⇒トピック往来

★マエストロの死、その後

★マエストロの死、その後

  オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督だった岩城宏之さんが13日に急逝した。地元金沢では後継者問題などいろいろと話題が出始めている。そして追悼の番組やコンサート、追悼行事が具体化してきた。マエストロの死のその後を…。   

  地元テレビ局の北陸朝日放送はきょう16日(金)午前10時半から、岩城さんがベートーベンの交響曲1番から9番を演奏し終えるまでを描いたドキュメンタリー番組「人生振るマラソン」(55分)を再放送した。2004年12月31日から翌1月1日までの9時間40分にも及ぶ演奏。指揮者控え室に固定カメラを置いて、ベートーベンの交響曲の一曲一曲ごとの指揮者の息遣いを撮り続けた。控え室で休憩中、苦しげでうなだれるマエストロ岩城が、「時間ですよ」のステージマネージャーのひと声で気を取り直してまたステージへと向かう。プロの宿命と気迫、そして使命感をタクトのひと振りひと振りに刻んでいく姿がリアルに描かれる。見ていて、なぜそこまで人生を追い詰めるのかと物哀しくもあり、また「ベートーベンを指揮してステージで倒れるなら本望」と言い切る姿はまさに悟りの人であり神々しくもある。その生き方をどう受け止めるかは、視聴する側の人生観によるだろう。

  6月18日(日)午後11時10分からNHK総合テレビでは05年12月31日のベートーベン演奏を追ったドキュメンタリー番組「岩城宏之ベートーヴェンとともにゆかん」が予告されている。

  追悼コンサートは7月16日(日)午後3時から石川県立音楽堂で。指揮者は岩城さんと親交があった外山雄三、OEK初代常任指揮者の天沼裕子。武満徹、モーツアルトなどの曲が予定されている。その2日後の7月18日(火)午後2時から東京・サントリーホールの小ホールで「岩城宏之お別れの会」がある。岩城さんが拠点としていたNHK交響楽団、OEK、東京コンサーツ、メイ・コーポレーション(三枝成彰事務所)の4者が実行委員会をつくり追悼の会を催す。

  今月26日(月)午後7時から朝日新聞金沢総局の4階ホールで講演が開かれる。講師はOEKゼネラルマネジャーの山田正幸さん(63)88年の創設当初からのメンバーで、岩城さんが「ジミー」とニックネームで呼んで信頼を置いた人だ。舞台裏から見た岩城さんの知られざるエピソードが語られるかもしれない。

  ところで、岩城さんの後継について、岩城さんがだれかれと具体名をあげたという話を聞いたことがない。むしろ、周囲には「そろそろ考えて置けよ」と笑いながら言っていた。人事に頓着せず、だった。  

 ⇒16日(金)夜・金沢の天気  くもり

☆マエストロの最期

☆マエストロの最期

 きょう14日、東京の文部科学省へ仕事の打ち合わせのため出張した。小松空港の発券カウンター近くでかつての会社の上司の顔が見えたので声をかけた。すると向こうから「東京へ行くの、岩城さんの…」と。私の顔を見て「岩城さん」を連想してくれたのはある意味でうれしかった。半面、生前お世話になりながら、東京へ行くのにお線香の一つも上げることもできない自分にもどかしさも感じた。

  13日逝去した指揮者の岩城宏之さんの密葬がきょう都内で営まれた。葬儀に参列したオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の関係者によると、岩城さんは生前、「荼毘(だび)に付すまで秘してほしい」と言葉を遺していたようだ。この遺志に沿って、付きあいがあった指揮者仲間からの参列の申し入れも遠慮願っての、ごく内輪の密葬になった。

