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☆韓国のGIAHS候補地を行く-追記

☆韓国のGIAHS候補地を行く-追記

  韓国で開催された「持続可能な農業遺産保全・管理のためのGIAHS国際ワークショップ」では日本、中国、韓国の連携が強調された。27日には、GIAHSを世界に広める役割を担おうと「東アジア農業遺産システム協議会」(仮称)の設立が提案され、来年4月に中国・海南島で国際ワークショップが開催されることが決まった。また、今回いくつかの問題提起や論点も提起された。それを紹介したい。論点が浮かび上がったのは「日中韓農業遺産保全および活用のための連携協力方案の模索」と題した討論会(座長:ユン・ウォングン韓国農漁村遺産学会会長)=写真=だった。

      日中韓の「GIAHS連携」 どこまで可能か       

  論点の一つはGIAHSをめぐる「官」と「民」の関係性だ。韓国農漁村研究院の朴潤鎬博士は「農業遺産を保全発展させるためには地域住民の主体性が必要」と述べた。会場の質問者(韓国)からも、「今回のワークショップでは国際機関や政府、大学のパネリストばかり、なぜ非政府組織(NGO)の論者がいないのか」といった質問も出された。これに対し、パネリストからは「農業遺産の民間の話し合いや交流事業も今後進めたい」(韓国)や、「日本のGIAHSサイトではNPOや農業団体が農産物のブランド化やツーリズムなど進めている」(日本)の意見交換がされた。確かに認定までのプロセスでは情報収集や国連食糧農業機関(FAO)との連絡調整といった意味合いでは政府や自治体とった「官」が主導権を取らざるを得ない。認定後はむしろ農協やNPOといった民間団体などとの連携がうまくいかどうかがキーポイントとなる。討論会では「地域住民主体のサミット」(朴潤鎬氏)のアイデアも出されるなど、「民」を包含したGIAHSのガバナンス(主体的な運営)では韓国側の声が大きかった。

  討論会が終わり、中国の関係者が日本の参加者にささやいた。「中国のGIAHSでは、NGOが主体になるは無理ですよ」と。おそらく彼が言いたかったのはこうだ。中国では、国民も民間団体も「官」が描いたシナリオの上を進み走る。つまり、国家が領導するので、「民」が自らのパワーでGIAHSサイトを盛り上げるということはある意味で許されないのだろう。そうなると、GIAHSを保全・活用のために日中韓の国境を越えて、民間同士のアイデアや意見交換や活発な議論というのはどこまで可能なのだろうかとの論点が浮かんでくる。

  次の論点。永田明国連大学サスティナビリティと平和研究所コーディネーターは「日中韓3ヵ国が突出するとGIAHS全体の価値低下を招くことになりかねない。アフリカや欧米などへGIAHS参加の呼びかけなどバランスが必要だ」と述べたことだ。確かに今回の日中韓ワークショップは、モンスーンアジアの稲作など同じ農業文化を有する東アジアから世界に向けてGIAHSの意義を訴えることが主眼の一つだった。永田氏の発言は的を得ている。現在FAOが認定しているGIAHSサイトは世界に25ある。うち、中国8、日本5で東アジアの括りでは13となり、すでに過半数を占める。韓国が2つのサイトを申請しているので、認定されれば27のうち15となり突出する。世界各国がこの状況を見て、「GIAHSは東アジアに偏っている」と判断されてしまうと、GIAHS全体の価値低下につながるのはないかとの危惧である。日中韓が競ってサイト数を増やすのではなく、日中韓が連携してアフリカや中南米などに認定地の拡大を促すことが戦略的に不可欠となる。

  そうは言っても日本国内でも「国際評価」を得ることへの地域の熱望があることは、ユネスコの「世界遺産」の過熱ぶりを見ても分かる。中国と韓国ではすでに国レベルの「農業遺産」認定制度を設けている。国の認定を経て、次にFAOへの申請という段取りになる。ところが、日本にはその制度がなく、GIAHSへの熱望を持った地域が申請しようにも、「ローマへの道のり」(FAO本部の所在地)が分かりにくい。GIAHS認定までのプロセスを制度的にもっと分かりやすくする必要があるだろう。こうした日本の課題もまた見えてくるのである。

⇒1日(日)朝・金沢の天気     くもり

★韓国のGIAHS候補地を行く-下

★韓国のGIAHS候補地を行く-下

 26日夕方、済州からフェリーで莞島(ワンド)に行き、翌朝莞島の港から青山島(チャンサンド)へ。莞島郡には260もの島があり、そのうち有人島は54。海藻が豊富で、韓国全体の海藻の54%を産出している。チャンサンドは2600人の村。40分で青山島の港に到着すると、太鼓と鉦で村人の出迎えがあった。

