⇒トレンド探査

☆「ごちゃ混ぜ」の論理

☆「ごちゃ混ぜ」の論理

  最近のニュースから気になったことをいくつか。「ジェンダーバランス」あるいは「ジェンダーフリー」はすでに定着した感がある。ところが、ここまでやるかというのニュースを見つけた。以下、9月6日付のAFPニュースを引用する。

  ノルウェーでは女性に徴兵を義務付けただけでなく、戦友の男性たちとともに、つまり同じ男女混合部屋で寝泊まりしているようだ。同国軍の男女のバランスはまだ完全に均等ではないが、19歳で徴兵された兵士の3分の1が女性という。歩兵だけでなく、ヘリコプターやジェット戦闘機パイロット、潜水艦の操縦士など陸海空である。徴兵は19歳から44歳まで、2015年からの男女が対象となった。期間は12ヵ月から15ヵ月。これまでも志願兵で女性の割合は高かった。

  同国では現在までの5代の国防相のうち4人が女性で、NATO加盟国で初めて男女両方の徴兵を開始した。男女両方を徴兵しているのは世界でもイスラエルなど少数の国という。その背景もある。ノルウェーで19歳の新兵は毎年1万人ほど、この数字は対象者の6分の1だ。同国では兵役に就くのは「やる気のある人」という評価になり、退役後は労働市場で高く評価される経歴とみなされるらしい。

  男女間のトラブルが起きないのかと考えるがそうではないらしい。男女共用部屋はジェンダーを希薄化させるためにセクハラ対策が有効とされる。つまり、生活エリアを共有することで、男女双方が自分たちの行動に気を付けるようになり、「きょうだい」であるかのような仲間意識を育むことができるというのだ。

  なるほどと思う。確かに19歳という若さでは男女で「きょうだい」感覚があり、生活エリアが共有され、女性が男性を叱咤するシーンもあるだろう。そうすると規律やモチベーション(意欲)も高まるという効果があるのかもしれない。徴兵制とうい中で男女ごちゃ混ぜの論理はうまく働くのかもしれない。

  日本で徴兵制はないが、志願する女性自衛官はいる。このノルウェーの「ジェンダーフリー」「ごちゃ混ぜ」をどう考えるのか。現在、日本の防衛大臣が女性であり、その点インタビューしてみたいと思った。

⇒11日(日)午後・金沢の天気  はれ

★旅の目線で東京を-下

★旅の目線で東京を-下

  3日間の東京ツアーで美術館を3ヵ所訪れた。初日は表参道にある根津美術館。これが正面の入口かと思わせる、ひっそりとした正門をくぐる。右に曲がると、左手が竹でおおわれた壁面、右手が竹の植栽、まさに「竹の回廊」となっている。都会の喧騒から遮断するかのように、不思議な静寂感に包まれる。まるで、茶室に続く庭「露地(ろじ)」を歩いているような感覚である。和風家屋のような大屋根の本館は建築家・隈研吾氏の設計によるもの。隈氏は2020東京五輪・パラリンピックの主会場となる新国立競技場のデザインを手掛ける。

     実物が放つ作品の価値と歴史の輝き

  「青山荘(せいざんそう)」の扁額がかかった展示室に入った。内部には茶室が再現されていて、展示室全体の名称が「青山荘」という。「春情の茶の湯」と銘打った茶道具の展示されていた。春の情景をイメージした日差し、花木が芽吹き、生命力ある季節の情景に似合う茶道具が陳列されている。面白い盆があった。漆芸家、柴田是真(しばた・ぜしん、1807-1891)の作品「蝶漆絵瓢盆」。ヒョウタンを輪切りにして、底をつけて盆にする。全体におうとつがある不思議なカタチの形状だ。盆にを漆を盛り付けて浮かせるようにしてチョウを描く。春に舞うアゲハチョウだろうか。そのチョウは、盆の縁の内側から外にまではみ出て、躍動感がある構図だ。時間がなく、庭と茶室をじっくり拝見できなかったのが心残り。

  2日目は赤坂のサントリー美術館だ。陶芸家、宮川香山(みやがわ・こうざん、1842-1916)の没後100年の企画展だった。解説書によると、香山は明治維新を機に京都を離れ、当時、文明開化の拠点だった横浜に向かった。明治政府は外貨獲得の手段として陶磁器や漆器など工芸品の輸出を国策として推進した。香山は、その波に乗って、ヨ-ロッパやアメリカの西洋の趣向に応える美を創り出す。陶器の表面を写実的な造形物で飾る高浮彫(たかうきぼり)の独自の世界を築く。フィラデルフィア万博(1876)、パリ万博(1878)などで受賞して内外の称賛を浴びた。

