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★韓国のGIAHS候補地を行く-上

★韓国のGIAHS候補地を行く-上

 今月25日から28日にかけて、韓国・済州島で、「世界農業遺産(GIAHS)連携協力のための国際ワークショップ in 済州&青山島」が開かれている。これまで、世界農業遺産は中国が先行してハニ族の棚田や青田県の水田養魚などGIAHS地域(サイト)を広げている。それを追いかけるようにして、2011年6月に日本で初めて「能登の里山里海」と「トキと共生する佐渡の里山」が認定された。ことし5月、能登で開催された国際会議において認定された阿蘇、国東、掛川の3サイトが追加された。ここに来て、韓国も動き出した。今回のワークショップは韓国のアピールの場、舞台は済州、JEJU、チェジュだ。

      火山岩を活かした済州島の石垣農業システムとは

 ワークショップの主催(主管)は韓国農漁村遺産学会、済州発展研究院、青山島クドルチャン棚田協議会の3者、共催(共同主管)が韓国農村振興庁、同農漁村研究院、中国科学院地理科学資源研究所、国連大学の5者。

 初日(25日)、午前の成田発の便で、正午すぎに済州島に着いた。済州島では6月27日以降に雨が一滴も降らず、気象観測を始めた1923年以来、90年ぶりの干ばつとなっていて、「雨乞いの儀式」も行われたとか。その甲斐あってか、24日には大雨が降ったようだ。バスの窓から見ても、市内の道路などに水たまりがあちこちにある。初日は顔合わせの意味もあり、さっそく現地見学。日本、中国、韓国の参加者は40人ほどで、日本のサイト関係者は能登1人、佐渡2人、阿蘇2人、国東3人の合わせて8人。それに国連大学や金沢大学の研究者ら8人が加わっている。

 済州島では、ユネスコの世界自然遺産に「済州火山島と溶岩洞窟」(2007年6月)が選定されている。標高1950㍍で韓国で最も高い山である漢拏山(ハルラサン)の頂上部には、氷河時代に南下した寒帯性植物種が棲息しており、生態系の宝庫とも呼ばれる。また、海に突き出た噴火口である城山日出峰(ソンサン イルチュルボン)、拒文オルム(岳)などの溶岩洞窟などが自然遺産を構成している。初日の視察でのキーポイントは、その火山活動の副産物として地上に放出されたおびただしい玄武(げんぶ)岩である。この石はマグマがはやくに冷えたツブの粗い石。加工するにはやっかいだが、積み上げには適している。つまり、簡易な石垣をつくるにはもってこいの材料なのである。

 そこで、済州島の先人たちは海からの強い風で家や畑の土が飛ばないように、この玄武岩を積み上げた。畑の境界としての石垣(バッタン)、家の周辺を取り囲む石垣(ジッタン)、墓の石垣(サンダン)、畑の横、人が通るよう作った石垣(ザッタン)、放牧用の石垣(ザッソン)など、さまざまな用途の石垣がある。こうした済州の石垣は「龍萬里」とも呼ばれる。玄武岩は黒く、さらに土も黒土なのだ。今回訪れた下道(クジャ)海岸近くの石垣はかなりのスケールで広がる。ここで栽培されるニンジンは韓国では有名。秋にかけて植え付けが始まる。

  石垣は海でも活かされている。新興里(シンフンリ)の海辺の石垣は、満ち潮にそって沿岸に入った魚が石垣のなかで泳ぐ。引き潮になって海水が引くと魚は石垣の中に閉じ込められ、それをムラの人が採取する。その石垣は「ウォンダン」と呼ばれる。同じ石垣でも作物の保護、土壌と種の飛散防止、所有地の区画、漁労などさまざま現代でも活用されている。1000年も前から石垣に人々の生きる知恵を見る思いだった。

⇒25日(日)夜・済州島の天気  くもり

★福沢諭吉の「独立自尊」

★福沢諭吉の「独立自尊」

 大分県中津市の耶馬渓の「青の洞門」に立ち寄り、同市内の福沢諭吉の旧居と記念館を訪れた。豪邸ではなく、簡素な平屋建ての家屋だ。福沢諭吉は天保5年(1835)に、大阪・堂島の中津藩倉屋敷で生まれた。堂島の生地は現在、同市福島区福島1丁目にあたり、朝日放送(ABC)の本社ビルが建っている。父の百助は堂島の商人を相手に勘定方の仕事をしていた。翌天保6年、父の死去にともない中津に帰藩することになる。中津の実家には長崎に遊学する19歳ごろまで過ごしたと言われる。長崎に出て蘭学を学び、さらに翌年大阪で緒方洪庵の適塾に入る。安政5年(1858年)、江戸に出て、万延元年(1860)には咸臨丸の艦長となる軍艦奉行の従者として、初めてアメリカ行きのチャンスに恵まれることになる。25歳だった。

