⇒トピック往来

☆「総合学習」の新人類

☆「総合学習」の新人類

 私のオフィスがある金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」は昨年4月に完成した。この建物は白山ろくの旧・白峰村の文化財だったものを大学を譲り受けて、この地に再生した。築300年の養蚕農家の建物構造だ。建て坪が110坪 (360平方㍍)もある。黒光りする柱や梁(はり)は歴史や家の風格というものを感じさせてくれる。金沢大学の「里山自然学校」の拠点でもある。

 古民家を再生したということで、ここを訪ねてくる人の中には建築家や、古い民家のたたずまいを懐かしがってくる市民が多い。最近は学生もやってくる。その学生のタイプはこれまでの学生と違ってちょっと味がある。「こんな古い家、とても落ちつくんですよ」と言いながら2時間余りもスタッフとおしゃべりをしていた新入の女子学生。お昼になると弁当を持ってやってくる男子学生。「ボクとても盆栽に興味があって山を歩くのが好きなんです」という同じく新入の男子学生。今月初め、いっしょにタケノコ掘りに行かないかと誘うと、「タケノコ掘り、ワーッ楽しい」とはしゃぐ2人組の女子学生がいた。いずれも新入生である。

  「学生が来てくれない」と嘆いた去年とは違って、ことしは手ごたえがある。この現象をどう分析するか。同僚の研究員は「総合学習の子らですね」と。総合学習とは、2002年度4月から導入された文部科学省の新学習指導要領の基本に据えられた「ゆとり教育」と「総合的な学習の時間(総合学習)」のこと。子どもたちの「生きる力」を育みたいと、週休2日制の移行にともない、教科書の学習時間を削減し、野外活動や地域住民と連携した学習時間が設定された。その新指導要領の恩恵にあずかった中学生や高校生が大学に入ってくる年代になったのである。

  当時、批判のあった画一教育の反動で設けられた総合時間だが、その後、「ゆとり」という言葉が独り歩きし「ゆるみ」と言われ、総合学習も「遊び」と酷評されたこともあった。しかし、私が接した上記の「総合学習の子ら」は実に自然になじんでいるし、「ぜひ炭焼きにも挑戦したい」と汗をかくことをいとわない若者たちである。そして、動植物の名前をよく知っていて、何より人懐っこい。それは新指導要領が目指していた「生きる力」のある若者であるように思える。

  もちろん、新入生のすべてがそうであるとは言わない。今後、金沢大学の広大な自然や里山に親しみを感じてくれる若者たちが増えることを期待して、数少ない事例だが紹介した。

 ⇒24日(水)朝・金沢の天気   くもり

★夢のサイズを大きくした男

★夢のサイズを大きくした男

 怪我(けが)というダメージを受けたスポーツ選手を励ます広告というのを初めて見た。きょう15日の全国紙に掲載された建設機械メーカー「コマツ」の広告である。そのコピーには「日本人の夢のサイズを大きくしたのは、この男です。」と書かれてあった。この男とはニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜選手。

 コピーの続き。「松井は野球の天才ではない。努力の天才なのだ」と言い、「コマツは、どうだろう。自分たちの技術に誇りを持ち、よりよい商品づくり心がけているだろうか。」と問う。そして、最後に小さく、「松井選手の今回のケガに際し、一日も早い復帰をお祈りしております」と締めている。松井の出身地である石川県能美市に近い小松市に主力工場を持つコマツは、ヤンキース入りした直後から松井選手のスポンサーになった。嫌みのない、実にタイムリーな広告企画ではある。

 松井選手は日本時間の12日、レッドソックス戦の1回表の守備で、レフトへの浅い飛球をスライディングキャッチしようとして左手首を負傷、そのまま救急車で病院に向かい、骨折と診断された。これで巨人入団1年目の1993年8月22日から続いていた日米通算の連続試合出場は前日までの1768試合(日本1250試合、米国518試合)でストップした。現在は自宅療養が続いている。