  岩城さんは胃がんや咽頭がん、肺がんなどこれまで30回近くも手術を繰り返した。5月25日に容態が悪化し、聖路加病院に入った。6月1日に見舞った上記のOEK関係者によると、この時点で話ができる状態ではなかった。でも、午前10時ごろになると、両腕で小さく円を描いた。オーケストラの練習の時間になると、決まってその仕草をした。そして、夫人の木村かおりさん(ピアニスト)が「休憩ですよ」と声をかけるとその両腕は止む。そしてゲネプロ(本番前のリハーサール)の時間である午後4時ごろになるとまた両腕で円を描く。その繰り返しだった。「10時と4時のタクトは長年しみついた指揮者の職業病のようなもの。それにしても何を演奏していたのでしょうか」と、1988年のOEK創立からの関係者は顔を曇らせた。

  東京出張の目的地に向かう際、少し時間があったので上野の東京文化会館に立ち寄った。04年12月31日、岩城さんがベートーベンの交響曲1番から9番の連続公演の「偉業」を初めて成し遂げたホールである。チラシのスタンドを見ると、岩城さんが指揮する予定だった東京フィルハーモニー交響楽団の公演チラシが置いてあった。そのチラシを手にして、ふとある考えがよぎった。この東京文化会館を「ベートーベン演奏の聖地(メッカ)にしてはどうか」と。岩城さんが偉業を打ち立てたこのホールを。ベートーベンの1番から9番の連続演奏を試みる次の指揮者をここで待ちたいと思った。

 ⇒14日(水)夜・金沢の天気 くもり 

<「自在コラム」で紹介した岩城さんの人となり、業績などは以下の通り>
05年5月14日・・・岩城流ネオ・ジャパネスク
05年6月10日・・・マエストロ岩城の視線
05年6月12日・・・続・マエストロ岩城の視線
05年10月5日・・・「岩、動く」「もはや運命」
05年12月20日・・・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月21日・・・続・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月22日・・・続々・岩城宏之氏の運命の輪
06年1月1日・・・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年1月2日・・・続・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年2月6日・・・ちょっと気になった言葉3題
06年6月13日・・・マエストロ岩城の死を悼む
06年6月13日・・・ベートーベンに抱かれ眠る

 

☆マエストロ岩城の死を悼む

☆マエストロ岩城の死を悼む

 日本を代表する指揮者の一人、岩城宏之(いわき・ひろゆき)さんが13日午前0時20分、心不全のため東京の聖路加病院で死去した。73歳。夫人はピアニストの木村かをりさん。

  1932(昭和7)年、東京生まれ。東京芸術大学音楽学部に進学。在学中から指揮者を志し、56年にNHK交響楽団を指揮してデビュー。ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなど、世界的なオーケストラの指揮台に迎えられた。正指揮者を務めたNHK交響楽団をはじめ、札幌交響楽団、音楽監督として設立に尽力したオーケストラ・アンサンブル金沢など、多くのオーケストラを率いた。

  近年の顕著な活動としては、2004年12月31日午後3時30分から翌2005年1月1日午前1時にかけて、東京文化会館でベートーベェンの全交響曲を一人で指揮したのが知られている。この企画は、05年12月31日にも東京芸術劇場で行われた。

  「初演魔」として知られ、特にオーケストラ・アンサンブル金沢ではコンポーザー・イン・レジデンス(座付き作曲家)制を敷き、委嘱曲を世界初演することに意欲を燃やした。

  指揮者の職業病ともいうべき頸椎後縦靭帯骨化症を皮切りに、2001年喉頭腫瘍、05年には肺がんと立て続けに病魔に襲われたものの、その度に復活し力強い指揮姿を披露した。手術は実に25回、「手術が元気の素と」とも本人が言っていた。ことし5月末に体調を崩して東京の病院に入院していた。

  岩城さんの生前のご厚情に感謝し、ご冥福を祈ります。

※上が岩城さんのステージ写真(01年3月)。下が06年1月1日にベートーベンの交響曲1番から9番までの演奏を終えて歓談する岩城さん=東京芸術劇場で

<「自在コラム」で紹介した岩城さんの人となり、業績などは以下の通り>
05年5月14日・・・岩城流ネオ・ジャパネスク
05年6月10日・・・マエストロ岩城の視線
05年6月12日・・・続・マエストロ岩城の視線
05年10月5日・・・「岩、動く」「もはや運命」
05年12月20日・・・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月21日・・・続・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月22日・・・続々・岩城宏之氏の運命の輪
06年1月1日・・・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年1月2日・・・続・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年2月6日・・・ちょっと気になった言葉3題

