⇒トピック往来

☆能登地震ショック

☆能登地震ショック

 きょう25日9時42分の揺れは相当だった。震源は能登半島の輪島沖だが、金沢市内にある自宅(木造2階)でも相当の揺れを感じた。家全体が持ち上がるような、そんな揺れである。その時、私は横になっていたので特にそう感じたのかもしれない。この揺れで、我が家のホームエレベーターが止まった。私の実家(能登町)には電話がつながらない状態になっている。

 11時05分現在、私の実家(能登町)には電話、携帯電話ともにがつながらない。12時05分に金沢大学「能登半島 里山里海自然学校」の赤石大輔・常駐研究員とは携帯電話でつながった。「揺れは大きかったものの落下したり、家屋の損壊はない」という。いまから自然学校の方を見に行くということだった。

震度は石川県の七尾市、輪島市、穴水町で震度6強、志賀町や能登町などで震度6弱、珠洲市で震度5強を観測した。マグニチュードは7.1だった。石川県で震度5以上の地震を観測したのは、2000年6月の石川県西方沖地震(震度5弱、M6.2)以来。

 12時25分現在。輪島で52歳の女性1人が死亡、40人が病院に運ばれている、というニュースが流れている。NHKのテレビ画像では、市内の重蔵(じゅうぞう)神社の鳥居(石柱)が倒壊していた。また、珠洲市と輪島市の境にある「垂水(たるみ)の滝」周辺では山の中腹部から道路に落石があった。巨石のようだった。道路も陥没している。復旧にも時間がかかる。これから春の観光シーズン、観光産業に与える影響は甚大だろう。

★能登の地震と津波

★能登の地震と津波

 30年ほども前に読んだ小松左京のSF小説「日本沈没」では、ユーラシアプレートに乗っている能登半島など日本列島は太平洋プレートに押され沈没するが、最後に沈むのが能登半島という設定だったと記憶している。そんな印象から、能登は地震の少ない地域だと、思っていた。ところが、今回は2004年10月23日の新潟県中越地震(震度7)に次ぐ、震度6強である。新潟では59人が死亡、4800人以上が負傷し、新幹線が脱線した。今回の能登でも庭で倒れた灯篭の下敷きになって52歳の女性1人が亡くなっている。

  能登では1993年2月7日にも震度5の地震があった。22時27分、能登半島北方沖を震源とするマグニチュード6.6の地震が発生。輪島で震度5、金沢震度4を観測した。輪島での震度5は観測史上初めて、金沢の震度4は1948年の福井地震以来であった。震源地に近い珠洲市では場所によって震度6に達していた可能性があり、被害は同市を中心に発生した。裏山の崩土による神社の本殿・拝殿の倒壊のほか、住宅の損壊22棟、木ノ浦トンネルの崩落など道路被害141ヵ所、陥没した道路へ車が突っ込んで運転者がケガをしたのをはじめ屋内で29人が転倒物や落下物によって負傷したが死者はなかった。(「能登半島沖地震被害状況調査報告」=1993年2月11日調査・金沢大学理学部 河野芳輝・石渡明=より)

 このほか、私自身、津波を体験している。忘れもしない1983年5月26日正午ごろ、秋田沖が震源の日本海中部沖地震が起きた。確か、輪島では震度そのもは3だったが、猛烈な津波がその後に押し寄せた。高さ数㍍の波が海上を滑って走るように向かってくるのである。ご覧の写真は当時の新聞記事(北國新聞)だ。当時、私は輪島で新聞記者の支局員だった。輪島港が湾内に大きな渦が出来て、写真のように漁船同士が衝突し、沈没しかかっている船から乗組員を助け上げているアングル。この写真は新聞の一面で掲載された。現場に近づいて、数回シャッターを切って、すぐ逃げた。大波が間近に見えていたからである。

⇒25日(日)午後・金沢の天気  くもり

★「ベト7」のこと(下)

★「ベト7」のこと(下)

  「ヒトはどこから来て、どこへ行くのか」というフレーズは、これまでお会いした中で霊長類学者の河合雅雄氏から、そして動物行動学者の日高敏隆氏からご教示いただいた言葉である。それぞれの研究の立場からのアプローチは異にするものの、この先、人類はどこに向かっていくのか、進化か退化といった遠大な命題が仕込まれたフレーズなのである。