       青山島で見たオンドル石水田と海女の海

 同島は、アジア初のスローシティー指定(2007年1月、カタツムリをシンボルに取り組んでいる)。また、オンドル石水田システムは韓国の「国家重要農業遺産」の第1号に選定(2013年1月)された。昼食は廃校となった中学を改装した「ヌリソム旅行学校」で。ここではツアー参加者が、サザエ、コメ粉、ニンジン、ネギを刻んでゴマ油でいためる郷土料理「チョンサンドタン」をつくり試食。スローフードのツーリズムが人気となっている。

 ブフンリ村で今回の視察の目的である独自の石水路の田んぼ「オンドル石水田システム」を視察した。ただ、耕作放棄地が目立つ。青山島は全体が傾斜地で石が多い。しかも、ため池など水を貯えられない砂質土壌で、稲作には不利な条件地とされる。「オンドル石水田」は韓国伝統の住宅暖房「オンドル」とよく似た構造からその名前がついた。田んぼが4つの断層で構成される。大小の石を積み重ね石積みをつくり、その上に平べったい石板(グドゥル)を敷いて水路を作る。その後、水漏れを防ぐために泥で覆い、その上に薄く作物が栽培できる良質の土壌で整える。水は下の田んぼに排水口から徐々に流れ出す仕組みだ。

 農民ユーさんが説明した。「田んぼの規模が小さく、すべて自家用米。都会に出た子供たちがたまに帰ってきていっしょに農業作業を楽しんでいる。最近はイノシシが出る。昔からマツタケがよく取れる。川エビと煮て食べるとうまい」と。田んぼの土の深さが15-20㌢ほどで田おこしは協同労働で行い、水の管理も行う。稲作、畑作の条件不利地を石を積んで克服する人々の知恵がここにある。

 珍しいもの見た。「草墳(そうふん)」である。段々畑の一角にこんもりしたワラづくりの墓なのだ。遺体をその土葬せずに3年から5年間、木棺にワラと草と遺体を入れて、骨だけにする。その後に再び木棺を開けて洗骨し、骨を全部土葬する。骨を洗うのは長男ら家族だ。棺桶に草を入れるので草墳と称するらしい。

 青山島は映画のロケ地として韓国では知られている。西便制道(ソピョンゼギル)ではスローロードの小道を歩く。秋は一面がコスモスで覆われる。ここでイム・グォンテク監督の『風の丘を越えて(西便制)』やドラマ『春のワルツ』のロケが行われたそうだ。

 その後、海女の海岸を訪ねた。済州の海女が移住してきたらしい。現在50-70歳の20人ほどが潜っている。スムビ音(磯笛)を鳴らしながら作業。この一帯は養殖アワビも盛んだが、海女が直に採取するアワビやサザエ、ウニは貴重品だ。アリス式海岸の海に海女がいる風景はどことなく、能登の海と似ている。

⇒28日(水)朝・莞島の天気   はれ

☆韓国のGIAHS候補地を行く-中

☆韓国のGIAHS候補地を行く-中

 26日午前、済州グランドホテルで「国際ワークショップ」が開催され、武内和彦国連大学上級副学長・サスティナビリティと平和研究所長が基調講演。続いて、事例発表が行われ、日本から能登、佐渡、阿蘇、国東の取り組みをそれぞれの自治体担当者が、中国の取り組みについて中国科学院の研究者、新たに申請する韓国の2件のGIAHSサイトについても研究者が紹介した。

        アジアから世界に広がるGIAHSの意義

 「Traditional Agriculture and Development of GIAHS(伝統的農業とGIAHSの発展)」。武内氏の基調講演のテーマは示唆に富んでいた。「今後もアジアでのGIAHS認定地が増える見通しで、韓国からは2サイトの認定を申請中である。GIAHSの持続性には、1つには生態系の機能の強化や、生計を保障するためのグリーン・エコノミーの創出など災害などにも柔軟に対応できる『リジリエンス』の強化、2つには地域と都市部の住民による多様な主体の参加による『新たなコモンズ』の設立、3つめとして6次産業化による農産品の付加価値向上やグリーン・ツーリズム、生計の多様化を推進する『ニュービジネスモデル』の創出が不可欠」と強調した。

 GIAHSの今後の展開について、「ユネスコの世界遺産をヨーロッパがリードしてきたように、多様で長い歴史を持つ農業のあるアジアを中心にGIAHSをリードしていくべきだ。GIAHSにおけるアジアのリーダーシップを確保するためにも、自然環境や農業の起源が共通する日中韓の三カ国間の緊密な連携を期待したい。今後はアフリカや中南米、欧米など、他の地域に認定を拡大することが、バランスのとれた発展に不可欠である」とアジアから世界に広がるGIAHSの意義を訴えた。

