグビーである。国技とも言え、8月19日には代表チーム「オールブラックス」とオーストラリアの「ワラビー」の試合があった。午後7時からテレビ中継があり、人々が集まるバーでは騒然とした雰囲気で若者たちが見入っていた。

                マオリ族の唐草文様

   何人かの若者たちは黒地にシダの模様のロゴがついたTシャツを着ていた。上の写真のように、チームのロゴは葉の裏側が銀色のシルバーファーと現地で呼ばれるシダなのである。この夜、オールブクラックスは34対27で勝利し、薄暗いバーではほの白く光るシダが歓喜で揺れていた。

   続いてニュージーランド航空の機体の尾翼をご覧いただきたい。2本のゼンマイをかたどった模様がニュージーラーンド航空のマークである。シダの新芽の巻きの部分は「コル」と言って、先住民のマオリ族は縁起がよい、あるいは発展性があるという意味を込めている。マオリ族の工芸品店ではグリーンストーン(緑石)を加工してペンダントやネックレスとして販売されている。

   極めつけは下の写真である。マオリ族のダンスが楽しめるディナーショーに参加したときのこと。コーヒーのコーナーに飾りつけられていたクロスである。どこかで見た懐かしい図柄である。そう日本の風呂敷のデザインである唐草文様だ。これはマオリの伝統的な文様なのだという。唐草文様はもともとギリシャやペルシャから伝わった文様で、ブドウの木のつるなどをかたどったデザインとされる。ところがよく見ると、マオリ族のそれは巻きが2重、3重になっていて明らかにゼンマイ、つまりシダ植物である。

  南島のフィヨルドランド国立公園(世界遺産)ではシダ植物の原生林が広がる。恐竜でも出てきそうな雰囲気で、日本のシダ類とは違って大きいのである。その存在感がポリネシアンであるマオリ族をして、畏敬の念を持たせたとしても不思議ではない。それが言い伝えとなり、意味付けされた。さらにその意味付けがデザインのモチーフとなった。日本の「鶴はめでたい鳥」と、「コルは縁起がよい」の意味づけにそう大差はない。

⇒25日(金)夜・金沢の天気   はれ

☆続々・ニュージーランド記

☆続々・ニュージーランド記

 ニュージーランドの南島の牧場では羊が飼われ、北島では牛が草を食む、それこそ牧歌的な光景をよく目にした。農業国といわれる理由なのだが、豚の放牧は1度しか見なかった。寝るための小屋が必要で設備投資に金がかかる、というわけだ。牛や羊とは違って病気にかかりにくく栄養価でも優れている家畜なのだが、酪農大国ニュージーランドは豚の輸入国に甘んじている。

      羊の毛刈り職人の深き悩み

 クイーンズタウンの空港からクライストチャーチ空港へ、さらに、飛行機を乗り継いで北島のロトルアに着いた(8月18日)。ロトルアには、温泉が数十㍍も吹き上げる有名な間欠泉がある。日本の別府市と姉妹都市だそうだ。

 ロトルアではもう一つ有名な毛刈りショーを堪能した。羊はおとなしい動物なのだが、中には暴れるのもいる。特にシェリオットという種は気性が荒いので毛刈り職人にとっては厄介者だったが、いまは品種改良されて随分とおとなしくなった、などと司会者が軽妙な語りでショーを進めていく。これを日本人スタッフが通訳しながら実況中継する。それをヘッドホンで聞く。台湾、韓国からの見学者もいるので、それぞれの言語のスタッフが中継する。ショーを終えた後で国際会議もできそうだ。

  ところで、ウール王国のニュージーランドで羊の毛刈り職人はさぞかし優遇されているのだろうと観光ガイド氏に訪ねた。すると「かつてはそうだったのですが…」と前置きし、内実を話してくれた。毛刈り職人の労賃は1匹につき1㌦40㌣(ニュージーランドの1㌦=76円換算で106円)である。電動バリカンだと一人前の職人は平均して37秒に1匹をさばく。1日に300匹ほどの毛を刈ることになる。つまり労賃は420㌦、3万2千円ほどだ。