  その代表作が「褐釉高浮彫蟹花瓶」(1881、重要文化財)や「高浮彫牡丹ニ眠猫覚醒蓋付水指」(明治時代前期)=チラシの写真=といわれる。初めて高浮彫牡丹ニ眠猫覚醒蓋付水指を鑑賞して、そのリアリティさにはドキリとさせられた。紅白のボタンが描かれた胴部と、うずくまる猫の蓋、その猫は前足を耳元にまで上げ、今まさに目覚めた様子で、ニャーンと鳴き声を出しそうなのである。

  3日目は世田谷の静嘉堂文庫美術館を訪ねた。美術館の茶道具は三菱の岩崎家の父子2代、60年にわたって収集したもの。訪れた日はリニューアルオープン展第2弾「茶の湯の美、煎茶の美」の最終日だった。真っ先に国宝「曜変天目」に目を奪われた。漆黒に大小の斑文(はんもん)が浮かび上がる。その周囲に藍や金色の光彩を放つ。「曜変」の「曜」とは星や輝くという意味なのだそうだ。中国・南宋時代(12-13世紀)の作品といわれる。かの徳川3代将軍の家光、その乳母の春日局も手に取ったとされる絶品だ。

  「目を肥やす」という言葉がある。実物を見なければ理解できない作品の価値、歴史に磨かれた輝きがあるのだと実感した。

⇒22日(火)夜・金沢の天気   はれ

  

  

  
  

☆旅の目線で東京を-上

☆旅の目線で東京を-上

  3月19日から3日間の連休を東京で過ごしている。これまで何度も出張で来ているが、その目的が交渉であったり、会議であったりと、説明であったりする。すると、出張では旅の目線で東京を眺めるということができないものだ。もちろん、中には頭の切り替えが速く、器用な人は出張目的が終われば、半日でも旅人の目線で巡る人がいる。残念ながら、私はそんな器用さを持ち合わせてはいない。

   空中と水上のパノラマ、地上とはまったく違って見えるTOKYO

  北陸新幹線で金沢駅から東京駅へは2時間半。初日と2日目の宿は浅草なので、東京駅から秋葉原駅に行き、そこから「つくばエクスプレス」に乗り換えて浅草駅へ。なぜ浅草に。せっかくだから景色のよいところをと旅行会社と打ち合わせをして予約してもらった。あの東京スカイツリーが目の前に見えるホテルの10階だった。スカイツリーは初めて。初日午後、さっそくシャトルバスで向かう。到着すると聞きしに勝る込み具合だった。しかも、あちこちから中国語、英語、そしてフランス語が飛び交っている。これだけでも随分と旅気分になれるから不思議だ。TOKYOに来た気分だ。

  スカイツリー初登り。展望台へのシャトル(エレベーター)の内装が凝っていた。4基のシャトルはそれぞれ東京の四季が表現されていて、たまたま乗ったものは夏をイメージした「隅田川の花火の空」がモチーフだった。電飾でキラキラと花火のように輝く。使われているのはガラスで、伝統的ガラス細工「江戸切子」と、添乗員の女性が説明してくれた。見事な照明演出だ。みとれている間に350㍍の「天望デッキ」に到着。シャトルの名の通り、分速600㍍の高速であっという間だった。

  デッキに出て、眼下のTOKYOの街と富士山を眺めようとしたが、あいにくの曇天で視界はゼロ。雲の中にいる感じだ。ぐるり360度回ったが、白の世界が広がるのみ。さらに高見の450㍍の「天望回廊」に上ったが、同じ状況だった。3090円の入場チケットが惜しくなってきた。こうした事態に備えて客をがっかりさせない工夫もある。デッキから一望できる眺望を52型モニターで映し出す「時空ナビ」など。意外と面白いのが「江戸一目図屏風」だった。パンフによれば、江戸時代の浮世絵師、鍬形慧斎(くわがた・けいさい)による鳥瞰図が圧巻だ。江戸城を中心に描かれた想像上の江戸の街のパノラマなのだが、目線がちょうど同じ位置にあり、まるで200年後の東京スカイツリーのために描いたような絵なのだ。

  20日は隅田川の水上バスを楽しむ。ホテルから歩いて、混雑する雷門の前を通って、浅草の吾妻橋のたもとにある発着場まで20分。川向うのビルの上に雲のような形をした奇妙な金色のオブジェがある。ビール製造販売会社が聖火台と炎をイメージして造ったものでかつて話題になったことを思い出した。