 午後からは「日中韓農業遺産保全および活用のための連携協力方案の模索」と題した討論会(座長:ユン・ウォングン韓国農漁村遺産学会会長)が開かれた。この中で、中国科学院地理科学資源研究所の閔庆文教授は「3ヵ国の有機的なネットワークでGIAHSの牽引が必要」と述べ、永田明国連大学サスティナビリティと平和研究所コーディネーターは「日中韓3ヵ国が突出するとGIAHS全体の価値低下を招くことになりかねない。アフリカや欧米などへGIAHS参加の呼びかけなどバランスが必要だ」と述べた。

 討論会では地域住民の関わりもテーマとなった。韓国農漁村研究院の朴潤鎬博士は「農業遺産を保全発展させるためには地域住民の主体性が必要、先発の事例に学びたい」と発言。会場からの意見でも、NGOなどの関わりについて質問が出た。座長から指名を受けた中村浩二金沢大学特任教授が、能登ではNPOや地域団体が伝統行事や森林の保全に関わっていることなどを説明した。また、地域のGIAHSを維持発展させるためには人材養成が必要と説明し、「能登里山里海マイスター」育成プログラムの取り組みを紹介。国際的な関わりとして、フィリピンのイフガオ棚田にも足を運び、共通点や相違点を学ぶ交流を行っていると述べた。

⇒27日(火)朝・莞島の天気   はれ

★韓国のGIAHS候補地を行く-上

★韓国のGIAHS候補地を行く-上

 今月25日から28日にかけて、韓国・済州島で、「世界農業遺産(GIAHS)連携協力のための国際ワークショップ in 済州&青山島」が開かれている。これまで、世界農業遺産は中国が先行してハニ族の棚田や青田県の水田養魚などGIAHS地域(サイト)を広げている。それを追いかけるようにして、2011年6月に日本で初めて「能登の里山里海」と「トキと共生する佐渡の里山」が認定された。ことし5月、能登で開催された国際会議において認定された阿蘇、国東、掛川の3サイトが追加された。ここに来て、韓国も動き出した。今回のワークショップは韓国のアピールの場、舞台は済州、JEJU、チェジュだ。

      火山岩を活かした済州島の石垣農業システムとは

 ワークショップの主催(主管)は韓国農漁村遺産学会、済州発展研究院、青山島クドルチャン棚田協議会の3者、共催(共同主管)が韓国農村振興庁、同農漁村研究院、中国科学院地理科学資源研究所、国連大学の5者。

 初日(25日)、午前の成田発の便で、正午すぎに済州島に着いた。済州島では6月27日以降に雨が一滴も降らず、気象観測を始めた1923年以来、90年ぶりの干ばつとなっていて、「雨乞いの儀式」も行われたとか。その甲斐あってか、24日には大雨が降ったようだ。バスの窓から見ても、市内の道路などに水たまりがあちこちにある。初日は顔合わせの意味もあり、さっそく現地見学。日本、中国、韓国の参加者は40人ほどで、日本のサイト関係者は能登1人、佐渡2人、阿蘇2人、国東3人の合わせて8人。それに国連大学や金沢大学の研究者ら8人が加わっている。

 済州島では、ユネスコの世界自然遺産に「済州火山島と溶岩洞窟」(2007年6月)が選定されている。標高1950㍍で韓国で最も高い山である漢拏山(ハルラサン)の頂上部には、氷河時代に南下した寒帯性植物種が棲息しており、生態系の宝庫とも呼ばれる。また、海に突き出た噴火口である城山日出峰(ソンサン イルチュルボン)、拒文オルム(岳)などの溶岩洞窟などが自然遺産を構成している。初日の視察でのキーポイントは、その火山活動の副産物として地上に放出されたおびただしい玄武(げんぶ)岩である。この石はマグマがはやくに冷えたツブの粗い石。加工するにはやっかいだが、積み上げには適している。つまり、簡易な石垣をつくるにはもってこいの材料なのである。

 そこで、済州島の先人たちは海からの強い風で家や畑の土が飛ばないように、この玄武岩を積み上げた。畑の境界としての石垣(バッタン)、家の周辺を取り囲む石垣(ジッタン)、墓の石垣(サンダン)、畑の横、人が通るよう作った石垣(ザッタン)、放牧用の石垣(ザッソン)など、さまざまな用途の石垣がある。こうした済州の石垣は「龍萬里」とも呼ばれる。玄武岩は黒く、さらに土も黒土なのだ。今回訪れた下道(クジャ)海岸近くの石垣はかなりのスケールで広がる。ここで栽培されるニンジンは韓国では有名。秋にかけて植え付けが始まる。