 中津の旧居近くの駐車場に立て看板があった=写真=。団体名に「北部校区青少年健全育成協議会」とあるので、青少年に向けた啓発看板。これに福沢の文が引用されていた。「願くは我旧里中津の士民も 今より活眼を開て先ず洋学に従事し 自から労して自から食い 人の自由を妨げずして我自由を達し、修徳開智 鄙吝(ひりん)の心を却掃し、家内安全天下富強の趣意を了解せらるべし 人誰か故郷を思わざらん 誰か旧人の幸福を祈ざる者あらん」(明治三年十一月二十七 旧宅敗窓の下に記 「中津留別之書」)。明治3年(1870)、中津にいた母を東京に迎えるため一時帰郷した福沢が旧居を出る際に郷里の人々に残したメッセージだ。「敗窓の下」とあるので、家屋も壊れていたのであろう。

 この文をしたためた「明治3年」は、渡米と渡欧の3度外航で見聞したことを紹介した『西洋事情』を完成させた年である。内容は政治、税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学技術、学校、新聞、文庫、病院、博物館などにおよび、法の下で自由が保障され、学校で人材を教育し、安定的な政治の下で産業を営み、病院で貧民を救済することなどを論じた。ちなみに、「『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と言えり」と、冒頭でアメリカ合衆国の独立宣言を引用して書かれた『学問のすゝめ』はこの2年後の明治5年(1972)に初版が出版された。

 「中津留別之書」は『学問のすゝめ』の思想のベースとも言われる。そのメッセージで心が揺さぶられるのは、「自から労して自から食い 人の自由を妨げずして我自由を達し」の箇所だ。その後の福沢を人生を突き動かす「独立自尊」の強烈なメッセージが読み取れる。ここで考えたのは、これは誰に発したメッセージなのだろうか、ということだ。翌明治4年に福沢は、新政府に仕えるようにとの命令を辞退し、東京・三田に慶応義塾を移して、経済学を主に塾生の教育に励む。その年、廃藩置県で大勢の武士たちが職を失い、落ちぶれていった。武士が自活できるように、新たな時代の教育を受ける学校が必要なことを福沢は痛感していたに違いない。「中津留別之書」はその強い筆力とメッセージ性から、武士たちに新たな世を生き抜けと発した檄文ではなかったのだろうか、と。では、なぜそのようなメッセージを武士に発したのか。武士たちが怨念を募らせて刀や鉄砲を手にすることで再び混乱の世に戻り、「自由が妨げられる」と危惧したのではないか。

 「中津留別之書」から30年後、福沢は慶応義塾の道徳綱領を明治33年(1900)に創り、その中で「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」(第2条)と盛り込み、「独立自尊」を建学の基本に据えた(「慶応義塾」ホームページより)。翌明治34年(1901)2月、福沢は66歳で逝去する。武士が新たな世を生き抜く「人生モデル」を自ら示したのだった。法名は「大観院独立自尊居士」である。

⇒26日(月)朝・金沢の天気  あめ

☆福沢諭吉と「トラスト」

☆福沢諭吉と「トラスト」

 先月(10月)の連休を利用して九州・大分と阿蘇を訪れた。別府から湯布院に入り、ここで2泊して、阿蘇、そして耶馬渓(やばいけい)、中津市の福沢諭吉旧居など巡った。溶岩台地の浸食によってできた奇岩の連なる耶馬渓の絶景で、足を止めたのが「青の洞門」=写真・上=だった。

 断崖絶壁の難所に342㍍の隧道を掘り抜かれたのは寛延年間(1750年代)。観光案内の立札の説明によると、諸国遍歴の途中に立ち寄った禅海和尚がこの難所で通行人が命を落とすのを見て、托鉢勧進によって資金を集め、石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけてトンネルを完成させたと伝えられている。能登半島にも同じような逸話がある。かつて「能登の親不知」と言われた輪島市曽々木海岸の絶壁に、禅僧の麒山和尚が安永年間(1772-1780)前後に13年かけて隧道を完成させた。いまでも、地元の人たちは麒山祭を営み、遺徳をしのんでいる。

 禅海和尚の「青の洞門」は、大正8年(1919)に発表された菊池寛の短編小説『恩讐の彼方に』で一躍有名になった。麒山和尚の能登の隧道も、菊田一夫作のNHK連続ドラマでヒットし、昭和32年(1957)公開された東宝映画『忘却の花びら』のロケ地となった。主人公(小泉博)とヒロイン(司葉子)による洞窟でのキスシンーンが有名となり、「接吻トンネル」と呼ばれ、能登半島の観光ブームの火付け役となった。本来なら話はここで終わりだが、「青の洞門」の場合、ここに福沢諭吉が絡んでさらに話が膨らむ。