  水上バスはほぼ満員。隅田川に架かる清洲橋、永代橋、勝鬨(かちどき)橋といった国の重要文化財(建造物)に指定される橋の下をくぐり川を下る。川から眺望する橋と周囲の街並みのカメラアングルは地上で見る東京とはまったく別の都市の光景だと気づいた。

  上記のビール製造販売会社の関連会社が製造した地ビール「隅田川ヴァイツエン」(1杯600円)を片手に、12の橋をくぐり、「日の出桟橋」に到着した。向こうに海にかかるレインボーブリッジが見える。周囲を360度見渡してみる。水上の都TOKYOだ。

⇒20日(日)夜・東京の天気  くもり

★痛車のお遍路さん

★痛車のお遍路さん

  「痛車(いたしゃ)」が勢ぞろい。車体に漫画やアニメ、ゲームのキャラクターなどのステッカーを貼り付けたり、塗装した乗用車のことだ。あるいはそのような改造を車のことを指すそうだ。「萌車(もえしゃ)」とも呼ばれるようだ(「ウイキペディア」より)。面白いのは、同様の原付やバイクを「痛単車(いたんしゃ)」、自転車の場合は「痛チャリ(いたチャリ)」、アニメの装飾を施したラッピング電車を「痛電車(いたでんしゃ)」とこの世界では呼ぶようだ。金沢市郊外の湯涌温泉はその痛車のメッカになっているかのようだ。

  湯涌温泉をモデルとし、2011年4月から9月に放送されたテレビアニメ「花咲くいろは」(全26話)が放送された。東京育ちの女子高生「松前緒花」が石川県の「湯乃鷺(ゆのさぎ)温泉」の旅館「喜翆荘」を経営する祖母のもとに身を寄せ、旅館の住み込みアルバイトとして働きながら学校に通う。個性的な従業員との確執や、人間模様の中で成長しいく。湯乃鷺温泉の舞台となったのが湯涌温泉だった。これ以来、「聖地」なのだ。

  そこで、同温泉の観光協会ではアニメの祭りを再現した「湯涌ぼんぼり祭り」を2011年から毎年行っている。ことしは12日に祭りが行われた。その人出は主催者発表で初年度5千人、2年目7千人、ことしは1万人と年々熱くなっている。ちなみに、13日付の新聞報道によれば同温泉の9つの旅館はどこも満室だったようだ。おそるべし「花いろ」経済効果ではある。

  祭りは単純だ。夕方、会場には500個のぼんぼりが取り付けられ、神社の沿道を照らす。午後8時すぎに「神迎の儀」が始まり、ファンたちが願いを書かれた木製「のぞみ札」を入れたかごを、白装束の地元住民2人が背負って運ぶ、「ぼんぼり巡行」が行われた。午後9時すぎ、のぞみ札は湖のほとりで焚き上げられた。祭りはこの「神事」がメインだが、盛り上げる仕掛けがいくつもある。  

  サークルKサンクスの北陸3県357店では、10月8日~10月21日の期間限定で、アニメ「花咲くいろは」とのタイアップしたオリジナル商品(2種類)を販売している。商品はテレビシリーズのストーリーにちなんだ食材を使用した「喜翆荘のぼんぼり御膳」(500円)と、「湯涌で採れたはちみつのホットケーキ(はちみつ&マーガリン)」(137円)など。コンビニの各店舗では、「ぼんぼり祭り」のポスター=写真=があちこちに貼られ、宣伝効果は抜群なのだ。

  これだけではない。日本郵便北陸支社は、ぼんぼり祭りの「フレーム切手セット」を発売している。ぼんぼり祭りを楽しむ主要キャラクターのイラスト切手(50円)10枚に、キャラク ターが描かれた型抜きはがき3枚が付く。1セット1500円。3千セットを販売するのだという。

  金沢に長く住んでいると、涌温泉でイメージするのは、あの独特の美人画で知られる竹久夢二だ。愛人・彦乃と逗留した温泉場。大正モダン風に描かれる、彦乃のイメージ画が印象に強い。「昔夢二、今花いろ」。湯涌温泉には独特の癒しの雰囲気があるのだろう。痛車のナンバーブレートはほとんどが他県ナンバー。おそらく連休を利用して、あすは次なる「聖地」へ赴くのだろう。現代の「聖地巡礼」である。そして、痛車の若者たちはお遍路なのか。

