⇒トピック往来

★「午前9時42分」という時間

★「午前9時42分」という時間

 能登半島地震から早いもので2ヵ月がたった。被害が大きかった輪島市門前町では、避難住民は避難所から仮設住宅へと移った。いま振り返り、つぶさに検証してみると、この震災は「奇跡的に・・・」という場面が多い。

 地元の人たちが「有線」と言っているシステムがある(※4月30日付「メディアのツボ-51-」参照)。同町にケーブルテレビ(CATV)網はなく、同町で有線放送と言えば、スピーカーが内臓された有線放送電話(地域内の固定電話兼放送設備)のこと。この有線放送電話にはおよそ2900世帯、町の8割の世帯が加入する。

 普段は朝、昼、晩の定時に1日3回、町の広報やイベントの案内が流れる。防災無線と連動していて、緊急時には消防署が火災の発生などを生放送する。地震があった日、地震の7分後となる午前9時49分に「ただいま津波注意報が発表されています。海岸沿いの人は高台に避難してください」と放送している。街路では防災無線が、家の中では有線放送電話から津波情報が同時に流れた。ここで自失茫然としていた住民が我に返って、近所誘い合って避難場所へと駆け出したのである。この有線放送電話が「ミニ放送局」となって、避難所の案内や巡回診療のお知らせなど被災者が必要なお知らせを26日に7回、27日には21回放送している。昭和47年に敷設が始まったローテクともいえる有線放送電話が今回の震災ではしっかりと放送インフラとして役立ったのである。

 震度6強の揺れにもかかわらず、道路が陥没して孤立した一部の地区を除き、ほとんどの電話回線は生きていた。なぜか。専門家は「本来あのくらいの規模の地震だと火災が発生しても不思議ではない。今回、時間的に朝食がほぼ終わっていたということで火災が発生しなかったために電話線が切れなかった。不幸中の幸いだった」と分析している。

 震災が一番大きかった輪島市門前町は300軒が全半壊などの家屋損傷。しかも、65歳以上のお年寄りが47%という高齢化地区である。しかし、命を落とした人はいなかった。学術調査でアンケート(被災者110人)を取ったところ、震災が起きた「午前9時42分」という時間で自宅にいた人は60人(54%)、うち「寝室」にいたという人は5人である。もし1時間早かったら、この数字は大きくなり、結果として逃げ遅れた人は多かったかもしれない。震災から2ヵ月、いろいろと考えることが多い。

⇒28日(月)夜・金沢の天気   はれ

☆たかが電子データ、されど…

☆たかが電子データ、されど…

 パソコン生活で起きた「事件」だった。今月20日、日曜日のこと。急ぎの用事があったので、ノートPCのメディア・プレーヤーを再生途中に強制終了(リブート)をかけた。すると、いつもはプシュという音で終了するのに、パツッという音がした。いやな予感がして、今度は立ち上げようとしたが立ち上がらない。

  そこで、金沢大学近くにあるPCの修理店に持ち込んだ。店員は、OSを再インストールする必要があるという。そして念のために、ハードディスクがどんな状態かみてもらった。すると、反応がない。コツコツと軽くたたいても反応がない。店員は「やられていますね」と。つまり、壊れている。この一言で頭の中が真っ白になった。ファイルなどのデータは全滅。なかには翌日(21日)と次週28日のメディア論の授業で使うパワーポイントも入っていたのだ。

  自失茫然。涙が込み上げてくる。そして、「なんと浅はかなことをしたのだ」と自分自身に対する怒りも。店員から「お客さん、大丈夫ですか。真っ青ですよ」と顔を覗き込まれ、我に返った。PCの修理を依頼して自宅に帰ったが、哀しさや怒りが収まらない。そうは言っても、当面、あすの授業をどうするか。新たにポワーポイントを作成しようにもPCがない。すると今度は手元にPCがないことの恐怖感が襲ってきた。メールの受発信をどうするか、自らが孤立するような不安感である。