 松井選手は逆境に強い。1992年(平成4年)、甲子園球場での星稜と明徳義塾の戦い。あの物議をかもした「連続5敬遠」が彼の名を一躍全国区に押し上げた。松井選手の父親、昌雄さんはこう言って息子を育てたそうだ。「努力できることが才能だ」。無理するなコツコツ努力せよ、才能があるからこそ努力ができるんだ、と。ホームランの数より、一見して地味に見える記録だが連続出場記録にこだわったのもプロ努力とは本来、出場記録なのだと見抜いていたからだろう。

 記録ストップは残念だろうが、新たな目標を設定し、再びバッターボックスに立ってほしい。

⇒15日(月)夜・金沢の天気   はれ
 

 

☆東京の「金沢町内会」

☆東京の「金沢町内会」

 東京で「金沢町内会」と呼ばれているエリアがある。東京都板橋区の一角である。その「町内会」の話は、先日訪れた国立極地研究所で聞いた。同研究所の広報担当のS氏が「金沢大学の人ですか、この地区の人たちは金沢に親しみを持っていますよ。金沢町内会と自ら呼んでいます」と。

 確かに、同研究所は板橋区加賀1丁目9番10号が所在地だ。加賀といえば加賀藩、つまり金沢なのである。加賀という地名は偶然ではない。かつて、加賀藩の江戸の下屋敷があったエリアなのである。それが今でも地名として残っている。

 歴史をたどると、参勤交代で加賀藩は2000人余りの大名行列を編成して金沢を出発し、富山、高田、善光寺、高崎を経由して江戸に入った。金沢-江戸間約120里(480㌔㍍)、12泊13日の旅程だった。そして江戸に入る際、中山道沿いの板橋に下屋敷を設け、ここで旅装を粋な羽織はかまに整え、江戸市中を通り本郷の加賀藩上屋敷(現在の東京大学)へと向かったのである。この参勤交代は加賀藩の場合、227年間に参勤が93回、交代が97回で合計190回も往来した。

 ところで、板橋区と加賀藩について調べるにうちに面白い史実を発見した。明治以降の加賀藩下屋敷についてである。新政府になって、藩主の前田氏は下屋敷とその周囲の荒地を開墾する目的で藩士に帰農を奨励した。その中に、備前(岡山)の戦国武将、宇喜多秀家の子孫8家75人がいた。実は、加賀藩の初代・利家の四女・豪姫は豊臣秀吉の養女となり、後に秀家に嫁ぐ。関が原の戦い(1600年)で西軍にくみした夫・秀家とその子は、徳川家康によって助命と引きかえに八丈島に遠島島流しとなる。豪姫は加賀に戻されたが、夫と子を不憫に思い、父・利家、そして二代の兄・利長に頼んで八丈島に援助物資(米70俵、金35両、その他衣類薬品など)の仕送りを続けた。

 この援助の仕送りは三代・利常でいったん打ち切りとなった。物語はここから続く。秀家一行が八丈島に流されるとき、二男・秀継の乳母が3歳になる息子を豪姫に託して一家の世話のため自ら島に同行した。残された息子はその後、沢橋兵太夫と名乗り、加賀藩士として取り立てられた、この沢橋は母を慕う気持ちを抑えきれずに幕府の老中・土井利勝に直訴を繰り返し、八丈島にいる母との再会を願って自らを流刑にしほしいと訴えた。同情した土井の計らいで、母に帰還を願う手紙を送ることに成功する。しかし母の返事は主家への奉公を第一とし、これを理解しない息子を叱り飛ばす内容だった。