⇒13日(日)午後・金沢の天気    はれ

☆韓国のGIAHS候補地を行く-追記

☆韓国のGIAHS候補地を行く-追記

  韓国で開催された「持続可能な農業遺産保全・管理のためのGIAHS国際ワークショップ」では日本、中国、韓国の連携が強調された。27日には、GIAHSを世界に広める役割を担おうと「東アジア農業遺産システム協議会」(仮称)の設立が提案され、来年4月に中国・海南島で国際ワークショップが開催されることが決まった。また、今回いくつかの問題提起や論点も提起された。それを紹介したい。論点が浮かび上がったのは「日中韓農業遺産保全および活用のための連携協力方案の模索」と題した討論会(座長:ユン・ウォングン韓国農漁村遺産学会会長)=写真=だった。

      日中韓の「GIAHS連携」 どこまで可能か       

  論点の一つはGIAHSをめぐる「官」と「民」の関係性だ。韓国農漁村研究院の朴潤鎬博士は「農業遺産を保全発展させるためには地域住民の主体性が必要」と述べた。会場の質問者(韓国)からも、「今回のワークショップでは国際機関や政府、大学のパネリストばかり、なぜ非政府組織(NGO)の論者がいないのか」といった質問も出された。これに対し、パネリストからは「農業遺産の民間の話し合いや交流事業も今後進めたい」(韓国)や、「日本のGIAHSサイトではNPOや農業団体が農産物のブランド化やツーリズムなど進めている」(日本)の意見交換がされた。確かに認定までのプロセスでは情報収集や国連食糧農業機関(FAO)との連絡調整といった意味合いでは政府や自治体とった「官」が主導権を取らざるを得ない。認定後はむしろ農協やNPOといった民間団体などとの連携がうまくいかどうかがキーポイントとなる。討論会では「地域住民主体のサミット」(朴潤鎬氏)のアイデアも出されるなど、「民」を包含したGIAHSのガバナンス(主体的な運営)では韓国側の声が大きかった。

  討論会が終わり、中国の関係者が日本の参加者にささやいた。「中国のGIAHSでは、NGOが主体になるは無理ですよ」と。おそらく彼が言いたかったのはこうだ。中国では、国民も民間団体も「官」が描いたシナリオの上を進み走る。つまり、国家が領導するので、「民」が自らのパワーでGIAHSサイトを盛り上げるということはある意味で許されないのだろう。そうなると、GIAHSを保全・活用のために日中韓の国境を越えて、民間同士のアイデアや意見交換や活発な議論というのはどこまで可能なのだろうかとの論点が浮かんでくる。

  次の論点。永田明国連大学サスティナビリティと平和研究所コーディネーターは「日中韓3ヵ国が突出するとGIAHS全体の価値低下を招くことになりかねない。アフリカや欧米などへGIAHS参加の呼びかけなどバランスが必要だ」と述べたことだ。確かに今回の日中韓ワークショップは、モンスーンアジアの稲作など同じ農業文化を有する東アジアから世界に向けてGIAHSの意義を訴えることが主眼の一つだった。永田氏の発言は的を得ている。現在FAOが認定しているGIAHSサイトは世界に25ある。うち、中国8、日本5で東アジアの括りでは13となり、すでに過半数を占める。韓国が2つのサイトを申請しているので、認定されれば27のうち15となり突出する。世界各国がこの状況を見て、「GIAHSは東アジアに偏っている」と判断されてしまうと、GIAHS全体の価値低下につながるのはないかとの危惧である。日中韓が競ってサイト数を増やすのではなく、日中韓が連携してアフリカや中南米などに認定地の拡大を促すことが戦略的に不可欠となる。

  そうは言っても日本国内でも「国際評価」を得ることへの地域の熱望があることは、ユネスコの「世界遺産」の過熱ぶりを見ても分かる。中国と韓国ではすでに国レベルの「農業遺産」認定制度を設けている。国の認定を経て、次にFAOへの申請という段取りになる。ところが、日本にはその制度がなく、GIAHSへの熱望を持った地域が申請しようにも、「ローマへの道のり」(FAO本部の所在地)が分かりにくい。GIAHS認定までのプロセスを制度的にもっと分かりやすくする必要があるだろう。こうした日本の課題もまた見えてくるのである。

⇒1日(日)朝・金沢の天気     くもり

★韓国のGIAHS候補地を行く-下

★韓国のGIAHS候補地を行く-下

 26日夕方、済州からフェリーで莞島(ワンド)に行き、翌朝莞島の港から青山島(チャンサンド)へ。莞島郡には260もの島があり、そのうち有人島は54。海藻が豊富で、韓国全体の海藻の54%を産出している。チャンサンドは2600人の村。40分で青山島の港に到着すると、太鼓と鉦で村人の出迎えがあった。