  そして、PCが修理されて帰ってきても、これまで使っていたソフトのインストール作業の手まひまとコストを考えるとまた暗澹(あんたん)たる気持ちに陥った。

  ハードディスクが壊れただけで、たかが電子データを失っただけで、失ったことのはかなさと哀しさ、自らへの怒り、ネット環境からはぐれてしまうことへの恐怖を感じてしまう。そして、いま代替機でブログを書いているが、ブログを書こうと気を取り戻すまでに5日間もかかったのである。

  ただ、唯一の救いだったのは先月末に外付けのハードディスクに一部のデータを保存してあったことだった。たかが電子データ、されど電子データの1週間だった。

 ⇒25日(金)朝・金沢の天気  くもり 

★能登のオキャン

★能登のオキャン

 このゴールデンウイークで行われた石川県七尾市の青柏祭(せいはくさい)を見物してきた(5月4日)。この祭りの山車(だし)の大きさが半端ではない。高さ12㍍だ。ビルにして4階建ての高さになる。車輪の直径が2㍍もある。民家の屋根より高い。通称「でか山」がのっそりと街を練る様はまさに怪獣映画に出てきそうなモンスターではある。

  でか山を出すのは、「山町(やまちょう)」と呼ぶ府中・鍛冶・魚町の3つの町内会。それぞれ1台の山車が神社に奉納される。山車の形は、末広形とも北前船を模したものとも言われる。先述したように、山車の高さは12㍍、上部の開きは13㍍、車輪の直径2㍍あり、山車としては日本最大級。上段に歌舞伎の名場面をしつらえるのが特徴だ。

  この山車を通すためにルートを横切る区間の電柱が極めて高く設置されている。電線を地中へ埋設する計画もあったが、この高い電柱のために祭りの存在を知る旅行客も多い、とか。

  このでか山を引っ張りまわす元気な女性グループがいた。粋なスタイルで、なんと表現しようか、オキャンなのである。つまり「おてんば」。祭りを楽しんでいるという感じだ。彼女たちの存在が、この祭りをとてもあか抜けしたイメージにしている。

  七尾市も能登半島地震(3月25日)では被害を受けた。とくに和倉温泉だけで6万余りのキャンセルがあったといわれる。震災による風評被害でもある。でも、今回の祭りを見て、七尾の人たちは震災にめげず、乗り切っていくのではないか、そんな元気を感じた。あのオキャンたちがいれば…。

 ⇒8日(火)夜・金沢の天気  はれ 

☆被災地でツバメが巣づくり

☆被災地でツバメが巣づくり

4月29日に能登半島地震の被災地、輪島市門前町を訪れた。被災家屋の軒下でツバメが巣づくりをしていた。帰巣本能で飛来したツバメは家屋の様相が一変しているのに戸惑ったに違いない。ツバメは3月25日の能登の震災を知らない。季節は移ろっているのだ。

 門前を訪れたのは、金沢大学の震災に関する学術調査で、私の研究テーマ「震災とメディア」の被災者アンケートがその目的だった。当日は日曜日ということもあって、調査に訪ねた諸岡公民館(避難所)では見舞い客が大勢訪れていた。被災者の世話をしている災害ボランティアのコーディネーター、岡本紀雄さん(52)から「あす(30日)から仮設住宅への引越しが始まるので、みんな(被災者)はその準備で忙しい。アンケートも手短に」とアドバイスを受けた。

 岡本さんは以前、「自在コラム」で紹介したように、阪神淡路大震災(震度7)と能登半島地震(震度6強)を体験し、自ら「13.5の人」と称している。新潟県中越地震(2004年10月)で被災地の支援活動をした経験を生かし、今回も震災当日(3月25日)から避難所やボランティアセンターで活動を続けた。途中、過労でドクターストップがかかり、兵庫県宝塚市の自宅で数日静養し、また能登に戻ってきた。岡本さんにとっては、被災者が仮設住宅に移るというのは、これまでの活動の一つの区切りになるはず。

 その岡本さんから5月1日にメールが届いた。ひと区切りをつけたボランティア活動家の心情吐露とでも言おうか、被災地で汗まみれになった人間の生き様が見えて、すがすがしい。能登出身者の一人として、「お疲れさま」と感謝したい。岡本さんの許可を得て、その文面を紹介する。