  「でも、数年前までは2㌦から2㌦50㌣だったのです」とガイド氏。羊毛の重要が落ちているのだ。その証拠に、かつて数億匹といわれたニュージーランドの羊は今は4000万匹だ。

  その羊の毛刈り職人を窮地に立たせているのがポリエステルの繊維素材、フリースの登場だといわれる。フリースは高級ウールを目指してつくられた。保温性が高く、軽量、簡単に洗濯できるので、登山家らアウトドアの人たちの必需品だった。それが、アメリカのクリントン元大統領のヒラリー夫人も愛用しているなどと評判になり、一躍、タウン着として世界中から注目されるようになった。ペットボトルを再生して製造される道筋がついているので原材料には事欠かない。天然素材が化学素材に圧迫されている。羊の毛刈り職人の悩みは深いのである。

  ちなみに「羊の毛を刈る」という英語表現は「shear a sheep」あるいは「fleece a sheep」と書く。fleeceは名詞で「羊の毛」のことである。

 ⇒24日(木)夜・金沢の天気 はれ

★続・ニュージーランド記

★続・ニュージーランド記

 クイーンズタウンという町の名は聞いただけで移民の国らしい語感がする。大英帝国の女王陛下に捧げる、あるいは立派な町にしていつか女王陛下に来ていただこう、移民たちのそんな思慕の念が読み取れそうだ。で、何人かの日本人の現地ガイドと話をすると、そんな歴史のことより、「クイーンズタウンはすごいですよ、オークンランドより高いそうですよ」と口をそろえたようにして言う。「高い」とは地価のことである。

     投資の熱狂・クイーンズタウン

 クライストチャーチを後にして8月16日はクイーンズタウンを訪れた。湖畔沿いに街がつくられ、雪のサザン・アルプスが背景に連なる。雑誌などでよく見る北欧かスイスの街のようなイメージだ。南緯45度、地球儀をひっくり返してみれば、北緯45度は日本の北海道・稚内、何となく北国であることが想像できる。が、ヨーロッパと比較するとイタリアのミラノやフランスのルグノーブルに相当し、北欧とは遠い。

  雪山が望めるのも、暖流の東オーストラリア海流の上をなめるようにして吹きつける湿った風が2000㍍級のサザン・アルプスにぶつかり、一気に上昇気流となって山頂に雪を戴かせる。つまり、クイーンズタウンの町はそれほど寒くはないのにモンブランの景色が楽しめるというわけだ。景色だけでなく、スキーヤーの姿もよく見かけた。

  クイーンズタウン郊外にはオーストラリアのメルボルンやシドニーと結ぶ空港もあり、いまや年間150万人の観光客が訪れるニュージーランドきってのリゾート地になっている。日本人ガイド氏が「高い」という理由も街を眺望して理解できるような気がした。あちこちにリゾートホテルが建ち並ぶ。リゾートホテルと言っても、高層ではなく5階から7階ぐらいの中層である。実際に泊まったホテルもモダンアートと照明に凝った、品のよいホテルだった。

  しかし、そのクイーンズタウンをめがけて資本の論理がうごめく。郊外はリゾート地にあやかってホテルや住宅の建設ラッシュなのである。中でも100戸近くはあるかと思われる開発地が目を引いた。ガイド氏の説明では、つい最近まで牧場だったところをエステート(不動産会社)がそっくり買収し、別荘用に売り出している、という。「売り地800平方㍍、18万㌦」の看板を見かけた。日本で言えば、「240坪、1370万円」(1NZ㌦=76円で換算)となる。また、リゾート用の分譲マンション、「3DKタイプで家具、プラズマテレビ付き25万ドル(1900万円)」というのもあった。