       青山島で見たオンドル石水田と海女の海

 同島は、アジア初のスローシティー指定(2007年1月、カタツムリをシンボルに取り組んでいる)。また、オンドル石水田システムは韓国の「国家重要農業遺産」の第1号に選定(2013年1月)された。昼食は廃校となった中学を改装した「ヌリソム旅行学校」で。ここではツアー参加者が、サザエ、コメ粉、ニンジン、ネギを刻んでゴマ油でいためる郷土料理「チョンサンドタン」をつくり試食。スローフードのツーリズムが人気となっている。

 ブフンリ村で今回の視察の目的である独自の石水路の田んぼ「オンドル石水田システム」を視察した。ただ、耕作放棄地が目立つ。青山島は全体が傾斜地で石が多い。しかも、ため池など水を貯えられない砂質土壌で、稲作には不利な条件地とされる。「オンドル石水田」は韓国伝統の住宅暖房「オンドル」とよく似た構造からその名前がついた。田んぼが4つの断層で構成される。大小の石を積み重ね石積みをつくり、その上に平べったい石板(グドゥル)を敷いて水路を作る。その後、水漏れを防ぐために泥で覆い、その上に薄く作物が栽培できる良質の土壌で整える。水は下の田んぼに排水口から徐々に流れ出す仕組みだ。

 農民ユーさんが説明した。「田んぼの規模が小さく、すべて自家用米。都会に出た子供たちがたまに帰ってきていっしょに農業作業を楽しんでいる。最近はイノシシが出る。昔からマツタケがよく取れる。川エビと煮て食べるとうまい」と。田んぼの土の深さが15-20㌢ほどで田おこしは協同労働で行い、水の管理も行う。稲作、畑作の条件不利地を石を積んで克服する人々の知恵がここにある。

 珍しいもの見た。「草墳(そうふん)」である。段々畑の一角にこんもりしたワラづくりの墓なのだ。遺体をその土葬せずに3年から5年間、木棺にワラと草と遺体を入れて、骨だけにする。その後に再び木棺を開けて洗骨し、骨を全部土葬する。骨を洗うのは長男ら家族だ。棺桶に草を入れるので草墳と称するらしい。

 青山島は映画のロケ地として韓国では知られている。西便制道(ソピョンゼギル)ではスローロードの小道を歩く。秋は一面がコスモスで覆われる。ここでイム・グォンテク監督の『風の丘を越えて(西便制)』やドラマ『春のワルツ』のロケが行われたそうだ。

 その後、海女の海岸を訪ねた。済州の海女が移住してきたらしい。現在50-70歳の20人ほどが潜っている。スムビ音(磯笛)を鳴らしながら作業。この一帯は養殖アワビも盛んだが、海女が直に採取するアワビやサザエ、ウニは貴重品だ。アリス式海岸の海に海女がいる風景はどことなく、能登の海と似ている。

⇒28日(水)朝・莞島の天気   はれ

☆韓国のGIAHS候補地を行く-中

☆韓国のGIAHS候補地を行く-中

 26日午前、済州グランドホテルで「国際ワークショップ」が開催され、武内和彦国連大学上級副学長・サスティナビリティと平和研究所長が基調講演。続いて、事例発表が行われ、日本から能登、佐渡、阿蘇、国東の取り組みをそれぞれの自治体担当者が、中国の取り組みについて中国科学院の研究者、新たに申請する韓国の2件のGIAHSサイトについても研究者が紹介した。

        アジアから世界に広がるGIAHSの意義

 「Traditional Agriculture and Development of GIAHS(伝統的農業とGIAHSの発展)」。武内氏の基調講演のテーマは示唆に富んでいた。「今後もアジアでのGIAHS認定地が増える見通しで、韓国からは2サイトの認定を申請中である。GIAHSの持続性には、1つには生態系の機能の強化や、生計を保障するためのグリーン・エコノミーの創出など災害などにも柔軟に対応できる『リジリエンス』の強化、2つには地域と都市部の住民による多様な主体の参加による『新たなコモンズ』の設立、3つめとして6次産業化による農産品の付加価値向上やグリーン・ツーリズム、生計の多様化を推進する『ニュービジネスモデル』の創出が不可欠」と強調した。