 「青の洞門」の上には「大黒岩」や「恵比須岩」といった8つの奇岩が寄り添い、競い合うように連なる「競秀峰(きょうしゅうほう)」=写真・下=と呼ばれる山がある。江戸時代からの名所で、中津藩の名勝でもあった。明治27年(1894)年2月、福沢諭吉は息子2人(長男、次男)を連れて、20年ぶりに墓参のため中津に帰郷した。当時の福沢は、私塾だった慶應義塾に大学部を発足させ、文学、理財、法律の3科を置き、ハーバード大学から教員を招くなど着々と大学としての体裁を整えていた。また、明治15年(1882)に創刊した日刊紙『時事新報』は経済や外交を重視する紙面づくりが定評を得ていた。

 墓参りに帰郷した福沢は耶馬溪を散策した。ここで、競秀峰付近の山地が売りに出されていることを耳にするのである。この絶景が心ない者の手に落ち、樹木が伐採されて景観が失われてしまうことを案じた福沢は、山地の購入を思い立つ。自分の名を表に出さず、旧中津藩の同僚で義兄にあたる人物の名義で目立たないように3年がかりで購入を進め、1.3㌶を買収する。知人に宛てた書簡で、福沢は「此方にては之を得て一銭の利する所も無之」(明治27年4月4日付、曽木円治宛書簡)=慶応義塾大学出版会ホームページより=と、私欲が一切ないことを強調している。

 その後、その土地は明治33年、福沢の意志を継ぐため、耶馬溪に同行した福沢の次男名義に移された。福沢は翌年の明治34年没する。昭和に入り、一帯の土地が景観保護の対象となる風致林に指定され、行政の目の行き届くところとなった。ここで福沢の目的は達成され、昭和3年(1928)に地元の人に譲渡された=同ホームページより=。優れた景観を守るために、私財をもってその土地を購入するという福沢の行動は、自然や景観保全のためのナショナルトラスト運動の日本の先駆けとして評価されよう。

 これは想像だが、禅海和尚がこの難所で通行人が命を落とすのを見て30年かがりで隧道をつくった物語を、福沢は息子たちに語って聞かせたはずである。「そのことを想えば、なんのこれしき」と、20歳そこそこの息子たちに「いい恰好」を見せたのかもしれない…。

⇒25日(日)午前・金沢の天気   はれ

☆元旦オムニバス

☆元旦オムニバス

 <特別手配の容疑者が出頭、なぜだ>
 元旦未明からメディアは騒がしかった。オウム真理教の特別手配容疑者・平田信容疑者が、大晦日に警視庁丸の内警察署に出頭し逮捕されたというニュースだ。能登半島の先端の小さなバス停の待合所にも特別手配というチラシが貼ってあり、平田容疑者は「有名人」だ。17年も逃亡していて、いまさらなぜ出頭かとの憶測があれこれと。あるメディアは、捜査員への受け答えでは教祖だった松本智津夫死刑囚に今も帰依しているような様子はないといい、別のメディアは、年明けにも執行されるかもしれない教祖の死刑を遅れせるために平田容疑者が出頭したのではないかとの説を立てている。所持金(3万円)があり、身なりもそれなりで疲れた様子もないので、逃亡をサポートする組織が背後にあり、計画的な出頭ではないのかとの推測だ。関与したとされる国松孝次元警察庁長官銃撃事件(1995年)などの全容解明が待たれる。狙撃したのは誰だ。

 <初もうで、辰年は浮くか沈むか> 
 元旦の朝は、金沢・兼六園にある金沢神社に初もうでに家族と出かけた。時折晴れ間ものぞく小春日和だった。列につくのだが、近年の傾向だとそれほど列は長くはない。金沢神社は菅原道真を祀っていて、受験生とその家族が多いのだが、かつてほどの熱気が感じられない。天気がよいにもかかわらず、列の長さがさほどではないということは、受験に縁起を担ぐ時代はもう終わったのかも知れない。列についていると、家族がふと、「この灯篭の彫り物は竜だね=写真=、ことしのエトだから一枚写真を撮っておこう」と。その言葉でことしは辰(たつ)年かと初めて気が付いた。辰年は上昇の年とされるがどんな年になるのだろう。12年前の平成12年(2000)は、三宅島が噴火し、ITバブルが崩壊した年、その前の昭和63年(1988)はバブル経済の真っ盛りで東証株価3万円、そして政界の金にまつわるスキャンダルのリクルート事件が発覚した年だった。辰年は、こうしてみると浮くか沈むかの明暗がはっきりする年。ことしはどちらだ。ひょっとして大底か。