 

 

 

 

 

★ベートーベンに抱かれ眠る

★ベートーベンに抱かれ眠る

 「この世」と「あの世」がもしあるのならば、いまごろ岩城宏之さんは「あの世」で待つ武満徹や山本直純、黛敏郎らの手招きで三途の川の橋を渡ろうとしているのかしれない。そして、岩城さんは「向こうへ行けばベートベンに会えるかも知れない」と胸を弾ませているに違いない。

   もう10年以上も前の話になる。テレビ朝日系列ドキュメンタリー番組「文化の発信って何だ」を制作(1995年4月放送)する際に、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督で指揮者だった岩城さんにあいさつをした。初めてお会いしたので、「岩城先生、よろしくお願いします」と言うと、ムッとした表情で「ボクはセンセイではありません。指揮者です」と岩城さんから一喝された。そう言えば周囲のオーケストラスタッフは「先生」と呼ばないで、「岩城さん」か「マエストロ」と言っている。初対面で一発かまされたのがきっかけで、私も「岩城さん」あるいは「マエストロ」と呼ばせてもらっていた。

  そのドキュメンタリー番組がきっかけで、足掛け10年ほど北陸朝日放送の「OEKアワー」プロデューサーをつとめた。なかでも、モーツアルト全集シリーズ(東京・朝日新聞浜離宮ホール)はシンフォニー41曲をすべて演奏する、6年余りに及ぶロングランリシーズとなった。あの一喝で「岩城社中」に仲間入りをさせてもらったというそんな乗りで仕事を続けてこられたのである。

  私は「岩城さんの金字塔」と呼ばれるベートーベンの交響曲1番から9番の連続演奏に2年連続でかかわった。2004年12月31日はCS放送の中継配信とドキュメンタリーの制作プロデュースのため。そして05年1月に北陸朝日放送を退職し、金沢大学に就職してからの05年12月31日には、この9時間40分にも及ぶ世界最大のクラシックコンテンツのインターネット配信(経済産業省「平成17年度地域映像コンテンツのネット配信実証事業」)のコーディネーターとしてかかわった。

  それにしても、ベートーベンの交響曲を1番から9番まで聴くだけでも随分と勇気と体力がいる。そのオーケストラを指揮するとなると、どれほどの体力と精神を消耗することか。04年10月にお会いしたとき、「なぜ1番から9番までを」と伺ったところ、岩城さんは「ステージで倒れるかもしれないが、ベートーベンでなら本望」とさらりと。当時岩城さんは72歳、しかも胃や喉など25回も手術をした人である。体力的にも限界が近づいている岩城さんになぜそれが可能だったのか。それは「ベートーベンならステージで倒れても本望」という捨て身の気力、OEKの16年で177回もベートーベンの交響曲をこなした経験から体得した呼吸の調整方法と「手の抜き方」(岩城さん)のなせる技だったのである。

   このインターネット配信はオーストリアのウイーンから17のIPアクセス(訪問者)があるなど、総IPアクセスは2234にのぼり、実証事業としては大成功だったと言える。インターネット配信事業は実のことろ難題があった。その一番の大きな障害が演奏者の著作権(隣接権)だった。この権利処理に関して、「オーストラリアやヨーロッパの友人が見ることができるのなら、それ(インターネット配信)はいいよ」と岩城さんの理解をいただいたからこそ実現したのである。

  「ベートーベンで倒れて本望」と望んだ岩城さんの願いは叶い、ベートーベンに抱かれて眠ったのではないだろうか。インターネット配信では岩城さんに最初で最後の、そして最大にして最高のクラシックコンテンツをプレゼントしてもらったと私はいまでも感謝している。