  石垣は海でも活かされている。新興里(シンフンリ)の海辺の石垣は、満ち潮にそって沿岸に入った魚が石垣のなかで泳ぐ。引き潮になって海水が引くと魚は石垣の中に閉じ込められ、それをムラの人が採取する。その石垣は「ウォンダン」と呼ばれる。同じ石垣でも作物の保護、土壌と種の飛散防止、所有地の区画、漁労などさまざま現代でも活用されている。1000年も前から石垣に人々の生きる知恵を見る思いだった。

⇒25日(日)夜・済州島の天気  くもり

★福沢諭吉の「独立自尊」

★福沢諭吉の「独立自尊」

 大分県中津市の耶馬渓の「青の洞門」に立ち寄り、同市内の福沢諭吉の旧居と記念館を訪れた。豪邸ではなく、簡素な平屋建ての家屋だ。福沢諭吉は天保5年(1835)に、大阪・堂島の中津藩倉屋敷で生まれた。堂島の生地は現在、同市福島区福島1丁目にあたり、朝日放送(ABC)の本社ビルが建っている。父の百助は堂島の商人を相手に勘定方の仕事をしていた。翌天保6年、父の死去にともない中津に帰藩することになる。中津の実家には長崎に遊学する19歳ごろまで過ごしたと言われる。長崎に出て蘭学を学び、さらに翌年大阪で緒方洪庵の適塾に入る。安政5年(1858年)、江戸に出て、万延元年(1860)には咸臨丸の艦長となる軍艦奉行の従者として、初めてアメリカ行きのチャンスに恵まれることになる。25歳だった。

 中津の旧居近くの駐車場に立て看板があった=写真=。団体名に「北部校区青少年健全育成協議会」とあるので、青少年に向けた啓発看板。これに福沢の文が引用されていた。「願くは我旧里中津の士民も 今より活眼を開て先ず洋学に従事し 自から労して自から食い 人の自由を妨げずして我自由を達し、修徳開智 鄙吝(ひりん)の心を却掃し、家内安全天下富強の趣意を了解せらるべし 人誰か故郷を思わざらん 誰か旧人の幸福を祈ざる者あらん」(明治三年十一月二十七 旧宅敗窓の下に記 「中津留別之書」)。明治3年(1870)、中津にいた母を東京に迎えるため一時帰郷した福沢が旧居を出る際に郷里の人々に残したメッセージだ。「敗窓の下」とあるので、家屋も壊れていたのであろう。

 この文をしたためた「明治3年」は、渡米と渡欧の3度外航で見聞したことを紹介した『西洋事情』を完成させた年である。内容は政治、税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学技術、学校、新聞、文庫、病院、博物館などにおよび、法の下で自由が保障され、学校で人材を教育し、安定的な政治の下で産業を営み、病院で貧民を救済することなどを論じた。ちなみに、「『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と言えり」と、冒頭でアメリカ合衆国の独立宣言を引用して書かれた『学問のすゝめ』はこの2年後の明治5年(1972)に初版が出版された。

 「中津留別之書」は『学問のすゝめ』の思想のベースとも言われる。そのメッセージで心が揺さぶられるのは、「自から労して自から食い 人の自由を妨げずして我自由を達し」の箇所だ。その後の福沢を人生を突き動かす「独立自尊」の強烈なメッセージが読み取れる。ここで考えたのは、これは誰に発したメッセージなのだろうか、ということだ。翌明治4年に福沢は、新政府に仕えるようにとの命令を辞退し、東京・三田に慶応義塾を移して、経済学を主に塾生の教育に励む。その年、廃藩置県で大勢の武士たちが職を失い、落ちぶれていった。武士が自活できるように、新たな時代の教育を受ける学校が必要なことを福沢は痛感していたに違いない。「中津留別之書」はその強い筆力とメッセージ性から、武士たちに新たな世を生き抜けと発した檄文ではなかったのだろうか、と。では、なぜそのようなメッセージを武士に発したのか。武士たちが怨念を募らせて刀や鉄砲を手にすることで再び混乱の世に戻り、「自由が妨げられる」と危惧したのではないか。

 「中津留別之書」から30年後、福沢は慶応義塾の道徳綱領を明治33年(1900)に創り、その中で「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」(第2条)と盛り込み、「独立自尊」を建学の基本に据えた(「慶応義塾」ホームページより)。翌明治34年(1901)2月、福沢は66歳で逝去する。武士が新たな世を生き抜く「人生モデル」を自ら示したのだった。法名は「大観院独立自尊居士」である。

⇒26日(月)朝・金沢の天気  あめ

☆福沢諭吉と「トラスト」

☆福沢諭吉と「トラスト」

 先月(10月)の連休を利用して九州・大分と阿蘇を訪れた。別府から湯布院に入り、ここで2泊して、阿蘇、そして耶馬渓(やばいけい)、中津市の福沢諭吉旧居など巡った。溶岩台地の浸食によってできた奇岩の連なる耶馬渓の絶景で、足を止めたのが「青の洞門」=写真・上=だった。