 <おせちのフードマイレージを考える>
 元旦におせち料理にありつけるのは幸せなこと。ホテルからの取り寄せで3段重ね、奮発した甲斐があった。和、洋、中華と3種の料理が詰まっている。メニューを見ると、それにしても食材の多いこと、全部で41種もある。レンコンなど野菜類から、ナマコ、カニ、アワビの魚介類、合鴨、牛など肉類などいろいろ。これらの食材は世界からかき集められたものではないのか。おそらくスモークサーモンはフィンランドから、アワビはオーストラリア(タスマニア島)から、ニシンはロシア、オマールエビはカナダからと、その原産地を推測してみる。フードマイレージ(食料の輸送距離)を考えると、輸送過程でどれだけの二酸化炭素が排出されたことか。そう考えるなら買わなければよい、それは自己矛盾ではないのかと言い聞かせる。そこで思いついた。「地元食材100%加賀おせち料理、限定300個」という商品はないのだろうか。

 <元旦ゴールデン番組での違和感>
 元旦のテレビ番組のゴールデン帯はいつもの正月ゴールデンだった。派手で騒がしい。このような番組を東北の被災地の人達はどのような思いで視聴しているだろうかとつい思ってしまった。円盤型のピザ生地を投げて向かいのアパートの電子レンジに入れるという番組があった。何度も失敗する。食べ物を投げてどこが楽しいのかと違和感を感じてチャンネルを変えた。チャレンジする番組はよい。ただ、そのコンセプト、たとえば食べ物を粗末にする表現内容ではないのかとの視聴者感情よりも、奇抜な演出の表現方法を優先していて、どこか発想が拙い。制作現場でそのような意見のやり取りはなかったのだろうか、不思議に思えた。

 <ウィーン・新年コンサートの臨場感>
 結局、チャンネルが落ち着いたのは、NHK教育(Eテレ)だった。番組は「ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート2012」。毎年生中継で世界に配信されている。指揮はマリス・ヤンソンス。ヨハン・シュトラウスの「祖国行進曲」から入り、会場がひと際沸いたのはウイーン少年合唱団が合唱した「トリッチ・トラッチ・ポルカ」ではなかったか。ウィーン少年合唱団がニューイヤーコンサートに登場するのは1998年以来14年ぶりとの解説があった。その少年たちの歌声を引き立てるように配慮されたオーケストラの演奏に会場が大きな拍手をおくったのだと思う。これまで何度かニューイヤーコンサートを視聴したことがあるが、生中継したオーストリア放送協会(ORF)の制作技術はさすがだった。天井からのカメラワークや、ハイビジョン撮影でステージの指揮者や演奏者の息づかいだけでなく、観客席の聴衆の服装や呼吸までもが伝わってきた。これが臨場感を高める。そういえば、和服姿の女性ほか日本人らしき姿が目立つ会場だった。ニューイヤーコンサートはあまたあるコンサートの中でも最もプレミアが付く演奏会の一つだろう、そこへ出かける日本人とは・・・と考えているうちにウトウトとしてしまった。

⇒1日(日)夜・金沢の天気  くもり

★流れ行く記憶

★流れ行く記憶

 当時は「ワッカマワシ」と言っていたような記憶がかすかにある。昭和33年(1958)年に日本の子供たちの間で大流行した、腰を使って回すフラフープのことである。ワッカとは輪のことで、それを回すのでワッカマワシ。当時、幼稚園だったお寺の渡り廊下で遊んでいた。フラフープというしゃれた呼び名ではなかったように思うが、4、5歳ころの記憶で定かではない。

 過日、能登半島・輪島市の公園を通りかかると、子供たちがフラフープに興じていた=写真=。腰を振って、実に楽しそうにこちらに手を振ってくれたので、思わずカメラに収めた。昔取った杵柄(きねづか)で、いまでも自分もできそうだと思うのが不思議だ。フラフープが再び日本でブームになっているようだ。

 記憶がまた蘇る。当時、そのフラフープが突然消えた。幼稚園の遊具場に朝一番乗りでやってきた数人が「ワッカがない」と叫んでいた。記憶はそこまでだ。それ以降、フラフープは脳裏からぷっつりと消えるのだ。

 その理由を先日の新聞紙面(11月28日付・朝日新聞)で知った。記事によると、1958年11月に千葉県内の小学校が「フラフープ禁止令」を出した。腰で回すことで「おなかが痛くなった」と病院で手当てを受ける子どもが各地で出た。腸捻転(ねんてん)を起こすなどの風評が広がり、旧厚生省もフラフープの人体への影響を検討する事態になった。それが新聞やラジオ、まだ黎明期だったテレビなどのメディアで報じられ、健康被害をもたらすという根拠のない風評でブームはあっという間に去った、というのだ。