 母に会いたいという沢橋の願いはかなわなかった。が、この話はその後、意外な方向に展開していく。当時の幕府の方針である儒教精神の柱「忠と孝」の模範として高く評価され、幕府は加賀藩に八丈島の宇喜多家への仕送りを続けるよう命じたのである。加賀藩の仕送りは実に明治新政府が誕生するまでの270年間に及んだ。そして、新政府の恩赦で流罪が解かれ、一族は内地に帰還し、加賀藩預かりとなる。一族は浮田を名乗り、前述の加賀藩下屋敷跡と周辺の開墾事業に携わることになる。前田家の援助で浮田一族の八丈島から板橋への移住は成功したのである(「板橋区史 通史編下巻」)。

 板橋区史に出ているくらいだから当地では有名な話なのだろう。とすれば、加賀という文字が地名となり、「金沢町内会」と親しみを込めて呼ばれる歴史的な背景が理解できなくもない。

⇒13日(土)夜・金沢の天気  くもり

★都市の輪郭

★都市の輪郭

 ヨーロッパの中世都市では城を中心に都市を囲む城壁が築かれた。ことし1月に訪れたイタリアのフィレンツェでも石垣で構築された城壁が残っていて、防備ということがいかに都市設計の要(かなめ)であったのか理解できた。多くの場合、川の向こう側に城壁が設けられ、その城壁が破られた場合、今度は橋を落として堀にした。城壁と川の二重の防備を想定したのだ。

  先月15日に金沢市の山側環状道路が開通した。寺町台、小立野台という起伏にトンネルを貫き、信号を少なくした。このため、この2つの台地をアップダウンしながら車で走行したこれまでに比べ15分ほど時間が短縮したというのが大方の評価となっている。この道路は金沢市をぐるりと囲む50㌔に及ぶ外環状道路の一部で、今回は山側が開通し、海側は工事中だ。

 この道路を車で走りながら、思ったことは、外側環状道路は金沢という「都市の城壁」を描いているかのようである。これまで、金沢の都市計画が市内の中心部がメインに構成され、道路の幅何㍍などといったことが中心だった。が、この道路が完成するにつれて金沢という都市の輪郭がある意味ではっきりしてきたというのが実感だ。これは今後の都市計画を策定する上で、キーポイントとなる。道路計画や民間の宅地開発プランが外側がはっきりしたことで策定あるいはセールスがしやすくなったのではないか。

 先に述べたフィレンツェも城壁の内側がすこぶる整備された都市なのである。人が濃密に交流する場ができ、そこへのアクセスが容易になることは都市機能としては重要だ。これによって、都市で熟成される文化もある。フィレンツェの場合、ミケンランジェロやラファエロ、レオナルド・ダ・ビンチなどイタリア・ルネサンスの巨匠を生んだ。現在でもたかだか37万人ぐらいの都市で、である。

 金沢の外側環状で面白いのは、偶然かもしれないが、金沢大学、金沢星稜大学、金沢工業大学、北陸科学技術先端大学院大学(JAIST)など大学のロケーションが外側環状道路でつながっていることだ。その意味で、道路を介してさらにお互いが近く親しくなればと思っている。それにして面白い道路ができたものだ。あとは地元の人がこの「都市の輪郭」という道路をいかに活用するか、であろう。

⇒12日(金)夜・金沢の天気   はれ 

  

☆サッカーボールを手にする松井

☆サッカーボールを手にする松井

 あの松井秀喜選手はどうなっているのか、楽しみにしていた。きょう(9日)、久しぶりに東京のJR浜松町駅にきた。なんと、松井選手はサッカーボールを持っていた。駅構内の広告のことである。なぜ松井がサッカーボールをと思うだろう。答えは簡単。松井のスポンサーになっている東芝はFIFAワールドカップ・ドイツ大会のスポンサーでもある。その大会に東芝は2000台以上のノートパソコンを提供するそうだ。理由はどうあれ、サッカーボールを持った松井選手というのは珍しいので、その広告をカメラで撮影した。