 GIAHSの今後の展開について、「ユネスコの世界遺産をヨーロッパがリードしてきたように、多様で長い歴史を持つ農業のあるアジアを中心にGIAHSをリードしていくべきだ。GIAHSにおけるアジアのリーダーシップを確保するためにも、自然環境や農業の起源が共通する日中韓の三カ国間の緊密な連携を期待したい。今後はアフリカや中南米、欧米など、他の地域に認定を拡大することが、バランスのとれた発展に不可欠である」とアジアから世界に広がるGIAHSの意義を訴えた。

 午後からは「日中韓農業遺産保全および活用のための連携協力方案の模索」と題した討論会(座長:ユン・ウォングン韓国農漁村遺産学会会長)が開かれた。この中で、中国科学院地理科学資源研究所の閔庆文教授は「3ヵ国の有機的なネットワークでGIAHSの牽引が必要」と述べ、永田明国連大学サスティナビリティと平和研究所コーディネーターは「日中韓3ヵ国が突出するとGIAHS全体の価値低下を招くことになりかねない。アフリカや欧米などへGIAHS参加の呼びかけなどバランスが必要だ」と述べた。

 討論会では地域住民の関わりもテーマとなった。韓国農漁村研究院の朴潤鎬博士は「農業遺産を保全発展させるためには地域住民の主体性が必要、先発の事例に学びたい」と発言。会場からの意見でも、NGOなどの関わりについて質問が出た。座長から指名を受けた中村浩二金沢大学特任教授が、能登ではNPOや地域団体が伝統行事や森林の保全に関わっていることなどを説明した。また、地域のGIAHSを維持発展させるためには人材養成が必要と説明し、「能登里山里海マイスター」育成プログラムの取り組みを紹介。国際的な関わりとして、フィリピンのイフガオ棚田にも足を運び、共通点や相違点を学ぶ交流を行っていると述べた。

⇒27日(火)朝・莞島の天気   はれ

★韓国のGIAHS候補地を行く-上

★韓国のGIAHS候補地を行く-上

 今月25日から28日にかけて、韓国・済州島で、「世界農業遺産(GIAHS)連携協力のための国際ワークショップ in 済州&青山島」が開かれている。これまで、世界農業遺産は中国が先行してハニ族の棚田や青田県の水田養魚などGIAHS地域(サイト)を広げている。それを追いかけるようにして、2011年6月に日本で初めて「能登の里山里海」と「トキと共生する佐渡の里山」が認定された。ことし5月、能登で開催された国際会議において認定された阿蘇、国東、掛川の3サイトが追加された。ここに来て、韓国も動き出した。今回のワークショップは韓国のアピールの場、舞台は済州、JEJU、チェジュだ。

      火山岩を活かした済州島の石垣農業システムとは

 ワークショップの主催(主管)は韓国農漁村遺産学会、済州発展研究院、青山島クドルチャン棚田協議会の3者、共催(共同主管)が韓国農村振興庁、同農漁村研究院、中国科学院地理科学資源研究所、国連大学の5者。

 初日(25日)、午前の成田発の便で、正午すぎに済州島に着いた。済州島では6月27日以降に雨が一滴も降らず、気象観測を始めた1923年以来、90年ぶりの干ばつとなっていて、「雨乞いの儀式」も行われたとか。その甲斐あってか、24日には大雨が降ったようだ。バスの窓から見ても、市内の道路などに水たまりがあちこちにある。初日は顔合わせの意味もあり、さっそく現地見学。日本、中国、韓国の参加者は40人ほどで、日本のサイト関係者は能登1人、佐渡2人、阿蘇2人、国東3人の合わせて8人。それに国連大学や金沢大学の研究者ら8人が加わっている。

 済州島では、ユネスコの世界自然遺産に「済州火山島と溶岩洞窟」(2007年6月)が選定されている。標高1950㍍で韓国で最も高い山である漢拏山(ハルラサン)の頂上部には、氷河時代に南下した寒帯性植物種が棲息しており、生態系の宝庫とも呼ばれる。また、海に突き出た噴火口である城山日出峰(ソンサン イルチュルボン)、拒文オルム(岳)などの溶岩洞窟などが自然遺産を構成している。初日の視察でのキーポイントは、その火山活動の副産物として地上に放出されたおびただしい玄武(げんぶ)岩である。この石はマグマがはやくに冷えたツブの粗い石。加工するにはやっかいだが、積み上げには適している。つまり、簡易な石垣をつくるにはもってこいの材料なのである。