 断崖絶壁の難所に342㍍の隧道を掘り抜かれたのは寛延年間(1750年代)。観光案内の立札の説明によると、諸国遍歴の途中に立ち寄った禅海和尚がこの難所で通行人が命を落とすのを見て、托鉢勧進によって資金を集め、石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけてトンネルを完成させたと伝えられている。能登半島にも同じような逸話がある。かつて「能登の親不知」と言われた輪島市曽々木海岸の絶壁に、禅僧の麒山和尚が安永年間(1772-1780)前後に13年かけて隧道を完成させた。いまでも、地元の人たちは麒山祭を営み、遺徳をしのんでいる。

 禅海和尚の「青の洞門」は、大正8年(1919)に発表された菊池寛の短編小説『恩讐の彼方に』で一躍有名になった。麒山和尚の能登の隧道も、菊田一夫作のNHK連続ドラマでヒットし、昭和32年(1957)公開された東宝映画『忘却の花びら』のロケ地となった。主人公(小泉博)とヒロイン(司葉子)による洞窟でのキスシンーンが有名となり、「接吻トンネル」と呼ばれ、能登半島の観光ブームの火付け役となった。本来なら話はここで終わりだが、「青の洞門」の場合、ここに福沢諭吉が絡んでさらに話が膨らむ。

 「青の洞門」の上には「大黒岩」や「恵比須岩」といった8つの奇岩が寄り添い、競い合うように連なる「競秀峰(きょうしゅうほう)」=写真・下=と呼ばれる山がある。江戸時代からの名所で、中津藩の名勝でもあった。明治27年(1894)年2月、福沢諭吉は息子2人(長男、次男)を連れて、20年ぶりに墓参のため中津に帰郷した。当時の福沢は、私塾だった慶應義塾に大学部を発足させ、文学、理財、法律の3科を置き、ハーバード大学から教員を招くなど着々と大学としての体裁を整えていた。また、明治15年(1882)に創刊した日刊紙『時事新報』は経済や外交を重視する紙面づくりが定評を得ていた。

 墓参りに帰郷した福沢は耶馬溪を散策した。ここで、競秀峰付近の山地が売りに出されていることを耳にするのである。この絶景が心ない者の手に落ち、樹木が伐採されて景観が失われてしまうことを案じた福沢は、山地の購入を思い立つ。自分の名を表に出さず、旧中津藩の同僚で義兄にあたる人物の名義で目立たないように3年がかりで購入を進め、1.3㌶を買収する。知人に宛てた書簡で、福沢は「此方にては之を得て一銭の利する所も無之」(明治27年4月4日付、曽木円治宛書簡)=慶応義塾大学出版会ホームページより=と、私欲が一切ないことを強調している。

 その後、その土地は明治33年、福沢の意志を継ぐため、耶馬溪に同行した福沢の次男名義に移された。福沢は翌年の明治34年没する。昭和に入り、一帯の土地が景観保護の対象となる風致林に指定され、行政の目の行き届くところとなった。ここで福沢の目的は達成され、昭和3年(1928)に地元の人に譲渡された=同ホームページより=。優れた景観を守るために、私財をもってその土地を購入するという福沢の行動は、自然や景観保全のためのナショナルトラスト運動の日本の先駆けとして評価されよう。

 これは想像だが、禅海和尚がこの難所で通行人が命を落とすのを見て30年かがりで隧道をつくった物語を、福沢は息子たちに語って聞かせたはずである。「そのことを想えば、なんのこれしき」と、20歳そこそこの息子たちに「いい恰好」を見せたのかもしれない…。

⇒25日(日)午前・金沢の天気   はれ

☆元旦オムニバス

☆元旦オムニバス

 <特別手配の容疑者が出頭、なぜだ>
 元旦未明からメディアは騒がしかった。オウム真理教の特別手配容疑者・平田信容疑者が、大晦日に警視庁丸の内警察署に出頭し逮捕されたというニュースだ。能登半島の先端の小さなバス停の待合所にも特別手配というチラシが貼ってあり、平田容疑者は「有名人」だ。17年も逃亡していて、いまさらなぜ出頭かとの憶測があれこれと。あるメディアは、捜査員への受け答えでは教祖だった松本智津夫死刑囚に今も帰依しているような様子はないといい、別のメディアは、年明けにも執行されるかもしれない教祖の死刑を遅れせるために平田容疑者が出頭したのではないかとの説を立てている。所持金(3万円)があり、身なりもそれなりで疲れた様子もないので、逃亡をサポートする組織が背後にあり、計画的な出頭ではないのかとの推測だ。関与したとされる国松孝次元警察庁長官銃撃事件(1995年)などの全容解明が待たれる。狙撃したのは誰だ。