 JR浜松町駅近くに東芝の本社があり、ここでしか見れない、いわば「ご当地ポスター」のようなもの。去年の大晦日に見た松井選手の広告は本物のゴジラと顔を並べていた。

 そのヤンキースの松井選手は日本時間の8日、レンジャーズ戦で5番・指名打者で先発出場し、5号となる3ランホームランを放ってヤンキースを勝利に導いた。絶好調のようだ。

 話は戻るが、サッカーボールの松井の表情が実に硬く、ゴジラと並ぶ松井とは大違いだ。以下は想像である。この広告のクリエイターはおそらくサッカー日本代表のユニフォームを松井に着せたかったに違いない。しかし、内部で反対論が出た。松井がサッカーボールを持つことに違和感を持つファンもいるはずで、ましてやユニフォームとなると反感に変わるかもしれない。そこはスポンサーならびに松井のマイナスイメージにならないよう慎重に、と。で、「にやけた松井」ではなく「しまった松井」で日本代表の心強い応援団というイメージを演出することになった。ダークブルーのスーツも感情の抑えの心理的効果がある…などなど。この広告を眺めながら、デザインをめぐり揺れ動いたであろうコンセプト論議を想像してみた。

⇒9日(火)午後・東京の天気  はれ

★ウグイスの朝を録音する

★ウグイスの朝を録音する

  五月晴れとはまさにきょうの空模様のことを言うのであろう。風は木々をわずかに揺らす程度に吹き、ほほに当たると撫でるように心地よい。今朝はもう一つうれしいことがあった。ウグイスの鳴き声が間近に聞こえたのである。おそらく我が家の庭木か隣家であろう。ホーホケキョという鳴き声が五感に染み渡るほどに清澄な旋律として耳に入ってきた。

  今年の春は低温が続いく花冷えの天気が多かったせいか、ウグイスの初鳴きを聞いていなかったせいもある。それが間近に聞こえ、思わず手元にあった携帯電話のムービー撮影機能で録音した。画像は自宅2階から見える金沢市内の一角であるが、画質は粗く価値はない。録画は40秒ほどだったが、後半は往来の車の騒音が混じり始めたのでカットした。ウグイスは3度鳴いている。ほかの野鳥のさえずりもわずかに聞こえる。時刻は午前7時54分ごろ、金沢の朝の音色である。

  この音色を残しておきたいととっさの行動を起こした理由は、ブログのことが脳裏にあったからかもしれない。

⇒4日(木)朝・金沢の天気   はれ

☆金沢城、桜のアングル

☆金沢城、桜のアングル

  今月6日に開花宣言をしたソメイヨシノはまだ散らずに私たちを楽しませてくれている。花冷えのおかげで葉が出るのが遅い分、花は命脈を保っているかのようである。パッと咲いて、パッと散るの桜の本来の有り様なのだろうが、長く咲き続ける桜も人生に似て、それはそれなりに味がある。  

 金沢城周辺の桜はどこから撮影しても絵になる。つまりアングルが決まる。桜とお城は実に相性がいいのである。まず、古風な美を醸し出し、それは優美とも表現できる。梅では樹が低木すぎる。松では季節感が出せない。やっぱりこの時期、城と似合う花は桜なのである。        

  一番上の写真はまるで桜の雲に浮かぶお城とでも言おうか…。余談だが、天守閣のように見えるそれは櫓(やぐら)である。なぜ天守閣ではないのか。加賀藩は戦時には指令塔となる天守閣を造らなかったといわれる。初代の前田利家は秀吉に忠誠を尽くし、「見舞いに来る家康を殺せ」と言い残して床で最期を迎える。それ以降、加賀は西側と見なされ、徳川の世には外様の悲哀を味わうことになる。三代の利常はわざと鼻毛を伸ばし江戸の殿中では滑稽(こっけい)を装って、「謀反の意なし」を演じた。ましてや城に天守閣など造るはずもなかったというのが地元での言い伝えである。