  ヒトは都市化する動物であるとすれば地域の過疎化は当然至極、流れに棹をさす地域再生に向けた研究自体は無駄である。しかし、商品経済にほだされて、都会へと流れ生きる現代人の姿がヒトの一時的な迷いであるとすれば、自然と共生しながら生きようとするヒトを地域に招待し応援することは有意義である。私なりにこの命題を自問自答していたとき、これまで聴こうとしなかった7番の第1楽章と第2楽章に耳を傾けたみた。第2楽章の短調の哀愁的な響きにヒトの営みの深淵を感じ、目頭が熱くなるほどの感動を得た。そして、ベートーベンの曲想の壮大なスケールに気づき、7番の主題は「ヒトはどこから来て、どこへ行くのか」のテーマそのものではないのか、と考えるようになった。ここから「つまみ食い」の愚かさを知り、第1楽章から第4楽章までをトータルで聴くようになった。1月上旬のことだった。

  2月下旬、研究費の申請を終えて、自宅に帰り、ある意味で孤独な戦いを精神的に支えてくれたベト7に、そして指揮した岩城さんとオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)に感謝した。

  私は音楽的な教養や才能を持ち合わせてはいない。ネットで調べると、ベートーベンは5番運命を1808年に完成させ、スランプに入り、4年後に7番を完成させた。42歳のとき。初演は1813年12月。ナポレオンに抗したドイツ解放戦争で負傷した兵士のための義援金調達のチャリティーコンサート(ウィーン大学講堂)で自ら指揮を執った、という。戦時中なので聴衆の士気を高めるテンポのよさ、未来へと突き進む確信とっいったものが当然込められていた。そして、静かに心を振るわせる前段の葬送風の響きはこの戦争で亡くなった者たちへの弔い、あるいは戦争の理不尽さを嘆き悲しむメッセージかもしれないとも想像する。

  先日、学生の携帯電話の着メロで7番が鳴っているのを聴いた。テレビドラマの「のだめカンタービレ」で人気だとか。7番はいろいろなCDが出ている。私だったら、岩城指揮のOEKのベト7を推薦する。1番から9番までを2度も連続演奏するほどにベートーベンを愛した指揮者の演奏には「違い」というものあるからだ。

 ⇒11日(日)午後・金沢の天気   雪

☆「べト7」のこと(上)

☆「べト7」のこと(上)

 ベートーベンの交響曲第7番のことをオーケストラの奏者たちは「ベト7(べとしち)」と読んでいる。そのベト7を去年12月中ごろから、愛用のICレコーダーにダウンロードして毎日聴いている。通勤の徒歩、バスの中、自宅で聴いているから1日に3回は聴く。ということはもう300回ぐらいか。実はいまも聴いている。はまり込んでいるのである。

  聴いているベト7は2002年9月にオーケストラ・アンサンブル金沢が石川県立音楽堂コンサートホールで録音したものだ。指揮者は岩城宏之さん(故人)。はまり込んだきっかけは、岩城さんがベートーベンのすべての交響曲を一晩で演奏したコンサート(2004年12月31日-05年1月1日・東京文化会館)での言葉を思い出したからだ。演奏会を仕掛けた三枝成彰さんとのトークの中で岩城さんはこんな風に話した。「ベートーベンの1番から9番はすべてホームラン。3番、5番、7番、9番は場外ホームランだね」「5番は運命、9番は合唱付だけど、7番には題名がない。でも、7番にはリズム感と同時に深さを感じる。一番好きなのは7番」と。

  そのトークを耳にしたころ、7番は第4楽章の狂気乱舞するような強いリズム感ぐらいの印象しかなかった。が、去年の12月、文部科学省への研究費の申請書類で宿題を背負い、行き詰ったときがあった。苦しさ紛れに、ふと岩城さんの言葉を思い出し、岩城さんが指揮した7番のCDを買い求めた。狂喜乱舞するリズム感に救いを求めたのである。だから、当初は、葬送風の暗い響きがある第1楽章と第2楽章を飛ばして、第3楽章と第4楽章をダウンロードして聴いていた。効果はあった。書類の作成作業はテンポよく進みアイデアも湧く感じで、「ベト7のおかげで何とか乗り切った」とも思った。

  ところが、これが打ちのめされるのである。実は申請書類のテーマは大学がかかわる奥能登の地域再生である。奥能登に何度も足を運び、現地でヒアリングをした。奥能登は過疎・高齢化が進む。ある古老がこう言う。「この集落はそのうち誰もいなくなる。今のうちから(集落の)墓をまとめて一つにして、最後の人が手を合わせくれればよい。一村一墓だよ」と。

