☆デープな能登=2=
能登半島の最先端に「禄剛崎(ろっこうざき)灯台」がある。写真は石川県の観光協会のポスターから接写させていただいたものだ。県の観光名所を紹介することでもあり、使用をお許しいただきたい。さて、崖下には「千畳敷(せんじょうじき)」と呼ばれる海食棚が広がる。日本
海にぐっと突き出ているので、何か最果ての地に来たように旅情をかきたてる。
先端から見える海の風景
そんな思いをさらに強くさせる看板が灯台の近くにある。「ウラジオストック772キロ」という方向看板だ。モスクワとウラジオストクは約9000キロなので、距離的には能登半島からの方が近所だ。対馬暖流の影響で冬を除いて比較的気候は温暖だが、冬期はシベリアからの北西の季節風が吹き荒れる。
海を眺めていると歴史ロマンにも思いをめぐらせてしまう。古くからこの対馬暖流に乗ってさまざま人たちがやってきた。現在、能登で定住している人たちの中で海の民がいる。輪島の「海士(あま)」の民である。江戸時代の慶安年間(1648~1652年) に九州から北上してきた民十数人が能登半島に上陸する。その後、アワビ漁を得意とするこの民は加賀藩によって保護され、土地まで拝領することになる。地元でいまでもその土地を「天地(てんち)」と呼ぶ。加賀藩は塩漬けのアワビを藩に納めさせ、そのアワビを藩主の手土産として「江戸の外交」に使った。最初十数人で上陸した海士の民は現在1300人になっている。海を生業(なりわい)とし、生命力のある人たちなのである。
海士の人びとが漁業基地としている舳倉(へぐら)島には5世紀と8世紀、9世紀と推定される遺跡「シラスナ遺跡」がある。彼らとて、この対馬暖流に乗ってやってきた海人の中ではニューカマーにすぎない。
⇒16日(木)午後・金沢の天気 はれ
今月12日、家族ドライブで訪れた能登半島・七尾市の「食彩市場」で、夏の甲子園大会5日目、石川代表の星稜高校と長崎日大との対戦をしばらく観戦していた。星稜は3回、フォアボールとタイムリーで先制点を挙げた。が、6回に長崎日大はノーアウト1、3塁のチャンスを作り、センターにタイムリー、さらに犠牲フライで星稜は逆転をされてしまう。星稜はランナーを出すものの得点できず、2回戦で敗退した。
ベートーベンのシンフォニーのこと。ICレコーダーで3番と7番を録音していて、それを通勤のバスの中や、職場での休み時間に聴いている。最初は7番が圧倒的に多かった。ところが最近は3番なのである。7対3の割で3番を聴く聞く回数が多い。休日など一日中、3番を聴いていることがあるので「3度の飯より」と表現したりする。
つまり、これは自民の自失点だろう。公的年金保険料の納付記録漏れ問題や閣僚の「政治とカネ」に絡む疑惑、失言などを背景に、選挙戦を通じて与党には逆風が目立った。きょうの読売新聞インターネット版で、民主党の支持基盤である連合の高木剛会長が記者会見し、民主の勝因について「政治とカネや閣僚の問題発言など自民党の失点があるので、今回は有権者が民主党に票を入れた」と述べ、民主党の勝利は「敵失」だったと分析した、との記事があった。的を得ているのではないか。
なるほどと思ったのは、石川選挙区(定員1人)の自民選対の責任者がインタビューに応えて話した言葉だった。「東京から吹いてくる得体の知れない風に、地方が右往左往した選挙戦だった」と。公的年金保険料の納付記録漏れ問題や閣僚の「政治とカネ」に絡む疑惑、失言などを背景に、選挙戦を通じて与党には逆風が目立った。
告書を出し、インターネットの選挙利用を促進するよう方向付けをした。そして、04年に公選法の改正案が国会に出されたが、葬り去られてしまう。阻んだのは誰か。地盤(支持団体)、看板(知名度)、鞄(選挙資金)の「3バン」と呼ばれる古いタイプの選挙運動で選挙を勝ち抜いてきた候補者たち。与野党、老若男女を問わず、新しい選挙のやり方に抵抗感がある人たちだ。
揺れが収まり、しばらくして能登半島地震の学術調査でお世話になった、輪島市門前町の岡本紀雄氏から電話があった。「能登の学校の方は大丈夫だったの、珠洲が結構揺れたようだけど…」と。書き物を急いでいたので、テレビの地震速報を見ていなかった。岡本氏は地震にはとても敏感に反応する。何しろ、阪神淡路大地震(震度7)と能登半島地震(震度6強)を体験し、自らを「13.5の男」と称している。
の分割払いで貸付けられた。つまりリースされたのである。
鍋(なべ)を枚数でカウントするということを知らなかった。これまで、一つ、二つ数えていたのではないだろうか。先日、ぶらりと訪れた石川県穴水(あなみず)町の「能登中居鋳物館」でそんな小さな発見をした。
生産が盛んで40軒ほどの鋳物師(いもじ)がいたとされる。この周囲には真言宗など寺など9ヵ寺もあり、それだけの寺社を維持する経済力があった。2003年7月に開港した能登空港の事前調査でおびただしい炭焼き窯の跡が周辺にあったことが確認され、当時、ニュースになったことを思い出した。つまり、鋳造に使う炭の生産拠点が近場で形成されていた。そして原料となる砂鉄や褐鉄鉱などが能登一円から産出され、中居に運ばれた。その技術は14世紀、朝廷が南朝(吉野)と北朝(京都)に分かれて対立し南北朝の動乱に巻き込まれた河内鋳物師が移住したともいわれるが定かではない。