 <初もうで、辰年は浮くか沈むか> 
 元旦の朝は、金沢・兼六園にある金沢神社に初もうでに家族と出かけた。時折晴れ間ものぞく小春日和だった。列につくのだが、近年の傾向だとそれほど列は長くはない。金沢神社は菅原道真を祀っていて、受験生とその家族が多いのだが、かつてほどの熱気が感じられない。天気がよいにもかかわらず、列の長さがさほどではないということは、受験に縁起を担ぐ時代はもう終わったのかも知れない。列についていると、家族がふと、「この灯篭の彫り物は竜だね=写真=、ことしのエトだから一枚写真を撮っておこう」と。その言葉でことしは辰(たつ)年かと初めて気が付いた。辰年は上昇の年とされるがどんな年になるのだろう。12年前の平成12年(2000)は、三宅島が噴火し、ITバブルが崩壊した年、その前の昭和63年(1988)はバブル経済の真っ盛りで東証株価3万円、そして政界の金にまつわるスキャンダルのリクルート事件が発覚した年だった。辰年は、こうしてみると浮くか沈むかの明暗がはっきりする年。ことしはどちらだ。ひょっとして大底か。

 <おせちのフードマイレージを考える>
 元旦におせち料理にありつけるのは幸せなこと。ホテルからの取り寄せで3段重ね、奮発した甲斐があった。和、洋、中華と3種の料理が詰まっている。メニューを見ると、それにしても食材の多いこと、全部で41種もある。レンコンなど野菜類から、ナマコ、カニ、アワビの魚介類、合鴨、牛など肉類などいろいろ。これらの食材は世界からかき集められたものではないのか。おそらくスモークサーモンはフィンランドから、アワビはオーストラリア(タスマニア島)から、ニシンはロシア、オマールエビはカナダからと、その原産地を推測してみる。フードマイレージ(食料の輸送距離)を考えると、輸送過程でどれだけの二酸化炭素が排出されたことか。そう考えるなら買わなければよい、それは自己矛盾ではないのかと言い聞かせる。そこで思いついた。「地元食材100%加賀おせち料理、限定300個」という商品はないのだろうか。

 <元旦ゴールデン番組での違和感>
 元旦のテレビ番組のゴールデン帯はいつもの正月ゴールデンだった。派手で騒がしい。このような番組を東北の被災地の人達はどのような思いで視聴しているだろうかとつい思ってしまった。円盤型のピザ生地を投げて向かいのアパートの電子レンジに入れるという番組があった。何度も失敗する。食べ物を投げてどこが楽しいのかと違和感を感じてチャンネルを変えた。チャレンジする番組はよい。ただ、そのコンセプト、たとえば食べ物を粗末にする表現内容ではないのかとの視聴者感情よりも、奇抜な演出の表現方法を優先していて、どこか発想が拙い。制作現場でそのような意見のやり取りはなかったのだろうか、不思議に思えた。

 <ウィーン・新年コンサートの臨場感>
 結局、チャンネルが落ち着いたのは、NHK教育(Eテレ)だった。番組は「ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート2012」。毎年生中継で世界に配信されている。指揮はマリス・ヤンソンス。ヨハン・シュトラウスの「祖国行進曲」から入り、会場がひと際沸いたのはウイーン少年合唱団が合唱した「トリッチ・トラッチ・ポルカ」ではなかったか。ウィーン少年合唱団がニューイヤーコンサートに登場するのは1998年以来14年ぶりとの解説があった。その少年たちの歌声を引き立てるように配慮されたオーケストラの演奏に会場が大きな拍手をおくったのだと思う。これまで何度かニューイヤーコンサートを視聴したことがあるが、生中継したオーストリア放送協会(ORF)の制作技術はさすがだった。天井からのカメラワークや、ハイビジョン撮影でステージの指揮者や演奏者の息づかいだけでなく、観客席の聴衆の服装や呼吸までもが伝わってきた。これが臨場感を高める。そういえば、和服姿の女性ほか日本人らしき姿が目立つ会場だった。ニューイヤーコンサートはあまたあるコンサートの中でも最もプレミアが付く演奏会の一つだろう、そこへ出かける日本人とは・・・と考えているうちにウトウトとしてしまった。

⇒1日(日)夜・金沢の天気  くもり

★流れ行く記憶

★流れ行く記憶

 当時は「ワッカマワシ」と言っていたような記憶がかすかにある。昭和33年(1958)年に日本の子供たちの間で大流行した、腰を使って回すフラフープのことである。ワッカとは輪のことで、それを回すのでワッカマワシ。当時、幼稚園だったお寺の渡り廊下で遊んでいた。フラフープというしゃれた呼び名ではなかったように思うが、4、5歳ころの記憶で定かではない。