  その帰り道、ふと奥まった道に入ると、廃村となった集落があった。崩れ落ちた屋根の民家、草木が生い茂り原野化するかつての田畑がそこにあった。その光景に立ち尽くしてしまった。おそらく数百年、千年にもわたって先祖が心血注いで開墾したであろう田畑があっけなく原野に戻ろうとしている。そこでの人の営みや文化はおろか、その痕跡さえも消えようとしている。おそらく子や孫は都会に出たまま帰ってこない。親を引き取ったか、親が亡くなって廃村となった。これが過疎が行き着く先である。

  それでは、その地を捨てた子孫はいま都会で幸せに暮らしているのだろうか。さらにその子や孫に「私たちはどこから来たの」と聞かれたら、「それじゃ先祖の地へ行ってみようか」と言えるのだろうか。その廃村の光景をその子や孫に見せるには躊躇するだろう。暗鬱になった。そのとき思い出したのは「ヒトはどこから来て、どこへ行くのか」というフレーズだった。その打ちのめされた気分をなんとか救ってくれたのもベト7だった。(つづく)

⇒10日(土)夜・金沢の天気   あめ                

★気になるニュース3題

★気になるニュース3題

 3月に入った。季節の変わり目である。こんなときに面白い、奇妙な、驚くニュースが飛び込んでくるものだ。

  ミツバチの集団失踪が相次いでいる。アメリカでのこと。全米養蜂協会によると、元気だったハチが翌朝に巣箱に戻らないまま数匹を残して消える現象は、昨年の10月あたりから報告され始め、フロリダ州など24州で確認された。しかし、ハチの失踪数に見合うだけの死骸は行動圏で確認されないケースが多く、失踪したのか死んだのかも完全には特定できないという。そんな中、原因の一つとされているのが、養蜂業者の減少で、みつの採集などの作業で過度のノルマを課せられたことによる“過労死説”だ。国家養蜂局(NHB)が緊急調査に乗り出した。ハチを介した受粉に依存するアーモンドやブルーベリーといった140億ドル(約1兆6000億円)規模の農作物への深刻な影響が懸念され始めた。(3月1日・産経新聞インターネット版より)

  「発掘!あるある大事典Ⅱ」のデータ捏造問題の続報。2月28日、総務省へ再報告書を提出した後、関テレの千草社長が記者会見した。再報告書をまとめるにあたって、社員220人以上が作業延べ1860時間かけ520回の番組をすべてチェックした。さらに調査が必要な回に関しては社員20人が延べ4000時間以上をかけて精査した。疑問点などを洗い出し、外部の調査委員会に提出し、検討してもらうのだという(3月1日付・朝日新聞より)。ここからは私見が入る。ざっと6000時間をかけた社内調査だが、むしろダイエットの専門家による調査が必要ではないのか。外部調査委員会にしても5人の委員の職業構成は大学助教授(メディア論)、弁護士、大学大学院教授(メディア法)、メディア・プロデューサー、作家であり、医学的な見地から述べる人がいない。最終的な報告書をまとめ上げるにしてはバランスが悪い。

  江戸時代に加賀藩主に仕えた料理人の史料を読み解いている富山短大の陶智子(すえ・ともこ)助教授が2月28日に金沢市内で講演をした。その講演内容の紹介記事(3月1日付・北陸中日新聞)。17世紀の前田家の料理人、舟木伝蔵が子孫にレシピや食材を伝えるために多数の文書を残した。その分析から、陶氏は「金沢は北前船がもたらした昆布でだしを取る文化だが、前田家は赤いみそを多く使い、尾張に近い味付けをしていた」と。藩祖の利家は赤みそ文化の尾張国愛知郡(現・名古屋市中川区)の生まれ。味覚というのは、その後の前田家ではDNAのように引きつがれていたようだ。いまのご当主は18代目、関東に住んでおられるが、許されれば、「いまでも赤みそですか」とたずねてみたいものである。食の文化史の事例研究になりそうだ。

 ⇒1日(木)夜・金沢の天気    はれ

★元旦、晴天に映える兼六園

★元旦、晴天に映える兼六園

 2007年の元旦、金沢はよく晴れた。午後から兼六園に隣接する金沢神社に初詣に出かけた。案の定、観光客の混み合いと参拝客で周辺はごった返していた。初詣の列もこれまでになく長いと感じた。