 当時から、健康に関する情報伝達は異常に速かったのだろう。その状況はいまも変わらない。健康の悪い情報に加え、メタポリック症候群(腹囲の基準に加えて、高脂血症、糖尿病、高血圧のうち2つ以上に該当)によいとか、ダイエットによいとかといった情報まで含めると、流行り廃れが実に激しい。昭和40年代、健康食品としてブームとなった紅茶キノコもそうだろう。結局、一杯も口にすることがなく流行は去った。「紅茶キノコ」という名前だけが脳裏に記憶されている。

 人はブームに踊らされ、そして移り気だ。「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」という一文(松尾芭蕉『奥の細道』)がある。これになぞらえば、ブームというのは永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人である。だから「流れ行く」と書く。そのブームの対象に健康だけでなく、政治も入るようになった観があり怖い。

⇒1日(水)朝・金沢の天気  はれ

☆文明論としての里山20

☆文明論としての里山20

 きょう31日付の新聞各紙を読んで、日本の教育について「大丈夫だろか」と不安を感じたのは恐らく私だけではないだろう。1面のトップ記事。「文科省検定 小学教科書ページ大幅増」「『ゆとり』決別」と見出しが躍った。2011年度から小学校で使われる教科書のページ数が、04年に比べ算数33%増、理科37%増になるという。

             人の力はどこで芽吹くのか

  この記事を読んで、「日本の未来を担う子どもたちよ頑張れ」と共感した大人はいるだろうか。確かに、国際的な学力調査で日本の順位が下がったことを意識して、応用力などを育てることなどに力点を入れた内容を盛り込んでいると記事で説明がされている。が、極論すれば「詰め込み」にすぎない。多くの読者はそう感じたに違いない。電車の中や家庭でテレビゲームに熱中する子どもたちの姿や、「詰め込み」重視の学校での姿を現実的に見てきて、これでよいと思う大人はいないだろう。なぜか、いまの子どもたちに欠けているのは「人間力」、あるいは「生きる力」ではないかと思うからだ。

  いまの子たちを取り巻く環境は、学校の教科書にしても、家庭でのテレビやゲームにしても、バーチャルである。バトルゲームであっても自分が苦痛や汚れを感じることはない。従って、内なる葛藤は存在しない。没頭するだけである。しかし、人はリアルな場面に直面し、心理的葛藤を経て初めて解決の方法を創造していくことができる。これが精神的な成長、あるいは人間力と言ってよい。このリアルというのは自然と向き合いや社会での活動のことである。これが「欠けている」として、「ゆとり教育」が進められたのが10年前である。それがいま「脱ゆとり」、あるいは「『ゆとり』と決別」となって揺り戻しが行われている。もちろんすべて昔のカリキュラムに戻すという内容ではないだろう。新しい教科書では、プレゼンテーション能力を高めるといった内容も盛り込まれていて、時代のニーズに即してはいる。

  同日付の朝日新聞の生活欄に、ドイツで実践されている「森の幼稚園」の事例が紹介されている。屋根がない森という環境で子どもたちを育てる教育手法で、1950年代にデンマークで生まれ、北欧を中心に広がっている。いまドイツだけでも427園もある。3歳から6歳の子どもたちが、森の中で遊びまわる。雨の日も泥だらけになる。山道を歩き、切り株に腰掛ける。鳥の声に耳をそばだて、花に目を凝らす。山道を登れない子を年上の子が手を引いて登る光景も見られるようになる。先生はじっと子どもたちの様子を観察して、リスク管理を怠らない。来る日も来る日も森で3時間ほど過ごす。人間が本来持つ五感(見る、聞く、かぐ、味わう、触れる)を森で芽吹かせる。ドイツの教育はここから始まる。

  いまの日本の教育は「促成栽培」だ。人間の感性や生きる力のベースを十分に得ないままに、「詰め込み教育」というバーチャルの世界に子どもたちを叩き込んでいく。では、人間力や生きる力を人生のどのステージで体得するのかという教育プログラムそのものがない。最終的に「自己責任」「家庭の教育」に押し込められてしまう。野を駆け巡り、川に遊び、海を泳ぐような教育はほんの一部でしか実践されていない。自然環境の深いところから人を育てようとする意識を忘れ去っているいるのではないか。

⇒31日(火)夜・金沢の天気   あめ  

★文明論としての里山18

★文明論としての里山18

 金沢大学が私がかかわっている「能登里山マイスター」養成プログラムの修了式が20日、珠洲市三崎町の金沢大学能登学舎で執り行われた。2年間のカリキュラム(54単位相当)を履修して、卒業課題研究の審査にパスした16人の門出である。修了生は20代から40代の社会人。とくに卒業課題研究は1年間かけて練り上げ、独自で調査して中間発表、さらに外部の専門家を含めた審査員の眼を通した審査発表という関門だっただけに、「卒業」の喜びもひとしおだったと思う。