 過日、能登半島・輪島市の公園を通りかかると、子供たちがフラフープに興じていた=写真=。腰を振って、実に楽しそうにこちらに手を振ってくれたので、思わずカメラに収めた。昔取った杵柄(きねづか)で、いまでも自分もできそうだと思うのが不思議だ。フラフープが再び日本でブームになっているようだ。

 記憶がまた蘇る。当時、そのフラフープが突然消えた。幼稚園の遊具場に朝一番乗りでやってきた数人が「ワッカがない」と叫んでいた。記憶はそこまでだ。それ以降、フラフープは脳裏からぷっつりと消えるのだ。

 その理由を先日の新聞紙面(11月28日付・朝日新聞)で知った。記事によると、1958年11月に千葉県内の小学校が「フラフープ禁止令」を出した。腰で回すことで「おなかが痛くなった」と病院で手当てを受ける子どもが各地で出た。腸捻転(ねんてん)を起こすなどの風評が広がり、旧厚生省もフラフープの人体への影響を検討する事態になった。それが新聞やラジオ、まだ黎明期だったテレビなどのメディアで報じられ、健康被害をもたらすという根拠のない風評でブームはあっという間に去った、というのだ。

 当時から、健康に関する情報伝達は異常に速かったのだろう。その状況はいまも変わらない。健康の悪い情報に加え、メタポリック症候群(腹囲の基準に加えて、高脂血症、糖尿病、高血圧のうち2つ以上に該当)によいとか、ダイエットによいとかといった情報まで含めると、流行り廃れが実に激しい。昭和40年代、健康食品としてブームとなった紅茶キノコもそうだろう。結局、一杯も口にすることがなく流行は去った。「紅茶キノコ」という名前だけが脳裏に記憶されている。

 人はブームに踊らされ、そして移り気だ。「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」という一文(松尾芭蕉『奥の細道』)がある。これになぞらえば、ブームというのは永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人である。だから「流れ行く」と書く。そのブームの対象に健康だけでなく、政治も入るようになった観があり怖い。

⇒1日(水)朝・金沢の天気  はれ

☆文明論としての里山20

☆文明論としての里山20

 きょう31日付の新聞各紙を読んで、日本の教育について「大丈夫だろか」と不安を感じたのは恐らく私だけではないだろう。1面のトップ記事。「文科省検定 小学教科書ページ大幅増」「『ゆとり』決別」と見出しが躍った。2011年度から小学校で使われる教科書のページ数が、04年に比べ算数33%増、理科37%増になるという。

             人の力はどこで芽吹くのか

  この記事を読んで、「日本の未来を担う子どもたちよ頑張れ」と共感した大人はいるだろうか。確かに、国際的な学力調査で日本の順位が下がったことを意識して、応用力などを育てることなどに力点を入れた内容を盛り込んでいると記事で説明がされている。が、極論すれば「詰め込み」にすぎない。多くの読者はそう感じたに違いない。電車の中や家庭でテレビゲームに熱中する子どもたちの姿や、「詰め込み」重視の学校での姿を現実的に見てきて、これでよいと思う大人はいないだろう。なぜか、いまの子どもたちに欠けているのは「人間力」、あるいは「生きる力」ではないかと思うからだ。

  いまの子たちを取り巻く環境は、学校の教科書にしても、家庭でのテレビやゲームにしても、バーチャルである。バトルゲームであっても自分が苦痛や汚れを感じることはない。従って、内なる葛藤は存在しない。没頭するだけである。しかし、人はリアルな場面に直面し、心理的葛藤を経て初めて解決の方法を創造していくことができる。これが精神的な成長、あるいは人間力と言ってよい。このリアルというのは自然と向き合いや社会での活動のことである。これが「欠けている」として、「ゆとり教育」が進められたのが10年前である。それがいま「脱ゆとり」、あるいは「『ゆとり』と決別」となって揺り戻しが行われている。もちろんすべて昔のカリキュラムに戻すという内容ではないだろう。新しい教科書では、プレゼンテーション能力を高めるといった内容も盛り込まれていて、時代のニーズに即してはいる。

  同日付の朝日新聞の生活欄に、ドイツで実践されている「森の幼稚園」の事例が紹介されている。屋根がない森という環境で子どもたちを育てる教育手法で、1950年代にデンマークで生まれ、北欧を中心に広がっている。いまドイツだけでも427園もある。3歳から6歳の子どもたちが、森の中で遊びまわる。雨の日も泥だらけになる。山道を歩き、切り株に腰掛ける。鳥の声に耳をそばだて、花に目を凝らす。山道を登れない子を年上の子が手を引いて登る光景も見られるようになる。先生はじっと子どもたちの様子を観察して、リスク管理を怠らない。来る日も来る日も森で3時間ほど過ごす。人間が本来持つ五感(見る、聞く、かぐ、味わう、触れる)を森で芽吹かせる。ドイツの教育はここから始まる。