  家人を列につけさせ、私は無料開放された兼六園にカメラのアングルを求めて入った。お目当ては兼六園の中でも見栄えがする、唐崎(からさき)の松の雪つりである。ごらんの通り、青空に映える幾何学模様の雪つりである。このほか、冬桜を撮影して列に戻った。思ったほど列は進んでいない。

  列に並んで、ふと気がついた。若者も相当いるのに、携帯電話をかけている人が少ない。これまでだと無邪気に周囲かまわず電話をかける姿を必ず見たものだ。そして女性の和服姿が例年より多いことにも気づいた。何か青空と関係があるのか知れないと思ったが、根拠らしいものは考え出せなかった。ひょっとして偶然かもしれない。

  ことろできょう2日、大晦日のNHK紅白歌合戦の視聴率が発表された。関東地区で第1部30.6%、第2部39.8%(関西地区は1部28.5%、2部37.6%)となり、第1部で1990年と並び過去最低、第2部でも2004年に次ぐワースト2位だった。前年にやや持ち直していた視聴率も第1部で4.8ポイント、第2部で3.1ポイントそれぞれダウンである。

  しかも今回は、「DJ OZMA」の演出の中で、女性ダンサーが上着を脱いで上半身裸になったように見えるシーンがあり、ひんしゅくを買った。ボディスーツとは言え、そのボディスーツに女性の裸体が描かれているのだから、気がついた視聴者は誰だって「トップレスで踊りか。いくら視聴率稼ぎでも露骨」と思ったに違いない。私は気味の悪さを感じた。

 本来、本番前のリハーサルでプロデューサーやディレクターのチェックがあるはずだ。あるいは、それより以前の打ち合わせ段階でNHKの衣装担当が必ずチェックするものではないか。これがすんなり通っていたとすれば、NHKの制作現場は「あの程度は問題ない」、あるいは「それを問題にする視聴者がおかしい」くらいに済ませていたのか知れない。

  テレビを見た視聴者の中で、義憤に感じてわざわざテレビ局に電話をする人が仮に1万人に1人だったとする。今回750本もの苦情電話(NHK調べ)があったのだから、750万人の人が憤っていたと考えたほうが素直だ。それにしても、あのダンサーの演出が事前に問題にならなかったとは、視聴者感覚と随分とズレた話ではある。

 ⇒2日(火)午後・金沢の天気   くもり 

★「奉食」と「訪食」

★「奉食」と「訪食」

 季節の移ろいははやい。つい先日まで友人らとキノコの話題をいろいろとしていた。たとえば、キノコは合理的な施設栽培が主流となって、店頭では四季を問わず様々なキノコが並んでいる。しかし、それらのキノコからは味や香り、品質そして季節感が感じられない。味より合理性を重視した供給体制が多すぎる。

  だからキノコは天然もの、山で採れた地のものを食べようといったたぐいの話である。たかがキノコ、されどされどキノコなどと言いながら、コノミタケと能登では呼ぶ雑ゴケと能登牛のすき焼きをつついたりした。

  12月・師走に入り、いつの間にか話題はカニになっていた。オスのズワイガニより、メスのコウバコガニの方が味が詰まった感じがしてよいとか、「23日に能登でカニを食べる会に誘われている」などといったたぐいの話である。

  そういえば、人生の先輩のTさんが面白いことを話していた。Tさんは、奥能登で蕎麦屋をやっていて、能登半島から「訪食」の時代の到来を発信したいと意気込んでいる。戦後、腹いっぱい食べたいという「豊食」を求めていた時代から、経済の急成長に伴って「飽食」の時代が訪れた。そして、モノがあふれ、何が本物か見分けのつかない、飲み放題や食べ放題の「放食」の時代、やがては食の安全性が問われた「崩食」の時代が来た。そして今、本当に安心しておいしく食べることができるのであれば、その地を訪ね歩く「訪食」の時代でもあるというのである。

  私なりに解釈して、「奉食」もある。自然食のマクロビオテック料理である。「マクロ=長い・大きい」「ビオ=生命」「テック=術」の造語だ。食と健康、生命というものをとことん追求した料理。食に神が宿るとでも言いたげなネーミングではある。 食の最先端とでも言おうか…。