  日本人の感覚からは「安い」かもしれないが、現地のことをよく知っているガイド氏などは「オークランド近郊の話ですが、牧場を800万円で買って、6億円で売り抜けた日本人の話はニュージーランドでは有名ですよ」と。いまこの手の話はあちこちにあるらしい。現地の銀行のリーフレットを手にすると、1年ものの定期預金は利息7.35%である。いまの日本と比べれば、この金利でよく経済が回るものだ感心するくらい高い。いや、日本のバブル絶頂期を思わせる。

  リアス式海岸の景勝地であるミルフォード・サウンドでのクルージングを楽しんでホテルに戻ったのは夜だった。ホテルのバーカウンターで地ビール「スパイツ」のジョッキを片手に盛り上がっている4、5人の男たちがいた。スーツに派手なネクタイ姿はエステートの連中か、と詮索してしまった。母国の女王陛下への思慕の念を抱きつつ先祖が心血を注いだ開拓の地を投資の対象にして、人々の心が騒いでいる。かつて、どこかの国で見た光景だった。(写真は、クイーンズタウンのリゾートホテル)

⇒22日(火)朝・金沢の天気   くもり 

☆ニュージーランド記

☆ニュージーランド記

 夏休みを利用して家族でニュージーランドを旅行した。日本は真夏だが、ニュージーランドは冬だ。暑い日本からの寒い南半球への旅行は後に体が疲れるとか、ニュージーランドは紫外線が強いのでご用心などと諸氏からいろいろと忠告を聞かされ、5泊7日の旅に出た。

            追憶の街・クライストチャーチ

  関空からのフライト。セーターや厚手のズボンやコート、靴を持参したので大きいほうのトランクは34㌔にもなった。10時間半でニュージーランド南島のクライストチャーチ国際空港に着いた。現地の時間は午後0時30分、到着を告げるアナウンスでは日中気温は7度。金沢だと2月下旬ぐらいの気温だ。機内でさっそく上着を羽織った。

  さっそく予約してあったツアーバスに乗り込んだ。クライストチャーチ、語感に古きイギリスのにおいがする。1850年、イギリスから4隻の船で800人が移民したのが始まり。それが現在では35万人の南島最大の都市へと成長した。しかし、150年余りでそれだけ人口は増えるものなのか。日本人ガイドのアリタ・ヤスエさんの説明だと、ニュージーランドへの移民が始まって間もなく、サザン・アルプスの各地で金鉱脈が発見され、1860年代からゴールドラッシュが沸き起こる。これで、ヨーロッパやアジアからもどっと人が押し寄せた。さらに、1870年代からはヨーロッパでウール、つまり羊毛の人気が高まり、ニュージーランドはその原料の主力供給基地へと力をつけていった。

  中には成功物語も数多くあったのだろう。街は活気あふれ、1886年から40年もかけて、街の中心部にイギリスのゴシック様式による大聖堂が建設された。奥行き60㍍、1000人は収容できる。そして望郷の思いもあったのか、オックスフォード通り、ケンブリッジ通りなど大聖堂の周辺には母国イギリスをしのぶ地名もつけられた。そして人々は「イギリス以外で最もイギリスらしい町」と呼ばれるほどに本国のイミテーション都市をつくり上げた。

  その真骨頂は気品のある住宅街である。エイボン川沿いの瀟洒な住宅群、あるいは前庭は草花、後庭は芝生のイングリッシュガーデンの住宅が建ち並ぶ。そしてクライストチャーチは「ガーデンシティ(庭園の街)」と称されるまでになった。  確かに、クライストチャーチは豊かだ。サザン・アルプスを背景にカンタベリー平野に展開する牧羊などの酪農、そしてカイコウラ漁港を中心とした水産業も盛んだ。ただ、実際に街を歩くと、歴史が止まっているかのように感じるのは自分だけだろうか。若者の姿が少ないのである。ことし1月訪れたイタリアのミラノは古い街並みを若者がかっ歩するという歴史の連続性を感じた。が、クライストチャーチには人々のみずみずしさが感じられないのである。

  聞けば、ニュージーランドに7つある大学の一つ、カンタベリー大学がクライストチャーチの中心街から郊外に移転したのだという。学生数は1万3千人もいるというから、その学生が抜けた分だけ、街にぽっかりと穴が開いた状態なのかもしれない。  果たしてそれだけか。