 ※写真:ことし1月1日午前1時、ベートーベンの交響曲9番が終わり、観客からのスタンディング・オベイションの嵐は鳴り止まなかった=東京芸術劇場

 ⇒13日(火)夜・金沢の天気   はれ

<「自在コラム」で紹介した岩城さんの人となり、業績などは以下の通り>
05年5月14日・・・岩城流ネオ・ジャパネスク
05年6月10日・・・マエストロ岩城の視線
05年6月12日・・・続・マエストロ岩城の視線
05年10月5日・・・「岩、動く」「もはや運命」
05年12月20日・・・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月21日・・・続・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月22日・・・続々・岩城宏之氏の運命の輪
06年1月1日・・・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年1月2日・・・続・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年2月6日・・・ちょっと気になった言葉3題
06年6月13日・・・マエストロ岩城の死を悼む

 

★野武士のごとく

★野武士のごとく

  ブログを書いている途中で何とも残念な結果が。サッカーのワールドカップ・ドイツ大会の日本の初戦、対オーストラリア戦で、日本は前半を1-0とリードしたものの、後半で一気に3点を入れられ逆転負けを喫した。1点リードで守りの姿勢に入ってしまった日本は、何も失うものがないオーストラリアの気迫に負けた。まるで心理戦だった。

     ~   ~   ~

 古くからの街並みと新しい建物が妙に調和するのが金沢という街である。その金沢の景観賞ともいえる金沢都市美文化賞に、私のオフィスである金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」が選ばれた。金沢都市美文化賞そのものも昭和53年(1978年)から始まった歴史ある賞だ。

  築300年の黒光りする柱や梁(はり)など古民家の持ち味を生かし再生したという建築学的な理由のほかに、周囲の里山景観と実によくマッチしているという点が評価された。その建物の中をご覧いただきたい。青々としたヨシが廊下に生けられ、気取らぬ古民家の廊下に野趣の雰囲気を醸す。ちなみに、ヨシはアシの別名。「悪(あ)し」に通じるのを忌んで、「善(よ)し」にちなんで呼んだものといわれる。

  住人として私がこの「角間の里」を一つだけ自慢する点といえば、野武士のようなたたずまいである。派手さや彩りは似合わない。黒光りする柱のように凛(りん)とした風格がある。

      ~   ~   ~

  サッカーの話に戻る。緒戦は落とした。しかし、もう日本は何も失うものはない。18日のクロアチア、22日のブラジル戦は正々堂々と勝負すればいい。孤高の野武士のような気迫を持って。

  念のために言うと、この古民家とサッカーの脈絡はまったくない。ただ、野武士のイメージだけで2つのことを書いた。

 ⇒12日(月)夜・金沢の天気  くもり

☆「猿岩石」的な詐欺師

☆「猿岩石」的な詐欺師

 詐欺師という犯罪者をほめるつもりはまったくない。ただ、その手口が人の心理を手玉にとっていて、思わず笑ってしまう。それが詐欺という被害であったことをまだ知らずにいる人の中には、「ささやかな夢」をいまだに抱いている人もいることだろう。そして、私もその詐欺師とどこかで遭遇していいれば、その手口にひっかかったかもしれない。

  その詐欺とはきょう(10日)の地元紙に載った寸借詐欺の記事である。富山市で逮捕された詐欺師は長崎県大村市出身の28歳、無職の青年である。手口はこうだ。「北海道出身だが、バッグを盗まれた。北海道の自宅に帰ったら金を返す」と見ず知らずの人に無心する。そして、「そのお礼にカニとウニのどちらかを後ほど送るので住所を教えてほしい」と借りた現金に添えて海産物を送る約束をする。この手口で去年12月以降、50人から合計50万円をだまし取ったというのが容疑だ。