                          持続可能社会を支える者たち

  修了生はどんな研究課題に自ら取り組んできたのか紹介する。ある40歳の市役所の職員は、岩ガキの養殖を試み、それが果たして経営的に成り立つのかと探求した。年々少なくなる地域資源を守り、増やして、生かしていこうという意欲的な研究だ。さらに、その実験を自費で行った。コストをいとわず、可能性を追及する姿こそ尊いと心が打たれた。また、32歳の炭焼きの専業者は、生産から販売までに排出する二酸化炭素が、全体としてプラスなのかマイナスなのかという研究を行った。土壌改良剤として炭素が固定されることを考慮に入れて、全体としてマイナスであると結論付けた研究だった。膨大なデータを積み上げ、一つの結論を導いていくという作業はまさに科学そのものである。しかし、自らの生業を科学することは、なかなかできることではない。その結果として逆の答えが出たら怖いからだ。そこに、果敢に挑戦し自らの生業の有用性を立証していくという勇気は感動ものである。

  修了生一人ひとりに「能登里山マイスター」認定証を手渡した中村信一学長は式辞の中で次のように述べた。「里山里海の事業について思うところを一つ述べます。産業革命以来の大量生産大量消費の社会・経済構造からのパラダイムシフトを迫られている今日、伝統文化をいかにとらえるかは、将来の指針となりえます。過去の歴史が繰り返し示すように、伝統文化は時代とともに変わらなければ衰退し消滅します。しかし、一方で、守り継承すべき遺産としての伝統文化があります。これは新たな行動の立脚点となり、迷った時に回帰できる原点でもあります。能登に残された里山里海は広い意味でとらえれば、伝統文化の一つといえます。この残された里山里海にまつわる伝統文化をいかに継承するかと同時に、その上に立つ21世紀型の新たな里山里海文化を作り出すことが今能登に求められていることです。少し具体的に言えば、伝統文化や伝統農作物に立脚した新たな農業や漁業の構築、大切に残された里山や里海の今世紀への転換などです。これらの成否は、皆さんの今後の活躍にかかっているといっても過言ではありません」

 歴史文化を有する能登の将来を担うのは諸君である、という強いメッセージが込められていたと感じた。学長が述べた、大量生産大量消費の社会・経済構造からのパラダイム変換が起きている今、人は右往左往するばかりだ。そのような中で、「能登里山マイスター」養成プログラムは環境に配慮した持続可能な社会をどのようにつくり上げていくことができるのかをテーマに学んできた。こうした、「目指すべきもの」を持った、あるいは志(こころざ)しを持った若者たちが能登半島で活動を始めているというのは、「いまここにある未来」というものを感じさせないだろうか。

  未来をつくり上げるのは若者しかいないと思う。彼らの前にはおそらく困難も立ちはだかることだろう。日本、そして世界は一筋縄ではなく、混沌としているからだ。そんな中、志しを高くして進む者のみが未来の扉を開くことができるのだ。持続可能な社会というのはこのような若者が社会を支えて持続していくのだと考えている。「能登里山マイスター」養成プログラムは60人以上のマイスター育成をめざす。60人が動き出せば、能登の風景も変わると思う。

 ⇒21日(日)朝・京都の天気  くもり(黄砂)

★文明論としての里山16

★文明論としての里山16

 山のお寺にカフェがあり、海辺の学校にレストランがある。半島の先端で1個400円の豆腐が飛ぶように売れると言ったら、ちょっと立ち寄ってみたと思わないだろうか。ボランティアではない、れっきとしたビジネスなのである。

              スモールビジネスの根強さ

  輪島市町野町金蔵(かなくら)は朝日新聞「にほんの里100選」の一つ。山中に棚田が広がり、どこか懐かしい里山の原点のような地域。ここの特徴は、160人足らずの在所にお寺が5つもあること。その一つ、慶願寺には円窓の回廊とデッキテラスがある。カフェ「木の音(こえ)」。午前10時から午後5時まで営業(休日:水・木曜)。喫茶メニューは、各種コーヒーや紅茶ほか、オリジナルの古代米ケーキ、古代アイス、手作りピザ(ちなみに700円)、古代米シフォンケーキ(450円)、古代米団子(350円)・・・。寺の坊守さんを中心に地域のNPO法人が運営している。土日ともなると若いカップルも訪れる。