 そこで、済州島の先人たちは海からの強い風で家や畑の土が飛ばないように、この玄武岩を積み上げた。畑の境界としての石垣(バッタン)、家の周辺を取り囲む石垣(ジッタン)、墓の石垣(サンダン)、畑の横、人が通るよう作った石垣(ザッタン)、放牧用の石垣(ザッソン)など、さまざまな用途の石垣がある。こうした済州の石垣は「龍萬里」とも呼ばれる。玄武岩は黒く、さらに土も黒土なのだ。今回訪れた下道(クジャ)海岸近くの石垣はかなりのスケールで広がる。ここで栽培されるニンジンは韓国では有名。秋にかけて植え付けが始まる。

  石垣は海でも活かされている。新興里(シンフンリ)の海辺の石垣は、満ち潮にそって沿岸に入った魚が石垣のなかで泳ぐ。引き潮になって海水が引くと魚は石垣の中に閉じ込められ、それをムラの人が採取する。その石垣は「ウォンダン」と呼ばれる。同じ石垣でも作物の保護、土壌と種の飛散防止、所有地の区画、漁労などさまざま現代でも活用されている。1000年も前から石垣に人々の生きる知恵を見る思いだった。

⇒25日(日)夜・済州島の天気  くもり

★福沢諭吉の「独立自尊」

★福沢諭吉の「独立自尊」

 大分県中津市の耶馬渓の「青の洞門」に立ち寄り、同市内の福沢諭吉の旧居と記念館を訪れた。豪邸ではなく、簡素な平屋建ての家屋だ。福沢諭吉は天保5年(1835)に、大阪・堂島の中津藩倉屋敷で生まれた。堂島の生地は現在、同市福島区福島1丁目にあたり、朝日放送(ABC)の本社ビルが建っている。父の百助は堂島の商人を相手に勘定方の仕事をしていた。翌天保6年、父の死去にともない中津に帰藩することになる。中津の実家には長崎に遊学する19歳ごろまで過ごしたと言われる。長崎に出て蘭学を学び、さらに翌年大阪で緒方洪庵の適塾に入る。安政5年(1858年)、江戸に出て、万延元年(1860)には咸臨丸の艦長となる軍艦奉行の従者として、初めてアメリカ行きのチャンスに恵まれることになる。25歳だった。

 中津の旧居近くの駐車場に立て看板があった=写真=。団体名に「北部校区青少年健全育成協議会」とあるので、青少年に向けた啓発看板。これに福沢の文が引用されていた。「願くは我旧里中津の士民も 今より活眼を開て先ず洋学に従事し 自から労して自から食い 人の自由を妨げずして我自由を達し、修徳開智 鄙吝(ひりん)の心を却掃し、家内安全天下富強の趣意を了解せらるべし 人誰か故郷を思わざらん 誰か旧人の幸福を祈ざる者あらん」(明治三年十一月二十七 旧宅敗窓の下に記 「中津留別之書」)。明治3年(1870)、中津にいた母を東京に迎えるため一時帰郷した福沢が旧居を出る際に郷里の人々に残したメッセージだ。「敗窓の下」とあるので、家屋も壊れていたのであろう。

 この文をしたためた「明治3年」は、渡米と渡欧の3度外航で見聞したことを紹介した『西洋事情』を完成させた年である。内容は政治、税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学技術、学校、新聞、文庫、病院、博物館などにおよび、法の下で自由が保障され、学校で人材を教育し、安定的な政治の下で産業を営み、病院で貧民を救済することなどを論じた。ちなみに、「『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と言えり」と、冒頭でアメリカ合衆国の独立宣言を引用して書かれた『学問のすゝめ』はこの2年後の明治5年(1972)に初版が出版された。

 「中津留別之書」は『学問のすゝめ』の思想のベースとも言われる。そのメッセージで心が揺さぶられるのは、「自から労して自から食い 人の自由を妨げずして我自由を達し」の箇所だ。その後の福沢を人生を突き動かす「独立自尊」の強烈なメッセージが読み取れる。ここで考えたのは、これは誰に発したメッセージなのだろうか、ということだ。翌明治4年に福沢は、新政府に仕えるようにとの命令を辞退し、東京・三田に慶応義塾を移して、経済学を主に塾生の教育に励む。その年、廃藩置県で大勢の武士たちが職を失い、落ちぶれていった。武士が自活できるように、新たな時代の教育を受ける学校が必要なことを福沢は痛感していたに違いない。「中津留別之書」はその強い筆力とメッセージ性から、武士たちに新たな世を生き抜けと発した檄文ではなかったのだろうか、と。では、なぜそのようなメッセージを武士に発したのか。武士たちが怨念を募らせて刀や鉄砲を手にすることで再び混乱の世に戻り、「自由が妨げられる」と危惧したのではないか。