  人間の心理を巧みについているのは、「北海道」と「カニ」と「ウニ」のキ-ワードを相手に提示し、「お礼に送る」とダメ押しをする点である。余罪は50人、50万円なので、おそらく1万円を貸してほしいと持ちかけたのだろう。日本人は「北海道」「カニ」「ウニ」にほれ込んでいる。金沢市内のデパートでも北海道物産展は人だかりである。1万円を貸して北海道のカニかウニなら利子としては悪くはない。しかも、北海道から海の幸が送られてくるという「ささやかな夢」がある。詐欺師はそこにつけ込んだ。

  もう一つ、この寸借詐欺を容易にした伏線がある。詐欺をはたらいた場所は関西、そして北陸である。以下想像をたくましくして書く。28歳の青年は放浪の旅をしながら日本列島を北上していた。ここであるテレビの場面を思い出さないだろうか。10年ほど前に高い視聴率をとった日本テレビの番組「進め!電波少年」のタレント猿岩石が繰り広げたヒッチハイクの旅である。ヒゲも頭髪もぼうぼうだが、旅人である青年たちの眼は輝いていた。多少のヤラセ臭さはあったが、そのような点を差し引いても人気のある番組だった。

  昔から土地の人は旅する人に情けをかけた。むしろ旅する人に対するあこがれかもしれない。この青年が猿岩石のような風貌だったらどうだろう。ひょっとして被害にあった50人の人たちは、多少のうさん臭さは感じながらも旅する28歳の青年に励ましのつもりで金を渡したのかも知れない。

 逮捕された青年はだました相手の住所を控えていた。青年には更正して働き、そして被害者に現金を弁済し、カニかウニを送ってほしい。それは金額からして可能な目標である。これは人の厚意に報いるということであり、何より自分自身のメイクドラマになるではないか。

⇒10日(土)午後・金沢の天気  はれ 

☆「ネットどぶ板選挙」を読む

☆「ネットどぶ板選挙」を読む

 小沢一郎という人物が民主党の代表になって、どちらが民主でどちらが自民か分からなくなったという声をよく聞く。何しろ4月の代表就任早々でその小沢氏は政策を語るのではなく、開口一番「選挙に勝って、政権を取る。そのためにどぶ板選挙を徹底してやる」(4月10日・NHK番組「クローズアップ現代」)、それだけだった。

 確かに実に分かりやすい。小沢氏の戦略には、民主党の独自色といった概念より、自民党の候補者よりどぶ板選挙を徹底して選挙に勝つこと、それが政権構想そのものだと訴えたに等しい。しかし、その選挙手法はかつての自民党そのものだ。去年9月の郵政民営化を問う総選挙のように、政策の違いがはっきり理解できなければ有権者は戸惑い、しらける。

 逆に「民主党的」なのが自民党だ。きのう6月4日、自民党青年局を中心にした全国一斉街頭行動を行った。「次世代へ繋ぐ安心と安全」をテーマに各都道府県レベルで街頭に立ち、北朝鮮による拉致問題の早期解決や街の安全、食の安心などを政策推進を求めるという内容だ。注目を集めたのが、武部勤幹事長がラジオCMで統一行動への市民参加を呼びかけ、「詳しくは自民党ホームページを見て下さい」とコメントしていたことだ。その自民のホームページを見ると各都道府県でキャンペーンが行われる場所や内容が詳しく掲載されていた。ラジオからインターネットへのメディアを連動なのである。放送媒体やインターネットを使って呼びかけ、全国一斉くまなく街頭に立つという意味ではこれもある意味でのどぶ板と言えるかもしれない。

 そもそも統一行動の呼びかけにラジオを使ういう発想は従来の自民党にはなかったのではないか。おそらく、党広報本部副本部長の世耕弘成氏(参院議員)ら若手が仕掛けたに違いないと思った。というのも、世耕氏らは来年夏の参院選挙で解禁される予定の選挙のインターネット利用を念頭に置いて、すでに党内でワーキンググループを結成し、選挙対策をすでに始めている。つまり、来年の参院選挙は「ネット選挙」が注目され、いかにインターネットをメディアとして駆使するか、放送メディアとインターネットを連動させるか、という選挙戦略に練っているのである。今回の統一行動のラジオCMもそのシュミレーションの一つと見てよい。