 宿泊したホテル「クラウン・プラザ」の1階のレストランはクライストチャーチの市民も多く利用していた。しかし、そこでも若者が少ないように思えた。そこで別の日本人ガイドに、この印象について尋ねると、「若者は仕事を求めてオークランドに流れている」との返事だった。オ-クランドは北島にある人口110万人を数えるニュージランド最大の経済都市である。いうならば一極集中の構造になっているこの国では、2番目の規模を誇る都市・クライストチャーチであっても「ストロー現象」で若者が吸い上げられているのでは。そして、クライストチャーチがイギリスの追憶の街に終わるのでないか。自ら住む金沢の街と比較しつつそう思った。 (写真は、大聖堂の広場で大型のチェスを楽しむ市民ら)

⇒21日(月)夜・金沢の天気  はれ

★京に見る町家の美学

★京に見る町家の美学

 京都を仕事で訪れた16日は祇園祭の宵山の日だった。先方と待ち合わせた円山公園は、浴衣がけの女性らも繰り出して大勢の人でにぎわっていた。園内にある野外音楽堂では、高石ともや、上条恒彦、永六輔らが出演する「宵々山コンサート」と銘打ったコンサートが午後4時から本番とあって、リハーサルにもかかわらず、上条恒彦のボリューム感のある声が園内に響き渡っていた。人のにぎわいと音で騒然としていた、と表現した方が分かりやすいかもしれない。

  その音楽堂近くの路地の一角の民家にふと目をやると、一瞬、雑踏が遮断されたかのような静寂の世界に入る思いがした。すべての感覚がその光景に集中してしまったのである。民家の玄関入り口は一坪もないほどの庭である。その庭にはジグザグに敷石と波型の瓦の縁を幾何学模様に配してあった。瓦と瓦の間隙には緑色のコケがはえて、これが何ともいえない色彩美を醸し出しているのである。この種の瓦を配した作庭は以前、金沢でも見たことがある。が、京都のそれは時間に馴染んで趣(おもむき)があった。

  心を動かされたのは庭だけではない。屋根もである。かやぶき。京都の市内中心部で初めて見た。かやぶきとこの玄関の庭の絶妙なバランスが周囲にこの民家の風格をにじませているようにも感じる。

 しばし眺めているだけで、この家に住む人びとの美的センスというものを感じさせ、ひょっとしてこの家に京都の美的エッセンスというものが凝縮されているのはないか、と思ったりした。素材にしても、フォルムにしても西洋的なにおいを一切感じさせない、純粋な和の質感。隙のない建築美。それでいて、この屋根の形状からも伺える伸びやかで柔軟なフォルム。この家には和の輝きがある。それはまた、グローバルに通じる美の世界ではないだろうか。

⇒17日(月)朝・大阪の天気  くもり  

☆床の間の生命感

☆床の間の生命感

  古色蒼然とした床の間をいきいきとしたオブジェの空間に変えたのは一葉の植物だった。

   私のオフィスである金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」は築280年の古民家を再生したものだ。黒光りする柱や梁(はり)に風格というものを感じている。以前にもこの「自在コラム」で触れたが、この柱や梁(はり)を眺めていると、イギリス大英博物館の名誉日本部長、ヴィクター・ハリス氏のことを思い出す。去年7月9日だった。ハリス氏は日本の刀剣に造詣が深く、宮本武蔵の「五輪書」を初めて英訳した人だ。日本語は達者である。年季の入ったこの建物の梁や柱を眺めて、「この家は何年たつの?えっ280年、そりゃ偉いね。大英博物館は250年だからその30年も先輩だね」と、ハリス氏は黒光りする柱に向かって軽くおじぎをした。古きもの、価値あるもを見抜く目利きのスペシャリストの所作というものを垣間見た思いだった。