               ◇

みなさんへ

ごぶさたしています 2週間ほったらかしでしたね 私の体調は大丈夫です 血圧は132/80と正常に戻っています でも頭はダメです 地震関係以外のことはまだ長時間考えられません 何を考えていてもそっちに戻ってしまいます

昨日 諸岡公民館避難所は終わりました 避難所から公民館に戻りました 夕方6時に前を通るとカーテンが閉まり、消し忘れのトイレの電気だけがさびしそうに灯っているだけでした 最後までいた約40名は最後の朝食を食べて朝の6:30過ぎには挨拶をして順番に出て行かれました ほとんどが仮設住宅に移られました

多くの皆さんに感謝です 「ありがとネ」です こんな私を受け入れてくれた道下・諸岡の方々、こんな私を助けてくれたボランティアの方々、こんな私を取り上げてくれたマスコミの皆様、私の呼びかけに応えて各集落宛に義援金を送ってくれた方々 こんな私を許してくれた妻と子どもたち・親戚、そして能登を応援して頂いている皆様 本当にありがとうございます

でもこれからです 住宅問題です 地域再生です 仮設は終の住家ではありません 2年限定です 昨日も能登や金沢の有志とそのことの打合せもしました 自力建て替え・公共住宅・老人住宅・ケアハウス・グループハウス/町並み保全・子どもたちからの「こっちへ来んかえ」の声・出て行く人出て行けない人・限界集落・お仕事などなど 今までは言葉だけの世界だったものがドット目の前に一気に迫ってきています これからは皆さんの知恵のボランティアをお願いしなければなりません

今日から仕事 ソフトボールの子どもたちを預かります その後宝塚に戻り東京へも行きます 決算もしなければなりません 補助事業の報告書作成も でも…

門前は非日常から日常へ 田植えも始まっています 観光客も帰ってきています マスコミは帰りました 私もいつまでも非日常でいられません 働きます

今日も長い駄文付き合っていただき「ありがとネ」

のと 岡本 紀雄

⇒3日(木)午前・金沢の天気  はれ

★モンキーパワーを借りよう

★モンキーパワーを借りよう

 能登半島地震から2週間余り、いまだに370人ほどの被災者が避難所での生活を送っている。窮屈な環境が招くとされる「エコノミークラス症候群」などを防ぐため、保健師の指導でお年寄りらが毎日30分間ほど、手を回したり伸ばしたりといった体操をしている。何しろ先の新潟県中越地震で亡くなった67人のうち、51人は避難生活によるストレスや疲労、エコノミークラス症候群などによる関連死だったといわれる。

  中越地震でボランティア経験もある地元・輪島市門前町のN・Oさん(52)から聞いた話では、避難所生活が長くなってくると、気力が弱ってくるせいか、お年寄りは外に出たがらなくなる。「外に出て深呼吸するだけでも随分といいのだが」と心配する。

  そこでなんとかお年寄りに外に出てもらう方法はないかと一計を案じ、ひらめいたのが「お猿さんの力を借りよう」。周防(すほう)猿回しの伝統芸能で全国を回っている村崎修二さん(59)が相棒の安登夢(あとむ)=オスの16歳=を連れて4月20日から石川県に入るという連絡を以前受けたのを思い出した。そこで村崎さんに電話をすると、「慰問ボランティア、ぜひやりましょう」と話が即決まった。

  村崎さんとは去年のゴールデンウイークに金沢大学角間キャンパスで猿回し公演と、文化講演をしていただいた縁でその後何度かお話をさせていただた。村崎さんは、作家・司馬遼太郎の「風塵抄」(中央公論社)の中に「おサルの学校」というタイトルに出てくる。日本の霊長類研究の草分けである今西錦司博士が村崎さんに「おサルの学校」をつくってほしいと依頼した経緯について記されている。その後、司馬氏から「あなたはサルのおかげで人間の大ザル(今西博士)とめぐり会えたんや」と声をかけられたことあったそうだ。