 従来の「労組まわり」や「地盤」を歩くどぶ板戦略を踏襲する小沢・民主と、放送メディアとインターネットで「どぶ板」戦略を打ち出す自民が鋭く対立するのが来年の選挙である。どちらのどぶ板が勝つのか。こんな視点で見ると、随分と選挙も面白く見えてくるのではないだろうか。

⇒5日(月)午前・金沢の天気   はれ

★その後の「南極物語」

★その後の「南極物語」

  動物はどちらかというと苦手で、犬は飼ったことがない。しかし、犬をテーマに映画では2度涙を流した。「ハチ公物語」(神山征二郎監督)と「南極物語」(蔵原惟繕監督)だ。南極物語はことし2月に、ディズニーが登場人物をアメリカ人に差し替え、「Eight Below」(直訳すれば「華氏8度以下」)というタイトルでリメイクした。どうも、この種の映画は日本だけではなく、万国共通して涙腺を緩ませるらしい。

  物語をおさらいしておこう。1958年(昭和33年)2月、先発の南極地域観測隊第一次越冬隊と交代するため海上保安庁観測船「宗谷」で南極大陸へ赴いた第二次越冬隊が、長期にわたる悪天候のため南極への上陸・越冬を断念した。その撤退の過程で第一次越冬隊のカラフト犬15頭を首輪と鎖でつないだまま無人の昭和基地に置き去りにせざるを得なくなった。極寒の地に取り残された15頭の犬がたどる運命や、犬係の越冬隊員の苦悩が交錯する。そして1年後、たくましく生き抜いた兄弟犬のタロとジロ、再び志願してやってきた越冬隊員が再会をする。余韻を語らず、この再会のシーンでバッサリと物語が終わるのでなおさら感動が残る。実話に基づいた作品。犬係の越冬隊員を演じる言葉少ない高倉健の存在感が全体の流れを締めている。

  ドキュメンタリー・タッチで描いた動物映画だが、蔵原監督が映画の中心に据えたかったテーマは一つだろう。置き去りにすると分かった時点で人間の責任として薬殺すべきだったのか、どうかの問いかけである。映画の中で、外国人の女性記者がマイクを向けて、「生きながらに殺す、残酷なことだと思いませんか」と元の飼主にお詫びにまわる犬係の潮田隊員(高倉健)に迫るシーンがそれである。これは重いテーマだ。

   ところで、映画では感動の再会のシーンで終わっているが、タロとジロのその後の運命である。タロとジロは、そのまま第3次越冬隊とともに再度任務についた。が、1960年(昭和35年)7月にジロが南極で死亡、翌年に帰国したタロは1970年(昭和45年)8月に北海道大学農学部付属植物園で死亡する。ともに南極観測犬の貴重な資料としてはく製にされ、タロは北海道大学農学部博物館(札幌)に、ジロは国立科学博物館(東京・上野)で展示されている。離れ離れになっているタロとジロをいっしょにさせてやりたいという運動が北海道・稚内市で起こり、平成10年に同市の市制施行50年を記念する行事として一時的ながら2頭そろって「稚内への里帰り」が実現した。その後もタロとジロは極寒で生き抜いた英雄として日本人の心の中で生き続けている。

                    ◇

 金沢大学は6月17日(土)午後1時から自然科学系図書館で「南極教室」を開く。金沢大学助手で越冬隊員の尾崎光紀氏にテレビ電話で結んで生活の様子などの話を聞く。(写真は南極のオーロラ=提供:尾崎光紀氏)

 ⇒31日(夜)金沢の天気   はれ

★「地球8分の1」の実感

★「地球8分の1」の実感

  「人生七掛け、地球八分の一」とよく言われる。それだけ、人生は長く、地球は小さくなったという意味だが、今回は「地球八分の一」が実感できるような話だ。

  第47次南極観測隊に加わっている尾崎光紀隊員(金沢大学助手)と26日、テレビ電話で話しする機会があった。6月17日に開催する「南極教室」のための接続テスト、つまり金沢大学と南極の昭和基地を実際につないでテレビ電話がうまくいくかどうかのテストである。