 結論めいたものはない。とりとめのない話になってしまった。

⇒8日(金)朝・金沢の天気  くもり  

★岩城宏之と松井秀喜

★岩城宏之と松井秀喜

 先日このブログで、指揮者の故・岩城宏之さんのことを書いた。その続きである。

  東京生まれの岩城さんは読売ジャイアンツのファンだった。親友だった故・武満徹さんが阪神ファンで、岩城さんがある新聞のコラムで「テレビの画面と一緒に六甲おろしを大声で歌っていた」「あのくだらない応援歌を」と懐かしみを込めて書いていた。また、岩城さんはクラシックを野球でたとえ、04年と05年の大晦日、ベートーベンの1番から9番の交響曲を一人で指揮したときも、作曲家の三枝成彰さんとのステージトークで「ベートーベンのシンフォニーは9打数9安打、うち5番、7番、9番は場外ホームランだね」と述べていた。面白いたとえである。

  その岩城さんがことし6月13日に亡くなる前、ある野球プレイヤーに人生のエールを手紙にしたため送っていた。あて先はニューヨークヤンキースの松井秀喜選手である。松井選手はその時、故障で休場を余儀なくされた。

  「今回あなたの闘志あふれる守備のため、負傷したことは、誠に残念です。しかしながら、これからの活躍のための一時の休養であると考えていただき、(中略)一番都合の良い夢を見てすごしてください。(中略)私も30回に及ぶ手術を受けましたが、次のコンサートのポスターをはって、あのステージにたつんだと、気持ちを奮い立たせました。(中略)お互い、仕事の世界は違いますが、世界を相手に、そして観客の前でプレーすることには変わりはありません。私も頑張ってステージに戻ります。」(06年6月1日の岩城宏之さんの手紙から)

  岩城さんと松井選手の直接の接点はない。ただ、岩城さんは松井選手の故郷である石川県に拠点を置くオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督をしていた。そして常々、「このオーケストラを世界のプレイヤーにしたい」と語っていた。岩城さん自らも、20代後半にクラシックの本場ヨーロッパに渡り、武者修行をした経験がある。その後、NHK交響楽団(N響)などを率いてヨーロッパを回り、武満作品を精力的に演奏し、日本の現代曲がヨーロッパで評価される素地をつくった。

  岩城さんは挑戦者の気概を忘れなかった。2004年春、自らが指揮するOEKがベルリンやウイーンといった総本山のステージを飾ったときの気持ちを、「松井選手が初めてヤンキー・スタジアムにたったときのような喜び」とインタビューに答えた。クラシックのマエストロが、当時華々しくメジャーデビューを飾った松井選手の心境になぞらえたのである。

  これは後日談になるが、73歳のマエストロはメジャーの並みいるピッチャーを睨みつけ撃ち続ける松井選手の姿にほれこんだのだろう。今年に入ってからは、松井選手のために応援歌をつくろうと、自ら歌詞の公募や作曲家の人選などの準備を進めていたのである。その矢先の「松井故障」の報だった。くだんの手紙はそのような背景があってしたためられた。

  岩城さん自身、「私の元気のもとは手術」と言うくらい、後縦靭帯骨化症という職業病でもある難病を患い、その後も胃がんや咽頭がん、肺がんと数々の病と闘いながらも復帰を果たし、ステージに立った。手紙にある「これからの活躍のための一時の休養であると考えていただき、(中略)一番都合の良い夢を見てすごしてください。」とは、術後の養生の極意なのだろう。決して焦るな、と諭しているようにも解釈できる。

  おそらく直接話したこともない2人の心のやりとりを手紙という1点で結んで地元テレビ局のHAB北陸朝日放送がドキュメンタリー番組にして放送する。HABは、高校野球の取材を通じて松井選手をプロデビュー以前から知り尽くしている。そして、7年に及ぶOEKのモーツアルト全集(95年-01年、東京・朝日新聞浜離宮ホール)の放送や、04年と05年の大晦日のべートーベンチクルス(連続演奏)の収録を通じ岩城さんの傍でその人となりを見てきた。2人を知るテレビ局をだからこそ制作できたドキュメンタリー番組だ。

  それにしても、岩城さんが松井選手に手紙を送って、その2週間後に亡くなるとは・・・。死してなおエピソードを残した偉人だった。(写真は、06年1月1日、ベートーベン連続演奏を終えて乾杯する岩城さん=東京芸術劇場で)