  珠洲市三崎町にあるコミュニティ・レストラン「へんざいもん」。小学校の廃校舎の調理室を利用した、毎週土曜日のお昼だけのレストランだ。近所の主婦たち4、5人が食材を持ち寄って集まり、700円の定食メニューを提供してくれる。秋になると土地で採れるマツタケを具材に「まつたけご飯定食」が目玉となる。特に宣伝はしていなが、どこからうわさが立ってこの日は利用者がぐっと増える。そのほか、魚介類や山菜類、根菜、菜っ葉ものすべて近くの海、山、畑で採れたもの。ちなみに「へんざいもん」とは、この土地の方言で、漢字を当てると「辺菜物」。つまり「この辺りで採れた物」のこと。地産地消を地でいく屋号なのである。

  能登半島の先端、珠洲市狼煙町。23日、この地区の集会場を訪れると20人ほどのお年寄りたちが全員マスクを着けていた。館に入ると、プーンとにおう。納豆をつくっていたのだ=写真=。においが気になってマスクをしていたのかと思ったが、食品衛生上のことらしい。束ねた稲ワラの腹の部分に煮豆を詰めていく。それをこたつを利用したムロに入れて寝かせ、発酵させる。28日に市内で食のイベントがあり、そこで販売するのだという。1本400円で、1200本つくる。狼煙地区で伝統的に栽培されている大浜(おおはま)大豆という地豆がある。これが市内ではとても有名な豆で、この豆でつくるワラ納豆は行列が出来るほどの人気だ。

  この地豆でつくった豆腐がまた旨い。腰のあるプリンのような舌触りで、飲み込むと食道からスルスルと落ちるようなのど越しのよさがある。販売している「交流施設狼煙」の店長に聞くと、地豆本来の味に加え、豆腐を固めるニガリが他と違うのだという。同市内で生産されている揚げ浜塩田の天然塩の製造過程でできたニガリを使用している。その中でもいろいろと試したが、この地豆の豆腐はこの人のつくるニガリでしか固まらない。この人とは、国の重要無形民俗文化財の指定を受けた保存会代表、角花(かくはな)豊さん。揚げ浜の5代目。たとえれば、「塩づくりの人間国宝」である。そのような背景を知っている地元ではこの豆腐に人気が集まる。1パック400円。

  億兆円の利益を稼ぎ出すビッグビジネスに比べたら、鼻で笑われる、瑣(さ)末なスモールビジネスだろう。逆に、豆腐などは広域のビジネスとして伸ばそうと思えば、やれなくもないが、それだけ材料の品質管理が難しくなる。しかも、彼らはそれを望んでいる様子もない。あえて市場化しないと言ったほうが適切かもしれない。地域に信頼されるコミュニティ型のビジネスなのである。

  ビッグビジネスを否定しているのではない。本来、ビジネスというのは地域の人に喜ばれて成立する、公共的なものである。利益の追及だけに走らず、地域に根ざして持続可能性を追及する、そんなビジネスがもっと多種多様にあってもよい。地域に愛されない、信頼されないビジネスがビジネスと言えるのだろうか。金儲けの手段とは別の話だ。

 ⇒25日(木)朝・金沢の天気 はれ

☆文明論としての里山15

☆文明論としての里山15

 「日本の農業を変えていこう」と壇上で声高に叫んだのは、石川県羽咋(はくい)市の農協の組合長だった。この言葉を耳にして、「本気か」といぶかった人もいれば、「いよいよ変わる」と期待した人もいるだろう。時代の臨場感を感じさせるステージだった。確かに、農業が変われば、自民と民主の政権交代の比ではない、文明が変わる、ひょっとして社会の構造が徐々に変わるかもしれないと予感がした。講演のステージに立ったのは、「奇跡のリンゴ」でNHK「プロフェッショナル仕事の流儀」でも取り上げられ、一躍「農業カリスマ」になった木村秋則氏である。9年間も低収入に苦しみながら、「無農薬・無肥料でリンゴは栽培できない」との常識を覆し、自然の力を引き出す自然栽培を実践している農家の物語を津軽弁をにじませながら淡々と語る。前売1500円、主催者発表で900人のホールは満杯となった。

            いま世界でうねっている動き

  農薬や除草剤、化学肥料を使わなくても農業はできると説くのだから、これまでそれらを一手に販売してきた農協の立場は180度ひっくり返る。しかも、この講演会を実施したのは、冒頭で紹介した農協や市役所の職員たちである。トップダウンではない。職員たちの発案によるボトムアップの企画だ。税金は一切使わない。1500円の前売券にはそのような意味がある。それより、農協の組合長が実行委員長となり、「日本の農業を変えよう」と自然栽培の木村氏を講師に招いたところがポイントであり、メッセージ性がある。これは、単に石川県能登半島での一つのシーンではない。