  南極と日本は遠い。では実際にどのような回線ルートでつながっているのかというと。南極の昭和基地からのデータは電波信号にして、太平洋をカバーしている通信衛星「インテルサット」を介して、山口県の受信施設に送られる。山口から東京の国立極地研究所は光ファイバーでデータが送られ、さらに金沢大学に届くという訳だ。それを双方向で結ぶとテレビ電話になる。

  尾崎隊員の話では、南極は本格的な冬に入るころだ。マイナス20度の寒気の中を観測に出かける。上の写真は、昭和基地の外に通じる扉だ。ブリザードが続いた翌日、その扉を開けるとご覧の通り(写真下)、外はびっしりと雪で埋まっている。でも、基地の中は快適で、しかも3度の食事がきちんと食べることができ、「14㌔も太った」とか。

  こんな対話を南極と日本でリアルタイムで交わすことができるようになったのだ。当日は、基地の中での生活、観測の様子など紹介してもらうことになっている。(写真提供:尾崎光紀隊員)

⇒27日(土)夜・金沢の天気   あめ

★ペンギンのドミノ倒し

★ペンギンのドミノ倒し

  この話の真贋をあなたはどう思うか。ある時、南極の皇帝ペンギンのルッカリー(集団繁殖地)の上空を低空飛行のヘリコプターが飛んだ。一羽のペンギンが空を見上げ、頭上をヘリが通り過ぎるとそのまま後ろにひっくり返った。ペンギンは集団でいたので、次々とドミノ倒しのような状態となり大混乱に陥った。その光景を目撃したイギリス軍のヘリの操縦士は自責の念にかられ、「ペンギンのルッカリーの上空を飛んではいけない」と仲間に話したという。この話が世界に広まった。

   南極では、地上に敵なしのペンギンだが、空には卵やヒナを狙うトウゾクカモメがいるので、上空を常に警戒している。でも本当にひっくり返るだろうか。確かに、写真のように不安定な流氷の上では、サルも木から落ちるのたとえがあるように、ペンギンも氷上でバランスを崩して転ぶかもしれないと思ったりもした。

   この話が日本のマスコミの話題にも上るようになったころ、南極に調査団が派遣された。2000年12月のことである。以下は本当の話だ。イギリス極地研究所のリチャード・ストーン博士らがサウスジョージア島の皇帝ペンギンのルッカリーで、イギリス軍のヘリが上空230-1768㍍の高度で数回飛行を繰り返し、ペンギンの反応を観察した。すると抱卵していないペンギンはヘリが近づくと逃げ出した。抱卵しているペンギンは逃げなかったが、縄張り行動(突っつきあいや羽でたたく行動)が見られ、明らかに動揺している様子が見て取れた。しかし、ひっくり返るペンギンはいなかった。軍から出たうわさを軍が否定したかたちだ。以上の調査結果は01年8月、アムステルダムで開かれた南極研究科学委員会のシンポジウムで発表された。(※国立極地研究所ホームページより一部抜粋)

  ところで、最後に疑問が残る。なぜ唐突に「自在コラム」の筆者が専門でもないペンギンの話をしたのか。実は、6月17日(土)13時から、金沢大学では小学高学年と中学生を対象に「南極教室」を開く。私はこのイベントを担当するワーキンググループの一員なのだ。この話は仲間と雑談をしている中で出てきた。南極教室では実際に南極の昭和基地と金沢大学をテレビ電話で結んで、金沢大出身の隊員と対話する。こんな楽しい話がいくつも聞くことができるかもしれない。(写真提供は第47次南極越冬隊、尾崎光紀隊員=金沢大学自然科学研究科助手)

 ⇒25日(木)朝・金沢の天気   はれ