  いまの日本の教育は「促成栽培」だ。人間の感性や生きる力のベースを十分に得ないままに、「詰め込み教育」というバーチャルの世界に子どもたちを叩き込んでいく。では、人間力や生きる力を人生のどのステージで体得するのかという教育プログラムそのものがない。最終的に「自己責任」「家庭の教育」に押し込められてしまう。野を駆け巡り、川に遊び、海を泳ぐような教育はほんの一部でしか実践されていない。自然環境の深いところから人を育てようとする意識を忘れ去っているいるのではないか。

⇒31日(火)夜・金沢の天気   あめ  

★文明論としての里山18

★文明論としての里山18

 金沢大学が私がかかわっている「能登里山マイスター」養成プログラムの修了式が20日、珠洲市三崎町の金沢大学能登学舎で執り行われた。2年間のカリキュラム(54単位相当)を履修して、卒業課題研究の審査にパスした16人の門出である。修了生は20代から40代の社会人。とくに卒業課題研究は1年間かけて練り上げ、独自で調査して中間発表、さらに外部の専門家を含めた審査員の眼を通した審査発表という関門だっただけに、「卒業」の喜びもひとしおだったと思う。

                          持続可能社会を支える者たち

  修了生はどんな研究課題に自ら取り組んできたのか紹介する。ある40歳の市役所の職員は、岩ガキの養殖を試み、それが果たして経営的に成り立つのかと探求した。年々少なくなる地域資源を守り、増やして、生かしていこうという意欲的な研究だ。さらに、その実験を自費で行った。コストをいとわず、可能性を追及する姿こそ尊いと心が打たれた。また、32歳の炭焼きの専業者は、生産から販売までに排出する二酸化炭素が、全体としてプラスなのかマイナスなのかという研究を行った。土壌改良剤として炭素が固定されることを考慮に入れて、全体としてマイナスであると結論付けた研究だった。膨大なデータを積み上げ、一つの結論を導いていくという作業はまさに科学そのものである。しかし、自らの生業を科学することは、なかなかできることではない。その結果として逆の答えが出たら怖いからだ。そこに、果敢に挑戦し自らの生業の有用性を立証していくという勇気は感動ものである。

  修了生一人ひとりに「能登里山マイスター」認定証を手渡した中村信一学長は式辞の中で次のように述べた。「里山里海の事業について思うところを一つ述べます。産業革命以来の大量生産大量消費の社会・経済構造からのパラダイムシフトを迫られている今日、伝統文化をいかにとらえるかは、将来の指針となりえます。過去の歴史が繰り返し示すように、伝統文化は時代とともに変わらなければ衰退し消滅します。しかし、一方で、守り継承すべき遺産としての伝統文化があります。これは新たな行動の立脚点となり、迷った時に回帰できる原点でもあります。能登に残された里山里海は広い意味でとらえれば、伝統文化の一つといえます。この残された里山里海にまつわる伝統文化をいかに継承するかと同時に、その上に立つ21世紀型の新たな里山里海文化を作り出すことが今能登に求められていることです。少し具体的に言えば、伝統文化や伝統農作物に立脚した新たな農業や漁業の構築、大切に残された里山や里海の今世紀への転換などです。これらの成否は、皆さんの今後の活躍にかかっているといっても過言ではありません」

 歴史文化を有する能登の将来を担うのは諸君である、という強いメッセージが込められていたと感じた。学長が述べた、大量生産大量消費の社会・経済構造からのパラダイム変換が起きている今、人は右往左往するばかりだ。そのような中で、「能登里山マイスター」養成プログラムは環境に配慮した持続可能な社会をどのようにつくり上げていくことができるのかをテーマに学んできた。こうした、「目指すべきもの」を持った、あるいは志(こころざ)しを持った若者たちが能登半島で活動を始めているというのは、「いまここにある未来」というものを感じさせないだろうか。

  未来をつくり上げるのは若者しかいないと思う。彼らの前にはおそらく困難も立ちはだかることだろう。日本、そして世界は一筋縄ではなく、混沌としているからだ。そんな中、志しを高くして進む者のみが未来の扉を開くことができるのだ。持続可能な社会というのはこのような若者が社会を支えて持続していくのだと考えている。「能登里山マイスター」養成プログラムは60人以上のマイスター育成をめざす。60人が動き出せば、能登の風景も変わると思う。

 ⇒21日(日)朝・京都の天気  くもり(黄砂)