   きょうの話はここからだ。私はハリス氏が講演した1階奥の間の床の間になぜか据わりの悪さを感じていた。掛け軸はかかっているが、どこか古めかしく、山水画の絵柄もいまひとつ雰囲気とマッチしない。床の間全体が古色蒼然とした感じなのだ。

   そこで一枚の葉っぱを置いてみることにした。するとどうだろう、床の間に命が吹き込まれたかのようにいきいきとした空間になったではないか。床の間に緑の配色は似合う。さらに、葉から出ている2本の新芽が生命の躍動感というものを感じさせるのである。見向きもされないデッドスペースだった床の間が生命感あふれるオブジェの空間に様変わりした瞬間だった。

   周囲のスタッフに尋ねると、この葉はセイロンベンケイソウ、沖縄では子宝草とも言う。あるいは、葉から芽が出ているのでハカラメとも呼ばれるそうだ。底浅の皿に水をためて葉を浮かべておくと発芽する。手のかからない観葉植物だ。葉がこれ以上大きいと床の間のバランスが崩れ見栄えはしないだろう。そして新芽が出たものこそ価値がある。

   一枚の葉で人の感動が生み出せる。人の造形など自然のそれにはかなわない。

⇒27日(火)午後・金沢の天気  くもり

★不思議な春の日差し

★不思議な春の日差し

 北陸にもようやく春がやってきた。風には冷たさが残るものの、金沢市の中心部、兼六園に通じる広坂通りには花見のぼんぼりが取り付けられ、春のムードを醸し出している。その広坂通りを歩いていると、旧・県庁の正面にある2本の巨樹の目立つ。

  この2本のシイノキは「堂形(どうがた)のシイノキ」と呼ばれ、この界わいのシンボルともなっている。樹齢が400年とも推定され、国の天然記念物(1943年指定)なのだ。幹のまわりが5㍍から7㍍もある巨樹だけに、枝葉を円形に広げてバランスをとっている姿がなんとも威風堂々とした感じだ。

  いつもは通勤バスの車窓から眺めるだけなのだが、きょうは春の日差しに誘われた歩いて近寄ってみた。不思議な感覚にとらわれた。まるで、森に入ったような気分になったのである。枝葉からこぼれる日差しがわずかな風に揺れている。野鳥のさえずりもして、「里の錯覚」に陥る。不思議な光景だった。

  このシイノキの持つオーラ(樹霊)なのか、単なる春の迷いなのかは分からない。話はこれだけである。

 ⇒24日(土)午前・金沢の天気  はれ

★長崎行~行けど切ない石畳

★長崎行~行けど切ない石畳

  実は「長崎」にはちょっとした思い入れがある。宴席でカラオケの順番が巡ってきて、「何か歌って」とせかされて歌うのが、内山田ひろしとクールファイブの「長崎は今日も雨だった」だ。前川清のボーカルをまず歌って喉ならしをする。「♪行けどせつない石畳~」と。これで自分をカラオケモードに切り替える。1969年のデビュー曲だから、私もかれこれ30年余り歌い込んできたことになる。

  歌にうたわれた場所がある。オランダ坂を上がり、大浦天主堂、グラバー邸入り口にかけての坂道は一面の石畳である。訪れた日は晴れだったので地面は反射していたが、これが雨で濡れていればまた違った風情になり、歌のように気分も盛り上がるのかもしれない。

  ところで、現地に来て初めて理解ができた。長崎は「坂の街」である。石畳を敷き詰めないと雨で路肩が崩れてしまう。しかも傾斜が急なところも多いので、コンクリートやアスファルトでは凍結した場合に滑る。長崎には石畳が理にかなっているのである。バスガイトによると、最近では高齢化でエスカレーターやリフトを取り付けている地区もあるのだとか。坂の街の福祉ではある。  

 その石畳の坂道を上り、グラバー邸に着く。長崎湾を見下ろす高台にある。イギリス人貿易商トーマス・グラバー。長崎が開港した安政6年(1859)に日本にやって来た。若干21歳。2年後にグラバー商会を設立し、同時に東アジア最大の貿易商社だったジャーディン・マセソン商会の代理店になった。大資本をバックに武器の取り扱いを始める。