 ※石川エリアでの放送日程  全国での放送日程

⇒24日(金)朝・金沢の天気  はれ

★人とクマ、闘うとき

★人とクマ、闘うとき

 クマの出没がニュースとして取り上げられている。なにしろ、今年度、クマによる人身事故や農作物への害で捕獲されたツキノワグマが全国で2956頭(10月30日現在・朝日新聞まとめ)にもなり、死者3人・けが人111人となっている。大量出没したおととし(04年度)より捕獲数ですでに上回っている。

 クマ出没に関して、現在はドングリなどのエサ不足に加え、里山と奥山の区別がつかないほど里山が荒れ、クマ自身がその領域の見分けがつかず、里山に迷い込んでくる…などの原因が考えられている。これを人災と見るか、害獣の侵入と理解するか意見は分かれる。

 かつて、この「自在コラム」(05年4月30日)にこのクマ問題でこんなふうに書いた。「クマが里に出没すると人の対応もさまざまです。去年の秋、富山県はクマに襲われ負傷した人が22人(去年10月時点)にもなりました。同じ北陸でも石川と福井は負傷者が一ケタに止まりました。クマに追いかけられて取っ組み合いとなったり、棒やカマで反撃したりとなかなか気丈な人が多いのが富山県です。私が新聞で見た限り、クマと「格闘」した最高齢は富山県上市町の77歳のおばあさんでした。」

 要は、富山県で負傷した人が多いのは、気丈な県民性でクマと出くわしても追い払おうとするせいではないか、と当時考えたのだ。この話を、先日(11月10日)にお会いした富山市ファミリーパーク園長の山本茂行さんにうかがった。山本さんの答えは、県民性というより地形に問題がある、との考えだった。

 五箇山山系の山と人里はとても近く、さらに砺波平野では散居村(さんきょそん)と呼ばれ、集住を避けて点在している。しかも、その家屋には「屋敷林(かいにょ)」と呼ぶ樹木が植わっている。すると山から下りてきたクマが人と出くわして、うっそうとした屋敷森に逃げ込む。するとそこは住家なので人との接触率も高い。けが人の数も多くなる。

 ここからは、私の推測だが、侵入者が自分の家屋や敷地など自分の生活圏(テリトリー)に入ってくれば、追い返そうと闘う。これは県民性というより、本能ではないか。クマと人とのかかわりをさらに考察してみたい。

⇒13日(月)朝・金沢の天気  はれ

★ブリ起こしの雷

★ブリ起こしの雷

 きょう(7日)は立冬だ。発達した低気圧が日本海が回りこんでいるようで、金沢では、昨日から断続的に強い雨と風、雷が吹き荒れている。まさに冬の訪れをイメージさせる天気ではある。

 昨夜、金沢の繁華街・片町を歩くと、居酒屋などでは6日解禁となったズワイガニがさっそくお目見えしていた。例年、解禁初日には石川県内から100隻を越える底引き網漁船が出港し、近江町市場の店頭にはドンとカニが並ぶ。ご祝儀相場が立つので高値で売れるからだ。だが、庶民にはちょっと手が出せない。何しろ一匹数千円の食材なのである。

 そこで、金沢の人々は初日は小ぶりながら身が詰まっているメスのコウバコガニを食する。オスのズワイガニに比べれば安い。一匹1000円前後だ。で、高値のズワイガニはどうなるかというとお歳暮用、つまり贈答用になる。だから、金沢のお歳暮商戦の実質的な幕開けはこのズワイガニの解禁日と重なる。

 冬のもう一つの食材がブリだ。きょうも未明から雷鳴がとどろいた。金沢ではこうした立冬前後の雷を「ブリ起こし」と呼んでいる。ブリが能登半島に回遊してくる季節と重なるのだ。ちなみに、能登半島の輪島では「雪だしの雷」と呼ばれ、初雪の訪れを告げる。

 食材の訪れもさることながら、そろそろ「雪つり」をしなければならない。自分では技術的にできないので植木職人に依頼する。下手に自分で施して、松の枝でも折ろうものなら、「金をケチるからや」とそしりを受けることになる。で、職人に頼むのだが、これは「冬税」だと思ってあきらめるしかない。

 昨日からの雷で、車のタイヤ交換のことを連想した人も多いはず。「よーいドン」ではないが、立冬の雷鳴で、冬支度の準備が始まったのだ。

⇒7日(火)朝・金沢の天気   あめ