 「中津留別之書」から30年後、福沢は慶応義塾の道徳綱領を明治33年(1900)に創り、その中で「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」(第2条)と盛り込み、「独立自尊」を建学の基本に据えた(「慶応義塾」ホームページより)。翌明治34年(1901)2月、福沢は66歳で逝去する。武士が新たな世を生き抜く「人生モデル」を自ら示したのだった。法名は「大観院独立自尊居士」である。

⇒26日(月)朝・金沢の天気  あめ

☆福沢諭吉と「トラスト」

☆福沢諭吉と「トラスト」

 先月(10月)の連休を利用して九州・大分と阿蘇を訪れた。別府から湯布院に入り、ここで2泊して、阿蘇、そして耶馬渓(やばいけい)、中津市の福沢諭吉旧居など巡った。溶岩台地の浸食によってできた奇岩の連なる耶馬渓の絶景で、足を止めたのが「青の洞門」=写真・上=だった。

 断崖絶壁の難所に342㍍の隧道を掘り抜かれたのは寛延年間(1750年代)。観光案内の立札の説明によると、諸国遍歴の途中に立ち寄った禅海和尚がこの難所で通行人が命を落とすのを見て、托鉢勧進によって資金を集め、石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけてトンネルを完成させたと伝えられている。能登半島にも同じような逸話がある。かつて「能登の親不知」と言われた輪島市曽々木海岸の絶壁に、禅僧の麒山和尚が安永年間(1772-1780)前後に13年かけて隧道を完成させた。いまでも、地元の人たちは麒山祭を営み、遺徳をしのんでいる。

 禅海和尚の「青の洞門」は、大正8年(1919)に発表された菊池寛の短編小説『恩讐の彼方に』で一躍有名になった。麒山和尚の能登の隧道も、菊田一夫作のNHK連続ドラマでヒットし、昭和32年(1957)公開された東宝映画『忘却の花びら』のロケ地となった。主人公(小泉博)とヒロイン(司葉子)による洞窟でのキスシンーンが有名となり、「接吻トンネル」と呼ばれ、能登半島の観光ブームの火付け役となった。本来なら話はここで終わりだが、「青の洞門」の場合、ここに福沢諭吉が絡んでさらに話が膨らむ。

 「青の洞門」の上には「大黒岩」や「恵比須岩」といった8つの奇岩が寄り添い、競い合うように連なる「競秀峰(きょうしゅうほう)」=写真・下=と呼ばれる山がある。江戸時代からの名所で、中津藩の名勝でもあった。明治27年(1894)年2月、福沢諭吉は息子2人(長男、次男)を連れて、20年ぶりに墓参のため中津に帰郷した。当時の福沢は、私塾だった慶應義塾に大学部を発足させ、文学、理財、法律の3科を置き、ハーバード大学から教員を招くなど着々と大学としての体裁を整えていた。また、明治15年(1882)に創刊した日刊紙『時事新報』は経済や外交を重視する紙面づくりが定評を得ていた。

 墓参りに帰郷した福沢は耶馬溪を散策した。ここで、競秀峰付近の山地が売りに出されていることを耳にするのである。この絶景が心ない者の手に落ち、樹木が伐採されて景観が失われてしまうことを案じた福沢は、山地の購入を思い立つ。自分の名を表に出さず、旧中津藩の同僚で義兄にあたる人物の名義で目立たないように3年がかりで購入を進め、1.3㌶を買収する。知人に宛てた書簡で、福沢は「此方にては之を得て一銭の利する所も無之」(明治27年4月4日付、曽木円治宛書簡)=慶応義塾大学出版会ホームページより=と、私欲が一切ないことを強調している。

 その後、その土地は明治33年、福沢の意志を継ぐため、耶馬溪に同行した福沢の次男名義に移された。福沢は翌年の明治34年没する。昭和に入り、一帯の土地が景観保護の対象となる風致林に指定され、行政の目の行き届くところとなった。ここで福沢の目的は達成され、昭和3年(1928)に地元の人に譲渡された=同ホームページより=。優れた景観を守るために、私財をもってその土地を購入するという福沢の行動は、自然や景観保全のためのナショナルトラスト運動の日本の先駆けとして評価されよう。

 これは想像だが、禅海和尚がこの難所で通行人が命を落とすのを見て30年かがりで隧道をつくった物語を、福沢は息子たちに語って聞かせたはずである。「そのことを想えば、なんのこれしき」と、20歳そこそこの息子たちに「いい恰好」を見せたのかもしれない…。

⇒25日(日)午前・金沢の天気   はれ