 グラバーに接近してきたのは坂本竜馬だった。竜馬は、幕府から睨まれている長州藩が武器が購入を表立ってできないのを知り、自らつくった亀山社中を通して薩摩藩名義で武器を購入、それを長州藩に横流しするというビジネスモデルを思いつく。グラバー商会から購入した最新銃4300丁と旧式銃3000丁が後に第二次長州征伐である四境戦争などで威力を発揮し、長州藩を勝利へと導く。それがきっかけに薩長を中心とした勢力が明治維新を打ち立てる原動力となっていく。竜馬ファンの間では知られたストーリーである。

  グラバーの3つ上が坂本龍馬、同年代の幕末の志士たちがうごめいていた。自らもリスクを取って長崎にやってきたグラバーは病に倒れるまで50年も日本に滞在した。長きに渡って日本を見続けてきたのも、同世代の人間群像に共鳴し行く末を見届けたかったからではないだろうか。逃げ込んできた志士たちをかくまった屋根裏部屋もグラバー邸で見つかっている。

  今回の旅では行けなかったが、前記の竜馬ゆかりの亀山社中跡(長崎市内)が今月18日で公開を終了することになったと地元の新聞各紙が報じていた。所有者が運営する団体に明け渡しを求めていたらしい。竜馬ゆかりもさることながら、日本最初の株式会社でもあり、日本における資本主義の黎(れい)明を象徴する建物として歴史的な意味も大きいのではないか。所有者の手に戻り、どうなるのか記事に記されてはいない。残念な話で、「♪行けど切ない石畳」ではある。

 ⇒14日(夜)・長崎の天気   はれ

☆長崎行~ハウステンボス変貌

☆長崎行~ハウステンボス変貌

  休暇を利用して長崎を旅している。午前8時半のフライトで小松空港から羽田空港に行き、乗り換えて長崎空港に降りたのは正午過ぎだった。空港からのバスで1時間足らずで佐世保のハウステンボスに着いた。小気味よいほど接続がスムーズだった。

  春の九州はさぞ温暖だろうとこの地を選んだが、戻り寒気で気温は3度。大村湾に面しているせいか風も強い。念のために金沢から持ってきた厚手のハーフコートが役立った。それにしてもハウステンボスの総面積は152㌶もあるというから広い。東京ディズニーランドのテーマパークのざっと3倍である。広すぎて手が回らなかったのかも知れない。2003年に経営破綻し、野村プリンシパル・ファイナンス(野村証券系投資企業)が支援するかたちで2004年4月にリニューアルオープンした。

  10年余りも歴史を刻むと、オランダを模した街並みはテーマパークというより落ち着いたオランダ街と言ったほうがよい。宿泊したホテル・ヨーロッパ(ホテル・オークラが経営参画)も従業員の身のこなし、レストランのメニューなど、テーマパークから連想する子どもっぽさはない。まるで大人をタ-ゲットにしたリゾートホテルである。トリートメント、アロマテラピーを売りにしていて、客の顔ぶれも女性が多いようだ。また、少し離れたホテル・デンハークで食した地中海料理のパエリアなどは賞賛に値すると思う。

  癒しとグルメに随分と力を注いでいるようだ。これだったら羽田から2時間、バスで1時間かけてもやって来る客はいるのではないか。野村PFの経営戦略もここにあるのはとにらんだ。

  いまはまだ修学旅行の生徒たちも多い。800㌧の真水を使って洪水を再現するホライゾンアドベンチャーや、「魔女の宅急便」をテーマにしたフライトオブワンダーなどかつてのテーマパークが健在だ。でも、そのうち徐々に大人色も鮮明にしながら、将来解禁されるであろうカジノなども導入し、大人も子どもも楽しめる「海辺のラスベガス」へと変貌させていくのではないかと想像をたくましくした。

 ⇒13日(月)夜・佐世保の天気  はれ