  その村崎さんから「お猿とお年寄りは相性がいい」「猿回しの芸を一番喜んでくれるのはお年寄り、それもおばあちゃんが喜ぶ」「安登夢が棒のてっぺんに上ってスッと立つと、たいがいのお年寄りは『有り難い、有り難い』と合掌までしてしてくれる」と何度か話してくれたのを思い出した。そのモンキーパワーを活用して、お年寄りを運動場に誘い出そう、そして少しでも元気を出してもらおうというアイデアなのだ。今月21日午後、輪島市門前町などで「猿回し慰問ボランティア」を実施する。

⇒10日(火)夜・金沢の天気  はれ

☆震災と大学

☆震災と大学

 3月25日に発生した能登半島地震から10日余りたったきのう(5日)、金沢大学では震災の学術調査部会が立ち上がった。発生直後から,教員グループの学術調査や医療チームによる支援が行われていて、3月30日には学内外への対応窓口を一本化し,情報収集や連絡調整を行うための「金沢大学能登半島地震対策本部」が設置された。今回の学術調査部会は対策本部のセクションとしての位置づけである。

  今回、この対策本部のもとで個別に実施されている多様な学術調査の収集の一元化作業が行われる。また、その調査活動を大学として総合的に支援し、さらに今後の学術調査や復興支援に生かすというもの。連日、新聞やテレビで研究者が解説しているものの、それはある意味で断片的なので、総合的な報告書としてまとめる狙い。

  当日の出席者は研究者70人ほど。その席上で発言が相次いだのは、「まとめるだけだったら能登の復興の役には立たない。むしろその調査をもとに政策提言にまで踏み込んだものを」の声だった。当然といえば当然なのだが、これは簡単な話ではない。政策提言となるとそれなりの政策の予算や技術など実現性の裏づけを含めた提言内容が必要だ。事によっては膨大な作業を伴い、時間もかかる。通常の授業や研究と並行しながらの作業となる。ワンフレーズで言えば、「その覚悟でやろう」と発言者は言いたかったのである。

  大学とかかわって3年目、これまで腰が重い世界との印象だった。が、今回は「動く」との予感がした。

 ⇒6日(金)朝・金沢の天気  はれ

★花よりボランティアの日曜日

★花よりボランティアの日曜日

 金沢では平年より8日早く3月29日にソメイヨシノが開花した。そしてその初めての日曜日、本来ならば金沢の兼六園などは花見の客でにぎわうころだ。ところが「異変」が起きている。

  写真は、きょう(1日)午後0時25分に撮影した金沢城の沈床(ちんしょう)園の様子だ。がらんとしている。人通りもまばら。三分咲きほどの桜の枝が、緩やかな春風に揺れている。金沢市民ならば、この季節に目にする沈床園での花見宴会のにぎわいがない。宴に備えてのブルーシートを敷いての陣取りもいない。市民は花見を忘れたかのような静けさだ。

  一方、けさ午前6時20分、金沢市袋畠町の県産業展示館4号館前には大型バスが20台余りが横付けされていた。能登半島地震の被災地へ向かうボランティアのシャトルバスだ。きのう土曜日も市民ら880人を乗せて輪島市や穴水町の32ヵ所の避難所に向かった。きょうは人数ではさらに多いだろう。また、バスではなく、直接乗用車で向かうボランティアグループも相当多いはず。支援の輪の広がりに心強さを感じる。

  ところで、金沢城沈床園の閑散とした状態はこうしたボランティアの結集の裏表の現象と言える。「こんなとき(震災後)に花見宴会の気分ではない。自粛しよう」ということだろうか。しかし、個人的には「花よりボランティア」というより、「花もボテンティアも」である。自治体の首長ならば公人として少々の批判はあるかもしれないが…。要は周囲がとやかく言う必要はない。自分の心に正直に行動すればよいだけである。