  神戸市。きのう(20日)ときょう、「食がささえる食と農~神戸大会~」。有機農業の国際会議でもある。私も参加している「新たな公共を考える市民キャビネット」のメンバーが大会に出席していて、けさ、その模様をメールで配信してくれた。以下は、そのリポート。行き詰まった資本主義の次の社会経済モデルを模索する動きが農業を中心に世界各地で起きている。有機農業の関係者を中心に国内外から500人が集まった。日本で始まった都市と農村の「提携」はアメリカやフランスではCSA(Community Supported Agriculture)と呼ばれて広がり、都市生活者と近郊の有機農家を直接つないでいる。リーマンショック以降のアメリカでは急増しているとの報告が大会であった。CSAはアメリカやカナダでは、都会から離れた新規就農者たちが始めるケースが多い。私が能登半島で見る移住組、つまりニューカマーたちと同じである。日本における有機農業の流通販売は、1970年代に反公害、反市場主義、新協同組合主義などさまざまなファクタから始まった。反市場主義は食べ物を商品にしないことや、消費者の選択の対象にしないことが目的である。新協同組合主義は、消費者と生産者が支え合う関係を作ろうというもの。日本でも早くからこの方式を取り入れてる生協がある。

  この大会では、行政の動きが顕著になった。たとえば地元・兵庫県では、8年後の平成30年までに「環境共生型農業」(農薬や合成肥料は慣行の3割減)を全農地の75%に広げようという目標を掲げている。さらに、「ひょうご安心ブランド」(同半減)を20%に、有機農業を2%にするという。同県では豊岡市で「コウノトリ育む農法」(環境共生型農業)が奏功して、勢いがついている。

  能登半島と神戸の事例はきのうときょうの動きのほんの一部にすぎない。農協あるいは地域での取り組みがうねり始めている。そして若者が動き始めている。

 ⇒21日(日)夜・金沢の天気 はれ

★文明論としての里山14

★文明論としての里山14

 今回のブログのシリーズ「文明論としての里山」で問いかけているのは、人々と里山の関係性、あるいは関係価値とも言ってよいかもしれないが、どう復活させるかである。あえてそれを「復権」と表現してみたい。受動的な意味合いではなく、それはまさに、知恵と技術を生かして、現代社会が里山を必要とするような関係性を取り戻すための復権闘争である。

            里と人の関係性の復活

   何も、昔に戻ってクヌギやコナラを切り出して炭を焼こう、木の葉から肥料をつくろうと言っているのではない。21世紀における里山の保全と利用を考えていこうという期待感である。あるいは、里山という生態系を見直すことで得られる新たな価値を再評価したいという思いもある。最近、一般的にも使われ始めた生態系サービスを地域の里山に見出すことから始めてもよい。とはいえ、一度失われた関係価値を取り戻すには時間がかかる。

  もう一つの視点がある。ことし2010年、国際生物多様性年はそんな里山と人のかかわりがテーマとなる。名古屋で開催される生物多様性条約第10回締約国会議(CBD/COP10)では、日本政府が提案する「里山イニシアティブ」という言葉に注目が集まることだろう。国際会議に「なぜ里山が」といぶかる向きもあるかもしれない。それは突飛なことではなく、里山=SATOYAMAは国際用語としても認知度が高まりつつある。

  なぜ国際的に里山なのかと言うと、まず生物多様性(biodiversity)と相性がよい。多くの動植物を育み、人々が恩恵を受ける場所でもある。そんな里山について、国連大学を中心としてサブグローバル評価が行われている。日本国内では、里山を守るための行政や市民などによる取り組みが様々なかたちで始まっている。里山保全は日本の環境問題を打開するキーワードの一つとして浮上している。それを、世界の生態学者が意味で注目している。人と自然の共生という日本流の人と里山のかかわりについて、自然を収奪の対象と考えがちな欧米流の視点からは理解が難しいかもしれないが、実践事例に科学的な評価を加えることによって、少なからず理解は得られるように思う。

  超えるべき問題もある。たとえば、里と人の関係性を考えると所有権というテーマに突き当たるが、それより何より、人と自然が共生する場を守り活かすという新しい公共の概念をつくらなければ、人と自然はどんどんと離れていくのではないか、とも考える。人と自然が離れれば離れるほど、自然は荒れ、人は自然を失って、社会も行き詰る。新たな公共の概念とは、机上で哲学的に生まれるものでも、法律論で語るべきものでもない。試行錯誤の実践事例の中に潜むものと私は考えている。その中から人の知恵を拾い出し、どう整合性のとれた知恵の輪としてつなげるかが問われるのであろう。それが、里山復権の第一歩であると思う。

 ⇒20日(土)朝・金沢の天気 はれ