   その下の写真は城の石垣とコントラストをなす桜である。無機質な石垣の鋭角的なフォルムを優しく植物の桜が覆う。ただそれだけのアングルなのだが、それはそれで見方によっては美のフォルムのように思えるから不思議だ。上から3枚目の桜は石川門にかかる架橋から見たもの。円を描いて、桜が納まる。黒と白のコントラスト。地底から天空を仰ぎ見るような錯覚さえある。

   一番下は石段と桜である。左下の暗と右上の明というコントラスはこの城の明と暗のようでもあり、何か想像力をかきたてる。江戸時代から幾多の人々が城を横目に見ながらこの坂を上り下りしたことだろうかと…。

   あと数日で散り去る桜。散り際に色気さえ漂わせている。これが金沢で一番美しいと私が思っている桜の見納めである。

⇒17日(月)午後・金沢の天気   はれ

☆ごついおっさん

☆ごついおっさん

  きょう(11日)朝、北陸鉄道バスの「泉一丁目」のバス亭から金沢大学行きのバスに乗った。次のバス亭が近くなると、バスの運転手の野太い声が聞こえてきた。降車の客一人ひとりに「はい、いってらっしゃい」「はい、いってらっしゃい」と声をかけている。気の利いた言葉だなとの好印象だ。さらに次のバス亭でも「いってらしゃい」は繰り返された。義務感ではなく、言葉に気持ちがこもっていた。

  バスが金沢大学に近づくとハプニングが起きた。乗っていた男子学生の一人が「このバスは北陸大学へ行かないんですか」と慌てた様子で運転手に話しかけた。おそらく新入生なのだろう、乗り間違えたようだ。バス亭で運転手は「まっすぐ歩いてスポーツジムの近くのバス亭で乗ると北陸大学に行くことができるよ」と教え、「でも、ここまでの料金はちゃんと払ってよ」と念を押したところで他の乗客からかすかな笑いが漏れた。

  一連の会話を聞いていて、後方に乗っていた私は運転手の顔のかたち、とくに顎(あご)の骨格が見たくなった。声の幅(太さ)、声の音質からして、民主党の新しい代表、小沢一郎氏と似ているのではないかと想像したのだ。それを確認するチャンスが訪れた。金沢大学中央のバス亭で下りるときの一瞬のタイミングで、その運転手の横顔をしかと見させてもらった。予想はピタリと的中した。左耳から下の太くアールを描いた顎線、肉付き…。目つきは小沢氏より優しい感じだが、全体にごつい感じがした。

  私は時折り、声を聞き、顎のかたちをイメージする。逆も推測したりする。だから、聞き覚えのある声が遠くから聞こえると、名前と同時に顎のかたちが浮かぶ。趣味というわけではない…。

  ところで、その小沢氏はきのう(10日)のNHK番組「クローズアップ現代」に出演していた。言っていたことは「選挙に勝って、政権を取る」それだけだった。実に分かりやすい。が、おそらく小沢氏の戦略には、民主党の独自色といった概念はないのではないか。自民党の候補者よりドブ板選挙を徹底して選挙に勝つこと、それが政権構想そのものだと言っているようにも聞こえた。

  その選挙手法はかつての自民党そのものだ。去年9月の郵政民営化を問う総選挙のように、政策の違いがはっきり理解できなければ有権者は戸惑い、しらける。その点で、民主党への期待や支持率はさほど上がらないのではないか。

  (※写真:バチカン宮殿「ラフェエロの間」の「アテネの学堂」。画像と文章の関連性はない)

⇒11日(火)朝・金沢の天気   あめ

★「フレスコ画のダイナア」

★「フレスコ画のダイナア」

 人と人の顔が似ている、似ていないはそれを見る人の感性の違い、と言われる。その点を踏まえて秘蔵の写真を一枚を紹介しよう。イタリアのフィレンツェにあるサンタ・クローチェ教会の壁画に描かれている「聖十字架物語」の一部。フレスコ画である。金沢大学は国際貢献の一つとして、この壁画全体(幅8㍍、高さ21㍍)の修復プロジェクトにかかわっており、ことし1月、現地を訪れた。