  それにしても、沈床園は静かすぎる。で、冷静にその理由を考えてみた。30日付の朝刊各紙をチェックすると、「開花」の記事は隅に追いやられている。あるいは写真がない。とくかく目立たない扱いなのだ。テレビも同様にお天気コーナーで少し触れただけだろう。例年ならば各社は競って中継に入る。ところがその中継車は被災地にはりつけとなっている。石川県の人々の耳目は震災に集まっていて、開花宣言を知らないのではないか、というのが話のオチだ。

 ⇒1日(日)午後・金沢の天気  くもり

☆傾きつつも耐える

☆傾きつつも耐える

 倒れそうで倒れない絶妙のバランスというものがある。能登半島地震の後、3月31日に石川県珠洲(すず)市に入った。地元では古刹として知られる臨済宗のお寺「琴江院(きんこういん)」を拝観させていただいた。背戸には池を配した庭園もあり古刹の風情を感じさせる。

 地震では灯ろうが多数倒れる被害があり、「もしや」と思い、墓地に入った。案の定、3基に1つの割合で倒れる、ずれる、割れるなどの状態だった。ふと見ると、傾きつつも絶妙のバランスで難を免れた墓石があった。高さ40㌢ほどの円筒状である。手前の枯れた竹の切り株が垂直に立っているのでそれと比べると傾き加減が分かる。イタリアのピサの斜塔は傾斜角5.5度。傾きはだいたい同じかと思われるが、この墓石は円筒とは言え、バットのように上部に膨らみがついているので重心はピサの斜塔より上になる。つまり、その分鋭く傾いているということになる。

 じつはもう一つ。絶妙なバランスを保つ石積み(ケルン)が能登にある。輪島市の沖合い49㌔に浮かぶ舳倉(へぐら)島で、漁に出た漁船の目標にしようと、あるいは岩礁が多いため沖に沈んだ難破船の供養のためにと住民が石を積み上げつくった築山だ。この写真を撮影したのは14年ほど前。ご覧の通り傾きつつも日本海の風雨に耐えている造形芸術ではある。

 震災、風雨にさらされながらもバランスを保ち続けるこれらの石の造形を見て感じたことは一つ。人も同じではないか、と。順風満帆の人生というのはそうない。人間社会のストレスあるいは病魔にさいなまれながらもなんとかバンラスをとって耐えて立っている。倒れそうになりながらも倒れず自らをなんとか支えている。周囲の人をハラハラさせながらも耐えて立ち続ける。そんな情感と重ね合わせてみた。

 一つだけ誤解を避けるために言い添える。これは今回の被災者に向けたメッセージなどというものではない。被災は情感で語るものではない。

⇒31日(土)夜・金沢の天気   あめ

★破壊の時を刻んだ時計

★破壊の時を刻んだ時計

 余震の回数は減ったとはいえ、それでも28日午前8時8分に震度5弱の余震が能登地方にあった。そんな中、能登半島地震の被災地である輪島市門前町に支援ボランティアとして被災地に入った。

  余震があり危険として、これまで正式なボランティアの受け入れはなかった。いわば、きょう28日が初日である。午前8時に金沢を乗用車で出発し、寸断された能登有料道路を避けて下道を走行する。午前10時すぎに到着した。参加したのは私を含め金沢大学の職員、学生あわせて5人(男性3、女性2)。門前小学校で設置されたボランティアセンターで登録し、保険の手続きをする。センターの指示で家屋倒壊の被害がもっとも多かった道下(とうげ)地区に。何しろ25日の地震で50の家屋が全壊した。その後も余震で被害が拡大している。

  この地区の避難所ともなっている諸岡公民館の救援センターを訪ねる。ここで、被災した一人暮らしのあばあさん(72)宅の片付けの手伝いをするように指示があった。案内してくれたのはO・Nさん(52)。石川県の災害ボランティアコディネーターだが、関西に住んでいた12年前、阪神淡路大震災の被災を経験した。「大きいの二度体験しているから、もう驚かないよ」。ニヤリと笑った。