  キリストが掛けられた十字架の木の由来を説明する8枚の連作の一部に描かれたこの絵は、4世紀はじめ、ローマの新皇帝となったコンスタンティヌスの母ヘレナ(中央)がキリストの十字架を発見し、エルサレムに持ち帰るシーンを描いたもの。ふと、聖女ヘレナの横顔が故・ダイアナ妃にとても似ている感じがして思わずカメラを向けた。1380年代にアーニョロ・ガッティが描いた大作がこの「聖十字架物語」なので、正確に表現すれば、97年8月に事故死したダイアナ妃がこの作品に似ているとすべきなのだろう。

  と同時に、「うつくしい」女性を見る感性や描き方はヨーロッパでは14世紀も21世紀もそう違いがない、ということに気がつく。聖女なので一番「うつくしく」表現されている。側の侍女もそれなりだが聖女にかなわない。ここで思う。日本ではいわゆる万葉美人や江戸の美人画からは現代のそれとは感覚を異にするのではないか。歌麿の美人画を私は「うまい」(巧み)と思うが、「うつくしい」と感じたことはない。でも当時の感性には訴えたのであろう。

 日本のように、歴史を経て美の感性や表現は変わるものだと思っていた。時代とともに人々の感性が変わるからだ。ところがヨーロッパでは変わらない。これは一体何なのかと、この「フレスコ画のダイアナ」を見て思いをめぐらした。結論はない。

⇒21日(火)午前・金沢の天気  はれ

☆築地で朝飯、銀座で夕飯

☆築地で朝飯、銀座で夕飯

 今週の前半は休暇で長崎に家族旅行、後半は東京出張と旅先が多かった。そのおかげでご当地の珍しいものを食する機会にも恵まれた。17日は東京・築地で朝飯にありつけた

  築地の交番にほど近いゲートから入ると、「市場の厨房」という看板がある。和風ダイニングのコンセプトで設計された新しい食堂だ。なぜ、この店に入ったかというと、能登半島の輪島からもいろいろと食材を取り寄せているらしいと聞いて、こだわりの店に違いないと思ったからだ。

  注文したのが海鮮とろろ丼(950円)。マグロとブリなど魚介類に山芋のトロロをかけたどんぶり、それに油揚げの入った味噌汁と小鉢が一品つく。メニューを見渡すと「団塊世代のカレーライス(辛口)」(700円)というのもある。どんな味かと思いつつも2つ注文するお腹の余裕はなかった。

  運ばれてきたどんぶりは彩りもよい。輪島の食材はというとこのブリかと思いつつ、のど越しの気持ちよさもあり一気に平らげてしまった。ふとテーブルの上の塩の入った小瓶を手に取ると、「輪島の天然塩」と書いてあった。食塩一つにもこだわった店なのだ。

  出張の目的を終えて夕食。銀座8丁目の郷土料理の店「のとだらぼち」に入った。「だらぼち」とは一途な人間を指す能登の方言だ。この店は、「銀座に能登の玄関口を」と能登の異業種交流の仲間26人が共同出資でつくった。かれこれ7年も営業していて、食通の間では知られるようになった。

  店長の池澄恒久さんは輪島出身、能登の伝統料理のほか、アイデアを凝らした能登を料理を出す。能登の本格むぎ焼酎「ちょんがりぶし」を飲みながら、はばのり、能登牛の味噌漬け、こんかいわしを食した。

  金曜日の夜ということもありほぼ満席。今月21日にはこの店の常連客28人がツアーを組んで2泊3日の能登旅行をする。門前・猿山岬の雪割り草を見に行くのだとか。しゃれたツアーである。

 ⇒18日(土)夜・金沢の天気  くもり