  道すがら全壊した家屋があちこちに。案内された家は外観はたいした被害がないように見えたが、内部はタンスや仏壇が倒れ、いわゆるメチャクチャな状態だった。おばあさんは「片付けたいとおもうんやけど、どこから手を付けてよいかわからん」と茫然とした様子。台所には割れた皿や茶碗が散乱し、タンスから引き出しが飛び出し、ガラス戸が割れ、さらに壁の石膏ボードがあちこちはがれて落ちている。もちろん住めないので、25日以来、避難所生活だ。預金通帳や印鑑、権利書などの貴重品は自分で探してもらい、そのほかのものを片付け、あるいは廃棄処分にする作業を手伝った。

  午前10時半ごろに始め、途中お昼休憩(弁当は持参)の1時間をはさんで15時00分に1軒目が終わった。続いても一人暮らしのおばあさん(75)宅での作業。自宅のほかに納屋が2つあり、幅3㍍ほどの農機具の棚が倒れるなど相当な被害だ。

  昔から「能登のトト楽」という言葉がある。妻がよく働くので亭主が楽をするという意味。亡き夫のあと家を守ってきた気丈なおばあさんたちだが、地震でメチャクチャになった自宅を片付けようにも、どこから手を付けてよいか自失茫然としていた。我々ボランティアがタンスや仏壇を起こして元通りにするだけで随分とヤル気を取り戻した。

  でも、住めるようにするためには屋根や柱、壁、戸など大掛かりな改修工事が必要となる。平均寿命まであと10数年。一人暮らしをするおばあさんたちに住宅投資をする余力はあるのだろうか。そんなことまで考えると、我々ボランティアの傍らで一生懸命に片付け作業をするおばあさんたちの姿がいとおしく思えた。

  作業を終え、諸岡公民館の避難所センターで作業の終了報告をして一日を終えた。それにしても、2軒の被災家屋で偶然発見したものがある。「25日午前9時42分」、一瞬の破壊の時間を刻んで針を止めた時計だった。

 ⇒28日(水)夜・金沢の天気  はれ

★倒壊と高齢化の被災地

★倒壊と高齢化の被災地

 きょう(26日)、能登半島地震の被災地を同僚の研究員と訪ねた。今後進むであろう復旧作業に金沢大学の学生ボランティアをどこにどう派遣すればよいのか、現地のボランティア受けれグループとの打ち合わせをするためだ。

  被害状況はマスメディアで紹介されているより、相当大きい。まず、能登への幹線である能登有料道路が陥没で一部の区間(内灘-柳田)しか使えない。さらに、支線の道路は陥没に加え、段差や「うねり」があり、速度は出せない。

   家屋被害が集中しているのは、輪島市門前町や河井町などだ。中でも、門前町道下(とうげ)集落では一気に50戸が全壊し、余震があるごとに、その数が増えている。また、液状化現象で道路の亀裂に噴き上げられた土砂が乾燥して、いたるところに砂ぼこりが舞っている。大事に至る火災は発生していない。

  門前町は江戸時代に北前船の寄港地として栄えたところ。その北前船資料館で有名な「角海家」が崩落寸前の状態だ。強い余震で倒壊の恐れがある。ほか、興禅寺など仏閣が全壊、総持寺祖院は灯篭が倒れたりの被害があったものの、本堂や庫裏などは無事だった。

   写真を撮りながら歩いていると、災害の後片付けをしているおばあさんがいた。この地区は高齢化率47%、冠婚葬祭などの共同体としての活動ができなくなるといわれる「集落集落」に近いづいているのだ。復旧には若いボランティアの手が必要だと実感した。

  26日夜、外の気温は4度。放射冷却現象で気温が下がっている。避難生活を送る人は輪島市門前町だけでざっと1500人。中には、家屋が倒壊し、畑のビニールハウスで寝泊りをしている家族もいる。この寒さはこたえているはず。

   旧・門前町役場で設置されたボランティアセンターでは余震が収まる見通しの28日から毎日200人規模のボランティアを金沢から受けれる段取りをしている。内容は、被災地での後片付けや避難所への食事の運搬、飲料水の高齢者宅デリバリーなどさまざまにある。学内のボランティア団体に対し活動参加の呼びかけを始めている。

 ⇒26日(月)夜・金沢の天気   はれ